「やさしさ、いっぱい」
(春山恵美子:文、石橋富士子:絵『中学道徳2 明日をひらく』東京書籍)
〔読み物資料のあらすじ〕駅での話。視覚障害と思われる女性が白い杖をついて電車に乗ろうとしたところ、中年男性が声をかけて支援していました。電車に乗った後は、主人公(中年の女性と思われる)が、声をかけていきます。男子高校生が声をかけてくれたり、女子高校生が席を譲ってくれたり、最近の若者はなかなか立派だと主人公は感じたのでした。主人公の女性は、視覚障害のこの女性と話をしました。現代社会での生活はなかなか大変で、けがをすることもあるようなのです。それに負けずに積極的に生きている姿に、主人公の女性は感動するのです。なお、名前が分かるといいですね。視覚障害のある方、という呼び方は、なんとも冷たい呼び方です。赤いシャツの貴方、帽子をかぶっている人等という呼び方と同じです。ここでは仕方ないので、この呼び方で文章を作成することにします。
最初の中年男性はどんなふうに思ったのでしょうか。視覚障害の女性のことが少し心配になったようです。目の前の電車がどこに行くのか。視覚が可能な私たちは、生活に必要な情報の多くを目から得るので、すぐに分かります。しかし視覚障害の方はそれが出来ません。中年男性は、おそらく不便だろうな、大変だろうなという思いがあったのでしょう。電車の行き先や目的の駅についていろいろと声をかけて教えていたようです。男性はその電車には乗らずに、女性だけが電車に乗りました。この中年男性は、おそらくその先にも誰かが支援してくれるだろうと信じているのです。電車は無人の空間ではありません。多くの人がいるのです。中年男性は他の客に聞こえるように「立川駅は三つ目ですよ」と言ったのでしょう。
視覚障害の女性は電車に乗り、そのドアの近くに立っていました。主人公(挿絵の様子からはおそらく中年の女性です)は、この視覚障害の女性のことが心配でした。立川駅は、今彼女が立っている側と反対側のドアがあくはずなのです。声をかけようかと思ったのですが、少し躊躇していました。主人公の女性は、なぜ迷っていたのでしょうか。ひょっとしたら、それくらいのことは視覚障害であっても分かるかもしれません。電車のアナウンスがあるかもしれません。親切をすることで相手のプライドを傷付けてしまうのではないかと推察したのです。勿論、そのような推察もまた親切であるがゆえの心配です。
「立川駅はこちらのドアです」とさらりと教えてあげたのは、近くにいた男子高校生でした。男子高校生が声をかけることが出来たのは、なぜでしょうか。男子高校生は、素直に視覚障害の女性のことが心配になった、ということなのです。声をかけることでプライドを傷付けてしまうのではないかなどとは考えていませんでした。おそらくそんなことにまで頭がまわらなかっただけなのかもしれません。しかし、それでよいのです。相手の立場に立って考えることは大切なことなのですが、考えすぎて迷ってしまったり、深く悩んでしまうくらいなら、あまり深く考えずにさっと手を差し伸べるくらいでよいのです。もし「大丈夫です、放っておいて下さい」と言われたらどうでしょうか。その時は「はい、分かりました」と言えばいいのです。それだけのことです。親切にしたとしても怒られたり不満を感じたりすれば嫌だなと思ってしまう。私たちは相手の立場に立つといいながら、自分が傷付くのを避けようとしてしまうのです。
その後、主人公の女性が、思い切って声をかけたのは、なぜでしょうか。それは高校生の姿を見て、黙っていた自分を少し反省したのだと思います。プライドを傷付けるとか、そんなことは気にせずに、もっと素直に、声をかけることは良いことなのだから、声をかけてもいいはずなのです。そんな気持ちをここでは「勇気」と表記しています。迷いを断ち切り、一歩足を踏み出す力、それをここでは勇気と呼ぶのです。
主人公の女性が声をかけた時に、視覚障害の女性が素直に反応したのはなぜでしょうか。嬉しかったから反応した、ということもあります。しかしそれ以上に、視覚障害のこの女性が、周囲の人々に対して、心を開いているということなのです。怒ったり、嫌ったりはしていないということなのです。主人公の女性と視覚障害の女性が一緒に歩き、言葉を交わすことが出来たのは、お互いが親切だったからです。私たちは、周囲の人々が視覚障害のこの女性に親切にしているということだけでなく、この視覚障害の女性が周囲の人々に対して親切にしているということにも気づくべきなのです。障害のある人は、決して親切を受け取るだけの受け身的な存在ではありません。
