植民地朝鮮の実情を記した当時の資料(3)

植民地朝鮮の実情を記した当時の資料(1)
植民地朝鮮の実情を記した当時の資料(2)
の続き
朝鮮関連では「京城日報」がよく出てくるが、これは朝鮮総督府の機関紙である。
なお朝鮮は植民地ではない、という主張については過去エントリ日韓併合は植民地支配ではなかった、というウソ参照


時事新報 1920.11.3-1920.11.16 (大正9) 
朝鮮を如何にする乎 (一〜十) 
独立運動の経路=民心悪化の情勢=我朝野の態度 
京城特派員 長野直彦 (一) 

妄動予想 
独立運動の勃発以来正に二十個月を経たり当初我朝野は此妄動が此も永引き此も時局を紛糾せしむるに至るべしと想像したりしか、之を隠謀好きの朝鮮人が愚しき事を企てたりとて嗤笑せし人々は不逞の徒が日ならずして独立の不可能事たるを覚り妄動を止むるならんとは思わざりしか、縦し然らずとも事を重大視せざりしは事実ならん当時政府は聊か狼狽の体なりしも夫れは斯る事変の発生は申す迄も無く国家の不祥事なるが故に刻下に之を鎮撫せざるべからずと為し又鎮撫し得るものと為したる対策が寧ろ狼狽の余に出でたるやに、見受けられたるものあり、尤も中には此種の運動一たび勃発したる上は終熄の時期を予想し能わずと云う者もありしが其等は多く外国他民族の独立運動を引例し類推したるものにして朝鮮の事情、朝鮮人の思想、朝鮮に於ける独立運動の真相を査覈して得たる結論にあらず 軽視す 而して説者の真意は独立運動が急に終熄せずとも何程の事やあらんというに在りたり是等の外種々の観測行われたれとも要するに甚だ事を軽視せり、然れども昨年九月斎藤総督等着任の際一老兇が総務の暗殺を企て爆弾を投じてより事態日を追うて陰悪に赴き本年初春の頃より不逞団は種々兇暴なる手段を弄して民心の悪化を図り終に最近に至りては西北国境附近恰も恐怖時代を現出したるの観あり即ち曩に我朝野が事を軽視したるの過誤を立証せるものと謂うべし今日に及びては其の意外の成行きに驚きつつも尚お『多寡が朝鮮人の蠢動に過ぎず』とて前途を楽観し真摯に朝鮮の時局を研究する者甚だ少きは実に国家百年の憂患を醸成しつつあるを識らざるに由るか・・・

三) 独立運動の真相(二) 
潜在的感情 
「・・・試みに農夫にまれ又労働者にまれ其衷心を披瀝せしめよ一人として総督政治に悦服せるはあるまじ彼等は自ら識らざるにもせよ朝鮮の独立は一千五百万民の一度せる要求たるを察知し得べし独立運動は此要求を満たさんが為めに起したるものなり少数の浅慮者が米国の声援を恃み或は西伯利満洲等に於ける五六十万の移住鮮人を背景として各自の不満を遣り野心を満たさんが為めに起したるものにあらず」とは最初より陰謀に参画せしか然らずとも何等かの関係を有したりと思わるる一青年の談なり是れ恐らくは語を飾るものにあらず彼等の確信なり当時の状態に於て最も深刻に屈辱を感じたる者が先ず奮起したるものと解すべし 

官僚政治
(ロ)果して然らば人民は何故に総督政治に悦服せざりしか総督政治に何故に民心は擢る能わざりしかというに夫れは前述せし如く我国人特有の官僚的?政治思想を以て庶政を行いたると内地人の朝鮮人に対する優越感が頗る熾烈にして極めて露骨に表現されたるが為めなりと断ぜんとす・・・加之内地人の優越感は官民の別無く朝鮮人との接触に於て無遠慮に迸出して彼等の屈辱感を刺激し不逞団の所謂山野に磅●たる不平の気を●醸せしめたり

