他者からの言葉を無価値にできるか
『たいせつなきみ』
(作・絵:マックス・ルケード、訳:ホーバード豊子、いのちのことば社、一九九八年)
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 ウィミックスという木の小人たちの話。それはエリという彫刻家(人間)が彫った人形の世界でした。彼が作った人形は、その村で生活していました。ここではお互いにシールを貼り合うのです。優れた技能や美しさに対しては「金ぴかシール」、だめな部分には「だめじるし」を貼っていきます。この世界の住人たちはこうしてお互いにシールを貼り合うのでした。見た目だけではありません。箱を飛び越えるような身体的能力、難しい言葉を知っている者、歌を歌える者には、やはり金ぴかシールを貼るのです。高い能力の持ち主にはたくさんの金ぴかシールが貼られます。一方、能力が低かったり、デコボコしていたりする者にはだめじるしが貼られてしまうのです。
 さて、これは何を示しているのでしょうか。ここで描かれる世界は、私たちの社会そのものです。見た目が美しい、スタイルが良い、あるいは身体的能力や高度な技を習得した場合には、多くの人々から称賛されます。それは「金ぴかシール」と似ています。見た目が悪かったり、失敗したりすれば周囲から嘲笑されます。それは「だめじるし」に似ています。すなわち「評価」なのです。昔に比べてどんどんこの評価ということが増えてきたような気がします。レストランの評価もそうです。インターネットで注文するとそこには評価の星がたくさん並んでいます。評価した人を評価することもあります。学校教育も、評価だらけです。生徒が先生を評価する、なんてことも起こってきています。評価のための膨大な事務作業が課せられています。さらにはランキング形式で発表し、評価の高いところに名誉や賞金を与えるなんてことも多々起こります。
 絵本に登場するパンチネロは、だめじるしばかり貼られていました。高い箱を飛び越えようとしたのですが、失敗します。だめじるしが貼られます。かすりきずがついてしまい、だめじるしが貼られます。言い訳しようとして、だめじるしが貼られます。パンチネロはだめじるしが怖くて、心配で、家から出ることができなくなってしまったのです。あるいは同じようにだめじるしを貼られている者同士で一緒にいることも多くなります。通りがかりの者がおまけのように、だめじるしをつけることもあったのです。パンチネロが家から出たくなくなったのは、なぜでしょうか。とても辛いのです。みんなと同じように、あるいはみんな以上に金ぴかシールが欲しい。しかし、誰もつけてくれません。誰かに文句を言いたくても、誰にも言うことが出来ません。なぜならば、だめなのは事実だからです。彼は自分がだめだということを認めています。イヤですが、仕方ない。
 パンチネロの気持ちに寄り添うならば、これはとても酷いことのように思われます。なぜみんな、パンチネロに対して、だめじるしを付けてしまうのでしょうか。周囲にいる人々は、ただ単純に、そう思ったから貼りつけただけなのです。称賛の反対です。失敗した人に失敗したねという。かっこいい人にかっこいいねという。思ったまま。時には印象や雰囲気だけでシールを貼りつけることもあるようです。「思った」のは確かなことなのです。それは自由社会だからなのかもしれません。そしてそれは現代社会にあっては、なかなかきつい。それはその人の人格を酷く傷付けてしまうこともあるのです。
 私たちは、「評価」ということについてどのようにとらえれば良いのでしょうか。優れたものに「良い」と言い、劣ったものに「ダメ」と言うことは、問題なのでしょうか。見たこと、思ったことをストレートに表現するといえば、適切なことのように思えなくもないのですが、やはりここには大きな問題が含まれているように思われます。「私はこう思う」という価値づけが、いわば「決定」という形で向けられるわけですから、それを向けられた側はただそれを受けるしかありません。反論したり、修正させたりということは出来ないのです。その意味で、評価は暴力的ですね。評価というのは、一見すると客観的なように見えて実際には極めて主観的な作業です。「なんかいいな」と思えば高い評価となり、「なんだかダメ」と思えば低い評価となります。十分に熟考された評価もあるかもしれませんが、その大半は単純な趣向や好き嫌いだったりするのです。この世界の中に入れば、いかに多くの人々を喜ばせるかに関心が向かうことでしょう。しかしそれは窮屈で息苦しい社会であり、他者からの評価を気にしながらビクビクして生きる社会なのです。
