「おはようございます」
(外山滋比古『ことばの作法』による。
『中学生の道徳3年』あかつき廣済堂、道徳副読本)
〔読み物資料のあらすじ〕著者は、郷里へ行ったついでに母校である中学校(旧制中学で、今は高校)を訪れた。早朝だったが女子生徒がいて挨拶をしてくれた。とっさのことでうまく返答できなかったことを恥じる。四国松山の四十八か所礼所でも挨拶された。著者はあれこれ思案しながらも、素直に喜ぶ気持ちを忘れまいと思う。
さて、前半は高校を訪れた際の話です。4月の桜がほころびそうになる時期です。女子生徒から「おはようございます」と声をかけられました。ごく自然な声であって気持ちよかったと著者は述べています。しかし著者は、嬉しいはずなのに挨拶を返すことなく、ただ頭を下げただけで終えてしまいました。それはなぜでしょうか。本文にもありますが、とっさなことだった、まさか自分に挨拶をするはずがないと思っていた、あるいは、挨拶をするという感覚あるいはスイッチのようなものがなかったから、などが推察されます。この感覚は分かります。例えば山を登っている時にはお互い声をかけるものだと思っていますから挨拶しやすいのですが、都会のど真ん中では声をかけないと思っているので、そういうモードで歩いているのです。著者はそのことを深く反省し、恥じているようです。それはこの学校が素晴らしいところであるか、家庭がしっかりしているか、より良い人間関係というものをイメージしているためです。自分がそこから外れてしまったような感覚になるのでしょう。あの高校生はさぞかし、変な大人だ、礼儀を知らない大人だなどと思ったことでしょう。
挨拶をするというのは、どういうことでしょうか。挨拶とは最小限度のコミュニケーションです。私は敵ではありません、あなたはどういう人ですか、何かあったら声をかけていいですよ、この空間はそういう空間ですよ、という暗示を含んでいます。すなわち、次のコミュニケーションのための土台のようなものです。挨拶をしたからといって相手が挨拶を返してくれるとは限りません。現代社会においては無視されることも少なくないでしょう。だからといって生徒が挨拶をしないというわけではありません。無視されるかもしれないと分かりつつ、声をかけるのです。反応を相手に委ねる、それは予測できないことですから、少し怖いことなのです。ふだん、私たちは挨拶をしない。それは無関係だからです。これまでも無関係であり、今後も無関係だから挨拶をしないのです。商店街や駅前など、公共の空間ではみな挨拶をしません。しかし学校や、公園、あるいは登山の最中などでは挨拶をすることがあるのです。学校という空間の中にいるということは、何らかの関係があります。声をかけるというのは、無関係な状態から僅かな意味で関係を構築するということでもあるのです。
挨拶という、いわばちょっとしたことに、なぜ私たちは大きく心を揺さぶられるのでしょうか。私たちは相手の心遣いが嬉しいのです。気にかけてくれているということ、こちらの人生に過度に深入りするわけでもありません、しかしこちらの反応に委ねてくれているということ、そのあたりで嬉しく感じるのです。都市生活はここからずいぶんと離れています。店に入ると機械的な挨拶がうるさい。心がこもっていないからです。野球部にありがちな大声の挨拶はどうでしょうか。あれも心がこもっていません。自然な挨拶というのは、私がここに存在するということを承認していることでもあるのです。機械的な挨拶は何か他の目的があってそのために挨拶をしているということなのです。私たち人間は何かの手段ではなく、目的として存在したいのです。おおげさかもしれませんが、挨拶のあり方とは私たちの生き方そのものにかかわるのです。
さて話を戻します。学校内で挨拶をする、というのは自然に出来ているというよりは、教員がそのように促したり、指導したりしているはずです。勿論、家庭のしつけもあるかもしれません。小学校からのしつけもあるかもしれません。しかし重要な点は、この場は挨拶をする場だと考えているという点です。学校内では挨拶をさせる、ということですから、それはやはり学校の先生方が指導していると考えて良いのです。なぜ学校の先生は挨拶をするように指導しているのでしょうか。なぜ生徒たちは挨拶をするのでしょうか。挨拶をしなさいと強く指導したとしても、しない生徒はしません。無理が行きすぎると誰も挨拶をしなくなります。おそらくは先生がうまい言い方をしているのです。先生の思いというか、素直な願いが生徒たちに伝わっているのです。素敵な挨拶をしましょう、と声をかけているその先生がとても素敵なのかもしれません。「学校内は何らかのかかわりがあるはずだから、声をかけるように」「挨拶をするということは、相手の人生や存在を認めることでもある」なんて大きな話をしているのかもしれません。「自分が幸せに生きていきたいと願うならば、まずは誰かを幸せにせよ。簡単な方法が挨拶だ」などという言い方をしているのかもしれません。ひょっとしたら防犯という意味も含まれているかもしれません。「ちょっとした勇気は大切です」「挨拶をするこの学校の雰囲気を私は誇りに思う」なんてと言っているのかもしれません。いずれにしても挨拶をするという経験が、生徒たちの将来にとって、今現在の生活にとって有意義だということが伝わっているのです。
