「うちら『ネコの手』ボランティア」
(『新しい道徳 小6』東京書籍、道徳教科書)
〔読み物資料のあらすじ〕1995年の阪神淡路大震災の際の話。小学校が避難所となり、そこに女の子二人が避難する。避難所ではトラブルも多かった。女の子たちはボランティアを始める。自宅に戻れた後もボランティアは継続する。しばらくして避難所が閉鎖された後、女の子たちはあの高齢者たちを伺おうとする。
麻美と由紀は小学5年生です。地震の際には、小学校が避難所となりました。二人が小学校に避難した際には小さな小学校は1600人くらいでひしめき合っていました。食事が配られた際には、うまく届かずに苦情を言う人もいました。よく見ると小学校の先生が配っていました。それを見た二人は自分たちも手伝うことにしたのです。
なぜ二人は、手伝うことにしたのでしょうか。最初は、こういう仕事はそれにふさわしい担当者が担っていると思われていたのです。しかし先生がやっていると言うのは、要するに特別な資格とか担当者とか無関係でやっているということです。ふだんからその先生が、気がついたらすぐに行動する、というような人だったのかもしれません。目の前には困っている人がいて、そして自分たちは何もしていない。高齢者や小さい子ではなく、自分たちでも身体は十分に動かせる。全体を指揮したり連絡調整をしたりといった大きなことは難しいでしょうが、ちょっと手伝うくらいならば十分です。勿論、迷いはあります。勝手にやって怒られるのではないか、迷惑ではないか、という疑問です。自分たちは立場としてはまだ子どもです。分からないことも多い。勝手なことをやってしまって、予期できないことが起こってしまうかもしれません。そのあたりをよく迷っていたようなのですが、それでも「えいっ」という勢いでやってしまったのだと思います。そしてそのことはとても大切なことだと思います。二人は避難所の仕事をしました。すると先の先生が喜んでくれました。ネコの手もかりたいと思っていたといいます。当時の避難所ではライフラインが止まっていたため、プールから水を運んだり、ゴミ拾いをしたり、とにかく大変だったとあります。
自宅に戻ることが出来てからも、二人はそこでのボランティアを続けました。それはなぜでしょうか。避難所の大変な状況がさほど改善されていないので、ボランティアを続けた、ということだと思います。おそらく推察ですが、作業の要領が分かってきたということ、みんなで協力して作業をしていたということなどもあります。大人が中心となって作業をしているわけですが、手が足らないとか、上手くいかないと言った時に、子どもたちがさっと入ってくれるのです。大人としても助かりますが、子どもたちとしても充実した時間です。語弊があるかもしれませんが、気持ち良い話なのです。そんなこんなで、ボランティアに協力してくれる小学生も6人に増えたようです。
そんなある日、ちょっとしたトラブルでした。おばさんが激怒していました。お孫さんが熱を出しているのでしょうか。氷枕を持ってきてくれと頼んだのに、持ってきてくれない!とお怒りの様子です。なぜおばさんは苦情を言ったのでしょうか。おばさんにとっては目の前の人がボランティアであるのか、市の職員や担当者であるのか、そのあたりはどうでもいいような話です。氷枕もってきて、と頼んで「ハイ、すぐに持っていきます」と答えたのに、すぐでなかった。そこでイライラしているようです。このような苦情を受けて、彼女らはどのように感じたでしょうか。ここでは詳細が書かれていませんが、さぞ困惑したと思います。こちらはボランティアでやっているのに、まずはそのことに感謝して欲しい、精一杯やっていることをまず褒めてくれてもいいはず。それをいきなり怒り出すなんてひどい。そう思ったはずです。このトラブルを踏まえて考えるべきことは、「ボランティアとは何か」ということです。困った人に奉仕するという側面を重視するならば、うまく奉仕できなかったということになりますので、いわば「失敗」ということになります。謝らなければならなし、そういうのがイヤならばボランティアをする資格がない、という話になります。私はこの答えが好きではありません。実際にボランティアをしたことによって一部には迷惑をかけたり、問題を大きくしたりするということもあります。それは反省すべきことではありますが、多くのボランティアには当然、付随して起こることなのです。ボランティアとは、基本的には、やりたいからやる、という自主性なのです。十分な準備が出来ているわけでもないし、資格があるわけでもないし、資質能力を保証されているわけでもありません。特に小学生なのですから、間違えることもあるのです。トラブルは日常茶飯事なのです。(どちらかといえば「ハイ、すぐに持っていきます」と自信満々に答えてしまったことの方が問題なのかもしれません。)出来る限り、出来ることをやる。怒られて気になるならやめてもよい。無理のない範囲で頑張る、というのがボランティアだと思います。
