海兄

アメコミやゆるゆりや海外の反応やらについて書くブログ



海外関連だけ見たい方はこちら→http://blog.livedoor.jp/eientei/archives/cat_50048267.xml


俺らは別に資本家とか政治家なんか憎くないんだよね

このエントリーをはてなブックマークに追加

旧態依然とした左派知識人は未だに資本家とか政治家とかあと自衛隊とかを仮想敵にしているのである。その時点でセンスがないというか、どうしようもないというか、まあゴミなわけだが、あの世代はそういう思考パラダイムの中で人生を過ごしてきたので今さらそれを改めよと迫るのは無駄なことなのである。

産業革命当時の工場労働者の1日の平均労働時間は14時間であり、まともな人間の生活をしていたとは思えない。さすがに問題になり、イギリスで1833年に工場法が制定された時は若年労働者の労働時間は週69時間までと定められた。現在のような8時間労働制が定着したのは19世紀末から20世紀にかけてのことである。
つまりは社会全体がブラック企業だったのであり、社会主義者が資本家を主敵としたのも当然なのである。


その問題は現代のブラック企業や長時間労働問題と通底している。だから左派知識人が当時の社会主義者たちに自己を投影するのは当然なのだが、だからといって、我々の胸に資本家への憎しみが湧きおこるわけではないことを忘れてはならない。
ブラック企業を個別的に憎んだり、個人的に貧困に苦しむことはあっても、資本家一般にまで怨嗟の声はむかないのだ。

現代ではそもそも資本家一般を憎む動機がないのである。労働者が苦しいからと言って、資本家が安楽な生活を送っているなんて誰も信じてはいないのだ。
我々は金はのどから手が出るほど欲しいが、資本家というライフスタイルなぞ羨ましくもなんともない。金によって人生の根本的な不満が解決するとは思っていない。それに金がないのは非常に困るが、あっても我々の苦しみが解消するわけでもないのである。

政治家にしても同様である。知識人は政治家が社会を支配していると思い込んでいるが、我々が政治家と直接トラブルを起こすことなどない。
そもそも現代社会を牛耳っているのは資本家でも国家権力でもなくマスコミだし、ストレスの原因も人間関係である。このまま社会福祉思想が浸透していくにつれて餓死は完全に根絶されるだろうし、ヤクザな借金取りは規制されていき、極端な話、借金まみれで無収入でも死にはしなくなる。
そうした社会の仲で我々の闘争の主敵として立ち現れるのが何なのかは興味深いが、たぶんあまり愉快なことにならないのは確かである。

きんいろモザイク 7巻 発売日は9月27日

このエントリーをはてなブックマークに追加

きんいろモザイクの7巻は9月27日発売です。
すでにAmazonで予約も始まっています。

きんいろモザイク (7) (まんがタイムKRコミックス)

きらら作品としてはかなりの長寿連載になりましたね
アニメ3期はやらないのでしょうか

あときららじゃないけどゆるゆり15巻はまだかな
最近毎号1話しか載ってないけどなぜだろう。
大長編への布石だったらいいな。

大長編ドラえもんというすごさ

このエントリーをはてなブックマークに追加

冷静に考えれば大長編ドラえもんとはすごい存在である。
普段はいわゆるひみつ道具を使うドタバタ日常ギャグなのにも関わらず、毎年のように番外編で異世界や宇宙や海底で世界の滅亡までかけて大冒険を繰り広げるのである。しかも大長編だけパラレル時空として隔離されているわけではない。ドタバタ日常と冒険活劇はその世界観を全く崩すことのないまま並行して存在しているのだ。
けいおんやラブライブで同じようなことができるか考えてみれば、どれだけの偉業か分かると思う。それと同時に、とても面白くなりそうだということも理解できるはずだ。ただしそれをやる勇気は並の製作者にはないはずである。私もゆるゆりの大長編は読んでみたいが、しかし読むのにはすごい勇気がいるだろう。普段の日常系のノリを、冒険以降では違った目で見てしまう可能性があるのである。世界観が壊れる可能性があるといってもいい。


