他者を理解するということ
『けっしてそうではありません』
(作・絵:五味 太郎、教育画劇、二〇〇七年)
02(05)04

 絵本は、1月から12月までの風景がそれぞれ描かれています。連続した物語ではなく、それぞれが独立した物語の一部だけを描いているようです。せっかくですから、カレンダーのように使って生活に添えるとよいでしょう。
 まずは1月です。テーブルの上には角砂糖の入れ物、コーヒー、そして花瓶に添えられた花。そこに蟻がのぼってきています。そこには次のような文章。「ありは 角砂糖を食べにゆくのでは けっして ありません。 花の下で ともだちと待ち合わせを しているのです。」私たちはこの状況で蟻を見つけるならば、きっと角砂糖を食べるために寄っているのだと思いがちです。私たちは、蟻は餌を求めて寄ってくるというこれまでの経験的事実から推察しているのです。しかし本書の作者はそうではないといいます。本当のところはどうなのでしょうか。蟻の気持ちを聞くしかありません。この絵をしばらく眺めていると、蟻の気持ちが少しずつ伝わってきますね。花の下で友達と待ち合わせをしている。その近くにたまたま角砂糖があっただけなのかもしれません。それを角砂糖目当てだと言われれば蟻はイヤでしょう。僕はそんなにいつも食べることばかりを考えているわけでじゃないよ! そんな声が聞こえてきそうです。
 2月です。ここでは屋根の上で日向ぼっこをしているねこが描かれます。なんだか気持ちよさそうです。そこには次のような文章。「ねこは 陽なたぼっこするために 屋根にのぼったのでは けっしてありません。 ここにいると ああ 自分はねこだと 素直におもえるので ここにいるのです。」猫が暖かい場所でじっとしていれば、気持ちいいからそうしているのだと解釈します。気持ちよさそうです。しかし本書の作者はそうではないといいます。本当のところはどうなのでしょうか。猫の気持ちを聞くしかありません。この絵をしばらく眺めていると、猫の気持ちが少しずつ分かるような気がします。ひなたぼっこが、それほど気持ちいいわけではないのです。この猫は哲学的なことをよく思案するような猫なのかもしれません。「猫というのはこうするものだ」という思い込みが強く、それを実行に移しているだけなのかもしれないのです。
 私たちは、ふつうはこう考えます。蟻は角砂糖を食べるために寄っていくのであり、猫は気持ちいいから日向ぼっこをしているはずです。それが正しい見方であると思っています。蟻や猫の気持ちを聞くことはできません。だとすれば本当のところは分からないというべきなのです。それが最も正しいことなのです。しかし私たちはつい、理解したということで安心してしまう。私たちはただたんに安心したいのかもしれません。
 私たちは理解したいという強い欲求を持ちます。しかし理解には当然限界もあります。例えば赤ちゃんが泣いています。「ミルクかな?」「怖い夢でも見たのかな?」「暑いのかな?」様々な理由が挙げられますが、全く理由が分からないという場合もあります。私たちの認識能力はもともとそれほど完全ではないのです。赤ちゃんさえもよくわからないことです。私たちにも、誰にも分らない。そうやって泣いていることもあるはずです。私たちは、自分の理解の仕方には限界があるということを自覚した方がよいのかもしれないのです。  私たちと蟻の距離というのは、私たちと遥か彼方からやってきた宇宙人くらいの関係なのかもしれません。例えば、愛する人へ花束を贈る。これを宇宙人が見ればどう思うでしょうか。「これは生殖のための求愛行動です」などと解釈することでしょう。外から見ている人間は、「あなたのその行為はこういう目的がある」というふうに判断したとすれば、それはやはりイヤだと思うのです。私たちはもっといろんなことを考え、願いや悩みを背負いながら行動しているはずです。蟻は、友達や親や先輩や先生や、彼氏や彼女などと複雑な世界の中にいるかもしれません。猫は、自分が何のために生きているか、自分とはどういう存在なのかを深く考察しているのかもしれません。そんな馬鹿な、と思うかもしれませんが、本当のことは分からないのです。
 絵本を読み進めていくと、しゃくとりむし、かえる、かめなどが登場します。彼は何をしているだろうか。そう問いかけた時、私たちはつい先入観で見てしまいます。しゃくとりむしは尺を測っているように見えるので、そういうものだと理解してしまう。かえるが鳴いている。雨宿りしているように見えるので、そういうものだと理解してしまう。かめが一匹でのらりくらりと歩いているとつい、寂しそうだと思ってしまう。このように、大人のみならず、小さな子どもでさえ、自分の考える前提で相手を理解しようとするのです。それが正しいと思ってしまう。私たちはかえるやかめとは会話が出来ないので、そういうものだと勝手に決めて納得してしまうのです。五味はこうした読者に対して、いわば動物や虫たちの思いを添えていきます。もし質問することができれば、彼らなりの答え方をするでしょう。しゃくとりむしは、計算そのものが分かりません。かえるは落語の練習をしています。かめは寂しいわけではありませんが、誰かが近くを通りかかってくれればいいなと思っています。
 五味の考えは、動物や虫たちと会話をすればどんな形になるかを、想像力たっぷりで語ろうとしているのです。今、彼は何をしようとしているのか。今彼はどんな心境なのか。今彼は何に感動しているのか。勿論それは五味太郎の想像による答え方ではあるのですが、なかなか微妙な視点をついています。私にはとても創造的であるように思われるのです。
 五味太郎のような創造的な読み方には、どんな意味があるのでしょうか。おそらくこうではないかと推察し、想像する力が広がれば広がるほど、他者理解の可能性が広がるだと思います。私たちは相手をじっくり見れば他者のことが理解できると思いがちですが、実際には先入観だけで見つめたり、単純な原理だけでとらえしまったりするのです。自分自身の世界観を相手に当てはめていることが多いのです。相手の意図や目的を本当に理解するためにはこちらの認識の枠組みを最大限に広げておくことが必要です。本書で五味が提示しているのは、他者理解のための広い枠組みです。もっと多様でひねりのきいた観点です。私たちは「そんな馬鹿な」と思うでしょうが、五味の優れた視点を真面目にとらえてみてはどうでしょう。本書が描いているのは、自分と彼とのコミュニケーションの中でこれまでの自分の考えを修正したり、書き換えたりしながら、新しい視点を広げていくような作業です。他者を理解するということは、「ひょっとして、こうかな?」と、ありもしないような仮説をぶつけてみることなのです。