「子ども会のキャンプ」
(『きみがいちばんひかるとき 小6』光村図書、道徳教科書)
〔読み物資料のあらすじ〕2泊3日の子ども会のキャンプの話。明葉は、6年生として班長となる。3年生のむつみが、カレーの鍋を倒してしまった。明葉は、他の班から集める等して事態を収拾する。世話役の大学生は、明葉を褒めていく。
状況を確認しましょう。これは、小学生から中学生くらいまでいるキャンプでしょうか。6年生の明葉は班長です。班がいくつかあって、基本的には中学生が班長になるのですが、一人足らないので、そこで、この班だけ、小学6年生の明葉が班長というようなそんな感じだと思われます。大学生のボランティアもいるようですので、子ども会の人、宿泊施設の職員さんも遠巻きで見ているようなキャンプだと思われます。そこでのトラブルでした。せっかく作ったカレーがこぼれてしまって、もう食べられません。カレーの鍋を運んでいたのは5年生のさとし、そこにぶつかったのは食器を運んでいた3年生のむつみでした。この文面を見ただけでは状況は分からないのですが、正直、さとしにも問題があったように思われます。さとしは、「よーし、はこぶよ」等と周囲に声をかけながら気を配ってゆっくり運ぶとよかったのかもしれません。大学生や周囲の職員が特に手を出すわけではなく、見守っているようですので、このあたりもちょっと子ども任せしすぎるようにも思えますが、子どもたちにさせようという方針なのかもしれません。こぼれたカレーの処理は大学生や職員さんがやってくれたのでしょうか。
明葉はどんな思いだったでしょうか。なぜ明葉は、すぐにかけ寄って声をかけたのでしょうか。明葉は、カレーそのものに関心があるとうよりは、みんなが楽しめるかどうかに関心が強かったのでしょう。自分がしっかりしてこのキャンプを楽しいキャンプにしようと思っていたのでしょう。ですから事故が起こった際は、とにかくメンバーのことを心配したのです。メンバーに怪我があったらどうしよう(やけどの可能性もある)、むつみは泣いている、どうしよう。みんなが食べられなくなった。他の子たちは、わりとストレートですね。カレーが食べられなくなったということで不満です。他の子たちがむつみちゃんを糾弾しているような場面です。この場をなんとかしなければならない。そんな思いでしょうか。ひとことで言えば責任感ということにもなりますが、そんな簡単なまとめ方ではこの空気感を表現できません。楽しいキャンプにしたいという素朴な思いがあり、それが崩れてしまったという困惑なのです。
明葉は、「失敗はだれにでもあるものよ。むつみちゃんを責めないで」と声をかけていきます。この言葉は、どんな意味があるでしょうか。むつみちゃんは誰かを困らせようとか、カレーをどうでもいいなどと思ったわけではありません。善意なのです。さとしはどうでしょうか。出来たカレーを別の場所に運んでいたわけですから、こちらも善意です。善意と善意なのに、結果としては事故になります。善意が良い結果だけを生むわけではない。それは誰にだって起こりうることです。カレー鍋を落としてしまうことはなかなかないかもしれませんが、一生懸命にやっていても失敗する、ということは誰にでもありうることです。さらに上記の言葉は、むつみちゃんを守ろうという心境だと思います。つい、自然と「あ~あ」という声が出てきますが、その声さえも、むつみちゃんを失意の底に落としてしまうのです。その雰囲気をなんとかしよう、この場をなんとかして収拾しようという思いです。周囲の大人に頼ってはいけないという思いもあります。自分のところでうまく解決しようという心境です。そういう複雑な心境の結果だと思います。
明葉が声をかけ、カレーを集めて、なんとか食べられるだけの量になりました。明葉は、その段階で、むつみちゃんに謝るように薦めたのです。なぜでしょうか。むつみちゃんには悪気がないことを主張したわけですから、謝らなくてもいいような気もします。おそらく、明葉が感じていたのは、不満そうにしている他の子の思いです。他の子が納得できるようにしよう、このままでは他の子が文句や不満を言い続けるでしょうから、これから先の行事がうまくいかない、と思ったのです。いわば今後のみんなの関係をつないで、まるくおさめようとしたのです。(ただ、私には5年のさとしも何らかの説明が必要な気はします。)
