「あるレジ打ちの女性」
(木下晴弘著『涙の数だけ大きくなれる!』フォレスト出版、より。)
(『中学道徳 あすを生きる 3』日本文教出版、道徳教科書)
〔読み物資料のあらすじ〕転職を続けるある女性の話。女性はスーパーのレジ打ちの仕事を始める。この仕事も続きそうにない。仕事をやめて田舎の実家に帰ろうと思っていた際、子どもの頃の夢を思い出す。そこからこの女性は、レジ打の仕事にやりがいを見出していく。客は自分のことを意識していてくれるようになり、涙を流す。
この話は時代的なものもあるかもしれません。現代においてレジは全てバーコードの読み取り作業になってしまい、さらには客が自分で処理をする「セルフレジ」が導入されました。レジのボタンを手で入力するような時代ではありません。この資料を読む前に、前提の説明が必要です。勿論、時代が変わったからといって無意味な話ではありません。重要なことはそこではないからです。
まず、転職を繰り返しているというこの女性についてです。この女性は、なぜ転職を繰り返すのでしょうか。本文には飽きっぽい性格だということが示されています。楽しみが見いだせないということもあるかもしれませんが、イヤなことはイヤ、キツイことはキツイとはっきり言うような性格です。上司とのトラブルもあったといいます。これをやりなさいと命令だけをするような上司であれば、誰だったイヤですよね。上司の側にも何らかの問題があったのかもしれません。この女性はレジ打ちの仕事に意味を見出せなかったようです。同じことの繰り返し、単純作業です。毎日毎日同じ作業というのは、なかなかきついと思います。
さて、仕事をやめて田舎に引っ越すという話です。今この段階では、彼女は都会で1人暮らしです。家賃なども払い続けなければなりませんので大変です。実家であればまだ両親が健在なのでしょう。親は実家に戻っておいでと言います。遠くにいるよりは近くにいた方が、なにかとフォローも出来るということでしょうね。ここでこの女性は、子どもの頃、ピアニストになりたかったという自分のノートを発見します。子どもの頃には、ピアニストになりたい一心で長い間続いていたというのです。それを見た彼女は、もう少しこの仕事を頑張ってみようと決心し、実家へ帰るのをやめました。
さて、なぜ彼女は、実家には帰らずに、この仕事を続けようとしたのでしょうか。おそらくは、熱い思いです。ピアノタッチとレジ打ちが似ているということでしょうか。本文にはそれを示唆するような部分もありますが、これは関係ないと思います。おそらくは熱い思いで、夢中で一生懸命に続けてみるという部分です。それを思い出したのでしょう。これまではいい加減にやっていたのです。たいして重要ではないことだという思いだったのです。「レジ打ち」というのを誰にでも出来る簡単な仕事くらいに思っていたのかもしれません。レジ打ちの仕事は、同じことの繰り返し、単純作業でそこに意味を見出せなかったということだと思われます。
彼女がこの仕事を夢中でやってみるといろんなものが見えてきます。打ち方にもコツがあります。作業は向上していきます。余裕が出てくると周囲の客の様子がよく分かるようになります。それとなく会話をすることも増えてきます。さて、レジ打ちの仕事にとって、客の様子を観察したり客と会話をしたりすることは、本務ではありません。このことについてどうとらえればよいでしょうか。確かに、論理的には無関係なのです。レジ打ちの仕事はレジ打ちであって、客の接待ではありません。客の質問や要望に対応することくらいまでは仕事の範囲でしょうが、関心を寄せたり、心を通わせたりすることは、仕事ではないのです。そう考えると、この女性はむしろサボっているのに近いのです。このスーパーのオーナーとしては、短時間で多くの客をさばくことだけを考えてしまうかもしれません。この女性ばかりに客が集中してしまうというのは、同じ給料を払って従業員を雇っているオーナーとしては良い話ではありません。女性の働き方をどう思いますか。この働き方について意見交換するとよいと思います。
私は、働くというのは、周辺のこと、人間関係のやりとり、思いや願いも含めて働くのだと思います。ちょっとした思い、工夫、楽しみなどがあって初めて有意義に働くということができます。それがない職場こそ、ブラックであり、単純重労働であり、非人間的なのです。しかしながら私の考えが正しいとも言えないのです。最近の傾向は、本当にそのことだけをやればいいという傾向があって、それが職場環境の悪さにつながっていると思います。私は給料の支払いだけに関心を寄せる働き方は、人間的でないと思うのですが、しかしながらそのような働き方を求める会社もあります。効率化や生産性だけにこだわるような会社です。また働き手の方も、わずらわしい人間関係はイヤだという人も少なくありません。そんなことはむしろ雑音のように扱われてしまって、それゆえ、ギスギスとした関係になっているのかもしれません。私はミヒャエルエンデの児童文学『モモ』を思い出します。レストランに行くとまるでロボットのようなマニュアル通りの挨拶が聞こえてきます。そこにキモチワルサを感じる一方、そういう冷たい機械的な対応で安心してしまう面もあり、なかなか複雑です。
