「正義ってなに?」
(文:編集委員会、絵:ナカムラユキ『中学道徳1 明日をひらく』東京書籍)
〔読み物資料のあらすじ〕主人公のさくらは、父の仕事の関係でアメリカに来ていました。さくらはアメリカ現地の中学校に通っています。クラスの代表に選ばれたキャロルが、クラスメイトに指示を出していきました。周囲からは自分勝手ではないかと批判が出るのですが、キャロルには言い分もあります。後にキャロルに反対する子たちが団結を始めたのです。間に立つさくらは迷うばかりでした。
さて、社会科の模擬裁判をしようという際の話でした。キャロルは自分がクラスの代表だったということもあり、あなたは裁判長ね、あなたは検事ね、といった具合で、クラスメイトに次から次へと指示を出していったのです。キャロルが指示を出したのはなぜでしょうか。キャロルにとってクラス代表ということは、クラス全体の学習や生活をうまくまとめるという仕事をするということです。彼女なりに責任を感じていたのでしょう。一人ひとりの意見や希望を聞いていてはまとまらない。時間も大幅にかかってしまいます。今回は社会科の授業ですから、模擬裁判の中身こそ重要なのであり、その決め方は重要ではないはずです。ですからキャロルはそうした全体という立場から役割配分をしていったのです。では、役割配分は全くのランダムだったのでしょうか。おそらくはキャロルの無意識の中で、いくつかの「思い」があったと思われます。サムは、冷静で的確な判断が出来そうだから裁判長に適している、ポールは雰囲気から言って検事に適している。自分は弁護人に適していると自負している。そんな思い、ひょっとしたら偏見かもしれないのですが、それでもキャロルの意識の中ではある一つの考えに基づいて全員に役割を与えているのだと思われます。だからこそ、キャロルは全員をうまくまとめることができたと考えているのでしょう。くじ引きなどで決めるよりも、相手の個性を見ながら考えた方がいいとキャロルは考えていたのでしょう。
さて、ルーシーが不満だったのはなぜでしょうか。ルーシーは「あなたが勝手に決めるのは、おかしくない?あなたは自分が弁護人をやりたいだけじゃない」と言って反論しました。フェアではない。その決定方法に問題を突き付けているようにも見えます。氏名の語順、あるいはくじ引き等で決めたのであればルーシーは問題を指摘することはなかったかもしれません。しかしルーシーが不満だったもう一つの理由は、おそらく陪審員という役に不満だったということだと思われます。弁護人という役は、全体の中でも目立つ立場であり、みんなが憧れるようなそんな役割です。ルーシーもまた弁護人がやりたかったのでしょう。しかしキャロルは自分が弁護人だといいます。それはルーシーからすれば納得できない話でした。決定方法と決定結果の両方に不満があり、その両方をぶつけているのです。ひょっとすればそれだけでなく、キャロルのその表情や言い方、そのスタイルそのものが不満だったのかもしれません。パッパッと決めていく姿が、まるで暴君か専制君主のように見えたのでしょう。
キャロルは、自分の考えを何度も説明しているのですが、ルーシーはキャロルの言葉を聞くことが出来ませんでした。それはなぜでしょうか。ルーシーは、キャロルの「本心」と「表向きの答弁」とを区別してとらえてしまうのです。本当は弁護人がやりたいだけだととらえているのです。かくしてルーシーたちは「キャロルを正す会」を結成していきます。その目的はキャロルのワガママなのです。キャロルは自分のことをワガママなどとは思っていません。このやりとりは極めて壮大なズレのように思えます。
なぜルーシーたちはキャロルを無視するのでしょうか。嫌がらせを意識的にやっているわけではありません。ルーシーたちはキャロルに対して言いたいことがあったのに、キャロルがそれを聞いてくれないから、そんな状態では仲良く接することができないという強硬手段に出ているのです。はたしてこれをいじめと呼んで良いでしょうか。広義においては、キャロルが精神的苦痛を感じているというわけですからいじめに該当するということになります。しかし意図的ではありません。ルーシーたちは、キャロルに対して問題提起をしたいわけですし、話し合いがしたいのです。究極的には、このことでキャロルが反省し、性格を変えてくれればよい、ということまで思っているのです。
