アベノマスクのおかげで使い捨てマスクが出回るようになったという嘘

安倍が布マスク2枚配布を表明したのは4月1日だが、それとは関係なく3月から、中国製のマスクが入るようになっただけ

新大久保駅近くのレンタルスペースで、4種類のマスクを販売していたのは、日本に来て6年目になるバングラデシュ人のシャミム・エムディさん(32)。50枚入りで1箱3500円から4千円と、通販サイトにアップされている同じ製品より3割前後安い。
「これは中国の業者から直接仕入れています。1月に花粉症シーズンに向けて大量に仕入れたマスクが2月中旬に売り切れてしまい、ようやく3月下旬に新たに入荷したんです

「先週、中国から5万枚のマスクを輸入して、都内の企業に納入しました」 
 3月後半からマスクの輸入をはじめたという40代の男性はこう話す。・・・
  
 冒頭の男性の本業は、客の荷を輸送する国際物流サービス。世界各国で広がるコロナ自粛で国際物流が滞り、3月の売り上げは半減した。輸送を請け負ってきた男性が自身でマスクの輸入をはじめたのは、中国からの“売り込み”がきっかけだったという。 ・・・

 3月末以降、男性は何回かに分けて十数万枚を輸入して数社に納入した。男性自身はマスク1枚につき10円の利益を乗せて現時点で百数十万円の利益だ。 
https://www.jiji.com/jc/bunshun?id=37121

ある薬局チェーンの役員がこの間の苦悩を語った。
 「最低70万枚?」

 東京五輪・パラリンピックの延期検討が報じられた3月23日。物品購入の担当者から役員に、マスクの仕入れ情報についての報告が入った

 新型コロナウイルスの感染拡大で、すでにマスクは店頭から消えて久しかった。役員はまず「マスクが買えるのか」と驚き、次いで業者が提示してきた仕入れ条件を聞いて、耳を疑った。最少の仕入れ単位(1ロット)は70万枚。中国製で、納期は約2週間後。代金の約2700万円は先払いだった。
https://www.asahi.com/articles/ASN524STDN4PUUPI002.html

中国のマスク輸出量が38億枚超に、品質の保証にも尽力
2020年4月7日 14:43 発信地:中国 [ 中国 中国・台湾 ]

データによると、中国の医療物資の輸出は増えている。税関総署総合業務司の金海(Jin Hai)司長によると、3月1日から4月4日までの間に、中国から輸出された感染対策物資は102億元(約1570億円)相当に達した。内訳はマスク約38億6000枚の77億2000万元(約1190億円)相当、防護服3752万着の9億1000万元(約140億円)相当、赤外線体温測定器241万個の3億3000万元(約51億円)相当などとなっている。
https://www.afpbb.com/articles/-/3277488



日本による台湾先住民殺戮(途中)


後藤新平「日本植民政策一斑」大正10年10月30日発行 ※1921年

台湾は大体申すと第一期第二期と分けます、第一期は平和克復の時、即ち明治二十八年から三十五年に至るを第一期と云ふ、即ち土匪鎮定したのである、此の最後の年即ち明治三十五年中に土匪を殺した数は実に四〇三三人の多きに達して居る。今三十一年前後の土匪殺戮数を示せば左表の如し。

匪徒殺戮数(林少猫討伐まで)

年度

捕縛若は護送の際抵抗せし為

判決に因る死刑

討伐隊の手に依るもの

31

166

84

2,850

3,100

32

324

507

3

834

33

468

873

9

1,350

34

682

997

311

1,990

35

4,033

537

106

4,676

5,673

2,998

3,276

11,950











是は内地の人で知って居る人がない位である。其前には僅の人を殺しても惨酷だとか言って非常に宣教師がやかましく言ったのでありますが、土匪帰順法を以て帰順さしたことにつき当局者内地新聞社其他より総督府は天皇の大権を侵害したものだとまで攻撃を受けました。併し此攻撃は兒玉総督に対するよりも後藤の専横といふ方に傾いたが此事実は総督の有徳を証明し且統治の大成せし所以たることの一大参考であると存じます。其後本帰順証交付の為警察署弁務署支所等へ呼び出し訓令を加へ之に抵抗したるものは之を殺戮することに予定し同日同刻に呼んで一斉射撃で殺したのであります、此時に当って少も此外国人の宣教師などは前日と違って非難の声がなかったは大にご注目を請ひ度き一事であります。
 土匪帰順法は御記憶になって居りませうが、天皇の大権に亘る生殺与奪の権で………一体不都合であると言って主として民政長官たる後藤に対して日本の各新聞が筆を揃へて攻撃した、外国宣教師などは之を以て徳政とし日本新聞の攻撃を怪しみ当局に対し非常に同情をして居ったが、帰順させた者の中には良民たるべきものと不良民にして到底ものにならぬ奴がある、先づ仮帰順証を与へて若干月日監視し選び抜いて其悪い者を同日同時に殺したのであります、其時に居られた旅団長は西島少将であったが、其時に匪首林少猫と云ふ者が一城の主として非常な勢であって、名を帰順投城にかりて所謂面従腹非徒党を擁し左右数方里に亘る所を領して居って、帰順しては居るが中々命に応じて役所に出て来ない、村民に収税的強請をなし応ぜざれば多数襲撃掠奪を事とする殆ど一年以上になりましたが兒玉総督はそれを黙って見て居った、是が為に近村から苦情があったが、其儘にして置いた、それを各弁務署警察署などに呼出して帰順証を渡すと言って誘ひ出して、各弁務署に十人なり二十人なり、多い所には三十人、五十人も来たのを一斉射撃にて殺した、併し当時予想の通り林少猫と云ふものは出頭しない、そこで其数日前斯あるべしと予想しましたから兵の練習と号してずっと遠く其城郭を回擁し(外囲第一列)さうして中に憲兵を置き(外囲第二列)其中に巡査を置き(外囲第三列)又其中に巡査補と云ふ土人から採用した巡査が居るで(外囲第四列)相当地点に砲兵の陣地を置いて林少猫の居る城郭に向て大砲で射撃した愈々予定の時刻になり放撃して夕方は雨が降ったが、城が落ちたから行って見ると林少猫が居らぬ、それで今の大島神奈川県知事が其時の警視総長であったが、林少猫を取逃がしたと云ふので、是は申訳がないといふて騒いだ、電報往復などで混雑して翌朝になって巡検すると城郭から一町ばかりある所に林少猫は倒れて居った此城郭の中には賭博場もあり、居酒屋もあり遊廓もある、ちゃんと一廓一城の主人として暮して居った、六七百人の子分の掠奪して来た所の物は総て上前を取って、其上尚ほ取るやうに城中に市街をつくり乾兒の金銭をまき上げる仕掛であった。なかなか偉いことをして居った、斯様な者を殺して、即ち三十五年に土匪鎮定と云ふことが出来た、宣教師などはどうもあれは仕方がない当然な処置であると言って非難する者はなかった。(27~30頁)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/980879/21

矢内原忠雄「帝国主義下の台湾」1929年

新領土たる植民地に於て異民族を統治するに当り民族的抵抗を受くるは通例のことである。ただ其の反抗の態様は歴史的に発展する。台湾にありても当初我が国の領有に反抗したるものは旧清国官吏及び地方豪族等が台湾の割譲に悲憤したるものである。其後各地に跳梁して我が統治を擾乱したる土匪は、日本の統治に対する政治的不満経済的苦痛を原因とするものあれども、其性質は尚水滸伝式匪賊たるを脱しなかった。由来台湾居住の漢民族は対岸よりの自由植民者にして生蕃に対する抗争上慓悍なるもの多く、彼等の中にても福建人広東人相争ひて所謂分類械闘の弊深く、又鄭成功は明の遺臣たりし関係上清国の統治に対する人民の反抗心も大であり、且つ政府の威令も強からざりしにより、清国治下二百年に亘り匪徒の反乱絶えず、「五年大反三年小反」の諺も敢て空言にあらず、「青年に土匪を働き壮年に富豪となる」は住民の理想たる状況であった。我領台後明治二十八年より三十四年迄土匪の台北を襲ふこと二回、台中を襲ふこと二回、其他各所の守備隊弁務署支庁憲兵屯所を襲ふこと五十数回、巡査派出所襲撃等は枚挙に遑あらず、漸く兒玉後藤政治の下に保甲制度の制定及び土匪招降策の採用によりて之を圧迫し、最後に兵力を以て南部の匪首林少猫を討伐し―(林少猫の拠りたる地域は台湾製糖会社の模範農場たる後壁林農場と化した―以て土匪鎮定の功を奏し得たのであった。之れ明治三十五年である。明治三十一年乃至三十五年に土匪殺戮数一万一千九百五十人、内、匪徒刑罰令により判決を以て死刑にせしもの二千九百九十八人である(10)。
 然るに明治四十年北埔事件なるもの起り、四十五年林杞埔事件あり、其後大正四年迄に暴徒の官庁襲撃及政治的陰謀約十件を数へ、大正四年の西来庵事件が最大であった(11)。之等はいづれも既に我が国家権力及び資本家権力が確立期に入りたる時代に起りしものにして、我資本の圧迫(例へば林杞埔事件は三菱竹林払下問題に関連あり)、及び警察政治(例へば北埔事件は保甲民の生蕃討伐参加に関連す)に反抗し、或は大正元年の支那革命の思想的影響を受けて革命的陰謀を計画し、革命的ならざるものも概ね支那より援兵来るとか支那の封冊任官を受くるとか号して人民を糾合し、以て日本の統治を脱せんとするものであった。然れどもその首謀者の閲歴動機に於ても、民衆の付随に於ても、運動の迷信的色彩暴動的性質に於ても、多く個々的衝動的且つ地方的にして近代的なる組織的民族運動の域に達しなかった。(240-242頁)



植民地朝鮮における日本語強制、朝鮮語授業廃止



朝鮮総督府情報課「前進する朝鮮」1942年

既に朝鮮語の教授は廃止され、教科書に逐年改正を加へて、朝鮮の特殊事情を加味した教材を加へつゝ皇国臣民教育の徹底を期してゐる。」

井上薫「日本統治下末期の朝鮮における日本語普及・強制政策:徴兵制度導入に至るまでの日本語常用・全解運動への動員」


1927年2月の段階で『東亜日報』に掲載され、後に総督府警務局が収録した記録には、「普通学校での日本語」について次のように記されていた。「現下普通学校では朝鮮語を除いた外には全部日本語のみを使用するのである。のみならず前にも論じた如く取締が極めて甚だしいのである。朝鮮人先生にも必ず日本語で話させること、日本語に非ざれば質問し得ぬこと、誤って発した朝鮮語一回に一銭の罰金を取ること。その外些細なものは列挙するに遑もないほど苛らく堅いのである。」(9)(112頁)
(9)「朝鮮普通教育の欠陥」(『東頚日報』1927年2月)中の「普通学校の用語」の項目(朝鮮総督府警務局『朝鮮に於ける悶盟休校の考察』1929年3月〔金成植著・金学鉉訳『抗日韓国学生運動史』高麗書林, 1974年,271頁より重引)


1937年3月17日の朝鮮総督府文書課長通牒は、官公吏が対象であった。「既に国語に習熟し、職を官公署に奉ずる者にして執務中尚未だ国語を使用せざる向ある」状況を「甚だ遺櫨」とし、これら各官公署の職員に対して、「執務中は努めて国語を使用するやう」に指示したものであった(40)。(116頁)
(40)井坂圭一良「内鮮一体と国語奨励」『朝鮮』第268号,1937年9月,25頁

1939年7月31日には、「特に多数の使用人を有する工場、商店の施設」を対象として、職場でも日本語を講習するようにと学務局から通牒が出された。内容は、上記の職場では、「平素、連続的」に、あるいは「一定の時期」「なるべく長期」に、「国語講習の施設を講ずる」ことを促したものであった。「工場員、店員」に対し、「平素相互間に於て、国語を使用」するよう命じてもいた(42)。(117頁)
(42)1939年7月31日,学務局長通牒「職場の国語講習」(前掲,森田芳夫(1987年),27頁より重引)。


1939年2月27日の慶尚南道会において、「忠清北道ニ於テハ現ニ小学校ニ朝鮮語ヲ廃止シテ居ル」こと、慶尚南道でも「或ル学校ハ朝鮮語ノ時間ヲ非常ニ少クシ或ル学校ニ於テハ三学年以上ハ朝鮮語ノ時間ヲナクシタリシテ朝鮮語ノ教科目ハ殆ド有名無実デアッテ遠カラズシテ自然ニ廃止サレル運命ニアル」と論じられていた(註21)(128頁)
『自昭和14年2月21日至昭和14年3月2日 第十二回慶尚南道会会議録』第七日・2月27日,152頁。29番金秉圭の発言(辛珠柏編『日帝下支配政策資料集』第12巻,高麗書林,1993年復刻,174頁)


6月22日の報道では「真の内鮮一体の実を挙げるには国語の普及は欠くべからざる急務」として、府庁に限らず、「各官庁、会社、工場等で国語を解する者は一切朝鮮語を用ひないやう慫慂」しており(常用)、「一般家庭でも出来得る摂り国語を使用し国語を解せない者でも単語でもよいから国語を使用するやう要望」した(21)(常用・全解)。(133頁)
(21)「単語なりとも国語を・府から一般家庭へも慫慂【仁川】『京城日報』1941年6月22日付4面


仁川府の昌栄国民学校では『話方の系統的指導の実際』を編纂するなど「話方」の訓練をする外、「登校後は一切朝鮮語の使用を禁じ毎日放課後の十分位を国語愛用反省会として級毎にこれを実施」している。日本語だけで過ごせたかどうかは「国語愛用カード」に記入しておく、というものだった。そして、その成績は、「一千九百人の児童のうち一ヶ月間も朝鮮語を使用しなかった児童は一千二百人乃至一千三百人の多数に上る」という(常用)。また。家庭には『家庭生活用語集』により。「一日一語は必ず覚える」ようにさせている(全解)(26)。(134頁)
(26)仁川府内の学校巡り(九)・児童から家庭へ(下)・国語の話方を指導<昌栄由民学校の巻>『京城日報』1941年7月6日付4面


