「一枚のはがき」
 (文:庄野英二、絵:篠崎三朗『中学道徳2 明日をひらく』東京書籍)

 〔読み物資料のあらすじ〕大学生の主人公は、友人二人と、徳島県の剣山に登ることになりました。剣山に近い山村におじの家があり、泊めてもらうことにしました。友人はキャンプをしようとするのですが、許してもらえず、ご馳走を振る舞ってくれたのです。さらに剣山の近くまで同行してくれて大きな荷物をかついでくれたのです。剣山の登山は成功して自宅に戻った後、一か月ほどたちました。おじから父へ、一枚の礼状もこないでちかごろの若い者はのんきだなというはがきが届いたそうです。

 当初の予定では、徳島から剣山まで乗り物を利用しない、キャンプだけという計画でした。しかし大学生の若者三人のリュックの荷物は予想以上に重く、のろのろで歩き、予定よりも遥かに手前のところでキャンプをしたのです。若者は、無理をしたい。最初は無理かもしれないという工程にチャレンジしてみたくなるのです。このままでは予定通りに進まないと考え、上山のおじの家までバスを使うことにしました。
 なぜ「おじの家」だったのでしょうか。おそらく推察ですが、最初は剣山への登山を思いついたのですが、近くにおじの家があるのでちょっと挨拶くらいはしておこうと考えたのです。ところが事前にその話をすると「泊まっていきなさい」ということになったと思われるのです。遠慮しようとしたのですが、強く勧められる形で泊まることになったのです。そのあたりの経緯はここでは書かれていませんが、微妙なところです。三日間もそこで過ごすというのは長いように思われます。おじの家に予定通りに到着するために、バスを使用したようなのです。
 おじの家では、ニワトリをつぶしたり、ウナギを焼いたりと、大歓迎でした。座敷に布団を敷いて蚊帳をつってくれました。友人はどうもキャンプをしようとしたらしいのですが、許してもらえず、三日間を満喫したようなのです。おじは、なぜこんなもてなしをしたのでしょうか。おじにとっておいが可愛かった、おいのことを大切にしていた、ということもあるでしょう。こんな山奥までわざわざ友人二人を連れてやってきてくれたということが嬉しかった、せっかく遠方から来てくれたので楽しい時間を過ごしたいと思ったのかもしれません。さらには、剣山に登るということがとても大変なことだということをよく理解していて、彼らのことを心配していたのかもしれません。若者が巨大なリュックでキャンプをしながら登るなんて、危険なのかもしれないからです。広い意味ではおいに対する愛情ということになるでしょうが、若者の無謀な挑戦というのが、怖くてひやひやしていたということだと思われます。
 多大なるお世話をしてもらっておきながら、主人公たちは特に礼状を書くこともなく1か月ほど過ぎてしまいました。彼らは、なぜ何のお礼もしなかったのでしょうか。当然その時には、彼らは彼らなりのお礼をしたと思うのです。「お世話になりました」「ありがとうございました」と言葉を伝えたことで彼らは十分なお礼をしたと思っていたのかもしれません。礼状を書くということが思いつかなかったのかもしれませんし、礼状を書くほど深く感謝したわけではなかったのかもしれません。彼らは本当のところ、キャンプがしたかったのです。自分たちだけで頑張りたかった、自分たちに無理を強いてみたかった、剣山の登山で失敗しても良かったのです。そこを基準としているので、多大な歓迎を受けて手厚く接待されればされるほど、嬉しいというよりかは、やめてほしいとさえ思ったかもしれないのです。勿論、三日間の生活そのものは楽しかったのですが、本当にやりたいことはサバイバルだったのです。それゆえ、特に友人二人は、溢れんばかりの感謝という気持ちにはならなかったと思われます。勿論、そのような思いはあったとしてもなお、こういう時には礼状を送るべきであるということは、「知識」として持っていてもよさそうなものです。友人も、主人公もその知識を持ち合わせていなかったのかもしれません。
 主人公は、おじの心境を知って、汗顔赤面(かんがんせきめん)してしまいます。それはどういうことでしょうか。礼状を送るのが常識だったのに、それをしなかった自分の非常識さに気づいたからだと思います。知識として頭の中になかったのです。ふと主人公は思います。友人たちは礼状という常識を知っていたのかもしれない。それならば彼らが送っていてくれてもよさそうなものだ。親戚でもない彼らが多大な世話をしてもらったのだから、彼らこそ感謝すべきなのだ。そんな思いになったのです。ところがその後で、思うのです。彼らはキャンプがしたいと言っていたので、おじの歓迎は微妙な心境で受け止めていたはずだと。ですから、礼状を送るとすれば、おじの気持ちをまっすぐに受け止めることができた自分しかいない。にもかかわらず、自分は何もせずに、何もしなくてもよいという気持ちで一か月過ごしてしまった。そんな恥ずかしさだと思います。ちょっと礼状を出すだけだったのですが、それを知らなかったことで、おじを傷付けてしまったのです。今思えばかなりの時間と費用と労力をかけて僕たちのために支援してくれた。その気持ちを踏みにじるような行為をしてしまった。そんな自責の念といったところでしょうか。
 おじは、礼状が無かったことにどうも不満だったようなのですが、では、誰かが指示をしたり、お願いしたりして礼状を送ったとしたら、どうでしょうか。それでおじは満足でしょうか。そういうものでもなさそうなのです。おじは何を求めていたのでしょうか。もっと感謝して欲しかったのかもしれません。礼儀だから礼状を送りました、といった形式的なやりとりでも満足しないでしょう。おいたちの素直な気持ちが欲しいのです。おじの考えでは、おそらくおいとその仲間がやってきたことは、いわば祭りのようなものであり、せっかくだから楽しもうとしているということなのです。ですから、その後も、余韻に浸りたいのです。要するに「とても楽しかったです」というような話が欲しいのです。おじは怒っているというよりは、寂しかったのだと思います。
 この話は、おじの立場からすれば礼儀を知らない若者に対する不満のように見えますが、若者の側からすれば必要以上に仲良くなろうとするおじさんに対する不満のようにも見えます。どうも世代間のズレのようなものを感じます。その間にあって、主人公はどちらの心境にも共感しながら、しかも最も適切に行動するべきところを何もしないまま時間だけが過ぎてしまったという話だと思います。
 礼儀とは何でしょうか。端的に言えばそれは形式なのです。私たちは形式を通してその向こう側の心を知ることが出来ます。「心がないのならば形式は不要だ」「形式だけを向けられても嬉しくない」という見方もあるでしょうし、「いやいや、心がなくても形式は大切だ」「形式を守っていれば余計なトラブルが起きないのだからそれくらいの形式は必要だ」という見方もあるでしょう。人間関係を円滑にするという点では礼儀作法は大切であり、必要だと思います。しかしそれは強制的義務的なものではありません。礼儀作法が大切であるのは、その形式がその人の心を表していると考えられるからです。どんな形式にするかは、時代によって、場所によって変わってくるかもしれませんが、少なくとも心というものが目に見えないわけですから、私たちは形式を通して心を読み取るしかないのです。ですから形式をめぐる形で、喜んだり悲しんだりするのです。