「人間をつくる道 剣道」
(『小学校道徳 読み物資料集』文部科学省、平成23年3月
『私たちの道徳 小学5・6年』文部科学省)
〔読み物資料のあらすじ〕主人公のぼくは、剣道を習って3年目になる。正座の仕方や動作の仕方などを長い間、教えられ、やっとのことで試合となる。あっという間に負けてしまう。ふてくされた態度でいると先生から注意を受ける。勝っても負けても礼儀を守り立派に引き下がることが大切だと教えられる。ぼくは、剣道が人間をつくるという話を聞いて大切なことを学んだと感じる。
資料の主人公は小学生の「ぼく」です。ぼくは剣道を始めて3年になりますが、最初の頃は、正座の仕方とか、礼の仕方ばかりで、なかなか竹刀すら持たせてもらえなかったと言います。重い防具をつけ、竹刀を持つようになっても、なかなか練習は大変で、いまいち楽しめなかったようです。初めての試合の日です。あっという間に相手の一本が決まり、さらに二本目も決まってしまい、負けてしまいました。ふてくされた態度で引き上げたと言います。
なぜぼくは、ふてくされてしまったのでしょうか。ぼくにとって剣道というのは、立ち姿の美しさ、かっこよさを見せるものでした。身体を鍛えるというのもあるでしょうが、やはりぼくにとっての最大の魅力は相手を、バッタ、バッタと倒していき、それでいて息が切れないような(時代劇のような?)カッコよさにあったのでしょう。その気持ちは分かります。サッカーや野球を習っている子は少なくないのですが、おそらく子どもとしては勝利の喜びに浸りたい、カッコイイ姿を決めたい、そんな思いでしょう。勿論悪いことではありません。それは、とても自然なことです。カッコよくなりたいから、頑張るのです。ですので、負けたら、悔しくて悲しくて腹立たしくてカッコ悪くて…。そしてふてくされてしまうのです。自分のプライドもあります。腹立たしいということの精一杯の表現です。
先生がぼくに言います。「見苦しい引き上げをする人間に、剣道をやる資格はない。ほかの試合をよく見てみなさい」この言葉は驚きです。「がんばったね」とか「残念だったね」といった優しい言葉ではなかったのです。それからぼくは大人同士の試合をじっくり見つめていきます。試合自体はこれまでも見ているはずなのですが、いざ自分が負けてから見ると違ってみえます。大人同士の試合では、負けた人間も勝った人間も、堂々と立派な姿勢で引きあがっていくのです。負けた方がくやしがる様子もなければ、勝った方が喜ぶ様子もないのです(勝った方がガッツポーズをすると勝利が取り消されるそうです)。後日、先生が「相手を敬い、尊重するという心が大切」「剣道の目的は人間をつくること」というようなことを語っています。これはどういう意味でしょうか。これだけではよく分かりません。剣道がスポーツならば、試合の間は一生懸命でよいのですが、終わった後も礼儀が必要だというのは、いまいちピンときません。当たっているかどうかは分かりませんが、想像してみましょう。
おそらく剣道というのは、もとは刀で殺し合うという命がけの行為から来ているわけです。戦国時代には本物の刀や槍などで殺し合いをしていました。それが江戸時代になり、平和な時代に、竹刀を使って心身を鍛えるようになりました。戦時に備えた訓練です。道場がたくさんでき、試合も行われていたようです。昭和になってから競技大会が開催されるようになりました。子どもたちが習う時には、やはり心身を鍛えるとか人間をつくるといった側面が強いようです。おそらく剣道が大切にしているのは、命がけで相手を倒す暴力性のようなものを認めた上で、それをうまくコントロールするということだと思います。人間の理性というか、誠実性のようなものが優位に立っているということだと思うのです。試合に勝って嬉しいとか負けて悔しいという素直な感情を持つのは自然です。しかしそれを心の奥に閉じ込めて一切外には出さないようにするということが大切なことだと思います。剣道で勝つということは、意味としては相手を殺すということの暗喩です。それで歓喜するというのは、下品であり、野蛮です。負けて泣いたり悔しがったりするというのも、本音はそうなのでしょうけど、本気で殺し合いをしているような感覚に近づいてしまうわけです。そうではない、自分は理性と品格のある冷静な人間である!感覚を研ぎ澄まして相手の動きを察知し、自分の力を最大限に操作して、華麗に舞い、一本を目指す。勝ちたいとか、負けるのはイヤだといった感情に支配されるのではない。相手と戦っているというよりはむしろ自分の弱さと戦っている。眠い、きつい、暑い、寒い、お腹すいた、イラついた…そんな思いをぐっと心の奥にしまって、平然としている。それこそが理性的な人間としての存在なのです。そしてその姿が、かっこよく見える、ということだと思います。こんな感じでしょうか。以上は私の勝手な想像ですが、そういう想像を膨らませることには意味があると思います。
文化伝統とはどういうものでしょうか。昔から続いているものは全て大切だということを無条件で思うのは間違いです。そんな簡単な話にしてしまっては良くないと思います。大昔は、刀で人を殺していたのです。それを継承するわけではありません。平和な時代ですから競技として、ゲームとして楽しむという側面はあってもよいのです。時代とともに変わっていく部分はきっとあるはずです。しかしそれと同時に、なぜ剣道という仕組みが人々に受け継がれてきたのか。そこにはきっと何は大切なことが含まれているはず、と思いながら理解すること(理解しようと努めること)が大切なのです。それが伝統文化に対する向き合い方だと思います。