「「朝鮮語をやめて国語を常用しませう」と国民総力平南道連盟では各愛国班員に呼びかけこれが徹底を期してゐるが、朝鮮語廃止の先駆をなした平壌府庁管財課では既に罰則を設け課員以下絵仕に至るまで違反者には係長以上一回十銭、職員以下一回五銭を徴収し積み立てゝゐるが、他の課員から朝鮮語で話しかけられる場合しらずしらずに朝鮮語の会話をなす場合があるので府庁全体に管財課同様の罰則を設け厳重なる取締を要望してゐる」(「鮮語を使へば罰則【平壌】」『京城日報』1941年5月31日付夕刊 3面))(139・140頁)


「国語常用証を三年以上六年までの全児童に最初五枚づつ配付、相手の誰を問はず話し合ふ時に国語を使はないものがあるときはこれを発見したものが掟を犯したものと認定一枚づつを取り上げ、その罰期として五枚全部を取り上げられたものは一週間引きつゞいて掃除をなしまた五枚を取上げた所謂監視者は、鉛筆一本を給与するといふことにしたもの」(「圏諸常用証・聖心校の妙案【新義州】『京城日報』1941年5月20日付5面)(140頁)


「〝家庭に職場に街頭に、極力国語使用のことを慫慂してゐるにもかかはらず最近やゝもすれば励行されてゐないのは遺憾である、殊に次代の中堅ともなるべき中等学校生徒間でその甚だしい例をみる〟と南総督から警告を発せられたのに鑑み学務局ではこのほど更に国語普及熟口生活化を奨励するため各道あて学務局長通牒を発した
 国語使用こそは内鮮一体を具現する最も容易な第一歩であり、初等、中等、高等、大学の別なく全学校では如何なる事情を間はず国語使用を奨励して来たが始政卅ー湾年を迎へた今日ではますますこの原則を徹底して学校から家庭へ街頭へと国語の生活化を図らうとするもの
今後は教室にあって師弟の間ではもとより学生、生徒、児童間の日常会話でも絶対に国語を使用し、その熟達錬磨に努め国語使用の雰囲気を醸成せしめようといふのである、なほ国語使用奨励の具体化としては各学校で学校経営案作製の場合、その具体的方法をとり入れてその奨励策を考究してゆくことになった」(下線部分は繰返記号))「学園家庭を問はず国語を使ひませう・学務局から各道へ檄」『京城日報』1941年10月8日付3面)。(142頁)


この観点で1942年4月14日に行った南総督(南次郎朝鮮総督)訓示を見てみよう。
・・・今日朝鮮内に於て国語を解し得る者尚僅かに十五%内外に過ぎざる状態に在るは恂に遺憾である、国語は国民の思想、精神と一体不離である、又国語を離れて日本文化はないのである、即ち半島人の真の皇国臣民化は半島民衆をして国語を解せしめ国語を愛用せしむることを以て効果大なりと信ず、国語の普及こそは内鮮一体の絶対的要件なりと云ふべきである、今日帝国が大東亜共栄圏の確立に邁進し、東亜の盟主として広くその指導の地位に立つべきの秋に当り、内鮮一体以て国家総力戦の一翼を担当すべき半島ニ千四百万民衆は日夕国語を常用し得るに至らなくてはならぬ・・・
(144・145頁)
https://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/bitstream/2115/29532/1/73_P105-153.pdf

「京城日報」は1943年8月16日付社説「内鮮一体と国語常用」において「国語常用といふよりは更に一歩進めて朝鮮語を抹殺するていの熱意を以って国語敦育の徹底を図ることが内鮮一体の実を挙げる所以であり、小磯継督のいふ国体の本義透徹、又それによる道義朝鮮の確立の捷径であり根本である」と書き、将来朝鮮語を「抹殺」すべきことを露骨に言明している。(101頁)
https://kansai-u.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=3022&item_no=1&page_id=13&block_id=21


官公署の朝鮮人職員たちも、率先して「皇民化」に尽くすべき存在であり、当然日本語を常用しなければならなかった。四三年一月八日、京城府の部課長会議は「本年は是非国語常用運動を徹底せしめたい」とし、各課ごとに常用運動に再検討を加えた。これに関して京城府の古市府尹は「皇民化に徹するためには国語生活に徹することだと思ふ〔、〕半島人として二重の負担を感じるがこれは負担と考へずむしろ義務だとの観念の下に本年は一路突進して戴きたい、[......中略......]一時の方便でなく徳義だとの徹底した気持になり切れば庁内の空気も一段と明朗化されると思ふ(8)」と述べているが、会計課では誓約書を提出させて電話器には「常用徹底標語カード」をぶら下げ、徴収課は課長が「国語を常用せぬものは意志の弱いもので昇格もボーナスもないぞ」と決めつけるような状況となったという(9)。こうした官公署における日本語常用は、利用者に対する常用圧力ともなっていた。たとえば平壌府庁産業課では「一般御客様国語常用」と大書した紙を机の上に置き、日本語常用者を優先的に取り扱うことにしたことが記事にされている(10)。(110・111頁)
(8)『京城日報』一九四三年一月九日付二面、「決戦態勢、先づ国語/常用徹底へ府職員鉄火の誓い」
(9)『京城日報』一九四三年一月二〇日付三面、「決戦の年・実践驀進2京城府の巻/丸坊主で国語常用/事務簡捷化へ総努力」
(10)「朝日新聞朝鮮版」西鮮版、一九四二年五月二七日「国語常用に新作戦/朝鮮語には黒星」


「私タチノヤクソク」全北谷山郡望城面茂形里国語講習会生国本先童
「私タチノ コウシウカイデハ マイツキ キソクヲ キメテ ソレヲ マモッテイマス。
一、コクゴジョウヨウ。コクゴハ ジノトオリ オクニノ コトバデス。デスカラ ダレデモ 国語ヲ ツカハナケレバ ナリマセン。国語ヲ シリナガラ  ツカハナイヒトガ イマスガ コレハ ゼンゼン シラナイヒトヨリモ イケマセン。コンナイミデ 私タチ コウシウセイハ ワカルコトバハ カナラズ 国語デ ハナスコトニ シマシタ。モシ ワカルコトバヲ ツカワナイト  三日カン ソウジヲ スルコトニ シマシタ。[......後略...」(15) 」(114頁)
(15)『毎日新報』一九四三年二月二六日付四面『国語毎新」、「ミナサンノサクブン」


四三年六月、朝鮮を視察に訪れた衆議院議員・森田正義が座談の席で「朝鮮語を抹殺していくといふやうな方法でやらなければ〔日本語普及は〕徹底しないのぢゃないか」と言ったのに対して、総督府殖産課長の上滝基は「それは寧ろ逆効果になる、水の浸み込むやうに行かなければならんと思ふ、国語の普及を図るために一方を絶滅してかゝるといふことはいけない、国語が普及して朝鮮語が自然に使はれなくなるといふことになるのでなければならん(4)」と述べている。(117頁)
(4)『京城日報』一九四三年六月一七日付夕刊一面、「決戦半島の真姿/内務省委員・総督府幹部対談会(3)」


戦後、旧朝鮮総督府の官僚たちは以下のように述旧している。「総督府からの国語使用強調の通牒は官僚行政の癖として末端に於いて強制力をともない、必然的に朝鮮語禁止の方向に進んだ(5)」。しかし朝鮮語抑圧の責任は「暴走」した「末端」にのみ課せられるものではない。絶えず日本語の普及率を数値化し競わせることは、行政末端の「自発性」をも引き出すものであった。南次郎総督が日本語普及の努力が足りない道を名指しで槍玉に挙げた道知事会議を想起してもよい。四二年、各道で開かれた府尹郡守会議での諮問答申は、日本語を普及させるためにどのような工夫を行うべきかを検討しているが、たとえば日本語常用者への配給の優遇措置(朝鮮語使用者への罰でもある)が考えられ、じっさいに元山府のある愛国班では日本語使用者に配給を優遇している(6)。
 四二年五月の座談会で、学務局編輯課長の島田牛稚は、次のように述べている。・・・「先づ生活問題と結びつけることが肝要で国語を知らなければ娯楽がえられない、演芸も楽しめないラジオも解らないし、本も雑誌も読めないといふやうにしてどうしても国語を解さなければならぬやうに生活的に退っ引きならんやうにしたらよいと思ふ〔、〕現在は鮮語で読み、聴き、話して充分不自由を感じぬ環境におかれてゐるので習慣上また便宜本意から鮮語を使用する、だから気の毒だが国語を解せぬ者は雇はんとか、不慣れな者は昇給もせないといった様な思ひ切った手段をとらなければ駄目だ(8)」という方法に至るのである。(117頁)
(5)大蔵省管理局『日本人の海外活動に関する歴史的調査』朝鮮篇第三分冊、四五―四六ページ
(6)『毎日新聞朝鮮版』一九四三年一月一三日
(8)『釜山日報』一九四二年五月三日付二面「全鮮国語一色運動/思い切った手段で/使はせることが先決=島田本府編輯課長語る」


四三年に国語文化研究所から刊行された『外地・大陸・南方 日本語教授実践』に、岡本好次・京城法学専門学校教授は次のような文章を書いている。「明、昭和十九年の徴兵制施行を控へて、我が半島朝鮮は、ここに一躍外地といふ名をかなぐり捨てて、名実共に内地に合体することになつたのも同然である。〔...中略...]国語未解者を絶無にするだけではだめである。半島民一人残らず国語を話し国語で生活するやうにしなければならないのである。つまり国語常用の徹底化である。大東亜戦争の勃発と徴兵制の実施を契機として半島二千四百万の一人々々の胸の中にはこれだけの覚悟が出来たのである」(119頁)


四三年八月、京畿道楊州郡九里面の日本語普及運動について、『京城日報』と『大阪毎日新聞朝鮮版』が記事を載せている(14)。両紙で同時期に特集が組まれたことからも、村ぐるみで「国語生活」を目指すモデルケースとして当局によって提示されたものと思われる。記事では、面長や校長が運動を指導して青年たちが実践するという戦時下大衆動員運動の理想的な姿が描かれている。・・・
 「この村に一歩足を踏み入れるや、立て看板に、農家の大門に、柱に〝內鮮一体まづ国語〟といった風な国語常用運動の標語、標識がそこにも、ここにも漢字と仮名と諺文とを併せて書き連ねてある。標語や標識ばかりではない。一歩部落の民家を訪ねると、壁柱、時計、鍬など何から何まで振仮名をつけ、それに諺文でこれが壁であり、柱、時計、鍬であるといった風な説明をつけてある。この村ではこれを〝壁読本〟と称して国語の理解を実物教育で推し進めてゐるのである(15)」
(14)『京城日報』一九四三年八月六日付三面、「徴兵に沸る愛国半島・六 全村に刻む国語/九龍面の輝く更生ぶり」、『朝日新聞朝鮮版』一九四三年八月一四日付四面(中鮮版))「〝国語の村〟訪問記/昼は勤労夜は講習/〝倅も適齢〟と六十の手習い/東倉里部落」
(15)『京城日報』一九四三年八月六日付三面


一九四四年一〇月、学務局の近藤教学官は、教育関係者を集めての座談会で次のように語っている。
「それ〔朝鮮人の日本語使用:引用者]は最近特に悪いんです。〔......中略......〕我々は半島の皇国臣民化といふことに渾身の努力をしてをりますものゝ、一番大きな影響をするものは国力です。殊に大東亜戦争になりましてから戦局の影響が非常に大きいのです。殊にサイパンの全員戦死〔四四年七月:引用者」がありましてから悪くなったやうに思ひます。その傾向の端的に現はれたのが国語の常用成績で、中には意識的に朝鮮語を使ふといふ傾向まで現はれてをります。〔......中略......〕男生徒が此頃非常に朝鮮語を使ふやうになりました(4)」(125頁)
(4)「高良女史一行を囲む座談会」『文教の朝鮮』二二七号(一九四四年一〇・一一月合併号)、五五ページ


咸鏡北道の清津府では四五年二月一五日から「緊急国語講習会」として「国語全解運動の徹底を期すため清津府は従来の生ぬるい講習会の開催では到底所期の目的を達成し得ないので今後は未解者に対しては受講命令を発し強制的に受講」させた(10)。一五歳から二〇歳の青少年を対象に各工場・事業場を単位として一四ヶ所の講習所が一斉に開講している(11)。・・・咸鏡南道では、「府邑面では国語未解者を調査の上警察署長と連盟の入所通知書を渡し義務的受講せしむる強硬手段をとる」としている(12)。・・・全羅南道では一四以上三〇歳までの男子を対象に、農閑期に義務的にさせよう道令にって七〇〇〇箇所の「国語修練所」を設置すると新聞は伝えている(14)慶尚南道でも道令という形ではないが、同様内容を施する計画があった(15)。(126・127頁)
(10)『朝日新聞朝鮮版』北西鮮版、一九四五年二月二日付、「国語を徹底/未解者には受講命令を」
(11)『国民総力』一九四五年二月一五日号
(12)『国民総力』一九四四年一一月一五日号
(14)『朝日新聞朝鮮版』南鮮版、一九四五年一月三〇日付「男女青年を対象に/全南の国語修練所規定改訂」。『毎日新報』一九四五年二月二七日付二面「国語普及 先駆/全南 七千個所 修錬所開設」
(15)『毎日新報』 一九四五年三月一四日付二面、『国語普及運動/廿年度 強化実施」


「〔官公署の〕職員間の会話は公私にかゝはらず国語であるべきこと、□内からはもとより外部からの電話にして鮮語は一切厳禁する」「学生、生徒は他の模範たらねばならないが、鮮語ばかり使ってゐる、絶対に国語を励行せねばならない」「町里会、仕奉隊、青年隊などで国語未解者名簿を作り責任をもって国語を修得させるやうにする」などの「檄」を飛ばさなければならなかった(20)。(129頁)
(20)「朝日新聞朝鮮版」北西鮮版、一九四五年三月一日、「会話は必ず国語で/未解者一掃厳守を呼びかく」
https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/239911/1/shirin_089_4_581.pdf

熊谷明泰「植民地下朝鮮における徴兵制度実施計画と「国語全解・国語常用」政策(上)

朝鮮総督南次郎は朝鮮総督府局長会議(1941年10月30日)の席上・・・「近来各学校特に中等校以上の学校において国語を使はず朝鮮語を使ひ、国語常用といふ建前が弛緩の傾向にある」ことを指摘し(80頁)