フルメタルパニックやオーフェンのようにギャグと冒険活劇の二本立ての作品はほかにもある。
また、一時期のジャンプのギャグ漫画がことごとくバトル展開となったような例もある。
ゼノクラシアのように別の世界線として隔離されて存在していることはあるだろう。
だが、ドラえもんのようにドタバタコメディの雰囲気を完璧に維持しながら「定期イベント」として大長編冒険活劇を開催するコンテンツを私はほかに一つしか知らない。

私はマンガフリークというわけではないので、もしかしたらありふれている可能性もあるのだが、少なくとも長期的な国民的コンテンツで同じようなものはクレヨンしんちゃんしかあるまい。クレヨンしんちゃんの映画はドラえもんのリスペクトなのだろうが、なぜテレ朝の2大アニメだけそんな離れ業を実現しているのか、考察した人はいるのだろうか。

任天堂はキャラクタービジネスだけの会社ではない

このエントリーをはてなブックマークに追加
文章力が著しく低下していることに気付いたので練習をふくめて駄文を書こうと思う。
推敲もしていないが構わず投下する



任天堂といえばゲームの最先端だったわけである。
任天堂製のゲームさえやっていれば今あるゲームの大半を網羅することができたのだ。
決して昔からファミリー向けのゲームばかりを量産していたわけではない。

昔から任天堂製ゲームを技術的水準において上回っていたソフトは少なくなかったろうが、それらのゲームはあまりにゲームオタク向けであり、普遍性がないのでハード性能が進歩した今プレイしても全く面白くない。

しかしながら任天堂のレトロゲームは現在プレイしても十分に面白いのである。同時にお子様にも楽しめる安心感もあった。
コアゲーマーを満足させつつもご家庭にも安心、離れ業を成し遂げた驚異のゲーム会社だったのである。
任天堂64はその集大成のようなハードである。マリオ64、時のオカリナ、ムジュラの仮面・・・・3Dアクションの歴史はこれらのソフトがなければ全く変わっていたであろう。

しかしながら64はプレイステーションに完敗し、続いてハードの性能を高めたゲームキューブもプレイステーション2に完敗したことによって、任天堂は変わった。自社で驚異のソフトをそろえるよりもサードパーティを集めたハードの方が勝利するという事実によって、最先端を目指すことをやめたのである。

Wiiはアイデアは悪くなかったし、大ヒットを飛ばしたが、一発芸的な受け方しかしなかったと言わざるを得ない。良いゲームもたくさんあったのだが、SD画質という時点で表現の幅は狭まってしまっていた。DSもあれだけ流行った割には、ゲーム史にプラスの影響をもたらしたといえる何かがあるかといえば、答えは微妙だと言わざるを得ない。PSP-Vitaの方が、まだ高性能携帯機という新機軸を開拓しようとしただけ挑戦的だったともいえる(私はVitaのスティックがとても嫌いなのだが、それはともかく性能は素晴らしい)

その停滞は今世代になって顕著となっており、WiiUでは何ら革新的なソフトを出せないまま数年の月日を無為にし、単なるキャラクタービジネスの会社になりかかっていたとさえ言える。
言っておくが、任天堂はコアゲーマーを呼び込む努力はしている。UBIと提携して洋ゲーを誘致し、ベヨネッタや零も金を出してまで発売している。だがどれも全く売れなかったのだ。
やはり任天堂ハードは任天堂自身がキラーソフトを製作してユーザーを呼び込まなくては始まらないのである。任天堂はコアゲーマーを誘致したいのならば、他社と提携するよりも自身で暴力ゲームを製作するべきだった。

そのような状況の中で登場したのがスプラトゥーンである。
スプラトゥーンは久々に任天堂の可能性を感じさせる素晴らしいゲームだった。あのゲーム一本でWiiUの価値はマイナスからプラスに転じたといってもよい。
任天堂はやればできるのである。

