「ぼくらだってオーケストラ」(文:横田川明子、絵:西村郁雄『ゆたかな心で どうとく4』東京書籍)
同名の児童文学(子どもと文学の会編集、笠原理恵イラスト『ぼくらだってオーケストラ!(いっしょうけんめい物語)』国土社、1993年)からの資料です。
〔読み物資料のあらすじ〕4年生が地域の連合音楽会に参加することになりました。みんなはおおはしゃぎでしたが、てつおは楽器が苦手で不安でした。しかしリコーダーを担当することになりました。練習してもなかなかうまくいきません。隣のなつみが指の使い方について声をかけてきました。てつおは「なんだよ、えらそうに、さかあがりもできないくせに」と思いながら、知らんぷりをしていました。しかし家に帰って練習していると、なつみの指摘が適切だったことに気づきます。次の日には、なつみが楽譜にドレミを記入してくれました。それから、なつみは丁寧にリコーダーの吹き方を教えてくれました。一週間がたち、やっとうまく吹くことができたのです。なつみは自分のことかのように喜んでいました。てつおは音楽会が楽しみになってきました。
さて、体育は得意だけども楽器演奏は苦手なんていう子は多いと思います。てつおは、不安でいっぱいであったわけですが、てつおは頑張って練習を始めます。うまくできません。そんな時になつみがてつおに声をかけます。指のところが空いている(だから空気が抜けてしまう)という指摘でした。なつみがこのように声をかけたのはなぜでしょうか。おそらくこの時点ではそれほど深い意味はなかったと思います。出来る人からすれば、そこを修正すればうまくいくのにという箇所がよく見えてきます。つい、口から出てしまった、という程度のことだと思います。
その時のてつおはどんな心境でしょうか。「さかあがりもできないくせ」にとはどういう意味なのでしょうか。他者から教えてもらうというのは、決して心地よいことではありません。ダメな自分を注意されているようで辛い。なんだよ!偉そうに!といった不満を持ったのかもしれません。「こういう時にでしゃばる奴はかっこつけているだけ」等というふうに感じていたのかもしれません。鉄棒は、ここでは無関係です。なぜてつおは鉄棒を関連付けたのでしょうか。てつおは、単純なヒエラルキー的な見方を持っていたのかもしれません。すなわち鉄棒が出来る人は優秀だが、鉄棒が出来ない人は劣っているといった見方です。自分よりも上か下かで判断するという、いわば間違った見方を持っていたと思われます。こういう見方、人を上か下かで分けて考える見方というのは、かなり多いのではないかと推察します。
さて、次の日になると、今度はなつみが声をかけてくれます。てつおは、譜面の読み方が分かりにくいのです。なつみはさっと手を差し伸べ、譜面にドレミの文字を書いてくれたのです。なつみがてつおにアドバイスしたのは、なぜでしょうか。てつおはうまくいかずに困っている。イライラしながら、同じことを繰り返しているような状態なのです。なつみが優しいから、親切だから、困っている人を助けようと思ったから、等の理由が考えられます。てつおに対する好意かもしれませんし、逆になつみは音楽が得意であることを自慢しようとしたのかもしれません。人に何かを教えることで優越感に浸ることが出来ます。しかしながら私は、この前後の文脈から、純粋に素晴らしい音楽会にしたいというなつみの気持ちを読み取ります。音楽に対する姿勢が現れたのだと思います。というのも、出来るだけ余計なことばを言っていないからです。「ねえ、てつおくん、自信を持って頑張ろうよ」「諦めたら終わりだよ」等というオーバーな言葉がなく、たんたんとアドバイスしています。それは、なつみが音楽に対して熱心だからだと言えます。さらにもう一つ考えられるのは、昨日のアドバイスです。なつみが指の使い方について指摘した際、てつおは「知らんぷり」をしました。「うるさいなあ」とか、「余計なことを言うなよ」とか、「関係ないじゃん」等といった言葉を返していません。てつおは無視したつもりだったかもしれませんが、それがなつみには熱心に頑張っている姿に見えたのではないでしょうか。イラっときていたとしても、それでも言葉を発しなかったのは、てつおの誠実さが含まれていると思います。なつみはそう感じたからこそ、次の日から積極的に声をかけようと思ったのでしょう。
