「わたしは、わたしらしく 熊田千佳慕」(『6年生の道徳』文溪堂)

 〔読み物資料のあらすじ〕熊田千佳慕さんについての文章です。熊田さんは幼稚園の頃から絵を描くのが好きでした。特に、草や花を描いて過ごしていました。絵が得意ということで友達とも打ち解けあうことができました。小学生の頃には、公園などで虫を追いかけて遊びました。『ファーブル昆虫記』に魅了され、美術学校に進学します。その後、戦争で家や家族を失い、焼け野原をさまよい歩きますが、昆虫を見て頑張ろうという気持ちになり、昆虫画家になることを決意します。その後、画家として成功します。

 熊田さんは、幼稚園の頃に、全員分の絵を描いてあげるというきっかけを通して、みんなと打ち解けることができました。それは、なぜでしょうか。特に幼稚園の子どもは、単純だと思うのです。例えば声が大きいとか、冗談を言うとか、木登りが上手だとか、電車に精通しているとか、食べるのが早いとか、かけっこが得意だとか、そのような特徴があって初めて、存在感が出てくるのです。特徴があることで、その子のことを覚えることが出来るのです。「木登りのA男」「電車博士のB男」等です。黙っていてすみっこでじっとしているだけならば、誰も見向きもしないのです。邪魔者扱いしてしまうのです。残酷だといえば確かにそうなのですが、それが現実でもあるのです。特におとなしくて、控えめな子になればなるほど、幼稚園で充実して過ごすためには、何らかの特技や能力があるとよいでしょう。
 熊田さんが昆虫や草花に興味を持ち、それを絵に描きたいと思うようになったのは、なぜでしょうか。本資料には、熊田さんが後に完成させた素晴らしい絵画が掲載されています。それを眺めて思うのは、とても写実的にとらえているということです。おそらくは昆虫や動物たちの細かな姿一つひとつに感動しているのだと思われます。画家というよりは、生物学者のスケッチのようです。しかしながら背景は白いことが多く、また光の加減などは写真とは異なります。写実的ではありますが、やはりよくできた絵画なのです。熊田さんはミクロな視点で、その世界が複雑で不思議だということに感動しているのだと思います。そしてその感動を、何かの形で表現したいと思うのです。それは自分の手元から遥かに離れた箇所にあるものを、ぐいっと引き付けて自分の手のうちに収めるようなそんな感覚だと思うのです。感動するもの、心から好きなものは自分の手の中に入れておきたいのです。ミクロな世界に深い関心を持ち、さらにその奥が知りたいという眼差しでとらえているように思うのです。マンガやアニメに没頭するような絵が好きという姿ではないのです。
 空襲で父親と家財を一瞬にして失った後、一匹の虫を見て、強く生きることを決意しました。それはなぜでしょうか。熊田さんはミクロな視線を持っていたのです。普通ならばあまりに気にならないかもしれません。虫が歩いているという姿を見るだけで、そこに深い感動があるようなのです。推察してみますが、おそらく空襲の後の人々の心境は、絶望的で、言葉を発したり、歩いたりすることも、その気力さえも失っていたと思うのです。しかし虫たちを見れば、羽が破れていたり、食べ物が無かったりしても、一生懸命に生きつづけようとします。虫たちは諦めたり絶望的になったりしません。最後の最後まで、必死なのです。人間は未来予測をしてしまい、「あ、もうだめだ」などと先回りして絶望してしまうのです。おそらく熊田さんは、虫たちを見て、今をまっすぐに生きるということそのものに価値があるはずだと気づいたのだと思います。
 熊田さんが、昆虫画家として成功したのはなぜでしょうか。たんに好きなことに没頭しているだけであれば、それだけで評価されることはないかもしれません。それが成功したのは、多くの人々に感動を与えているからです。多くの人々が持ち合わせていない、特別な感性があったからだと思うのです。誰もやったことがないことだから、それが評価されるのです。単純に、マンガが好きだからマンガ家になるという話ではありません。たんに絵が上手な人が、得意分野を生かして仕事をしたという程度の話ではないのです。
 個性とは何でしょうか。本文のタイトルは「わたしは、わたしらしく」となっています。熊田さんが個性溢れる人間であるというのは分かりますが、個性とは何かという点についてはもっと議論が必要だと思います。「絵が上手」ということが個性なのでしょうか。誰もやったことがないことをする。そこに個性が光ると思うのです。それは私たちの会話の中でも十分に光るのです。個性とは能力とイコールではありません。その場のその空間の中で、光ることができれば個性なのです。個性的な意見が出せる、個性的な冗談が言える、といったレベルでも十分なのです。私たちは「個性」という言葉を、スポーツや芸術といった狭い範囲に限定して論じているように思えるのです。絵が得意というのは、それだけに目を向ければ、能力です。能力はただちに個性になるのではなく、集団や人間関係の中で見事な形で発揮した段階で個性となります。ですから自分一人の世界で、能力や趣味や性格を抱いている段階では、個性は成立しないのです。他者とのかかわり、世界の中で披露して、そこで評価されて、はじめて個性として成立するのです。