相手に何を求めてしまうのか
『キツネ』
(作:マーガレット・ワイルド、絵:ロン・ブルックス、訳:寺岡襄、BL出版、二〇〇一年)
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 森の大火事。一匹のイヌが、黒い鳥カササギを口にくわえて、森を逃れてきました。イヌは、既に片方の目を失っていました。カササギは、羽が折れてしまい、もはや飛ぶことができなくなっていました。そんな二人が、やっとのことで助かることができたのです。カササギはもう生きる気力を失っているようでした。カササギは酷く落ち込んでいますが、イヌは「ぼくだって片目が見えないんだよ、でもちゃんと生きてみせるさ」と言います。気落ちしているカササギに対して、イヌは一つの提案をします。カササギを背中に乗せて走ってみるというアイデアでした。そして実際に乗せて走ってみました。カササギは、まるで空を飛んでいるような感覚を得たのです。カササギは希望を見出しました。「飛んで! わたしがあなたの目になるわ! あなたはわたしの羽になって!」こうしてイヌとカササギは共に生活するようになりました。夏がすぎ、冬がすぎ、春になり。とても幸せな日々でした。
 こうした話から何を想像するでしょうか。まず思いつくのは、障害という点です。事故や病気でひとたび身体の一部を失えば、とたんに今の生活が十分には維持できなくなってしまいます。そんな時、障害のある者同士が寄り添って生きていくという道があります。本書はそういうことを描いているのかもしれません。しかし私はもっと違う観点でとらえたい。全ての人間には何らかの欠陥があります。ダメな部分といえばいいでしょうか。いくら身体には障害がないとしても、心のどこかに何らかの障害のようなものはあるはずです。例えば、我の強い人は多様な意見を受け入れることができません。臆病な人は自信を持って自己決定するということができません。もっと自由に生きてみたいと思えば、その障害になっているのは自分のこれまでの生き方や性格のようなものです。私たちがお互いに支え合って生きているのは、そんな自分の弱さや不十分な点があるからです。イヌとカササギ、二人はまるで夫婦のように静かに支えながら生活しているのです。どちらも障害、弱さを持ちながらも、諦めることなく、前向きに生きていこうと決心します。しかしそれは常に相手に依存しながら生きていくということです。その意味ではイヌとカササギはとても人間的です。
 そんなある日、一匹のキツネがやってきました。キツネは仲間に加わろうとするのです。イヌは、やってきたキツネを快く迎えました。イヌは「食事もすまいも、一緒にしようよ」と言うのです。キツネは「君たちが走っているのを見たよ、とっても珍しい光景だったよ」と言います。カササギは、なんだか不気味だったので、あとずさりするのです。キツネの目が、怖いのです。夜になっても、イヌとカササギの会話にキツネが入り込むので、カササギはとってもいやでした。カササギはイヌにそっと、こう言います。「キツネは仲間嫌いだから用心してよ」イヌは素直です。「だいじょうぶだよ、ほっときゃいいさ」と言います。
 イヌがキツネに対して無防備なのはなぜでしょうか。イヌは、純粋無垢です。相手に対して疑心暗鬼になるということをしません。裏切られた経験が無いのかもしれません。裏切られたとしても、裏切られたとは感じないのかもしれません。目の前にいる相手が何をしているか。話しかけてくるのであればそれは話したいからであって、寝ているのであればそれは眠たいからである。それ以上に詮索しようとはしないのです。
 では、カササギがキツネを怖がるのはなぜでしょうか。怖いとは、どういう心でしょうか。鬼か悪魔か、そういう存在であればもっとストレートに警戒し、怯え、泣き叫びます。そういう怖さとは違います。キツネが何を考えているのは分からない。キツネの心の中が読めない。そんな怖さでしょうか。イヌとカササギの安定した関係を壊そうとしているように見えるから怖いのかもしれません。何か全部こちらの心の動きを読んでいるかのような、何か全てを理解しているかのような、そんな怖さです。
 イヌが眠っている間に、キツネはそっとカササギのところへやってきました。キツネはこう言います。「おれは、イヌより速く走れるぜ、風より速く走れるぜ」自分の背中に乗ってみよというキツネに対して、カササギは「イヌさんを置いていけないよ」と断り続けます。しかし何度も勧めるキツネに対して、カササギはついに身をゆだねてしまうのでした。キツネは、猛スピードで走りだします。カササギは有頂天です。「ついに飛べたわ! これこそ! 飛ぶっていうことよ!」キツネは走り続けます。カササギは感動の絶頂を味わっているようです。