当時、朝鮮総督府編輯課長として敦育行政に絶大な権限を掌握していた島田牛雄は、朝鮮教育会機関誌『文教の朝鮮』1942年8月号に掲載した「国語普及運動の展開」において・・・「立派な皇国軍人は、全面的に国語の常用者であることが、絶対に必要であるべき筈である。かくして、今こそ朝鮮の人達は、永い間の使用によって得た朝鮮語への愛着も安易さも見事に振切って、ひたすら国語の常用に転ずべき時である。」(59)(100頁)
(59)『文教の朝鮮』1942年8月号、p.3、朝鮮教育会。


「京城日報」 1942年4月18日付 4面
次代の母は国語常用/誠信家政女学校で厳罰を採用
・・・先づ〝校内の国語使用を絶対的に〟といふ厳則に、『国語の愛用、発音を正しく』と記入した札を作って過失者につけさせて反省を求め、次の人がゐたら移るといふことになってゐるが、これが徹底してか誤りなく、一度当れば少なくとも廿日位の間には変化がないといふ程、頼母しい国語愛用の向上ぶりに、宮林校長は痛く感激してゐる。(122頁)

「朝日新聞朝鮮版」 1942年 5月23日付 3面(北鮮版)
“国語を使へ”移動座談会㊤
[…]富永校長[富永政市、吉城国民学校長]まづ職員に関心と決意を促すため、国語常用の実施方策その他を研究、回答を求めてゐます。職員まづ常用といふわけで、言葉の矯正会を開いたり、電話の応答も国語を使はなかった者は自発的に規定の制裁に服することなどを実行してゐます。児童に対しては、児童間及び国語のわかる人に国語を使はなかった場合は「国語常用表」に×をつけ、「国語常用違反章」を首からさげ、他の違反者をみつけたらこれを渡すことにさせてゐる。×印が三回以上になる者は停学処分にします。また「国語全解運動日誌」に自宅で普及運動をした児童にその状況を記入させたり、国語常用児童には「国語章」を佩用させることもやってゐます、特に熱心な児童の表彰、話方、聴方教授の徹底など意を注いでゐます。(123頁)

「朝日新聞朝鮮版」 1942年 5月20日付 3面(南鮮版 2版)
各地縮刷欄/国語普及の新試み/そつと反省カード
 国語普及の徹底を期す全北高女では、校内から朝鮮語を閉め出すとともに、“国語を生活化しませう”と表記し裏面に国語普及要項綱目を印刷した“国語普及反省カード”を作り、教職員、通学分団長、監護週番生、日直当番などが常に所持して、通学の途中、寄宿舎での日常生活に朝鮮語を使ってゐる者があった場合は、目立たぬやうそつとこのカードを渡し反省させることにしてゐる。(全州)(124頁)


「朝日新聞朝鮮版」 1942年 5月23日付 3面(北鮮版)
“国語を使へ”移動座談会㊤
[…]佐井校長[佐井重勲、清津清徳国民学校長]職員が率先垂範国語を常用するのは勿論ですが、正しい標準語の研究と修養に大いにつとめてゐます。生徒達には国語賞を設定し、国語使用模範生の胸に国語章マークを佩用させる、それから国語カードを使はせ、相手方が国語を使はなかった場合、これに注意を与へると、相手方が“御注意お礼”として持ってゐるカード一枚づつを差し出す。これは毎月統計をとつてみたが、大変効果があります。また学校単位に国語委員数名づつを学童から選び、これを一般学童の相談相手として指導させてゐます。(124頁)


「京城日報」 1942年 6月 9日付 3面
女学生と国語/お錢を彿つて国語錬成に精進/徳成実業の巻
 〝正しいきれいな国語を常用しませう〟と、徳成女子実業では校長の福沢玲子さんの指導で時局向の紙芝居をみせたり、国語の上手な人に読ませたりして、進んで国語常用を励行し頼母しい効果をあげてゐるが、も一つは罰金をとる方法で、お金の代りに紙を銭形に截ったのを一人が十枚づつ持ってゐて、誤って朝鮮語を使用した際はこれを相手に一枚づつ渡して、結局早くなくなった人が成績不良となるといふ面白い工夫が試みられてゐる


「京城日報」 1942年 6月4日付 4面
国語奨勘の〝宝箱〟/同徳高女が妙案を実施
 この箱に名札を入れられた人は、皇国臣民として不名誉です。・・・・大東亜載以束実施してゐる昌信町同徳高女の『報国箱』は、誤って朝鮮語を用ひた生徒の名を投げ入れる反省の宝箱として着々とその効を現し、一日の開箱日には一、二、三年生は一人も朝鮮語誤用者がなく、僅か四年生に二人といふ好成績をみせた。・・・


「朝日新聞朝鮮版」 1942年 5月27日付(西鮮版)
国語常用に新作戦/朝鮮語には黒星/平壌府庁に督励名簿
・・・まづ、国語常用督励委員会を設置、委員長に課長、委員に各係長また上席者を推し、各課毎に国語督励名簿を設ける。この名簿は国語常用の閻魔帳ともいふべきもので、毎日国語の常用ぶりを督励して、朝鮮語を使用した場合はその度数を記入し、ーケ月の統計をとり委員長に提出する、また他の課員であっても不履行者は記名報告し、外束者との対話の場合も相手が国語を解するのに朝鮮語を使用したらたゞちに記入、委員以外のものも庁員であって朝鮮語を用ひたものは発見次第報告し、お互ひに常用作戦を進め、毎月個人別成績表を作り、適当な時期に適宜な表彰、または処罰処置をとることになってゐる。


「大阪毎日新聞朝鮮版」 1942年 6月12日付 4面(西鮮版)
国語常用運動/時局認識の合言葉
[…]【運動要旨】
―精紳的指導として、皇国臣民として国語を話し得る誇りを感ぜしめるとともに、日本精紳の体得上国語常用が絶野必要な所以を理解させ、大東亜共栄圏の中枢皇民として必須の資格要件であることを目覚めしめる
【国語を解する者への実行方策】
(一)各種連盟職員相互間に不用意に朝鮮語を使った時は互ひに注意し合ひ、国語常用運動を阻害する所為を厳に慎む。
(二)各種連盟、特に所属連盟員の国語常用を徹底せしめる横の連絡督励機関を設ける。
(三)外来者との續〔ママ〕対、国語を使用せぬ者には注意を促し、解せぬ者には早く習熟するやう注意する。
(四)電話績〔ママ〕対に鮮語を使った時は国語常用に決定されてゐる旨を告げ、反省を促すか出頭して用務を果たすやう指導する[…]


「朝日新聞朝鮮版」 1942年 5月27日 (西鮮版)
国語の常用者は優先的に取扱ふ/平壌府産業課に貼紙
平壌府庁産業課の机といふ机の上には「一般御客様国語常用」と大書し、横に「受付を開始すれば優先的に御用を承ります」と付書き喚起し、府民に最も折衝事務の多い環境を活用して国語生活へ民衆を導かうといふのである。しかし、府民指導啓蒙の反面、この貼紙は課員達の自己防衛の唯一のバリケードでもあるのだ。それは外来客に対する場合も、相手が国語が話せるのに朝鮮語を使へば忽ち閻魔帳に記入され各自の成績に影響するので、かうしてでかでか貼紙しておけば、どんなに鈍感なお客でも国語常用意識に醒めて、国語を解する限り朝鮮語を使はぬだらうから、こちらもうっかりしてゐて朝鮮語を話す危瞼が少いといふ見方からである。(128頁)


「朝日新聞朝鮮版」 1942年 5月 6日付 3面(南鮮版)
児童を通じて国語を家庭へ/釜山水晶校通信講座開く
 釜山水晶国民学校では児童を通じて各家庭の国語常用の徹底をはかるため、『月例母子会』を設置し毎日ー語の通信講座を児童の手を通じて家庭へ通信、月三十語の国語を児童の家庭へ普及常用させ、また両親が児童の創氏名を呼ばなかつた際は児童から注意させるなど、極力校外の国語使用の徹底につとめている。


「朝日新聞朝鮮版」 1942年 5月21日付 3面(北鮮版)
[…]国語使はぬ者氏名を調べる
 皇国臣民化はまづ国語の常用からと咸南道における国語普及運動は近く花々しく展開することになってゐるが、朝鮮人の中には国語を解してゐるにもかゝはらず使用しない向も相当多いので、咸興署では国語常用に拍車をかけるため、署員を街頭に動員して学校生徒その他国語を解するもので国語を使用しないものの氏名を調べ、出束るだけ国語を使用するやう勧奨することになった。(129頁)

「大阪毎日新聞朝鮮版」 1942年 6月12日付 4面(北鮮版) 国語全解運動/咸南で各種具開案
国語のわかったものが使用しないのを防ぐため街頭に監視役、査察隊をくり出し、使用しないものには任意または所隔団体に警告を発することとと〔ママ〕なっている。


「京城日報」 1942年 1月20日付 3面 決戦の年・実践驀進② 京城府の巻/丸坊主で国語常用/事務簡捷化へ総努力
記者『府庁では本年は国語常用に専ら力を注ぐさうですね、各課でそれに就て何か妙案はありませんか。』
田中内務課長『一億民言葉は一つ…では庶政執務の刷新も事務の簡捷化も言葉の統一が先決問題ですね、八日大詔奉戴日の部課長会議で国語絶対常用が申合はされたのです。』
藤岡会計課長『私の課では誓約書までといふ憧重さで、電話器には常用徹底標語カードをさげてゐます。』
金古徴収課長『私は平素から厳格主義で通つてをり、課員も心得てゐてくれるが、国語を常用せぬ様な者は意志の弱い者で、昇格もボーナスもないぞ…ときめつけてゐますよ』(笑声)
松尾庶務課長『私は課内常会を開き誓約的申合せを行ひ、家庭は官庁の延長だから家庭においても正しい国語を使用するやう一同誓った次第です


「朝日新聞朝鮮版」 1942年 5月14日付 3面(中鮮版)(西鮮版には同年 5月15日付 3面に掲載)「尾翼灯」欄
国語常用はこれで行かうと、京城府では百万府民に率先垂範することになった。
すなはち、朝鮮語使用は事務能率の低下を来たすとあって、府庁の窓口はもちろん廊下の片隅での私語も禁ずるため、新規採用者は給仕に至るまで国語全解および常用を条件とし、また各課長に檄を飛ばして、近づいた賞与に国語常用成績を反映させるため、国語常用成績表を各係長の机の上に配布、お互に大いに勉強して黒星をとらぬやう、四千全職員に注意を促した。
また国民総力京城府連盟では、カフエー、バー、茶房や映画館の間奏曲から朝鮮語音盤を急速にしめ出し、その成績を見た上で一般家庭からも漸次朝鮮語音盤を閉め出すことになった。


「朝日新聞朝鮮版」 1942年 5月15日付 3面(南鮮版 2版)
朝鮮人官吏の国語常用を励行/慶南、府郡へ近く通達
国語常用の積極的指導徹底については、十八日から開催される慶南道府尹郡守会議にも特に重視し、西岡知事からその必要性を強調、第一線関係職員の献身的奮起を促すはずであり、民間にその具体策を実践するには、まづ官庁が率先垂範すべきであるとし、朝鮮人官吏の国語常用を絶対励行させることになった。すなはち従来のごとき消極的方法をすてて、国語常用の如何を職員の成績に加へ、勤怠とともに賞与査定の参考項目とする強行方法をもつて緊張を促し吏道の振粛をはかる方針で、近く府郡へ正式通達するはずである。
電話も国語で
慶南道庁総力連盟では朝鮮人職員は庁内家庭をとはず率先国語常用を実践厳守すべく自覚と奮起を誓ってゐる。特に外部との電話応答も朝鮮語使用を避けるやう、相互に申合せた


朝日新聞朝鮮版」 1942年 5月29日付 3面(西鮮版)
国語普及あの手この手/平南連盟役員会の意見紹介
◇中谷日穀専務一本社では、すでに数年前から総督府発行の国語教本によって国語指導を実施、国語常用成績によって増給、増俸、臨時賞与支給などの督励法をとつてをり、相当効果をあげてゐる。[…]
◇安城基氏一警察官、その他官吏の方々に一般民衆の国語常用に対する監督指導をお願ひしたい。街頭や車内、その他至るところで朝鮮語を使用してゐるものには、その場で“あなた国語で話されたらどうですか”といった風に軟く慫慂的に奨めたい。


「朝日新聞朝鮮版」 1942年 6月26日付 4面(南鮮版 2版)
国語を解せぬ人は官庁団体で採用せぬ/慶北道
 慶北道では朝鮮人家庭の国語生活徹底を期し、道独自の指導要綱を決定、この全面的実践を行ふことになり、二十四日、管内官公署、各団体へ国語常用に関する強力な通牒を発し、各職員の率先垂範を促した。これによれば、今後国語を解せざる朝鮮人は一切官公署、各団体に採用せず、また国語理解者の採用にあたっては家庭その他における国語常用の如何を考慮。なほ現職者にしても国語を理解しない者は適当な措置を講じ、賞与や昇給時には本人の国語常用の程度を斟酌して善処する。とくに官公署職員は職場の内外を問はず絶対に国語を常用するとともに、家族を指導して家庭の国語化につとめ、急速な普及運動に挺身して貰ひたいといふのである。


「大阪毎日新聞朝鮮版」 1942年 5月29日付 4面
違反者は賞与を加減/お役人が垂範
 平南道では、廿六日午前九時から営坂総力課長、清水川庶務課長出席、各課主任を会議室に招集、国語常用に関し打合会を開催した結果、今後道庁員はお互の会話はいふまでもなく、陳情その他事務受付から電話續〔ママ〕答まで一切国語をもって行ふこととし、もし誤って朝鮮語を使用した場合は、賞与その他で適常〔ママ〕な処分をすることとした。