さて、てつおが、なつみのアドバイスに従い、努力を続けたのはなぜでしょうか。てつおは不満を感じながらも、苦手意識を感じながらも、努力を続けています。これは素晴らしいことです。普通ならばいやだといって辞めてしまうかもしれません。苦手なことほど面白くないのです。ひょっとしたら、てつおは、実は音楽にも興味があり、うまく演奏したいと願っていたのかもしれません。あるいはなつみが丁寧に声をかけてくれたのが嬉しかったのかもしれません。なつみに対する好意が芽生えたのかもしれませんね。なつみの言葉は、上からの目線で説教をしているわけではなく、見下して嘲笑するわけでもなく、それこそ誠実に(あるいは親切に)丁寧に教えています。「もっとやる気を出しなさい」等とは言っていません。てつおなりには感じるものがあったのかもしれません。なつみの誠実さに答えたということになるでしょう。苦手なものに自分だけの力で向き合うのは本当に辛いことです。苦手な時ほど、良き援助者が必要なのです。
一週間がたち、てつおはうまくリコーダーを吹くことが出来ました。大喜びするてつおと、自分のことのようによろこぶなつみ。てつおは音楽会が楽しみになったのです。さて、リコーダーが上達した後、てつおは、何を感じたのでしょうか。ちょっと頑張ればすぐにうまくなる、意外と簡単だったと思ったのかもしれません。あるいは努力を続けて良かったと感じたのかもしれません。達成感という大きな感動を得たのかもしれません。なつみに対する感謝の気持ちを感じた、なつみに恩返ししたいと思った、あるいはなつみとの間に何か強い絆のようなものを感じた等の感想もあるかもしれません。あるいはなつみに好意を感じたのかもしれません。本文最後に「れんごう音楽会が終わったら、なつみさんにさか上がりを教えてあげようかな、とてつおは考えています」とあります。ここから、多くの読者は、得意不得意があるけれどもお互いに教え合うことが素晴らしいことだ、などという感想を持つことでしょう。しかし私は、もう少し違う角度から考えてみたいと思います。てつおとなつみは、もともとは友達ではありません。一緒に遊ぶことなど無かったのです。しかし音楽会という共通の目標に向けて頑張り続ける中で、何か友情のようなものを感じたのだと思います。こういう姿こそが、友達の姿だと思うのです。てつおが吹けるようになった時になつみは自分のことのように喜んでいました。なつみが喜んだのは、なぜでしょうか。てつおの演奏力が上達したから喜んだ、てつおが自信を持ったから喜んだ、てつおが頑張ってきたから喜んだ、等の理由が考えられます。しかしながら最も大きいのは、リコーダーのパートがうまく演奏できるようになったからです。演奏がきれいに、うまく出来ると感じたからです。そこを目指して頑張ってきたのです。なつみの行為は「思いやり」だったのでしょうか。困っている人を助けるというボランティア精神だったのでしょうか。私にはそうは思えません。なつみは純粋に音楽会で最高の演奏がしたかったのです。てつおのことを考えたというよりは、音楽会のことを考えていたのです。そしてこのことは大きな論点になると思うのです。
私たちは「友情」という言葉から、ある一つの見方を持っています。それはA君とB君がお互いを深く思いやることだという見方です。てつおが困っていて、それをなつみが支える。てつおの困惑した心境になつみが共感する。そんなことを「友情」だと思っている人も多いことでしょう。しかし友だちというのは、お互いを見つめ合うようなものではありません。友情は、恋愛ではないのです。私たちは幼いころから、思いやりを形成するよりもはるかに前の段階から「友だちと一緒に遊ぶ」のです。友だちとは、一緒に目的地を目指して歩いているようなそんな関係なのです。お互いを深く理解するということよりも、一緒に頑張るということが重要なのです。一緒になって夢中で遊んでいるというその関係が「友だち」であり、その内側に情が湧くから「友情」なのです。今回の話は、恋愛ではなく、かといって思いやりでもなく、目標に向けた努力の話でもなく、やはりこれは友情の話だと思います。てつおとなつみは、音楽会に向けて努力する中で、共に一つの曲を奏でるというメンバーシップを感じ、「この相手とならば、これからも一緒に頑張れる」と感じた。すなわち友情を感じたのだと思います。
