最近このような議論が増えてきたように思えます。道徳教育は不要であり、その代わりに哲学教育が重要だという議論です。苫野一徳、永井均、河野哲也らの研究が代表的です。小川仁志氏もまたこのスタンスで道徳教育について議論しています。ここでは小川氏の著書『「道徳」を疑え!』(NHK出版新書、2013年)を取り上げてみます。小川氏は本書の中で道徳授業を批判します。学習指導要領を見ても模範解答ばかり。実際の授業を見ても、教師が一方的に話をし、子どもたちにはひたすら書き取りをさせる、そんな授業になってしまっている。道徳授業は主体性を養うものになっていないということ、「価値観を詰め込むだけのつまらない科目」だとして厳しく批判します。小川氏によれば道徳とは心の問題ではなく、「社会を生きる自分が、何を正しいものとして生きていくかを考えるための学問」です。それゆえシティズンシップ教育として行われるべきだと小川氏は考えます。(第1章)
小川氏がとらえる点は確かに一面では当たっていると思います。学校の先生の全てが道徳授業が上手いわけではありません。教科書を読んで指示を出してそれで終わってしまうということもあるでしょう。しかしながら今の道徳教育の制度的枠組みそのものが問題であってその全てを捨て去り、全く違う哲学教育を実施すればよいという点については、十分な検討が必要だと思います。(道徳教育の専門家たちは、なぜ哲学教育について反論しないのでしょうね。あんなことを言われて平気なのでしょうか?無視しているだけなのでしょうか?)私は、これまで議論してきたように現行制度の中で十分に意義ある授業を展開できると思います。課題はありますが、それでもなお道徳教育が重要だと思います。この立場から小川氏の議論を検討してみたいと思います。本書の全てを議論するのは難しいのでここでは第三章に限定して議論します。
小川氏が考える点は「嘘をついてはいけない」という原理についてです。小川氏は問いかけます。それが正しいのはなぜか、と。「嘘をつくことは絶対にいけないという合理的な理由があるのでしょうか」と問います。その答えを誰も考えようとしない。私たちの日常生活では嘘をつくことは少なくありません。上司に飲み会に誘われた際には嘘の理由をつけて断ることもあります。そして小川氏は「『嘘はいけない』という答えを安易に肯定するべきではないでしょう。これまで何度も述べてきたように、たとえそれが当たり前とされていることであっても、思考停止に陥ることなく、疑ってかかることが道徳にとって重要なことなのですから」と述べます。そしてここから西洋哲学の歴史を概観していくのです。リバタリアニズムのような立場をとるのであれば、嘘をつこうが何をしようが本人の自由だ、ということになります。嘘はいけない、というのはその社会や時代においてそういっているのであってそれは絶対的な価値ではない。小川はカントやサンデルを引用しながら様々な議論を展開しています。最後には「自分という存在は、自由を行使したり、正義について判断したりできる力をもっているものの、それはあくまで社会や国家あるいは神といった、何らかの制約のなかでのみ道徳的に許容されるものであることが明らかになってきます」と言います。
さていかがでしょうか。正直なところ、なんだかよく分からない批判だなあという印象です。私たちの日常生活の中で嘘をついてはいけない、誠実であることが美徳であるというのは当たり前のことです。勿論、様々な場面で嘘をつくこともありますし、迷うこともあります。私たちは「嘘はよくない」という価値を頭の上の方に抱きながら、現実生活では様々な嘘をつきながら生きています。そして時には理想の自分が勝利してダメな自分を叱咤激励することもあれば、時には嘘をつくことを正当化して、現実を優先させることもあります。実際のところ自分は何も悪くないのに、「私が間違えておりました」と謝罪する、なんてのは仕事の上ではいくらでもあります。本当は寝坊したのだけれどもそんなことは言えないので「体調が悪くて遅刻しました」と答えるのです。本当は苦しいのだけれども小さい子どもが心配するといけないから「パパは大丈夫だよ」と嘘をつくのです。そうした嘘事例はいくらでもあります。だからといって嘘はいけないという原理が無意味というわけではありません。嘘はいけないという原理は、どこから遠くの方で光り輝いている価値です。直観的なものなのかもしれません。理由はよく分かりませんが、とにかく輝いている原理なのです。その原理は遠いところにあって、私たちの個々の人生はもっと低い位置にあるのです。原理と生活との間にはかなりの距離があります。原理だけで生活の全て決めるわけではありません。生活の上で嘘が多いからといって原理そのものが否定されているわけではありません。私たちの人生はいっそう複雑です。その複雑な部分について考えを深めていくのが道徳授業だと思うのです。