「京城日報」1942年4月21日付夕刊2面
君は常用してゐるかね/来春の入試に国語採貼
 国語全解運動に本腰となって力瘤を入れる京畿道では、特に中初等学校の生徒児童に対し国語常用の厳守励行方を奨め、常用しない者に対しては厳罰をもって臨むなど相当徹底せる方法を採ってゐるが、一部生徒児童の中には進んで国語を常用しようといふ気力に欠けてゐるものが多数見受けられるので、道学務課では国語全解運動の完璧を期する上から、束年の初中等学校の入学試験には国語常用の程度、修練に封する熱意を採点の一部に加へ、これによって生徒児童の国語常用熱を昂めると同時に、家庭における一般父兄の常用化をも促進させることになった。この国語常用の採点については、本人の日常の使用ぶりと熱意を重視するほか、家族の常用程度をも調査して、これを所見表に記入することになってゐるが、更に学期末の学業成績にもこれを適用し、操行の採点には必ず国語常用の程度を斟酌し、他の科目についても国語常用の出来不出来を加味することになってゐる。


「朝日新聞朝鮮版」1942年5月28日付3面(中鮮版)
時の話題/国語に挑む二十有一年/校史燦たり景福中学校
 国語漢文の成績には従来の筆答の考査のみから脱して言語が巧いか、まづいかを専門的な立場から査定してゐる。なほ一歩堀り下げて、常用程度を有力に操行査定表に織り込んでゐる。だから、修身はもちろん、あらゆる課目に強く響くことになる。また常用してないところを発見された場合は心境を正され、始末書までに発展する。これがたびかさなると、父兄を呼出して校長が訓戒を加へる

「大阪毎日新聞朝鮮版」1942年6月3B付4面(南鮮版)
学徒へ国語/京城保導連
 朝鮮徴兵制度の実施発表とともに、半島同胞の真の皇国臣民化が痛感され、今さらながら国語常用の声が高く、学務当局や総力連盟が国語常用の徹底に大童であるが、この度京城保導連盟も国語普及に一役買つて、中初等学校生徒児童の国語常用如何を学業成績考査に織込むことになった。即ち京城保導連盟では本年度保導事業の強化をはかり、従来中初等学校の加盟校にさらに京城府内百五十の中初等学術講習会を加へ、専任保導主事一名を二名に、各学校幹事ー名を二名に増員、学校職員全部を保導係に、上級生を保導担当者として全青少年学徒の上に校外保導の眼を光らせ、これが完璧を期することとなつたが、保導要項中の目新しいものとして、決戦体制下の事故を特に重視すること、生徒手帳や在学証明書を携行させるほか、胸間に必ず氏名を縫ひ付け、国語を常用せざるものは皇国臣民を念願する学徒にあるまじき行為としてこれを学校に通告、操行成績考査に考慮させることになった。


「大阪毎日新聞朝鮮版」1942年6月17日付4面(北鮮版)
未だ十分でない/咸南児童の国語の常用
 国語常用から正しい国語愛用に一歩前進してゐる咸南道学務課は、学校内だけの愛用でなく、家庭にあっても校外でも生徒児童の言葉はすべて国語でなくてはならないと強く呼びかけてゐるが、十二日生徒児童が校外でどの程度に愛用してゐるかと、山本学務課長ほか課員全部が街頭に進出、電撃査察を行ったところ成績は非常に悪く、十三日山本課長は学校長、教職員への徹底方策の強化と生徒児童に注意を喚起して左のやうに語った。  十二日、課員が手分けして咸興府内の使用程度を調べましたが、成績はよくありません。学校長ほかさらに一段と工夫し、生徒児童は皇国臣民であるといふ強い意識をもつて、校外でも国語の一本槍で行かなければなりません。今後も国語常用査察隊をくり出し、使用しない生徒児童の学校へ通知する一方、国語科の採点にあたっても考慮させるつもりです。


「京城日報」1942年7月8日付4面
〝アイゴー〟も懲罰/国語常用に西大門署員が妙案
 西大門諸〔ママ〕高等係では吉岡主任が予[かね]て同係職員たちに公私を問はず国語で通すやう慫慂してゐたが、平山部長刑事が去る廿六日妙案を考へ出して実行、府内各署に魁けて非常な好成績をあげて、署内は素より各職員に範を垂れた。
つまり、署内で執務の際は仮令無意識にせよ朝鮮語若くは英語等を使用した場合は、それが単語であっても一回につき金十錢也を徴収することを決議し実行してゐる。
 その結果、従来は内鮮職員が〝アイゴー〟とか〝ナツプン〟とか、英語では〝サービス〟とか〝スローガン〟等々の聞き憎い言葉が得々として交されてゐたが、爾来これらの雑語類が綺麗に一掃された、積立てた罰金はそっくり国防献金にするといふ。

「朝日新聞朝鮮版」1942年5月17日3面(西鮮版)「尾翼燈」欄
 国語全解運動は常用の督励となり、朝鮮語の使用抑制となっていたるところに、“国語常用”が貼り出され積極的なものになると罰金制を用ひてゐるが、これは笑へぬ真剣なナンセンス。
 十二日朝、平壌府斎藤酒造会社の事務室で“これを取って下さい”と十銭玉を差し出した朝鮮服の老人があった。事務員が国語でお話し下さいと注意したところ件の老人、“それがわかつてゐるから罰金を前納するのです、どうか十銭分だけ話させてくれませんか”と懇願、「国語を話せぬ人に常用は出束ぬのは必定だから、罰金は納めなくてもいゝのです」との説明に、老人は十銭玉を蟇口[がまぐち]にしまひ、ひそひそ用件を話して帰って行つた。
 窓口には諺文の振仮名付で、「朝鮮語を使用したものは、一回につき十銭の国防献金すること」と貼紙がしてあったのである。


「朝日新聞朝鮮版」1942年7月31日付4面(南鮮版第2版)
各地縮刷欄/朝鮮語で罰金五十錢/全州府巖員の申合せ
 国語普及運動に朝鮮全州府庁では職員は努力してゐるが、指導的立場にある庁員は府民の国語生活に垂範するため、“庁内で朝鮮語を口にすれば罰金五十銭也”の新制度を申合せ実行することとなった。懲罰金は国語普及運動資金に繰り入れる。(全州)


「朝日新聞朝鮮版」1942年6月3日付3面(南鮮版2版)
 国語常用章を胸に
 国民総力釜山府連盟では国語の普及徹底と常用を全府朝鮮人に呼びかけるため、近く“国語常用バッジ”を作成、国語を解せる者に佩用させることになったが、同バッジをつけてゐる者で国語を常用しない者などがあった場合は、お互いがこれを是正するやう心がけさすことになった。


「朝日新聞朝鮮版」1942年8月7日付4面(北鮮版)
国語常用記章/平壌で愈よ実行
 国語全解常用実践督励策として平壌府総力連盟が取り上げた国語常用記章着用案は、平南道総力連盟理事会に提案されたが、最も適宜な実践方策として満場一致採用に決定、道内各府郡連盟をあげて実行に移すことになった。常用記章は旭日に国体を象徴し、その下に「国語」と記したバッヂである。
 平壌府連盟では早速三中井百貨店に注文した。遅くとも今月末までに府 内全愛国班に実費(一個十五銭)で配付される予定。この記章着用者は、「私は国語全解ですから、朝鮮語は絶対に使用しません」といふ標識となるわけで、今後まづ記章の有無を見定めてから話さねば恥をかくことになる


「朝日新聞朝鮮版」1942年4月26日付3面(北鮮版)
罰則を設けて国語常用徹底
 清津天馬国民校では馬場校長の音頭で“国語常用五ケ年計画”に猛進、本年最後の年を迎へたが、有終の仕上げをかけようといふので、今後校内外を問はず朝鮮語を使用した職員は進んで辞表を提出し、四年生以上の児童は転校又は停学処分とすることに決定し、父兄にも厳重にこの旨申渡し、一段熱意のある協力を要望した。


「大阪毎日新聞朝鮮版」1942年6月26日付4面(南鮮版)
国語を解せざるものは一切官公署に採用せず
 国語常用運動に総力を発揮してゐる慶向北道では、同運動推進の基礎をなす官公署、業務所職員の率先垂範を強調するため、今後国語を解せざるものは一切官公署、業務所などの職員(傭人をも含む)に採用せざること といふ大英断を下し、国語を解せざる外来者に対する事務上の場合を除くほかは現職者は絶対的に国語を使用し、現職者中国語の未熟者は急速にその習熟を計り、万一進歩の見込みなきものは適当なる措置を講ずるとともに、賞与の支給、昇給の実施などに際しても本人の国語常用の如何について十分考慮を加へるといふ断乎たる方針を決定、廿四日内務、産業、警察三部長名をもつて道内各府郡官公署、団体、学校その他各業務所へ厳命通牒を発した。

「大阪毎日新聞朝鮮版」1942年7月25日付4面(南鮮版)
面事務は国語理解者で/全北道が面長、書記へ全解運動
 一面の長であり、多数の面民を率ゐて行く面長が国語を解せぬやうでは到底その指導は不可能であり、時局下の重要事務を処理して行くことも困難であるので、全北道では数年前から国語を解せぬ面長は採らないことにし、また国語全解運動が展開されるや、国語未解の面長は自発的に辞任 し、現在百六十九名の面長中、未解者は僅かに四、五名に減少、近い中に国語未解の面長は一人もゐなくなるものと見られてゐるが、面書記中国語未解者も十名内外ゐるので、これも近日中に国語理解者とする方針である


「毎日新報」1942年5月4日付朝刊4面
国語常用を強調/平南道で普及に全力
半島人指導者側の一部の人々の中には普段は国語を常用しないのみならず、国語を排斥する傾向があるようであり、思想の統一その他総カ戦の方針から見て、このような者に対しては今後は許すことなく当然処罰するであろうし、


「毎日新報」1942年5月7日付夕刊1面
国語の普及常用徹底/具体的運動要綱決定/総力運動として活発に展開/指導委員会
 大東亜共栄圏の指導者たる半島人の皇国臣民化は、国語普及が最大の捷径であるので、総力連盟では南総督の3回にわたる重要な訓示を体して、今後総力運動の重要な部門として国語普及運動を展開することを決定し、6日に開催された第44回総力連盟指導委員会に国語普及運動要綱を付議して決定し、今後、本運動はこの要綱に依って活発な展開を見ることになった。

国語普及運動要綱
ー.趣旨
 本運動は半島民衆をして確固たる皇国臣民たる信念を堅持し、一切の生活に国民意識を顕現せしむる為、悉く国語を解せしめ、かつ日常用語としてこれを常用せしむるにある。

二.運動要目
(一)国語常用に対する精神的指導
1.皇国臣民として国語を話し得る誇りを感得せしむること。
2.日本精神の体得上、国語常用が絶対必要なる所以を理解せしむること。
3.大東亜共栄圏の中核たる皇国臣民として、国語の習得、常用が必須の 資格要件たることを自覚せしむること。
(二)国語を解する者に対する方策
1.官公署の職員は率先して国語常用を励行すること。
2.学生、生徒、児童は必ず常用すること。
3.会社、工場、鉱山等に於ても極力常用を奨励すること。
4.青年団、婦人会、教会その他の集まりに於ても、国語使用に努むること。
5.苟しくも国語を解する者は必ず国語を使用するは勿論、あらゆる機会に国語を解せざる者に対する教導に努むること。
(三)国語を解せざる者に対する方策
1.国民学校付設国語講習所の開設
2.各道講習会の開催
3.国語教本の配布
4.ラジオによる講習
5.雑誌による講習
6.平易なる新聞の発行
7.常会における指導
8.児童生徒による一日ー語運動
9.各所在における国語を解せる者よりの指導
(四)文化方面に対する方策
1.文学、映画、演劇、音楽方面に対して、極力国語使用を勧奨すること。
2.ラジオ第二放送に国語をより多く取入れること。
3.諺文新聞、雑誌に国語欄を設くること。
(五)国語常用者に対する表彰、および優先的処置
1.「国語常用の家」など、国語常用者又は国語普及に功有る者等を表彰すること。
2.公職その他の就職、およびその他の待遇等、各般の処遇に付優先的に考慮すること。
(六)此際官民協力し、全鮮的に本運動展開に付ての明朗且熱意ある機運を醸成するに努むること。
(七)国語普及年次計画を樹立すること。


「毎日新報」1942年5月8日付夕刊2面
百万人全解を目標に/国語普及に総力陣/府内各機関を動員し実践に第1歩
 「国語を用いる皇国臣民化」を目標に今後ー大運動を起こす「国語普及運動要綱」は、6日に開かれた総力連盟委員会において決定を見、今やひとえに各機関、各層の人々が動員され真摯な実践があるのみである。今回決定された国語普及基本要綱に従い、京城府連盟では百万愛国班員の国語総解得を目標に、府内各初等学校、または青年隊別に国語講習会を開き、短期間の解得に総力を傾ける予定だが、この普及方法を具体的に編成するために、府連盟では7日付で各町連盟に通牒を発し、各「愛国班」別に国語解得の有無を調査し、直ちに報告させることにした。そして、国語の奨励策として、官公[署]、会社はもちろんのこと、工場、商店等でも国語を解する従業員に限って採用するよう、各方面に慫慂することになった。


「毎日新報」1942年5月13日付朝刊3面
国語生活化の運動/6万私立初等学校生徒に実践のろし
 国語の解得から「国語常用」へと、その実績を収めるためには、先ず初等学校自体の完全な国語常用化、および学校の緊密な連絡のもとで学童たちの各家庭での国語使用を指導することにあるという指標のもと、京城府学務課当局では初等学校生徒たちの国語生活化運動を起こした。この運動は、まず平素国語常用が比較的徹底できていないと思われる府内の私立初等学校39校、初等学院72校、幼稚園39ヶ所、合計約6万名の学童、園児と教職員を対象に、府学務課において安藤視学官、中村視学、佐藤視学、池田視学、黄山係員その他職員多数で編隊された国語化督励班を、去る12日から順次それぞれの学校と幼稚園に派遣し、学校内外の国語使用状況の視察と、その督励に着手した。何しろ私立初等学校のみでも百余ヶ所で、幼稚園まで合わせると147ヶ所にもなるので、この督励班の活動は今月29日まで毎日続けられる予定だが、今回の目標は次の3大項目に置いている。
1.まず最初に、全校、全幼稚園の国語化体制確立に置き、教職員はもちろんのこと、学童たちの間でも国語を常用するようにし、
2.第二に、いったん学童が家に帰れば国語を使用しないので、学校では各家庭と連絡をとり、学童家庭の国語化を指導し、
3.第三に、従来学校の教授法自体にも改善すべき点が多いので、国語の発音、会話などの教授に遺憾なきよう、その教授方法を検討し改善するようにすること。
 以上の3点を掲げて教職員を督励し、また校内の学童がどの程度に国語を使用しているのかを自分で観察し、その指導方法について指示することとなった。