 カササギがキツネの背中に乗ってしまったのはなぜでしょうか。キツネの背中で有頂天になるのはなぜでしょうか。カササギとイヌは、支え合って生きているという点ではハッピーなことです。しかし、自分の究極の望みを、彼が100%叶えてくれるかといえばそうではありません。依存しなければ生きていけないのですが、その依存に不満がないわけではないのです。感謝をしたり、友情を感じたりすることはあるのですが、そこで自分の欲望が「全て」満たされるわけではないのです。カササギは、実は、心の中では、イヌの走り方では、「物足りなさ」を感じていたのです。こんなもんじゃないと思っている面もあったのです。イヌの背中で走れば走る程、本当に飛んでいた時の記憶が蘇り、その記憶と現実の差を自覚していくことになります。カササギは、イヌに対して「感謝してるけど、もうちょっと速く走って欲しいなあ」という素直な気持ちを伝えることができませんでした。それを言えばイヌは怒ってしまうかもしれないからです。
 カササギはキツネの背中で疾走している際に、何を感じていたでしょうか。おそらくはそれまでの「自分」という重さから解放される瞬間だったと思います。爽快感を得ながら、深い快感を得ていたようなのです。早く走れるというそれだけの理由ではありません。今、ここではないどこか遥か遠くへ連れていってしまうという感覚です。イヌと一緒の時間は充実したものだったのですが、しかし一人で大空を飛んでいる時の充実感はありませんでした。決してキツネそのものに魅力を感じているわけではありませんが、キツネのような不気味な存在が、ひょっとしたら自分を感動と快感の世界へ連れていってくれるのではないかと期待してしまう。イヌが純朴で真面目でまっすぐだからこそ、今度はイヌにない部分を求めてしまうのです。分からないから、期待してしまう。ひょっとしたら世の中にはこのような感覚で恋愛をしている女の子もいるかもしれません。不気味な存在なのにふらっと惹かれていく。怖いという感覚は、ひょっとしたら今の自分に欠けているものを持ち合わせているかもしれないという怖さでもあるのです。
 キツネは、遥か彼方の砂漠まで走り、そこでカササギを放り捨ててしまいます。キツネは言います。「これでおまえも、イヌも、ひとりぼっちが、どんなものかを、味わうようになるさ」そしてキツネは走り去ってしまうのでした。キツネはなぜこのような行動に出たのでしょうか。キツネは、一人で生きていきたいと思っています。誰かに依存したり、助けられて生きていくのは嫌いです。しかし、かとって一人で生きていくことに十分満足しているわけでもないのです。そして自分の不満について、自分がさみしいから不満なのだという形で素直に認めることが出来ないのです。素直に僕は寂しい、あなたと友達になりたいとは言わずに、お前にもおれの苦しみを味わえと要求する。俺は悪くない。悪いのは俺の前で仲良くしている奴らの方だ。自分の不満の原因は、全て誰か他者に由来すると思っているのです。自分が誰かに復讐することは、正当であるとさえ思っているのです。歪んでいると思いますが、おそらく本人は自分が歪んでいるとは思っていません。
 カササギはさぞ驚いたことでしょう。灼熱地獄のようなその砂漠の中で、カササギはいったんは諦めようとします。イヌのことを想い出し、そしてピョンピョンとはねながら、イヌのもとへと長い旅に出ます。カササギが諦めなかったのは、イヌという希望があるからです。本書の冒頭で諦めかけていた姿とは大違いです。しかしその先には非常に苦しい場面が待っています。
 カササギがイヌのもとに戻ることが出来たならば、何というでしょうか? 「無理やり、キツネのやつにつれていかれた」と嘘をつくでしょうか?そうすれば、楽しい生活に戻ることができますが、嘘をついたままになります。「ちょっとキツネの背中に乗ってみようと思った」と素直に告白できるでしょうか?そうすれば、嘘は無くなるのですが、イヌは気分を害することでしょう。イヌは、信頼を傷付けられて怒ってしまうかもしれません。「じゃあ、もう僕は一人で生きていくよ、君とはやっていけない」というかもしれません。そう、言われても仕方ないことをやったのだと思います。どちらになったとしても、それを受け入れるしかありません。
 わたしたちの人生って、こんな感じなのだと思うのです。みんな不器用です。しかしながら私たちは、ドロドロした関係の中にあって、希望や喜びを探して歩く存在です。きっと私は、イヌは理解してくれると思います。根拠はありません。そう、信じたいのです。おそらくカササギもまた、それを信じようと思って、歩き始めたのだと思います。