「雨のバスていりゅう所で」(文:成田國英、絵:黒木ひとみ『ゆたかな心で どうとく4』東京書籍)
〔読み物資料のあらすじ〕女の子(よし子)が母親と出かけた時のことです。大つぶの雨が降ってきて、風も強くなりました。バス停につくと、そのバス停には誰もいませんでしたが、少し離れたたばこ屋さんの軒下で数人が雨宿りをしています。よし子もその雨宿りの中に入りました。しばらくしてバスが来るとよし子は走ってバス停の先頭に並ぼうとしたのです。お母さんや他の客も何か声を発しましたが、よし子はそのまま先頭に並び、バスに乗ろうとしたのです。ところがお母さんがよし子の手をひき、後ろに並ばせました。結局二人は、バスの座席には座れませんでした。母親はだまったまま、知らぬふりをして立っています。
さて、非常に有名な資料です。多くの副読本にも掲載されてきました。公徳心や規則について考えさせる資料となっています。本資料を前にして、よし子はどうするべきでしたか?と問いかけてしまう人もいます。どうすべきだったかと言われれば、それは勿論、軒下にいる人々を優先させ、自分は最後に乗車するべきだということになります。よし子が間違えたのであろうということは明らかなのです。しかしながら、よし子が間違えているのはどういう意味においてなのか。もう少し、じっくりと検討することが求められるのです。
まずは、よし子の心境について推察していこうと思います。よし子と母親は、たばこ屋の軒下に立ってバスを待つことにしたのです。雨と風が強く、他の人もそこにいたのですから、自然と、無意識のうちにそこに並ぶことにしたと思われます。さてそこでバスがやってきました。よし子は走り出してバス停の先頭に並ぼうとするのです。それはなぜでしょうか。よし子はどんな心境だったでしょうか。バスに最初に乗りたかった、最初に乗れば座席に座ることができるのです。雨が降り、風が強かったのですから少しでも楽な姿勢で移動したいと思ったのでしょう。あるいはゲーム感覚で、最初にバスを見つけたということを自慢しようとしたのかもしれません。しかしそれだけではありません。この状況はかなり微妙なのです。今、バス停の周辺には誰も立っていなかった、他の人はバス停に並んでいるわけではない、それゆえ最初にバス停に到着した人から順に並ぶべきである、というふうに考えたと思われます。よし子は、よし子なりの解釈をしたのです。ここにいる人たちは並んでいるわけではない、と。
では、母は、そんなよし子をなぜ、止めたのでしょうか。母親の目からすれば、軒下に並んでいるのがバス停に並んでいることを示しているのは一目瞭然です。誰が一番で誰が二番なのかは分かりません。しかし母と娘が来た時にはみなそこにいたわけですから、当然ながらバスに乗るのも、その人たちから先なのです。それが社会人としてのマナーであり、モラルであると母は感じていたのです。にもかかわらず、よし子は他の人を押しのけて自分だけ先に入って座ろうとしたのです。母親からすれば自分勝手な姿に思えたのでしょう。
ところで、他のお客さん。その軒下で待っていた人の心境はどのようなものでしょうか。よし子がバスに乗ろうとした際に、「お母さんの声が聞こえたような気がしました。よその人の声も聞こえたようにも思いました」と記述があります。そこから推察するに、母親は「よし子、ダメでしょ」と声をかけ、他の客は「そんなこと、やっちゃいけないよ」等と言ったのでしょう。おそらく周囲にいた人々にすれば、よし子が割り込みをしたというふうに見えたのです。不快だったと思います。母親が制止し、よし子がしぶしぶそれに従ったため、周囲の人は、ほっとしたのだと思います。母親が制止しなければ誰かが「後ろに並びなさい」と注意したかもしれません。他には誰も何も言っていませんが、かといってよし子の言動を容認しているわけではなく、割り込みに対しては皆「え?」という心境なのです。この辺の感覚、みんなイラッときているのに誰も何も言わない、という感覚は、なかなか子どもには分かりません。