「毎日新報」1943年5月13日付朝刊3面
中学生を推進隊に/京畿道でも国語奨励具体案決定
 半島2,400万の赤子たちも、今では国家の干城として銃剣を携えて最前線に勇敢に突撃し得る光栄に浴することとなった。そのためには国語を一人残らず解さなければならず、またそれは一般中等学生たちがもっとも活発な推進部隊とならなければならないとして、京畿道学務課ではこれまで道内35,000余名の男女中等学生に国語を常用することを奨励してきたところである。しかし、時局の進展は一層これに拍車を掛けなければならないことに鑑み、同学務課では再び国語奨励方針の具体案を研究して、さらに活発な国語常用を展開するため、11日に開催された補導連盟理事会の席上でも、特に薬師寺視学官はこの点を強調し、補導連盟の協力を求めたところであるが、今回決定された具体的方針は、大体以下の通りである。
 すなわち、現在道内の各中等学校の国語常用成績は大体良好だが、未だに一般私立中等学校では徹底して行い得ていないように思われるので、さらに私立学校に重点を置いて、街中でも家庭でも国語を常用しない学生がいるときは、学校当局と連絡を取って厳重に処罰すると共に、各学校当局では
(イ)毎週日を定めて、校外で常用している状態を調査して督励すること
(口)生徒たちの間で国語励行が実行されている状態を厳重に調査すること
(ハ)校外での国語常用の状態を調査し、それを操行と成績考査において十分に考慮すること
(二)毎日終礼の時には、校外で国語を常用することを宣誓させること
(ホ)各家庭の国語全解状態を調査する一方、父兄母姉会を招集して、家庭全解常用を奨励すること
(へ)休暇中において、部落の人々と家庭に対する指導を守らせること
(卜)国語常用生徒班常会、国語常用修練会を時々開催させ、卑俗な国語の使用を禁止させること
などである。


「毎日新報」1942年5月22日付夕刊2面
“国語常用の家”表彰/一日ー語解得奨励/今日3連盟主催で国語普及座談会
国民総力朝鮮連盟と同京畿道、同京城府など3連盟共催のもと、去る21日京畿道庁会議室において「国語普及座談会」を開催した。
(二)国語を解する官公署職員、学生、生徒、およびその他一般民衆には、いつどこででも絶対に国語を使用させること。
(四)各文化方面においても、国語を徹底して使用することを奨励し、「国語常用の家」を特に調査して表彰し、さらに公職とそれ以外の就職、およびその待遇についても特別に優待することなどを討議した後、同日午後1時半頃閉会した。

「毎日新報」1942年5月23日付朝刊4面中東版
国語常用を督励 黄海道で全面的に運動展開
国民総力黄海連盟では国語普及運動を道内で全般的に実施することになった。ところで、同運動実施の要目は以下の通り。
二.国語を解する者に対する方策
(イ)官公吏の国語常用垂範
▲官公吏は国語常用に関して、一般民衆の教育者たることを自覚せよ 勤務時間中は相互に如何なる場合でも国語を使用することはもちろん、外来者及び電話応対においても必ず国語で話すこと
▲官公吏は家庭において国語生活を営むと共に、その居住地で10人程度の未解者に国語を解得させるように努めること。
▲各庁では「幹部の訓示激励」、「課長、上席者の監視」、「相互の自戒自粛」、「給仕、小使の国語常用の督励」を厳しく行うこと。
▲下級庁に対して各々分担区域を定め、責任を持ってその庁の職員の国語常用状況を査察するとともに、用務の如何を問わず、国語常用を督励復命せしむること。
(口)学生、生徒、児童は校内校外を問わず、必ず常用させる方策を講究すること。
四、連盟機構を通じて強烈に本運動を展開すること
(ア)連盟大会を開催し、国語普及(徴兵制実施も併行)に関して連盟員の一大覚醒を促すよう決議宣誓を行うことによって、気勢を挙揚すること。
(イ)愛国班常会を通じて班内の国語全解を申し合わさせるとともに、出来る限り常会用語を国語とすること。
五.国語常用者に関する表彰、及び優先的処遇。
(イ)「国語常用の家」など国語常用者、または国語普及に功ある者等を表彰すること。
(口)学校入学者選抜、その他一般の志願、請願に関しては、本人の国語能力はもちろん、その家庭での国語常用状況を調査し、有力な詮衡上の資料となすこと
(ハ)公職、その他の就職、及びその待遇等、各般の処遇に対して優先的に考慮すること
(二)官公署に対する一般人の陳情、届出などの用語は国語に限るという観念を持たせるとともに、少なくとも国語で行う場合を優先させること。


「毎日新報」1942年5月24日付朝刊4面中東版
国語常用に官公吏垂範せよ黄海道で管下に発牒
◇実行事項
ー.執務の内外を問わず、お互いに如何なる場合であっても、絶対に国語を使用すること
二.外来者に対する対談、または電話による応答も必ず国語で行うこと。ただし、相手が国語不解者の時は、相手の面前で課長、あるいは次席者の了解を得たのち、朝鮮語を使用することを得る。
三.給仕、小使等の使用人も職員の場合と同じ。
四.家庭では速やかに国語生活を実行するように努力すると共に、その居住地で10人程度の未解者に国語を解得させるよう努めること。
◇実行方法
一.各庁、各課では早速、所属職員、傭人を集め、幹部として訓示、激励を行うと共に、国語常用の実行並びにその方法について、申合せを行うこと。
二.課長、次席者および係主任は監察を厳しく行うとともに、不注意によって朝鮮語を使用した者に対しては、その度にすぐ注意を与えること。
三.各庁、各課に1人或いは2人程度の監視責任者を定め、朝鮮語使用の常習者に対しては注意を与えさせるようにし、一定期間内にこれを改めないときは、適宜措置を講ずること。


「毎日新報」1942年5月25日付朝刊4面
国語生活実践強化/平南道で各種運動を展開
 神前に国語全解運動完遂を宣誓し、指導機関を総動員して、強力果敢な国語生活を実践し強化するための全面的運動を展開する平南道の具体的実施案は、22日各府郡連盟理事長に通牒を発したが、国語常用方策をまず最初に実践しているのは、官公署職員が率先して実行しているものだが、内容は官公署職員は職場の内外を問わず、いかなる状況と環境にあっても国語を常用することとなっている。
 外来者で国語を使用しない者には国語を使用するように注意を促し、電話で話すときも、やはり国語を使用することとなった。また、学校、職場、団体での使用については、生徒、児童たちは学校の内外を問わず国語を常用し、会社と工場、鉱山などの場所では官公署に準じて実行させ、また一般に対しては愛国班の討議事項として実践させ、国体に関連する用語と愛国班等の固有名詞、地名は国語を使用し、氏名は必ず創氏改名によって正確な国語を使用させ、時々簡単な国語講習会を開催し、あるいは中等学校生徒の夏休み、冬休みを利用して郷土の部落で講習会を開催するにおいて、極めて組織的な運動を起し、遅くとも3年以内に満7歳以上45歳以下の全員に国語を普及するように町・里連盟ごとに年次計画を樹立し、一路国語全解運動完遂に雄雄しい運動を展開することになった。


「毎日新報」1942年6月19日付朝刊4面中東版
国語全解総力戦/実惜調査し指導法刷新
【江原支社発】国語全解運動で総力戦を展開している江原道では、皇国臣民として国語全解をなし得ないことは何よりも恥ずかしいことであるとして、最近道内各郡の実情を調査し注意を喚起したところだが、これまでは一定の日時と場所を指定したところでだけ指導を行ってきた感があったが、今後はそのようなことを一掃し、2人以上が集まった時は、職場はもちろん、どこでもお互い指導をし合うようにさせるということで、すなわち農閑期に農村で仕事の合間の短い休憩時間を利用して1語ずつ教えるとか、または互いに知らないことを進んで尋ねて学ぶようにして、この国語全解運動に遺憾なきを期すとのことである。

「毎日新報」1942年6月22日付朝刊4面
湧き上がる国語熱ー知っていて使わない者は非国民/各地で走馬に鞭打つ普及運動
【慶南支社発】釜山府の国語普及運動はすでに累次報道したように、国民総力運動指導委員会で決定された実施要綱を既に実践に移しているが、更にこの度は左記のような具体的方法を22日府内の各町・洞・里連盟と各種連盟に通牒を発し、その実績挙揚に全力を尽くすこととなった。
二.国語を解する者に対して常用させる方策
イ.官公署、学校、会社、工場、その他の団体では、所属職員、生徒、児童、従業員などに対して国語常用を徹底的に実践させると共に、これを各員を通じてその家族に対して、国語を常用及び習得させるよう慫慂すること。
ロ.各町・洞・里連盟理事長は左記事項を実施すること。
(1)各愛国班常会でしつかりとした協議を行い、その実践を督励すること。
(2)大詔奉戴日その他合同参拝をするたびに、国語を常用するということを神前に誓わせること。
(3)愛国班員はたとえよく話せないことばであっても、自分が知っている国語は必ず常用するようにすること。
(4)国語を解得しながらもこれを常用しない者に対しては、その勤務先、または所属団体と連絡を取ってその必行を期させること。更に必要な場合にはその住所、氏名、勤務先、所属団体名などを府連盟に通報すること


「毎日新報」1942年6月29日付朝刊3面
国語常用はこのように/学園ではいかに指導するのか/興味ある奨励方法
・・・京畿道でも去る4月11日以来、何度かにわたって道内各中等学校会議を開き、それを研究して実行に移す一方、さらに全道の各学校に一斉に通牒を発し、国語常用を徹底して指導させるために、現在学校ごとに実行している具体的方策を報告させたところ、それが先日道学務課に全部届いた。それによれば
(イ)週当日記に「国語常用の状況欄」を作ること。
(口)生徒の中で国語常用補導委員会を設置すること。
(ハ)国語常用の誓約書を学校長に提出すること。
(二)1ヶ月に1度ずつ、または1学期に1度ずつ国語研修会を開催すること。
(ホ)国語常用の成績が優良な生徒、及び学校には国語賞牌を授与すること。
(へ)お客にも国語で接対すること。
(卜)月末に各学校ごとに国語常用成績を掲示し、生徒たちに反省させること。
(チ)学校生徒の通学区域に国語常用ポスターを貼ること。
(リ)家庭における国語普及の程度を一斉に調査すること。
(ヌ)父兄に対しても国語常用を指導督励するよう、依頼すること。
(ル)学級主任より生徒の国語常用状況採点表を校長に提出し、進級の有力な材料とすること
(ヲ)就職斡旋に国語能力の優秀な者に優先順位を与えること
(ワ)学校内で国語常用を奨励するラジオ放送を行うこと。
(力)国語常用強調週間を時々実施すること。
(ヨ)終礼を行う時や、学級懇談会の時に国語常用を誓約させること。


「毎日新報」1942年6月30日付夕刊2面
各種会合では勿論、祝文も国語で朗読/150万儒林国語普及運動
平安南道儒道連合会の国語普及運動と徴兵制の趣旨宣伝運動の内容を紹介すれば、以下の通りである。
1.国語普及運動
(4)さまざまな会合時の国語使用=釈奠祭、朔望祭などの祭典の時に笏記、祝文には国語を使用することにする。しかし、やむを得ず使用できない(解得者が少ない関係で)場合は、昭和18年3月までに限って、従前通りとする。そして、掌議会、儒林大会などの会合ではできるだけ国語を用いる。


「毎日新報」1942年7月10日付朝刊4面中東版
“真の皇国臣民は先ず国語常用から”/京畿道の国語普及運動施策要綱決定
「真の皇国臣民は国語常用から」。京畿道では道内300万道民全員に国語を使用させ、皇民として恥ずかしくないようにしようと、以前からさまざまな運動を展開してきたところであり、現在も農繁期であるにもかかわらず、夜間には老若男女が村落連盟を中心に講習会で解得に邁進している。道国民総力課では、これまでこの運動の普及運動施策を講究中であったが、このほど成案を得た。その要綱は次の通りである。
▼国語常用の雰囲気醸成
(1)官庁内では特に国語常用に努め、少なくとも朝鮮語を使用するようなことがないよう注意すること。そして会社、銀行、工場、大商店などにおいてもこれに準じること。漸次、この目標に到達するよう最大の努力を払うこと。
(2)官公署その他における採用、またはあらゆる機会における人物考試においては、国語生活の状況を十分に考慮すること
(3)各種会合における用語は、必ず国語に依ること
(4)学生、生徒および児童の国語生活を徹底させること。
(5)国語の新聞記事愛読を奨励すること。
(6)官庁、会社、工場、銀行、商店等の団体では、その職域における徹底方策について研究、懇談を行うこと。
(7)店頭取引きを国語化するよう努力すること。
(8)広告、看板類の表示は国語で行うこと
(9)国語使用に対する批判的、揶揄的、妨害的態度を取るようなことがないよう、十分に施策を講じること。
(10)講演、座談会、紙芝居などで国語普及の趣旨を強調すること。
(11)標語の普及ビラ・ポスター等の印刷物を配布して、一般民衆に対して国語常用に対する認識をより深めさせること。
▼国語を解する者に対する方策
(1)官公署職員は左記[ママ。原文は縦書]に依り、率先して国語生活を行うこと。
1.職場の内外、公私を問わず国語を常用すること。
2.出張する際は、用務の如何を問わず国語普及状況を調査、指導すること。
3.常用を怠る者に対しては厳重に戒めて自省を促し、情状を斟酌して上司に告げること。
4.家庭を速やかに『国語常用の家』と化すこと。
5.打ち合わせ、その他の会合を持つ時は、発表会、輪読会等を行って国語に習熟させるよう考慮すること。
6.配布印刷物の利用を徹底させること。
(2)新聞、雑誌(国語版)の講読、輪読を奨励すること。
(3)解得者はいつも積極的に未解者の教導に努めること。
▼国語を解さない者に対する方策
(1)愛国班の協定により、必ず国語講習会に出席させること。
(2)創氏による氏名は、必ず国語読みすること。[「京城日報」1942年7月10日付4面京城版掲載記事によれば、「創氏と旧氏名の国語読み」と記されている一訳注]
(3)1日1語の習得に努力させること。
(4)一旦習得した国語は、常時これを使用するように努めさせること。
(5)汽車、電車、自動車の行き先、自分が居住する町の名、班名などは国語読みすること
(6)就学前の児童は簡易児童保育所のような施設を設け、これによって国語を習得させること。
(7)ラジオ国語講座の利用に努めること。
(8)国語講習会の開設は、左記の基準に依ること。
1.国民学校付設の国語講習所の開設。
2.青年隊国語講習会の開設。(以上、別途学務系統通牒に依り実施すること)
3.儒林国語講習会の開設。(別途社会課系統からの通牒に依って実施すること)