(六) 独立運動経過(二) 
運動第二期 
斉藤総督、水野政務総監等着任の際一老兇が爆弾を以て総督暗殺を企て総督は幸に其難を免かれたれども多数の死傷者を出し内地人は憤慨し朝鮮人は迷惑気に見えたり内地人の憤慨したるは其兇暴を悪みしが為めにて朝鮮人の迷惑気に見えたるは幾許か独立運動に対して期待する処あり凶暴なる手段を弄するは事に益無きのみならず或は政府が高圧政策を執るに至る無きやを恐れたるに由らざらんや。之れは独立運動の筋書き以外の出来事なりしこと後に判明したるが此事有りしより物情頓に騒然たり是れより本年三四月頃迄を吾人は第二期と呼ぶことにせん民族自決の主張に対して国際連盟会議は一顧だに与えず米国の後援も頼むに足らざるを覚りて陰謀団が失望したる時期なり而して朝鮮内に於ては不良青年輩が思い思いに徒党を組み各地に出没し文書又は口頭にて盛んに煽動を試み軍資金調達の為めと称しては強盗脅喝取財等を行い人心を悪化せしめたる時期なり実否は固より知る由もあらざれども貴族富豪仲不逞漢に強請され出金したる者ありとも聞えたるが韓国時代と異なり文明政治の有り難きは独立運動に多少の関係を有すとも生命には別条無きことを知り彼等が従来の態度に幾分緩みを生ぜし観ありたり中流知識階級の態度は依然として変る処無く下層社会は独立運動なるものを稍々解するに至れり是れ軈て人心の悪化を語るものなり 制度改廃 此間総督府に於ては憲兵警察制度撤廃の後を承けて警察機関の拡充を急施し不逞の行動に対しては峻厳なる取締りを加うると同時に所謂文化政治即ち時勢の要求に応じ民意の暢達を図る趣旨の下に連りに制度の改廃を行い或は運用方法を釐革せしが而かも乖離も去らんとする民心を如何ともする能わざりしなり四五月の交間島方面に於ける無朝鮮人団が露国過激派より供給を受けしと思き武器を携え豆満江を渉りて成鏡北道に侵入せんとし警備警察隊は軍隊の援助を得て之を撃譲したるが引続き警戒しつつある中吉林、奉天両省管内に於ける不逞鮮人は集団を成さず五々五々鴨線江を渡りて平安北道に潜入し殺人(主として巡査面長等公職を帯ぶる者を狙えるが如きも中には金銭の強請に応ぜざるが為めに殺傷されたる者あり)強盗等兇暴の限りを尽し人心を畏怖せしめ某々群の如きは郡内の各面(内地の町村に相当す)面長以下吏員全部逃避して一時其事務を廃止したるあり道庁の所在地たる義州に於てすら内地人官吏は単身外出の危険を感じたる有様にて局限的にて且軽度ながら拾も恐怖時代の現出をすら想到ぜしむべき状態なりしのみならす一派の不逞団は爆弾を密かに上海より輸入し総督以下大官の暗殺総督府其他大建築物の破壊を企てたるあり此陰謀は幸いに警務当局に於て未然に之を探知し犯人を逮捕し爆弾を押収して事無きを得たるも他の一派は平安南道警察部、平安北道警察署、同新義州停車場等に爆弾を投じ何等被害は無かりし由なるも人心を刺戟せしこと一通りにあらず斯くて本年の夏季を過ぎたり此期間を第三期と呼ぶこととせん 

