「新しい日本に 龍馬の心」 (文:編集委員会『明日をめざして 道徳6』)

 〔読み物資料のあらすじ〕鎖国から開国、尊王攘夷運動、薩摩と長州の動向などが説明されています。龍馬は貿易をすることで国を豊かにしたいと考えていました。龍馬の仲介により、薩摩と長州が同盟を結ぼうとしていましたが、どちらの方から言い出すかという些細なことで話が進みませんでした。龍馬はお互いを説得して薩長同盟を締結させました。その後、大政奉還のアイデアを将軍に伝えることもできました。しかし志半ばにして、32歳の時に暗殺されました。

 なぜ龍馬は、貿易をすることで国を豊かにしたいと考えたのでしょうか。もともと龍馬は当時の尊王攘夷運動の中にあって、幕府のあり方に対する不満をつのらせていました。他の志士たちと行動を共にするべく脱藩し、勝海舟のもとで働くようになりました。龍馬はそこで貿易や航海のことを学びました。その後、薩摩藩の出資で亀山社中(海援隊)を創設しました。幕府はまもなく崩壊していくにちがいない、幕府のあり方がもはや時代に合わなくなってきた、そんな実感があったのでしょう。このままでは国そのものが滅んでしまうかもしれない、そんな危機感を抱いていたと思われます。その一方で龍馬は諸外国との新しい関係に魅力を感じていきます。貿易によって国は豊かになり、自分たちもまた大儲けできると感じていくのです。
 なぜ龍馬は、薩摩藩と長州藩の仲介を行ったのでしょうか。薩摩藩は天皇と幕府が力を合わせて政治を行うこと(公武合体)を目指しており、長州は天皇中心の政治を目指して幕府と戦っていました。薩摩は幕府方についていたため、二つの藩はいわば戦争状態でもあったのです。このまま長州が幕府や周辺の藩によってつぶされてしまえば、一時的には江戸幕府の体制が強化されるでしょうが、今度は幕府と薩摩が対立するでしょう。世の中はさらに混乱が続き、外国の干渉を受けるかもしれません。龍馬は今こそ二つの藩が力を合わせて立ち向かえばうまくいくだろうと考えていました。そこで龍馬は一つのアイデアを出しました。薩摩藩名義で外国から武器を輸入し、それを長州に渡す。その代わりに長州から薩摩へ米を送るというものでした。
 なぜ薩摩と長州は、一人の素浪人である龍馬を信用していたのでしょうか。龍馬という位置付けと、龍馬がなしとげたことの間にはギャップがあります。龍馬に、よほどの人望があったということなのかもしれません。最も大きな理由は、中立的な人物が、薩摩と長州のそれぞれの利益を大切にする案を持ってきてくれたことだと考えられます。薩摩も長州も、実利があれば少しずつ気持ちは変わっていくのです。幕府の力は衰え、諸外国の力が迫ってくる中で、大局を見ようという龍馬の考えが、魅力的に見えてきたのだと思います。
 同盟締結の仕方が難しかったのはなぜでしょうか。利害関係は一致している、武器も揃った、後は共同して幕府を倒すだけです。しかしこの同盟締結が困難でした。薩摩の側からすれば、自分たちが頭を下げてお願いすれば、長州の指示に従うことになります。長州の側からすれば、自分たちが頭を下げてお願いすれば、薩摩の指示に従うことになります。同盟は対等でなければ意味はないのですが、対等であるならば、せーの、どん、で両者から声をかけなければならなくなります。どちらがリードし、どちらがついていくかという関係は今後のあり方を大きく変えてしまいます。
 では、薩摩藩の西郷隆盛が同盟をお願いしたのはなぜでしょうか。坂本龍馬の熱い説得に心をうたれた、日本の未来を考えた、あるいは頭を下げるくらいのことはやってのける、西郷の人徳の深さのようなものがあったのかもしれません。逆に、あまり深いことを考えていなかったのかもしれません。おそらく最大の理由は、ここで頭を下げたからといって全て長州がリードするはずはなく、同盟関係はうまく機能するはずだと考えたからだと思います。薩摩藩の自信のようなものがあったと考えられます。
 龍馬が大政奉還のアイデアを出したのはなぜでしょうか。龍馬の船中八策とは、政権を朝廷に返した上で、議会、海軍、陸軍を作り、通貨を整備することなどを含んでいました。おそらく龍馬は、幕府崩壊後のことを考えていたのです。新しい国のあり方は薩摩幕府でも、長州幕府でもありません。諸外国の様子を考えても、近代国家を作ることが日本にとってはプラスだと考えていました。その後、大政奉還が正式に徳川慶喜によって行われました。この時、薩長は武力倒幕を進めていたが、大政奉還によって武力倒幕の口実が失われてしまいました。
 大政奉還が成立した時、龍馬は何を感じたでしょうか。おそらく龍馬は、新しい日本のあり方について熱心に考えており、この時点では旧幕府の形を徹底的につぶすことなどは考えていなかったと思います。幕府出身者であっても、どの藩出身であっても、有能な人材ならば積極的に登用する、そんなふうに考えていたと思います。また、相手の立場をよく考えて、きちんと伝えていけば、ゆっくりではあるが理解してもらえるということ、その確かな手ごたえのようなものを感じていたと思います。
 愛国心とは何でしょうか。もともと世界の動向に着目して改革を進めようとしたのは、薩摩藩の島津斉彬です。黒船を前にして開港しようとした幕府方の人々もまた日本の将来を案じていました。長州の人々も、薩摩の人々も、全て日本の明るい未来を信じて命をかけていました。ただその手段や方法が異なっていたのです。特定の立場だけが愛国心であってそれ以外は愛国心ではない等とは言えないのです。愛国心とは、日本という国の将来を心配する心であり、そのために何かすべきだと感じる心だと思います。
 あの人は愛国心が強いか、あの人は愛国心が弱いか、ということは議論するべきではありません。恋愛感情と同じではありません。愛国心というのはいわば立場や視点のことなのです。日本の将来を心配するという立場で、全体を見ながら考えるということが大切なのです。調整は、政治力です。それぞれの利害関係をよくとらえ、それぞれの立場や利益を保護しながら、説得し、皆が納得、満足するように、出来るだけ平和に解決するようにまとめていく。愛国心に基づく政治力とは、そういうものだと考えられます。