さて、結局は二人とも座席に座ることができませんでした。よし子からすれば「え?だって、あの人たち並んでなかったよ!」と言いたいところでしょう。いつも優しい笑顔の母は、ここでは厳しい表情でした。母親はとくに何かを諭したわけではありません。母親は、「何をやってるの?」等とよし子を問いつめているわけではありません。母親は、なぜ言葉を発しなかったのでしょうか。とにかく母親は不快そうです。娘の非常識に対して怒りを覚えているのかもしれません。娘の非常識に対して恥ずかしい思いをしているのかもしれません。本当ならば丁寧に説明した方がいいのかもしれませんが、そういう話をするような場所でもないのです。そこには他の客がたくさんいるのです。自宅でくつろいでいる時とは違う、別の秩序がそこにはあるはずなのです。あるいは言葉で説明してしまえば、伝わらない。礼儀というのは振舞いを見て感じるものだということが言いたかったのかもしれません。母親が黙っていることによって、この問題を自分で感じて欲しい、周囲の状況を見て自分で考えて欲しいと思っているのかもしれません。
バスに乗り込んだ時には、なかなかよし子は気付かなかったかもしれません。どれくらい時間が経つでしょうか。この状況の中で、少しずつ、よし子は何かに気づき始めます。勿論、気づかなかったかもしれません。最後の最後まで母親に対するむしゃくしゃした気持ちでいたのかもしれません。しかし私たちはこの資料から、一歩でも半歩でも道徳的な姿を読み取りたいと思います。大切な何かです。よし子はどんなことに気づいたでしょうか。おそらくそれは、「見えないルールの存在」だと思うのです。お母さんが怒ったというだけでは気づけません。そうではなく、周囲の人々の様子を見て、気づくのです。自分は、軒下にいるのは並んでいないものだととらえていた。しかしどうやらそうではなかったようなのです。自分の勝手な解釈や思い込みだけで行動するとよくない。そこにいる人々の間で、いつの間にか見えないルールのようなものが出来ていて、どうやら自分はそれを破ったようだ、という漠然とした感覚を得たと思うのです。
目に見えないルールやマナー等について考えてみたいと思います。バスの中で周囲の人々に気を遣うべきなのはなぜでしょうか。揺れるバスの中では座って過ごしたいと思うのが自然です。みんな同じことを感じているのです。しかしその中には障害があったり、妊婦さんや高齢者もいるかもしれません。「いるかもしれない」という前提で考えるのは大切なことです。狭い空間にたくさんの人が入るわけです。出来るだけ苦痛はみんなで均等に分け与えて、一人が極端に苦しむようなことはなくしたい。体力的に大丈夫な人は立ち、身体が弱い人が座る、それによってバランスを取る。そんな感覚でしょうか。並んだ方がいいのはなぜでしょう。自分のことだけを考えて、ズカズカと前に進む姿は、とても醜い姿です。自分の安定と快楽だけを追求して、周囲の人々に意識が向かない人に対して、私たちはどんな印象を持つでしょうか。うわあっという印象、何か汚い物でも見るかような眼差しです。人々が集まっている場所に、身勝手な人が1人入ってくれば、周囲の人々はみな不快感を抱くでしょう。身勝手な人を見ると、そんな人と一緒にいたくないと思うのです。冷たい視線を浴びながらこの不安定な空間で一定の時間を過ごすのです。それは正常な感覚の持ち主であれば辛いはずです。列を作り、静かに移動して乗車する。それが出来る私たち日本人の文化はとても礼儀正しく、美しい姿だと思います。私たちは美しい姿を眺め、美しいものに囲まれて生きていきたいのです。それが私たちの常識感覚です。バス乗車の仕方は、法律になっているわけではありません。皆がそういう考えを持っていれば世の中は住みやすくなるでしょう。大切なことは、全体を見渡して自分の立ち位置やあり方を決めるということです。それが「公徳心」なのです。
