なぜ人は争うのか
『サルビルサ』(作・絵:スズキ コージ、架空社、一九九六年)
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 強烈な絵です! 鉄の鎧をつけた一人の男が、大平原を馬に乗って走っています。何かを追いかけています。イノシシのような小動物でしょうか。何かを語っています。「モジモジモジ」 ところがもう一方から別の男(白い着物)が馬に乗ってやってきました。彼は「ジモジモジモ」と語っています。二人は同時に小動物を捕えました。一方は「サルビ!」、一方は「ビルサ!」と言います。どうやら自分が獲ったのだと主張しているようです。ケンカになりそうです。しかしここでケンカになりませんでした。そして二人は、それぞれ自分の国に戻ります。それぞれ、国王らしき巨人に対して報告するのです。(二つの国はキリスト教徒とイスラム教徒のようにも見えますが、定かではありません。)
 さて、イノシシの取り合いですから、二人がケンカをして勝った方が奪うのか、あるいは仲直りして半分に分けるか、諦めるか、譲り合うか、話し合うか、そのあたりになると思われるのです。ところが実際にはそうはならないのです。彼らはなぜケンカをせずに、国王に報告しようとしたのでしょうか。彼らの思いを敢えて言葉にするとこうなります。

 「このイノシシを発見し、捕獲したのは私である。それゆえこれは、我々の民族・国民の財産である。我が国に持ち帰って我が国民が食するべきである。しかしながら目の前に現れた異民族は、私が入手しようとしたこのイノシシを後から入ってきて奪っていった。これは由々しき大事態である。私はこの大事態については判断できない。国王陛下に報告申し上げるべきである。」

 そんな意識だと思われるのです。ひょっとしたら、彼らは自分で戦って問題解決するのが怖いのかもしれません。勝てると思ったらケンカに持ち込めたはずです。彼にとって目の前にいるのは一人の人間ではなく、全く別の民族、その国家に見えてくるのです。すなわち彼は脅えているのです。これは脅威だ、と。彼はイノシシの取り合いを自分の個人の問題ではなく、国家や民族の問題へと変えていくのです。自国に変えれば大勢の仲間がいます。幸せを共有した仲間です。みなで同じ気持ちを共有しようとするのです。かくして怒りが強く、大きくなっていくのです。
 鎧の国王が大号令をかけます。「モジー!」と呼びかけ、大軍を結集します。一方、着物の国王も大号令を発します。「ジモー!」と呼びかけ、大軍を結集します。この時、国王はどんなメッセージを発しているのでしょうか。敢えて言葉にしてみるとこうなります。

 「聞け、わが国民よ。我らの祖国の国境線上で大事件が発生した。異民族の者が、我が財産を力ずくで奪おうとしたのである。奴らは、我々の財産や領土や幸福を脅かす、不道徳で残忍な存在である。先祖代々から続くこの美しい国家にとっての非常事態である。今まさに早急に対応し手を打っておかなければ、後々大きな問題になるであろう。国民よ、同胞よ、力を合わせてこの難局を乗り越えよう!」