本課題のタイトルは「正義って何」という問いです。正義とは何でしょうか。正義とは、多くの人々の間で、それを正しい形でまとめていくという徳のあり方を指しているようです。普通は社会とか国家といった時に論じることになりますが、ここでは教室の人間関係を指しています。学校や教室においても、多くの人々がかかわっているわけですから、そこで論理的に納得できるような正しい秩序があるかどうかは重要なことです。難しいのは、そこにいるのが親友ではなく、他者だという点です。みんなの希望はバラバラだという前提が必要です。短時間で模擬裁判の役割を決めてしまわなければならないという制度的な条件あるいは制約の中で、判断が求められていきます。全員の希望や意見を聞きながら決定していくだけのゆとりがあるかないかです。もし意見を聞くということになれば、全員が納得できるような決め方にしなければいけません。ルーシーはそこまで考えているのでしょうか。もしランダムやくじで決めるのであれば、その結果ルーシーが何の役になっても諦めなければならない。正義について考えるならば、そのような全体をまとめる原理について考えるべきなのです。ルーシーのようにキャロルに反省させたり、キャロルの性格を変えたりすることは、考えるべきではないと思うのです。
学校生活をより良く、充実させていくということはどういうことでしょうか。一見するとみんなで楽しく、お互い理解し合い、受け入れていくこと、みんなが満足することのように思われがちです。それが出来ればいいのですが、年齢が上がっていくにつれてそれが出来ないことが多くなってきます。一人ひとりの意志や考え方はバラバラになっていくからです。クラスにはいろんな子がいて、それぞれが理想や要望を抱いています。その場合は、「クラス全体をまとめる」というよりは、「クラス全体のまとめ方を決める」という形にならざるを得ないのです。それは学校生活の充実とは少し距離があるように思われるかもしれませんが、ケンカや対立が継続するよりは良いのです。キャロルがわがままかどうかという論点ではなく、社会科授業のような場面において、どのように役割分担を決めるか、その原理、すなわち正義論を考えるべきなのです。
(文:編集委員会、絵:ナカムラユキ『中学道徳1 明日をひらく』東京書籍)
〔読み物資料のあらすじ〕主人公のさくらは、父の仕事の関係でアメリカに来ていました。さくらはアメリカ現地の中学校に通っています。クラスの代表に選ばれたキャロルが、クラスメイトに指示を出していきました。周囲からは自分勝手ではないかと批判が出るのですが、キャロルには言い分もあります。後にキャロルに反対する子たちが団結を始めたのです。間に立つさくらは迷うばかりでした。
さて、社会科の模擬裁判をしようという際の話でした。キャロルは自分がクラスの代表だったということもあり、あなたは裁判長ね、あなたは検事ね、といった具合で、クラスメイトに次から次へと指示を出していったのです。キャロルが指示を出したのはなぜでしょうか。キャロルにとってクラス代表ということは、クラス全体の学習や生活をうまくまとめるという仕事をするということです。彼女なりに責任を感じていたのでしょう。一人ひとりの意見や希望を聞いていてはまとまらない。時間も大幅にかかってしまいます。今回は社会科の授業ですから、模擬裁判の中身こそ重要なのであり、その決め方は重要ではないはずです。ですからキャロルはそうした全体という立場から役割配分をしていったのです。では、役割配分は全くのランダムだったのでしょうか。おそらくはキャロルの無意識の中で、いくつかの「思い」があったと思われます。サムは、冷静で的確な判断が出来そうだから裁判長に適している、ポールは雰囲気から言って検事に適している。自分は弁護人に適していると自負している。そんな思い、ひょっとしたら偏見かもしれないのですが、それでもキャロルの意識の中ではある一つの考えに基づいて全員に役割を与えているのだと思われます。だからこそ、キャロルは全員をうまくまとめることができたと考えているのでしょう。くじ引きなどで決めるよりも、相手の個性を見ながら考えた方がいいとキャロルは考えていたのでしょう。
