道徳の読み物資料を取り上げて検討してきました。資料を読みとりながら道徳授業を進めるという際には、大きく分けて三つの方法が考えられます。一つは、私が最も妥当だと考えるもので、これまで明らかにしてきた方法です。私が最も重要だと思う授業を「道徳反省型」と呼びましょう。残りの二つを「意思決定型」「価値説教型」と呼んでおきます。この呼び方については、もっと適切なものがあるかもしれませんので、一応「仮」ということにさせて下さい。普通は資料を読みながら道徳の授業を進めるわけですが、子どもたちにどんな知的探求をさせるのか、どんな活動を行うのか。それには三つの方法があると思うのです。まずは最も妥当だと私が考える授業のあり方「道徳反省型」を整理しておきたいと思います。「道徳反省型」の授業は三つのプロセスで進行します。
第一に、人物の行動の理由を推察することです。道徳授業では1時間の間に短い文章を読んで、文章以外のことがらについて推察します。国語の場合は、文章から読み取れる部分に限定されます。しかし道徳の場合、文章から読み取れないことであっても勝手な推察を膨らませて良いのです。例えば「うさぎが転んだけど泣かなかった」という説話文から、なぜうさぎが泣かなかったのかという点について推察を膨らませていくのです。泣くとバカにされるので我慢した、いつものことで慣れていた、強い人間になると決心した、等の様々な理由が考えられます。どんな心境か。気持ちを問うならば、痛かった、恥ずかしかったという答えが出てくるでしょう。むしろ重要な問いは気持ちではなく、なぜ、泣かないという言動を取ったのか、という「行為の理由」です。温泉に入るとどんな気持ちかと問えば「ゆったりした」「気持ち良かった」という答えになりますが、なぜ温泉に入るのかと問えば「日々の仕事が大変だから」「現実世界から離れたいから」「自然が好きだから」等という答えになります。すなわちそれは「過去や経緯についての探求」「人生に対する問い」なのです。
勿論、架空の話でもいいのです。そういう事実が存在したと仮定した上で推察します。資料の情報量はとにかく不足しているわけですが、だからこそ多くの部分は、子どもが推察して補わなければならないのです。先生は補うことを求めるのです。主人公がなぜその行為をしたのか。彼はどんな人生を送ってきたのか。推察というのは、一見すると勝手気ままな空論のように見えるのですが、その推察の中に子どもの生活経験や子どもの本音が出てきます。いわば、子どもは自分の人生経験を手掛かりにしながら推察を深めていくのです。当然ながら、経験が豊富な子とそうでない子とでは言うことには違いが出てきます。大抵の場合、子どもの推察には限界があります。お母さんがなぜそういうことをしたのか。考えてもなかなか出てこないはずです。それゆえ授業に際しては、大人の回答が必要なのです。「こういう見方、考え方もある」ということを伝えるとよいと思います。可能であれば地域住民の方を招待して、その人に意見を述べてもらうとよいでしょう。
道徳授業で、子どもたちに主人公の行動の理由を推察させます。最初は「いまいち」だったかもしれませんが、しばらく繰り返していけば、少しずつ推察できるようになってくるでしょう。すなわち子どもは、道徳の授業を通して「推察力」「相手の人生を読み取る力」を形成していくと考えます。それは、目の前の断片的情報から、様々な背景や原因を推察する力です。それは推察であって事実に基づく確実な理解ではありません。しかし世の中の大半のことは、確実に把握することはできないままなのです。私たちは、他者の言動を見ただけで、その背景や理由を推察しながらかかわっていくのです。久しぶりに会った友達がとにかく無口だったという場合には、その理由を推察できるとよいのです。限られた狭い情報から、数多くの見方・考え方を読み取る力は、人生においてとても大切な力だと思います。
