恐怖心がそこにあるということを、認めよう
『ぼくはいかない』(作:柴田愛子、絵:伊藤秀男、ポプラ社、2003年)
01(03)01
 たくさんの子どもたちが遊ぶ「あそび島」の話です。これは横浜市にある「りんごの木こどもクラブ」という幼稚園をモデルとしています。この幼稚園は午後には小学生たちもやってきて、様々な遊びが出来るようになっています。絵本はシリーズとなっていて、どの絵本も、子どもたちの生きた姿が描かれていてとても素晴らしい内容となっています。本作はその一つです。
 子どもたちが生活する「あそび島」から、だいぶ離れた場所にキャンプ場「ペガサスの家」があります。山の中にあってたくさんの昆虫や動物たちがいます。探険をしたり、川で遊んだりできる場所です。お風呂はみんなで入ります。幼稚園の年長さん(5才)は、毎年そこで宿泊合宿をするのです。あいこ先生が、ペガサスの家について話をしてくれます。今度、子どもたちだけで宿泊するという話をするのです。子どもたちは、みんな、ドキドキワクワク。行く気、十分です。夜に子どもたちだけで過ごしていると気分は高揚します。同じ場所であっても、昼と夜とでは違います。嬉しくて、興奮して眠れなくなるかもしれません。しかし、しんたろうは不安です。父母不在の夜なんて、考えられないというのです。しんたろうは、山で遊ぶのも、昆虫をつかまえるのも得意なのですが、夜は、苦手でした。
 あいこ先生が子どもたち一人ひとりに質問していきます。(子どもたちは、あいこ先生とは呼ばず、あいこさんと呼んでいます。)明日までに考えておいてと頼みます。子どもたちは自分なりに考え、親とも相談して決めてくるようです。絵本には描かれていませんが、しんたろうもまた、おそらくお父さんやお母さんとも相談したと思われます。
 夜が苦手というのは、どういう気持ちでしょうか。しんたろうが苦手なのは、おそらくは繊細だからでしょう。睡眠の一歩手前の時に、急速に不安になってしまうのです。自分の意識がそこで切れてしまう。そして深い闇の中に陥ってしまう。そこは支えが欲しいのです。他の子たちはそれほど気にしていないようでした。小さい子を育てた人は分かると思うのですが、気性というのがあります。夜中に大泣きしてしまうような子と、夜中どんなことがあっても起きることがないような「でん」とした子といるのです。しんたろうは、自分の心の中に「恐怖」があるということに気づいているのです。ペガサスという場所がどんな場所なのか、詳しく聞けば聞くほどに、いっそう想像して恐怖を感じているのかもしれません。想像力が豊かな子ほど、恐怖を感じるのです。
 さて子どもたちは一日考えてから、先生の質問に答えます。しんたろうは、ついに自分の番になり「ぼくは いけない」と言います。うつむいています。他の子たちはしんたろうに注目しています。なぜしんたろうは、下を向いて、小さな声で言ったのでしょうか。本来は行くべきだという雰囲気に押し潰されそうだったのでしょう。恥ずかしい、嘲笑されるかもしれない、そんな気持ちかもしれません。他の子がみんな行くと言っているのに、自分だけ行かないというのは、言いにくいことです。先生は「ごめんなさい なんて おもわなくて いいんだよ」と声をかけてくれました。そこでもう一度大きな声で言いました。「ぼくは いかない」と言ったのです。二度目の言葉は重要です。「いけない」と「いかない」には大きな違いがあります。言葉が違うのはなぜでしょうか。一回目の時には、夜が耐えられないのだから、本来僕は行きたいと思っているのだけれども、行くことは出来ない、「仕方ない」というニュアンスが含まれています。しかもそれを説明しようとしているのです。二回目の時には、ぼくの意思として、あるいはぼくの決断として「いかない」と決めています。実は、理由がどうだということは、無関係なのです。そもそも理由を説明する義務はないのです。自由意思として、行くか、行かないかを決めるべきなのです。二回目の言葉が違ったのは、そう思ったからだと思います。