毎日新報」1942年7月12日付朝刊4面京城版
妓生、女給営業許可に国語解得が条件/鐘路署で普及策として実施
 国語常用は日常、客に最も多く接し、会話を多く交わす機会を持つ妓生、女給から率先せよという趣旨から、鐘路署保安係では管内の各カフェー、バーにいる女給と各券番の妓生たちに対して、いつも国語を使うよう注意を発した。
 実際のところ、遊興場では国語を用いる人が少なく、また用いるといっても簡単なことばを話すに過ぎず、さらに客は国語を用いても主人方の女給たちが国語を用いることが徹底していない。このため、一般の国語常用運動を展開する上で遊興街の協力が少ないほうなので、今後はバー、カフェーでは常に国語を用い、客も主人も誰もが国語を用いなければならなくなった。ところで、このような接客業に従事する女給と妓生の中にも未だ国語が分からない女がいるということがわかったが、このように広範に種の客を迎えている女給、妓生たちが国語を知らないということは、一つの奇異な現象であるだけでなく、実際上接客業に従事する資格がないものと見なし、今後は国語を知らなければ女給あるいは妓生になろうとする女には、営業許可を与えない方針を定めた。


「毎日新報」1942年7月16日付朝刊4面
国語全解戦線
【甕津】甕津郡総力連盟では徴兵制実施を控え、1日も早く国語を普及させる必要性を感じて、去る10日役員会席上で討議した結果、毎月10日を国語常用の日と定め、各官公署は勿論、交通機関とも連絡を取って切符売り場では絶対に国語を使用させることになった。一般の乗客が事前に注意すべきことは、『汽車』や『自動車』に乗るときには朝鮮語で『チャッピョ ハンジャン サプシダ』ということばを、『キップイチマイクダサイ』と言わなければ、切符を買うことが難しくなるだろう。


「毎日新報」1942年8月6日付朝刊4面中東版
国語常用総力戦/徴兵適齢青年に重点を置いて講習会開催
【江原支社発】江原道では国語全解運動に関して具体的計画を樹立しているところだが、ついに成案を得ることとなり、次の計画によって国語常用を奨励普及することになった。
二.国語解得者に対する方策
1.官公署、団体職員たちはもちろん、学生、生徒、児童は場所の如何を問わず、必ず国語を使用するよう実践する。
2.会社、工場、鉱山など多数の人が勤務するところと、青年団、婦人会、教会その他の集まりにおいては、極力国語を常用させる。
3.国語を解する者は必ず国語を使用することはもちろん、あらゆる機会に未解者に対して教導に努める。
4.官公吏、会社員など指導的地位にある者で、国語の常用を励行しない者に対しては、処遇上相当な考慮をなす。
三.一般的方策
講演会、座談会、宣伝塔の設置
宣伝ビラ配布などによって普及し、各愛国班では日常用語30語以上を毎月定例常会で提示して、1日1語主義で解得させる。また、家庭国語会話会の開催、各宗教団体、商工業者、料理店、飲食店、娯楽場でも国語常用を励行し、国語普及及び優良部落競進会の開催と、国語常用家庭の表彰などによって全面的に普及する。


「毎日新報」1942年8月22日付夕刊2面
先決条件が国語常用/中等、国民学校入学考査に新たな基準
 学生、生徒たちを国語普及運動の推進隊として、京畿道学務課では学校当局と協力して、早くから国語常用の徹底、1日1語普及の強化などを実施して目覚ましい成果を上げている。再び学園の国語普及運動を一般家庭と緊密な協力の下に一層活発に展開させるためには、まず学校に入学する前から常に国語を常用する熱意と習慣を育てる必要性を痛感し、これから新たに入学する生徒児童たちは、家庭で国語を常用している態度とその熱意を重要参考資料として、入学を銓衡する方針を立てた。これは実に国語普及運動のためのみならず、半島教育史上においても特記すべき画期的な対策であり、来春の新学期からは断然この新たな方針に従って一般男女中等学校と国民学校の入学生を考査することになった。その具体的内容は次の通りである。
▼一般男女中等学校
(イ)口頭試問でことばの思想と性行を考査する時は、国語生活を実践しているか、または上手に会話ができるかを考査し、皇国臣民たる思念に透徹しているか否かを判断した後に、入学の資料とする。
(ロ)選抜試験においても、常に試験者の言動、態度から国語常用の状態と国語発表力の如何を十分に観察して、入学の資料とする。
(ハ)国民学校長の家庭調査書(内申書)には、家庭環境欄または備考欄に児童の家庭における国語常用の実際の状態と国語普及への熱意の有無を記入させ、これを参考資料とする
▼国民学校入学生国民学校入学においても直接受験児童を通して、またはその他の調査資料によって、家庭における国語全解の状態と国語常用への「熱意」を重要参考資料とする


「毎日新報」1942年8月26日朝刊4面京城版
進級と就職にも国語常用を参考/京畿道の挙校一致常用徹底方針
 京畿道では今春、道内の男女中初等学校の職員、生徒、児童に挙校一致の体制を確立させ、国語常用に力強く邁進して銃後半島民衆の皇民化運動に一大拍車を掛けることになった。それぞれの学校でも、当局の方針に従って多彩な国語常用徹底方策を実施しているが、その主要なものは次の通り。
一.各科の採点に国語常用を考慮する。
一.進級する際も、有力な参考資料とする。
一.生徒を通じて、1日1語ずつ普及させる。
一.国語使用誓約書を保護者から提出させる。
一.1月に1度、もしくは学期中に国語練習会を開催する。
一.国語賞牌を授与する。
一.就職の推薦は国語能力の優れた者を先にする。


「毎日新報」1942年9月3日付夕刊2面
国語常用模範家庭/京畿道で900戸を表彰することに
 国語で書き、国語で話して、皇国臣民たる決意を昂揚させ、大東亜建設の指導者としての責任を完遂しようと、半島三千里の津々浦々では国語常用運動が力強く展開されている今日、国民総力京畿道連盟では道内一斉に栄誉の「国語常用模範家庭」を表彰することに決定し、今春から各府・郡・邑・面・部落連盟と各種連盟関係者を総動員して、慎重にその調査に着手中であったが、このほど全体の統計が集計された。それによれば、去る7月末現在で総計902戸、総人員4,670名、そのうち男子は2,331名、女子は2,291名と判明した。これは道内278万余名の半島人に対して僅か0.16パーセントに過ぎない。その内訳を各地域別で見ると、最も多い所が仁川の295戸、京城の190戸、楊州の113戸の順で、最も少ない所は江華の1戸、長満の3戸、利川の4戸の順となっている。さらに職業別に見ると、1番は官公吏、その次は商業、会社員の順となっているが、予想したより国語を常用している家庭が少ないのは、主に老人や婦人たちの国語解得者が少ないことが、最も大きな原因であると当局では説明している。道連盟では、今回調査した模範家庭は近々具体的な方法で一斉に表彰するとともに、今後は更に国語普及徹底して行い、一軒残らず全て国語常用の模範家庭となって、完全な皇国臣民にならせる予定である。


「毎日新報」1942年9月13日付朝刊4面中東版
国語全解総力戦/金化では本報国語毎新を教本に
【南川】南川では国語奨励から一歩進んで国語常用を提唱しているが、南川署では皇国臣民として国語常用が絶対的な必須条件だとし、事件の有無を問わず、当署に出入りする者で国語を解し得ない者は必ず能解者、即ち通訳を伴って出入りするよう一般民衆に周知させるとともに、積極的な国語普及に万全を期している。

熊谷明泰「植民地下朝鮮における徴兵制度実施計画と『国語全解・国語常用』政策(上)」
https://kansai-u.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=3022&item_no=1&page_id=13&block_id=21

植民地下朝鮮における徴兵制度実施計画と「国語全解・国語常用」政策(下)
https://kansai-u.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=3026&item_no=1&page_id=13&block_id=21

中国共産党は日本と戦っていない、というウソ(2)


中国共産党は日本と戦っていない、というウソ
http://blog.livedoor.jp/ekesete1/archives/46438776.html
の続き


十一月十三日からは陳凸鎭に一個小隊が八路軍の討伐に服務した。ここで初めて実戦に出遭った。敵は小高い木立ちの間からパンパンと攻めるので応戦した。ピュンピュンと頭や顔の間を弾丸が飛んで全く生きた心地はなく、戦争の恐ろしさ、人間の殺し合いの恐ろしさを味わった。
 無我夢中で前進するうち、いつしか我が軍は山の頂きに上り、敵は反対に下から撃ってきた。狙い撃っても当たらないのに、運悪く戦友の一人が腹部に貫通銃創を受け手当てもできず即死。戸板に乗せて原隊に運び、直ちにその夜火葬。(77頁)奥野
https://www.heiwakinen.go.jp/wp-content/uploads/archive/library/roukunote/onketsu/01/O_01_076_1.pdf

十一月七日から十一月十九日まで予東道南部掃討作戦に参加。我が軍有利に展開し八路軍を撃破して開封の連隊本部に戻る。

 昭和十八年一月大隊本部(大毛塞)勤務、某日一個分隊で糧抹輸送を命ぜられ軽機一、擲弾筒一、一二人で行動中寒さのため輸送自動車が停止した。にわかに薮の彼方より敵の声が聞こえ、およそ道程八〇〇㍍の地点を多数の八路軍が進軍してきた。直ちに下車、準備、対戦に備える。そのうち、自動車快調となり乗車するが初年兵二人乗り遅れそのまま走る。安否を心配して任務を終えて帰ったが、二人とも銃剣を奪われ無残な屍となって残っており合掌する。

 二月早川隊分遣隊、東漳鎮警備。三月、三劉砦警備、五月大黄河渡河、第一線中牟県後毛庄警備、敵地区の砦と分遣隊の距離約六〇〇㍍、八路軍の歩哨交替が肉眼でよく分かり、夜間匍匐にて手榴弾がよく飛ぶ。電線工事中、古年兵が狙撃され名誉の戦死をされる。(64・65頁)萱野https://www.heiwakinen.go.jp/wp-content/uploads/archive/library/roukunote/onketsu/01/O_01_063_1.pdf

 我々の毎日の勤務は、粛正討伐である。日本側につく北支住民の情報により部落に八路軍進入の報告を受け、便衣隊の服装に替えて敵の少ない時は小銃、または私は拳銃を持って夜間攻撃に出動する。(46・47頁)北口
https://www.heiwakinen.go.jp/wp-content/uploads/archive/library/roukunote/onketsu/01/O_01_046_1.pdf

自分たちはそこを無事通過して娘子関に到着。鯉登りの滝が何も知らずに美しい流れを彩っています。そこは八路軍が山岳上に常駐していて獲物を狙っている場所です。汽車が速度をゆるめねば車両の側面がえぐり傷つく狭さです。(26・27頁)柿島https://www.heiwakinen.go.jp/wp-content/uploads/archive/library/roukunote/onketsu/01/O_01_025_1.pdf

治安は悪く住民の大部分は逃亡し、ゲリラがどこから出てくるかわからない。特にこの地域は、共産軍が勢力を盛り返し、盛んに住民工作をやっているので、夜間の宿営の間は警戒を厳にする必要があった。(200・201頁)西村
https://www.heiwakinen.go.jp/wp-content/uploads/archive/library/roukunote/onketsu/01/O_01_200_1.pdf

准陰付近は八路軍の拠点で治安悪し。(170頁)杉江
https://www.heiwakinen.go.jp/wp-content/uploads/archive/library/roukunote/onketsu/02/O_02_170_1.pdf

十月にはいると秋期山西粛正作戦に参加。これが最初の作戦参加で、八路軍との戦いで、一日十数里の昼夜なき行軍がつづいた。
・・・最前線で日中は銃剣術の猛練習、夜になると八路軍の襲撃をたびたび受けたが、われさきに走って敵を追い、捕虜としてつかまえることたびたびに及んだ。(132頁)大下
https://www.heiwakinen.go.jp/wp-content/uploads/archive/library/roukunote/onketsu/02/O_02_132_1.pdf

猛訓練中、歩哨中の同年兵土井二等兵はわずか入隊一か月目に八路兵にうたれ戦死しました。(122頁)河原
https://www.heiwakinen.go.jp/wp-content/uploads/archive/library/roukunote/onketsu/02/O_02_121_1.pdf

・・・奉天の通信学校で無線教育を受け、十一月中頃卒業したのです。それから熱河省の承徳へ行き、山の中へ入り、万里長城の南満側で、八路軍(共産軍)と戦闘を繰り返していました。(324頁)菅野
https://www.heiwakinen.go.jp/shiryokan/heiwa/03onketsu/O_03_324_1.pdf

戦闘帽の下士官が満州から初年兵受領に来ていた。行先は熱河省承徳の第九独立守備隊の歩兵第十三大隊で、関東軍で唯一の実戦部隊で八路軍相手だと教えられ武者震いした。(168頁)
 うちの中隊長は戦争上手で、八路から懸賞金付きで狙われたが、朱鞘の軍刀を杖に急な山路を大股でサッサッと登っていく頼母しい大尉だ。班長は若い軍曹で温和だったから兵長等を押え切れなかったと思う。
 村の周辺には八路軍の工作員が出没するから油断をすると拉致される。ある時古年兵が行方不明になった。部落へ遊びに出たらしい。早速狩り出されて探したがついに判らなかった。後日、部落民の話によると夜間八路兵に戸板に乗せられていったそうである。
・・・扁平足を恨んだ時、既に遅しである。八路軍相手の独歩だから山登りの練習はきつかった。八路は両足に砂袋をくくりつけて山登りの練習をやっているそうだから速い。こちらの古年兵も負けずに速い。独歩が攻めると八路は長城越えて北支軍の方へ逃げる。北支軍は山地に不馴れなので八路に叩かれることが多かった。(170・171頁)

