「みんなの『いこいの広場』」
 (作:編集委員会、絵:上田英津子『小5 きみがいちばんひかるとき』光村図書)

 〔読み物資料のあらすじ〕主人公ぼくの住むマンションの入り口に広場があります。そこへ行くとおじさんがベンチで読書、ぼくは弟と玩具で遊んでいました。そこに中学生が二人(浩二と良太)やってきて、スケートボードの練習を始めたのです。危ないから他の場所でやってくれとおじさんが声をかけたのですが、中学生(浩二)はフォームを見ながら軽く滑っているだけだと言います。おじさんは危ないといい、中学生はちゃんと気をつけているといい、うまく話がまとまりません。しばらくすると良太が、他の場所に移動しようよと提案し、移動することになったのです。

 まずは背景や経緯について考えてみましょう。おじさんはなぜ、その広場で本を読んでいたのでしょうか。推察するに、日曜日でゆったりと過ごしたかったのですが、自宅には他の家族が何かをしていて落ち着けない。かといって図書館にいくほどの時間はないし、半分くらいは時間つぶしといったところでしょうか。あるいは、もともとこの広場でよく読書をしていて、お気に入りの空間だったのかもしれません。人には落ち着く場所というのがあります。自宅の自室の方が落ち着くという人もいれば、喫茶店や図書館が落ち着くという人もいます。その人にとってその広場は大切な空間なのです。
 主人公のぼくと弟は、どうでしょうか。おそらくは、弟がまだ小さくて、部屋の中では動いてしまうので、もう少し広い空間で遊びたそうだった。挿絵には、ラジコンカーのようなものが描かれています。少し広い場所で動かしてみたかったのかもしれません。弟思いの、やさしいお兄さんなのでしょうね。主人公たちは、あまりマンションから離れるわけにはいきません。小さい子どもの場合は、様々危険性もありますので、出来るだけ自宅の近くがいいのです。しかも同じマンションの住人がそこにいて、なんとなく目が届くような空間であれば、安心なのです。
 そこまで考えた上で、スケートボードの中学生です。彼らは、どんな理由でそこに来たのでしょうか。おそらく推察するに、浩二の自宅がこのマンション内にあるのです。良太はこのマンションの住人ではありません。浩二のもとに遊んできて、それこそ、フォームはどうだったのかといった議論をしたのでしょう。そして自宅では出来ない動作を、それこそ少しだけ(例えばくるっとターンをするといったような)動いてみようと考えたのです。浩二からすれば、この場所は自分たちのマンションの住人のための場所です。ふだんは滅多にこの広場には来ないのかもしれません。彼にとってはたんなる空きスペースということになるのでしょうか。あるいは、ほかにもいろんな人がいるということですから、見られるという若干の緊張感もあるので、ちょうどいいと考えたのでしょう。推察ですが、浩二の頭の中には「その辺の子どもがカッコイイと言ってくれるかも…」という気持ちもあったと思います。それでおそらく、少しカッコつけて、滑っていたのでしょう。そんなことだから、しだいにすべり方がエスカレートしていくのです。どうだい、僕の滑り方、かっこいいだろ?と言いたい気持ちもあるのです。
 話では、心配するおじさんと、気をつけているから大丈夫だよという中学生の言い合いになっています。この議論において、どちらが妥当か、どちらが説得的かということについてはここでは議論が出来ません。その議論をするためには、現場の様子を見て、客観的な観点から、どの程度危険かということを実地調査しなければなりません。私は、この議論を合理的に判断したり、解決させたりということには関心がありません。それは大切な議論かもしれませんが、道徳的な議論ではないからです。
 おじさんが中学生たちを注意しようとしたのは、なぜでしょうか。勿論、危険だったということなのでしょう。わりと心配性だったのかもしれません。ただそれ以上に、中学生たちがどうも自分の技を自慢しているように見えたのだと思います。夢中になっているその姿を見て、しだいに動きがエスカレートしていくのではないかと感じたのです。現時点ではまだ大丈夫なのですが、その中学生たちの姿勢を見て、何か危険な雰囲気を感じたのだと思います。また、この空間がマンションの住人のためのスペースだという点も重要です。公園であれば、もっと多くの人がかかわってくるわけですから、ひょっとしたらそこでのルールはまた別に存在するかもしれません。しかしこのマンションの住人という、わりと狭い範囲のスペースなのです。公共空間とは言い難いような、私有地の話なのです。ですから、おじさんは、「自分たちの空間だ」という思いを抱いているのです。おじさんにとってのこの空間とは、静かな空間なのです。スケートボードの危険性があるかないかということよりも、彼らが、いつもの静かな雰囲気を壊してしまっているという思いが強かったと思います。
