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社会契約説とは何か(ホッブズとロック)

<社会契約説>
● 目的論的世界(中世)⇒自然は生物学的であり、あらゆるものは目的のために成長、成長したものは他のものに貢献することでさらに大いなる目的を達成。目的を達成しうてさらなる上位の目的を達成し、世界全体が有機的に結びつく、最終的には”人間”が頂点にいて、さらにそれを超越した形で神がいる。ピラミッド型を想像、階層的→誰かが誰かのために生きている=階層性を肯定することも。無生物から人間にいたる万物が、階層秩序をなし、最後は最終目的である神に仕えるという全体像。
これらはアリストテレス・トマスアキュナスの権威と結びついていた。

●機械論的世界(近代)⇒あらゆるモノは量的なもので、「何の目的でこうしる」などという問題はない。あらかじめ全体をまとめる目的はなく、個々は平等であり、質量・運動量があり存在している、その総体が正解である。最小単位のそれぞれの運動が世界を作っている=個々の運動の総和である。個別の運動の総体である自然法則は、時間と空間の中で機械的な運動としいて数学的に表せる(←科学革命の成果)
⇒階層秩序は否定、人間はバラバラにいて、社会を作り上げている。政治社会が初めから存在したのではなくて、バラバラの個人が「契約」して政治社会を作り上げた。=社会契約論の「名目論(ノミナリズム)」に親和性

○ 近代以前の契約論
統治服従契約。
初めから被治者と統治者が存在し、その上での契約論。つまりあらかじめ政治社会があるという前提からスタートしている。
○ 近代契約論
○ 名目論(機械論的世界と親和性)が影響。個人はバラバラに存在し、契約し、それが集まって政治社会を構成(結合契約)。「自然状態」は「社会状態」の反対概念で、人と人が一切の社会関係を持たず、自然に還元されている状態を表す。どんな人間も特定社会に生まれてくるので、これは一つの仮説・フィクションである。⇒しかし、この仮説で、人間をいったん社会以前の自然状態に戻す事によって逆に国家は自然に与えられたものではなく、人間が人間の必要を満たすために自分で作ったもの(作為の産物)だという意識が明確になる。⇒政治社会の作為性(ここでは「権力の正統性」も見られる)を一貫して意識するという点に社会契約説がすぐれて近代の政治理論である証がある。国家が自然的所与でなく、人間が作ったものであるならば、国家の仕組みに不都合がある時には作り変えてもよいという結論になる。(=革命の論理につながる可能性)⇒自然と社会を明確に切断して、自然の秩序の中に人間のあり方を探った家出、「人間の自然」に照らして現にある社会を批判し、あるべき社会を構想する志向にもとづいている。

●ホッブズ
人間も生物的な動機(=「自己保存の法則」)で、自然状態にバラバラと存在している。つまり自然の構成要素としての人間である。「自己保存の法則」に従い、各人はこの法則を持ち平等に存在する(相互平等)。この動機は、外からの感覚によって影響される。外界からの刺激を受け、感覚に従って「快」を求めて生きて行く。さらに人間には記憶と学習能力が備わり、将来を予想し、合理的な予見能力がある。将来に対するイメージ(情念)は、無限の欲望を生み出す。常に他者を意識し、他人との競争関係を意識し、即時的快楽だけを求めるだけでは不安である。将来のために行動するようになる(合理主義)。今は必要ではないが、将来のためには絶えず今ある「力」を大きくしなければならないと考える(将来の快を求めるために現在使える手段は使う)。そして万人が、「自己保存」と「力」を追及するので、最終的には「死」を招くような「万人の万人に対する闘争」状態に陥る。

ホッブズにおいて、この「自己保存の法則(自己保存のためにはあらゆる手段をとれ、他人を殺したり、奴隷にすることも可能⇒これはすべての人に平等にに認められている⇒戦争状態)」によると、自然状態において自然法(人を殺してはダメなど)は存在しない。しかし自然権(自己保存の法則)はある、つまり自然権>自然法である。

しかし無限にこの闘争を繰り返すとき、自己保存ができなくなるという矛盾に陥ってしまう。ここで自然権に制約を加えるという目的で、「自然法」を見出す。「理性の戒律」としての自然法の発見である。自然法は、個人の自己保存の判定県を第三者に放棄(譲渡)することを要請する。そこでは、皆が一斉にこの自然法を守らなくてはならないので「約束を守れ」「平和をもとめよ」などというものとなる。

第三者(主権者・代理人)に自己保存の判定権を譲渡すること(契約)で、万人の万人に対する闘争状態が解消される。つまり第三者であるリバイアサン(政治権力・国家)に、自己保存権を譲渡することで、平和が保たれるということである。一度、自らが進んで契約した(つまり「設立によるリバイアサン」)際には、絶対服従しなければならない。(主権者は何者にも従わない、真理ではなく権威が法を作る)