さて、「親切」とはどういう心の状態のことでしょうか。親切とは、相手の心の深いところにまで踏み込んでいくようなことではありません。もっと、軽い、ちょっとした声かけのようなものです。親切とは、困っている人に対して、困っているから助けてあげようという気持ちになることを指します。そこには自分自身にある意味余裕というか、余力というか、他人のことを気にかけるだけの広い心が必要です。生活が苦しいとか、深く落ち込んでいるといった人が、義務的に無理に親切に振る舞う必要はありません。
「ありがた迷惑」「大きなお世話」という問題があります。電車で席を譲ったら、「わしは老いていない」と腹を立てられた、等という話が想定されます。これをどのように考えるべきでしょうか。それは、親切の仕方を間違えているとか、ただしい親切が必要だといった話ではありません。こちらは、彼が何を必要としているのかについて、完璧には理解できていないのです。私たちは相手のことは分からないのです。十分なところまでは理解できないはずなのです。ですから施した親切が、彼には不要のものだったということが当然起こり得ることなのです。そういうことを想定した上で、それでも親切にするということが最も重要なことなのです。つまり親切とは、問いかけなのです。「何かお手伝いすることはありますか」という問いかけなのです。YesかNoか、その反応をするのは相手の側の意思なのです。相手の反応がNoだったからといってその親切が無意味ということにはなりません。反応を期待するのではなく、声をかけたというその行為だけで十分だと思うのです。それが親切なのです。むしろ相手の出方を気にしすぎてしまうと、親切という行為は出来なくなってしまいます。親切というのは、ちょっとした一言でよいのです。そして親切を施した後は、彼の心境を聞き、彼の置かれている状況を知ると良いのですね。親切とは、きっかけなのです。
私たちの社会に必要なことは、困った時には支え合うべきだという暗黙の前提のようなものです。ふだんの私たちの生活では、私たちは便利すぎて、声をかけることを忘れてしまいます。しかし例えば地震や洪水などの災害では途端に全ての人々が障害者になってしまいます。電車で家に帰れないとか、連絡が取れないとか、全てが出来ないことだらけになってしまいます。そんな時に日ごろの親切心の大切さを実感するのです。それを思えば、今私たちの社会の中にいる多くの障害の方々へ、遠慮なく声をかけあうようなそんな社会にしたいものです。それが、美しく住みやすい社会だと思います。
(春山恵美子:文、石橋富士子:絵『中学道徳2 明日をひらく』東京書籍)
〔読み物資料のあらすじ〕駅での話。視覚障害と思われる女性が白い杖をついて電車に乗ろうとしたところ、中年男性が声をかけて支援していました。電車に乗った後は、主人公(中年の女性と思われる)が、声をかけていきます。男子高校生が声をかけてくれたり、女子高校生が席を譲ってくれたり、最近の若者はなかなか立派だと主人公は感じたのでした。主人公の女性は、視覚障害のこの女性と話をしました。現代社会での生活はなかなか大変で、けがをすることもあるようなのです。それに負けずに積極的に生きている姿に、主人公の女性は感動するのです。なお、名前が分かるといいですね。視覚障害のある方、という呼び方は、なんとも冷たい呼び方です。赤いシャツの貴方、帽子をかぶっている人等という呼び方と同じです。ここでは仕方ないので、この呼び方で文章を作成することにします。
最初の中年男性はどんなふうに思ったのでしょうか。視覚障害の女性のことが少し心配になったようです。目の前の電車がどこに行くのか。視覚が可能な私たちは、生活に必要な情報の多くを目から得るので、すぐに分かります。しかし視覚障害の方はそれが出来ません。中年男性は、おそらく不便だろうな、大変だろうなという思いがあったのでしょう。電車の行き先や目的の駅についていろいろと声をかけて教えていたようです。男性はその電車には乗らずに、女性だけが電車に乗りました。この中年男性は、おそらくその先にも誰かが支援してくれるだろうと信じているのです。電車は無人の空間ではありません。多くの人がいるのです。中年男性は他の客に聞こえるように「立川駅は三つ目ですよ」と言ったのでしょう。
視覚障害の女性は電車に乗り、そのドアの近くに立っていました。主人公(挿絵の様子からはおそらく中年の女性です)は、この視覚障害の女性のことが心配でした。立川駅は、今彼女が立っている側と反対側のドアがあくはずなのです。声をかけようかと思ったのですが、少し躊躇していました。主人公の女性は、なぜ迷っていたのでしょうか。ひょっとしたら、それくらいのことは視覚障害であっても分かるかもしれません。電車のアナウンスがあるかもしれません。親切をすることで相手のプライドを傷付けてしまうのではないかと推察したのです。勿論、そのような推察もまた親切であるがゆえの心配です。
