「まるごと好きです」
 (文:工藤直子、絵:ナカムラユキ『中学道徳3 明日をひらく』東京書籍)

 〔読み物資料のあらすじ〕主人公の女の子は、田舎育ち。最近彦根という町に引っ越してきました。クラスの友達はみんな洗練されて上品に見えました。主人公はその友達一人ひとりについて思い返していきます。主人公は、みんなのことを「まるごと好きになる」と言います。それは嫌いな部分、苦手な部分をひっくるめて好きになるということ、その子の良さを再発見しながらかかわっていくということです。

 主人公は友達の一人ひとりを思い返し、嫌いなところも含めて好きだといいます。まずは、色白のまきちゃん。いつも静かで、やさしいところもありますが、その一方、臆病で失敗すると陰気になるところがあります。そんな暗い子はみんなにも嫌われてしまいがちです。しかし主人公は、まきちゃんのやさしを見つけてそれが好きだと言います。
 京子さんの家は、呉服屋です。京子さんは服のセンスがよく、いつも清潔でした。その一方で、おしゃれでつんとしているという見方もあるかもしれません。沢本さんは、日本舞踊を習っていて、身のこなし方は優雅でした。その一方で、なよなよしていやらしいという見方もあるかもしれません。数学ばつぐんの石田さん。熱中すると周囲を忘れてしまう。ぶっきらぼうで、とっつきにくい人と言われるかもしれません。スポーツや勉強で万能なさきちゃんも、まるで男みたいと言われるかもしれません。
 さて、主人公の女の子は、クラスの友達に対して上記のような多面的というべき広くて豊かな見方に達しているように思えます。主人公の女の子がこのようにクラスの子たちの良さをじっくりととらえることが出来たのは、なぜでしょうか。それは、どんな条件があるでしょうか。年齢的なものもあると思います。主人公も指摘していますが、小学生ではここまで個性的な姿は出てこないかもしれません。長い年月生きてきて、自分らしさに到達しているのかもしれません。田舎町で素朴に育ってきたという主人公が、引っ越しにより都会の風を感じているという、その状況において、全ての友達がしっかりと見えてきたのかもしれません。また、焦っていたり、動揺したり、悩んでいたり、あるいは他のことに夢中になっていたり、忙しい日々を送っているならば、とても周囲を冷静に見つめることはできません。主人公の女の子の気持ちがとても安定していて、充実しているということもあります。
 人間には良さと悪さがあるというよりはむしろ、一つの個性の「良いとらえ方」と「悪いとらえ方」があるということなのです。それが大切だということは分かるのですが、相手の人間性全体を受け止めるということは、なかなか出来ないことです。私たちはなぜ両方をしっかり見つめようとしないのでしょうか。悪い部分を、その悪い部分だけで論じてしまい、さらにその人物全体が悪いものとして評価してしまうような、そんな傾向さえあります。普通ならば、陰気なところはみんな嫌いです。「まきちゃんは陰気な人だ」ということになり、結果的にはみんなが距離を置くでしょうし、いじめへと発展するかもしれません。つい、子どもたちは、まきちゃん=暗い子、という単純で一面的な位置付けをしたくなる(評価を完了してしまう)のです。学校や学級の中において、相手のことを多面的に総合的に見つめるというだけの余裕がない。人間に対する貧しい見方でとどまってしまう。そんな傾向があるのかもしれません。学級の中で、明るくて爽やかでコミュニケーションが上手で、スポーツや勉強が出来るという子は、周囲の尊敬を集めていきますし、大切にされていきます。逆に何のとりえもないような暗い子はどんどん排斥されていきます。誰もその子を見つめようとしないのです。価値というものは一元的になっていき、全てが優劣という形で位置づけられていきます。その結果が「いじめ」だと考えられるのです。