以上の複雑なことを無視して、とにかく客が喜んでいるのだからやりがいがあるよね、というまとめ方はよくないと思います。働くって大切だよねというまとめには殆ど意味がありません。もっと深い考察に向かう必要があります。
レジ打ちの仕事をやめるかどうするかという選択場面で、「あなたならどうするか」と問うような授業もあるかもしれません。自分ならば続けるとか、すぐに辞めるとか、別の仕事に転職するとか、知人に相談するとか、そんな答えを集めてもそれほど意味があるとは思えません。子どもはまだ働いていないのです。仕事に意味を見出せずに転職を重ねるような人はいます。良い職場に巡り合えずに退職するというケースもあります。それは本人の努力云々というよりも、社会情勢、雇用体系とか、景気などによって決まる部分も多いのです。
またラストに大泣きしてしまうという場面があります。「なぜ泣いてしまったのでしょうか」と問うような授業もあるかもしれません。ドラマティックな展開になっていますので、そこに着目したくなる気持ちは分かります。良い結果になれば嬉しいし、悪い結果であれば悲しいというのはそうですが、その心境の変化を掘り下げても意味はないのです。これが事実がどうかは別として、あくまで資料の話なのです。頑張ったからうまく行ったというような教訓めいた話もよくないです。この女性の場合はうまくいったということですが、それを一般化するには無理があります。
私たちが考えるべきことは、働くということの意味とか重みです。働くというのは、どういうことでしょうか。働く上で大切なことは何でしょうか。私たちは働くという中で、やりがいというか、楽しさというか、充実さというか、そういうものを見出していきます。それが見いだせなくなって、あるいは失望して、辞めていくのです。ブラック企業のような場合もありますから、酷い職場であれば辞めた方がいいのです。続けることだけが良いことではありません。重要なことは何か。どんな仕事についてもそこに何らかの意味なり重みなりを見出そうとする姿勢です。従業員を募集する際には業務内容が示されます。「レジ打ち」とか「商品の品出し」といった言葉は、あくまで表面的なこと、最低限度の話であって、それだけをやるのではありません。与えられた作業だけをするのではなく、その周辺も大切です。従業員同士の挨拶や心配りも必要です。工夫や改善を入れて、面白みや楽しさを見出して、自分なりに仕事に重みを見出していくというその姿勢が重要だと思います。その余地を見出せなければ、いつまでたっても定職にはつけず、転職を繰り返してしまうことになります。
(木下晴弘著『涙の数だけ大きくなれる!』フォレスト出版、より。)
(『中学道徳 あすを生きる 3』日本文教出版、道徳教科書)
〔読み物資料のあらすじ〕転職を続けるある女性の話。女性はスーパーのレジ打ちの仕事を始める。この仕事も続きそうにない。仕事をやめて田舎の実家に帰ろうと思っていた際、子どもの頃の夢を思い出す。そこからこの女性は、レジ打の仕事にやりがいを見出していく。客は自分のことを意識していてくれるようになり、涙を流す。
この話は時代的なものもあるかもしれません。現代においてレジは全てバーコードの読み取り作業になってしまい、さらには客が自分で処理をする「セルフレジ」が導入されました。レジのボタンを手で入力するような時代ではありません。この資料を読む前に、前提の説明が必要です。勿論、時代が変わったからといって無意味な話ではありません。重要なことはそこではないからです。
まず、転職を繰り返しているというこの女性についてです。この女性は、なぜ転職を繰り返すのでしょうか。本文には飽きっぽい性格だということが示されています。楽しみが見いだせないということもあるかもしれませんが、イヤなことはイヤ、キツイことはキツイとはっきり言うような性格です。上司とのトラブルもあったといいます。これをやりなさいと命令だけをするような上司であれば、誰だったイヤですよね。上司の側にも何らかの問題があったのかもしれません。この女性はレジ打ちの仕事に意味を見出せなかったようです。同じことの繰り返し、単純作業です。毎日毎日同じ作業というのは、なかなかきついと思います。
さて、仕事をやめて田舎に引っ越すという話です。今この段階では、彼女は都会で1人暮らしです。家賃なども払い続けなければなりませんので大変です。実家であればまだ両親が健在なのでしょう。親は実家に戻っておいでと言います。遠くにいるよりは近くにいた方が、なにかとフォローも出来るということでしょうね。ここでこの女性は、子どもの頃、ピアニストになりたかったという自分のノートを発見します。子どもの頃には、ピアニストになりたい一心で長い間続いていたというのです。それを見た彼女は、もう少しこの仕事を頑張ってみようと決心し、実家へ帰るのをやめました。
さて、なぜ彼女は、実家には帰らずに、この仕事を続けようとしたのでしょうか。おそらくは、熱い思いです。ピアノタッチとレジ打ちが似ているということでしょうか。本文にはそれを示唆するような部分もありますが、これは関係ないと思います。おそらくは熱い思いで、夢中で一生懸命に続けてみるという部分です。それを思い出したのでしょう。これまではいい加減にやっていたのです。たいして重要ではないことだという思いだったのです。「レジ打ち」というのを誰にでも出来る簡単な仕事くらいに思っていたのかもしれません。レジ打ちの仕事は、同じことの繰り返し、単純作業でそこに意味を見出せなかったということだと思われます。
