「言葉の向こうに」
 (文部科学省『中学校道徳 読み物資料集』
  『中学道徳 あすを生きる3』日本文教出版、道徳教科書)

〔読み物資料のあらすじ〕
 主人公の加奈子は、海外サッカーチームのファン。試合の結果をインターネットで確認し、ファンサイトにコメントを寄せる。ところがある日、応援コメントの中に、A選手に対する悪口のコメントを見つける。加奈子は反論する文章を書き込む。しばらくすると悪口コメントとそれに反論する自分との両方を批判するコメントが出てくる。女の子は、コメントの難しさを感じる。

 加奈子は、なぜインターネットでサッカーの応援をするのでしょうか。本文にもありますが、なかなか学校には同じ趣味の相手がいないということ、テレビなどで試合中継をしたり、結果やハイライトを報道したりするということが少ないためでしょう。スポーツ観戦は、多くのファンで喜んだり、残念がったりするという、いわば感情の一体化のような部分が強いように思われます。勝っている時に喜ぶだけでなく、不調だったり、失敗したりするその時の気持ちも共有していく。苦節を共有する者同士は、よりいっそう勝利を深くかみしめることができるでしょう。加奈子は、サッカーの議論がしたいわけでも、反省がしたいわけでもありません。かっこよかったということ、嬉しかったということを共有したい、同じ感情を味わいたいと思っていたのです。
 さてところが、そこに悪口が書かれてあることを発見しました。それは「Aは最低の選手。あのゴール前はファールだよ、ずるいやつ」「人気があるから優遇されているんだろう。たいして才能ないのにスター気取りだからな」という文章でした。悪口を書き込む者をここではBさんとしておきましょう。それにしても酷い文章ですね。頑張っている選手に対して最高とか最低とか、そんなことを言えるのでしょうか。(この文章は、悪口の例として書かれているわけですが、あえてこの文章について考えてみます。)悪口を書いているBは、なぜこのような文章を書いたのでしょうか。Bは、もとは熱心なファンだったのかもしれませんが、もし本当のファンならこんな文章は書きません。Bは多くの裏事情を知っているようです。A選手が人気があって優遇されているが、実際にはそれほどの実力がないとか、周囲のメンバーから嫌われているとか、あの得点はむしろ偶発的な形での得点だった、とか、そういう点です(それが事実かどうかは分かりませんが)。では、なぜ、Bはそんなことにこだわるのでしょうか。Bもサッカーに大変興味はあるのですが、素直に楽しむという方法が分からないのかもしれません。興味があってサッカー界の事情や試合のことについて精通していけばいくほど、素直に勝ち負けを楽しめなくなってしまう。Bにとっての楽しみは、分析評価することになってしまっているのです。そして、単純に勝ち負けで感情が揺れ動いているほかのファンが目障りに見えてくるのです。Bは膨大な情報や分析力を使って、素朴なファンを批判して見せるということをしてしまう。自慢がしたいだけなのかもしれません。Bは他者を踏みつぶしてスッキリしているかもしれませんが、私からすれば、楽しみたいのに楽しめないという歪んだ姿にも見えます。
 さて加奈子はBの悪口に激高してしまいます。「負け惜しみなんて最低。悔しかったら、そっちもゴールを決めたら」と書き込んでしまいます。加奈子が反応するのはなぜでしょうか。加奈子は喜びを共有したいと思っています。このファンサイトはそういう人しかいないと信じていたのです。マニア的な視点で分析評価を楽しんでいる人がいるなんて思ってもいませんでした。加奈子が自分の気持ちを冷静に言えばこうなります。「私はこの勝利を素直に喜びたいのですから、批判や評価をする意見、A選手を悪く評価するコメントは見たくありません。どうかご遠慮いただけないでしょうか」といった形でしょう。しかし加奈子はそういう言葉が思いつきません。多少は強い言葉で相手を叩いてみれば、相手は驚いて去っていくだろうと思っていたのです。それで言い方もきつくなるのです。
