『あの子』(作・絵:ひぐちともこ、解放出版社、二〇〇〇年)
02(02)08
 まずは子どもが登場します。顔だけです。無表情で、男の子か、女の子か、よく分かりません。この子は周囲の他の子たちに「あのな」と声をかけていきます。周囲の子たちが集まります。みんな、同じ顔です。この子は「あの子といっしょにおらんほうがええで」と言うのです。「なんでー」「うそーっ」等という反応の中で、わたしも聞いたことがあるという声も上がります。それから他の子たちにも伝わっていきます。「わたしにもおしえて」「えーっそうなん」「しんじられへんわー」等、無数の子たちがそこに現れていきます。みんな同じ顔。とても不気味です。子どもたちの顔は列を作って動き、渦を巻いて流れていきます。
 後半になると、一人の子がぽつりと「それって、ほんまやの?」と問いかけていきます。問われた子は、「みんながいうててん」と答えるだけです。そこにいる全ての子は、誰もうまく答えることが出来ません。そもそもあの子のことを知らないのです。最後に、一人「あの子とはなしてみたらええやん」で終わります。
 なんとも衝撃的な絵本です。後半が描かれているために少しだけ救われたような気分になります。「あの子と一緒にいない方がいい」という噂、根拠のない風評。多くの子がその渦に巻き込まれていく。無数の子どもが登場しますが、みな、無表情です。本人と話をしてみれば、きっとその子が私たちと何もかわることのない普通の子であって、一緒に喜んだり、悲しんだりできる相手だということが分かるはずです。
 それにしても不気味な世界です。この絵本が描いている世界というのは、本当に存在するのでしょうか。私は存在すると思います。悲しいことではありますが、私にはとてもリアルに感じられるのです。教室の全ての子たちが、みんな無表情になっていく。何かにとりつかれたかのように同じ表情になっていく。そして「あの子」を見つけて、変わっているとか危険だとか、様々な噂を流していくのです。その子の気持ちを大切にするとか、その子の人権を守るなんてことは、ここには一切ありません。悪口ではありません。悪口を言うよりも何よりも、あの子のことは誰も知らないのです。知らないから噂や雰囲気だけで決めていくのです。噂話を広げて楽しんでいるようなのです。「あの子」について語っているように見えて、誰も「あの子」のことを知らない。話のネタとして扱っているようなのです。
 さて、この現象を「いじめ」と呼ぶのは適切でしょうか。「あの子」が辛く悲しい思いをしているからいじめだと言えば、確かにそうです。しかし少し冷静に見てみましょう。ここで特定の子が、特定の子に暴力を向けるという、いわゆる「いじめる」という行為は見られません。私という存在が、その主体をかけて相手に攻撃を加える、という形ではないように思われるのです。勿論、この状態はとても悪いのです。この状態を放置してしまえば、「あの子」に対して肉体的精神的な暴力が向けられていくでしょう。暴力には至っていないから良いということではありません。この状態は、いじめかどうかという議論を越えて、とても恐ろしい状態だと思われるのです。いじめという悲しい事件が起こる前に、最悪な状態が完成していることが多いのです。
 本書で子どもたちがみんな同じ顔で、無表情で描かれているのはなぜでしょうか。実は、「あの子」のことを知らないだけではなく、お互いのことも、自分のことさえもよく分からないのです。ここにいる全員に、人格も、個性も、意思さえもない。ある種のムードに乗っかっていればとりあえず安心という姿なのです。自分の主体性を徹底して排除し、雰囲気に流されるだけの(あるいは雰囲気を構成するだけの)存在となっているのです。ここに明確な主体というものは存在しないのです。彼らは根底では恐怖に脅え、ひたすら群れようとしているのです。全体が動いていくときのパーツのようになってしまっているのです。全体主義のようです。
 私たち人間は、なぜ流されてしまうのでしょうか。なぜ主体性を自ら放棄してしまうのでしょうか。それは、思考を節約しているからです。目の前にいるのが主体性を持った固有の存在だと受け止めて接するのは、疲れることです。なにせ相手の考えを尊重しながら自分の考えと突き合わせていかなければならないからです。なんとなく、流れに身を任せていれば、楽です。人の評価、評判、あるいは「いいね!ボタン」を信用していけば、自分の思考を使用しなくていいからです。「あの人は変な人らしいよ」と言われて、それを否定するには勇気が必要です。自分の意見なるものを表明するのは、疲れるのです。ですからつい、周囲からもたらされた評判や評価を信用してしまう。自分の目で確かめずに、です。それゆえ私たちは、大きな流れに委ねてしまうのです。
 こうした傾向はおそらく人間ならば誰しもが持っていると思います。それが大きくなっていき、学級集団をまるで一つの生き物であるかのように変容させてしまうのです。こうした状態が、小学校や中学校などで形成されるのはなぜでしょうか。おそらく先生は何もしていません。特に何という手をとることもなく、ひたすら毎日淡々と講義形式の授業をやっていけば、おそらくその行き着く先はこうです。学級という空間の中で、子どもたちは毎日同じ顔の人間と顔を合わせます。相手に合わせながら自分を表現するというのは、とても疲れることです。変化というのは、疲れるのです。その都度、考えたり、驚いたり、悲しんだりしなければならないのです。ですから「あの子はすごい」「あの子は変だ」「あの子はおもしろい」「あの子は真面目だ」などといって固定化していきます。その作業は集団内の配置をめぐって自然と決まっていくようなものです。特定の誰かが考案して、特定の子の良さや個性を認めていくものではありません。かくして集団というものが大きな力を持ち、もはや一人の人間の意志ではどうにもできないようになってしまうのです。私はこの絵本から、そんな人間の恐ろしい姿を読み取ります。先生の仕事とは、そのような大きな力が発生しないようにすることだと思います。