アイデンティティはどうやって獲得するか
『ぼくは くまのままで いたかったのに……』
(作:イエルク・シュタイナー、絵:イエルク・ミュラー、訳:おおしまかおり、ほるぷ出版、一九七八年)
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 熊は、体格は大きく、人間と同じかそれ以上に大きいので、ゆったり歩いている姿を見ると、中に人間が入っているのではないかと思うことがあります。絵本に登場するこの熊は、春になって冬眠から覚めたところ、かつての森林ではない別の場所に変わっていることに気付きます。あれ、ここはどこだ? そこは既に人間の場所、巨大な工場の一部になっていたのでした。もともとは動物たちの住む世界だった森林は、いつの間には人間の所有する広い土地ということになっていたのです。わたしたち人間は、自然を平気で略奪します。わたしたち人間は、価値がなければ放置し、価値があれば略奪します。そこにどんな動物たちが生活しているのかには関心がありません。美しい風景であってもあっという間に壊してしまい、人間にとって必要な建造物を作り上げていきます。
 呆然としているくまの前に、工場の職長が現れます。「おい おまえ、とっととしごとにつけ」といいます。工場の労働者だと勘違いしてしまっているようでした。人事課長も、副工場長も、工場長も、そして社長も、誰も目の前にいるのが熊だということを理解してくれません。
 さて、周囲の人々が気づかないのはなぜでしょうか。目の前にいるこの動物を熊だとは分からずに、労働者だと思い込むのはなぜでしょうか。勿論これは絵本です。ファンタジーです。現実には熊は会話をすることがないので、すぐに熊であることが分かります。ここで問うてみたいのは、私たちはどうやって目の前の人間の意味を理解するのかという点です。工場の職長は、工場内をぶらぶら歩いている存在を見ればまずは労働者だと思うはずです。仕事をせずに歩いている。怠け者だと思うわけです。工場の敷地に入れるのは、そういう特別な人だけだからです。さらに最初に見た人が怠け者だと思ったわけですから、その人が連れてきたのであれば、次にそれを見た人もまた怠け者と思うのです。自分で判断するというよりは他の人がそういっているならばそうだろうという安直な考えです。もともと管理職の人々は、怠け者はいないか?という眼差し(認識の枠組み)でとらえているからこうなるのかもしれません。絵本で描かれたことそのものは起こりえないことなのですが、その論理や仕組みは、私たちの日常生活によくある話なのです。
 社長はこういいます。「おまえがほんとうにくまだというなら、それを証明しなくちゃだめだね」動物園に行っても、サーカスに行っても、そこに熊がいます。しかし動物園の熊は、彼を見ても熊だとは思いません。人間と一緒に歩き、自動車に乗って移動しているという文脈を見て、人間だと思うのです。サーカスの熊もまた、彼を見ても熊だとは思いませんでした。結局、社長は認めてくれませんでした。おそらく社長は本気で考えているのではなく、暇つぶしをしているつもりなのでしょう。この場面はとても印象的です。熊は困りました。いくら言っても認めてはもらえないのです。自分が熊であるということを証明する、というのは、はたして可能なのでしょうか? これはとても大きな論点だと思うのです。自分が誰であるかというその存在のあり方は、自分一人の力で証明することはできないのです。例えを出してみましょう。自分は歌が上手いと思っていた人間は、有名な歌手に囲まれた状態ではそれを証明できません。勉強が得意だと思っていた人間であっても、受験の難関校に入ってしまえば評価は相対的に決まってしまいます。周囲の文脈で決まったことは、それは自分一人の力でひっくり返すのは極めて困難なのです。
 熊は、無理やり工場労働者にさせられてしまいます。「ぼくは、くまなのに」という本人の声は、かき消されてしまいます。熊はもう逆らうことをしませんでした。なんだか、疲れてしまったのでしょう。言われるがまま、顔の毛を剃り、作業着を着て、毎日毎日、巨大な装置のボタンを押して働くことになりました。読者は、もっと自分自身を強く持つべきだ、諦めちゃだめだ、なんて思うかもしれません。しかしそれはとても難しいことです。わたしたちは、しばらくそこで生活していると、そこで「常識」を習得します。常識を疑うのではなく、常識に流されてしまいます。というのも、常識に対抗するにはとても大きな力が必要だからです。熊は、春、夏、そして、秋と働き続けます。しばらくすると、眠くなってしまいます。ついに、仕事中に居眠りをしてします。「おまえのようななまけものには、もうようはない。でていけ! クビだ!」職長に怒鳴られてしまいます。工場を追い出され、クビになってしまいます。
 工場の人々は、なぜ労働者であるはずの熊を追放してしまうのでしょうか。もともとこの工場の人々は、彼を、人間として認めたのではなかったのです。役に立つための道具のようにとらえていたのです。もはや、彼がどうであるか、ということよりも、自分たちがいくら儲けるか?いくらの利潤を生みだすか?いかにして効率化をはかるか?ということに関心があるのです。ですから、必要がなければ捨ててしまいます。
 さて、大喜びで自然に帰るはずですが、この熊はなぜかそのようなことをしません。彼は、ホテルに泊めてもらおうとします。彼は、自分が熊であることを忘れてしまっているのです。「お前は労働者だ」という扱いを受けてきた熊は、ついに自分が本来だれであるかを忘れてしまったのです。その後、ホテルの従業員から宿泊を拒否されてしまうのですが、そのことで困惑してしまうのです。熊が自分のもともとの存在を忘れてしまうのはなぜでしょうか。わたしたち人間は、常に確認をしなければ自分が誰であるか忘れてしまいます。そもそも、私たちは相手の声や眼差しを通して自分が誰であるかを理解するのです。アイデンティティとは他者とのかかわりの中で常に上書きされます。それは決して悪いことばかりではなく、私たちの日常にはいくらでも見いだせることです。お父さんと呼ばれ続ければお父さんになり、課長と呼ばれ続ければ課長になる。周囲の位置付けによって、それにふさわしい資質や態度を身に付けていきます。10年前、20年前のアイデンティティを忘れてしまうなんてことは、おそらくはよくあることだと思います。息子たちが巣立ってしまっているのに、依然として「お父さん」「お母さん」と呼び合う夫婦はたくさんいます。
 さて、ホテルの従業員は、彼が作業着を着ているにもかかわらず、彼が熊であると理解しました。ホテルの従業員が見破ることが出来たのは、なぜでしょうか。従業員ですから、人を管理したり、全体をまとめたりするような責任のある立場ではありません。先入観なしで相手をとらえることが出来たのかもしれません。しかもホテルの周囲が森であるので、森からやってきた毛むくじゃらの男は熊だと認識したのでしょう。
 絵本の最後のシーンです。なにか大切なことを忘れてしまっていると思いながら森の中をさまよい歩きます。どうしたらよいか分からなくなってしまい、座り込んでしまいます。とても静かな夜です。絵本は、ここで終わります。おそらくは、自然の中でゆっくりと自分自身を取り戻していくのでしょう。大自然がとても美しい絵本です。裏表紙で描かれているのは、おそらくはその冬を越えた後の、春の様子だと思います。熊と読者(人間)の間の距離感は、これくらいが一番ちょうどよい。そんなメッセージであるようにも思えます。