 とはいえ、本当は、宿泊合宿で夜に泊まることくらい、それくらいの気持ちを持つべきだということも分かります。自らの恐怖心を乗り越えるべきなのです。先生たちは、なぜしんたろうの気持ちを受け止めたのでしょうか。宿泊合宿に行かなかったからといって、どうということはありません。そのうち行けるはずでしょうし、行かなかったとしても、何ともないことなのです。私たちは普通はこう考えます。せっかくの機会である、この子にとってきっとプラスになる、なぜ行きたくないのだろう、トイレや睡眠が不安なのか?理由を聞いてみよう。行くことを勧めてみよう。そんなふうに思います。教育者はつい、可能性、成長、問題解決の方を向いてしまうので、後ろ向きの姿に対しては否定的なのです。しかしここでは先生方はみな、あたたかい。無理に勧めてもあまり意味はないと考えていたのです。勇気とはどのようにして出てくるのでしょうか。無理矢理に連れて行ったとすれば、彼は勇気を持ったでしょうか。あと一歩の勇気は、自分の内側から出てこなければ意味がないのです。自分が決めて判断したことだからこそ、自分の勇気として蓄積していくのです。他者が強制すると、慣れていくかもしれませんが、それは無責任の方に行きます。むしろここでは、自分の気持ちをはっきり言うという意味の「勇気」が問われたと思います。他者との関係の中で、他者に押し潰されずに、自分の意思を強く持つということの大切さはここで示されているように思えます。
 さて、皆がペガサスの家に行っている間、しんたろうは暇です。とても居心地が悪いはずなのです。誰かが何か言ってくるかもしれません。「しんたろうは、弱いな」等と言われたらどうしよう。そんな思いでしょうか。しかし宿泊から帰ってきて、みんなはいつもと同じようにしんたろうに接していました。周囲の子どもたちは、なぜ冷やかしたり、嘲笑したりしないのでしょうか。思いやり?可哀そうだと同情しているのでしょうか。自然な気持ちとしては「ねえ、ペガサスの家面白かったよ、なんでしんちゃんは行かなかったの?」「しんちゃんも行けば良かったのに」「ひょっとして怖いと思った? 全然怖くなかったよ」そんな言葉をかけるところなのです。それが自然の子どもの姿です。気にしているのにそれを言葉にしないというのは、非常に高度なテクニックです。そうはならなかったということは、ひょっとしたら先生方が丁寧に説明したのかもしれません。あるいは、他にも夜中に泣きだしてしまう子や、小学生なのに失禁してしまう子などがいて、そういうことには慣れているのかもしれません。これは私の推察ですが、子どもたちなりに配慮しているのだと思います。嘲笑したり、質問攻めにしたりすれば、彼が困ってしまう。そういう姿は見たくない。そこまで子どもが配慮できるかどうか。本当のところは分かりません。しかし、そういうふうに考えなければ、この場のこの様子を説明するのは難しいと思われるのです。この「いつもと変わらない様子」というのは、非常に奥深くて、素晴らしい空間だと思うのです。
 しんたろうは、あれから3年がたち、今度は、ペガサスの家に行くことが出来ました。それは、なぜでしょうか。様々な人生経験によって、夜の睡眠ということが対して不安ではなくなってきたということだと思います。そして私の推察ですが、幼稚園を卒園してから、何とかしてあの困難だったことを乗り越えたいという思いが強かったのだと思います。彼なりの挫折だったのではないか。そして条件さえそろえば是非、父母から離れて行ってみたいと思ったのでしょう。
 本書からは勇気のあり方が浮かび上がってきました。子どもが、勇気がなくて前に進めないということは、ありうることです。ところが私たち周囲の人間は、彼に勇気をぽんと与えることなど出来ないのです。ただできることは、彼が勇気を持って前を進むその瞬間を待ち、その瞬間が来たら喜ぶことだけなのです。前に進むか否かは、本人の自由です。本人の自由意思だからこそ、その瞬間は奇跡なのです。私たちが出来ることは、奇跡が起こることを信じて、いつ起きてもいいように、待つことだけなのです。