「道徳反省型」授業の次の段階です。第二は、価値について考えるということです。読み物資料を通して様々な人生のあり方を議論していくと、そこにいくつかの「価値」が含まれているのが分かります。例えば「あの人は誠実だ」「そういうことをするのは誠実ではない」といったように、私たちは日常用語として価値を使っています。「あの人は礼儀正しい」「あの人はとても親切だ」等、人を評価したり、褒めたりする際には「価値」が浮かび上がってきます。
ところが資料の中で描かれているのは、「価値」そのものというよりもむしろ、「価値には到達できない自己」「価値に到達しようともがき苦しむ人間の姿」であることも少なくありません。誠実に生きていきたいと思いながらも、誠実に振る舞えないこともあります。節度や節制が大切だということは分かるのですが、実際にはそんなにうまくいきません。スッキリしないかもしれませんが、人間というのはそういうものです。例えば小学校低学年の子どもが「挨拶の大切さ」を理解し、近所の方々に元気よく挨拶する、なんて姿はよく見かけます。挨拶という価値に着目するならば、あの頃が最も「価値」に近いのです。しかし成長するにつれて迷ってきます。誰にでも挨拶すればよいというものではなく、挨拶の場面、その人との距離の取り方や、挨拶の仕方、自分の状況など、様々なことを考えながら接することになります。結局、挨拶はあまりしなくなるのです。「価値」から離れていくかもしれないのですが、それでよいのです。「挨拶が大切」等と簡単には言えないことが分かるのです。結局のところ、その複雑な形をよく分析するとよいのです。「挨拶というのが私たち人間にとってどんな意味があるのか」について様々な状況や場面を想定しながら考察することが重要なのです。
授業の中で、先生は「挨拶って何だろうね」「思いやりというのはどういうことを指すのだろう」と問いかけてみるとよい。授業の中で子どもたちは、その価値の意味について考え、「価値分析力」「価値を手掛かりに人間のあり方を考える力」のようなものを形成していくと思われます。その力とは、いわば耳触りのよい言葉を聞いた時に、ただちに引き込まれるのではなく、立ち止まって、人間の生き方とはどういうものだったのかと考える力です。理想には到達しないと開き直ったり、理想を諦めたりするわけではありません。少しずつより良い方向へ進もうとする人間をあたたかく見つめたり、支えたり、応援したりする力なのです。目の前にいる人間、そして自分自身も、出来る範囲で、苦しみながらも、より良い人間になろうと努力するのです。そんな人間の姿を見つめる力は、とても大切だと思うのです。
第一に、人物の行動の理由を推察することです。道徳授業では1時間の間に短い文章を読んで、文章以外のことがらについて推察します。国語の場合は、文章から読み取れる部分に限定されます。しかし道徳の場合、文章から読み取れないことであっても勝手な推察を膨らませて良いのです。例えば「うさぎが転んだけど泣かなかった」という説話文から、なぜうさぎが泣かなかったのかという点について推察を膨らませていくのです。泣くとバカにされるので我慢した、いつものことで慣れていた、強い人間になると決心した、等の様々な理由が考えられます。どんな心境か。気持ちを問うならば、痛かった、恥ずかしかったという答えが出てくるでしょう。むしろ重要な問いは気持ちではなく、なぜ、泣かないという言動を取ったのか、という「行為の理由」です。温泉に入るとどんな気持ちかと問えば「ゆったりした」「気持ち良かった」という答えになりますが、なぜ温泉に入るのかと問えば「日々の仕事が大変だから」「現実世界から離れたいから」「自然が好きだから」等という答えになります。すなわちそれは「過去や経緯についての探求」「人生に対する問い」なのです。