次に期待できるソフトはゼルダWiiUであり、おそらくはWiiU最後の大作となるであろう。WiiUの性能をフルに活かした作品となるはずである。WiiUの性能なんてフルに活かしたところでPS4と比べればたいしたことはないが、このゲームが神ゲーか否かに任天堂の今後がかかっているといってもよい。

私はPS3が最後にラストオブアスを輩出したことは現在のPS4の躍進に大きく貢献したと思う。
前世代の締めに神ゲーが出ているという事実は次世代ハードに対する信頼感を相当に深める。ゼルダ新作はNXには回さずにWiiUで出すべきである。ラストオブアスのように1年後くらいにNXでリマスターを出せばよい。

純文学という概念が日本にしかないというのは間違い

このエントリーをはてなブックマークに追加

「純文学」という概念は日本固有のものであるという俗説がある。
海外には純文学とか通俗小説というような分類はなく小説は小説として柔軟に考えられているというわけで、たいていの場合、日本読書界の頑迷さを非難する文脈で説かれていたと思う。

もっともらしい話で、私も信じていたが、どうやら間違いのようだ。

英語で純文学に当たる単語は「Literary fiction」であり、通俗小説は「Commercial Fiction」となる。
また、専門用語として「Paraliterature」というカテゴリもあり、これは「Literaryでないもの」という意味になり、マンガや娯楽小説などがここに含まれるようだ。
「Literary Commercial Fiction」でググって欲しい。純文学とは何か、という議論が英語圏でも行われていることが分かるはずだ。


無論、日本語の「純文学」とは文脈が違うとか、否定しようと思えばできるだろうが、広義の意味で「高尚な小説」「低俗な小説」という区分けは確かにあるわけである。

税務署が警察よりも強力な理由

このエントリーをはてなブックマークに追加

追徴課税とは事実上の刑事罰だと思うのだが、なぜか納税者は刑事事件の容疑者のように人権が守られることはない。

戦前までは付加税制であり、また脱税しても定額の罰金が科されるのみで、社会的にもさほど悪い行為だとは思われていなかったという
それが戦後になり申告税制が導入されるやいなや・・・・かどうかは知らないが、少なくとも現在では脱税は反社会的行為の代表格みたいになっているのである。

申告額に税務署が納得できなければ勝手に売上を推定して追徴を強制するなどという意味不明な行為がまかり通っているのにも関わらず暴動の一つも起きないのは不思議といえば不思議だが、そもそも税務制度自体があまりに複雑怪奇だという問題もある。義務教育で方法を教えもしないでいてミスをしたら徹底的に糾弾されるのだから、それ自体が重大な人権侵害だともいえるのではないか。


さて、なぜ追徴に人権が適用されないかということだが、単に治安維持よりも収入確保の方が国にとって大事だからだろう。

そもそも国民一人一人の人生に意味なんかないのである。

たとえ凶悪事件によって国民がちょっとくらい殺害されても国家は問題なく回っていくし、人権を厳密に守った結果、殺人犯が少しくらい世に解き放たれる結果となっても、それで国が崩壊するわけではない。国家を運営するためには、全体としてそこそこ治安が保たれていればそれでよいのである。それならば捜査機関と司法はできるだけ抑制しておいた方がいいに決まっている。

だが政府に金が入らなければ社会は回らないのである。税収が半減するようなことがあれば即座に全てが破綻するのだ。
例え税務署が暴走し、強引な税務調査によって破滅する人間が出るとしても、金の流れだけは止めるわけにはいかないのである。そのためには納税者の人権(つまり対国家防衛権)などというものは認めるわけにはいかないのだ。納税者も社会を崩壊させたくはないので一致団結して権利を主張することはできず、高度資本主義社会の住人として理不尽を忍受するしかない。

アクセスカウンター

    記事検索
    • ライブドアブログ