海兄

アメコミやゆるゆりや海外の反応やらについて書くブログ



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きんいろモザイク 7巻 発売日は9月27日

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きんいろモザイクの7巻は9月27日発売です。
すでにAmazonで予約も始まっています。

きんいろモザイク (7) (まんがタイムKRコミックス)

きらら作品としてはかなりの長寿連載になりましたね
アニメ3期はやらないのでしょうか

あときららじゃないけどゆるゆり15巻はまだかな
最近毎号1話しか載ってないけどなぜだろう。
大長編への布石だったらいいな。

大長編ドラえもんというすごさ

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冷静に考えれば大長編ドラえもんとはすごい存在である。
普段はいわゆるひみつ道具を使うドタバタ日常ギャグなのにも関わらず、毎年のように番外編で異世界や宇宙や海底で世界の滅亡までかけて大冒険を繰り広げるのである。しかも大長編だけパラレル時空として隔離されているわけではない。ドタバタ日常と冒険活劇はその世界観を全く崩すことのないまま並行して存在しているのだ。
けいおんやラブライブで同じようなことができるか考えてみれば、どれだけの偉業か分かると思う。それと同時に、とても面白くなりそうだということも理解できるはずだ。ただしそれをやる勇気は並の製作者にはないはずである。私もゆるゆりの大長編は読んでみたいが、しかし読むのにはすごい勇気がいるだろう。普段の日常系のノリを、冒険以降では違った目で見てしまう可能性があるのである。世界観が壊れる可能性があるといってもいい。


フルメタルパニックやオーフェンのようにギャグと冒険活劇の二本立ての作品はほかにもある。
また、一時期のジャンプのギャグ漫画がことごとくバトル展開となったような例もある。
ゼノクラシアのように別の世界線として隔離されて存在していることはあるだろう。
だが、ドラえもんのようにドタバタコメディの雰囲気を完璧に維持しながら「定期イベント」として大長編冒険活劇を開催するコンテンツを私はほかに一つしか知らない。

私はマンガフリークというわけではないので、もしかしたらありふれている可能性もあるのだが、少なくとも長期的な国民的コンテンツで同じようなものはクレヨンしんちゃんしかあるまい。クレヨンしんちゃんの映画はドラえもんのリスペクトなのだろうが、なぜテレ朝の2大アニメだけそんな離れ業を実現しているのか、考察した人はいるのだろうか。

任天堂はキャラクタービジネスだけの会社ではない

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文章力が著しく低下していることに気付いたので練習をふくめて駄文を書こうと思う。
推敲もしていないが構わず投下する



任天堂といえばゲームの最先端だったわけである。
任天堂製のゲームさえやっていれば今あるゲームの大半を網羅することができたのだ。
決して昔からファミリー向けのゲームばかりを量産していたわけではない。

昔から任天堂製ゲームを技術的水準において上回っていたソフトは少なくなかったろうが、それらのゲームはあまりにゲームオタク向けであり、普遍性がないのでハード性能が進歩した今プレイしても全く面白くない。

しかしながら任天堂のレトロゲームは現在プレイしても十分に面白いのである。同時にお子様にも楽しめる安心感もあった。
コアゲーマーを満足させつつもご家庭にも安心、離れ業を成し遂げた驚異のゲーム会社だったのである。
任天堂64はその集大成のようなハードである。マリオ64、時のオカリナ、ムジュラの仮面・・・・3Dアクションの歴史はこれらのソフトがなければ全く変わっていたであろう。

しかしながら64はプレイステーションに完敗し、続いてハードの性能を高めたゲームキューブもプレイステーション2に完敗したことによって、任天堂は変わった。自社で驚異のソフトをそろえるよりもサードパーティを集めたハードの方が勝利するという事実によって、最先端を目指すことをやめたのである。

Wiiはアイデアは悪くなかったし、大ヒットを飛ばしたが、一発芸的な受け方しかしなかったと言わざるを得ない。良いゲームもたくさんあったのだが、SD画質という時点で表現の幅は狭まってしまっていた。DSもあれだけ流行った割には、ゲーム史にプラスの影響をもたらしたといえる何かがあるかといえば、答えは微妙だと言わざるを得ない。PSP-Vitaの方が、まだ高性能携帯機という新機軸を開拓しようとしただけ挑戦的だったともいえる(私はVitaのスティックがとても嫌いなのだが、それはともかく性能は素晴らしい)

その停滞は今世代になって顕著となっており、WiiUでは何ら革新的なソフトを出せないまま数年の月日を無為にし、単なるキャラクタービジネスの会社になりかかっていたとさえ言える。
言っておくが、任天堂はコアゲーマーを呼び込む努力はしている。UBIと提携して洋ゲーを誘致し、ベヨネッタや零も金を出してまで発売している。だがどれも全く売れなかったのだ。
やはり任天堂ハードは任天堂自身がキラーソフトを製作してユーザーを呼び込まなくては始まらないのである。任天堂はコアゲーマーを誘致したいのならば、他社と提携するよりも自身で暴力ゲームを製作するべきだった。

そのような状況の中で登場したのがスプラトゥーンである。
スプラトゥーンは久々に任天堂の可能性を感じさせる素晴らしいゲームだった。あのゲーム一本でWiiUの価値はマイナスからプラスに転じたといってもよい。
任天堂はやればできるのである。