勿論、架空の話でもいいのです。そういう事実が存在したと仮定した上で推察します。資料の情報量はとにかく不足しているわけですが、だからこそ多くの部分は、子どもが推察して補わなければならないのです。先生は補うことを求めるのです。主人公がなぜその行為をしたのか。彼はどんな人生を送ってきたのか。推察というのは、一見すると勝手気ままな空論のように見えるのですが、その推察の中に子どもの生活経験や子どもの本音が出てきます。いわば、子どもは自分の人生経験を手掛かりにしながら推察を深めていくのです。当然ながら、経験が豊富な子とそうでない子とでは言うことには違いが出てきます。大抵の場合、子どもの推察には限界があります。お母さんがなぜそういうことをしたのか。考えてもなかなか出てこないはずです。それゆえ授業に際しては、大人の回答が必要なのです。「こういう見方、考え方もある」ということを伝えるとよいと思います。可能であれば地域住民の方を招待して、その人に意見を述べてもらうとよいでしょう。
道徳授業で、子どもたちに主人公の行動の理由を推察させます。最初は「いまいち」だったかもしれませんが、しばらく繰り返していけば、少しずつ推察できるようになってくるでしょう。すなわち子どもは、道徳の授業を通して「推察力」「相手の人生を読み取る力」を形成していくと考えます。それは、目の前の断片的情報から、様々な背景や原因を推察する力です。それは推察であって事実に基づく確実な理解ではありません。しかし世の中の大半のことは、確実に把握することはできないままなのです。私たちは、他者の言動を見ただけで、その背景や理由を推察しながらかかわっていくのです。久しぶりに会った友達がとにかく無口だったという場合には、その理由を推察できるとよいのです。限られた狭い情報から、数多くの見方・考え方を読み取る力は、人生においてとても大切な力だと思います。
「道徳反省型」授業の次の段階です。第二は、価値について考えるということです。読み物資料を通して様々な人生のあり方を議論していくと、そこにいくつかの「価値」が含まれているのが分かります。例えば「あの人は誠実だ」「そういうことをするのは誠実ではない」といったように、私たちは日常用語として価値を使っています。「あの人は礼儀正しい」「あの人はとても親切だ」等、人を評価したり、褒めたりする際には「価値」が浮かび上がってきます。
ところが資料の中で描かれているのは、「価値」そのものというよりもむしろ、「価値には到達できない自己」「価値に到達しようともがき苦しむ人間の姿」であることも少なくありません。誠実に生きていきたいと思いながらも、誠実に振る舞えないこともあります。節度や節制が大切だということは分かるのですが、実際にはそんなにうまくいきません。スッキリしないかもしれませんが、人間というのはそういうものです。例えば小学校低学年の子どもが「挨拶の大切さ」を理解し、近所の方々に元気よく挨拶する、なんて姿はよく見かけます。挨拶という価値に着目するならば、あの頃が最も「価値」に近いのです。しかし成長するにつれて迷ってきます。誰にでも挨拶すればよいというものではなく、挨拶の場面、その人との距離の取り方や、挨拶の仕方、自分の状況など、様々なことを考えながら接することになります。結局、挨拶はあまりしなくなるのです。「価値」から離れていくかもしれないのですが、それでよいのです。「挨拶が大切」等と簡単には言えないことが分かるのです。結局のところ、その複雑な形をよく分析するとよいのです。「挨拶というのが私たち人間にとってどんな意味があるのか」について様々な状況や場面を想定しながら考察することが重要なのです。
授業の中で、先生は「挨拶って何だろうね」「思いやりというのはどういうことを指すのだろう」と問いかけてみるとよい。授業の中で子どもたちは、その価値の意味について考え、「価値分析力」「価値を手掛かりに人間のあり方を考える力」のようなものを形成していくと思われます。その力とは、いわば耳触りのよい言葉を聞いた時に、ただちに引き込まれるのではなく、立ち止まって、人間の生き方とはどういうものだったのかと考える力です。理想には到達しないと開き直ったり、理想を諦めたりするわけではありません。少しずつより良い方向へ進もうとする人間をあたたかく見つめたり、支えたり、応援したりする力なのです。目の前にいる人間、そして自分自身も、出来る範囲で、苦しみながらも、より良い人間になろうと努力するのです。そんな人間の姿を見つめる力は、とても大切だと思うのです。