みなさんは、小学校や中学校で受けてきた道徳の授業について、どんなイメージをお持ちでしょうか? 「面白かった」「深く考えていた」「いろんな意見が言えた」という肯定的な感想も多いと思いますが、その一方で「分かりきったことを教えている」「面白くなかった」「副読本の話がつまらなかった」等という感想をお持ちの方もいらっしゃいます。
現在の道徳授業の主流は、読み物資料を用いた読解形式の授業です。私は、道徳の読み物資料には、とても面白い内容のものが多いと思います。読み物資料をうまく活用し、広く深く議論していけば、道徳の授業は面白いものになると確信します。授業が面白くないのは、資料の問題ではなく、その資料の活用の仕方が不十分なのだと思うのです。道徳の授業が面白いか、そうでないかという点は、担当の先生がこの読み物資料をうまく活用できているかどうかという点にかかっていると考えます。
読み物資料がうまく活用できない理由の一つ目は、その先生が読み物資料そのものを軽視しているということが考えられます。読み物資料の大半は、いわばウソの話、架空の作り話です。子どもたちの現実そのものを取り上げているわけではありません。こんな先生は、心の中では「ただの作り話」だと感じているので、そこに深く入り込むことはせずに、さっさと現実の話に移動するのです。「さて、ところで君たちはどうか」と問うのです。(その授業は、意外と、面白くありません)
読み物資料の大半は、たしかに架空の作り話ですが、そこに深く入り込むことによって面白い授業となります。私たちは、それが絵本や寓話であっても、小説や映画であっても、架空の話を聞いて、そこから考えたり、心を動かしたり、あるいは他者と対話したり、発見したり、議論したりすることができるのです。(読み物資料には例えば野球選手イチローの話のように、実話をもとにしたものもありますが、それであっても、読み手が解釈を膨らませていくような読み方となるはずです。)重要なことは、資料が現実の話か架空の話かという点ではなく、与えられた話を、自分にも起こりうる事柄として、共感的に受け止めるかどうかという点なのです。自分の人生としてリアリティを感じ取るのであれば、それが子どもの作文であっても、昔話であっても、マンガであっても、一気に高い価値を生み出すことが出来ると思うのです。読み物資料を面白いと感じ、そこから徹底的に、深く、広く、読み解いていく。それが出来れば、授業は面白くなります。しかしながら、読み物資料は架空の作り話だからそこに議論を重ねても無意味だと思っている先生は、いやいやながら、仕方なく読み物資料を読んでしまうでしょう。それは、結局のところ、浅い読み方にとどまってしまい、その先生の授業もまたつまらないものになってしまうのです。
読み物資料がうまく活用できない理由の二つ目は、読み物資料を読みながら、多様な意見を取り上げることよりも、先生のレールの上を進ませることを優先してしまうということが考えられます。いわゆる教師用の指導書や市販の授業計画案のようなものがあります。いずれも45分でおさまるように示されています。ここに書かれてある通りに授業を行えば、うまくいきそうな気がします。それは指導計画としては十分なのですが、教材研究としては、どうでしょうか。私は、急ぎすぎているように思えます。本来ならば、一つの資料から多様な見方や考え方を導き出し、その上で、時間やその時の子どもの様子をみながら半分くらいの内容に精選するべきなのです。先生は解釈を広げる力と、子どもに合わせて精選する力の両方が必要です。いったん立てた指導計画の通りに進まない(計画をはみ出る)こともあります。多様な解釈の余地を認めるかどうかで、授業の面白さは変わってくるはずです。例えば「うさぎとかめ」については、「かめがこのような勝負に挑戦するのは愚かだ」「周囲は止めるべきだ」等といった独特な解釈の余地も認めるべきなのです。多くの教育書は、奇抜な意見や道徳的ではない意見が、起こらないという想定で作られています。もっと多様な見方・考え方を想定しながら、あれこれ実践してみるということが必要です。最初から授業時間は45分だなどと思わない方がいいのです。レールの上を歩かせることを考えてしまえば、結局のところ、子どもはそれを瞬時に察知し、模範的な正しい答えばかりを言うようになります。そうなってしまえば、タテマエ論だらけの面白くない授業になってしまうのです。私がここで展開したいのは、解釈を広げるという教材研究です。読み物資料について検討し、最大限に広げて議論したり、解釈したりするその範囲を見出したいのです。私がここで提示した解釈のうち、どこまでを子どもたちに提示するかは、子どもの年齢や状況や、あるいは授業の時間的余裕を考えながら、それぞれの先生が決めるとよいと思います。まずは時間を気にせずに、深く広い議論をしてみたいものです。
