「流行おくれ」
 (生越詔二作、箕田美子絵『きみがいちばんひかるとき 小5』光村図書)

 〔読み物資料のあらすじ〕まゆみとみどりの会話です。みどりは今度の社会科見学で、最新の流行のジーンズをはいていくと言います。それを聞いたまゆみは、自分もまた、同じように流行のジーンズが欲しい考え、自宅に戻って母親にねだりました。相手にしない母親。何度もせがむまゆみ。ついに母親は厳しく言うのです。あなたは何着も持っている。この前も誕生日に買ったばかりだ。そんな母親に対して、まゆみはどうも納得できないでいました。しばらくしたある日、弟(わたる)が勝手にまゆみの部屋に入って何かを探しています。弟がかつて姉に貸したゲームの本を探していたのです。姉はその本の所在が分からなくなっていました。弟はその本が欲しかったけど諦めた上で、友達から借りたものだったのです。

 さて、まゆみは、なぜ流行のジーンズが欲しかったのでしょうか。小学生くらいの子どもにはよくありそうな話です。様々な理由が想定されます。そのジーンズがカッコ良かったから、その雑誌を見ていると自分もそのモデルようになれると思ったから、最新の流行を追い求めることがカッコイイと感じているから、みどりと一緒のジーンズでカッコよく決めたいと思っていたから、遅れていることが恥ずかしいことだと感じていたから(強迫観念のようなもの?)、などの理由が考えられます。しかし母親の言葉から分かる通り、既に別の洋服を誕生日に購入しているし、他にも多くの洋服を持っているのです。着て行くものがないわけではありません。もともと新しいものが大好きで、簡単に飽きてしまうようなそんな性格なのかもしれません。まゆみにとっては「とにかく、欲しい」という強烈な感情だけが湧いてきているようなところがあります。まゆみにとっての関心は、もはや欲しいと思ったものを、どのようにすれば入手できるかということに限定してしまっています。
 まゆみが母親におねだりしている心境は、どのようなものでしょうか。欲しいから欲しいと頼んだ、というほどに単純な話ではありません。頭を下げて頼んでいるのではありません。自分で考えて自分で決めたいという気持ちが読み取れます。自分なりには周囲の状況を把握して、自分の理想を明確にして、それを身近な他者である母親に嘆願するのです。自分はこれだけのことを考えているのだから、お母さんはこれを買うべきだ、お母さんなのだから娘の要望に応えるべきだという、ある種の指示に近いような感覚です。本人はいたって正当な理由のつもりですが、周囲から見るとどうも自分本位に見えてきます。小学校高学年にはよく見られる光景だと思います。
 母親は、なぜまゆみの相手をしなかったのでしょうか。特に最初は、ほぼ無視をしている状態です。おそらくまゆみが雑誌を手にしてやってきた際に、母親はその話をなんとなく分かっているはずです。しかし今は忙しい。母親にとっては毎日の生活をこなしていくのでやっとです。経済的にはそんなに余裕があるわけではありません。「あれも欲しい」「これも欲しい」と言い出せば、きりがありません。欲求というものは、エスカレートしていきそうで怖いのです。必要なものは買ってもよいのですが、それ以上は買う必要はありません。おそらく娘は「これは私にとっては必要なこと」と反論するでしょうが、母親からすれば、流行を追い求めることは、必要なことではないのです。困ったことに、そんな母親の言葉を聞いても、娘は納得してくれないのです。娘は「必要だ」ということだけを訴えてくるのです。母親には、娘が言いたいことも、娘が考えていることも、全て分かります。その上で、それでは不十分だと思うのです。相手にしたくないのはそんな状況だからだと思います。そしてこういうことは、よくあることなのです。
 さて、後半では、がらりと立場が変わります。今度は弟が部屋に入ったことでまゆみが腹を立てていきます。まゆみが腹を立てたのはなぜでしょうか。おそらくは、まゆみにとっての自分だけの世界、自分だけの空間という意識が強かったのだと思われます。部屋に入る前にはまゆみの了解をとってから入るべきだ。そんな思いがあるからこそ、そこに腹を立てたのです。このあたりは、小学生の高学年頃の特徴をよく表しているように思われます。一見したところ権利を主張しているように見えるのですが、実際には自分に都合のよい解釈を行っているのです。
 最後に、まゆみは、弟の言葉が気になってしまいます。それはなぜでしょうか。気になるというよりは、なんだか居心地がわるいようなそんな感覚だと思います。自分の部屋、自分の私物であるのならば、誰にも入らせないということが言えるのですが、ところがその中には「他人から借りたもの」が入っていたのです。うまく整理できずに、自己管理が出来ていないことが大きな原因だったのです。すなわち、弟が入ってきたことの理由の一つは、弟が自分勝手なのではなく、自分自身が自分勝手だったからなのです。自分の言葉や態度が、なんとも一貫性に欠ける、十分に説明が出来ないというこの姿勢は、自分としては気持ち悪い話なのです。私たちは自分の言動が論理的に正しい時には気持ちよく、整合的ではないときには気持ち悪いのです。それに薄々と気づきながら隠してしまおうとするか、あるいは素直に自分の不完全さを自覚するか。そこが大きく変わってくるはずなのです。
 さて、まゆみの言動について私たちはどのように評価できるでしょうか。おそらくは、まゆみは自分で自分をコントロール出来ていると思っているようなのです。それゆえ「あれが欲しい」「部屋に入るな」等と、はっきりと言うし、そこに迷いはありません。自分の理想を明確に持った上で、そこに向けて最善を尽くしているようでもあります。ところが、自分では納得し、自分では完璧だと思っているその先で、周囲と対立してしまうことがあるのです。母親は娘の要望に応えるべきだと思っているのに、それが正しいと思っているのに、母親が応えてくれない。弟は自分の部屋に入るべきではないと思っているのに、それが正しいと思っているのに、弟がルールを守ってくれない。まゆみの言動は、第三者である読者の目からすれば明らかに間違っているのです。まゆみは経済的な大変な状況ということを含めて考えていません。弟が部屋に入った理由は自分自身にあるということに気づいていません。もしこのまま、まゆみが自分の考えに固執し、母親や弟が悪いという結論に縛られてしまうのであれば、明らかにまゆみの言動は不十分なのです。ところが、最後に「母やわたるの言った言葉が、みょうに気になりだしました」とあります。まゆみは最後に気になりつつあるのです。ここに、ある種の光を感じるのです。まゆみの言動を批判するのは簡単なことです。しかしこういうことは誰にでもあることです。最初から全てうまくいくことはありません。少しずつ大人になるにつれて、自分の立派な考え方に酔いしれるようなそんな時期はあってよいのです。問題はその先です。うまくいかないことが起こった時に、自分自身の人生を反省できるかどうか、今までの自分を絶対視するのではなく、少し離れてとらえることができるかどうか。そこが重要なのです。大切なことは、自己コントロールして他者に迷惑をかけないというよりはむしろ、はみ出したり、失敗したりしたときに、うまく自分を修正できることだと思うのです。