「九番バッター」(生徒作文、絵:古味正康『中学道徳1 明日をひらく』東京書籍)

 〔読み物資料のあらすじ〕主人公の女の子はソフトボール部に入って頑張ってきました。1年の夏頃になると、上手な人とそうでない人の差が出始め、主人公はいつまでもボール拾いでした。3年生になってメンバーが発表されました。主人公は九番バッターでした。ある日、先生にバントの仕方を褒められ、全員の前で手本として示すことがありました。最後の試合でもバントを成功させたのです。

 中学に進学して、最初のうちはなんとなく、友達に誘われて、部活に入ってみるようなものです。最初は、みんな上手いわけではなく、なんとなく、毎日を過ごしてしまうのです。しかし部活動ですから、しだいに練習は厳しいものになります。中には、部活を休んだり、やめたりする人も出てきます。上手い人は残り、そうでない人の多くはやめていくのです。しかし主人公の女の子は、やめませんでした。そして練習を続けたのです。それは、なぜでしょうか。ソフトボールが楽しかったというわけでもなさそうです。友達がいるとか、家に帰ってもやることがないとか、そういう理由かもしれません。一度やると言った以上、あとに引けなかったのかもしれません。あるいは「やめる」ということを言う勇気が無かったのかもしれません。私が推察するのは、あまり深いことを考えていなかった、ということだろうと思うのです。みんなの足を引っ張ってしまうのではないかと考えたり、自分なりに楽しんでいるかどうかと問い直したり、いろいろと考えれば考える程、辛くなります。今日、部活に行った方がいいかと考えていけば、行かない方がいいかもしれないと考えてしまうのです。そういうことを考えずに、とにかく続けてみるということにも、意味はあるはずです。自分の人生の全てを自分の意思で決定してしまうのではなく、なんとなく、それまでの流れに身を任せてみるということも、そういう時もあってよいと思うのです。
 さて、バントの仕方が上手であるということを、先生が認めてくれたのです。ひょっとしたらその先生は主人公の女の子の良い点、優れた点を褒めてあげようという思いがあったかもしれません。先生にも深い意味があったわけではなく、たんに女の子がが上手かったということなのかもしれません。その日の夜に、その話を家族にして聞かせたところ、母親は「みゆきにソフトボール部なんて続けられないと思っていた。すぐやめちゃうって思ってたよ。その点りっぱだね」という言葉をかけました。この母親の言葉には、どんな意味があるでしょうか。母親は、おそらく続かないだろうと思いながらも、それを言葉に発することなく、かといって強烈にガンバレと励ますわけでもなく、それとなく温かく見守っていたようなのです。主人公の女の子が部活を続けることが出来た理由は、そのあたりにあったかもしれません。自分の意思(あやふやな点はあったかもしれませんが)で始めたことを、最後までやる。それについて周囲が深く口を挟まなかったのです。もし最初の頃に「あなたがソフトボール?無理だよ」と言ってしまえば、途端にやる気が失せてしまったかもしれないのです。本当は心配なのですが、子どもに委ねていく、そこにとても大切なかかわり方があるように思われます。中学生の頃はとても難しい時期なのです。
 最後の試合で、主人公はバントを成功させました。さらにその次の打席では、二塁打のヒットを打ったのです。高い集中力で、自分の力を出し切ることが出来たのです。うまく活躍できたのは、当然それまでの辛い練習に耐えてきたからです。試合には負けたのですが、主人公の女の子は、とても満足でした。ある人は反論するかもしれません。自分の活躍が大切なのではなく、これはチームプレイだから試合に勝つかどうかが重要だ、というものです。主人公が満足だったのは、なぜでしょうか。彼女は高い実力があったわけではなく、どちらかといえばみんなの足を引っ張ってしまうことを心配していたくらいでした。メンバーから外されるかどうかを心配するようなそんな位置だったのです。勿論、勝ちたかったのです。しかし勝つか負けるかということよりも、ハイレベルなチームに貢献できるかどうかに関心があったと思います。試合の結果、うまく活躍できたので、まずは満足だったのです。女の子が満足だった理由は、それだけではありません。それまでの長い練習は、その大半が辛いものでした。ここに至って一定の成果が出せたということは、それまでの努力に意味があったということなのです。「長くて辛い時間」が、「必要で、大切な時間」に変わったのです。
 最後の涙にはどんな意味があるでしょうか。本人は、負けたからか、もう部活が終わったさびしさからか、分からないと述べています。なぜ涙が出たのか。一つの理由だけではありません。もし主人公が見事に活躍できなかったのであれば、涙は出てこなかったと思われます。私の推察です。主人公は大きな存在を感じたからだと思います。自分という小さな存在が、ソフトボール部全体あるいは学校や地域といった大きな存在とつながっていく感覚です。一人の人間という感覚ではなく、チーム全体という大きな存在の中の自分という感覚です。私が嬉しい、というものではなく、私たちが嬉しいという感覚です。そういう時に、心は揺れるものです。さらに、次のようにも考えられます。中学校に進学し、部活に入り、多くが辞めていき、自分は頑張り、孤独感や劣等感を得ながらも、なんとか続け、バントの件を認めてもらい、励まされ、最後に成功し、活躍し、そして今まさにこの瞬間に部活は終わり、次の生活、高校受験、高校進学へと進む。そんな、大きな時間の流れを感じたのかもしれません。私はそういう大きな時間の流れを感じた瞬間に、涙が出てくると思うのです。起伏の激しい、ドラマティックな変化であったというその長い時間が、一瞬の感覚に凝縮される。そこに涙が出てくると思うのです。
 以上のことを踏まえで、「努力の大切さ」について考察してみたいと思うのです。楽しそうだからとか、面白そうだとか、そういう動機で取り組むうちには、努力は出てこないと思うのです。努力というのは、例えば山登りをするような場面を想起すれば分かると思うのですが、長期的な時間の中で成立すると思うのです。努力をするということは、自分の能力の限界を超えようとするということです。それは辛いことなのです。出来ない自分に向き合うのは、誰だって嫌なのです。一歩一歩は充実していません。楽しいものでもありません。逆に言えば、楽しい時間であれば努力はしないのです。では高い目標や理想を掲げて、そこを強く念じれば努力するでしょうか。私はそれも難しいと思います。目標に向けて細かなプランを立てていくと、頭の中でいろいろと思案してしまう。頭で考えて計画を立てていけば、どうしても逃げ道を作ってしまうのです。努力に必要なことは、常に指示や励ましをしてくれている優れた指導者が必要です。自分が自分を指導するなどということは、とても難しいことだからです。指導者のもとで、流れというか、雰囲気というか、そういうものに乗っかっていくこと。むしろ無心になるとか、負けた気がするから辞めないとか、惰性でもよいのです。私たちは意識や思考を最小限度に抑えているその時に努力をするのです。単純な日々の繰り返しの中で、少しずつ力をつけていくはずなのです。