「立川駅はこちらのドアです」とさらりと教えてあげたのは、近くにいた男子高校生でした。男子高校生が声をかけることが出来たのは、なぜでしょうか。男子高校生は、素直に視覚障害の女性のことが心配になった、ということなのです。声をかけることでプライドを傷付けてしまうのではないかなどとは考えていませんでした。おそらくそんなことにまで頭がまわらなかっただけなのかもしれません。しかし、それでよいのです。相手の立場に立って考えることは大切なことなのですが、考えすぎて迷ってしまったり、深く悩んでしまうくらいなら、あまり深く考えずにさっと手を差し伸べるくらいでよいのです。もし「大丈夫です、放っておいて下さい」と言われたらどうでしょうか。その時は「はい、分かりました」と言えばいいのです。それだけのことです。親切にしたとしても怒られたり不満を感じたりすれば嫌だなと思ってしまう。私たちは相手の立場に立つといいながら、自分が傷付くのを避けようとしてしまうのです。
その後、主人公の女性が、思い切って声をかけたのは、なぜでしょうか。それは高校生の姿を見て、黙っていた自分を少し反省したのだと思います。プライドを傷付けるとか、そんなことは気にせずに、もっと素直に、声をかけることは良いことなのだから、声をかけてもいいはずなのです。そんな気持ちをここでは「勇気」と表記しています。迷いを断ち切り、一歩足を踏み出す力、それをここでは勇気と呼ぶのです。
主人公の女性が声をかけた時に、視覚障害の女性が素直に反応したのはなぜでしょうか。嬉しかったから反応した、ということもあります。しかしそれ以上に、視覚障害のこの女性が、周囲の人々に対して、心を開いているということなのです。怒ったり、嫌ったりはしていないということなのです。主人公の女性と視覚障害の女性が一緒に歩き、言葉を交わすことが出来たのは、お互いが親切だったからです。私たちは、周囲の人々が視覚障害のこの女性に親切にしているということだけでなく、この視覚障害の女性が周囲の人々に対して親切にしているということにも気づくべきなのです。障害のある人は、決して親切を受け取るだけの受け身的な存在ではありません。
さて、「親切」とはどういう心の状態のことでしょうか。親切とは、相手の心の深いところにまで踏み込んでいくようなことではありません。もっと、軽い、ちょっとした声かけのようなものです。親切とは、困っている人に対して、困っているから助けてあげようという気持ちになることを指します。そこには自分自身にある意味余裕というか、余力というか、他人のことを気にかけるだけの広い心が必要です。生活が苦しいとか、深く落ち込んでいるといった人が、義務的に無理に親切に振る舞う必要はありません。
「ありがた迷惑」「大きなお世話」という問題があります。電車で席を譲ったら、「わしは老いていない」と腹を立てられた、等という話が想定されます。これをどのように考えるべきでしょうか。それは、親切の仕方を間違えているとか、ただしい親切が必要だといった話ではありません。こちらは、彼が何を必要としているのかについて、完璧には理解できていないのです。私たちは相手のことは分からないのです。十分なところまでは理解できないはずなのです。ですから施した親切が、彼には不要のものだったということが当然起こり得ることなのです。そういうことを想定した上で、それでも親切にするということが最も重要なことなのです。つまり親切とは、問いかけなのです。「何かお手伝いすることはありますか」という問いかけなのです。YesかNoか、その反応をするのは相手の側の意思なのです。相手の反応がNoだったからといってその親切が無意味ということにはなりません。反応を期待するのではなく、声をかけたというその行為だけで十分だと思うのです。それが親切なのです。むしろ相手の出方を気にしすぎてしまうと、親切という行為は出来なくなってしまいます。親切というのは、ちょっとした一言でよいのです。そして親切を施した後は、彼の心境を聞き、彼の置かれている状況を知ると良いのですね。親切とは、きっかけなのです。
私たちの社会に必要なことは、困った時には支え合うべきだという暗黙の前提のようなものです。ふだんの私たちの生活では、私たちは便利すぎて、声をかけることを忘れてしまいます。しかし例えば地震や洪水などの災害では途端に全ての人々が障害者になってしまいます。電車で家に帰れないとか、連絡が取れないとか、全てが出来ないことだらけになってしまいます。そんな時に日ごろの親切心の大切さを実感するのです。それを思えば、今私たちの社会の中にいる多くの障害の方々へ、遠慮なく声をかけあうようなそんな社会にしたいものです。それが、美しく住みやすい社会だと思います。