どうやって戦争を止めるか
『おしっこぼうや』(作・絵:ウラジーミル・ラドゥンスキー、訳:木坂涼、セーラー出版、二〇〇三年)
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 石の塀に囲まれた美しい小さな町。ここに、小さな子どもと、父母の三人が仲良く幸せに暮らしていました。ところが、ある日、戦争が起こったのです。兵士たちの描き方はとても印象的ですね。真っ黒の軍服を纏い、口を開け、舌を出し、発狂するかのごとくに押し寄せています。カラフルな美しい町とは対照的です。絵がとても雑です。それによって人間の愚かさを表現しているのだと思います。戦っている当の本人たちは、いたって真剣です。彼らには彼らなりの目的なり大義なりはあるのかもしれませんが、何とも恐ろしい光景です。昼も夜も、戦い続けました。花の市場もなくなり、道端で遊ぶ子どももいなくなりました。真っ黒な冷たい町になってしまいました。この子は、父母とはぐれてしまいました。とても寂しく、とても怖い。
 男の子は、とても悲しく、脅えていたのですが、それより、なにより、おしっこがしたくなりました。その子は遂に、人々が戦っている頭上から、おしっこをしてしまったのです!おしっこは、兵士たちにかかってしまいました。カッコ書きで次のような文章が書かれてあります。(でも、ぼうやを ゆるしてあげてください。 まだ ほんの ちいさな おとこのこ なんですから)すると、人々は戦いをぴたりとやめ、はっはっはーほっほっほーと大笑いを始めたのです。夜になっても笑い続けました。笑い疲れて、眠りました。翌朝には戦争が終わっていたのです。男の子はそれからすぐ後に、お父さん、お母さんと再会することができました。まちの人々はこのことが忘れられずに、男の子の銅像を建てることにしました。それが小便小僧です!最後のページに、小便小僧の銅像が写真で示されています。
 なぜ、おしっこをするということが面白いのでしょうか。大人でもそうかもしれませんが、おならをブリッと出してしまうと、笑ってしまいます。赤ちゃんがヨチヨチ歩いて、しかもそれが全裸だったりすると、笑ってしまいます。動物的な光景といってもよいでしょうか。いわば「きちんとした」正式な秩序の中にあって、気持ちが張りつめている時に、それがビリッと破れる。そんな時に笑ってしまうのです。時折、バラエティ番組においても、お笑い芸人が裸になることがあります。女性の美しい姿や、あるいは鍛えられた筋肉美ではありません。その真逆の醜い姿(と言っては失礼かもしれませんが)を見て、笑ってしまうのです。今回のおしっこについてですが、幼い男の子が壁の上に立ち、兵士たちを見下した場所に立ち(それは通常では指揮官の場所です)、そこでおしっこをしている、というギャップが面白いのかもしれません。男の子の表情も重要です。不安そうで、申し訳なさそうで、ビクビクしていながら、しかしながら出ているおしっこはとても勢いが良く、光がキラキラして見える。そんなアンバランスで笑ってしまうのです。
 おしっこをしている子を見て笑うことが、戦争をやめることにつながったのはなぜでしょうか。そこにはいくつもの段階があるように思えます。人間というのは、本来、泣いたり、驚いたり、困ったり、考えたりする生き物です。酸素を吸って、二酸化炭素をはく、米を食べてうんちをする。身体から様々な臭いを発しますし、黒い毛がどっと出てきたり、しわくちゃになったり、そういう存在です。戦争時には、そういうことは忘れます。何か正しい教義、信念、カッコ良い姿をイメージして、そのイメージを守るために、そのイメージに操作されて、相手を殺すのです。(そうでもしなければ殺すことはできません。)戦争というのは、人間のようで人間ではない。抽象的な記号のような存在になってしまうのです。夢中でその目的のために行動している兵士が、人間の人間らしい姿を見た時、少し安心するのだと思います。人間だから、いいんじゃないの?という声です。
 (ぼうやを ゆるしてあげてください。 まだ ほんの ちいさな おとこのこ なんですから)この言葉はとても美しいですね。これは誰の言葉でしょうか。これは、戦っている兵士たちの心の中に現れた言葉だと思います。こうした言葉が大きくなっていけば、次のような言葉に変ります。(あいての兵士をゆるしてあげてください。 みんな、一生懸命に悩み、笑い、迷うような、 ダメ人間なのですから)ダメ人間、とてもいい言葉です。どんなにカッコつけても、どんなに威張っても、どんなに優れた能力や業績をもっていても、人間である以上、ダメ人間なのです。だから、間違いをしてしまうのです。どうか、怒らないで。素朴な人間的な姿を見て我に返った、そんな瞬間だと思うのです。
 さらに、自分も笑っているが、目の前の兵士も笑っている。自分と相手が同じものを見て笑っている。そうです。みな同じ人間なのです。最初は子どもを見て笑っていたのですが、ふと思うのです。こっちの方が、人間として優れているのではないか。戦って殺し合いをしている自分たちの方が、愚かなのではないか。今武器を持って戦っているのは、悲しくて惨めなことなのではないか。そんなふうに思うのです。敵も味方もありません。みんなで笑いましょう。みんなで立ちしょんべんをしましょう。みんなで踊りましょう。このようにして、戦意が消えてしまったのだと、私は思います。
 現在の戦争は、ここで描かれている戦争よりもはるかに深刻です。無人飛行機が地球の裏側から操作され、爆弾を落とされるような戦争であれば、子どもがおしっこをしていても気づかない。人間の顔が見えないということは、非常に恐ろしいのです。
 幼児が裸でおしっこをしているという銅像は、ひょっとしたら、日本では問題になるかもしれません。テレビで全裸の赤ちゃんが映し出されたら、今では性器の箇所に修正が入ります。以前ではこんなことはありませんでした。私は行き過ぎだと思います。私は、幼児が裸でうろうろしていたら、大人は大笑いしてよいと思います。子どもは、私たちに生命のあり方や豊かな現実の素晴らしさを提示しているのです。性器をぶらぶらさせながら、よたよた歩いている姿は、ユーモラスなのであって、そこにモザイクをかけることは、すなわち、赤ちゃんをセックスの対象としてとらえる、ということになるのです。隠すということは、むしろ「これを秘めておくから興奮しろ」と言っているようなものです。赤ちゃんがおしりをプリッと出して、ブッとおならをしたら、笑うべきです。そこから目を背けたり、モザイクをかけたりする、あるいは(性器のない)天使のように、神格化したりするということは、とても危険です。生命や生身の姿や現実ではなく、抽象的な偶像を崇拝するからです。人間の人間らしい姿を見つける機会を失うからです。それは、究極的には戦争につながると思います。戦争というのは、人間を偶像化し、抽象化し、記号化していくことです。一切の笑いを否定することです。戦争をやめるためには、私たちが豊かな感情を持った人間であるということを思い出す必要があります。