 さて、絵本に戻ります。しばらくするとパンチネロは、ルシアという小人と出会います。彼女は、一切のシールをつけていない。木のままでした。ニコニコしていて、気持ちよさそうです。パンチネロは「ぼくも あんなふうになりたいなあ」と思いました。それはなぜでしょうか。シールがつかないということは、シールに脅えながら生きていかなくてよい。他者からの評価を気にしなくてもよいということです。パンチネロは、金ぴかシールをもらって立派な存在になりたいという願望ではなく、シールから解放されてのびのびと生きていたいという願望を抱くようになっていたのです。
 読者は、ここで気がつくのです。金ぴかシールも、だめじるしも、必ずしもくっつくものではなかったのです。場合によっては「貼りつかない」こともあるのです。シールの側の要因でくっついているのではなく、人形の側にその要因があるようなのです。では、どういう時に貼りつくのでしょうか。あるいはなぜ貼りつくのでしょうか。この世界の中では、人形たちはある意味で欠けた存在でもあるのです。何か付属品をつけなければ満足できないというその存在のあり方によって、貼りつけたものが「貼りついた状態」でありうるのです。金ぴかシールを貼られた時に、「あ、そうだ。僕はそういう存在なのだ」という形で自分のアイデンティティを理解していく。あるいは逆にだめじるしを貼られた時においても、「あ、そうそう。これが僕の本当の姿なのだ」という形で認識していくのです。自分という存在が分からないと思っているから、何か付属品のようなものが欲しいと感じているのです。シールを受け入れるから、シールは貼りつくのです。このことは、アクセサリーや趣味や特技のようなものを求めてしまう私たちの姿と重なります。私たちもまた、何もない状態は不安です。卓越や特徴のない状態、隣の人間となんら違いがないという状態、存在する意味がない状態というのは、私たちは耐えられない存在なのです。
 ルシアという人形は、アクセサリーや特技のように、他者との違いを示すようなものを必要とはしていません。自分は特別な存在であるという思いを既に持っているのです。ルシアがそのように思うことができたのは、エリのおかげです。パンチネロは、ルシアに導かれ、ついにこの人形の制作者であるエリに会いにいくのです。エリのもとで、パンチネロはエリの大きな愛情を感じたようです。では、エリとはどういう存在なのでしょうか。この世界の住人にとっては、超越した存在、この世界の全てを作り上げた存在ですから、いわば「神」のような存在です。神様にとっては、その世界の住人のすべてが意味のある存在なのであり、大切な存在だ、ということなのです。エリの愛情を感じた時から、パンチネロは自分に貼りついただめじるしを少しずつ外すことができるようになります。
 私たちは、ここから何を読み取ることができるでしょうか。私たちは評価社会の中に生きています。それは自由主義社会だから仕方ないことなのかもしれません。誰にだって言いたいこと、表現したいことがあるのです。素晴らしいものには「素晴らしい」と評価されるでしょうし、そうでないものには「くだらない」と評価されます。そう思ったのですから、それを表現したくなるのが人情です。しかし各自の評価とは、主観的で一面的なのです。それを全員分集めても客観的なものにはなりません。評価を真に受ければ受ける程に、息苦しさを感じるでしょうし、何かに脅えながら生きるようになるはずです。私たちは、評価の重みを軽くするような作業が必要なのです。他者から評価されたからといって大喜びしている場合ではありません。私たちには評価というものを跳ね返すような真に強い力のようなものが必要だと思うのです。絵本ではエリという超越的な存在が登場します。ここで重要な点は、自信や自己愛のようなものは、隣人から得られるものではないという点です。褒められ、評価され、自信に満ちたからといって評価が気にならなくなるわけではありません。他者の評価が気にならないような強い自信や余裕といったものは、他者や社会といったヨコの関係から来るのではなく、超越的な神、大自然の生命力、あるいは幼少期における両親の存在のようなタテの関係から来るのです。この世に生を受けたというその地点についての自信や愛情でなければならないのです。