おそらく哲学のセンセイは、光り輝いているその価値が、実は輝いていないよということが言いたいのでしょう。しかしそれは他のことに比べればどうでもいいことなのです。哲学のセンセイからすれば私たちは原理を疑っていないから思考停止だ、ということになります。しかし私たちの生活においては考えるべきことが山のようにあるのです。原理を疑うという作業は頭をひねって考えるという知的訓練になることは間違いありませんが、そこでの議論と日常生活とは次元が異なるのです。静かな場所で暇な時間に哲学書を読むということには意味はありますが、かといってそれが私たちの人生を変革するものだとは思えません。
小さい子どもが嘘をつくことがあります。母親が「玩具片付けた?」と聞くと子どもが「うん、片付けたよ」と言います。行ってみると片付けていません。「どうしてそんな嘘をつくの?」と問いただしたくなります。子どもは自分の利益を最優先にするために嘘をつくという実験をしているのです。自分の知性で大人たちを騙せるかどうかを試しているのです。それが成功すれば次からも嘘をつき続けることでしょう。そんな時には「そんなバレバレの嘘をつくな」と叱責するしかありません。こんなやりとりをしているところに顔を出し、「嘘をついていけないというのは、絶対的で普遍的な原理ではありませんよ」と言ったところでどうなるでしょう。そもそもそんな学問は、母親にとってはどうでもいいことなのです。重要なことは母親と子どもというその場面において何が起きているのか、どのように関係を構築していくかという問題であって、原理を疑うことではないのです。そして生きた場面について深く考察するのが道徳授業だと思うのです。
私が大切だと思うのは、個々のその場面においてどのように生きるべきかという倫理的かつ実践的な課題なのです。嘘は良くない(誠実であれ)というのは私たちの人生を方向付けるような価値の一つですが、それは遠くに輝いているだけであって、私たちの生活全てを方向付けるわけではないのです。生活の中で「今は誠実が大切だ」と思ったり、「今は嘘をつくことが大切だ」と思ったりするのです。その微妙な作法が重要な課題なのです。他にも無数の価値があります。思いやりが大切だとか、生命が大切だとか、自然環境が大切だとか、節度節制が大切だとか。価値そのものそれを疑ってみたところで何が得られるのでしょうか。その文化や秩序は変わるわけではありません。私たちの日常生活の苦悩はそのままです。そうした価値そのものを疑っても、もしその結果その価値が軽いものだったとしても、それでも私たちの日常生活の中に一定の重みとして成立しているのは確かなのです。
小川氏らが重視しているのはそうではなく、価値そのものを疑い、いっそう普遍的な学問という形で位置づけるということなのです。疑って、疑って、もう誰にも疑えないその地点というものを探しているのです。私たちの日常生活は分からないことだらけなので、確かな部分を探して、歴史とか環境といったところに目を向けていく。その結果、よく分かりませんという答えを出していく。分からないことが分かった、ということでしょうか。それは学問的です。その作業は、おそらくは法律や制度を制定するための根拠の部分として重要になってきます。国家や社会のあり方を議論する際には重要になってきます。しかし道徳授業という大切な時間をつぶしてまで実施するものではありません。
小川氏がとらえる点は確かに一面では当たっていると思います。学校の先生の全てが道徳授業が上手いわけではありません。教科書を読んで指示を出してそれで終わってしまうということもあるでしょう。しかしながら今の道徳教育の制度的枠組みそのものが問題であってその全てを捨て去り、全く違う哲学教育を実施すればよいという点については、十分な検討が必要だと思います。(道徳教育の専門家たちは、なぜ哲学教育について反論しないのでしょうね。あんなことを言われて平気なのでしょうか?無視しているだけなのでしょうか?)私は、これまで議論してきたように現行制度の中で十分に意義ある授業を展開できると思います。課題はありますが、それでもなお道徳教育が重要だと思います。この立場から小川氏の議論を検討してみたいと思います。本書の全てを議論するのは難しいのでここでは第三章に限定して議論します。
小川氏が考える点は「嘘をついてはいけない」という原理についてです。小川氏は問いかけます。それが正しいのはなぜか、と。「嘘をつくことは絶対にいけないという合理的な理由があるのでしょうか」と問います。その答えを誰も考えようとしない。私たちの日常生活では嘘をつくことは少なくありません。上司に飲み会に誘われた際には嘘の理由をつけて断ることもあります。そして小川氏は「『嘘はいけない』という答えを安易に肯定するべきではないでしょう。これまで何度も述べてきたように、たとえそれが当たり前とされていることであっても、思考停止に陥ることなく、疑ってかかることが道徳にとって重要なことなのですから」と述べます。そしてここから西洋哲学の歴史を概観していくのです。リバタリアニズムのような立場をとるのであれば、嘘をつこうが何をしようが本人の自由だ、ということになります。嘘はいけない、というのはその社会や時代においてそういっているのであってそれは絶対的な価値ではない。小川はカントやサンデルを引用しながら様々な議論を展開しています。最後には「自分という存在は、自由を行使したり、正義について判断したりできる力をもっているものの、それはあくまで社会や国家あるいは神といった、何らかの制約のなかでのみ道徳的に許容されるものであることが明らかになってきます」と言います。