同名の児童文学(子どもと文学の会編集、笠原理恵イラスト『ぼくらだってオーケストラ!(いっしょうけんめい物語)』国土社、1993年)からの資料です。
〔読み物資料のあらすじ〕4年生が地域の連合音楽会に参加することになりました。みんなはおおはしゃぎでしたが、てつおは楽器が苦手で不安でした。しかしリコーダーを担当することになりました。練習してもなかなかうまくいきません。隣のなつみが指の使い方について声をかけてきました。てつおは「なんだよ、えらそうに、さかあがりもできないくせに」と思いながら、知らんぷりをしていました。しかし家に帰って練習していると、なつみの指摘が適切だったことに気づきます。次の日には、なつみが楽譜にドレミを記入してくれました。それから、なつみは丁寧にリコーダーの吹き方を教えてくれました。一週間がたち、やっとうまく吹くことができたのです。なつみは自分のことかのように喜んでいました。てつおは音楽会が楽しみになってきました。
さて、体育は得意だけども楽器演奏は苦手なんていう子は多いと思います。てつおは、不安でいっぱいであったわけですが、てつおは頑張って練習を始めます。うまくできません。そんな時になつみがてつおに声をかけます。指のところが空いている(だから空気が抜けてしまう)という指摘でした。なつみがこのように声をかけたのはなぜでしょうか。おそらくこの時点ではそれほど深い意味はなかったと思います。出来る人からすれば、そこを修正すればうまくいくのにという箇所がよく見えてきます。つい、口から出てしまった、という程度のことだと思います。
その時のてつおはどんな心境でしょうか。「さかあがりもできないくせ」にとはどういう意味なのでしょうか。他者から教えてもらうというのは、決して心地よいことではありません。ダメな自分を注意されているようで辛い。なんだよ!偉そうに!といった不満を持ったのかもしれません。「こういう時にでしゃばる奴はかっこつけているだけ」等というふうに感じていたのかもしれません。鉄棒は、ここでは無関係です。なぜてつおは鉄棒を関連付けたのでしょうか。てつおは、単純なヒエラルキー的な見方を持っていたのかもしれません。すなわち鉄棒が出来る人は優秀だが、鉄棒が出来ない人は劣っているといった見方です。自分よりも上か下かで判断するという、いわば間違った見方を持っていたと思われます。こういう見方、人を上か下かで分けて考える見方というのは、かなり多いのではないかと推察します。
さて、次の日になると、今度はなつみが声をかけてくれます。てつおは、譜面の読み方が分かりにくいのです。なつみはさっと手を差し伸べ、譜面にドレミの文字を書いてくれたのです。なつみがてつおにアドバイスしたのは、なぜでしょうか。てつおはうまくいかずに困っている。イライラしながら、同じことを繰り返しているような状態なのです。なつみが優しいから、親切だから、困っている人を助けようと思ったから、等の理由が考えられます。てつおに対する好意かもしれませんし、逆になつみは音楽が得意であることを自慢しようとしたのかもしれません。人に何かを教えることで優越感に浸ることが出来ます。しかしながら私は、この前後の文脈から、純粋に素晴らしい音楽会にしたいというなつみの気持ちを読み取ります。音楽に対する姿勢が現れたのだと思います。というのも、出来るだけ余計なことばを言っていないからです。「ねえ、てつおくん、自信を持って頑張ろうよ」「諦めたら終わりだよ」等というオーバーな言葉がなく、たんたんとアドバイスしています。それは、なつみが音楽に対して熱心だからだと言えます。さらにもう一つ考えられるのは、昨日のアドバイスです。なつみが指の使い方について指摘した際、てつおは「知らんぷり」をしました。「うるさいなあ」とか、「余計なことを言うなよ」とか、「関係ないじゃん」等といった言葉を返していません。てつおは無視したつもりだったかもしれませんが、それがなつみには熱心に頑張っている姿に見えたのではないでしょうか。イラっときていたとしても、それでも言葉を発しなかったのは、てつおの誠実さが含まれていると思います。なつみはそう感じたからこそ、次の日から積極的に声をかけようと思ったのでしょう。