(『小学校道徳 読み物資料集』文部科学省、平成23年3月
『私たちの道徳 小学5・6年』文部科学省)
〔読み物資料のあらすじ〕主人公のぼくは、剣道を習って3年目になる。正座の仕方や動作の仕方などを長い間、教えられ、やっとのことで試合となる。あっという間に負けてしまう。ふてくされた態度でいると先生から注意を受ける。勝っても負けても礼儀を守り立派に引き下がることが大切だと教えられる。ぼくは、剣道が人間をつくるという話を聞いて大切なことを学んだと感じる。
資料の主人公は小学生の「ぼく」です。ぼくは剣道を始めて3年になりますが、最初の頃は、正座の仕方とか、礼の仕方ばかりで、なかなか竹刀すら持たせてもらえなかったと言います。重い防具をつけ、竹刀を持つようになっても、なかなか練習は大変で、いまいち楽しめなかったようです。初めての試合の日です。あっという間に相手の一本が決まり、さらに二本目も決まってしまい、負けてしまいました。ふてくされた態度で引き上げたと言います。
なぜぼくは、ふてくされてしまったのでしょうか。ぼくにとって剣道というのは、立ち姿の美しさ、かっこよさを見せるものでした。身体を鍛えるというのもあるでしょうが、やはりぼくにとっての最大の魅力は相手を、バッタ、バッタと倒していき、それでいて息が切れないような(時代劇のような?)カッコよさにあったのでしょう。その気持ちは分かります。サッカーや野球を習っている子は少なくないのですが、おそらく子どもとしては勝利の喜びに浸りたい、カッコイイ姿を決めたい、そんな思いでしょう。勿論悪いことではありません。それは、とても自然なことです。カッコよくなりたいから、頑張るのです。ですので、負けたら、悔しくて悲しくて腹立たしくてカッコ悪くて…。そしてふてくされてしまうのです。自分のプライドもあります。腹立たしいということの精一杯の表現です。
先生がぼくに言います。「見苦しい引き上げをする人間に、剣道をやる資格はない。ほかの試合をよく見てみなさい」この言葉は驚きです。「がんばったね」とか「残念だったね」といった優しい言葉ではなかったのです。それからぼくは大人同士の試合をじっくり見つめていきます。試合自体はこれまでも見ているはずなのですが、いざ自分が負けてから見ると違ってみえます。大人同士の試合では、負けた人間も勝った人間も、堂々と立派な姿勢で引きあがっていくのです。負けた方がくやしがる様子もなければ、勝った方が喜ぶ様子もないのです(勝った方がガッツポーズをすると勝利が取り消されるそうです)。後日、先生が「相手を敬い、尊重するという心が大切」「剣道の目的は人間をつくること」というようなことを語っています。これはどういう意味でしょうか。これだけではよく分かりません。剣道がスポーツならば、試合の間は一生懸命でよいのですが、終わった後も礼儀が必要だというのは、いまいちピンときません。当たっているかどうかは分かりませんが、想像してみましょう。
おそらく剣道というのは、もとは刀で殺し合うという命がけの行為から来ているわけです。戦国時代には本物の刀や槍などで殺し合いをしていました。それが江戸時代になり、平和な時代に、竹刀を使って心身を鍛えるようになりました。戦時に備えた訓練です。道場がたくさんでき、試合も行われていたようです。昭和になってから競技大会が開催されるようになりました。子どもたちが習う時には、やはり心身を鍛えるとか人間をつくるといった側面が強いようです。おそらく剣道が大切にしているのは、命がけで相手を倒す暴力性のようなものを認めた上で、それをうまくコントロールするということだと思います。人間の理性というか、誠実性のようなものが優位に立っているということだと思うのです。試合に勝って嬉しいとか負けて悔しいという素直な感情を持つのは自然です。しかしそれを心の奥に閉じ込めて一切外には出さないようにするということが大切なことだと思います。剣道で勝つということは、意味としては相手を殺すということの暗喩です。それで歓喜するというのは、下品であり、野蛮です。負けて泣いたり悔しがったりするというのも、本音はそうなのでしょうけど、本気で殺し合いをしているような感覚に近づいてしまうわけです。そうではない、自分は理性と品格のある冷静な人間である!感覚を研ぎ澄まして相手の動きを察知し、自分の力を最大限に操作して、華麗に舞い、一本を目指す。勝ちたいとか、負けるのはイヤだといった感情に支配されるのではない。相手と戦っているというよりはむしろ自分の弱さと戦っている。眠い、きつい、暑い、寒い、お腹すいた、イラついた…そんな思いをぐっと心の奥にしまって、平然としている。それこそが理性的な人間としての存在なのです。そしてその姿が、かっこよく見える、ということだと思います。こんな感じでしょうか。以上は私の勝手な想像ですが、そういう想像を膨らませることには意味があると思います。
文化伝統とはどういうものでしょうか。昔から続いているものは全て大切だということを無条件で思うのは間違いです。そんな簡単な話にしてしまっては良くないと思います。大昔は、刀で人を殺していたのです。それを継承するわけではありません。平和な時代ですから競技として、ゲームとして楽しむという側面はあってもよいのです。時代とともに変わっていく部分はきっとあるはずです。しかしそれと同時に、なぜ剣道という仕組みが人々に受け継がれてきたのか。そこにはきっと何は大切なことが含まれているはず、と思いながら理解すること(理解しようと努めること)が大切なのです。それが伝統文化に対する向き合い方だと思います。