さて話の後半は、著者が四国松山を旅していた際の話です。著者が石手寺という場所に向かう散歩道、そこでも通りがかりの女性が「おはようございます」と挨拶をしたようなのです。この時にはつられてあいさつをしました。自転車に乗りかけたこの女性が挨拶をしたのはなぜでしょうか。ひょっとしたら四十八か所の礼所の近くということも関係しているのかもしれません。知らない人に挨拶をする等という習慣があるのかもしれません。歩行者と自転車とが狭いところで行き交うのですから、言葉をかけない方がむしろ居心地が悪い。その女性のそういう距離の取り方だったのかもしれません。知人に間違えられたのかもしれませんし、ほんの少し前、誰かがこの女性に元気よく挨拶をしたからなのかもしれません。朝というのは特別な時間です。子どもたちが学校に行く時、地域の人々はみんな挨拶をしてくれます。それよりももっと早い時間、早朝でウォーキングをしているなんてこともあります。それは登山での挨拶のように、こんな時間帯に顔を合わせるということが何か特別な意味や価値を帯びているということなのかもしれません。
様々な理由を推察します。著者もそうでした。しかし最後の場面で著者は、理由を尋ねるのを辞めたと述べています。「母校の女子生徒もそうだ。心やさしく、礼儀正しい少女だから、あいさつしたのだ、といつまでも思っていたい」と述べています。この著者の言葉はどんな意味があるでしょうか。なぜそうした結論に向かうのでしょうか。なかなか他人に挨拶するのは容易ではない。だとするならば、何か別の立場(教師とか地域の町内会とか)が促したという可能性はあるのです。しかしそのように受け止めてしまうことが、挨拶の本来の目的や意味から離れてしまう。受け取る側は素直に嬉しいと思えば良いのです。挨拶そのものにあれこれ詮索したり考えたりすると挨拶の良さを台無しにしてしまう。幸せな気持ちを与えてくれたのだから、素直に幸せを感じれば良い。そんな思いでしょうか。
(外山滋比古『ことばの作法』による。
『中学生の道徳3年』あかつき廣済堂、道徳副読本)
〔読み物資料のあらすじ〕著者は、郷里へ行ったついでに母校である中学校(旧制中学で、今は高校)を訪れた。早朝だったが女子生徒がいて挨拶をしてくれた。とっさのことでうまく返答できなかったことを恥じる。四国松山の四十八か所礼所でも挨拶された。著者はあれこれ思案しながらも、素直に喜ぶ気持ちを忘れまいと思う。
さて、前半は高校を訪れた際の話です。4月の桜がほころびそうになる時期です。女子生徒から「おはようございます」と声をかけられました。ごく自然な声であって気持ちよかったと著者は述べています。しかし著者は、嬉しいはずなのに挨拶を返すことなく、ただ頭を下げただけで終えてしまいました。それはなぜでしょうか。本文にもありますが、とっさなことだった、まさか自分に挨拶をするはずがないと思っていた、あるいは、挨拶をするという感覚あるいはスイッチのようなものがなかったから、などが推察されます。この感覚は分かります。例えば山を登っている時にはお互い声をかけるものだと思っていますから挨拶しやすいのですが、都会のど真ん中では声をかけないと思っているので、そういうモードで歩いているのです。著者はそのことを深く反省し、恥じているようです。それはこの学校が素晴らしいところであるか、家庭がしっかりしているか、より良い人間関係というものをイメージしているためです。自分がそこから外れてしまったような感覚になるのでしょう。あの高校生はさぞかし、変な大人だ、礼儀を知らない大人だなどと思ったことでしょう。
挨拶をするというのは、どういうことでしょうか。挨拶とは最小限度のコミュニケーションです。私は敵ではありません、あなたはどういう人ですか、何かあったら声をかけていいですよ、この空間はそういう空間ですよ、という暗示を含んでいます。すなわち、次のコミュニケーションのための土台のようなものです。挨拶をしたからといって相手が挨拶を返してくれるとは限りません。現代社会においては無視されることも少なくないでしょう。だからといって生徒が挨拶をしないというわけではありません。無視されるかもしれないと分かりつつ、声をかけるのです。反応を相手に委ねる、それは予測できないことですから、少し怖いことなのです。ふだん、私たちは挨拶をしない。それは無関係だからです。これまでも無関係であり、今後も無関係だから挨拶をしないのです。商店街や駅前など、公共の空間ではみな挨拶をしません。しかし学校や、公園、あるいは登山の最中などでは挨拶をすることがあるのです。学校という空間の中にいるということは、何らかの関係があります。声をかけるというのは、無関係な状態から僅かな意味で関係を構築するということでもあるのです。