 それぞれが掛け声を発しながら、平原に向かいます。なぜこんなにも綺麗に揃って移動するのでしょうか。その方が、力が出るからだと思います。大勢で動くためには、出来るだけ単純で明快な論理が必要です。そしてスローガンや歌や踊りのような気分を高揚するような動きで前に進むのです。すなわち、より大きな力にするために、このようなスタイルを取るのです。一人ひとりの感性や多様な意見などというものはここでは不要なのです。
 二つの軍隊は、中央で向かい合い、最初は議論しようとするもうまくいきません。鎧の国民は「サルビー!」と怒鳴り、着物の国民は「ビルサ―!」と怒鳴るのです。この段階で話し合いをしてもうまくいくはずはありません。怒りの感情をぶつけ合っているだけだからです。いきなり攻撃をせずに、いったん相手を威嚇したのはなぜでしょうか。お互いが、武力で相手を圧倒しているということを示したいのです。それで相手がビックリして困惑して逃亡してくれればいい、大規模な軍隊を前にして相手が下がってくれればいい、そう思っているのです。根底には、戦いたくないという気持ちがあるのだと思います。脅えているからこそ強がっているのです。いくぞ、いくぞ。いいか、本当にいいのか。そんなメッセージだと思います。
 絵本では「サルビ」「ビルサ」という二つの言葉が飛び交っていきます。これはどういう意味でしょうか。これは作者の思いが含まれていると思います。一見すると違うように見えるのですが、ひっくり返せば同じなのです。私たちは自分の視点から世界や文化を作り上げるので、相手の言葉が理解できません。ひっくり返っているように見えるのです。「サルビ」という順序で言葉を発している人間にとって、「ビルサ」はとても気持ち悪く、恐ろしい存在のように見えるのです。しかしひっくり返せば同じ。どちらも人間ですから根底は同じなのです。本来ならば、共有できるはずなのです。しかし対立している時にはそんなことは思わないのです。二つの国の言葉は逆さにするだけで一致するほど似ていますが、怒りの中では通じない。そんな作者の意図を私は感じます。
 遂に、大軍同士が争いを始めます。迫力がありますね。激しい声や音が聞こえてきそうです。もはやその勢いを止めることはできません。最初のイノシシについては、もはや誰も覚えてさえいません。彼らにとっては、イノシシの所有云々よりも、この民族や共同体のあり方の方が重要なのです。激しい戦闘の後、両軍とも大打撃を受けます。残った人々は撤退です。なぜ、残った人々が撤退したのでしょうか。それは、彼らが戦意を失ったからです。バタバタと人が倒れていく。友人や親戚が死んでいく。これだけ人々が死に絶えてしまえば、我々の国家や共同体そのものにとって大きな損失である、急いで立て直さなければならない、そんな心境でしょうか。負けを認めたとか、これまでのことを反省したとか、そういうことではないと思うのです。大声をあげて力を結集しようとしたその元気やパワーが、すっと消えていく。力をもたらしてくれたはずの民族、共同体というものが急に弱まっていく。そんな感じだと思います。
 勿論、そうなることは最初から分かっていてもよさそうなものです。なぜ彼らはこうなることを予測できなかったのでしょうか。彼らは、怒りの絶頂にある時にはその怒りを表現することに熱中してしまい、冷静な未来予測が出来ませんでした。自分たちの圧倒的な軍隊に感動してしまい、相手が巨大な軍隊であるということを見ようとしないのです。自分の心の中の怒りを見つめている方が、気持ちいいのです。本当は脅えている気持ちもあるのですが、「脅え」は気持ち悪いので、「脅え」を消してくれる「怒り」や「強さ」の方で心の中をいっぱいにしてしまう。それゆえ、冷静な判断が出来なくなってしまうのです。多くの同胞が死んでしまった後で、はっと気づくのです。大変な結果になってしまった、と。こういう姿を私は「愚か」だと呼びたい。
 最後に「サルビルサー」と鳴くことのできる「黒い鳥」(ワシでしょうか、タカでしょうか)がやってきます。黒い鳥は最初のページからあちこちで登場していました。最後にこの鳥は、中央に放置されていたイノシシのような小動物を持って帰りました。餌を囲み、サルビルサという不気味な歌を歌っています。この鳥はどんな意味があるでしょうか。黒い鳥たちはサルビルサという言葉が分かります。ということは、二つの言語が共通しているということを知っているということです。どちらの言語も使えるのです。サルビルサという両者に通じる言語を持ち合わせたこの黒い鳥は、なぜその利点を生かして戦争をやめさせようとしなかったのでしょうか。どちらの言語も理解できるような頭脳明晰な人々は、何を考えるのでしょうか。彼らが考えるのは、両者の平和ではなく、二つの民族が滅んでしまい、その後に利益を得るということを考えるのではないでしょうか。ひょっとしたら二つの民族が殲滅することを、楽しみにして待っている第三の民族がいるかもしれないのです。黒い鳥は平和をもたらす力を持っているのですが、それはせずに知らん顔をするのです。戦争して滅んでしまう方が、黒い鳥にとって好都合だからです。冷静で理解力のある人間は、戦争をしません。命をかけて戦うことはしません。そんな人は、他の人々が命をかけて戦っているのを、高いところ、安全な地点から見物しているのです。
 私たちは何が必要なのでしょうか。この絵本から何を学ぶべきでしょうか。悲しみと怒りを増幅してしまうことは、戦争を生みます。心のある人間が、戦争を起こすのです。とってもいい人なのです。ということは、戦争をしないためには、ある種の冷たい精神、冷徹で客観的で正確な科学的な認識というものが必要なのです。優しさではなく、計算です。イノシシの取り合いのような場面では、怒りを増幅させるのではなく、ちょっと引いて世界の様子や背景を見るべきです。相手もまた困っているはずです。衝突場面においては、相手を許し、場合によっては謝って見せるということも必要です。本気で謝る必要はありません。そういう「フリ」だけでもいいのです。計算をすればよいのです。そうすれば戦争にはならずに済むのです。