自分を曖昧にし、周囲と連動し、流れを楽しむ。
『わたしはとべる』
(作:ルース・クラウス、絵:マリー・ブレア、訳:谷川俊太郎、講談社、二〇〇五年)
02(05)06

 表紙には、まるで小鳥と同じように羽ばたいている少女が描かれています。この少女は何にでも変身できます。ブランコに乗れば鳥のように飛べる。歌を歌えば牛になれる。くねくね動けば毛虫、カニのようにつかむことだってできる。ミツバチのように働き、犬のように転がる、ニワトリがくちばしをツンツンしている様子、私にだってできる。うさぎのように跳ねることも、ラクダのように荷物を背負うことも、私は何にでもなれるというのです。絵本の最後はこのような文章で締めくくられています。「わたしは あそぶ だれとでも わたしは なれる なんにでも それがわたし」
 本書が発表されたのは1951年、戦後まもなくのアメリカです。しかし本書は、時代というものを殆ど感じさせません。少女が目を閉じて踊っている。そこには美しさと力強さを感じます。「くねくね」「はりはり」「ころころ」等の日本語の響きもとても良いです。翻訳を担当した谷川俊太郎は「この絵本の良さが無邪気というひとことに尽きると思います」と述べています。確かに少女の姿から無邪気という言葉を見出すことは自然です。しかし私はもっと多くのことを語るべきだと思います。ここに登場する少女は、動物や虫たちの姿を真似しながら楽しんでいます。少女がなぜこのようなことをしているのか。なぜ楽しめているのか。いっそう深く考えてみたいと思います。
 まずはこの場所、ゆったりとした時間が流れるこの空間に目を向けてみましょう。少女が生活しているのは、おそらくは農場です。牛やヤギを飼っているようです。そこに犬や鶏、うさぎ、ロバもいるようです。農作業の手伝いをすることもあるようです。休日には両親に連れられて公園や海へ行くのでしょう。たくさんの動物たちに囲まれている一方、人間の友達はそれほどいないようです。あまりにも得意な感性がゆえ、人間同士ではうまく遊べないのかもしれませんね。少女は、動物たちと毎日顔を合わせ、会話をしたり、世話をしたりしているのです。じっくりと眺めているからこそ、動物たちの動きや感情が分かるのです。たまたま農場の近くを通りかかった程度では、このような感覚にはならないと思います。
 周囲の動物、魚や虫たちの動きを見ていると、それはとても特徴的で魅力的です。人間には出来ないような不思議で複雑な、いわば変わった姿勢や動きをしています。それはいわば「生きる姿」です。少女は、多くの動物たちの生きる姿に感銘を受け、敬意を払いながら、その気持ちに寄り添うように真似ていくのです。決して見下しているわけでも、嘲笑しているわけでも、ありません。そこには動物たちへの深い愛情が含まれています。私の推察ですが、動物たちのおかげで自分も生活できているという感謝の思いもあるのです。物まねタレントがモデルに対する愛や尊敬を抱いている、などという話を聞くこともありますが、それと同じです。好きでないと物まねをしていても楽しくないはずです。少女は、面白いな、素晴らしいな、美しいな、等と様々な思いを抱きながら、形態模写をしているのでしょう。この形態模写とは、人間にのみ与えられた特殊な能力なのかもしれません。私は、かつてのタモリを想起します。素晴らしい能力です。
 本書で少女が振る舞っているのは、形態模写だけではありません。穴に潜ってみるとか、荷物を運んでみるとか、動物たちの行動の目的を揃えるのです。それは動物たちの心境に寄り添っていると言えます。他にもいくつか興味深いシーンもあります。自分が植物に水をあげている時に、ふと「あ、自分がやっていることは働きバチと同じだ」等と思うこともあります。食事をしている時に、「まるで自分はロバだ」等と思うこともあります。これは形態模写というよりは、シンクロです。自分の生活と動物の姿が重なっていく感覚でしょうか。夜中にこっそり起きて、窓際で空を眺める。そんな時にも、猫のように歩き、フクロウのように歌う、そんなふうに思うのです。少女の生活の全ての情景の中に、動物たちが勝手に、あるいはするりと侵入してきているような、そんなイメージです。
 自分の身体が豊かに変化していく。少女が楽しむその姿は、いわばダンスをしているかのようです。なぜその過程が心地よいのでしょうか。おそらく私たちは「人間でいる」ということが、しんどいのです。大きな流れの中で、自分というカタマリを維持するということが、本当は大変なことなのです。殻を作ってその中にこもっているようなものです。そしてそこは実はそれほど心地よくないのです。私たちは歌を歌ったり、演技をしたり、物まねをしたりすることで、この重い殻を少しだけ取り除くことが出来るのです。この開放感、そして新しい動物たちの生の躍動。これこそが少女が楽しんでいる理由だと考えられるのです。
 なかなかこうしたことは大人には出来ないことです。なぜか、恥ずかしいと思ってしまう。誰かに見られたら嘲笑されると思うのです。 大人は自分という殻を強くはっきりと持ち続けることに慣れてしまっています。食事や食事であり、労働は労働です。そこに動物たちの姿が重なることはありません。そもそも自分と動物は別存在だと思っているからです。一方、子どもは自分という存在意識が曖昧であるから容易に変身できるのです。別存在とは思っていないのです。自分の心の中に、動物たちが侵入してくる。その結果、動物たちの感覚や感情が子どもの内側から出てくるのです。「わたしは あそぶ だれとでも」とはそういう意味なのです。これはむしろ憑依、霊媒、分裂症、といったレベルの話なのかもしれません。自己をずらしていくことの心地よさ。私たち大人は自分という殻に固執し、その内側にとどまってしまっているために他者と衝突してしまうのです。それは面倒なことです。プライドが傷付かないように策略を張り巡らせ、挙句の果てには他者を支配しようとしてしまいます。自分という殻を曖昧にして、他者を吸収したり、重なったりして感動や喜びを得ている少女の姿を前に、私たちは何を感じるでしょうか。
 勿論、それが完全なる自己の放棄になっているわけではありません。最後は「それが わたし」という言葉で締めくくられています。変身や変貌を重ねながらも、これが自分だという意識はあるのです。外側は変貌できるが、その中心の芯の部分には確かな意識がある。何にでもなれる。それが私。融合しつつも芯はある。むしろ多くの動物たちと重なっていけばいくほど、その芯である自分のあり方を自覚できるのかもしれないのです。
 少女はたんに「楽しいな」と思っているだけかもしれません。無邪気だと言えばそうかもしれません。しかしそこには、子どもが笑っているという以上の、よりいっそう豊かな世界が広がっているように思われるのです。これこそ人類の最高の姿ではないでしょうか。だとすれば、私たち大人は、実は、幼児期から退行しているのです。