〔読み物資料のあらすじ〕女の子(よし子)が母親と出かけた時のことです。大つぶの雨が降ってきて、風も強くなりました。バス停につくと、そのバス停には誰もいませんでしたが、少し離れたたばこ屋さんの軒下で数人が雨宿りをしています。よし子もその雨宿りの中に入りました。しばらくしてバスが来るとよし子は走ってバス停の先頭に並ぼうとしたのです。お母さんや他の客も何か声を発しましたが、よし子はそのまま先頭に並び、バスに乗ろうとしたのです。ところがお母さんがよし子の手をひき、後ろに並ばせました。結局二人は、バスの座席には座れませんでした。母親はだまったまま、知らぬふりをして立っています。
さて、非常に有名な資料です。多くの副読本にも掲載されてきました。公徳心や規則について考えさせる資料となっています。本資料を前にして、よし子はどうするべきでしたか?と問いかけてしまう人もいます。どうすべきだったかと言われれば、それは勿論、軒下にいる人々を優先させ、自分は最後に乗車するべきだということになります。よし子が間違えたのであろうということは明らかなのです。しかしながら、よし子が間違えているのはどういう意味においてなのか。もう少し、じっくりと検討することが求められるのです。
まずは、よし子の心境について推察していこうと思います。よし子と母親は、たばこ屋の軒下に立ってバスを待つことにしたのです。雨と風が強く、他の人もそこにいたのですから、自然と、無意識のうちにそこに並ぶことにしたと思われます。さてそこでバスがやってきました。よし子は走り出してバス停の先頭に並ぼうとするのです。それはなぜでしょうか。よし子はどんな心境だったでしょうか。バスに最初に乗りたかった、最初に乗れば座席に座ることができるのです。雨が降り、風が強かったのですから少しでも楽な姿勢で移動したいと思ったのでしょう。あるいはゲーム感覚で、最初にバスを見つけたということを自慢しようとしたのかもしれません。しかしそれだけではありません。この状況はかなり微妙なのです。今、バス停の周辺には誰も立っていなかった、他の人はバス停に並んでいるわけではない、それゆえ最初にバス停に到着した人から順に並ぶべきである、というふうに考えたと思われます。よし子は、よし子なりの解釈をしたのです。ここにいる人たちは並んでいるわけではない、と。
では、母は、そんなよし子をなぜ、止めたのでしょうか。母親の目からすれば、軒下に並んでいるのがバス停に並んでいることを示しているのは一目瞭然です。誰が一番で誰が二番なのかは分かりません。しかし母と娘が来た時にはみなそこにいたわけですから、当然ながらバスに乗るのも、その人たちから先なのです。それが社会人としてのマナーであり、モラルであると母は感じていたのです。にもかかわらず、よし子は他の人を押しのけて自分だけ先に入って座ろうとしたのです。母親からすれば自分勝手な姿に思えたのでしょう。
ところで、他のお客さん。その軒下で待っていた人の心境はどのようなものでしょうか。よし子がバスに乗ろうとした際に、「お母さんの声が聞こえたような気がしました。よその人の声も聞こえたようにも思いました」と記述があります。そこから推察するに、母親は「よし子、ダメでしょ」と声をかけ、他の客は「そんなこと、やっちゃいけないよ」等と言ったのでしょう。おそらく周囲にいた人々にすれば、よし子が割り込みをしたというふうに見えたのです。不快だったと思います。母親が制止し、よし子がしぶしぶそれに従ったため、周囲の人は、ほっとしたのだと思います。母親が制止しなければ誰かが「後ろに並びなさい」と注意したかもしれません。他には誰も何も言っていませんが、かといってよし子の言動を容認しているわけではなく、割り込みに対しては皆「え?」という心境なのです。この辺の感覚、みんなイラッときているのに誰も何も言わない、という感覚は、なかなか子どもには分かりません。
