母親の教育的愛情は、子どもの心にとどかない?
『ちゃんとたべなさい』(作:ケス・グレイ、絵:ニック・シャラット、訳:よしがみきょうた、小峰書店、二〇〇二年)
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 表紙に描かれているのは、おかっぱ頭の少女デイジーです。むっとした表情でこちらを見つめています。くちをぎゅっと閉じて、なかなか真剣です。子どもは素直に自分の感情を表現します。このデイジーの表情がなんとも愛らしい。子どもの可愛らしさというのはこういうのを指すのだと思います。頁をひらいていくと、やはり思った通り。デイジーは「おまめ」が大嫌い。食べたくないようです。お皿の上にはおまめが残っています。ハンバーグ(?)はちゃんと食べているようですが、おまめはまだ、残っています。大人は「たかが豆」と思うかもしれませんが、彼女にとってはとても深刻です。
 さて、このお母さん。よく見るとネックレスもイヤリングも、おまめの形をしています。作者の遊び心がとても素敵です。お母さんが言おうとしていることはデイジーにはもう分かっています。「おまめも食べなさい」「ほらね」。デイジーは「おまめだいきらい」とお母さんに向かって言います。そこでお母さんは、なんとかしてデイジーにおまめを食べてもらおうと、「おまめを食べたら、アイスクリームをあげる」と言います。頭の上にぽっかりとアイスクリームが浮かびます。冷たくて、甘くて、とてもおいしそうです。しかしそれでもデイジーはおまめが嫌いだといいます。お母さんは「いつもより30ぷんおそくまでおきていていい」「おまめを食べたら、あたらしいじてんしゃ買ってあげる」等と声をかけていきます。しだいにそれはエスカレートし、ぞうのあかちゃんやチョコレート工場など、最後には宇宙旅行やアフリカ大陸(?)までプレゼントする、と言い出す始末。お母さんは、なかなか頑張っているようですね。頭の中に浮かぶ言葉をどんどん挙げていくのです。
 お母さんがここまで熱心なのは、なぜでしょうか。もちろん、作った料理を全部食べて欲しいというのは作った人の素直な気持ちです。全て栄養満点の料理です。好き嫌いせずに、なんでも全て食べて欲しい。そんな気持ちでしょうか。さらにお母さんが心配なのは、娘が「あれは嫌」「これは嫌」などと言い出せば、それがあらゆる方面に広がってしまうのではないかということです。デイジーはひょっとしたらワガママな子になってしまうかも。そうからこそ、お母さんは一生懸命なのです。デイジーの将来を考えて。
 ところが条件を追加するたびに、条件が大きくなるたびに、デイジーは不機嫌になっていきます。なぜ、デイジーは怒っているのでしょうか。ワガママだから怒っているのでしょうか。デイジーが怒っている理由は、自分の嫌いなおまめを食卓に出したからでしょうか? そうではありません。デイジーは、お母さんがあれこれと条件をつけた後で、強く怒っているのです。おそらく、デイジーが烈火のごとく怒っているのは、デイジーはおまめが大嫌いだと言っているのに、お母さんはそのことについて触れようとしないからでしょう。自分の気持ちに向き合ってくれない、話をすり替えようとしていることに対して、デイジーは怒っているのだと思います。お母さんの言っていることは、どうも変です。よく考えればこういう会話は、私たちの日常生活に溢れています。親「勉強しなさい」子「勉強したくない」親「飴をあげるから勉強しなさい」というこの仕組みです。お母さんは、ご褒美によってやる気を出させようとしています。食べなければ褒美はもらえず、食べれば褒美がもらえる、というこの環境を用意すれば、子どもは自ら進んで食べるようになるだろうという考え方です。心理学では、外発的動機付け、行動主義なんて言ったりします。(行動主義に対する批判はコーン『報酬主義を超えて』を参照。)
 しかし勉強がいやだという事実そのものとは向き合っていません。大人の言葉は、飴という快楽を得るからこの苦痛を我慢しなさいというメッセージとなってしまうのです。勉強している子どもは「これが終わったら飴がもらえる」ということをイメージしながら勉強するわけですから、勉強そのものの楽しさや充実さには気づきにくい。その向こう側のご褒美が輝けば輝くほど、手前のこの苦労がますます苦痛に感じられるはずです。子どもは素直にこう思う。なんで苦痛を我慢しなければならないの? 苦痛は嫌だという心の声に対して、大人の側から何らかの反応なり、気持ちなり、眼差しが欲しいところです。この気持ちを誰かに受け止めて欲しい。私という人間をそんなに簡単に動かそうとしないで欲しい。そこは不満なのです。そこに不満を持つということは健全なことだと思う。そんなふうに考えると、デイジーの不機嫌さは、とても正しい感覚に思えてきます。デイジーはワガママなのでも、反抗期でもありません。とても健全で、立派です。
 さて、話を絵本に戻しましょう。この絵本の後半。デイジーはこう言います。「じゃあ、ママがメキャベツを食べたら、おまめ食べてあげる」 なんと、お母さんはメキャベツが大嫌いだったのです。立場は逆転。さあ!どうする!お母さんは困ってしまう。そこでデイジーは言う。「ママはメキャベツがだいきらいで、わたしは、おまめがだいきらいなの!」「でもね、ママもわたしも、アイスクリームがだーいすき!」2人でアイスクリームを食べてこの絵本は終わります。
 結局、嫌いなものを食べていません。そのことについて怒っている読者もいることでしょう。では、このやりとりそのものが無意味だったのでしょうか。そうではありません。嫌いなものを克服するのはとても難しい、ということを2人は、改めて受け止めたのです。2人は一つの思いを共有できたのです。デイジーはおそらく、お母さんが言おうとしたこと、おまめを食べることは大切であるということを、頭では理解しています。ママが熱心であるのも、子どものことを考えて一生懸命であることも理解しています。その上で、母との会話を楽しもうとしているのです。母親の思いやメッセージはそのまま子どものもとには到達しません。それは二人がそれぞれ人格を持った別の人間だからです。かといって無関係というわけではない、この距離感の中でこそ、子どもは成長し、母親もまた成長するのです。
 本書のデイジーはとてもかわいい。それは顔や雰囲気がゆえにかわいいのではなく、一生懸命に生きているからであり、母親に対する優しさと知性を持ち合わせているからです。それでいて自分の感情はストレートであり、怒ったり笑ったりする。このあたりにデイジーのかわいらしさがあると思います。
 私たちが本書を読んで感動するのはなぜでしょうか。お母さんの気持ちもわかる。デイジーの気持ちもわかる。なかなか両者の意見は平行線をたどり解決しない。母親の企ては失敗に終わります。しかし本書では、ユーモラスな表現の後で、一歩でも二歩でも解決に向けて進んでいます。そこになんともいえないようなあたたかさを感じます。二人の生き様がよく描かれ、離れてはくっつき、くっついては離れるような、そんな豊かな関係を描かれている。あ、このままではうまくいかない、と思っていたところ、それが最後にはぐっと幸せな方向に向かって落ち着く。そんな流れに、私たちは深く感動するのです。



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