久しぶりのブログ更新になります。

 自分は、今、主に新聞雑誌などの平面のペーパーメディア社の仕事を中心にやっている訳なのですが、デジタル社会といわれるご時世の中、ご多聞に漏れずなかなか厳しい環境のなか、日々頑張っております。

 これらの媒体はトラディショナルメディア、時にオールドメディアともいわれネットメディア等にその座をおびやかされそうな存在として、取り上げられることもあるのですが、今回のテーマは、そのメディアパワーについて世の中で言われていることが本当にそうなのかどうかということも含めて、考察していきたいと思います。

■メディアパワーの変化

媒体別広告費推移










<図1>




最初の図は、みなさんももう見飽きている、メディア別の広告費の推移のグラフです。
新聞、雑誌が落ち込んだ分、インターネット広告費が伸びています。
でメディアの王座の位置を保ち続けるテレビ広告費は横ばいを保っています。


平日メディア接触率の変化
















<図2>



次は平日でのメディア接触率の推移です。新聞雑誌が下降するなか、伸びているのはパソコンではなく、携帯電話&スマートフォンです。

図2では、新聞雑誌は2~3割のダウンを見せていますが、図1の広告費はほぼ半減しています。

我々は、商売柄、発行部数を常にチェックしていて、確かにこの数字も減ってきてはいますが、新聞の部数などは、半減までは、いっていません。微減が続いているだけです。

 この統計だけで一概には言えませんが、

 ペーパーメディアの接触量や閲読量の低下以上に広告費が低減しているという状況があるように感じます。

 我々の業界では、ペーパーメディアは近い未来にネットに取って代わられるんだと悲観的な意見を言っているのをたまに聞きますが、それは本当に消費者の接触媒体としてのメディアデバイスとしてのの価値が下がっているからだけなのでしょうか。

 時代の変化に対して、もっと、ペーパーメディアのパワーを活性化させるためにできることがあるのではないでしょうか。
 デジタルコンテンツとの違いや昨今の平面広告表現の潮流も意識しながら考えてみたいと思います。


■情報流通と情報消費の変化

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<図3>




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<図4>







 ちょっと古いデータで、なおかつメディア論に関わるいろんなところで出尽くしているデータで恐縮ですが、総務省のデータの<図3><図4>をみると、世の中にあふれる「情報流通量」は、1996~2006~2011で532倍のさらに倍ということで、ここ15年で「約1000倍」に膨れ上がり、一方で人間が「消費可能な情報量」は65倍の1.1倍で約70倍になっているとはいえ、世の中の情報量の増加量に比べたら、微々たる増量でしかないといいつつも、これはこれで人間の情報処理能力の進化の一端と捉えれば、相当すごい能力向上をもたらしているといっても過言ではないでしょう。
 
 で、私が気になっているのは、15年で情報処理能力が70倍になっていて、かつ世の中の情報量が100倍1000倍になっていることを認識できている「人間」は、15年前の「人間」と同じように捉えていいのでしょうかということです。
 当然、情報や広告に対する反応や、リアクションそして購買行動自体が15年前の論法と大きく変わっている前提で考えないといけないことになります。
 同じメッセージ発信や表現に対して15年前と今とでは、それに心を動かされるオーディエンスの数が大きく減っている事実があります。それは見られるメディアが変わってきたこととは違う、「接触率」ではなく「反応率」の問題なのです。
 
 ペーパーメディアの関係者たち、広告関係者たちは、このたった15年間でおきている人間の劇的な変化にきちんと対応できているのでしょうか。

 私は、人間の消費行動の変化の結果、メディアの利用状況が大きく変わり、ペーパーメディアと呼ばれる分野が昨今パワーを落としてきていますが、それが単に消費者が接触する媒体としてのメディアデバイスの”形態”、ありていに言うと「器」としての問題だけで捉えてしまっていいのだろうかという疑念があります。
 確かに「器」としてのパワーも徐々に落ちてきてはいますが、それ以上に器の「中身」の劣化の問題が無視できなくなっている気がしています。

 15年間で大きく変化を遂げた、人間の脳の情報処理の変化にあわせてペーパーメディアの「中身」は進化を遂げているのでしょうか?  

