「おばあさんのおむかえ」
(齋藤道子による、文溪堂『4年生のどうとく』、道徳副読本)
〔読み物資料のあらすじ〕
小学4年生の女の子が主人公。朝は晴れていたが午後から急に雨が降り出す。多くの子は傘を持参していなかった。家の人がちらほら学校に傘を持ってくる。主人公の友紀は父母とも仕事で家には祖母がいる。下校時間になると雨の中、祖母が傘を持ってきてくれる。礼を言って一緒に帰ろうとするも、クラスの男子が小馬鹿にするのを聞く。友紀は冷たく祖母を先に帰らせてしまう。
最近の学校では突然雨がふると保護者が車で迎えに来ます。学校周辺は車で渋滞気味になります。時代は変わりましたね。本資料ではおばあちゃんが学校まで傘を持ってきてくれます。おばあちゃんはどんな気持ちでしょうか。孫娘が、傘が無くて困っているはずだと分かったのです。家から歩いて20分程度でしょうか。それほど時間がかかるわけでもありません。家にいても忙しいわけでもありません。健康のためには少しは歩いた方がいい。孫娘と一緒に帰ろう、散歩をしようという思いでしょうか。
おばあちゃんが来たのに気付いた友紀は、すぐに玄関に向かいます。その時は「ありがとう。もう少しで終わるから待ってて」と声をかけます。ところがその近くで男の子たちがひそひそ話をしていました。足が悪くてぴょんこぴょんこ歩く、ということを指摘して笑っていたのです。笑っていたかどうか、本文には書いていませんが、おそらく小ばかにするような言い方だったと思われます。男の子がそういう言葉を使うのはなぜでしょうか。高齢者についての理解、あるいは高齢者をいたわるという精神が欠如している、という言い方も出来ます。しかし私はもっと素朴な話だと思います。毎日毎日子どもたちだけの空間で生活しているわけです。学校という場は、子どもと先生以外はあまり入ってこないという場なのです。そこにいつもと違うような人が来て、珍しいということだったと思います。その上、高齢者特有のあるき方について、あのようなふらふらした状態で学校まで来て本当に大丈夫か、その姿を見て驚いた、というニュアンスを含んでいると思います。小学生の男の子というのは思ったことをすぐに口に出すようなストレートさが特徴です。勿論、言ってはいけない話です。しかし子どもたちの生活圏というその場の雰囲気が言わせたという側面も、少なからずあると思います。
さて一度は一緒に帰ろうと優しく声をかけた友紀でしたが、この段階で一変します。「一人で帰って、早く、早く」と言って帰らせてしまうのです。それはなぜでしょうか。勿論、忙しい用件があったとか、そうした事情ではありませんね。友紀が周囲の目線を気にして、おばあちゃんと一緒に帰ることをためらったのです。決して友紀自身が冷たい性格というわけではありません。おばあちゃんとはいつも仲良く良好な関係だと思われます。それがこのような態度になるのはなぜでしょう。これも学校という空間の力によるものです。多くの子どもたちは学校での顔と自宅での顔とを使い分けています。家の中では父親や母親、兄弟や祖父母の関係性の中で言葉を使います。自分の思いを隠したり、構えたりすることなく、素直な自分でいることが多い。しかし学校では先生のもとでの対等な関係の中で言葉を使います。自分の思いはストレートに言えません。いろんな子がいるのでつい、構えてしまいます。ある種の緊張モード、警戒モードに入っていると言えるでしょう。そんな学校内で素直な自分の家族モードの雰囲気を出してしまうというのが怖いことです。何を指摘されるか、分かりません。今回、おばあちゃんに対する男の子たちの視線を浴びてしまい、おばあちゃんと同じ「くくり」の中に入れてしまうということを恐れた友紀は、その「くくり」を切り離すかのように、おばあちゃんと距離を取ったのです。しかしそれは殆ど無意識的な話であって、友紀を責めるべきではないように思えます。私たちはその場の雰囲気や空気感の中で態度を変えていきているのですから。
さて、その後、おばあちゃんが一人で帰っている姿を遠くから見た友紀は、むねがしめつけられるような思いになります。それはどういうことでしょうか。一緒に帰ろうとしていたというおばあちゃんの気持ちがよく分かるのです。その気持ちにこたえることが出来なかったということもあります。一人で歩いて、寂しそうです。特に薄暗い雨の中を一人で歩く姿はいっそう悲しそうに見えます。そんな状態にしたのは友紀自身なのです。また歩くことは少し大変であるのに、無理をして自分のために傘を持ってきてくれたのに、それに対して十分に感謝できていない、そんな後悔の念もあるでしょう。あるいは、一人で帰ってと言った時点でおばあちゃんが「そんなこと言わないでさ、一緒に帰ろうよ。待ってるからね」と、ぐいぐい押してきていれば、彼女の心のバランスがとれるのです。しかしおばあちゃんは素直に「はい」といって帰っていく。自分が思った以上に小さい存在に見えたはずです。