抵抗権はない。ただし、死刑を宣告された際、それは「各人の自己保存の法則」が侵された事を意味するので、国家に対して自己の生命を守るための抵抗する権利が存在する。

また「獲得によるリバイアサン」つまり、力による革命で設立された国家もホッブズは承認する(ただし既成事実の追認という問題も?)。これは、無秩序状態よりも、獲得されたリバイアサンによって平和が保障されたほうが良いという意図である。


● ロック
「統治ニ論」
自由主義・・・19世紀に誕生。
「認識論(デカルトの流れ)>存在論」
⇒「我思う、ゆえに我あり」 存在の全てを疑ってみるとき、最後には疑っている・考えている自分が存在している。
「理性」
経験論(感覚的経験を通して学ぶ)VS合理主義(理性は生まれもっている)

ロックは、”認識”をもっぱら経験にもとめる哲学。経験論から出発。
当時、政治的背景としての王位排斥論をめぐる危機。またフィルマーが「族父論」の中の「王権神授説」を展開、また同時にホッブズへの批判などをロックは体内に蓄積。
1689年の名誉革命は、世襲の王位権が議会の意見で否定され、他国から王が連れてこられた、「議会>王位」という意味で画期的。ロックは名誉革命以前から執筆していた政府ニ論を、翌年1690年に発表。名誉革命を理論化し、正当化した。

ロックの場合、自然権と自然法はあらかじめ存在する(ホッブズの場合は、自然権が存在するが、自然法は自然権の自己矛盾を解決する意味で登場)。○自然権は、「生命・自由・財産権(プロパティー)」である。この「プロパティー」は、一切の自分自身の固有のものである。そしてこれら自然権は、当然に全ての人が平等に持っている権利である。

○自然法は、「プロパティーの侵害禁止」であり、全ての人が互いにそれぞれの自然権を尊重し、侵害してはならないとする。初めからルールとして存在。

自然に存在するものを、人間が自らの努力で(労働で)獲得した場合、それに対しては財産権が生じる(=労働価値説)。各人が労働を投下している。

これは努力・労働に応じて、無限に富を拡大していくプロセスになる(経済人ホモエコノミクス)。しかし余分に富を蓄えてもダメ(腐ったり、無駄になる)。

物を通じた富の拡大は、限界であるの、そこの「貨幣」を発見した(=市場経済へ)。貨幣で物を交換することで、他人の権利を侵害しない(余分なものを他人から奪わない)。貨幣の媒介は、富を独占せずに富を拡大、そして再分配が可能となる構造(=資本蓄積)。エゴイスティックな人間像を想定。

非常に平和的、では「なぜ国家が必要なのか?=社会契約必要?」

すべての人が「理性的で勤勉な人間」であるとは限らない。他者のプロパティーを侵害する可能性。

そこで公権力の必要=自然法を侵した犯罪者を処罰するのは本ら被害者であるが、リスクを伴う=武力行使を含め、政治的権力の必要性。
ここでの政治権力は「限定性(プロパティーの侵害にたいする介入のみ)」があり、他の積極的な関与を要請しない。・・・限定的。

自然権(プロパティー)の保障と、自然状態においてプロパティーを侵すものに対して処罰する権利を公権力に「信託する」(ただし限定性)。

この限定性を超えた時、信託に裏切りがある時には、政治権力(国家)に対して抵抗・革命権を認めている。ただし、革命・抵抗も、「政府の解体」は許されるが、「社会の解=混乱」は許されない。社会改造は許されない。
ここには絶対的権力に対しての批判が流れている。→(フィルマーの王権神授説・家父長制・家族国家観の批判、ホッブズの絶対権力批判)

「征服の権力」も批判:不正な戦争を仕掛けて負けたとき、戦争責任があるのは一部の指導者であって、国民全体が戦争勝者の支配に絶対的に服従するいわれはない。仮に戦争に責任のある世代は権利の剥奪を免れないとしても、それが子孫に及ぶいわれはない。
(※ホッブズは、アナーキー状態による万人の万人に対する闘争状態よりも、絶対権力による平和と安定のほうが人民のためであるという視点)

人民から付属された権力の乱用に警戒。⇒権力は、分立していたほうがよい(抵抗するためには権力は集中せずに、分割されていたほうがよい)。
立法権(法作成)=人民の信託、議会の優位=契約説から当然帰結
執行権(法を執行)=国王から信託された内閣
連合権(外交権)⇔モンテスキューは司法権

名誉革命を起点とし、英国議会が国王権力に対する抑制機関から真の意味の立法機関へと成長し、議会主権が確立。


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