二人が心を寄せるということ
『たんぽぽのこと』
(文:竹内敏晴、文と絵:長谷川集平、温羅書房、一九九六年)
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 小学校中学年といったところでしょうか。男の子と女の子が並んで表紙に描かれています。女の子はよしくんと初めて話をしたようです。おそらくは、教室の片隅で、たまたま冗談のような、他愛のない会話をしたのだと思います。推察するに「俺んちのカレーにはタケノコが入っている」なんていう話でしょう。女の子はそれが楽しかったようです。学校を出ていったん家に帰り、ひるごはんを食べた後、それから公園で遊ぶ約束をしたようです。約束をしたのは、なぜでしょうか。ただ遊ぶ、なんてことは考えられませんから、例えばけん玉のやり方を教えてあげるとか、珍しい玩具を見せてあげるとか、そんな理由で公園で会うことにしたのです。本人たちの心の中には、何とも言えないような温かい気持ちが湧いていることでしょう。
 女の子はその先で何かを見つけました。(かどをまがったところで声をあげた、という両頁の描き方が素晴らしい。読者よりも少し先を走っていく様子が伝わります。)女の子が見つけたのは、美しいたんぽぽでした。それはたくさん咲いていて、とても素晴らしかったのです。同じ場所を朝に通った時は気付かなかったので、不思議です。嬉しい気持ちで前を見て歩いているからこそ見つけることが出来たのかもしれません。たんぽぽと話をするとは、どういうことでしょうか。美しい花がズラリと並び一斉に咲いている。その姿から私たちは「花が何かを語りかけている」と受け止めたくなります。もし誰かが明らかな目的で花を植えたのであれば、語りかけているとは思わないのです。その花は人間によって動かされただけだからです。しかし自然に咲いている。ということは、人間の意思や意図ではなく、その花たちの意思のようなものが働くのです。たくさんのたんぽぽの中に座る。するとたんぽぽ一つひとつの個性というか、それぞれの思いのようなものが見えてくる。話をしているように感じるのは、自分自身の気持ちがとてもウキウキ、ドキドキしているからなのかもしれません。たんぽぽが女の子の気持ちに対して反応しているように見えるのです。
 女の子は「きょうは いいひだ」とつぶやきながら家に帰ります。おひるごはんを食べてから公園に向かいます。女の子は、よしくんにたんぽぽの話をしてあげようと思うのです。なぜ女の子は、自分の思いを誰かに伝えようと思ったのでしょうか。誰かに伝えたい。そんな思いはとても大切です。共感してもらいたい、というのは少し違うような気がします。相手が自分に共感してくれる、ということではありません。自分の話によって相手の心が大きく揺れてくれる、そんなことを期待している。すなわち、感動を膨らませていきたいということです。感動したことを誰かに伝えたくなるというのは、おそらくは人間の根本的な欲求だと思います。むしろ逆に、私たちが自分の感動を他者に伝えようとしない方が不思議なのです。私たちはいつのまにか、どうせ話しても理解してもらえない、相手は自分の話に興味を持っていないはずだ、などと思いがちなのです。嬉しいこと、楽しいことを共有し、その喜びを何倍にも感じたい。それは純粋な願望だと思います。私は、こうしたことはいたって自然で、かつ大切なことだと思います。映画でも舞台でも、向こう側から何か強いメッセージやインパクトを受け取る。するとそれを誰かに伝えたくなります。旅行先で美しい風景を見ると、その感動を誰かに伝えたくなります。それが自然なことなのです。
 仲よくなったよしくんに伝えようと少女は思う。しかしちょうどよしくんは、逆上がりが出来ないと笑われ、辛い気持ちのドン底にありました。よしくんは鉄棒のことが悔しく、いじめられたことが辛い。ひょっとして、この女の子にかっこいいところを見せようとして逆上がりをやろうとした、なんて話なのかもしれません。彼は少しだけやろうとして失敗し、それをバカにされた、という形なのでしょう。なぜ、よしくんは辛いのか。嘲笑され、馬鹿にされたことが辛いのです。彼の存在価値のようなものがぐっと低く落とされてしまう。いじめている側は軽い気持ちですが、その軽さがゆえに辛いのです。よしくんは「あっ あっ あっ あっ」と、やや過呼吸気味に泣いているようです。よしくんは自分の悔しい気持ちを女の子に伝えるのですが、女の子は「いいじゃない。そんなの かんけいないよ」と言います。よしくんは、女の子に支えてもらいたいとか、共感してほしいとか、あまりそんなことは感じていないのでしょう。ただ、ただ、バカにされたという悔しさ、逆上がりが苦手だというその現実に対して、ただ悲しくて悔しいのです。表情はとてもよく描かれています。