さていかがでしょうか。正直なところ、なんだかよく分からない批判だなあという印象です。私たちの日常生活の中で嘘をついてはいけない、誠実であることが美徳であるというのは当たり前のことです。勿論、様々な場面で嘘をつくこともありますし、迷うこともあります。私たちは「嘘はよくない」という価値を頭の上の方に抱きながら、現実生活では様々な嘘をつきながら生きています。そして時には理想の自分が勝利してダメな自分を叱咤激励することもあれば、時には嘘をつくことを正当化して、現実を優先させることもあります。実際のところ自分は何も悪くないのに、「私が間違えておりました」と謝罪する、なんてのは仕事の上ではいくらでもあります。本当は寝坊したのだけれどもそんなことは言えないので「体調が悪くて遅刻しました」と答えるのです。本当は苦しいのだけれども小さい子どもが心配するといけないから「パパは大丈夫だよ」と嘘をつくのです。そうした嘘事例はいくらでもあります。だからといって嘘はいけないという原理が無意味というわけではありません。嘘はいけないという原理は、どこから遠くの方で光り輝いている価値です。直観的なものなのかもしれません。理由はよく分かりませんが、とにかく輝いている原理なのです。その原理は遠いところにあって、私たちの個々の人生はもっと低い位置にあるのです。原理と生活との間にはかなりの距離があります。原理だけで生活の全て決めるわけではありません。生活の上で嘘が多いからといって原理そのものが否定されているわけではありません。私たちの人生はいっそう複雑です。その複雑な部分について考えを深めていくのが道徳授業だと思うのです。
おそらく哲学のセンセイは、光り輝いているその価値が、実は輝いていないよということが言いたいのでしょう。しかしそれは他のことに比べればどうでもいいことなのです。哲学のセンセイからすれば私たちは原理を疑っていないから思考停止だ、ということになります。しかし私たちの生活においては考えるべきことが山のようにあるのです。原理を疑うという作業は頭をひねって考えるという知的訓練になることは間違いありませんが、そこでの議論と日常生活とは次元が異なるのです。静かな場所で暇な時間に哲学書を読むということには意味はありますが、かといってそれが私たちの人生を変革するものだとは思えません。
小さい子どもが嘘をつくことがあります。母親が「玩具片付けた?」と聞くと子どもが「うん、片付けたよ」と言います。行ってみると片付けていません。「どうしてそんな嘘をつくの?」と問いただしたくなります。子どもは自分の利益を最優先にするために嘘をつくという実験をしているのです。自分の知性で大人たちを騙せるかどうかを試しているのです。それが成功すれば次からも嘘をつき続けることでしょう。そんな時には「そんなバレバレの嘘をつくな」と叱責するしかありません。こんなやりとりをしているところに顔を出し、「嘘をついていけないというのは、絶対的で普遍的な原理ではありませんよ」と言ったところでどうなるでしょう。そもそもそんな学問は、母親にとってはどうでもいいことなのです。重要なことは母親と子どもというその場面において何が起きているのか、どのように関係を構築していくかという問題であって、原理を疑うことではないのです。そして生きた場面について深く考察するのが道徳授業だと思うのです。
私が大切だと思うのは、個々のその場面においてどのように生きるべきかという倫理的かつ実践的な課題なのです。嘘は良くない(誠実であれ)というのは私たちの人生を方向付けるような価値の一つですが、それは遠くに輝いているだけであって、私たちの生活全てを方向付けるわけではないのです。生活の中で「今は誠実が大切だ」と思ったり、「今は嘘をつくことが大切だ」と思ったりするのです。その微妙な作法が重要な課題なのです。他にも無数の価値があります。思いやりが大切だとか、生命が大切だとか、自然環境が大切だとか、節度節制が大切だとか。価値そのものそれを疑ってみたところで何が得られるのでしょうか。その文化や秩序は変わるわけではありません。私たちの日常生活の苦悩はそのままです。そうした価値そのものを疑っても、もしその結果その価値が軽いものだったとしても、それでも私たちの日常生活の中に一定の重みとして成立しているのは確かなのです。
小川氏らが重視しているのはそうではなく、価値そのものを疑い、いっそう普遍的な学問という形で位置づけるということなのです。疑って、疑って、もう誰にも疑えないその地点というものを探しているのです。私たちの日常生活は分からないことだらけなので、確かな部分を探して、歴史とか環境といったところに目を向けていく。その結果、よく分かりませんという答えを出していく。分からないことが分かった、ということでしょうか。それは学問的です。その作業は、おそらくは法律や制度を制定するための根拠の部分として重要になってきます。国家や社会のあり方を議論する際には重要になってきます。しかし道徳授業という大切な時間をつぶしてまで実施するものではありません。