ここで、問題解決的な授業も想定できます。「もしあなたが明葉だったらどうしますか」という発問です。周囲に大人がいるのであれば、先に相談した方がよかったのかもしれません。明葉のやったように班長としての役割を果たすべきだという答えもあるでしょう。むつみちゃんに謝らせたということも、本当にそこまで必要だったかどうかは議論があるかもしれません。しかし私は思うのです。重要なことはそこではありません。正しい答え、最も妥当性の高い解決策があるという前提でそれを探させるというのは、テクニカルな話です。それはその現場でないと何とも言えません。何が適切だったかという議論をしてもあまり意味があるようには思えません。
本資料に記されている言葉「自分の役割を果たす」という点についてです。役割を果たすとはどういうことでしょうか。当然ながらこれは班長としての話です。しかし役割という言葉だけに着目するならば、「野菜を切る係」とか「食器を運ぶ係」などに着目してしまうかもしれません。それはここではよくないと思います。というのも、今回のトラブルは各自が役割を果たしていて起こったことでもあります。「役割」という言葉は、自分の作業分担だけをやればいいという冷たいニュアンスが入ります。役割を明確に決めておいて、その通りに実施すればよいというニュアンスを含んでしまいます。それは道徳授業としては不十分です。
最も重要なことは、班長としての役割です。そのことについて考えましょう。「班長」という立場はどういうものでしょうか。明葉は、十分に班長としての態度をとっていました。行動の中身については、「大人に相談する」でも、「自分でなんとかする」でもどちらでもよいのです。仕事内容が決まっているわけではないし、決める必要もないのです。全体を見ながら全体を盛り上げていく、全体を良い方向にもっていこうとする、壊れてしまいそうな時にはこの関係をなんとかしようする。そういう「思い」が大切なのです。子どもたちにそういう経験はあるかと聞けばよい。なかなか、こんな混乱した場面に遭遇することが稀です。大抵は大人がすぐに声をかけ、介入し、問題解決をしてしまうので、今回のように子どもが迷うような場面で、自分なりの答えを出せるということは、貴重な経験です。
(『きみがいちばんひかるとき 小6』光村図書、道徳教科書)
〔読み物資料のあらすじ〕2泊3日の子ども会のキャンプの話。明葉は、6年生として班長となる。3年生のむつみが、カレーの鍋を倒してしまった。明葉は、他の班から集める等して事態を収拾する。世話役の大学生は、明葉を褒めていく。
状況を確認しましょう。これは、小学生から中学生くらいまでいるキャンプでしょうか。6年生の明葉は班長です。班がいくつかあって、基本的には中学生が班長になるのですが、一人足らないので、そこで、この班だけ、小学6年生の明葉が班長というようなそんな感じだと思われます。大学生のボランティアもいるようですので、子ども会の人、宿泊施設の職員さんも遠巻きで見ているようなキャンプだと思われます。そこでのトラブルでした。せっかく作ったカレーがこぼれてしまって、もう食べられません。カレーの鍋を運んでいたのは5年生のさとし、そこにぶつかったのは食器を運んでいた3年生のむつみでした。この文面を見ただけでは状況は分からないのですが、正直、さとしにも問題があったように思われます。さとしは、「よーし、はこぶよ」等と周囲に声をかけながら気を配ってゆっくり運ぶとよかったのかもしれません。大学生や周囲の職員が特に手を出すわけではなく、見守っているようですので、このあたりもちょっと子ども任せしすぎるようにも思えますが、子どもたちにさせようという方針なのかもしれません。こぼれたカレーの処理は大学生や職員さんがやってくれたのでしょうか。
明葉はどんな思いだったでしょうか。なぜ明葉は、すぐにかけ寄って声をかけたのでしょうか。明葉は、カレーそのものに関心があるとうよりは、みんなが楽しめるかどうかに関心が強かったのでしょう。自分がしっかりしてこのキャンプを楽しいキャンプにしようと思っていたのでしょう。ですから事故が起こった際は、とにかくメンバーのことを心配したのです。メンバーに怪我があったらどうしよう(やけどの可能性もある)、むつみは泣いている、どうしよう。みんなが食べられなくなった。他の子たちは、わりとストレートですね。カレーが食べられなくなったということで不満です。他の子たちがむつみちゃんを糾弾しているような場面です。この場をなんとかしなければならない。そんな思いでしょうか。ひとことで言えば責任感ということにもなりますが、そんな簡単なまとめ方ではこの空気感を表現できません。楽しいキャンプにしたいという素朴な思いがあり、それが崩れてしまったという困惑なのです。