ボランティアってどういうものでしょうか。改めて考えてみましょう。必要だ、やらなければならない、と思ったらその場で出来ることをする。そんな感じです。勿論、手を出したことによって迷惑やあるいは別の事故を引き起こしてしまう、なんてこともあるかもしれません。しかし結果や成果は、実はいくつもあって、その中には、良い成果もあれば悪い成果もある。そんなものなのです。またその時点では悪い成果だと思っていたものも、さらに時間をかけていけば良い成果になるものもあります。人が善意で動き始めると、いろんなことが起こってくる。そんな関係性が見えてくればよいと思います。
さて、その後、女の子たちは、避難所に残っている高齢者の方々にクッキーを作って持っていくということをしています。ここには書いていませんが、材料などは親たちが支援したでしょうし、先生方もおおいに支援したと思われます。小学生の彼女らが、高齢者を心配する気持ちが伝わります。さてここで考えるべきことがあります。それは「ボランティアとは何か」という問いです。広義にはボランティアになるはずです。避難所にいる人に対するお菓子の提供ですから、公共性があります。しかしよく考えれば、もっと微視的に見れば、仲の良い友達にクッキーを作って持っていく、というのとあまり違いがないように思うのです。全くの他人ではありません。関係性が出来た相手を心配するのは当然の感情です。要するに、どこからどこまでがボランティアでどこから先は日常という区切りが出来ないのです。ボランティアというのは、取り掛かった際にはボランティアとしての側面が強く出てきますが、しばらく慣れてきて、お互いの関係性が出来てくる。そうすると、もう、一人ひとりの人間としての素直な思いで行動することになります。避難所の人に声をかける、という点ではボランティアですが、その中身は、知人同士の日常会話と同じなのです。ボランティアというのは、わりと曖昧な部分が多く含まれますし、定義も難しく、しかしながら逆にいろんな発見や感動や迷いや喜びがある。そういうものなのです。
さて、こんな話を聞いてから子どもたちに対して「あなたはどんなボランティアをしましたか」と聞いても、意味がないように思います(教科書にそういう問いが掲げられています)。教科書会社としては、落ちているゴミを拾ったとか、近所の人に挨拶をした、などというちょっとしたボランティアを挙げさせたいのかもしれません。ボランティアをすれば気持ちいいよねと言いたいのかもしれません。しかしそういう小さな話と被災者支援のボランティアは仕事量も大変さもまるで違います。子どもたちはそれほど十分なボランティア経験があるわけではありません。ですから大切なことは、重いボランティアのことを学ぶことです。ボランティア活動に従事した人の、生の声を聴くことです。トラブルもありますが、感動もある。そういう姿を知ることが大切だと思います。
(『新しい道徳 小6』東京書籍、道徳教科書)
〔読み物資料のあらすじ〕1995年の阪神淡路大震災の際の話。小学校が避難所となり、そこに女の子二人が避難する。避難所ではトラブルも多かった。女の子たちはボランティアを始める。自宅に戻れた後もボランティアは継続する。しばらくして避難所が閉鎖された後、女の子たちはあの高齢者たちを伺おうとする。
麻美と由紀は小学5年生です。地震の際には、小学校が避難所となりました。二人が小学校に避難した際には小さな小学校は1600人くらいでひしめき合っていました。食事が配られた際には、うまく届かずに苦情を言う人もいました。よく見ると小学校の先生が配っていました。それを見た二人は自分たちも手伝うことにしたのです。
なぜ二人は、手伝うことにしたのでしょうか。最初は、こういう仕事はそれにふさわしい担当者が担っていると思われていたのです。しかし先生がやっていると言うのは、要するに特別な資格とか担当者とか無関係でやっているということです。ふだんからその先生が、気がついたらすぐに行動する、というような人だったのかもしれません。目の前には困っている人がいて、そして自分たちは何もしていない。高齢者や小さい子ではなく、自分たちでも身体は十分に動かせる。全体を指揮したり連絡調整をしたりといった大きなことは難しいでしょうが、ちょっと手伝うくらいならば十分です。勿論、迷いはあります。勝手にやって怒られるのではないか、迷惑ではないか、という疑問です。自分たちは立場としてはまだ子どもです。分からないことも多い。勝手なことをやってしまって、予期できないことが起こってしまうかもしれません。そのあたりをよく迷っていたようなのですが、それでも「えいっ」という勢いでやってしまったのだと思います。そしてそのことはとても大切なことだと思います。二人は避難所の仕事をしました。すると先の先生が喜んでくれました。ネコの手もかりたいと思っていたといいます。当時の避難所ではライフラインが止まっていたため、プールから水を運んだり、ゴミ拾いをしたり、とにかく大変だったとあります。
自宅に戻ることが出来てからも、二人はそこでのボランティアを続けました。それはなぜでしょうか。避難所の大変な状況がさほど改善されていないので、ボランティアを続けた、ということだと思います。おそらく推察ですが、作業の要領が分かってきたということ、みんなで協力して作業をしていたということなどもあります。大人が中心となって作業をしているわけですが、手が足らないとか、上手くいかないと言った時に、子どもたちがさっと入ってくれるのです。大人としても助かりますが、子どもたちとしても充実した時間です。語弊があるかもしれませんが、気持ち良い話なのです。そんなこんなで、ボランティアに協力してくれる小学生も6人に増えたようです。