 広告表現は? 編集コンテンツは? 
 どう変わってきている、いやどう変わっていくべきなのでしょうか。
 私が日々の仕事で感じているいくつかのキーワードをもとに、接触率ではなく反応率をあげてメディアパワーを発揮するためのヒントを探っていきたいと思います。



■広告表現の潮流と消費者の反応

①人を動かすために必要な情報量

 最近の新聞広告をみると、通販広告などを中心に情報量の多い広告が増えました。

 ひと昔前は、新聞15段広告は、インパクトのある短いキャッチコピーと、1発ビジュアルでアーティスティックな作品がたくさんありました。大御所クリエイターが、芸術家と並んで評価され、新聞の広告枠のキャンバス上で様々な「作品」が話題となりました。
 最近はこうしたワンコピーワンビジュアルで勝負するタイプの広告はかなり少なくなりました。

 人間の情報処理量と情報取得手段が格段に増えた結果、消費者の購買行動はよりシビアとなり、感性だけに訴求しても、具体的な価値を認識できないとアクションしてもらえなくなってきたのではないかと思います。
 今での一部の夢を売るメガブランドではこうした広告スタイルはまだ有効ですが、それ以外の業態の広告ではほとんどみられなくなってきました。
 オーディエンス(大衆)を動かすためには、もはや感性に訴えるインパクトだけでは動かず、動くための材料をたくさん用意しないといけなくなってきたのです。消費者はあらゆる多面的な角度から商品を検証し、有効性を認識しないとものを買わなくなったのです。そのために、提供すべき情報量は以前と比べると格段に増えたような気がします。
 新聞広告の場合でも、例えば商品広告の場合、シズル感のあるビジュアルとともに商品特徴を語るだけでなく、●識者の解説に、●ユーザーの感想や使用例紹介、●様々な統計データを活用したエビデンス情報などなど、多面的で客観的な情報がふんだんに盛り込まれるようになってきました。

 インターネットの世界では、実際のユーザーの口コミ情報が商品やサービスの価値判断手段として非常に有効に機能しています。  
 消費者は、何か行動をおこすときに参照する情報やメディアが、この15年で格段に増えてしまっていて、昔と比べてはるかに目が肥えて疑い深くなっています。商品についての、よりリアルな情報を様々な手段で入手できる消費者に対して、イメージとインパクトだけで売ろうとすることが最早通用しにくくなってきつつあるのです。


②単純明快な分かりやすさ


 情報量が増えたといいましたが、ただ単に増やせばいいというもんではありません。
 ちまたの情報量が圧倒的に増えた結果、人々は自分に必要な情報か否かを瞬時に判断し、自分に関係ないと思われた情報はよりスルーされることが多くなっています。

 新聞広告表現開発の打ち合わせや提案のときに、最近使われる言葉で、「2秒で、何がしたいのか何のための広告なのか瞬時にわかる広告を」というのがあります。通販等のダイレクトレスポンス広告の場合は反応の結果がすぐ分かるのでシビアです。何度もやっていると反応のある広告とない広告の違いの鉄則がすこしずつ分かってきます。
 反応が悪い広告は2秒みて、誰の何のための広告なのかよく分からないものが多々あります。
 一目で分かる単純明快さは、現代の広告では不可欠な要素になっています。ただ、その単純明快さは、万人に対してである必要性はなく、商品を買ってほしい限られたターゲットにだけ通用するものであれば十分なのです。
 消費者は情報洪水の中で忙しく暮らす中で、常に自分にとって有益なものは何かを見定めているているため、
特に自ら積極的に見るのではなくて、割と受動的にみることが多い広告表現の世界では特に、瞬時に価値判断してもらえる分かりやすさが絶対不可欠なのです。
 でないと本当に必要な人からもスルーされてしまいかねません。消費する情報量が70倍にもなった現代人ほど、情報の価値判断に要する時間がどんどん短くなっている気がします。

 昔は広告作品に芸術性を求めることがよくありました。キャッチコピーやビジュアルに、かっての文学作品で使用されるような、あえてストレートに言わない「比喩性」や「メタファー」のテクニックを取り入れ、そうした難解な作品が「ひねりを利かせて」という説明文句とともに使用されてきたことがありました。
 ちまたに流通する情報量が少なくて、ひとつひとつの情報に注目する時間がふんだんにとれた時代はそれでもよかったかもしれません。
 しかし近年、ひまじゃなくて日々膨大な情報処理を行うようになった消費者に、ぶしつけに送り届けなければいけない”広告表現”の世界では、こうした手法はまったく通用しなくなってきており、私も関わって提案したクリエイティブがこの点でクライアントに否定されてしまったケースを多く見てきています。
 
  ②の単純明快さは、①の情報量の増加の話と、一見背反する要素のように感じられますが、そうではありません。
 ターゲットの関心をひく最初のメッセージは「単純明快に」。
 関心をひいた後に、リアルな購買行動などのアクションを後押しする情報としての、客観的なエビデンス(根拠)や具体的な例示などは、「丁寧に詳しく」示す必要があるのです。そのために情報量を増やさざるをえないケースが多くなってきています。