次に期待できるソフトはゼルダWiiUであり、おそらくはWiiU最後の大作となるであろう。WiiUの性能をフルに活かした作品となるはずである。WiiUの性能なんてフルに活かしたところでPS4と比べればたいしたことはないが、このゲームが神ゲーか否かに任天堂の今後がかかっているといってもよい。

私はPS3が最後にラストオブアスを輩出したことは現在のPS4の躍進に大きく貢献したと思う。
前世代の締めに神ゲーが出ているという事実は次世代ハードに対する信頼感を相当に深める。ゼルダ新作はNXには回さずにWiiUで出すべきである。ラストオブアスのように1年後くらいにNXでリマスターを出せばよい。

純文学という概念が日本にしかないというのは間違い

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「純文学」という概念は日本固有のものであるという俗説がある。
海外には純文学とか通俗小説というような分類はなく小説は小説として柔軟に考えられているというわけで、たいていの場合、日本読書界の頑迷さを非難する文脈で説かれていたと思う。

もっともらしい話で、私も信じていたが、どうやら間違いのようだ。

英語で純文学に当たる単語は「Literary fiction」であり、通俗小説は「Commercial Fiction」となる。
また、専門用語として「Paraliterature」というカテゴリもあり、これは「Literaryでないもの」という意味になり、マンガや娯楽小説などがここに含まれるようだ。
「Literary Commercial Fiction」でググって欲しい。純文学とは何か、という議論が英語圏でも行われていることが分かるはずだ。


無論、日本語の「純文学」とは文脈が違うとか、否定しようと思えばできるだろうが、広義の意味で「高尚な小説」「低俗な小説」という区分けは確かにあるわけである。

税務署が警察よりも強力な理由

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追徴課税とは事実上の刑事罰だと思うのだが、なぜか納税者は刑事事件の容疑者のように人権が守られることはない。

戦前までは付加税制であり、また脱税しても定額の罰金が科されるのみで、社会的にもさほど悪い行為だとは思われていなかったという
それが戦後になり申告税制が導入されるやいなや・・・・かどうかは知らないが、少なくとも現在では脱税は反社会的行為の代表格みたいになっているのである。

申告額に税務署が納得できなければ勝手に売上を推定して追徴を強制するなどという意味不明な行為がまかり通っているのにも関わらず暴動の一つも起きないのは不思議といえば不思議だが、そもそも税務制度自体があまりに複雑怪奇だという問題もある。義務教育で方法を教えもしないでいてミスをしたら徹底的に糾弾されるのだから、それ自体が重大な人権侵害だともいえるのではないか。


さて、なぜ追徴に人権が適用されないかということだが、単に治安維持よりも収入確保の方が国にとって大事だからだろう。

そもそも国民一人一人の人生に意味なんかないのである。

たとえ凶悪事件によって国民がちょっとくらい殺害されても国家は問題なく回っていくし、人権を厳密に守った結果、殺人犯が少しくらい世に解き放たれる結果となっても、それで国が崩壊するわけではない。国家を運営するためには、全体としてそこそこ治安が保たれていればそれでよいのである。それならば捜査機関と司法はできるだけ抑制しておいた方がいいに決まっている。

だが政府に金が入らなければ社会は回らないのである。税収が半減するようなことがあれば即座に全てが破綻するのだ。
例え税務署が暴走し、強引な税務調査によって破滅する人間が出るとしても、金の流れだけは止めるわけにはいかないのである。そのためには納税者の人権(つまり対国家防衛権)などというものは認めるわけにはいかないのだ。納税者も社会を崩壊させたくはないので一致団結して権利を主張することはできず、高度資本主義社会の住人として理不尽を忍受するしかない。

人権思想という羊頭狗肉

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「人権とは対国家の概念であり、私人間には原則として適用されない」
「憲法とは国家に対する命令である」

耳にタコができるくらい聞かされたフレーズだが、理論的には正しい。
「被害者の人権」という概念は原理的には成り立たない。

人権が国家権力に対抗する原理である以上、人権思想によって保護されるべきは司法および捜査機関によって訴追を受けている加害者でしかあり得ないのである。

だがそれは我々の支持した人権思想とは違う。
我々が学校で習い、そしてなんとなくに共感していた人権思想とは、弱きもの、苦しむものを救ってくれる慈雨のごとき理念である。犯罪に苦しむ被害者を放置する理念ならば誰も共感しなかったろう。人権が対国家限定のものだと教えこまれていたらここまで人口に膾炙することはなかったに違いない

我々は人権思想を神の恩寵のような思想だと考えたからだからこそ、人類社会の基本原理として支持していたのである。
それが得意げに実は羊頭狗肉であったと宣言したところで白けられるだけである。


憲法は国家だけが守れば良いが、国家が守るためには社会全体が基本理念を共有している必要がある。社会全体で理念を共有していないのに国家だけがそれを遵守するなんてことはあり得ない。
思想は思想としての正しさだけでは不完全で、ヒット商品として通用するかというラインを考えなくてはならないのだ。

そういう意味では現在の人権思想は商品として、物語として不完全であると言える。
日本の人権水準が低いのも、物語としての完成度がいまいちだからだというものあるだろう。そろそろアップデートすることを考えるべきである

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