友紀は、おばあちゃんを大切にしていない、と言えるでしょうか。私はそうは思いません。確かに一人で帰らせたことは冷たい行為のようですが、彼女にそうさせたのは学校と家庭という世界観の違いによるものであって、決しておばあちゃんに対する思いやりの欠如ではありません。私たちは大切にしているものを、大切であるにもかかわらず、時として冷たく厳しく接してしまうことがあるのです。その場の空間、雰囲気によって動かされることがあるためです。
副読本には「これまで家族を大切にできなかったことはありませんか」と、あります。質問としてはデリカシーに欠けると思います。多くの子どもたちもまた、時として両親や祖父母に対してきつく、冷たくあたることがあります。それを道徳授業の中で明らかにしていく、という授業も可能です。しかしその大半は別の事情によるものであって、愛情が欠落しているということではありません。冷たくあたってしまったことを後悔するというあたりは、愛情いっぱいであるということの結果だと言えるでしょう。
では、家族を大切にするとはどういうことでしょうか。家庭内がぐちゃぐちゃである、例えば妻に対して暴力を繰り返しているような家庭においては、当然子どもが家族を愛することなど困難です。親が子どもに冷たく当たってしまうような場合、愛というものが歪んでしまったり、消えてしまったりするのが自然です。にもかかわらず家族を愛するべきだなどと求めてはいけません。無理難題としての家族愛ではありません。暖かい家庭を作ってきたというプロセスがあって(それは主として親が努力するべきものです)、その中で子どもが子どもなりに感じた愛を、少しずつ返答していく、そんな話だと思います。あらゆる場合においてまず親が子どもに愛を与え、それが10年20年という時間で返ってくるのです。小学生のことですから、すぐに返ってくるとは限りません。親がたっぷりと愛情を与えているにもかかわらず、それを感じ取るアンテナがなく、自由気ままに成長している、なんてこともあるでしょう。逆にそれほど愛情を与えていないにもかかわらず、子どもの側が強い愛情を勝手に感じてしまうということもあるでしょう。子どもたちに教えたいことは、家族というのは長い時間的感覚の中で生きているということです。今とても嫌だったならば、それを10年後でも20年後でもはっきりと伝えて気持ちを清算した方がいい。いろいろとしてもらったならば、今すぐに感謝できなくて良いのでいつまでも忘れないこと、そんなあたりでしょうか。家族愛という抽象的な理念を無理に押し付けるようなことがあってはなりません。
(齋藤道子による、文溪堂『4年生のどうとく』、道徳副読本)
〔読み物資料のあらすじ〕
小学4年生の女の子が主人公。朝は晴れていたが午後から急に雨が降り出す。多くの子は傘を持参していなかった。家の人がちらほら学校に傘を持ってくる。主人公の友紀は父母とも仕事で家には祖母がいる。下校時間になると雨の中、祖母が傘を持ってきてくれる。礼を言って一緒に帰ろうとするも、クラスの男子が小馬鹿にするのを聞く。友紀は冷たく祖母を先に帰らせてしまう。
最近の学校では突然雨がふると保護者が車で迎えに来ます。学校周辺は車で渋滞気味になります。時代は変わりましたね。本資料ではおばあちゃんが学校まで傘を持ってきてくれます。おばあちゃんはどんな気持ちでしょうか。孫娘が、傘が無くて困っているはずだと分かったのです。家から歩いて20分程度でしょうか。それほど時間がかかるわけでもありません。家にいても忙しいわけでもありません。健康のためには少しは歩いた方がいい。孫娘と一緒に帰ろう、散歩をしようという思いでしょうか。
おばあちゃんが来たのに気付いた友紀は、すぐに玄関に向かいます。その時は「ありがとう。もう少しで終わるから待ってて」と声をかけます。ところがその近くで男の子たちがひそひそ話をしていました。足が悪くてぴょんこぴょんこ歩く、ということを指摘して笑っていたのです。笑っていたかどうか、本文には書いていませんが、おそらく小ばかにするような言い方だったと思われます。男の子がそういう言葉を使うのはなぜでしょうか。高齢者についての理解、あるいは高齢者をいたわるという精神が欠如している、という言い方も出来ます。しかし私はもっと素朴な話だと思います。毎日毎日子どもたちだけの空間で生活しているわけです。学校という場は、子どもと先生以外はあまり入ってこないという場なのです。そこにいつもと違うような人が来て、珍しいということだったと思います。その上、高齢者特有のあるき方について、あのようなふらふらした状態で学校まで来て本当に大丈夫か、その姿を見て驚いた、というニュアンスを含んでいると思います。小学生の男の子というのは思ったことをすぐに口に出すようなストレートさが特徴です。勿論、言ってはいけない話です。しかし子どもたちの生活圏というその場の雰囲気が言わせたという側面も、少なからずあると思います。