 中学生(浩二)は、なぜただちに止めなかったのでしょうか。おじさんに対する怒りや不満といったものは、文脈からは感じられませんが、ひょっとしたら、そういう反発心もあるかもしれません。最も大きいのは、現時点では子どもにも、おじさんにも物理的には危害を加えていないという理由でしょう。こんなにスペースがあって、自分たちの今の動きであれば、まるで衝突する危険はない。しかも、衝突しないように自分なりには気をつかってきているのです。自分のスケートボードの扱い方には自信があるのです。おじさんが危ないと言えば、まるで下手だと言われているような気にさえなります。少しむきになって、大丈夫ですと強く主張したのは、そういう技術的な自信があったのだと思います。
 話の中では、良太が別の場所に移動するように勧めていきます。それはなぜでしょうか。良太はこのマンションの住人ではないので、全てが迷惑をかけてしまったという思いをいだいているのかもしれません。また、こんな議論をしながらもなおスケートボードは楽しめないと思ったのでしょう。良太の知る場所でもう少し広いスペースがあるから、そこへ行こうと考えたのでしょう。浩二もまた、半ば議論に疲れてきているところで、良太に勧められたのですから、それ以上、反発することもなく、移動できたのです。
 なぜ、この空間でお互いの意見がかみ合わないのでしょうか。公園ではないのですが、ある程度の公共的な空間であることには間違いありません。お互いに譲り合えばよいというほど単純なものではありません。自分の周囲2メートル四方が確保されていればよいというものでも、その範囲の外側はどのようになっていても文句を言わないということでもありません。みんなで一つの空間を共有するのです。当然、その空間のあり方についての理想やイメージが異なっているのです。人々によって、公共的なその空間に求めているものが違うのです。
 読み物資料には「迷惑をかけずに行動することについて、みんなで考えてみましょう」とあります。この発問は適切でしょうか? 私は公共的な空間においては、なんらかの形で迷惑をかけるものだと思うのです。今回の場合は、スケートボードの中学生が迷惑をかけたというふうに見えるかもしれませんが、実際には具体的な危害は一切与えていないのです。心配や不快感ということを迷惑だとするならば、中学生に限ったことではありません。よく考えれば、小さな子どもがきゃっきゃっ遊んでいれば、それを喜ぶ人もいれば、不快に思う人もいます。ラジコンだって、人によっては乱暴な道具です。みんなで楽しく過ごすこのスペースで、難しい本を読むなんて考えられないという意見の人もいることでしょう。迷惑をかけずに行動するということは、原理的には不可能ですし、そこを追求するべきでもないのです。迷惑をかけないためには、公共のスペースから離れるのがいいのです。
 私たちは公共のスペースということを、もっと柔軟に、考えるべきなのです。公共の空間とは何でしょうか。そこに多様な人々がかかわっているということです。例えば、今回、おじさんと中学生が会話をした、会話が出来たということは、まずもって素晴らしいことです。注意したのだけれども、ケンカになることもなく、最後はまとまっているのです。中学生も、決してみんなを無視しているわけでもありません。公共のスペースとは、人々の願望や理想が衝突する空間なのです。そういうものなのです。衝突や迷惑が起こらないように、人間関係を切り離すのではなく、衝突や迷惑を乗り越える方法を考えるべきなのです。
 さて、ここまで考えれば、問題なのは、おじさんと中学生の会話を聞いていながらも無視してしまった主人公ぼくの存在であるように思われるのです。ぼくは、当事者でありながら、会話にも参加せず、意見を言うこともなく、感謝することもなく、ただそこにいて、弟と玩具で遊んでいるのです。なぜ彼は黙っていたのでしょうか。彼はここで発言するべきだったのではないでしょうか。その玩具であっても、迷惑をかけてしまうことがあるはずです。迷惑をかけないことが重要なのではなく、迷惑をかけながらも、幸せに生きる方法を考えるべきなのです。スケートボードは、確かにマンションのスペースには似合いません。しかし追い出すだけではなく、追い出す際に「でも、よくそんなにきれいに使いこなせるね」等の一言があるとよいのです。これは合理的に政策的に結論を出すべきではなく、人々の間の意識や気持ちの共有の方が重要なのです。
 この資料から、読書や玩具遊びは迷惑にはならないけれども、スケートボードは迷惑であるという一般論を抽出するとすれば、それは表面的な結論であって、本質的な結論ではないと思います。最近は公園でボール遊びをしてはいけないとか、公園で子どもが遊んで叱られるなんて話も聞きます。「ひょっとしたら迷惑をかけているかもしれない」という過度な疑心ばかりが先行し、公共空間を人間味のない空虚な世界に変えてしまうような気がします。個々人の自由な行動範囲を保証しているように見えて、結果的には全員が住みにくい窮屈な世界を作り上げてしまっているように思えるのです。これは結論のない問題です。資料を読みながら自由とは何かについて深く議論してみたいものです。