「たまご焼き」
 (『5年生の道徳』文溪堂、副読本)

 〔読み物資料のあらすじ〕5年生のみんなで、近くのお寺まで遠足です。クラス担任の由紀先生は自分が小学生の頃を思い出す。以下は由紀先生の話です。由紀の家は、山深い村にあって、父母とも農作業で大変でした。遠足にはたまご焼きを入れて、と頼んでみたが、ちょうど卵を切らしていた。当時、卵は高価でした。何度も懇願する由紀、ついに怒り出す母。泣きながら眠ってしまった由紀。翌日大急ぎで学校に向かう。遠足ではお弁当にたまご焼きが入っていた。由紀は父母にお礼を言う。

 最近の子でも、経済的に苦しい家庭の子は大変だと思います。遠足の弁当を作れない親もいるでしょう。そうでない場合は、みな食べたいものを食べている、という感じでしょうか。とはいえ、弁当の中身は何がいいかと聞かれれば、ハンバーグとかソーセージとか卵焼きなんかを答えると思います。本資料の主人公である由紀さんは、どうしてもたまご焼きが欲しかったようです。他の友達の前で見られるというのもあったのかもしれません。遠足が楽しみだったのでしょうね。由紀さんがたまご焼きを入れてと頼んだ際に、母親は卵を切らしていると言います。どういうことでしょうか。なぜ母親は卵を使ってしまったのでしょうか。これは、私の推察です。卵が高価といっても、買えないような金額ではなく、他の食材と比べてやや高いという感覚だと思われます。頻繁に食べる、あるいは当たり前のように食べると家計に響くといった程度でしょうか。子どもには贅沢を教えてはならないという思いもあったかもしれません。おそらくは、母親はたまご焼きを出す予定で卵を買っていたのだと思います。それを、体調が悪かったのか、別の料理で使ってしまって、食べてしまっていたのです。切らしてしまったというのはそんな話だと思います。仕事で忙しく、「あ、しまった」と思ったような感覚です。要するに由紀さんが思うほど、母親は生活に困っていたわけではない。由紀さんがそう感じていた、ということだと私は推察しました。
 由紀ちゃんはこの時、泣きじゃくりながらごねてしまいます。かなりのだだこねっぷりです。なぜ、由紀さんはこんなことをしたのでしょうか。母親の態度もあるでしょう。例えば、「その気持ち分かる、ごめんなさいね、でもうちにはお金が無くて貧乏で…」となれば諦めたと思うのです。ちゃんと向き合って対話をしていれば、由紀さんも理解したと思うのです。ここで母親は「ないものはしょうがない!」と切り捨てるような言い方をしたのでしょう。まるで我が子の遠足なんてどうでもいいと思っているかのように。その冷たさに対して腹を立てたのだと思われます。また、父親ならばひょっとしたら助けてくれるかもと思っていたけど、父親もまた話を受け入れてくれませんでした。もう、やり場のない怒りをどうやって表現して良いのか分からなかったのでしょう。由紀さんはふだんは、よく我慢するような子なのかもしれません。毎日イラっと来た時だって我慢をしてきた。だからこそこういう日は私の思いに応えて欲しい。明日は特別な日なのだから許して欲しい。「私だって、怒る時は怒るんだぞ」というスイッチが入ったのでしょう。泣きじゃくっている自分に浸っているというような、そんな感覚です。なんとなく分かるような気がします。ただ、夕食も食べずに寝てしまうというのは、ちょっとやりすぎかもしれません。自分でもそこまで壊れてしまう理由が分からないのかもしれません。他にも我慢していることがたくさんあって、それで荒れてしまったのかもしれません。
 さて、翌朝、急いで弁当を持って学校へ行き、遠足です。弁当箱を開けて驚きます。そこには、なんとたまご焼きがあったのです。由紀さんは、友達との談笑を離れ、一人、松の木の下に移動してじっくり味わうことにしました。とても美味しくて、涙がこぼれました。由紀ちゃんが涙を流したのはなぜでしょうか。「やったあ!たまご焼きだあ」と喜ぶのとは少し違います。自分の要求通りに美味しい卵焼きが食べられたということを喜んでいるのではありません。昨日は母親も、父親も激怒していたのです。家の生活が大変で、よほどの時しか食べられないと思っていたので、無理を言っていることは自分でも分かっていました。ひょっとしたらまだ父母は怒っているかもしれません。そんなこともあって、遠足に出てからはもう完全に諦めていたのです。それが、弁当の中が、たまご焼きだったのです。由紀ちゃんはこの時、父母の優しさを感じたのだと思います。敢えて言葉にするならば、父母が「さっきはごめんね、美味しい卵焼きをあなたのために作ったよ」と語り掛けているような印象です。言葉はありませんが、美味しいたまご焼きがそれを語っているのです。由紀さんは、卵焼きの美味しさと父母の優しさを感じてそれが嬉しかったのだと思います。
 遠足から帰って話を聞くと、少し離れた近所の人のところからもらってきたようです。「あんな遠いところまで」と言っているので、歩いて20分くらいのところでしょうか。「父ちゃんが行かれんでも母ちゃんは行ってくるつもりだった」と母は語っています。ですので、やはり遠足の弁当は大切な日だからたまご焼きを入れようという思いはあったのです。用意していたけれども、うっかり食べてしまっていたのです。ではなぜ、母親はそれを正直に言わなかったのでしょうか。由紀さんがたまご焼きをリクエストした際に、「分かったよ、後で竹造さん家まで行ってくるから」と言えばよいのに。おそらくはまだあの時点では竹造さんと連絡が取れずに、そこにあるかどうか分からなかった、のでしょう。また普段から厳しくしつけていたため、これまでの雰囲気を変えることもできず(照れてしまう)、あんなふうに厳しく言ってしまったのだと思います。
 以上のことを振り返って、家族ってどんなものでしょうか。たまご焼きが欲しい、今はないから我慢しなさい、といった表面的な会話だけではないのです。親子は、面と向かって対話が出来ない。また対話が必ずしも必要ではないと思うのです。対話は学校や社会の中で対等な関係で成立するのです。家庭は、そんな言葉と言葉のやりとりだけで語れない部分があります。やはり親の思いとしては、我が子のことを大切にしたい。子の思いにはしっかりと応えたい。でもそれがいつもサラリとできるような状態にはない。そんな関係だと思います。表面的には文句を言ったりケンカをしたりしても、根っこではつながっているような、そんな関係です。最後に由紀ちゃんが「今日はふろたきしよう」とつぶやくのも、それをはっきりと母に進言するわけではなく、さらっとやってしまうような関係です。
 この資料の後に、教科書会社による発問が掲載されています。「家族のために行動することができなかったことはありますか」です。これは、何を言っているのか、よく分かりません。ひょっとしたらたまご焼きをねだって泣きじゃくったのが「家族のためにできなかったこと」だったのでしょうか。卵を切らしてしまったことでしょうか? 最後の部分で親のために風呂焚きをするという記述がありますが、あのあたりを指しているのでしょうか。道徳の指導では、家族のために手伝いをするとか、ワガママを言わないとか、そういう理想的なことが語られがちです。しかし本資料はそんな軽い話をしているわけではないと思います。本資料を読んで、子どもたちが「家族の大切さが分かりました」「自分も親の仕事や家事を手伝おうと思いました」「感謝しようと思いました」等と答えたとすれば、それはちょっと心配です。そんなことではなく、親子には親子なりの気持ちの通わせ方があるということ、表面的にはうまくいかないことがあっても、どこかその奥で何かが通じ合っているということが大切です。