さて一度は一緒に帰ろうと優しく声をかけた友紀でしたが、この段階で一変します。「一人で帰って、早く、早く」と言って帰らせてしまうのです。それはなぜでしょうか。勿論、忙しい用件があったとか、そうした事情ではありませんね。友紀が周囲の目線を気にして、おばあちゃんと一緒に帰ることをためらったのです。決して友紀自身が冷たい性格というわけではありません。おばあちゃんとはいつも仲良く良好な関係だと思われます。それがこのような態度になるのはなぜでしょう。これも学校という空間の力によるものです。多くの子どもたちは学校での顔と自宅での顔とを使い分けています。家の中では父親や母親、兄弟や祖父母の関係性の中で言葉を使います。自分の思いを隠したり、構えたりすることなく、素直な自分でいることが多い。しかし学校では先生のもとでの対等な関係の中で言葉を使います。自分の思いはストレートに言えません。いろんな子がいるのでつい、構えてしまいます。ある種の緊張モード、警戒モードに入っていると言えるでしょう。そんな学校内で素直な自分の家族モードの雰囲気を出してしまうというのが怖いことです。何を指摘されるか、分かりません。今回、おばあちゃんに対する男の子たちの視線を浴びてしまい、おばあちゃんと同じ「くくり」の中に入れてしまうということを恐れた友紀は、その「くくり」を切り離すかのように、おばあちゃんと距離を取ったのです。しかしそれは殆ど無意識的な話であって、友紀を責めるべきではないように思えます。私たちはその場の雰囲気や空気感の中で態度を変えていきているのですから。
さて、その後、おばあちゃんが一人で帰っている姿を遠くから見た友紀は、むねがしめつけられるような思いになります。それはどういうことでしょうか。一緒に帰ろうとしていたというおばあちゃんの気持ちがよく分かるのです。その気持ちにこたえることが出来なかったということもあります。一人で歩いて、寂しそうです。特に薄暗い雨の中を一人で歩く姿はいっそう悲しそうに見えます。そんな状態にしたのは友紀自身なのです。また歩くことは少し大変であるのに、無理をして自分のために傘を持ってきてくれたのに、それに対して十分に感謝できていない、そんな後悔の念もあるでしょう。あるいは、一人で帰ってと言った時点でおばあちゃんが「そんなこと言わないでさ、一緒に帰ろうよ。待ってるからね」と、ぐいぐい押してきていれば、彼女の心のバランスがとれるのです。しかしおばあちゃんは素直に「はい」といって帰っていく。自分が思った以上に小さい存在に見えたはずです。
友紀は、おばあちゃんを大切にしていない、と言えるでしょうか。私はそうは思いません。確かに一人で帰らせたことは冷たい行為のようですが、彼女にそうさせたのは学校と家庭という世界観の違いによるものであって、決しておばあちゃんに対する思いやりの欠如ではありません。私たちは大切にしているものを、大切であるにもかかわらず、時として冷たく厳しく接してしまうことがあるのです。その場の空間、雰囲気によって動かされることがあるためです。
副読本には「これまで家族を大切にできなかったことはありませんか」と、あります。質問としてはデリカシーに欠けると思います。多くの子どもたちもまた、時として両親や祖父母に対してきつく、冷たくあたることがあります。それを道徳授業の中で明らかにしていく、という授業も可能です。しかしその大半は別の事情によるものであって、愛情が欠落しているということではありません。冷たくあたってしまったことを後悔するというあたりは、愛情いっぱいであるということの結果だと言えるでしょう。
では、家族を大切にするとはどういうことでしょうか。家庭内がぐちゃぐちゃである、例えば妻に対して暴力を繰り返しているような家庭においては、当然子どもが家族を愛することなど困難です。親が子どもに冷たく当たってしまうような場合、愛というものが歪んでしまったり、消えてしまったりするのが自然です。にもかかわらず家族を愛するべきだなどと求めてはいけません。無理難題としての家族愛ではありません。暖かい家庭を作ってきたというプロセスがあって(それは主として親が努力するべきものです)、その中で子どもが子どもなりに感じた愛を、少しずつ返答していく、そんな話だと思います。あらゆる場合においてまず親が子どもに愛を与え、それが10年20年という時間で返ってくるのです。小学生のことですから、すぐに返ってくるとは限りません。親がたっぷりと愛情を与えているにもかかわらず、それを感じ取るアンテナがなく、自由気ままに成長している、なんてこともあるでしょう。逆にそれほど愛情を与えていないにもかかわらず、子どもの側が強い愛情を勝手に感じてしまうということもあるでしょう。子どもたちに教えたいことは、家族というのは長い時間的感覚の中で生きているということです。今とても嫌だったならば、それを10年後でも20年後でもはっきりと伝えて気持ちを清算した方がいい。いろいろとしてもらったならば、今すぐに感謝できなくて良いのでいつまでも忘れないこと、そんなあたりでしょうか。家族愛という抽象的な理念を無理に押し付けるようなことがあってはなりません。