さて、ルーシーが不満だったのはなぜでしょうか。ルーシーは「あなたが勝手に決めるのは、おかしくない?あなたは自分が弁護人をやりたいだけじゃない」と言って反論しました。フェアではない。その決定方法に問題を突き付けているようにも見えます。氏名の語順、あるいはくじ引き等で決めたのであればルーシーは問題を指摘することはなかったかもしれません。しかしルーシーが不満だったもう一つの理由は、おそらく陪審員という役に不満だったということだと思われます。弁護人という役は、全体の中でも目立つ立場であり、みんなが憧れるようなそんな役割です。ルーシーもまた弁護人がやりたかったのでしょう。しかしキャロルは自分が弁護人だといいます。それはルーシーからすれば納得できない話でした。決定方法と決定結果の両方に不満があり、その両方をぶつけているのです。ひょっとすればそれだけでなく、キャロルのその表情や言い方、そのスタイルそのものが不満だったのかもしれません。パッパッと決めていく姿が、まるで暴君か専制君主のように見えたのでしょう。
キャロルは、自分の考えを何度も説明しているのですが、ルーシーはキャロルの言葉を聞くことが出来ませんでした。それはなぜでしょうか。ルーシーは、キャロルの「本心」と「表向きの答弁」とを区別してとらえてしまうのです。本当は弁護人がやりたいだけだととらえているのです。かくしてルーシーたちは「キャロルを正す会」を結成していきます。その目的はキャロルのワガママなのです。キャロルは自分のことをワガママなどとは思っていません。このやりとりは極めて壮大なズレのように思えます。
なぜルーシーたちはキャロルを無視するのでしょうか。嫌がらせを意識的にやっているわけではありません。ルーシーたちはキャロルに対して言いたいことがあったのに、キャロルがそれを聞いてくれないから、そんな状態では仲良く接することができないという強硬手段に出ているのです。はたしてこれをいじめと呼んで良いでしょうか。広義においては、キャロルが精神的苦痛を感じているというわけですからいじめに該当するということになります。しかし意図的ではありません。ルーシーたちは、キャロルに対して問題提起をしたいわけですし、話し合いがしたいのです。究極的には、このことでキャロルが反省し、性格を変えてくれればよい、ということまで思っているのです。
本課題のタイトルは「正義って何」という問いです。正義とは何でしょうか。正義とは、多くの人々の間で、それを正しい形でまとめていくという徳のあり方を指しているようです。普通は社会とか国家といった時に論じることになりますが、ここでは教室の人間関係を指しています。学校や教室においても、多くの人々がかかわっているわけですから、そこで論理的に納得できるような正しい秩序があるかどうかは重要なことです。難しいのは、そこにいるのが親友ではなく、他者だという点です。みんなの希望はバラバラだという前提が必要です。短時間で模擬裁判の役割を決めてしまわなければならないという制度的な条件あるいは制約の中で、判断が求められていきます。全員の希望や意見を聞きながら決定していくだけのゆとりがあるかないかです。もし意見を聞くということになれば、全員が納得できるような決め方にしなければいけません。ルーシーはそこまで考えているのでしょうか。もしランダムやくじで決めるのであれば、その結果ルーシーが何の役になっても諦めなければならない。正義について考えるならば、そのような全体をまとめる原理について考えるべきなのです。ルーシーのようにキャロルに反省させたり、キャロルの性格を変えたりすることは、考えるべきではないと思うのです。
学校生活をより良く、充実させていくということはどういうことでしょうか。一見するとみんなで楽しく、お互い理解し合い、受け入れていくこと、みんなが満足することのように思われがちです。それが出来ればいいのですが、年齢が上がっていくにつれてそれが出来ないことが多くなってきます。一人ひとりの意志や考え方はバラバラになっていくからです。クラスにはいろんな子がいて、それぞれが理想や要望を抱いています。その場合は、「クラス全体をまとめる」というよりは、「クラス全体のまとめ方を決める」という形にならざるを得ないのです。それは学校生活の充実とは少し距離があるように思われるかもしれませんが、ケンカや対立が継続するよりは良いのです。キャロルがわがままかどうかという論点ではなく、社会科授業のような場面において、どのように役割分担を決めるか、その原理、すなわち正義論を考えるべきなのです。