 それにしてもこのシーン。描き方(構図)が素晴らしいと思います。よしくんの言葉とおんなの子のことばは両端に小さく書かれています。二人の間には距離があります。その距離はとても大切なのです。私たちは距離を縮めることばかりに力を入れてしまいがちですが、それぞれの人生、それぞれの都合があるわけですから、この間の距離をしっかりとっておくことが大切なのです。その距離があることによってそれぞれの世界は大切にされ、しかも一定の距離を保っていることにより、両者は少しずつ響き合うことができるのです。
 女の子はとにかくたんぽぽの話がしたいのですが、その話はしにくいので、少し間を空けることにしました。伝えることをためらうのです。これは、どういう意味でしょうか。ここで伝えることを諦めてしまう、他の人を探す、等ということも考えられます。彼が聞いていようと聞いてなかろうとも一方的に話をするという方法もあります。しかしそうはせずに女の子はまた今度にしようと考えます。こうした「留保」は、とても大切なことだと思います。女の子は自分とよしくんとの間のこの距離が分かるのです。距離を自覚しながらも、自分の思いを伝えようとするのです。
 そして、もう少し時間があいた後で、まるで何事もなかったかのように女の子はにっこり微笑みながらたんぽぽの話をするのです。よしくんは、ふとした彼女の眼差しでドキッとします。「ドキッとする」とは書いていません。よしくんがどう感じたかは書かれていません。しかしこの角度のこの表情は、明らかに男性がドキッとする姿です。これを描いた長谷川集平が、この時期の少年の心をうまく表現しているのだと思います。女の子は単純にたんぽぽの話をしているのです。しかしそれによって男の子の心がぐっと引っ張られていくのです。私はここに彼女の「優しさ」を感じ取ることができます。こっちがボロボロの心でへこんでいるにもかかわらず、いつもの明るいトーンで話しかけてくるという、そういう意味の優しさです。優しさとは、こういうものを指すのではないでしょうか。
 たんぽぽを見に行こうと言われてもよしくんは「いいよ」と断ってしまいます。さきほどの辛い気持ちをまだ引きずっているのかもしれません。しかしよしくんはもう泣いていません。泣いていたよしくんが泣き止んだのは、なぜでしょうか。さかあがりができないことや、馬鹿にされたということそれ自体は変わりません。彼の存在価値がぐっと低く落とされてしまったところに、女の子の眼差しが向けられる。この眼差しは彼の存在価値を少し上げることになります。この眼差しは、たんなる目線ではありません。相手の心を大切にすると同時に語りかけるという優しい眼差しです。
 本書は、より自然で気持ちよい形の恋愛を示しているように思えます。恋愛とは何でしょうか。自分が感動したことを相手に伝えてより大きく感動したい。自分ひとりでは乗り越えられないような困難な課題を、誰かと一緒にいることで少しだけ乗り越えることができる。挫折や悲しみや、マイナスなことがらは、その人と一緒にいることで少しだけ、あるいはぐっと大きくプラスの方へと膨らんでいく。それがここに描かれているように思えるのです。ここで大切なことは「距離」感だと思います。男の子と女の子、公園、いじめっこ、たんぽぽ、それらの位置関係が大切なのです。二人とも遠くを見つめている。それぞれが自分の人生を一生懸命に生きているわけですが、うまくいったり失敗したり、新しいものを発見したり、困惑したり。結局この距離感があるからこそ、言葉は大切なのです。ふとしたひょうしに二人がぐっと近づく。偶然が重なって、心を寄せ合っていく。本当の恋愛とは、相手への情熱をぶつけ合うようなものではなく、複雑な人間ドラマの中に、感動とドキドキが埋もれているような、そんな形をしていると思うのです。
 さて、その後のことを推察してみましょう。もう少し時間がたてば、再びたんぽぽの話になるでしょう。その時は、女の子は、たんぽぽと話をしたということを伝えるでしょう。しかし、よしくんは理解できないかもしれません。なにせ男の子ですから。かといってさらりと「へー、そうなんだ」といって流すような技術もない。結局は数日後には、仲良くなれないまま疎遠になってしまう。私はそういうことを予測します。ちょっと寂しいかもしれませんが、小学3、4年生といえば、そんな時期なのです。これからも二人がずっと長い時間仲良くやっていけるとは思えません。これは今この瞬間にだけ成立するような「奇跡」の時間なのです。