さて、結局は二人とも座席に座ることができませんでした。よし子からすれば「え?だって、あの人たち並んでなかったよ!」と言いたいところでしょう。いつも優しい笑顔の母は、ここでは厳しい表情でした。母親はとくに何かを諭したわけではありません。母親は、「何をやってるの?」等とよし子を問いつめているわけではありません。母親は、なぜ言葉を発しなかったのでしょうか。とにかく母親は不快そうです。娘の非常識に対して怒りを覚えているのかもしれません。娘の非常識に対して恥ずかしい思いをしているのかもしれません。本当ならば丁寧に説明した方がいいのかもしれませんが、そういう話をするような場所でもないのです。そこには他の客がたくさんいるのです。自宅でくつろいでいる時とは違う、別の秩序がそこにはあるはずなのです。あるいは言葉で説明してしまえば、伝わらない。礼儀というのは振舞いを見て感じるものだということが言いたかったのかもしれません。母親が黙っていることによって、この問題を自分で感じて欲しい、周囲の状況を見て自分で考えて欲しいと思っているのかもしれません。
バスに乗り込んだ時には、なかなかよし子は気付かなかったかもしれません。どれくらい時間が経つでしょうか。この状況の中で、少しずつ、よし子は何かに気づき始めます。勿論、気づかなかったかもしれません。最後の最後まで母親に対するむしゃくしゃした気持ちでいたのかもしれません。しかし私たちはこの資料から、一歩でも半歩でも道徳的な姿を読み取りたいと思います。大切な何かです。よし子はどんなことに気づいたでしょうか。おそらくそれは、「見えないルールの存在」だと思うのです。お母さんが怒ったというだけでは気づけません。そうではなく、周囲の人々の様子を見て、気づくのです。自分は、軒下にいるのは並んでいないものだととらえていた。しかしどうやらそうではなかったようなのです。自分の勝手な解釈や思い込みだけで行動するとよくない。そこにいる人々の間で、いつの間にか見えないルールのようなものが出来ていて、どうやら自分はそれを破ったようだ、という漠然とした感覚を得たと思うのです。
目に見えないルールやマナー等について考えてみたいと思います。バスの中で周囲の人々に気を遣うべきなのはなぜでしょうか。揺れるバスの中では座って過ごしたいと思うのが自然です。みんな同じことを感じているのです。しかしその中には障害があったり、妊婦さんや高齢者もいるかもしれません。「いるかもしれない」という前提で考えるのは大切なことです。狭い空間にたくさんの人が入るわけです。出来るだけ苦痛はみんなで均等に分け与えて、一人が極端に苦しむようなことはなくしたい。体力的に大丈夫な人は立ち、身体が弱い人が座る、それによってバランスを取る。そんな感覚でしょうか。並んだ方がいいのはなぜでしょう。自分のことだけを考えて、ズカズカと前に進む姿は、とても醜い姿です。自分の安定と快楽だけを追求して、周囲の人々に意識が向かない人に対して、私たちはどんな印象を持つでしょうか。うわあっという印象、何か汚い物でも見るかような眼差しです。人々が集まっている場所に、身勝手な人が1人入ってくれば、周囲の人々はみな不快感を抱くでしょう。身勝手な人を見ると、そんな人と一緒にいたくないと思うのです。冷たい視線を浴びながらこの不安定な空間で一定の時間を過ごすのです。それは正常な感覚の持ち主であれば辛いはずです。列を作り、静かに移動して乗車する。それが出来る私たち日本人の文化はとても礼儀正しく、美しい姿だと思います。私たちは美しい姿を眺め、美しいものに囲まれて生きていきたいのです。それが私たちの常識感覚です。バス乗車の仕方は、法律になっているわけではありません。皆がそういう考えを持っていれば世の中は住みやすくなるでしょう。大切なことは、全体を見渡して自分の立ち位置やあり方を決めるということです。それが「公徳心」なのです。