 しばらくすると第三者(Cさん、としておきましょう)がコメントを加えてきます。悪口を書く人もマナー違反だが、それに反応してひどい言葉を向けるのもマナー違反だというのです。このCの言葉に加奈子は驚いてしまいます。Bが悪者で、私は正義の味方、というくらいの思いです。それなのに私が批判されるのは納得できない、そんな思いでしょう。Cさんはなぜこのようなことを書いたのでしょうか。おそらくCさんは、いろんな意見が書かれてあるのが当然だという認識です。選手応援メッセージと、選手への批判、悪口の両方が書かれてあって、自分は悪口を無視するようにしている。反応すればそれだけBは自説を披露し、Bの悪口の文章が増えることになる。という思いでしょう。しかしながらCさんの言葉もまた、どこか冷たい印象ですね。もっと良い言い方はないのでしょうか。これでは応援している加奈子と悪口を言うBとが同列になってしまいます。おそらくCさんもまた自分の理想とするファンサイトのあり方を抱いていて、加奈子の反論書き込みは、その理想から離れたものだと感じたのでしょう。Cさんもまた自分の強い思いをぶつけてしまっているのです。
 ここで次の書き込み(Dさん、としておきましょう)があります。「まあ、みんな、そんなきつい言い方するなよ。ネットのコミュニケーションって難しいよな。」という同情の言葉です。このDさんの言葉は、とても暖かいと私は思います。批判する人もいれば、擁護する人もいる。強く言う人もいれば柔らかく言う人もいる。そんな話だと思うのです。多くの人々がかかわるこの空間の中で、また多様な意見に触れながらその距離感や感覚を身に着けていくということが、なんとなく見えてくるようなシーンです。
 寛容というのはどういうことでしょうか。勿論言葉の使い方は重要です。言葉そのものに暴力性がある場合は、人権問題にもなります。誹謗中傷を受けて自殺するというケースもあります。しかしながら全員が賛同し、全員が喜ぶというそんな姿がより良いかどうか。反対意見というものが存在することそのものはおかしいことではありません。A選手を評価する見方もあれば、A選手の限界を指摘する見方もあるはずです。裏事情や歴史的経緯などを含めて多様な意見を持つ人もいるはずです。インターネットは、一見したところ好きな者同士が集まるクラブのようでもありますが、また一方では世界中のあらゆる人々にさらされている空間なのです。そこに登場する相手は、自分の気持ちに共感してくれる人ばかりではありません。人間らしい人間かそこにいるかどうかさえ分からないのです。そのネットの世界に自分の熱意や本音の全てをぶつけるということは、しない方がよいのです。ほどほどに付き合いながら、一方で警戒しながら、話が合えば深い話に発展する、というような適度なかかわり方が必要なのです。
 もし私が授業をするならば、この段階で終わります。その次の個所は触れないようにします。ところが読み物資料にはその続きがあります。最後の書き込みです。Eさん、としておきましょう。「匿名だからこそ、あなたが書いた言葉の向こうにいる人々の顔を思い浮かべてみて」とあります。加奈子は、この言葉ではっと大切なことに気づく、という展開になっています。インターネットは匿名ですが、その向こう側に人間がいる、相手のことを考えて言葉を選ぶべきだというまとめ方が示されています。私はこの話の展開がとても疑問です。加奈子は、顔が見えないから乱暴な言い方をしたわけではありません。上から目線で悪口を書いてくるということが許せなかったのです。そこにリアルな人間がいると思ったからこそ本気で腹を立てたのです。Eはそれまでの経緯やそこで起こる仕組みなどを無視し、ただ相手を思いやるべきだという抽象論で最後に割り込んできているように見えます。Eが説教するべき相手は加奈子ではなくBであるべきです。Eはなぜこんなに上から目線で説教をするかのような言葉を使うのでしょうか。そのことの方が不思議です。本資料から学ぶべきことは、世の中には話が通じない人もいるのだから、適当に距離を取り、半分は本気で、半分は軽い気持ちで流すくらいがちょうどよい、ということです。寛容というのはそうした距離感の取り方の問題だと思います。本資料はこの最後のシーンの直前まではとても素晴らしい作品に思えるのですが、最後の部分、おそらく道徳教育だから何かを教えるべきだという前提で加えられた部分は、不要だと思います。いかがでしょうか。