さて、てつおが、なつみのアドバイスに従い、努力を続けたのはなぜでしょうか。てつおは不満を感じながらも、苦手意識を感じながらも、努力を続けています。これは素晴らしいことです。普通ならばいやだといって辞めてしまうかもしれません。苦手なことほど面白くないのです。ひょっとしたら、てつおは、実は音楽にも興味があり、うまく演奏したいと願っていたのかもしれません。あるいはなつみが丁寧に声をかけてくれたのが嬉しかったのかもしれません。なつみに対する好意が芽生えたのかもしれませんね。なつみの言葉は、上からの目線で説教をしているわけではなく、見下して嘲笑するわけでもなく、それこそ誠実に(あるいは親切に)丁寧に教えています。「もっとやる気を出しなさい」等とは言っていません。てつおなりには感じるものがあったのかもしれません。なつみの誠実さに答えたということになるでしょう。苦手なものに自分だけの力で向き合うのは本当に辛いことです。苦手な時ほど、良き援助者が必要なのです。
一週間がたち、てつおはうまくリコーダーを吹くことが出来ました。大喜びするてつおと、自分のことのようによろこぶなつみ。てつおは音楽会が楽しみになったのです。さて、リコーダーが上達した後、てつおは、何を感じたのでしょうか。ちょっと頑張ればすぐにうまくなる、意外と簡単だったと思ったのかもしれません。あるいは努力を続けて良かったと感じたのかもしれません。達成感という大きな感動を得たのかもしれません。なつみに対する感謝の気持ちを感じた、なつみに恩返ししたいと思った、あるいはなつみとの間に何か強い絆のようなものを感じた等の感想もあるかもしれません。あるいはなつみに好意を感じたのかもしれません。本文最後に「れんごう音楽会が終わったら、なつみさんにさか上がりを教えてあげようかな、とてつおは考えています」とあります。ここから、多くの読者は、得意不得意があるけれどもお互いに教え合うことが素晴らしいことだ、などという感想を持つことでしょう。しかし私は、もう少し違う角度から考えてみたいと思います。てつおとなつみは、もともとは友達ではありません。一緒に遊ぶことなど無かったのです。しかし音楽会という共通の目標に向けて頑張り続ける中で、何か友情のようなものを感じたのだと思います。こういう姿こそが、友達の姿だと思うのです。てつおが吹けるようになった時になつみは自分のことのように喜んでいました。なつみが喜んだのは、なぜでしょうか。てつおの演奏力が上達したから喜んだ、てつおが自信を持ったから喜んだ、てつおが頑張ってきたから喜んだ、等の理由が考えられます。しかしながら最も大きいのは、リコーダーのパートがうまく演奏できるようになったからです。演奏がきれいに、うまく出来ると感じたからです。そこを目指して頑張ってきたのです。なつみの行為は「思いやり」だったのでしょうか。困っている人を助けるというボランティア精神だったのでしょうか。私にはそうは思えません。なつみは純粋に音楽会で最高の演奏がしたかったのです。てつおのことを考えたというよりは、音楽会のことを考えていたのです。そしてこのことは大きな論点になると思うのです。
私たちは「友情」という言葉から、ある一つの見方を持っています。それはA君とB君がお互いを深く思いやることだという見方です。てつおが困っていて、それをなつみが支える。てつおの困惑した心境になつみが共感する。そんなことを「友情」だと思っている人も多いことでしょう。しかし友だちというのは、お互いを見つめ合うようなものではありません。友情は、恋愛ではないのです。私たちは幼いころから、思いやりを形成するよりもはるかに前の段階から「友だちと一緒に遊ぶ」のです。友だちとは、一緒に目的地を目指して歩いているようなそんな関係なのです。お互いを深く理解するということよりも、一緒に頑張るということが重要なのです。一緒になって夢中で遊んでいるというその関係が「友だち」であり、その内側に情が湧くから「友情」なのです。今回の話は、恋愛ではなく、かといって思いやりでもなく、目標に向けた努力の話でもなく、やはりこれは友情の話だと思います。てつおとなつみは、音楽会に向けて努力する中で、共に一つの曲を奏でるというメンバーシップを感じ、「この相手とならば、これからも一緒に頑張れる」と感じた。すなわち友情を感じたのだと思います。