怒る理由、好きになる理由
『青いかいじゅうと赤いかいじゅう』(作・絵:デビッド・マッキー、訳:北沢杏子、アーニ出版、一九八九年)
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 青いかいじゅうと赤いかいじゅうがいました。二人の間には高い山があり、行き来できませんでした。しかし僅かな穴があいていて、そこを通して会話が出来たのです。自分の姿や身なりを紹介しあっていました。なぜ彼らは、お互いのことに関心を持ち、小さな穴を通して会話をしようとしたのでしょうか。一人暮らしで寂しかった、話し相手が欲しかった、ということなのかもしれません。とはいえ、ここではたんなる話し相手ではなく、どうも好意のような関心を寄せているように見えます。それは、なぜでしょうか。孤独の際に見えない他者と会話をするというのは、特別な環境のように思えます。インターネットで見ず知らずの人と会話をするのと似ています。彼は一人で暮らしていて、様々な思いを抱く。嬉しいこと、辛いこと、退屈なこと、悲しいこと、不安なこと、不快なこと、感動的なこと。それは生きていれば誰にだって起こり得る感情です。しかしながら彼は孤独なので、それを誰とも共有できないでいたのです。共有するための他者を欠いた状態で、長い年月生きてきたのです。山の向こう側にもう一人いると分かった時はさぞかし嬉しかったに違いありません。積極的に声をかけていき、様々な話をしようとするのです。こんな状態ですから、おそらく相手を美化してとらえるのです。自分の理想的な存在を描いていくのです。自分の気持ちに共感してくれていて、しかも自分をよりいっそう美しい存在、立派な存在へと高めてくれるようなそんな相手を想像するのです。ですから相手の身なりや格好を想像した際に、それを美しい形だと思うのです。
 青いかいじゅうは、自分が見ている美しい夕日を一緒に見たいといいます。自分の感動を、赤いかいじゅうと共有したいのです。しかしそれは相手には見えません。青いかいじゅうは「日がくれる」と言いましたが、赤いかいじゅうにとっては「夜がくる」でした。そんなことから赤いかいじゅうは「ばかねえ」と言ってしまいます。かくしてお互いはケンカを始めてしまいます。
 彼らがケンカになったのは、なぜでしょうか。お互いが自分の気持ちや世界観を相手と共有したいと思っていたにもかかわらず、共有できないと分かったからです。その苛立ちを相手にぶつけてしまうのです。「日がくれる」と「夜がくる」という二つの言葉は、私たちからすれば同一の現象であるというのは分かります。しかし彼らは分かりません。自分の発する言葉が、相手のところで、違った形になって受け止められる。否定されてしまうのです。彼らはコミュニケーションが成立しないと思っています。そして、それはとても辛く、悲しいことなのです。ただ、それを悲しいと言わずに、怒ってしまうのは、なぜでしょうか。ここが重要なのです。彼らがケンカになるのは、たんに不一致だということではないのです。自分の世界観が正しくて素晴らしいものだという前提があって、相手が出してきた言葉や視点というのは、誤ったもの、間違ったもの、おかしなものだというとらえ方をするのです。自分の正統性が傷付くから怒ってしまうのです。早急に、力強く回復しなければならない。間違ったものを、排斥し、遠くへ押しのけてしまえば、自分の正しい世界観が傷付かずに済む。そんなふうに思っているのです。真面目に生きてきた人間ほど、自分の世界観を大切にしていきます。
 さて、絵本に戻ります。青いかいじゅうは相手に暴言を吐いていきます。相手の身体的特徴を「醜い」とか「変な」といった言葉で表現するのは、とても汚い言葉だと思います。ほんの少し前は、その身体的特徴に興味を示していたはずです。これはどういうことでしょうか。相手に好意を持って美しい言葉をかけるのも、相手に嫌悪感を持って汚い言葉をかけるのも、同じ形をしています。身長、体格、肌の色、顔つき…それを指して良いとか悪いとか言うだけです。良く言おうと思えばいくらでも言えます。逆に悪く言おうと思えばいくらでも言えます。背が高い等のことがカッコイイことだというようなことは、確実なことではありません。3を○にしたり、4を×にしたりといったことであり、十分な根拠も正当性もないのです。しかしながらそれは、その時のその人の感情を表現しているという点では重要なことなのです。私たちは嬉しい時には目の前の人を好きといい、腹が立った時にはその人を嫌いだというのです。
 赤いかいじゅうは、頭にきて、岩石を相手にぶつけようとしました。しかしそれが間の山を崩すことになりそうだと気付きました。二人は山を崩し始めるのです。これは、どういう意味でしょうか。山というのは、相手との関係を阻害するものだったのですが、しかしながら彼らはその山があるために周囲の脅威を感じずに済んだのです。山というのは自分という存在を守ってきた城、鎧、壁のようなものです。それを崩していくのです。少し話はとぶかもしれませんが、国際政治においてはこうはいきません。相手が嫌いになり、憎悪が渦巻いてきた結果、遠距離ミサイルを発射して、相手の国を殲滅するのです。間の山というのは自分の国を守る壁になるので、極力崩そうとは思いません。裸になって自分を曝すようなことはしません。そうしたことから、自分の国と相手の国との関係が悪くなっていき、戦争へと向かっていくのです。大事なことは、お互いがうまくいかない原因(ここでは山)を崩すことが重要です。私たちもまた、本書のかいじゅうたちのように、自分を守ってくれているこの壁を崩していくことが大切だと思います。
 どれくらいの時間が経ったでしょうか。二人はやっと山を崩し、お互いが対面できました。二人は視点を共有できたのです。「日がくれる」「夜がくる」お互いの言葉の意味を理解する時が来ました。それは一つの現象の二つの側面だったのです。なるほど、そうだったのか、という驚きと発見です。彼らは再びお互いの身体的特徴を褒め合いながら、お互いがひかれあっていきます。彼らはお互いをどのようにとらえているのでしょうか。おそらくは、目の前にいるこの相手は、自分の世界を、いっそう広く、豊かにしてくれる存在だと、とらえたのでしょう。自分はいままで狭い考え方だったのだ、恥ずかしいというのはそういう思いです。そうなると再び、相手の身体的特徴が美しいものに見えてくるのです。読者の側から見れば、それこそちょっとした身体的特徴をけなしたり褒めたりするので、なんだか変な話ですが、でもこれでいいのです。それぞれが相手を素敵だと思うことができれば、みんな幸せに生きることが出来るのです。