『半日村』(作:斎藤隆介、絵:滝平二郎、岩崎書店、一九八〇年)
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 高い山に囲まれた小さな村の話です。日光が一日の半分しかあたりません。それゆえとてもとても寒く、作物は他の村の半分です。半日村と呼ばれていました。絵本では山が高くて日が入らないことだけでなく、日が当たった時の情景まで描かれていて、このあたりの文章表現はとても素晴らしいですね。山は、動かすことができません。諦めるより仕方がなかったのです。そんな中、一平という子が、山に登り土を袋に入れ、それを運んで湖に入れたのです。毎日、少しずつ運び始めました。どうやら、山を削ってその土で湖を埋めようという壮大な考えのようでした。周囲の子どもたちは大笑いでした。しかし、しばらくすると面白がって他の子たちも真似をするようになりました。
 大人たちも最初は笑っていましたが、どうせならば袋よりももっと大きなものがよい。道具を貸し、掘り方を教えるようになりました。そのうち、大人たちも協力するようになりました。何もしないでいると、まるでつきあいが悪いようです。かくしてみんなで山の土を湖に運ぶようになってきたのです。しばらくすると、山が少し低くなったような気がしてきて。そうするといっそう頑張るようになったのです。それから何十年もたち、一平は大人になり、一平の子どもたちが大きくなるころには、ついに山が低くなり、光がさし、湖は大地となり、豊かな作物を実らせるようになりました。村人たちは大喜びでした。
 さて、最終的には偉業につながったわけですが、それを始めたのは一平という小さな子どもでした。偉業を始めたのが「子ども」だったのは、なぜでしょうか。おそらく大人たち、常識感覚のある人間であれば、あの巨大な山を削る等という発想はありません。昔は重機もありませんでしたし。大人たちは、日頃の貧しい生活にも慣れてしまい。とにかく毎日をこなすことに一生懸命だったのかもしれません。新しい発想というのは、常に「非現実的」なのです。現実の状況をしっかり見つめてその中に埋もれてしまえば、新しい発想は出てきません。改善というのは、ふとした思いつき、勝手な空想によってこそもたらされるのです。大抵の場合、最初は嘲笑されたり、周囲から浮いてしまったりします。現実に満足せずに声をあげたり、好き勝手なことをやってみて怒られたり、無謀なことをやって周囲を驚かせたりするのは、若者です。逆に言えば、希望を語るのは若者の特権のようなものです。年配者は常識感覚から「ダメ出し」をしたり、高い視点から評価をしたりするだけです。この絵本はそんな人々の姿がよく描かれていると思います。推察ですが、一平という存在は、体も小さく、不器用で、おそらくはたいして役に立っていなかったのです。人々の生活に役に立っていたならば、忙しくて、そんなことを思いついたり、行動したりする余裕はなかったはずです。また一平としても、自分に出来ることはないかと思い、少しの土を運ぶということを思いついたのでしょう。
 一平の姿につられ、多くの子どもたちが動き始めます。それはなぜでしょうか。子どもたちは「暇」だったのです。勿論、農作業を手伝ったりある程度の仕事はしていたと思われますが、大変な部分は大人たちが担っていて、子どもたちには遊んだり勉強したりするだけの時間があったのです。彼らが土運びを始めたのは、ある種の「遊び」感覚だったのです。山を登ったり降りたりしながら、冗談を言ってみたり、悩みを打ち明けたり、一緒に汗を流す喜びを味わったりしたのです。ひょっとすれば、大人たちが懸命に働いているので、邪魔にならないように山登りをしたということなのかもしれません。大きな偉業は周辺の小さなところから始まる。それがおそらくは最も理想的なのです。私たちの現代社会においても同じことが言えると思うのです。総理大臣が専門家チームを集めて素晴らしい文書を作成することよりも、地方で地道にボランティア活動をすることの方が、きっと有意義な視点が含まれているのです。優れたリーダーが現状改善を語るよりも、周辺の子どもがあれこれやってみることの方が、きっと有意義なのです。この絵本は、そんな社会のあり方がしっかりと描かれているように思えます。
 その後、大人たちもそれとなく協力を始めます。最初は子どもたちにアドバイスをするところからでした。大人たちがアドバイスをしたのは、なぜでしょうか。子どもたちがやっていることは非効率的でした。子どもたちが毎日少しずつ土運びをしている。子どもたちは遊び半分だったのかもしれませんが、大人たちから見れば、愛おしく見えてくるはずです。大人たちは、「子どもたちの思い」に感動したのです。若者がやることは、勢いや熱い思い、新しい発想や改善のパワーといったものは十分に含まれているのですが、そこに知見や知恵は含まれていません。無謀であるけれども、その姿は、年配者の心をうつのです。それゆえ、年配者は適切なアドバイスを行っていくのです。
 その後、大人たちが積極的に協力するようになったのは、なぜでしょうか。この時点では、まさか山が削れて村が開ける等とは思っていないはずです。そのような実利ではなく、「思い」なのです。どれくらいの年月で山が削れそうだとか、それによってどれだけ収穫量があがるとか、そんな計算や計画はありません。おそらく何も言わずに、ただ、なんとなく、何かに引っ張られるように作業に協力したのだと思います。村のリーダー的な人も、みんなに勧めたり、呼びかけたり、促したりしてはいないと思うのです。役に立つとは思っていないから。しかし何もしないでいるというのは、どうも居心地が悪い。村の人々が「この貧しくて厳しい村の状況をなんとかしたい」と思っていたから、いわばその「思い」の表現だったのです。厳しい生活が続く中で、少しでも希望を持って生きていきたいと思ったから、大人たちも少しずつ動き始めたのです。
 ところが少しずつ山が削れてくると、一つのことを発見します。自分たちが努力したことは、大きな力となって成果をもたらすようだ、と。ここからは、現実です。夢が現実になりかけてくるのです。おそらくみんなの気持ちが一気に高まっていったことでしょう。何十年もかかったということですから、おそらくは年中行事とか祭りのような形になり、あまり無理がないように、しかしながら長期的に継続するような工夫のもとで続けられたのだと思います。最後には遂に、山が削れ、湖は土地となる。なんとも凄まじい迫力と壮大な世界観です。力強い絵と美しい文章が印象的な素晴らしい絵本です。最近の絵本作家にもこういうものを描いて欲しいところです。