一期検閲は雨のそば降る長城線近くで行われた。満州側の長城付近では八路軍の工作員対策として住民の居住を許さず、無住地帯とし住民は集団部落に強制移住させられていた。
・・・内地から来た時通った盤道岑の険しい峠を登り始めた。八路軍の待伏せが時々ある難所である。(172頁)椎原
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明け方前線へ向かって出発、先発の本隊、自分たちの小隊も路安城へと行動す。戦闘部隊一三五連隊、一〇九連隊と合流、敵兵八路軍を撃退する。(82頁)

一二三号車の加志摩上等兵と自分は中島第一分隊に派遣になり、浦州城内に直行、自分達の任務はコオガハ方面に退去している支那兵八路軍の閉め出し任務に就く。数時間後、山の中腹にて待機すること数分、午後七時頃前方を敵兵がコオガハ方面に向かって退去しているのを発見、銃撃をしながら中隊本部の宮下上等兵、中島上等兵が前より井畑上等兵が崖より後に続くようにと言われ、全員で突撃、敵兵側の迫撃砲の破片で重傷、衛生兵が担架を持ってくる。まるで丸太で叩かれたような痛さを感じた。自分は野戦病院に送られ入院する。
 ○日あの戦闘で宮下上等兵、森島一等兵戦死と聞く。(84頁)

・・・線路に地雷が伏せてあり爆発、貨車が転覆、右側に傾きドアーが開き、振り落される。敵兵だと思い貨車に飛び乗り日本刀を持ち出す、片岡分隊長初め三十五名、銃もなく短剣だけでどうすることも出来ず、隠れる事数分、貨車に火が回り昼のように明るく動くことも出来ず。
 八路軍の敵兵はチャラメラを鳴らして進撃して来る。その内、砲撃の音が警備隊に聞こえたのか鉄道隊の装甲車が山の方角を砲撃してくれたので八路軍はチャラメラを吹いて退去する。片岡分隊長始め○名がシユフン駅まで走る。駅にて点呼、二名いない、森一等兵と山本二等兵である。明け方警備隊と共に捜査、森一等兵が戦死、戦死者を貨車に乗せユージ駅へホームに山本二等兵が笑って立っている、一同驚く。(84・85頁)若杉
https://www.heiwakinen.go.jp/shiryokan/heiwa/03onketsu/O_03_078_1.pdf

済南周辺も都市部を除き、八路軍の進攻が激しくなり、前線部隊の分遺隊が襲撃されて全滅したり、撤収を余儀なくされたり、治安は次第に悪化していたので集荷は困難を極めた。(75・76頁)

 昭和十九年の春、山東省の八路軍の掃討作戦が実施され、旅団長を長とする部隊が編成された。・・・
 部隊本部が夜露営中、八路軍の包囲攻撃を受けた。ちょうど、すり鉢の底のような地に露営を張っていたため、四方の山より激しい銃撃にあった。・・・幸いに近隣にいた部隊が救援にきてくれたので全滅はまぬがれたが、旅団長以下十数名の戦死、日本馬四、五頭の死廃、輜重隊馬四十頭余の四散逃亡により、戦闘続行が不可能になり、中止して駐屯地に引揚げる結果となった。(76頁)黒崎
https://www.heiwakinen.go.jp/shiryokan/heiwa/03onketsu/O_03_075_1.pdf

沁源に大隊本部があり、大隊長は赤星中佐だった。昭和十八年の正月までそこにいて砲監視をやった。何しろ八路軍の真只中だったので、抗日や厭戦ビラがどんどん撒かれた。(278頁)湯上
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 当時、單県周辺には約四万の八路軍がおり、ゲリラ戦術を以って次々と分屯隊を陥落した。
 第二大隊の兵力は八〇〇名近いが、宇賀神中隊一〇〇余名が配属された。装備も第一線級から第二戦級に低下したので、四万の敵に対する兵力差は大きく、敵の宣伝も派手であった。(269・270頁)

 新家楼二キロの地点には有力な八路軍が進撃し、我が芳桂集の危機は一段と高まり、敵はその余力を以って県域を攻略せんと大々的に発表していた。(270頁)

 八路軍第九団、第十団の精鋭部隊は昨日新家楼(七路軍)の友軍を包囲、目下激戦中で、その数三千有余名。敵は必勝を期して新家楼を陥落させ、以後芳桂集、單県城を攻略せんとしている。(271頁)

 総てを観念し戦友の安否を案じながら漸く北門についた。城壁の上から北方を監視すると敵八路軍の行動が手に取るようにはっきり見える。約一キロの地点には数千の騎馬隊が活動しているようだ。近接する兵力もなだれのごとく寄せてくる、城門を一〇〇メートルほど出たが戦況を考え引き返す。
 六千余名の九、十団正規軍は魚釣り戦法であった。・・・八〇〇名の中国保安隊も隊を乱してゼロとなり、ますます八路軍の独壇場となる。
・・・数千人の八路軍と入り乱れて数時間の決闘で十数名が名誉の戦死をとげられた。
 嗚呼、忠勇なる宇賀神中尉以下二二名の将兵を失い、心から冥福を祈り中隊員一同哀悼の念で一杯であった。(272・274頁)竹原
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新兵でないと見せかけるため偽装の階級章を付けていたが、途中共産八路軍に襲撃も受けた。(384頁)

 その当時の思い出は、絶えず八路軍のチャルメラのようなラッパを聞いたり、同年兵で手や足を引っ張られたりし危うく拉致されそうになった者もいた。(384頁)

 北支の閻錫山軍や共産党八路軍の討伐行で挟み射ちになったこともあり、(385頁)

 八路軍にやられて一個中隊が全滅したこともあった。その時、私たちは援軍に行ったが、擲弾筒を抱えたまま殺されている兵隊もいた。。馬は凹地の一箇所に入り、やられていた。中隊長の泉館中尉は戦死していて、兵器は殆ど略奪され持っていかれた。(385頁)藤尾
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最初の陣地は五條鎮という所でした、分哨勤務や討伐が任務でしたが、主な敵は共産八路軍、夜襲して来たのを撃退したり、逆にこちらが討伐作戦に出たりしました。八路軍はこちらの兵力が少なく弱いと攻めて来る。我が軍が強いと逃げるという戦法でした。(298頁)

 その時兵隊がやられた。隊長は山頂占領のため「第三小隊軽機射て」と命ぜられ、私が射撃の号令をかけたら、八路軍は軽機関銃発射の光を目当てて射って来た。初年兵の千葉射手が「やられた、天皇陛下万歳」と叫んだら中隊長は「馬鹿野郎、天皇陛下万歳ととなえて死んだ奴はいない、大丈夫だ」と大声で励ました。
 八路軍は射撃だけでなく、手榴弾(柄付きの)を投げて来た。・・・
 次の山にも八路軍は陣地構築をしていたが、この山を占領したので我々の任務は完了したわけであります。占領しても、占領しても敵は次の陣地を構築してあるので、共産八路軍との戦闘は止まることのない戦闘でありました。(299・300頁)

対手は蒋介石軍は少なく、ほとんどが毛沢東の共産八路軍でした。八路軍は手強く、また戦闘馴れして上手だった。(300頁)伊藤
https://www.heiwakinen.go.jp/wp-content/uploads/archive/library/roukunote/onketsu/05/O_05_298_1.pdf

当時北支方面の敵はすべて八路軍でした。(291頁)清水
https://www.heiwakinen.go.jp/wp-content/uploads/archive/library/roukunote/onketsu/05/O_05_289_1.pdf

熱河省・西〔ママ〕南付近での共産第八路軍討伐作戦は、最強の敵部隊であったためにわが軍も苦戦の連続でした。戦闘概略を書きますと左記のようです。(82頁)岩城
https://www.heiwakinen.go.jp/wp-content/uploads/archive/library/roukunote/onketsu/05/O_05_078_1.pdf

 ある日、共産軍の襲撃を受け、初めてチェコ機銃の軽快な発射音を聞き、緊張と同時に激しい撃ち合いに無我夢中でした。古年兵の指図に従い、二階の銃座に弾薬を上げたり、射撃をしました。分哨長の兵長は、トーチカの背後に迫る敵に手榴弾を投げました。夜明けまでこの撃ち合いは続きました。救援にきた中隊が、二手に分かれて攻撃、敵は遺棄死体五を残して退却、ほっとしました。(349頁)渡邊
https://www.heiwakinen.go.jp/wp-content/uploads/archive/library/roukunote/onketsu/06/O_06_348_1.pdf

 後に話す「オ号作戦」で本隊が出動中、留守隊の小範鋲では朝の点呼時に敵襲があり(八路軍は我が軍の小兵力の所を突いてくる)、一個分隊が全滅し、二人は西安まで連行されたが帰隊し、軍法会議にかけられたという気の毒な事件もあり、治安の悪い地域でした。その時の中隊長は負傷入院中でしたが進級は遅れ、中隊長代理は他へ転属させられました。この戦闘は十月十七日、早朝で一個分隊が約千名という敵から包囲攻撃を受けたもので、奥田分隊長は百倍の敵と戦って玉砕したのですが、二人が一時捕虜になったということで、責任問題が出たわけでしょう。(287頁)

 北支軍の対戦相手は、共産軍八路軍)が多く、こちらが強いと見ると逃げる。弱いとか兵力が少ないと攻めて来る。地域住民を手馴づけたり、脅迫したりして情報を取ったりしていました。我が軍の隊が地雷にかかると、撃ってくる。どこかで監視しているのです。正規の服装の者も、便衣で住民に混じっている者もいる。日本軍にとってはどこを向いても敵であることが多かったのです。(289頁)宮崎
https://www.heiwakinen.go.jp/wp-content/uploads/archive/library/roukunote/onketsu/06/O_06_286_1.pdf

十一月十二日、清涼店では八路共産軍の急襲に遭遇しての戦闘でした。夜、撤退する時は、進む時よりいやでした。(282・283頁)上山
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小部落に一個分隊で治安警備に就きました。いつ蒋介石軍、共産八路軍が襲撃してくるか不明です。敵は地の利を得ている。その上、部落民が内通しているから断大敵でした。(309頁)増渕
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 教育が終了し、直ちに第一線に配置された。北支には蒋介石軍の閻錫山軍と中共の八路軍がいる治安の悪い所です。閻錫山軍は太原作戦で我が第五師団にやられ逃げて日本軍の西側に、東側には八路軍が幡踞し、我が方の治安を乱していました。
 部隊からは警備のため、主要鉄道線や道路沿いに分遣隊が配置されて、我々は太原―蒲州間の南同蒲線を守備していました。鉄道線の西側は全部敵です。先ほど申し上げたように西方は閻錫山の山西軍、東側は共産八路軍です。しかも、敵である蒋介石軍と共産軍が利害を異にしながらも国共合同で日本軍をねらっているから、油断も隙もないのです。
 占領地は面ではない。点と点であり、その間を結ぶのが鉄路であり道路です。従って日本軍の拠点は大きい城のある都市、治安の悪い所には一個小隊、他は分隊単位の分遣隊が配置されています。山西省平遙、霍県などが我が大隊の警備地域でした。小さい敵襲は度々ありましたが、私が行く前、大鉄橋の分哨が八路軍に襲撃され全滅しました。八路軍はこちらが弱いと攻撃し、強いと逃げるという常套の戦法です。(291頁)福田
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 部隊は教育隊を残して編成替えをやり、八路軍の巣窟である安東衛の敵陣へ進軍して行ったのであるが、数日後、部隊は数多くの戦死者を出して引き揚げてきた。
 第一中隊、第三中隊が第一線であり、山岳戦のため特に犠牲が多く、准尉以下多数、下士官と兵など中隊の中枢を失った第一中隊長の遺体にすがり号泣をしていた。誠に痛ましい姿であった。これが運命というものであろうか。私と交代して元気で出陣して行った第一小隊の分隊長も腹部貫通銃創で戦死。山東省安東衛の露と消えた。これが我ら青春時代における紙一重の運命であった。
 教育隊は教育どころではない。皆川班長自ら屍衛兵司令となり、こんなに大勢の戦友の塚穴を掘ろうとは。懇ろに亡き戦友を茶毘に付し、部隊長の広瀬観学大尉も、分隊長の毛利天正もお坊さんであり、常に袈裟を携行していた。二人の読経の流れる中に、しめやかに懇ろに弔いを終わり、骨を拾い合ったのである。
 その後、作戦の本分に戻り、第三中隊は保安山の山の中の陣地構築を、八路軍の敵襲を受けながらの悪戦苦闘の連続が始まったのである。我ら北支軍は八路軍に散々悩まされながら、本国の情報など知るよしもなく負けるなどとはゆめゆめ思わず、常に士気は高揚していた。(96頁)皆川
https://www.heiwakinen.go.jp/wp-content/uploads/archive/library/roukunote/onketsu/08/O_08_095_1.pdf

澳頭港地区は共産新四軍の支配下の真っ只中にありました。(337頁)浅江

https://www.heiwakinen.go.jp/wp-content/uploads/archive/library/roukunote/onketsu/09/O_09_332_1.pdf

左前方五〇〇メートル、青い軍服の八路兵五十が散開して走りながら山の斜面を駆け降りてくる。山上よりの敵の援護射撃は一段と激しさを増してきた。三五〇メートル、三〇〇メートル、二五〇メートルと近づいてくる。(267・268頁)山田
https://www.heiwakinen.go.jp/wp-content/uploads/archive/library/roukunote/onketsu/09/O_09_263_1.pdf

 六月に一選抜で進級し、四月北京を出発して石家荘空京漢線の警備につきました。引き続いて河南省武安にて初めて強力な八路軍の正規部隊と遭遇しました。自分は擲弾筒手でしたが、頭を上げて敵陣を見ることができず、ただ一生懸命に敵陣方向に弾丸を発射していました。夜になっても敵弾は飛んで来ました。暗夜には鉄砲での被害は少ないものでした。敵は地理に詳しいために友軍は大変苦戦しました。この戦闘が自分の初陣でした。(253頁)大塚
https://www.heiwakinen.go.jp/wp-content/uploads/archive/library/roukunote/onketsu/09/O_09_252_1.pdf

