なぜケンカは大きくなるのか
『ケンカオニ』(作:富安陽子、絵:西巻茅子、福音館書店、二〇〇五年)
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 幼稚園でしょうか。男の子が二人います。のぶちゃんがボールをおもちゃ箱になおそうとするのですが、投げて入れようとしたので、それがとっちんに当たってしまいました。とっちんの頭にケンカオニ(赤)が登場しました。ケンカオニがくっついたとっちんは、手元にあった大きなぬいぐるみをのぶちゃんに投げてしまう。それがのぶちゃんにぶつかると、こちらもケンカオニ(青)が登場します。男の子にはよくありがちな話です。おもちゃ箱が遠いところにあるので、ぽんと投げて入れようとするのです。相手にあてる意図はなかったかもしれませんが、物を投げているという点については腹が立ちます。そんなことするなよ、等と言いたいところでしょう。ケンカオニがお互い「アカンベー」をすることで、ケンカが始まりました。
 ここで男の子二人はわりと無表情です。それはなぜでしょうか。一般的に言ってカチンと来たその瞬間というのは、みな無表情です。心の奥底にあるカッとなる部分に火がついたその時には、表情はまだ平静なままです。「やめてくれよ」等と言葉で伝えることが出来ればよいのですが、それが出来なければ攻撃的な言葉になります。攻撃的な言葉が出てくる中で少しずつ怒りの表情というものが形成されていくのです。この段階ではまだ無表情です。ケンカオニの「アカンベー」というのは、とてもいいですね。相手を挑発する、嘲笑する、そんな仕草です。それまでは友達や平和的なかかわりだったものが、いっきに戦闘態勢に入るのです。宣戦布告といったところでしょうか。この時、それぞれはその先がどうなるか、ケンカによって何が得られるのか、そこまでは頭にはありません。純粋に、攻撃開始の合図なのです。
 ここからはケンカオニが主導していきます。とっちんが「のぶちゃんなんか カエルにたべられちゃえ!」と言えば蛙が登場し、のぶちゃんを追いかけていきます。のぶちゃんが「こんなカエルなんか ヘビにのまれちゃえ!」といえば蛇が登場し、蛙を追いかけていきます。なるほど、蛇の方が上でした。しかしここで食べてしまうわけではなく、追いかけまわした状態ということでしょうか。さて、困ってしまったとっちん(その上にいるケンカオニ)は、「のぶちゃんのヘビなんか、ライオンにくわれちゃえ!」と言い、ライオンがやってきます。ライオンは蛇をおいかけます。のぶちゃん(その上にいるケンカオニ)は、クジラを呼びます。クジラはもっと大きいので、カエル、ヘビ、ライオンの全てを飲み込もうとします。とっちん(その上にいるケンカオニ)は、恐竜を呼び、家ごと揺さぶり始めます。全てがゆっさゆっさ揺れていき、中にいる動物や二人の男の子もひっくり返ってしまいます。
 お互いの言葉の応酬が続きます。絵本で描かれているのは、それを映像化しているということであって、本当にそこに動物たちが登場しているわけではありません。二人の男の子がライオンに食べられることもありません。二人(ケンカオニ)は、なぜ相手よりも大きな話を持ちだそうとしているのでしょうか。相手にダメージを与えたいというのが理由でしょう。言葉というのは、言うのは簡単ですが、相手へのインパクトは大きい。カエルに食べられちまえと言われれば、その映像がぽんと浮かびます。まるでこちらが巨大なカエルの口の中に吸い込まれていくような、ぶざまな格好です。その印象や映像は、とても強烈であって、消すことが出来ません。「それはちがう」と言っても、印象や映像は消えません。ですからよりいっそう強力なものを持ってくるしかないのです。これはアイデア勝負のようでもあります。絵本では、相手よりも大きなものを出そうとするのですが、なかなか思いつかず、焦っていく様子も描かれています。
 蛇に対して蛙、蛙に対してライオン、このあたりまでは分かりやすいです。相手が出したものを食べてしまうのです。蛙、蛇、ライオンの追いかけっこだったのです。しかしクジラはまとめて全員を飲み込もうとします。よく考えれば、蛇については味方のはずでした。これはどういう意味でしょうか。どういう論理で展開しているのでしょうか。つまり、細かなことはどうでもよくなってきているのです。最後の恐竜については家をゆさぶっていくので、めちゃくちゃの状態です。厳密に言えば、相手の出した動物よりも強いものを出しているというよりは、相手が作り上げた世界をより大きな力で壊そうとしていくのです。ケンカというのは、エスカレートするだけでなく、あらゆる周囲のものまで壊してしまうような、そんな側面もあるのです。絵本はそれをとてもよく表現できていると思います。
 さて、絵本の続きです。遂にケンカオニのおとうさんが登場です。おとうさんは呼ばれたわけではありませんが、みんなの悲鳴を聞いてやってきたのです。二人のケンカオニをつまみあげて空へと昇っていきました。「ちょいと やりすぎたな。ケンカも ほどほどが かんじん」そう言って二人にご褒美のキャンデーをあげたのです。
 一方、とっちんとのぶちゃんは静まり返った部屋の中で茫然としています。二人とも笑いながら、「ごめんね」と声をかけていったのです。部屋の中を良く見ると、蛇のようなネクタイ、蛙のような大きな葉っぱ、ライオンのようなタワシなどが転がっています。これは私の解釈ですが、二人は身の回りの事物を投げ合っていたのだと思います。そして最後は先生がそこに入ってきて、大きな声で、「はい、そこまで!」と言って声をかけ、「ケンカオニは連れて帰りますからね」等といって去って行ったのだと思うのです。そういう現実の話がベースになっていると推察します。
 ケンカオニというのは、人間の中から出てくるものではありますが、人間とは別個の存在なのです。ケンカを起こし、ケンカを助長し、挙句の果てには全てを壊そうとしていきます。そう思うならば、ケンカオニは悪者です。ケンカオニさえいなければこんな問題にはならなかったはずです。しかしここでもう少し考えてみたいのです。ケンカオニには、どんな意味があるのでしょうか。ケンカしたくなるというのは、人間の本性でもあります。傷ついたプライドを回復したり、生きる力を呼び起こしたりします。しかしそれを表現した後は、ただたんに暴力や破壊を続けることだけが目的になってしまうのです。コントロールがきかなくなるというか、本来の「言いたいこと」から離れていくのです。主体性を喪失してしまうのです。ですからそんな時は、ケンカオニの仕業にするのがいい。「魔がさす」とか「腹の虫が治まらない」等といった言い方と似ていると思います。「ケンカオニのせいだった」「ケンカオニだから仕方ない」と言ってケンカオニを悪者にすれば、私たちはそれを忘れることができるのです。ケンカオニは、人間にくっついてケンカを助長し、盛り上げておきながら、しばらくした後で、人間から離れていき、人間に冷静さや理性を取り戻させる。それがケンカオニの仕事なのです。ご褒美としてキャンデーをもらったと言うのは、そういう意味なのです。 生きていれば怒りたくなることもあります。たまにはケンカをするのもいいと思います。しかしケンカの後のことも考えるべきでしょう。自分を見失ってはいけません。ケンカオニは、必要なのです。さらに、今ケンカオニが必要なのは、社会や国家です。ケンカオニがやってきて、あれこれ言い合いになった後で、空の世界に帰って行くことが出来れば、私たちの人間界は戦争をすることもなく、平和であり続けるのだと思います。