私たちはいつ自分を知るか
『あな』
(作:谷川俊太郎、絵:和田誠、福音館書店、一九八三年)

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 表紙は、丸い青い球体… ではありません。これは丸い穴の中に入り、そこから空を見上げた時の視野です。日曜日の朝の話です。することがなかったため、ひろしは穴を掘ることにしました。母は「なにをやっているの?」と問い、妹は「あたしにも、ほらせて」と言い、友達は「なにに、するんだい」、父は「あせるなよ」と声をかけていきます。周囲の言葉には深く反応することなく、手を止めることなく、ひたすら穴を掘っていきます。
 ひろしはなぜ、穴を掘ることにしたのでしょうか。日曜日の朝は暇だった、ということのようですが、それだけではありません。自分の今の生活に何か不満があったのかもしれません。自分の居場所が欲しかったのかもしれません。ただ、周囲の人々はいろいろと声をかけてくれるわけですから、現実が「嫌で」「嫌で」というふうには読み取れません。ひょっとすれば、穴ということが目的ではなく、掘るということが楽しかったのかもしれません。何でもいいから面白いことをやってみたかった、身体を動かしてみたかったのかもしれません。地面というものが不思議に感じた(その下がどうなっているか疑問だった)からなのかもしれません。マニアックな趣味なのかもしれません。周囲には理解できないこと、あるいは本人にさえ理解できないのかもしれません。趣味というのは、他人にはよく分からないものです。無駄に見えることは少なくありません。彼の周りにいる人々は、疑問です。そんなところを掘ったとしても、宝があるわけでもない、汚れるだけ。というふうに思うでしょう。しかし彼にとっては掘ってみようかなと思ったことそれ自体が重要なのです。何があるか、どんな結果になるか、そういうことを考えたり予測したりするのではなく、掘ってみたいなと思うだけで行動する。掘っている時には、遠い展望等を考えているわけではありません。ただ、ひたすら掘っていく。そんな感じでしょうか。
 周囲の人々はそれぞれ声をかけていきますが、ちょうどよい距離感ですね。全く無視してしまうのではなく、少しは声をかけるのですが、かといって相手の心の中にずけずけと入り込んだり、邪魔したりするほどでもありません。これくらいの感覚でかかわってくれると、本人も自分らしさを追求できると思うのです。周囲の人々が声をかけるのはなぜでしょうか。目の前で変わったことをしていれば疑問に思うのは当然です。しかしそのように問いかけたとしても、彼は十分に答えているわけではありません。納得できないにもかかわらず、それ以上は声をかけずにその場を離れています。彼には彼なりの考えがあるに違いない、一生懸命にやっていることを邪魔しては悪い、好きにさせておこう、そんな気持ちだと思うのです。それは基本的には優しさだと思います。
 絵本の続きです。手が痛む、汗がこぼれる。やっとのことで深いところまで掘りすすめて、そしていもむしが出てきます。ふっとかたから力が抜けて、そこに座り込みます。そしてこう思います。「これは ぼくの あなだ」
 さて、ひろしはなぜ、掘った穴を自分の穴だと宣言したのでしょうか。ただの穴ではありません。自分で思いついて掘った穴です。いもむしが遠慮して去ってくれる。ひろしだけの空間。自分なりに力を込めて作り上げたものなのです。ヘトヘトになりながら掘ったものです。自分の思いがそこに含まれる。それゆえ、それを「自分自身」だと思えるのです。結局のところ、私達はこうやって自分自身の存在(アイデンティティ)を確認するのです。一般的に言って、私たちは「自分というもの」が先に存在して、その自分という立場から様々な行為をしているように思いがちですが、実際には逆なのです。あれこれ行為をしてみるなかで、ふと思うのです。これが僕かな?と。行為は多方面で多様ですから、その中には自分らしくない行為というのもあります。いろんな行為をしながら、後になって「これは自分ではない」「こっちが自分だ」等と考えていくのです。ここで重要なことは、周囲の人間がそれを認めているという点です。「承認」です。例えば無人島にいて、誰も見ていない時に穴を掘ったとしても、いまいちピンときません。穴を掘っているのをいろんな人が見ていて、その視線や声を感じながら自分の穴を掘るのです。それを邪魔されない、けなされないということは、すなわち「承認された」ということです。そして彼が宣言しているのは、自分自身に対して宣言すると同時に、周囲に対しても宣言しているのです。自分が自分であるということに気付くのは、自分の思いや努力、苦労が詰まったモノを見つめ、しかもそれを周囲の公的空間の中に位置づけた時なのです。そしてここが自分の位置だ!と思う時に、「自分としての真の人生」が始まるのです。
 絵本に戻ります。おかあさんが来て、いもうとがきてしゅうじくんがきておとうさんがきます。一人ひとり違う言葉をかけていきます。周囲の人々はひろしが穴の中にいるということが不思議です。何をやっているのだろうか。しかしひろしは、適当な返事をしながら、穴の中に居続けます。ひろしは上を見上げます。(それがこの表紙です)「あななのなかから みる そらは、いつもより もっと あおく もっと たかく おもえた」とあります。そしてあなから出て、再び「これは ぼくの あなだ」とつぶやきながら、そのあなを埋めていきます。
 空はとても青く、高く見えた。彼にとってはその地点が特別な場所に思えるのです。この場所が彼の地点であり、ここから見える風景も世界観も、彼のものなのです。最後に、ひろしがあなを埋めるのはなぜでしょうか。それは気持ちが十分に満たされ、これまで以上に大きくなったからです。自分で自分の人生を進めていくためには、必ずしもこの場所が必要ではなくなったのです。荒野を移動したとしても、自分の地点は心の中にある。彼はこの地点を消し去ったとしても自分で生きることができるのです。
 幼稚園では3才くらいの幼児が、わざわざ、狭い場所を探し求めてそこでじっとしています。場合によっては複数の子どもでぎゅうぎゅうの状態になることがあります。不安、というのではなく、自分のアイデンティティを探しているような感覚だと思うのです。もう少し時間が経過すると、その場所はもう特別な場所ではなくなっていくのです。ゼロの地点に戻って、彼は新しい場所を探していく。それが大切なのです。動ける、移動できるということは、それだけ自分というあり方が、心の奥に入り込んでいき、周囲からの影響を受けないような確立したところにあるということなのです。逆に言えば、いつまでもその地点から動けないということは、すなわちまだ自分らしさを発見できていないということです。
 この絵本から何を学べるでしょうか。私はここに人生の在るべき姿を見出すことができます。もしみなさんの身の回りに心が病んでいる人がいたならば、自分を見失って前に進む元気がないならば、穴を掘るとよい。ヘトヘトになって、身体を動かし、そしてモニュメントを作ることを勧めましょう。カウンセラーは不要です。穴でもいい、山でもいい、ヘトヘトになって、汗をかいて、筋肉痛になりながら、何かを成し遂げることが大切です。その際に重要なことは、周囲はそれとなく声をかけ、関心を示していく、というかかわり方です。評価しなくてもいいのです。それとなく声をかけるだけで良いのです。それが承認につながるのです。彼は周囲の公的空間の中に自分の存在感を得るのです。自分という地点を見つけ、そこで十分に満たされる思いになれば、次はそこから離れて別の地点を探すと思います。人類はサル(正式にはなんとかピテクス)から、進化してきました。モニュメントを残すというのは、人間にとって重要なことであり、しかも、最も原始的なことだと思います。生命の維持に必要なことをするのはサルでもします。しかしモニュメントという、別に無くてもいいようなものを作る。それはやはり人間の人間らしい行動の一つだと思います。