彼女がこの仕事を夢中でやってみるといろんなものが見えてきます。打ち方にもコツがあります。作業は向上していきます。余裕が出てくると周囲の客の様子がよく分かるようになります。それとなく会話をすることも増えてきます。さて、レジ打ちの仕事にとって、客の様子を観察したり客と会話をしたりすることは、本務ではありません。このことについてどうとらえればよいでしょうか。確かに、論理的には無関係なのです。レジ打ちの仕事はレジ打ちであって、客の接待ではありません。客の質問や要望に対応することくらいまでは仕事の範囲でしょうが、関心を寄せたり、心を通わせたりすることは、仕事ではないのです。そう考えると、この女性はむしろサボっているのに近いのです。このスーパーのオーナーとしては、短時間で多くの客をさばくことだけを考えてしまうかもしれません。この女性ばかりに客が集中してしまうというのは、同じ給料を払って従業員を雇っているオーナーとしては良い話ではありません。女性の働き方をどう思いますか。この働き方について意見交換するとよいと思います。
私は、働くというのは、周辺のこと、人間関係のやりとり、思いや願いも含めて働くのだと思います。ちょっとした思い、工夫、楽しみなどがあって初めて有意義に働くということができます。それがない職場こそ、ブラックであり、単純重労働であり、非人間的なのです。しかしながら私の考えが正しいとも言えないのです。最近の傾向は、本当にそのことだけをやればいいという傾向があって、それが職場環境の悪さにつながっていると思います。私は給料の支払いだけに関心を寄せる働き方は、人間的でないと思うのですが、しかしながらそのような働き方を求める会社もあります。効率化や生産性だけにこだわるような会社です。また働き手の方も、わずらわしい人間関係はイヤだという人も少なくありません。そんなことはむしろ雑音のように扱われてしまって、それゆえ、ギスギスとした関係になっているのかもしれません。私はミヒャエルエンデの児童文学『モモ』を思い出します。レストランに行くとまるでロボットのようなマニュアル通りの挨拶が聞こえてきます。そこにキモチワルサを感じる一方、そういう冷たい機械的な対応で安心してしまう面もあり、なかなか複雑です。
以上の複雑なことを無視して、とにかく客が喜んでいるのだからやりがいがあるよね、というまとめ方はよくないと思います。働くって大切だよねというまとめには殆ど意味がありません。もっと深い考察に向かう必要があります。
レジ打ちの仕事をやめるかどうするかという選択場面で、「あなたならどうするか」と問うような授業もあるかもしれません。自分ならば続けるとか、すぐに辞めるとか、別の仕事に転職するとか、知人に相談するとか、そんな答えを集めてもそれほど意味があるとは思えません。子どもはまだ働いていないのです。仕事に意味を見出せずに転職を重ねるような人はいます。良い職場に巡り合えずに退職するというケースもあります。それは本人の努力云々というよりも、社会情勢、雇用体系とか、景気などによって決まる部分も多いのです。
またラストに大泣きしてしまうという場面があります。「なぜ泣いてしまったのでしょうか」と問うような授業もあるかもしれません。ドラマティックな展開になっていますので、そこに着目したくなる気持ちは分かります。良い結果になれば嬉しいし、悪い結果であれば悲しいというのはそうですが、その心境の変化を掘り下げても意味はないのです。これが事実がどうかは別として、あくまで資料の話なのです。頑張ったからうまく行ったというような教訓めいた話もよくないです。この女性の場合はうまくいったということですが、それを一般化するには無理があります。
私たちが考えるべきことは、働くということの意味とか重みです。働くというのは、どういうことでしょうか。働く上で大切なことは何でしょうか。私たちは働くという中で、やりがいというか、楽しさというか、充実さというか、そういうものを見出していきます。それが見いだせなくなって、あるいは失望して、辞めていくのです。ブラック企業のような場合もありますから、酷い職場であれば辞めた方がいいのです。続けることだけが良いことではありません。重要なことは何か。どんな仕事についてもそこに何らかの意味なり重みなりを見出そうとする姿勢です。従業員を募集する際には業務内容が示されます。「レジ打ち」とか「商品の品出し」といった言葉は、あくまで表面的なこと、最低限度の話であって、それだけをやるのではありません。与えられた作業だけをするのではなく、その周辺も大切です。従業員同士の挨拶や心配りも必要です。工夫や改善を入れて、面白みや楽しさを見出して、自分なりに仕事に重みを見出していくというその姿勢が重要だと思います。その余地を見出せなければ、いつまでたっても定職にはつけず、転職を繰り返してしまうことになります。