 常徳作戦は常徳を占領後、これを確保、維持するだけの兵力がないので、占領と同時に反転に移ったわけだが、この反転に新四軍が追尾して攻撃を繰り返すので、多大の犠牲を払っての反転となった。(333頁)飯塚
https://www.heiwakinen.go.jp/wp-content/uploads/archive/library/roukunote/onketsu/02/O_02_332_1.pdf

 

太平洋戦争 日本陸軍は初日にタイを攻撃


概要
12月8日、陸軍は、英国軍の激しい抵抗の中、英領マレー半島コタバルに上陸。やや遅れて同半島シンゴラ(タイ領)にも上陸し英領内へ進軍を開始。
https://www.nhk.or.jp/archives/shogenarchives/special/vol16.html

マレー作戦 1941年12月8日、日本陸軍が英領だった旧マラヤ北部のコタバル(現マレーシア)に上陸し、マレー半島タイ領のシンゴラ、パタニにも上陸して英軍と戦闘を開始。
https://www.sankei.com/world/news/180216/wor1802160011-n4.html

以下当時の資料
南方要域攻略に関する命令

二 南方軍総司令官は海軍と協同し左記に準拠し速に南方要域を攻略すべし。
進攻(進入)作戦開始に関しては別命す。
(二)作戦実施に方りては勉めて泰国及印度支那の安定を確保すると共に同方面よりする対支封鎖を実施す。
泰国及印度支那軍抵抗せば其要域を占領することを得

昭和十六年十一月十五日
奉勅伝宣 参謀総長 杉山元

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レファレンスコード C12120137460
南方要域攻略ニ関スル命令 昭和16年11月15日

渡作命第一九三号
歩兵第十一連隊命令 一二、一、二〇〇〇 於三亜

一 敵情兵団の企図並友軍の情況は松作命甲第一七三号及河作命第二号の如し
二 連隊{第二大隊を欠き独立速射砲第一中隊(一小隊欠)師団無線第一分隊旅団無線第一分隊を属す}は旅団右第一線となり「シンゴラ」駅南側小流以北の海岸に急襲上陸し英国領事館無線使用を阻止すると共に「シンゴラ」西側桟橋を占領して船舶の逃避を防止し要すれば鉄道部隊と協力し停車場を占領し在停車場交通機関の押収を援助しつゝ爾後の突進を準備せんとす
三 第一大隊{連隊砲中隊五号無線一 六号無線三を属す}は右第一線となり旧飛行場頭上「行」の字以北の地区に上陸し速に一部を以て英国領事館の無線使用を阻止すると共に「シンゴラ」西側桟橋を占領し主力は燈台高地南側に集結し爾後の突進を準備すべし。
要すれば鉄道部隊に協力し在停車場交通機関の押収を援助すべし。
連隊砲中隊(一分隊欠)は上陸直後法院付近に至らしめ市川少佐の指揮を受けしむべし。
四 以下略す。
歩兵第十一連隊長 渡辺綱彦


十、戦闘前に於ける彼我形勢の概要

3、泰国は十一月二十五日予備兵約二万五千の召集を開始し「バンコック」市民亦動揺の徴あるも南泰の状況大なる変化なし。在「シンゴラ」及び「パタニ―」付近駐在部隊は十一月十四日より約一週間に亘り「シンゴラ」―「サダオ」道上に於て「シンゴラ」付近の進入軍を設想し攻防演習(追撃退却)を実施せしものゝ如し。

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レファレンスコード C14110583800
歩兵第11連隊第3中隊 陣中日誌 昭和16.11.1~16.12.31
十二月八日 月曜日 晴 於泰国 「シンゴラ」沖「那古丸」
一 二十四時二十五分那古丸は「シンゴラ」二浬沖に投錨す。月影に淡く馬来半島の山浮び上陸点「シンゴラ」市付近は点々と街燈輝き未だ夜の静寂裡にありて我の来れるを知らざるものゝ如し。
神兵到る処常に天祐あり神助あり一同遙かに之を望み必勝の信念愈々固く志気益々旺盛なり。
一時十分田輸作命第四号に基き移乗を開始せるも折柄波浪高く移乗極めて困難にして海中に落下せるもの数名に及べり。
中隊は右舷二番「ハッチ」より移乗を開始せんとせるも第一小隊の乗船予定たりし小発C2068号は激浪のため故障を起したり。
依って第一小隊は第二回移乗部隊となり中隊(一小隊欠)は二時波浪を冒して移乗を開始す。
二、二時三十分移乗を完了し本船を出発す。
陸岸に達着せるも折柄波浪高く陸岸より打返す波高は三米に及び舟艇は浪下に没し或は跳込直後仰ぎ見るが如き大波に没するありて上陸極めて困難なりしも万難を排し四時五分「シンゴラ」海岸に敵の抵抗なく達着夫々兵力を集結し直に作命第三号に基き出発す。
三、中隊長を先頭とし指揮班第二小隊の順序を以て所定の目的地英国領事館に向ひ突進す。
四、六時二十分英国領事館を襲撃し之を占領領事を捕縛す。館内を捜索するも無線器なし。
五、第二小隊第二分隊は海岸達着後泰国警察の動静偵察並に辻参謀を護衛し赴きたる処不意に泰国警察官一部の抵抗を受け五時三十分不幸にも敵の初弾は久保伍長の頭部を貫通し中隊は茲に大東亜戦争最初の負傷者を出すに至れり。
六、六時三十分別紙大作命第四号を受領す。
七、右命令に基き栗田分隊を英国領事館に残置警戒せしめ主力は直に日本領事館前十字路付近に集結し後命を待つ。
八、八時三十分別紙大作命第五号を受領す。
九、右命令に依り中隊は英国領事館西方山上に依り抵抗中の泰国警察隊を和平的に鎮撫に任ずる為第三小隊を以て別紙要図の如く態勢を執りたるも益々彼等は射撃を継続し和解の色見へず、第三小隊は已むなく交戦を継続しありたるに九時五分漸くにして我真意を解せるを以て直に攻撃を中止す。
十、要旨命令 一二、八、一〇〇〇 於「シンゴラ」日本領事館
一、敵の飛行機は熾んに上空を飛翔し爆撃しあり。各隊は充分に遮蔽し対空射撃対空監視に遺憾なかるべし。
二、第二第三第四中隊より各々一ヶ小隊を達着場に差出し速に舟艇の押出に協力すべし。
三、第一中隊の電気廠を監視せる小隊の引上に関しては別名〔ママ〕す。
四、大隊は連隊の位置に移転す。
第一大隊長大本少佐
十一、 右命令に基き中隊は第二小隊を速に達着場に差出し舟艇押出に協力せしむ。
十二、第二回移乗部隊となりたうr第一小隊小南少尉以下三十三名十時三十分異状なく中隊に追及す。
十三、十二時三十分別紙大作命第六号を受領す。
十四、右命令に基き吉田少尉以下五名を大体直轄将校斥候として大隊本部に差出し、
主力は大隊の位置に集結し行軍序列に入る。
十五、十三時二十分「シンゴラ」を出発「ハジャイ」に向ひ前進を開始す。
十六、十五時別紙大作命第七号を受領す。
十七、中隊は速射砲一小隊並六号無線一を属せられ尖兵となり本隊の前方七〇〇米を徒歩行軍を以て「ハジャイ」に向ひ前進す。
一八、十五時五十分栗田分隊は英国領事を日本領事館に引渡し中隊主力に追及す。
十九、中隊は二十日余の船内生活の気候の急変の為疲労甚だしかりしも聖戦の真義に徹せる感激と烈々たる闘志は克くそれ等の障碍四十粁の道程を踏破せり。
二十、本日の射耗弾左の如し。
小銃弾 四七発
榴弾 五発


大作命第五号 
第一大隊命令 一二・八、〇八・三〇 「シンゴラ」日本領事館
一、約一〇〇名の「タイ」国警察隊は我が真意を解せず我に対し射撃をし在り
二、大隊の一部の兵力を警察隊に派遣し和平的に該警察隊の鎮撫に任ぜしめんとす。
三、第三中隊長は一小隊を警察隊に派遣し和平的に該警察隊の鎮撫に任ぜしむべし。
四、爾余の諸隊は現在地に於て待期すべし。
五、予は現在地に在り。
第一大隊長 大本少佐
下達法 各隊命令受領者を集め口達筆記せしむ。

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レファレンスコード C14110583800 (43~50画像目)
歩兵第11連隊第3中隊 陣中日誌 昭和16.11.1~16.12.31(1)


大作命第六号

第一大隊命令 一二・八、一二・三〇 「シンゴラ」停車場

一、砲二、三門を有する約三〇〇の泰国軍は新飛行場南方約二粁高地陵〔ママ〕線を占領し其の砲兵は同地東南側に配置しあり。歩四一の第三大隊
 歩一一の第九中隊及鉄道突進隊は北の敵を攻撃中にして歩四一の第三大隊は新飛行場東南一四〇〇米高地に歩一一の第九中隊は新飛行場南方約一二〇〇道路及鉄道の中間地区に鉄道突進隊は其の西南方一二〇〇米付近に進出し共に交戦中なり。
連隊は新飛行場西南地区に兵力を集結す。
二、大隊(配属部隊を欠く)は即時現在地出発「シンゴラ」―「ハジャイ」道を新飛行場西南側に進出せむとす。
三、第一中隊は尖兵中隊となり即時現在地出発「シンゴラ」―「ハジャイ」道を連隊の前方約七〇〇米に在りて新飛行場西南側に向ひ前進すべし。
四、爾余の諸隊は左記行軍序列を以て連隊本部の後方を前進すべし
左記
(軍隊符号省略)
第三中隊より将校斥候一を速に差出すべし
五、予は大隊本部に在りて前進す
第一大隊長 大本少佐

下達法 各隊命令受領者を集め口達筆記せしむ


大作命第七号

第一大隊命令 一二・八、一五・〇〇 シンゴラ飛行場北端

一、「タイ」国軍は軍使を以て戦闘中止を要請し来り河村部隊は大乗的見地より之に応諾を与へたり。
情報に依れば装甲車を有する敵機甲部隊は本八日正午●「サダオ」方向より北進中なり。
河村部隊は先づ「ハジャイ」方向に突進し「サダオ」方向の敵を撃滅す
市川支隊主力は鉄道に依り鉄道突進隊と協力し「ハジャイ」に向ひ突進す。
歩四一は「ハジャイ」に向ひ前進中なり。
連隊は「ハジャイ」に向ひ突進し「サダオ」方向より北進する敵を撃滅す
二、大隊は連隊主力となり「ハジャイ」に向ひ突進せむとす。
三、各隊は左の行軍序列に依り連隊本部の後方を「ハジャイ」に向ひ前進すべし。
四、第二、第三中隊は渡作命第一九六号に依り行動すべし。
五、予は大隊本部の先頭を「ハジャイ」に向ひ前進す。
第一大隊長 大本少佐
下達法、各隊命令受領者を集め口達筆記せしむ


損害 二十一、本日の戦傷者左の如し

戦傷年月日 昭和一六、一二月〇八日 〇五三〇
戦傷場所 泰国シンゴラ
戦傷部位 前頭部兼顳顬部穿透性貫通銃創 ※顳顬部=こめかみ
等級 伍
氏名 久保熊男

大作命第九号 
第一大隊命令 一二・九、一二・〇〇 於ハジャイ
一、「サダオ」付近に於て我捜索隊は敵と交戦中なるものの如し。河村部隊は速に国境を突破し「イポー」に向ひ急進す 歩四一の一大体は「サダオ」に向ひ急進せり。
二、大隊(中略)は連隊の先頭となり「サダオ」に向ひ急進せむとす。
(以下略)

アジア歴史資料センター https://www.jacar.archives.go.jp
レファレンスコード C14110583900 (1~4・12画像目)
歩兵第11連隊第3中隊 陣中日誌 昭和16.11.1~16.12.31

第二、軍主力方面戦闘経過概要
其の一、上陸より「ペラク」河畔への進撃
一、第五師団の状況
(1)上陸より国境突破
泊地に進入せる師団は直ちに投錨泛水を開始し、折柄の荒天波高二米の波濤を克服し、敵不意に乗じ主力方面は〇三・三〇、安藤支隊方面(歩兵第四十二連隊基幹部隊「バタニ」方面)は〇三・〇五、夫々上陸を開始し、何れも敵の抵抗を受くることなく、前者は〇四・一〇、後者は〇四・三〇夫々南泰「シンゴラ」及「バタニ」付近に歴史的上陸に成功せり
上陸直後、各方面共一部泰国軍及警察隊の抵抗を受けたるを以て之を攻撃し、一四・三〇泰国側の要求を容れて停戦せり。次で師団主力方面に於ては「サダオ」付近に於て、安藤支隊方面に於ては「ヤラー」付近に於て共に我が上陸を察知し、越境北上せる敵機械化部隊を撃破しつつ前進し、師団主力方面は十日)〔ママ〕作戦第三日)〇三・四〇、安藤支隊方面にありては一五日(作戦第八日)一〇・三〇夫々其の先頭を以て国境を突破し英領馬来に進撃せり
宮本鉄道突進隊は八日〇四・一五「シンゴラ」に上陸するや直ちに停車場を占領し〇五・四〇押収せる車輌によりて突進を開始し、一部泰国軍の抵抗及鉄道の爆破を克服し十一日早朝国境を突破せり。
(参考)開戦後に於ける泰国の情勢
開戦当日に於ては泰軍は各所に於て若干抵抗を試みたるも、九日に至り泰国政府は全面的に我が要求を容れ、更に十一日坪上大使と「ビブン」首相間に日泰攻守同盟締結に就き意見の一致を見るに至り、国内一般情勢漸く安定せり。
(以下略)

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レファレンスコード C14110548100 (1・2画像目)
防衛省防衛研究所>陸軍一般史料>南西>マレー・ジャワ>馬来攻略作戦経過概要 除新嘉坡攻略作戦 昭和16.12.8~17.1.31

大本営発表ではなぜか「友好的に進駐」と表現した
大本営発表 其の一

昭和十六年 一二ー八
(二一〇〇)帝国陸海軍は緊密なる協同の下本八日午后泰国に友好的に進駐を開始せり

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レファレンスコード C16120664500(1枚目)


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