挨拶という、いわばちょっとしたことに、なぜ私たちは大きく心を揺さぶられるのでしょうか。私たちは相手の心遣いが嬉しいのです。気にかけてくれているということ、こちらの人生に過度に深入りするわけでもありません、しかしこちらの反応に委ねてくれているということ、そのあたりで嬉しく感じるのです。都市生活はここからずいぶんと離れています。店に入ると機械的な挨拶がうるさい。心がこもっていないからです。野球部にありがちな大声の挨拶はどうでしょうか。あれも心がこもっていません。自然な挨拶というのは、私がここに存在するということを承認していることでもあるのです。機械的な挨拶は何か他の目的があってそのために挨拶をしているということなのです。私たち人間は何かの手段ではなく、目的として存在したいのです。おおげさかもしれませんが、挨拶のあり方とは私たちの生き方そのものにかかわるのです。
さて話を戻します。学校内で挨拶をする、というのは自然に出来ているというよりは、教員がそのように促したり、指導したりしているはずです。勿論、家庭のしつけもあるかもしれません。小学校からのしつけもあるかもしれません。しかし重要な点は、この場は挨拶をする場だと考えているという点です。学校内では挨拶をさせる、ということですから、それはやはり学校の先生方が指導していると考えて良いのです。なぜ学校の先生は挨拶をするように指導しているのでしょうか。なぜ生徒たちは挨拶をするのでしょうか。挨拶をしなさいと強く指導したとしても、しない生徒はしません。無理が行きすぎると誰も挨拶をしなくなります。おそらくは先生がうまい言い方をしているのです。先生の思いというか、素直な願いが生徒たちに伝わっているのです。素敵な挨拶をしましょう、と声をかけているその先生がとても素敵なのかもしれません。「学校内は何らかのかかわりがあるはずだから、声をかけるように」「挨拶をするということは、相手の人生や存在を認めることでもある」なんて大きな話をしているのかもしれません。「自分が幸せに生きていきたいと願うならば、まずは誰かを幸せにせよ。簡単な方法が挨拶だ」などという言い方をしているのかもしれません。ひょっとしたら防犯という意味も含まれているかもしれません。「ちょっとした勇気は大切です」「挨拶をするこの学校の雰囲気を私は誇りに思う」なんてと言っているのかもしれません。いずれにしても挨拶をするという経験が、生徒たちの将来にとって、今現在の生活にとって有意義だということが伝わっているのです。
さて話の後半は、著者が四国松山を旅していた際の話です。著者が石手寺という場所に向かう散歩道、そこでも通りがかりの女性が「おはようございます」と挨拶をしたようなのです。この時にはつられてあいさつをしました。自転車に乗りかけたこの女性が挨拶をしたのはなぜでしょうか。ひょっとしたら四十八か所の礼所の近くということも関係しているのかもしれません。知らない人に挨拶をする等という習慣があるのかもしれません。歩行者と自転車とが狭いところで行き交うのですから、言葉をかけない方がむしろ居心地が悪い。その女性のそういう距離の取り方だったのかもしれません。知人に間違えられたのかもしれませんし、ほんの少し前、誰かがこの女性に元気よく挨拶をしたからなのかもしれません。朝というのは特別な時間です。子どもたちが学校に行く時、地域の人々はみんな挨拶をしてくれます。それよりももっと早い時間、早朝でウォーキングをしているなんてこともあります。それは登山での挨拶のように、こんな時間帯に顔を合わせるということが何か特別な意味や価値を帯びているということなのかもしれません。
様々な理由を推察します。著者もそうでした。しかし最後の場面で著者は、理由を尋ねるのを辞めたと述べています。「母校の女子生徒もそうだ。心やさしく、礼儀正しい少女だから、あいさつしたのだ、といつまでも思っていたい」と述べています。この著者の言葉はどんな意味があるでしょうか。なぜそうした結論に向かうのでしょうか。なかなか他人に挨拶するのは容易ではない。だとするならば、何か別の立場(教師とか地域の町内会とか)が促したという可能性はあるのです。しかしそのように受け止めてしまうことが、挨拶の本来の目的や意味から離れてしまう。受け取る側は素直に嬉しいと思えば良いのです。挨拶そのものにあれこれ詮索したり考えたりすると挨拶の良さを台無しにしてしまう。幸せな気持ちを与えてくれたのだから、素直に幸せを感じれば良い。そんな思いでしょうか。