「ひさの星」
(東京書籍『新しい道徳5』道徳教科書)

〔読み物資料のあらすじ〕昔話です。秋田の田舎に、ひさという10才程の女の子がいました。自分よりも小さい子どもを助けて犬にかまれるような子でした。雨風が強く、川の水かさが増していたある日、3才の子「政吉」が泣いていました。ひさは川に転落した政吉を助けて、自らは命を落としたのです。ひさは見つかりませんでした。その夜に雨がやみ、東の空に青白い星が見えました。みんなはそれをひさの星と呼ぶようになりました。

 さて、文体が方言ですので、なかなかスラスラと読めないところではあります。ひさという子はどういう子でしょうか。みんなで集まっていると、一番うしろからついてきて、そっとうしろにすわるような子、とあります。子どもたちの中では控え目で、大人しいような子なのですが、かといって孤独というわけでもなさそうです。全体のことをよく見ていて、むしろみんなのことを心配してばかりいるようなそんな位置だと言えます。どうしてそんな子になってしまったのでしょうか。いろいろと推察します。おそらく他の子どもたちがあまりにも明るく元気で激しいので、どんどん後ろの方にまわってしまったのでしょう。しかしながら一人になって放浪するようなことはなく、しっかりみんなについていく。みんなのことが好きなのか、みんなと一緒にいたいと思っているか、離れるわけではないのです。そして彼女なりのその場所で、自分なりに何かをしたい、何かするべきだといった思いを膨らませていったのではないかと考えられます。
 小さな子どもを助けて犬にかまれるという事件がありました。私たちの感覚では、子どもが犬に噛まれたら「大丈夫か?」「痛かったね」などと優しい言葉をかけるものです。しかしここでは母親は、犬にかかわったからだ、といった冷たい言葉をかけています。なぜでしょうね。勿論、言葉はきついのですが、本当は心配で仕方ないのでしょう。おそらくひさという子は、目立つことはしないのですが、みんなについていき、そして怪我をする、という子だったのです。それが仲間のために自己犠牲をしているということが分かったとしても、それに対して「あなたは素晴らしいね」等とは言わないのです。他の家の大人たちが、ひさのことを褒めたとしても、肝心の母親は、つんとして、そんなことする必要ない、という言い方なのでしょう。自己犠牲なんてしなくていい。自分の身を自分で守ればいい、そんな思いもあるはずです。要するに母親からすればひさは出来た子すぎて困るということなのかもしれません。
 そんなことが何度もあったのだと思われます。洪水の夜に事件が起きます。それは3才の政吉がホタルをとろうとして川に落ちてしまったところ、ひさがその子を助けたようなのです。助けることはできたのですが、川の水があまりにも激しく、今度はひさが流されてしまったのです。そのまま行方が分からないのです。
 さてこの文章ではそれを時系列ではなく、政吉の父親の視点から描かれています。最初はひさが政吉を川に落したのだと勘違いしたのです。それはなぜでしょうか。ひさが周囲のために自己犠牲するような子であるにもかかわらず、そのことが広く認知されていないということなのです。あるいはみんな自分の子の命のことをばかり考えていて、他の子のことにそれほど関心がない、ということだったのかもしれません。おとなしくて控えめだったひさのことです。周囲の大人はちょっと何を考えているか分からないような変わった子というふうに理解していたのかもしれません。3才政吉の父親は勘違いしたまま、ひさの母親に苦情を言います。そしてひさの母親は事実確認をしないまま、謝ってしまうのです。母親の人間性が分かったようにも思えます。ひさが自己犠牲してしまうのと同じように、母親もまた自己犠牲してしまうようなところがあったのです。母親は自分とそっくりなひさに対して、おまえはそんな生き方しなくていい、ということをいつも思っていたのかもしれません。
 さて、ひさは結局見つかりませんでした。どこかで命を落としたということでしょう。その日から雨はやみ、東の空に白い星を見つけました。人々はそれをひさの星と呼ぶようになりました。村の人々はその星を見るたびに「ああ、今夜もひさの星が出てる」と言い合ったといいます。この話を聞いて、どんなことを思うでしょうか。社会学者のパオロ・マッツァリーノ氏は「もっとも不快」として、「悲惨な話を美談に仕立て上げてるのがムカツキます」と述べています。(『みんなの道徳解体新書』ちくまプリマー新書、2016年、第6章)私はこれについて反論したいと思います。この話が創作であっても問題はありません。それを事実だと思って議論し、解釈を深めていくことに意味はあると思います。なぜ村人たちは、白い星を「ひさの星」と呼んだのか。その心境を考えてみましょう。
 まずは、これは悲劇、悲惨な話なのです。とにかく心から悲しい話なのです。自分よりも弱い子を助けてそれで自分の命を失うのです。それがまだ中年ならばまだしも、まだ10才です。そんな小さい子が誰かの犠牲になったと思うと胸が張り裂ける程の悲しい話です。それは大前提としてとらえましょう。そういう悲しい話は最近の地震や台風被害でも見られたはずなのです。
 ひさはどんなふうに思っていたのでしょうか。ひさは、自分の幸せな人生を生きたいと思っていたはずです。ひさは自己犠牲を欲していたのではなく、みんなと仲良く暮らしていきたかったのです。自分が死んでも構わないという明確な意思があったとは思えません。おそらく必死で政吉を助け、そして必死で生きようとした。
 そしてどこを探しても見つからない。何度探しても見つからない。そんな時、村人たちはどんなふうに思ったのでしょうか。それまでひさのことを悪者扱いしたり、変わった子扱いしていたような大人たちも深く反省したはずです。もし見つかってひさが助かったのならば、その時はちゃんと褒めてあげようと思ったはずなのです。そうした思いにもかかわらず、ひさが出てこないのです。本文にはありませんが、母親は大泣きしたと思われます。おそらくは、みんなが集まって見つからなかったと確認する時があったはずです。みんなが下を向いて悲しんでいる状況です。絶望的で誰も何も言えないようなそんな場面です。そんな時にたまたま星が輝いていたのです。星になったんじゃないか、と思いたくなるその心境は分かります。死んだ人間が星になるはずはありませんが、重要なことは思いです。死んだというその時に、輝いていたその星なのだから、何かの縁があるのではないかということなのです。物理的な現実的な世界を越えた「何か大きなもの」を感じたくなるはずなのです。その気持ちは分かります。祈りたくなる心境なのです。村人たちのその心境は確かなものだと思うのです。星になったというのは村人たちの願いなのです。決してこの話を美談にして喜びたいということではないし、次の世代の若者に同じことを要求するものではありません。自己犠牲がゆえに亡くなりましたという話を聞いて、わーすごい、かっこいい等という子を育てるべきではありません。そんな話ではありません。村人たちがどうしようもないような深い悲しい気持ちに打ちひしがれている中で、せめて何か気持ちだけでも捧げよう。あの美しい星をひさだと思うようにして、どうか何度もみんなでひさのことを思うようにしよう、ひさのような子どもの思いのようなものを大切にするようにしよう、そんな決意のような話なのです。とにかく悲しく苦しい話なのです。これのどこが美談ですか?