 なぜ主人公は、このまきちゃんを受け入れることが出来たのでしょうか。推察するに、まきちゃんが陰気だからといって、それほど影響を受けない強さがあるのです。放っておいても何ということはない。彼女の心のゆとりというか、自信というか、強さのようなものです。それが欠けていると「陰気なまきちゃんと一緒にいるとこっちも陰気になってしまう」ということになります。一定の距離感がとても大切なのです。さらに、まきちゃんについていろんな面を見ようという姿勢が重要です。私たちはつい、「坊主憎けりゃ…」ではありませんが、嫌なところが一つ見えてきたからといって全てが嫌いになってしまうのです。結局のところ、そのような貧しい見方では楽しくなくなってしまいます。主人公は心の距離があるからこそ、まきちゃんのやさしさを発見することが出来たのです。
 「まるごと好き」というのはどういう意味でしょうか。良いところもあるし、嫌いなところもある。その全体像を見つめているということなのです。誰だって良いところも悪いところもある。そうやって一生懸命に生きている。失敗もあれば成功もある。悩みもあれば喜びもある。そういうことについての全体的な眼差しです。主人公の頭の中には、友達一人ひとりのそのイメージが出来上がっています。そして日々の言動を見るたびに、「あ、やっぱり〇〇ちゃんらしいな」と思うのです。まるごと好きというのは、個人的な恋愛感情でもなく、親密な友情でもありません。その人のことを知っていますよ、その人の全てを受け入れていますよ、その人のことを見守っていますよ、そんな気持ちでしょうか。愛おしさ、といってもいいでしょうか。
 普通ならば、自分を含む親密な仲間関係の内側にだけ、こういう眼差しが出来てくると思うのです。それがここではクラス全体に向いているという点は重要です。主人公はクラス全体が好きということなのです。多様な子がいて、みながのびのび自分らしく生きているというこの空間が好きなのです。逆に言えば、みんなが自分に自信がなく、いらいらしているというならば、みんな好きということにはならないと思います。クラスの子全員が1人の子に憧れ、彼女を頂点とするようなシステムが出来上がった時、学校生活はつまらなくなってしまいます。自分は自分らしく正々堂々と、自信を持って生きている姿というのは、とても美しい。
 学校教育の現場では個性を伸ばすことが重要な課題の一つとなっています。はたして個性を伸ばすことは、どういうことなのでしょうか。バスケットボールの能力が高いなどの個々の能力であれば、それを伸ばすことは分かりやすい。しかし本資料で主人公が見つめている姿を「個性」と呼ぶのであれば、それを「伸ばす」というのは、ちょっと変なことです。例えば「内側にカールした髪をおかっぱにして、背筋をのばして歩いている」等というのはその人の様子を描いた一場面です。日常的な姿や様子を総合的に合わせてみて、そこでその人物像が浮かび上がってきます。そういうものをイメージするのであれば、個性を伸ばすということは、とりもなおさず、放置するということになるはずです。その人の人間性の一部をつかみとって、ぐいっと引っ張る等と言うことはできないはずですし、すべきでもありません。個性が伸びていくための空間というものを想定してみるとよいでしょう。それは学校なり学級がゆったりとした空間でありながら、ある程度は刺激し合うようなそんな豊かな空間なのです。優劣やヒエラルキーが出来ないようにするということなのです。そうすれば、結果的に30人は30人の色を強くしていくと思われます。
 寛容、寛大とはどういうことでしょうか。ルール違反や犯罪のような場合には、それを許してはいけません。公正公平に対処することが重要です。しかしそうでなければ、例えば、騒がしいとか、陰気だとか、なよなよしているといった個々の性格については、出来ればそれは寛容な心で受け止めていきたい。公園で子どもが遊んでいても、「休日なのにうるさいなあ」と怒るのではなく、「子どもは元気が一番」という具合に受け止めていきたいものです。寛容、寛大というのは、相手も自分と同じ人間であり、同じように喜びや悲しみや葛藤があり、そして良い面も悪い面もある。そういった多面的で総合的な見方に立った時に、じんわりと出てくる態度だと思います。そしてそのためには、私と彼との間のゆったりした距離感が保たれていることが必要なのです。