私たちは絵本を通して、価値や道徳について考えることができます。ここでは「友達と集団 人はいかにして理解し合えるか」というテーマで取り上げてきました。もう一度、それらを整理・検討してみましょう。
 「友達」についての絵本があります。「友達」とは、一緒に楽しい時間を共有できる相手のことです。幼い頃にはそのような原体験が豊富にあるといいですね。楽しい時間を共有するということは、決して簡単なことではありません。なぜならば、私と彼とでは性格も考えも感性も違うからです。目の前にいるのは他者なのです。うまく一緒に遊べずに、ケンカやズレを経験することがあります。本格的なケンカになれば、第三者や大人の介入が必要となるでしょう。それは、疲れます。私たちはケンカやズレが辛くて耐えられないので、それを避けようとします。無視したり、無関心を装ったりします。その一方で、自分とぴったり一致する人を探そうとします。自分が傷付きたくないから、出来るだけ傷付かないように、「本当の友達なるもの」を探すのです。そうやって安心安全な友達圏を作ろうとするのです。しかしそれは空虚です。そこには喜びや感動はありません。「友達を大切にする」とはどういうことでしょうか。それは、お互いのズレを大切にしながら、かかわり続ける、ということなのです。一定の距離を保ちながら適度にかかわるということなのです。ズレがあるのに一緒に遊べるというのは、それは奇跡的なことです。自分の感情や考えを出して、思い切ってそれをぶつけてみて、相手は他者であることを熟知しながら新しい時間を共有するのです。それが達成できた時に、至福の喜びを得るのです。
 「学校や先生」についての絵本があります。「学校」というのは人為的な空間であり、嫌でもそこにいなければならないという冷たい形をしています。ここで子どもたちは他者と出会います。うまくいけば仲良しの友達になれますが、そうでないことも少なくありません。嘲笑したり、踏み潰してみたり、悪口を言ってみたり、嫌いだと言ってみたり。それはとても悲惨な状態ですね。それが大きくなり、学級の人間関係全体を支配していくことで、いじめや差別や排斥といった大きな問題となります。圧力をかけ続けるような集団はとても居心地が悪いはずです。いくつかの絵本はそれをしっかりと描いています。ここで期待をかけられているのは「先生」という存在です。先生の仕事とはこの差別や排斥の空間を解体し、一人ひとりの良さが見えてくるような豊かさのある空間を作ることです。先生は子どもたちに対して美しくて優しい世界を作って見せなければならないのです。学校はファンタジーの場であり、「先生」は、そのシンボル的存在なのです。絵本が描く「先生」とは、多様な人々をまとめるリーダーです。私たちは学校をどのようにとらえるべきでしょうか。学校という形があまりにも個人を抑圧してしまうので「もはや学校は不要だ」なんていう人もいます。あるいは学校というのはもっとあたたかくて支え合っていて楽しくて充実した集団だと理想を高く掲げる人もいます。
 「集団や社会」(個性)についての絵本があります。「集団」とは、共通の目的および目標に向けて多様な人々が集まっているような状態です。私たちは集団の中にいると心強くなれます。大きくなったような実感を得ます。しかしながら絵本が描くのは集団としてのまとまりだけではありません。その中にいる一人ひとりの違いや個性や微妙な変化などを描いています。おそらく、集団の統一性と個別の多様性とのバランスのようなものが大切なのでしょう。私たちは集団の中にいることによって、アイデンティティや存在の意味を得るのです。しかし集団という形だけが強くなってしまうと、中にいる個人は身動きが取れなくなってしまいます。その中の個々の距離感というものがとても大切なのです。「共同体や郷土のようなものが大切」「個性が大切」というのは、両方が同時に成立するようなものでなければなりません。絵本はそれを描いているように思えるのです。
 「平和」についての絵本があります。多くの絵本は日常的なケンカや対立がエスカレートしていくさまを描いています。私たちは自分の身体の大きさを越えて、科学技術を駆使したり、国家という形の理想を持ちだしたりします。それゆえ話はどんどん大きくなってしまうのです。隣人とのケンカや葛藤は「怒り」の感情によってエスカレートしていきます。それはなぜでしょうか。おそらくその怒りが、心地よいからです。デコボコした生きた姿ではなく、抽象的な記号のようになるから、思い切って(スッキリする形で)暴力が振り向けられるのです。圧倒的で巨大な国家に頼っていると安心するから、思い切って平気な表情で実力を行使できるのです。そこに迷いはありません。かくして大規模な戦争へと突入していくと考えられるのです。生きた人間の姿として扱うのではなく、単純で薄っぺらな記号として扱うところに恐ろしさがあります。多様性を見出していくこと、ズレや違いや微妙な変化を見つめていくこと、相手の表情を見つめること、会話をすること。それらが平和を切り拓いていくと考えます。絵本はそういう姿をよく描いています。
 「人間の存在」についての絵本があります。多くの絵本が描いているのは存在の難しさと素晴らしさです。安定した場所が確保されているだけでは不十分です。自分の思いや考えを表現し、それを周囲や他者が承認することが大切です。すなわちコミュニケーションが必要なのです。そうやってアイデンティティを確立していくのです。しかし言葉というのは、常に間違いや混乱がつきものです。人間の存在はコミュニケーションの中で確かなものになっていくのですが、それと同時にコミュニケーションによって失敗したり、挫折したりするのです。つい、他者からの評価を異様なまでに気にしたり、過度に怯えたりしてしまうのです。私たちは自分という存在を強く確実なものにしたいと願うのですが、むしろそれは諦めた方がいい。しなやかに変化し続ける方がいい。自分以外の存在に変身してみる、真似をしてみる、今までやったことのない動きをしてみる、周囲の美しいものや素晴らしいものに同化してみる、そんな動きです。他者と重なって遊んでみたり、集団を形成してみたり、大きな自分になってみたりするということも、よいかもしれません。コミュニケーションの世界は物理的な世界ではないという意味で、全てはフィクションです。ある程度は信用するべきですが、時には疑ってみたり、ひっくり返してみたりしてもよいかもしれません。いかにして生きるべきか。多くの絵本はそれを示唆してくれます。
 さて、絵本が描いてきたことを整理してみましょう。私たちは他者とは一致できません。他者はどこまで行っても他者なのです。私たちは、他者のことを知り尽くすことができないのです。だからといって他者を地平線の彼方に遠ざけてしまい、一切の関係を断ってしまうということもまた間違いです。他者でありながら一定の距離感でかかわることが大切です。分からないという状態のまま近くで時間と空間を共有するのです。私と他者との間にある「空間」「隙間」を維持しながらも全体としてはまとまる、そういった感覚が大切です。自分はここに存在しているということを表明し、しかも他者は、一定の距離を置いてながめるのです。私と他者との間のズレ、ミス、対立、葛藤というものを認めつつ(それは解決を志向するのですが、対立を消化してしまうわけではありません)、高い地点へ向かうことなのです。人は、いかにして理解し合えるのでしょうか。それはこの距離感の中で相互に響き合うような形で理解し合えるのです。絵本は人間を描いてきたというよりも、人と人の間の空間を描いてきたのです。