「金のおの」
(イソップ童話より、『新しいどうとく 小2』東京書籍、道徳教科書)
〔あらすじ〕木こりがうっかり斧を湖に落としてしまう。現れた神は金の斧を見せてこれかと問うが、木こりは自分のではないと答える。銀の斧を見せるがそれも違うという。最後に使い古された鉄の斧を見せるときこりはそれだという。神は三つとも男にあげる。隣りに住む男が同じことをして金の斧をもらおうとするが、神は金の斧を渡さずに去って行く。
さて、このきこりは、おそらく貧しい生活をしていると思われます。きこりは誤って鉄斧を湖に落としてしまいました。思い切って振り上げた際に手から離れ、そのままぽちゃんと湖に落ちてしまったのでしょう。一本しかない大切な斧です。男は困ってしまいました。そこに神様が登場します。「かわいそうに」「私が探してあげよう」と語り掛けます。この神様はどんな神様でしょうか。おそらくキリスト教のような一神教ではなく、インドや日本のような多神教でしょう。山の神、湖を守る神といったところでしょうか。一定の人格を持ち、超能力のようなものを備えた存在だと思われます。
その神様は、金の斧を取り出して「これか」と問うのです。男は違うと言います。銀の斧を出しても、それは違うと言います。さて、この時の男の心境を推察してみましょう。金や銀で出来た斧をみるとびっくりするはずです。「こんなところにこんなものが落ちていたのだろうか」と思ったでしょう。金というのはそれほど固いわけではありません。斧としての使い道は全くないはずです。細かく砕いてそれを金として使用すれば、莫大な金額の価値になるはずです。もう働かなくて良いのです。その金の斧が欲しいと思うのが自然です。いや、そこまで深く考えていないのかもしれません。本文を読む限りでは「自分のではない」ということだけを説明しているようです。すげーなとは思ったでしょうが、それを自分のものだと偽って受け取ろうとは思わなかったと思います。ひょっとしたらもっと深いことまで考えたのかもしれません。金や銀の斧をもらおうと思ったのですが、何せあいては神様、特殊な能力を持っているはずです。罠かもしれません。ドッキリ企画番組かもしれません。そうでなくても他の誰かの所有物かもしれないのです。そのように警戒して判断したのかもしれないのです。
神様は次に使い古された鉄斧を持ってきます。きこりは「それが私の斧です」と答えます。神様は、男に三つの斧をあげてしまいました。さて、この神様の行為についてです。神様はなぜ金の斧、銀の斧、鉄の斧の三つをあげたのでしょうか。おそらくこの神様にとっては、これくらいの金や銀は簡単に用意できるようなレベルであり、その時の気分によってあげてしまってもよいようなものだったのでしょう。金や銀を欲しがる様子もなく、古い鉄斧が帰ってきたことを喜ぶようなそのきこりを見て、なんともいとおしいように思えたのだと思います。貧しい生活をしているきこりが可哀そうに思えてきたのかもしれません。私の解釈では、きこりの生き方や人柄を見て、そのきこりに惚れてしまったということだと思います。友人に食べ物をおごるというような感覚です。愛情のようなものです。
次に、その話を聞いて別の男がやってきます。彼は金の斧、銀の斧が欲しいという欲にあふれています。とはいえ私たちは彼を馬鹿にする資格はありません。誰だって1億円がもらえるチャンスと聞けば足を運ぶことでしょう。彼は鉄斧を落とし、神様が金の斧を持ってきた時点で「それは私のです」と言ってしまいました。これは先ほどのパターンとは異なります。金の斧は違う、銀の斧も違う、鉄斧は自分のものだと返答すれば、もらえるというパターンのはずです。なぜ彼はやり方を間違えてしまったのでしょうか。おそらく、あのきこりは詳しい話をしなかったのです。湖で神様がくれたという程度の話しかしていないのです。あるいは男がことの顛末を語ったとしても、彼はそれを正確に実行できなかった。金の斧を見た瞬間に、目がくらんでそれだと言ってしまったのです。
最も大切な議論です。神様が一人目の男に金銀を渡し、二人目の男に渡さなかったのはなでしょうか。これが道徳の授業である以上、誠実や正直といった価値で語ることが求められます。一人目は正直だった、二人目は正直ではなかった、という答えになります。しかし私はこの一般的な回答があまり好きではありません。この神様は真実の神様ではないと思うのです。明らかにこの神様はウソをついていました。「お前が落としたのはこの金の斧か」という質問はとても奇異です。自分が用意したはずですから、男が落としたはずがないのです。意図的に罠にかけてその男の反応をみている。イジワルなのです。男が正直者だったからそのご褒美として金銀をプレゼントした、というのではなく、男が正直者であり、かつ愛おしい存在だったから、その男のことが好きになって金銀をプレゼントした、ということだと思います。二人目の男は、ウソをついたからもらえなかったというよりは、金銀をもらうことしか考えないような魅力のない男だったから無視した、ということだと思います。
イソップ童話の人間臭い部分、温かい部分が、たんなるウソはダメという解釈になってしまうのはとても残念なことだと思います。確かに小学校低学年の子の中にはウソをつく子もいます。既にお菓子を一つ食べているのに、平気な顔をして「食べてないよ(だからちょうだい!)」等と言います。そういったウソを戒めるために、本教材を読んできかせたい。その気持ちは分かります。正直に生きていればいつかきっと神様が褒美をくれるからね、などと言ってしまいがちです。しかし私の解釈は少し違います。重要なことは「ウソはダメ」といった禁止条項の話ではなく、「ウソは人間を汚い姿に見せてしまう」ということです。とにかく金だけが欲しいのであって、それ以外のことは全く頭に入らないような姿は、とても下品に見えます。そうした他者の視点でとらえることが重要だと思います。
