「加山さんの願い」(『中学道徳3 明日をひらく』東京書籍)

〔読み物資料のあらすじ〕会社を定年退職した加山さんが、老人訪問ボランティアを始めました。中井さんのところを訪問したところ、非常に不快感を示されてしまいます。一方、田中さんの訪問ではとても感謝されました。近所の後藤さんの言葉はとても重く感じられました。しばらくボランティアを続けていくと中井さんとも打ち解け合うようになってきました。改めて加山さんは、自分が「世話をしてあげている」という意識になってしまっていたことを反省したのです。

 さて、加山さんがボランティアを始めたのはなぜでしょうか。直接的には、老人が孤独死するという現実を目の当たりにしたためです。しかしそれだけではありません。散歩をしながら街のことや自然のことに関心を持つようになったこと、心に余裕があって、周囲のことに目が向くようになったこと。そんな状況だったからだとも言えます。また自分も、今はよいけれども、いつかは必ず死ぬはずだ。その時までに自分が生きた証のようなものが欲しい、そんな思いもあったのではないかと推察します。
 加山さんは市の訪問ボランティアに登録して、高齢者の自宅を訪問することになりました。訪問した際の中井さんは、「なにか売りつける気か」「いらぬ世話だ」と、とにかく不快でした。一方、同じ高齢者の田中さんの自宅を訪問した際には、深く感謝の気持ちを表現してくれたのです。加山さんにとっては、田中さんの対応は言わば自然であり、普通であり、中井さんの対応は不自然であり、変わっているという印象でした。
 その後、近所の後藤さんに声をかけられます。後藤さんのことば(さすが、うらやましい)はどんな意味があったでしょうか。「私もボランティアしてます、ってかっこよく言えるようになりたいものです」とは、どういう意味があるのでしょうか。後藤さんの考えの中には、ボランティアというのは経済的にも精神的にも余裕がないとできないという思いがあったようです。本当にうらやましいと思っているのかもしれません。ただし文面からすれば、少し「含み」があるようにも思えます。あなたはかっこつけているように見える。私だってかっこよくなりたいのだが、みんなから求められて大変な仕事をしなければならない。私は暇ではない。そんな自慢のような、皮肉のような、そんなニュアンスさえ感じるのです。ひょっとしたら近藤さんは、「いや、近藤さんの方こそ、やるべきことがたくさんあって、素晴らしいですね」等といって褒めて欲しかったのかもしれませんね。
 加山さんが、近藤さんの言葉で心が重くなったのはなぜでしょうか。加山さんは、ボランティアとは、人助けイコール善いことであり、みんなが喜んでくれる行為だという前提に立っていたのです。しかし近藤さんの言い方では、まるで私が目立ちたいだけ、かっこつけたいだけ、毎日やることもなく暇に過ごしている人間であるかのようです。そうではありませんから、ここは全力で否定したいところです。私たちが腹を立てるのは、自分の扱われ方が不本意な時です。そんな位置づけは嫌です。ところで加山さんがここではっきりと否定しなかったのはなぜでしょうか。言っても無駄と思ったのか、この人に理解してもらえなくてもいいと思ったのか、誤解されても仕方ないと思ったのか、言い返す勇気がなかったのか、言い返してしまうとかえって見栄っ張りになってしまうと思ったのか。様々な理由が考えられます。
 その後、中井さんの訪問に際して、少し打ち解け合うことができました。この時、加山さんはやっと中井さんの素直な心境を聞くことができました。決して加山さんのことが嫌いだというわけではなく、「世話をする/世話をされる」という関係の、なんとも言えない居心地の悪さのようなものがあったのです。おそらく「世話をする/世話をされる」という関係は、ある種の上下関係のようなものを含んでいます。世話をする側は余裕があって、強くて豊かであるのに対して、世話をされた方は、困っていたり、不安だったり、貧弱であったりする。世話をする側はどこか「かわいそうに」という同情の眼差しを向けるでしょうし、世話をされた側は、そのお世話に対して感謝をしなければなりません。「世話」という関係が成立するということは、世話をされた側のプライドを少し傷付けてしまうかもしれないのです。そんなこともあって、世話をされるのは心境としては穏やかではないのだと思われます。加山さんは、中井さんの素直な心境を知るとともに、何度も訪問して初めて気づくことがある。本音というものはこのように深く入り込んで初めて分かるはずだ。そんな思いに至ったのだと推察します。
 最後に、加山さんは田中さんに謝らなくてはならないと感じたようですが、それはなぜでしょうか。ボランティアを始めた当初は、田中さんの方が正しい対応であって、中井さんの方が変わった対応だという形で受け止めていました。しかしよく考えてみれば、中井さんのような対応をする方がむしろ自然なのです。世話をしますよといって訪問されれば、まずは驚き、困惑し、プライドを傷付けられるのがむしろ自然なのです。そこで改めて気づくのです。田中さんが加山さんに感謝してくれていたということの方が、むしろ変わった対応だったのです。田中さんはなぜ、突然訪問した加山さんに深く感謝したのでしょうか。それにはいろいろな理由があるかもしれません。もともと、そういうことにはあまり気にしない方だったのかもしれません。あるいは、誰かと話をするということを喜ぶような社交的な人柄なのかもしれません。しかしそれにしてもあまりにも深々と頭を下げてくれている。プライド云々と言っていられないほどに生活が苦しくて、そこまで追い詰められていたのかもしれません。加山さんは思うのです。自分の訪問の仕方は「上から目線」「世話をしてあげますよ」という態度だったのではないか。だとすれば、田中さんがあそこまで深く感謝する理由は、自分の態度にあるのではないか。知らず知らずのうちに「君は私に感謝しなさい」という圧力のようなものをかけていたのではないか。田中さんの本心をじっくり聞くような姿勢が必要なのではないか。加山さんはそんな問い直しを自分に向けていたのです。
 ボランティアとは何でしょうか。何か相手の助けになればよい。その動機はとても善いことだと言えます。善意による行為なのです。しかしその目的が到達しなかった時に、方針転換を迫られます。目的には到達しなくても同じ行為を続けた方がいいという見方もあるでしょう。目的に到達しないのだからその行為は諦めようという見方もあります。勿論、どちらを選択しても自由ですし、諦めたからといって悪い行為ではありません。もとは善意だからです。しかしながら行為を続けるということには、大きな意味があるように思えます。それまでに見えてこなかったことが見えてきたり、新しい変化や深いところの真相が見えてくるかもしれないのです。不動の存在としての自分が、高い地点から低い地点に富を分配するかのように、低い立場で苦しんでいる人々を助ける。言い方は悪いかもしれませんが、そんな感覚は、最初は誰しも持っているものです。自分の優れた能力や深い愛情が周囲を変えていく。そんな願いを持っているものです。しかしボランティアを始めて、それを進めていくと、事態はそれほど単純ではないことが分かります。自分と相手の関係は何度も組み替えなければなりませんし、自分自身も大きく揺さぶられ、変化を迫られることでしょう。相手を変えようと思って現地に赴いたところ、変わるべき存在は自分だった、なんてことはよくある話です。ボランティアは、一回切りのちょっとしたボランティアではあまり意味はないのです。時間と労力をかけ、自分の人生を捧げていくことによって、その先に、とてつもなく大きな、深くて、新しい世界との出会いが待っているのです