そんなある日、ちょっとしたトラブルでした。おばさんが激怒していました。お孫さんが熱を出しているのでしょうか。氷枕を持ってきてくれと頼んだのに、持ってきてくれない!とお怒りの様子です。なぜおばさんは苦情を言ったのでしょうか。おばさんにとっては目の前の人がボランティアであるのか、市の職員や担当者であるのか、そのあたりはどうでもいいような話です。氷枕もってきて、と頼んで「ハイ、すぐに持っていきます」と答えたのに、すぐでなかった。そこでイライラしているようです。このような苦情を受けて、彼女らはどのように感じたでしょうか。ここでは詳細が書かれていませんが、さぞ困惑したと思います。こちらはボランティアでやっているのに、まずはそのことに感謝して欲しい、精一杯やっていることをまず褒めてくれてもいいはず。それをいきなり怒り出すなんてひどい。そう思ったはずです。このトラブルを踏まえて考えるべきことは、「ボランティアとは何か」ということです。困った人に奉仕するという側面を重視するならば、うまく奉仕できなかったということになりますので、いわば「失敗」ということになります。謝らなければならなし、そういうのがイヤならばボランティアをする資格がない、という話になります。私はこの答えが好きではありません。実際にボランティアをしたことによって一部には迷惑をかけたり、問題を大きくしたりするということもあります。それは反省すべきことではありますが、多くのボランティアには当然、付随して起こることなのです。ボランティアとは、基本的には、やりたいからやる、という自主性なのです。十分な準備が出来ているわけでもないし、資格があるわけでもないし、資質能力を保証されているわけでもありません。特に小学生なのですから、間違えることもあるのです。トラブルは日常茶飯事なのです。(どちらかといえば「ハイ、すぐに持っていきます」と自信満々に答えてしまったことの方が問題なのかもしれません。)出来る限り、出来ることをやる。怒られて気になるならやめてもよい。無理のない範囲で頑張る、というのがボランティアだと思います。
ボランティアってどういうものでしょうか。改めて考えてみましょう。必要だ、やらなければならない、と思ったらその場で出来ることをする。そんな感じです。勿論、手を出したことによって迷惑やあるいは別の事故を引き起こしてしまう、なんてこともあるかもしれません。しかし結果や成果は、実はいくつもあって、その中には、良い成果もあれば悪い成果もある。そんなものなのです。またその時点では悪い成果だと思っていたものも、さらに時間をかけていけば良い成果になるものもあります。人が善意で動き始めると、いろんなことが起こってくる。そんな関係性が見えてくればよいと思います。
さて、その後、女の子たちは、避難所に残っている高齢者の方々にクッキーを作って持っていくということをしています。ここには書いていませんが、材料などは親たちが支援したでしょうし、先生方もおおいに支援したと思われます。小学生の彼女らが、高齢者を心配する気持ちが伝わります。さてここで考えるべきことがあります。それは「ボランティアとは何か」という問いです。広義にはボランティアになるはずです。避難所にいる人に対するお菓子の提供ですから、公共性があります。しかしよく考えれば、もっと微視的に見れば、仲の良い友達にクッキーを作って持っていく、というのとあまり違いがないように思うのです。全くの他人ではありません。関係性が出来た相手を心配するのは当然の感情です。要するに、どこからどこまでがボランティアでどこから先は日常という区切りが出来ないのです。ボランティアというのは、取り掛かった際にはボランティアとしての側面が強く出てきますが、しばらく慣れてきて、お互いの関係性が出来てくる。そうすると、もう、一人ひとりの人間としての素直な思いで行動することになります。避難所の人に声をかける、という点ではボランティアですが、その中身は、知人同士の日常会話と同じなのです。ボランティアというのは、わりと曖昧な部分が多く含まれますし、定義も難しく、しかしながら逆にいろんな発見や感動や迷いや喜びがある。そういうものなのです。
さて、こんな話を聞いてから子どもたちに対して「あなたはどんなボランティアをしましたか」と聞いても、意味がないように思います(教科書にそういう問いが掲げられています)。教科書会社としては、落ちているゴミを拾ったとか、近所の人に挨拶をした、などというちょっとしたボランティアを挙げさせたいのかもしれません。ボランティアをすれば気持ちいいよねと言いたいのかもしれません。しかしそういう小さな話と被災者支援のボランティアは仕事量も大変さもまるで違います。子どもたちはそれほど十分なボランティア経験があるわけではありません。ですから大切なことは、重いボランティアのことを学ぶことです。ボランティア活動に従事した人の、生の声を聴くことです。トラブルもありますが、感動もある。そういう姿を知ることが大切だと思います。