③クロスメディア


 「昔は広告作品に芸術性を求めることがよくありました。」といいましたが、新聞広告などはよく「15段のキャンバスをどう表現するか」と言われ、広告枠をキャンバスと捉えてそこに表現される作品の優劣が問われた時代がありました。
 しかし現代では、広告枠をキャンバスと捉えてその中だけでしかコミュニケーションを考えられないクリエイターやプランナーはむしろ時代にそぐわなくなってきています。
 クロスメディアと言われる考え方が浸透し、新聞広告のキャンバスの外でのコミュニケーション施策を他メディアやフィールドを起点に考え、新聞広告はそのコミュニケーションへのあくまでゲートウェイと位置づけ誘導を図る。といったような、複数メディアの連携を考えた統合的なコミュニケーション設計を考えられる人間が、新聞広告枠の機能性を最も有効に活用できるというような時代になってきました。

 昔、永谷園さんの生姜部の新聞広告が評価されていたことがありました。
 生姜の魅力を本気で伝える「永谷園生姜部」というリアルな活動や仕組み自体のコミュニケーション設計の素晴らしさが、それを紹介した新聞やテレビなどの広告メディアの機能性を最大限に発揮させたことは言うまでもありません。
 当たり前の話ではありますが、それは良い新聞広告作品を作ろうとか良いTVCM作品を作ろうとかいうところを起点に始まるのではなく、良いコミュニケーションのあり方を全体設計から考えることから、良い広告がはじめて生みだされてくるのです。


④高速PDCAサイクル

 最近は通販など、ダイレクトマーケティングが隆盛となっていますが、この発展のための武器として上げられるキーワードに、「PDCAサイクルをうまく回す」というのがあります。

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 plan-do-check-actionという一つ一つの言葉は当たり前の言葉かもしれませんが、それをマーケティング上有効な「サイクル」として機能させるためには、近年のITの進化が大きく関わっています。顧客行動をトラッキングできるデータベースの進化、コンシューマのリアクションがダイレクトに伝わってくるインターネットメディアの進化が、施策に対する消費者の反応をリアルタイムで把握し、迅速に次の施策への改善につなげることができるようになったのです。

 何かアクションするごとに消費者の反応をチェックし、それをすぐ次のアクションに生かす。
 そのサイクルを速く何度も回していくことで最適で無駄のないなアクション=情報発信を常にとることができるようになるのです。サイクルの回転の速さが、最適化への近道といえる訳です。このことを高速PDCAと呼んで、ダイレクトマーケティングの世界などでは、大きな武器として考えられています。

 昔のマーケティングは頭のいい天才マーケッターやプランナー、クリエイターが能力を駆使して、最適な年間計画と施策を決めて、それを実行に移して結果を待つというやり方でした。それは大当たりすることもあれば、外すこともありました。
 しかし現代の高速PDCAでのマーケティングでは、天才が考えた施策をいちかばちかの一発勝負でやるなんてリスクは犯しません。小さい場で数多くのパターンの小施策テストを実施し、その反応を踏まえて一番最適解を早期に見つけ出し、それを大きくロールアウト展開することで確実に成果を出していきます。また、その展開も日々チューニングをやって精度を上げていきます。このやり方では失敗のしようがないのです。
 天才マーケッターやプランナーは、地道でマメなPDCAディレクターにかなわない世の中になってしまっているのです。
 広告表現の世界でもこの新旧のやり方による表現開発が日々繰り広げられていて、言わずもがなPDCAサイクルによる表現開発のほうが、どんどん増えていっています。

 インターネットメディアは比較的リアルタイムの反応を捉えやすいので、その反応をみてインターネットメディアそのもののありようをPDCAによりブラッシュアップしていくことがたやすくできます。一方、新聞や雑誌などの紙メディアはその反応をリアルタイムに拾いにくい点があります。ただ近年はWEB解析などで得たインターネットメディアへの消費者の反応をみて、新聞やテレビの広告表現をチューニングするなどのことも頻繁に行われています。
 
 広告表現以外の、メディアの編集領域はどうでしょうか。
 インターネットメディアはソーシャルな消費者の声そのものをリアルタイムで日々反映させ、その鮮度を保っています。
 一方でペーパーメディアは日々の読者のダイレクトな反応を紙面づくりにリアルタイムに反映し、日々編集内容をブラッシュアップできているのでしょうか?
 人々に支持されるメディアを作るためには、天才編集長や天才デスクの経験と勘による一発勝負のやり方がいいのでしょうか、それとも地道でマメに日々読者の反応を吸い上げつつ、そこに呼応していく仕組みづくり、すなわちPDCAサイクルを磨いていくほうがいいのでしょうか?
 ペーパーメディアが、日々鮮度のある情報を提供するネットメディアに、その座を奪われないためにはどちらのスタイルが現代の消費者の情報消費スタイルにあっているのでしょうか。
 