 (七) 独立運動経過(三) 
職業的排日 
若し満洲西伯利方面に於ける不逞鮮人即ち職業的排日鮮人—疇昔は排韓鮮人とも称し得べかりき—が独立運動の総勘定を為すべき地位若くは成行きにあらば其勦滅は可なり厄介なりとは云え朝鮮統治上左程憂慮するにも及ばざるべきも吾人の所見を以てすれば最後の解決は朝鮮内の郷土に定住せる良民を相手とせざるべからず其良民たるや独立運動に加担せるに非ず又現在不穏の行動を為しつつあるにもあらず然れども彼等は独立運動勃発前は総督政治に対する不満、内地人に対する不快を感ずることの少からぬながら、大多数は之を如何とも致し方無き運命と諦め居たりしに独立運動起りて一年半を経過せし間に彼等は如何にして其不満を医し其不快を消し得べきかを考うるに至れり本年春頃迄は極めて平穏無事なりし地方に於てすら昨今農民が通学の児童を途に要して「倭奴の言語を学習する為め通学して何の益する処ありや」と嘲罵するより学童は通学を憚り学校当局をして困惑せしめつつあるが如き事例少からず以て民心悪化の状を察するに足るべく随って独立運動の総勘定は容易に行われ難きを知るべし殊に満洲西伯利の各地に流寓せる不頼鮮人の行動即ち平安北道地方を騒がしつつあること、豆満江沿岸に於ける武力侵入計画乃至琿春事件も独立運動の本筋にはあらず彼等の行動に依りて政府を手古摺らせ民心を動揺せしめ得べしとは考え居るならんも独立を遂げ得べき方法とは思わざるのみならず陰諜団中にても多少思慮ある者は内心彼等の行動が此上進展することを寧ろ憂懼しつつあるにあらざるか 鮮人残忍性 一朝鮮人は「満洲在留の朝鮮人は尚且可なり西伯利に放浪せる徒輩に至りては彼等が過激派化せると否とを問わず実に朝鮮人とは思われざる残忍性を備え居るを以て万一彼等が国境内に侵入することあらんか誰れよりも朝鮮人に取りて最も恐るべき禍なり」と語れるが之は一般朝鮮人の代表的意見と見るを得べし実際独立運動は今や国境方面の騒擾を背景として陰諜団が最後の手段として其のプログラムに記せりと伝えらるる「社会的反抗」に向って歩武を進めつついるが如し社会的反抗とは内地人に対する反抗なり延いて朝鮮統治を困難ならしめんとするもなり彼等は先ず内地品不買朝鮮品不売を提唱し京畿道の一部黄海通及び平安南北二□に於ては或は種々の名称を附したる団体を組織し規約を設け或は個々思い思いに之を実行しつつあり最近黄海道に旅行したる者の談に依れば朝鮮人中官公吏以外巻煙草を用いる者無く例の煙管の竿を短くして携帯し居り又衣類は朝鮮産の木綿を用いることに申合せ居る由にて内地産金巾木綿等を着用せるは十人に二三人に過ぎず夫れすら多くは他処より入込み居たる者なりしと云う西鮮地方は人心の悪化特に甚しく斯くの事は別段驚くに及ばざる程なるも吾人は二週間前慶尚南道の某郡内に於いて内地人と一切取引を為さざるべく決議した部落ありと云う報道に接したり漸次他地方に及ぶの虞なしとせず、 対内反感 尤も朝鮮人が内地人との取引を拒絶することは自ら生活の根柢を破懐するに等しく日ならずして其無諜の挙たるを覚るに至るべきも彼等の内地人に対する反感は決して消滅せず同様反抗的計画は次ぎ次ぎに手を代え品を代えて現われ来るのみならず内地人に対する反抗心は凡て優者に対する反抗心を誘発すべき傾向の既に顕著なるものあり・・・

 (九) 対策(二) 
・・・(ハ)今春普通学校入学生の多かりしこと近来各学校生徒の休学少きこと等を理由として学生の思想改まれりと称するは各学校の内地人教師が教壇に立ちたる時の感想と一致せざるの事実を否認するの勇気ありや

(十) 対策三  
・・・(ロ)政府は総督府財政独立計画が総督誠意の民心を失いたる主因とは認ざるか独立運動の勃発したる当時「総督府財政独立」なる事が朝鮮人をして朝鮮の独立可能を覚らしめ民心に悪影響を与えたりとの説ありしが或は斯くことの有りしやも知れざれども夫れは独立という語が時に取っての辞柄を供されし程のことならんと思う然るに財政独立計画其事の急激なる促進は可也無理を強行せり併合以来産業は発達せり物資輸送の便開け物価も大勢上年次昂騰し□うるに都鄙を通じて金融機関も備わり総じて経済状態の改善経済力の増進は著しと雖も税率の引上げと頻々たる新税の設定と租税以外の公課金の増加等によりて人民が負担額の増加程度は負担力の増進程度を超えたるは事実なり乃ち無埋を強行せるものなり・・・

三、国民の態度に対する疑問 
(イ)内地に於ては朝鮮の事情を知り得べき便宜を有する人にして尚全鮮各地兇暴なる不逞漢の出没し内地人に危害を加え殆んど旅行も出来ざるものの如く想像する者多しと聞く果して然るか朝鮮の事情を知り得べき便宜を有する人士中には之を知らざるべからざるが多き筈なるに何故に之を知ることを努めざるか之を知るの要無しとするか是れ疑問の一・・・
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東京朝日新聞 1920.11.16 (大正9)

朝鮮統治の根本義

鮮人の内地人に対する思想は、昨春暴動の勃発せし以来、一般に悪化せりと伝えらる。是に於てか近来朝鮮統治に関する論議行われ、不逞鮮人の盲動は文化政策の結果なるを以て、宜しく威力を以て之に臨み、寸毫も仮借する所なかるべしと説く者あり。・・・
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大阪時事新報 1920.12.3-1920.12.18(大正9)
朝鮮の治安回復 (一〜十一)
朝鮮視察を了りて 小川生

