友達同士の関係は、いわば自然発生的な関係でした。子どもたちの意思によって近づいたり離れたりするような関係です。しかしここでは学校という空間の中に、いわば詰め込まれたような状態になります。学校あるいは教室という空間は、その内側にいなければならないという特殊な空間です。子どもがそれを望んでいる時、幸せを感じている時は良いのですが、ひとたび不満や不快な気持ちになれば、その空間はまるで監獄のように逃げ出すことが出来ない強固な空間ということになるでしょう。子どもたちが自分の意思でこの教室に入り、嫌ならば離れることが出来るのであれば、随分と良い雰囲気になるはずです。しかしそれは出来ないのです。子どもたちの不満や苛立ちはさぞ大きいことでしょう。
 教室の中で子どもたちは自分ではない他者と出会います。それは、よく分からない相手との出会いです。分からないがゆえに彼らなりの方法で接近していきます。馬鹿にしてみたり、嘲笑してみたり、意図的に困らせたりします。「あの子は変だ」という噂のような声を信じてしまうこともあります。彼らなりの自然なかかわり方でもあります。多くの場合、かかわり方は乱暴です。肉体的精神的な暴力を伴います。目の前にいる人間は一人の意思と感情を持つ豊かな人間であるということが分からなくなってしまうのです。その子の良さを認めて受け入れるなんてことは、とても難しいのです。
 いじめという現実だけを見るべきではありません。そこでいじめが起こっているという場合、多くの子どもたちが自分の主体性を失っているのです。そこに着目するべきです。集団全体が不気味な音を立てて、一つの大きな圧力を生み出していきます。変わった子は嘲笑・排斥してよいという圧力です。その中で、個人はもはや意思を持った個人ではなく、たんに圧力を強化するだけの存在となっていきます。子どもは自分たちで作ったその圧力の中で、もがき苦しむのです。絵本は、そんな子どもの姿をリアルに描いていきます。
 この教室空間の中で、頼ることが出来るのは唯一の大人である先生です。先生という存在は、学校や学級という空間の一つの象徴的な存在です。先生はクラスに一人しかいません。子どもたちのあらゆる期待が、全てこの大人に向けられるわけです。先生は説教をしたり、叱ったりすることで子どもたちの人生を変えようとしますが、本当に大切なことは、子どもたちが集団を作っていくその時の枠組みを作ることにあります。一人ひとりの良さや多様性が十分に見えるような、そんな距離のある空間を作ることです。新しい関係が構築できるためには、その土俵ともいうべき自由空間が必要です。先生はそのゆとりある空間を用意するべきなのです。
 多くの絵本は、先生の仕事を描いています。先生とは、子どもたちの自然な姿ではなく、一歩大きく成長した姿を扱います。子どもは、先生が集団全体を美しく明るく方向づけてくれることを期待します。先生が子どもたちの遊びをうまく導いている時、子どもたちは遠くの地点の目標を見つめているのです。相手の欠点や顔の特徴などは見ないようにする。差別や排斥はやめて、お互いの良さを認めていく。そんな美しい世界を描いていくのが先生の仕事です。一人ひとりを大切にする学級の中でこそ、子どもは安心して生活できるのです。最初は先生が与えたフィクションかもしれませんが、子どもたちがそのフィクションの中で楽しく生活していくならば、本当の学級の仕組みとなっていくのです。学校とは、基本的には幸せなファンタジーの場なのです。子どもたちがその目標を見つめていれば、子ども同士の関係は涼しくなります。先生という存在はいわばシンボルのようなものであり、先生の徳や人間的魅力がそこで発揮されます。先生という存在は、子どもたち全体を引っ張っていく、リーダーシップを持った人物なのです。