 余談ですが、この前テレビで、厳しい雑誌業界のなかで部数を大きく伸ばし主婦層に人気を博す雑誌「VERY」の、今尾朝子編集長の特集番組をやっていました。
 
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光文社VERY
今尾朝子編集長


 今尾編集長は、自ら率先して、狙いたいターゲットの主婦層の人たちと直接頻繁に会って、一緒に食事をとりながらとかで、とにかくマメに話を聞き、自分の仮説をぶつけ、あらたな発見を日常的に得ていました。そうすることでちょっとしたトレンドの変化や新しいスタイルの芽をいち早く捉えて誌面に反映することができるのです。
 また、その編集スタイルは編集長だけでなく、編集部員全体が同じスタイルをとっており、こうあるべきというような頭でっかちの「天才編集者」を目指すのではなく、日々ターゲットの反応をリアルに感じ取って誌面のブラッシュアップを常に図る「マメで地道なPDCA編集ディレクター」を目指しているように思えました。
 厳しい中で伸びているメディアとそのコンテンツにはちゃんとした理由があるのです。



■広告を買うプロから、売るプロへ

ここで、最初の話に戻りますが、

 ペーパーメディアの接触量や閲読量の低下以上に広告費が低減しているという状況があるように感じます。

という話をしました。ここ15年の消費者の情報処理の状況の劇的な変化をみていると、私は、器としてのメディアのパワーダウンだけではなく、その器に盛られている中身の「コンテンツ表現」のパワーダウンのほうが実はものすごく深刻なのではないかと危惧しています。昔と同じスタイルでは、もはや賢くなってしまった消費者には全く通用しないのです。それは広告表現でも、編集コンテンツでも同様です。

 ただ、「器」としてのメディアを改善しようとしても、インフラやデバイスの形態をなんとかしないとどうにもならないし、大きすぎる変革が必要ですが、器の「中身」としてのコンテンツや表現は、これまでこのブログで言ってきたようなことに留意して、やり方を変えていけばなんとか改善のしようがあるという救いがあります。
 消費者に対して、メディアの接触率を劇的に向上させるのには難易度がありますが、反応率を向上させることはまだまだ工夫のしようが沢山あるということです。

 長年、新聞をはじめとするメディアの仕事に携わってきて、よく言うことがありますが「自分たちは、メディアを買うプロになるのはそう難しくはないが、メディアを売るプロになるのは相当難しい」という話をします。
 これは広告会社のメディア部門だけではなく、実は媒体社サイドにも当てはまると思っています。
広告がどんな活用方法があるのか、いったいどんな効果があって何の役に立つのか、この15年で変わり果てた消費者の情報処理環境の変化を捉えて、うまく説明できる人がどれだけいるでしょうか。
 特に40代以上の方は、景気の良かった時代には、広告売上を上げる効果的な方法は、いかにうまくオーダーを捌くかというテクニックだという時代が長くありました。
 インターネットメディアやテレビメディアと比べて新聞広告や雑誌広告が如何にどういう部分で機能できるのかをうまくプレゼンテーションできる人はそう多くはいません。

 力を発揮する広告のスタイルも、これまでいくつかポイントを述べてきたように、ここ15年で全く様相が変わりました。 いわゆる「効く広告」の作り方がまったく変わってきたのです。
 ダイレクトレスポンス広告を扱っていると、その反応を如実に実感することができますが、同じ目的の広告でも表現の違いだけで3倍ぐらい反応率が違ってくることはざらです。成果が3倍違うというのはマーケティング上は死活問題です。クライアントの評価が天と地ほど変わってきます。

 とにかく、今のメディアビジネスの関係者には、今の消費者のニーズにあった、成果の上がる表現やコンテンツを開発し提案していく力が切に求められています。

 口説きたい相手のことをリアルに理解して、メディアの器よりもコンテンツの中身を磨き上げて、読者やクライアントの期待に応えていかなければなりません。

 成果があがらないのをメディアが読まれていないせいにするのは間違っていることを悟らなければなりません。
 
 「紙」が「デジタル」や「テレビ」に劣っているのではなく、載せている中身がターゲットに対して弱体化し陳腐化しているのかもしれないということに気付くところから変えていかなければいけないでしょう。