明葉は、「失敗はだれにでもあるものよ。むつみちゃんを責めないで」と声をかけていきます。この言葉は、どんな意味があるでしょうか。むつみちゃんは誰かを困らせようとか、カレーをどうでもいいなどと思ったわけではありません。善意なのです。さとしはどうでしょうか。出来たカレーを別の場所に運んでいたわけですから、こちらも善意です。善意と善意なのに、結果としては事故になります。善意が良い結果だけを生むわけではない。それは誰にだって起こりうることです。カレー鍋を落としてしまうことはなかなかないかもしれませんが、一生懸命にやっていても失敗する、ということは誰にでもありうることです。さらに上記の言葉は、むつみちゃんを守ろうという心境だと思います。つい、自然と「あ~あ」という声が出てきますが、その声さえも、むつみちゃんを失意の底に落としてしまうのです。その雰囲気をなんとかしよう、この場をなんとかして収拾しようという思いです。周囲の大人に頼ってはいけないという思いもあります。自分のところでうまく解決しようという心境です。そういう複雑な心境の結果だと思います。
明葉が声をかけ、カレーを集めて、なんとか食べられるだけの量になりました。明葉は、その段階で、むつみちゃんに謝るように薦めたのです。なぜでしょうか。むつみちゃんには悪気がないことを主張したわけですから、謝らなくてもいいような気もします。おそらく、明葉が感じていたのは、不満そうにしている他の子の思いです。他の子が納得できるようにしよう、このままでは他の子が文句や不満を言い続けるでしょうから、これから先の行事がうまくいかない、と思ったのです。いわば今後のみんなの関係をつないで、まるくおさめようとしたのです。(ただ、私には5年のさとしも何らかの説明が必要な気はします。)
ここで、問題解決的な授業も想定できます。「もしあなたが明葉だったらどうしますか」という発問です。周囲に大人がいるのであれば、先に相談した方がよかったのかもしれません。明葉のやったように班長としての役割を果たすべきだという答えもあるでしょう。むつみちゃんに謝らせたということも、本当にそこまで必要だったかどうかは議論があるかもしれません。しかし私は思うのです。重要なことはそこではありません。正しい答え、最も妥当性の高い解決策があるという前提でそれを探させるというのは、テクニカルな話です。それはその現場でないと何とも言えません。何が適切だったかという議論をしてもあまり意味があるようには思えません。
本資料に記されている言葉「自分の役割を果たす」という点についてです。役割を果たすとはどういうことでしょうか。当然ながらこれは班長としての話です。しかし役割という言葉だけに着目するならば、「野菜を切る係」とか「食器を運ぶ係」などに着目してしまうかもしれません。それはここではよくないと思います。というのも、今回のトラブルは各自が役割を果たしていて起こったことでもあります。「役割」という言葉は、自分の作業分担だけをやればいいという冷たいニュアンスが入ります。役割を明確に決めておいて、その通りに実施すればよいというニュアンスを含んでしまいます。それは道徳授業としては不十分です。
最も重要なことは、班長としての役割です。そのことについて考えましょう。「班長」という立場はどういうものでしょうか。明葉は、十分に班長としての態度をとっていました。行動の中身については、「大人に相談する」でも、「自分でなんとかする」でもどちらでもよいのです。仕事内容が決まっているわけではないし、決める必要もないのです。全体を見ながら全体を盛り上げていく、全体を良い方向にもっていこうとする、壊れてしまいそうな時にはこの関係をなんとかしようする。そういう「思い」が大切なのです。子どもたちにそういう経験はあるかと聞けばよい。なかなか、こんな混乱した場面に遭遇することが稀です。大抵は大人がすぐに声をかけ、介入し、問題解決をしてしまうので、今回のように子どもが迷うような場面で、自分なりの答えを出せるということは、貴重な経験です。