(イソップ童話より、『新しいどうとく 小2』東京書籍、道徳教科書)
〔あらすじ〕木こりがうっかり斧を湖に落としてしまう。現れた神は金の斧を見せてこれかと問うが、木こりは自分のではないと答える。銀の斧を見せるがそれも違うという。最後に使い古された鉄の斧を見せるときこりはそれだという。神は三つとも男にあげる。隣りに住む男が同じことをして金の斧をもらおうとするが、神は金の斧を渡さずに去って行く。
さて、このきこりは、おそらく貧しい生活をしていると思われます。きこりは誤って鉄斧を湖に落としてしまいました。思い切って振り上げた際に手から離れ、そのままぽちゃんと湖に落ちてしまったのでしょう。一本しかない大切な斧です。男は困ってしまいました。そこに神様が登場します。「かわいそうに」「私が探してあげよう」と語り掛けます。この神様はどんな神様でしょうか。おそらくキリスト教のような一神教ではなく、インドや日本のような多神教でしょう。山の神、湖を守る神といったところでしょうか。一定の人格を持ち、超能力のようなものを備えた存在だと思われます。
その神様は、金の斧を取り出して「これか」と問うのです。男は違うと言います。銀の斧を出しても、それは違うと言います。さて、この時の男の心境を推察してみましょう。金や銀で出来た斧をみるとびっくりするはずです。「こんなところにこんなものが落ちていたのだろうか」と思ったでしょう。金というのはそれほど固いわけではありません。斧としての使い道は全くないはずです。細かく砕いてそれを金として使用すれば、莫大な金額の価値になるはずです。もう働かなくて良いのです。その金の斧が欲しいと思うのが自然です。いや、そこまで深く考えていないのかもしれません。本文を読む限りでは「自分のではない」ということだけを説明しているようです。すげーなとは思ったでしょうが、それを自分のものだと偽って受け取ろうとは思わなかったと思います。ひょっとしたらもっと深いことまで考えたのかもしれません。金や銀の斧をもらおうと思ったのですが、何せあいては神様、特殊な能力を持っているはずです。罠かもしれません。ドッキリ企画番組かもしれません。そうでなくても他の誰かの所有物かもしれないのです。そのように警戒して判断したのかもしれないのです。
神様は次に使い古された鉄斧を持ってきます。きこりは「それが私の斧です」と答えます。神様は、男に三つの斧をあげてしまいました。さて、この神様の行為についてです。神様はなぜ金の斧、銀の斧、鉄の斧の三つをあげたのでしょうか。おそらくこの神様にとっては、これくらいの金や銀は簡単に用意できるようなレベルであり、その時の気分によってあげてしまってもよいようなものだったのでしょう。金や銀を欲しがる様子もなく、古い鉄斧が帰ってきたことを喜ぶようなそのきこりを見て、なんともいとおしいように思えたのだと思います。貧しい生活をしているきこりが可哀そうに思えてきたのかもしれません。私の解釈では、きこりの生き方や人柄を見て、そのきこりに惚れてしまったということだと思います。友人に食べ物をおごるというような感覚です。愛情のようなものです。
次に、その話を聞いて別の男がやってきます。彼は金の斧、銀の斧が欲しいという欲にあふれています。とはいえ私たちは彼を馬鹿にする資格はありません。誰だって1億円がもらえるチャンスと聞けば足を運ぶことでしょう。彼は鉄斧を落とし、神様が金の斧を持ってきた時点で「それは私のです」と言ってしまいました。これは先ほどのパターンとは異なります。金の斧は違う、銀の斧も違う、鉄斧は自分のものだと返答すれば、もらえるというパターンのはずです。なぜ彼はやり方を間違えてしまったのでしょうか。おそらく、あのきこりは詳しい話をしなかったのです。湖で神様がくれたという程度の話しかしていないのです。あるいは男がことの顛末を語ったとしても、彼はそれを正確に実行できなかった。金の斧を見た瞬間に、目がくらんでそれだと言ってしまったのです。
最も大切な議論です。神様が一人目の男に金銀を渡し、二人目の男に渡さなかったのはなでしょうか。これが道徳の授業である以上、誠実や正直といった価値で語ることが求められます。一人目は正直だった、二人目は正直ではなかった、という答えになります。しかし私はこの一般的な回答があまり好きではありません。この神様は真実の神様ではないと思うのです。明らかにこの神様はウソをついていました。「お前が落としたのはこの金の斧か」という質問はとても奇異です。自分が用意したはずですから、男が落としたはずがないのです。意図的に罠にかけてその男の反応をみている。イジワルなのです。男が正直者だったからそのご褒美として金銀をプレゼントした、というのではなく、男が正直者であり、かつ愛おしい存在だったから、その男のことが好きになって金銀をプレゼントした、ということだと思います。二人目の男は、ウソをついたからもらえなかったというよりは、金銀をもらうことしか考えないような魅力のない男だったから無視した、ということだと思います。
イソップ童話の人間臭い部分、温かい部分が、たんなるウソはダメという解釈になってしまうのはとても残念なことだと思います。確かに小学校低学年の子の中にはウソをつく子もいます。既にお菓子を一つ食べているのに、平気な顔をして「食べてないよ(だからちょうだい!)」等と言います。そういったウソを戒めるために、本教材を読んできかせたい。その気持ちは分かります。正直に生きていればいつかきっと神様が褒美をくれるからね、などと言ってしまいがちです。しかし私の解釈は少し違います。重要なことは「ウソはダメ」といった禁止条項の話ではなく、「ウソは人間を汚い姿に見せてしまう」ということです。とにかく金だけが欲しいのであって、それ以外のことは全く頭に入らないような姿は、とても下品に見えます。そうした他者の視点でとらえることが重要だと思います。