読み物資料がうまく活用できない理由の三つ目は、読み物資料を読みながら、深く分析することよりも、「道徳を教えること」を優先してしまうということが考えられます。先生が資料を読みながら、あるいは読んだ後に、何か正しい生き方というものをばーんと、教えようとするからです。例えば「うさぎとかめ」の話をします。うさぎはどんな生き方をしていたであろうか。うさぎはどんな心境だったか。かめはどんな心境か。なぜ最後まで頑張り続けたのか。他の動物たちはどんな声をかけたであろうか。そんなふうに多方面に広げて読めば面白くなるはずです。ところが、寓話が終わった段階で「はい、みなさん。分かりましたか? かめさんのように、コツコツ努力することが大切ですね」と説明してしまったら、どうでしょうか。そのまとめを聞くと、なんだがげんなりします。そのまとめによって、「授業」は「説教」へと早変わりします。授業に参加している子どもは、「考え、創造する主体」から、「説教される不完全な存在」へと一気に貶められてしまうのです。読み物資料を読んで、多様で深い議論が起こる前に、「分かりやすくまとめてあげよう」「大切なことを教えてあげよう」という気持ちになってしまうのでしょう。道徳を教えてしまうと、道徳授業は面白くなくなります。
道徳の読み物資料の「読み方」というのは、とても重要なのです。私がここで示したいのは、読み物資料についての、それを多方面に広げていく読み方です。道徳授業は、私たちの人生を豊かにしていくような大きな力を秘めていると思うのです。私はここで読み物資料を最大限に広げ、解釈を深めていきたいと思います。またその作業を通して、さらには道徳授業のあり方そのものについても議論していきたいと思います。
現在の道徳授業の主流は、読み物資料を用いた読解形式の授業です。私は、道徳の読み物資料には、とても面白い内容のものが多いと思います。読み物資料をうまく活用し、広く深く議論していけば、道徳の授業は面白いものになると確信します。授業が面白くないのは、資料の問題ではなく、その資料の活用の仕方が不十分なのだと思うのです。道徳の授業が面白いか、そうでないかという点は、担当の先生がこの読み物資料をうまく活用できているかどうかという点にかかっていると考えます。
読み物資料がうまく活用できない理由の一つ目は、その先生が読み物資料そのものを軽視しているということが考えられます。読み物資料の大半は、いわばウソの話、架空の作り話です。子どもたちの現実そのものを取り上げているわけではありません。こんな先生は、心の中では「ただの作り話」だと感じているので、そこに深く入り込むことはせずに、さっさと現実の話に移動するのです。「さて、ところで君たちはどうか」と問うのです。(その授業は、意外と、面白くありません)
読み物資料の大半は、たしかに架空の作り話ですが、そこに深く入り込むことによって面白い授業となります。私たちは、それが絵本や寓話であっても、小説や映画であっても、架空の話を聞いて、そこから考えたり、心を動かしたり、あるいは他者と対話したり、発見したり、議論したりすることができるのです。(読み物資料には例えば野球選手イチローの話のように、実話をもとにしたものもありますが、それであっても、読み手が解釈を膨らませていくような読み方となるはずです。)重要なことは、資料が現実の話か架空の話かという点ではなく、与えられた話を、自分にも起こりうる事柄として、共感的に受け止めるかどうかという点なのです。自分の人生としてリアリティを感じ取るのであれば、それが子どもの作文であっても、昔話であっても、マンガであっても、一気に高い価値を生み出すことが出来ると思うのです。読み物資料を面白いと感じ、そこから徹底的に、深く、広く、読み解いていく。それが出来れば、授業は面白くなります。しかしながら、読み物資料は架空の作り話だからそこに議論を重ねても無意味だと思っている先生は、いやいやながら、仕方なく読み物資料を読んでしまうでしょう。それは、結局のところ、浅い読み方にとどまってしまい、その先生の授業もまたつまらないものになってしまうのです。
