先生に何を求めるか
『せんせい』(作:大場牧夫、絵:長 新太、福音館書店、一九九六年)
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 幼稚園の子どもたちがなにやらヒソヒソ話をしています。「せんせいって、ときどき、うまだよ」と子どもは言います。それを聞いた側、あるいは読者は「ん?」と思うでしょう。しかしよく考えてみれば分かります。先生がお馬さんになって、背中に子どもたちを乗せて歩くことがあるのです。なるほど。「先生が馬だ」というのは、馬のように振る舞うことがあるという「答」を用意した「クイズ」なのです。私たち読者は、この子どもが示すクイズに答えながら絵本を楽しむことが出来る、という仕掛けです。
 さて、クイズは続きます。「せんせいって、ときどき、オニだよ」 これはどういう意味でしょうか。子どもたちを叱り飛ばしている怖い先生ということでしょうか。そんなことはありません。ここで描かれているのはとっても優しくて楽しい幼稚園の先生なのです。ページをめくると、そうです。鬼ごっこで追いかけている先生です。さらにはお相撲さんやオオカミであると描かれます。そうです。先生とはお相撲さんのように力強く、演劇においてはオオカミそっくりに表現できるのです。ままごと遊びの中ではお客さんにもなります。先生は、先生という一人の人物ではなく、様々な形、様々な表現ができる特別な人物なのです。
 先生の魅力とは何でしょうか。それは数多くの顔を持ちあわせているということです。力強さだけでなく、その他、様々な表情や役割を使い分けることができるので、子どもは先生を尊敬するのです。子どもにとっては先生というのは、広い世界観や知性を示しています。そんな世界があったのか、と驚くばかりです。いわば百科事典あるいは図書館と同じような重い存在なのです。子どもは、先生の姿を真似てみながら、少しずつ大きな存在へとなろうとするのです。こうした傾向は幼稚園や保育園に限定されるでしょうか。確かに小学校以上では、このようにして先生が常に子どもと一緒に遊ぶということはありません。しかしながら先生の言葉や行動の中に、子どもが知らない豊かな世界が含まれているということ、子どもが先生を通して広い世界を学ぶという点では、おそらく同じなのです。
 子どもは、先生が大好きです。ある時には「お馬さんになって」と頼むでしょうし、ある時には「お相撲さんになって」と頼むでしょう。先生がお馬さんになった時には、周囲の子どもたちがその馬を中心として楽しい時間を共有することができます。馬に乗ったり、馬から逃げてみたり、馬を追いかけたり、馬の真似をしたり、そんな状況が思い浮かびます。先生の振る舞いというのは、その時の子どもたちの「楽しい時間」でもあるのです。子どもたちは、先生と一緒に遊ぶ中で、友達と遊ぶ時とは違う何か大きな力を感じていくのです
 さて、絵本を続けましょう。けがの手当てをしている時にはまるで看護師(絵本ではかんごふさん)のようです。肩車をしている時には、お父さんと同じような強さを感じます。ひざの上に座っている時には、お母さんのような優しさを感じます。このあたりの描写は、何を意味しているでしょうか。先生は決して意図的に演じているわけではありません。何気ない先生の表情や動作について、子どもの側がいわば勝手に推察していくのです。いわば遊びに夢中になっている時に先生の姿をみているのではなく、遊びから少し離れて、距離を置いて先生を眺めた時に、ふと思うのです。先生を客観的に見て、先生と他の立場の大人とを比較分析しているのです。先生が教えたいと思っていないことでも、子どもは学ぶことが出来ます。先生は子どもたちにその姿を見せているわけではなく、見られているのです。
 さらに、絵本を続けましょう。子どもたちは、先生の姿に迫っていきます。先生は本当のお母さんでもあります。先生は子どものように転んでしまうこともあります。先生はそのお母さんから見れば子どもです。子どもたちは、先生の姿から何を見出しているのでしょうか。子どもたちは目の前にいるその人物が先生という特別な大人であることは分かります。他の大人とは何かが違うのです。しかしその一方で、先生もまた普通の大人であるということが分かるのです。特別という看板のうしろに、普通の人間という真実があるようなものです。それがチラリと見えていくにつれて、子どもは複雑な気持ちになっていきます。自分がもし先生の子どもだったらどうだろうなどと推察していくことでしょう。そこで気づくのは、普通の人間でもあるその女性が、幼稚園に来た時には先生という存在に変わっていくということです。先生がオオカミに変身するのと、普通の女性が先生に変身するのとでは大きな違いです。子どもは先生の存在感の大きさに感動するのです。
 子どもたちは「こぶたのせんせい」と言っています。本絵本では、「こぶたぐみ」というクラスの先生だということになっています。最後のページでは、「わたしたちのせんせい!」という言葉です。おそらくは子どもたち全員が大きく声を揃えて言っていると思われます。この絵本は、最初は一人の子がクイズを出している場面からスタートしたのですが、それから他の子たちも参加していき、最後にはクラスの子の多くがこのクイズに参加していったのです。自分一人にとってのせんせいというのではなく、わたしたちのせんせいという言葉を使っているのは重要な点です。先生とは、「ぼくたちのクラス」の象徴です。それは、クラスがそこにまとまっているということの象徴なのです。友達関係は自分たちの力でくっついている関係ですが、クラスという関係は先生という象徴のもとにクラスの全員の子がまとまっている関係なのです。規模も意味も大きく変わってきます。先生と言うのは大きな存在なのです。子どもたちにとって先生とは、子ども同士のトラブルや事故をうまく解決してもらえる存在です。子どもたちは先生に、なんとかしてこのクラスをうまくまとめてもらうということを期待していくのです。先生は他の子を認め、受け売れていきますし、それゆえ自分もまた、先生にしっかりと受け止めてもらえているはずだと信じるのです。それゆえ安心して幼稚園に行き、そこで楽しい時間を過ごすことが出来るのです。先生が怖いと、とたんに幼稚園には行きたくなくなります。
 以上のことを踏まえて表紙と裏表紙について考えてみましょう。表紙には先生の足と子どもたちが描かれています。裏表紙は先生の腰から下だけが描かれています。ある人はこの表紙と裏表紙をとらえて、なぜか不快になるようです。もっと先生は子どもの目線に降りていくべきだ。そんな気持ちでしょうか。上から踏み潰しているように見えるのかもしれません。特に裏表紙は子どもを放置して足早に去っているようにも見えます。これは何を意味しているのでしょうか。幼稚園の先生は、常に子どもと同じ目線にいるわけではありません。子どもが泣いていたり、困っていたりした時には同じ目線に降りていき、どうしたのと聞こうとします。しかし遊びの時間では同じ目線ではありません。子どもたちの目線よりも少し高いところに目線を置いて、子どもたちを引っ張ろうとするのです。逆に子どもは、先生という大きな立場の目線に合わせようと必死です。そしてそれが楽しいのです。懸命にジャンプして、飛び乗って、夢中になってその世界を体感するのです。時折先生は何か忙しそうに移動していきます。そんな姿を見ながら、先生ってすごいなあと感じながら、遊びの時間では先生にとびついていくのです。先生は巨人なのです。小さな水槽のカメにとって子どもは巨人です。子どもにとっては先生が巨人なのです。そのようなスケールの違いを感じながら、子どもは豊かな世界を楽しむことができるのです。