読み物資料がうまく活用できない理由の二つ目は、読み物資料を読みながら、多様な意見を取り上げることよりも、先生のレールの上を進ませることを優先してしまうということが考えられます。いわゆる教師用の指導書や市販の授業計画案のようなものがあります。いずれも45分でおさまるように示されています。ここに書かれてある通りに授業を行えば、うまくいきそうな気がします。それは指導計画としては十分なのですが、教材研究としては、どうでしょうか。私は、急ぎすぎているように思えます。本来ならば、一つの資料から多様な見方や考え方を導き出し、その上で、時間やその時の子どもの様子をみながら半分くらいの内容に精選するべきなのです。先生は解釈を広げる力と、子どもに合わせて精選する力の両方が必要です。いったん立てた指導計画の通りに進まない(計画をはみ出る)こともあります。多様な解釈の余地を認めるかどうかで、授業の面白さは変わってくるはずです。例えば「うさぎとかめ」については、「かめがこのような勝負に挑戦するのは愚かだ」「周囲は止めるべきだ」等といった独特な解釈の余地も認めるべきなのです。多くの教育書は、奇抜な意見や道徳的ではない意見が、起こらないという想定で作られています。もっと多様な見方・考え方を想定しながら、あれこれ実践してみるということが必要です。最初から授業時間は45分だなどと思わない方がいいのです。レールの上を歩かせることを考えてしまえば、結局のところ、子どもはそれを瞬時に察知し、模範的な正しい答えばかりを言うようになります。そうなってしまえば、タテマエ論だらけの面白くない授業になってしまうのです。私がここで展開したいのは、解釈を広げるという教材研究です。読み物資料について検討し、最大限に広げて議論したり、解釈したりするその範囲を見出したいのです。私がここで提示した解釈のうち、どこまでを子どもたちに提示するかは、子どもの年齢や状況や、あるいは授業の時間的余裕を考えながら、それぞれの先生が決めるとよいと思います。まずは時間を気にせずに、深く広い議論をしてみたいものです。
読み物資料がうまく活用できない理由の三つ目は、読み物資料を読みながら、深く分析することよりも、「道徳を教えること」を優先してしまうということが考えられます。先生が資料を読みながら、あるいは読んだ後に、何か正しい生き方というものをばーんと、教えようとするからです。例えば「うさぎとかめ」の話をします。うさぎはどんな生き方をしていたであろうか。うさぎはどんな心境だったか。かめはどんな心境か。なぜ最後まで頑張り続けたのか。他の動物たちはどんな声をかけたであろうか。そんなふうに多方面に広げて読めば面白くなるはずです。ところが、寓話が終わった段階で「はい、みなさん。分かりましたか? かめさんのように、コツコツ努力することが大切ですね」と説明してしまったら、どうでしょうか。そのまとめを聞くと、なんだがげんなりします。そのまとめによって、「授業」は「説教」へと早変わりします。授業に参加している子どもは、「考え、創造する主体」から、「説教される不完全な存在」へと一気に貶められてしまうのです。読み物資料を読んで、多様で深い議論が起こる前に、「分かりやすくまとめてあげよう」「大切なことを教えてあげよう」という気持ちになってしまうのでしょう。道徳を教えてしまうと、道徳授業は面白くなくなります。
道徳の読み物資料の「読み方」というのは、とても重要なのです。私がここで示したいのは、読み物資料についての、それを多方面に広げていく読み方です。道徳授業は、私たちの人生を豊かにしていくような大きな力を秘めていると思うのです。私はここで読み物資料を最大限に広げ、解釈を深めていきたいと思います。またその作業を通して、さらには道徳授業のあり方そのものについても議論していきたいと思います。