(十) 民心悪化とは何ぞや
悪化か善化か
然るに記者が京城に行った時、在住日本人の多数から朝鮮人は文化政策を謳歌して居る所か、却て反対して居る其証拠は彼等が日に増し悪化しつつあるに見 [欠] 化ではなく只日本人に対して理屈を云う様になったとか電車の中で座席を譲らなくなったとか云う意味の悪化であると云う事が解った□して見れば朝鮮人の所謂悪化とは世界の大勢に伴れて個人の権威の上に目醒めたのであって何も朝鮮人に限った事ではない、東京でも同様の悪化は沢山ある、否東京こそ本元で京城などは其出先きに過ぎぬ、而して此の意味の悪化ならば寧ろ賀すべき事である、蓋し日本の同胞となった一千三百万の人間が何時までも小供の様に何等の自覚もなく何等の向上もなく卑屈一点張りで終る様な事では日本帝国将来の上に悲しむべき事であるが之に反して彼等が斯くも自覚し向上したと云う事は我帝国に取り大なる強みであるからだ其れを日本人が悪化したと云えば彼等の向上を抑え様とするのは誤って居る。殊に文化政策を標榜する総督府が一旦発行を許した朝鮮諺文新聞が少しく階級打破、自由平等を叫び若くは内鮮人差別撤廃を主張したからと云て直に発行禁止を命ずるなどは余りに了見狭少なるを示すもので記者の断じて与せざる所である 

不平の数々
其証拠は朝鮮の知識階級に属する連中が今尚総督政治に対して無限の不平を抱いて居る事実に見て明かである、現に記者は京城に於て色々な階級の人に会ったが何れも皆総督政治に対し無限の不平を漏して居た。今其代表的のものを摘記して見ると彼等は斯う云う事を云って居る、曰く 
 日本は朝鮮の土地が取りたいのであって朝鮮民は何うなろうと一向御考えはない、現に是迄は勿論今でも朝鮮人に対しては少しも人間らしい取扱いをして下さらないではないか、此の間も私(某侯爵の所へ訪ねて来た某郡守が途中で一巡査に誰何されてマサカ自分の事ではあるまいと思って通り過ぎようとするといきなり某巡査に蹴飛され大怪我をして某病院に入院した事実がある、こんな所を見ると日本は朝鮮の土地丈けが欲しいのであって人民は欲しくないのではありますまいか、若しそうだとすれば日本は早く三百万の内地移民を朝鮮に入れて確固たる植民地を造られた方がよかろうと(某侯爵談) 
又曰く 
 内地人は動ともすれば鮮人をヨボヨボと云い、又総督府は一向吾々の自由を認めて呉れない、否其れ所か重要な地位にもつけて呉れない、現に総督府の役人名簿をご覧なさい 

[図表あり 省略] 

 右表の如く朝鮮人の地位は内地人に比し未だ甚だ低いではありませんか、之を彼の米国が比律賓に自治を認めハリソンの総督時代から上下両院は固より総督府の役人迄全部比律賓人を用い米人を一人も用いない事実や又英国が同国内閣内に印度省を設け其次官に印度人を用い、或はトランスパールの叛将ゼネラル ポータを南亜連邦の首相とし或はトランスパール出身のゼネラル スマツツを講和委員として講和会議に出席せしめた事実等に対照せば雲泥の差があります、こんな事では何うして吾々は日本に信服する事が出来ましょう、現に併合当時は吾々は日本留学を以て得意とし先を争うて之を学び且つ日本に留学し中には日本婦人と結婚したものもあった位です、其れが今日では何うです日本語を以て和奴の語となし斯かる語を学んで何んになるものかと云う思想を懐く様になったではありませんか、之れは全く総督府が吾々に自由と地位とを与えないからで、こんな事では吾々はワシントンを真似る訳ではないが「自由を与えざれば死を与えよ」と云いたくなるのです(某留学生談)と 
又曰く 
 文化政治と云うも其れは名ばかりで税は高し手続きは面倒だし到底吾々は感服せない、殊に朝鮮人の唯一の楽みは濁酒と煙草とである、其れに総督府が高い税を課けるなどは甚だ以てその意を得ない、寧ろ地租を増して此等の貧民税は廃した方が可いと(某実業家談) 
又曰く 
 内地の人は朝鮮に対し一視同仁の内地延長主義を以て臨むべしと主張して居るが総督府の官吏は依然朝鮮を以て植民地となして居る観がある、勿論斉藤総督は就任以来憲兵制度の廃止、会社令の撤廃、言論の自由解放、自治制令の発布等を決行し此主義の実現に努めて居らるる様だが其実未だ植民地風が去って居ない様である、若し真に内地延長主義を採るの雅量があるならば何故朝鮮に内地府県制度と同一の制度を布かれないのか又何故帝国議会に参与するの権利を与えて下さらないのか又何故言論集会出版の自由も内地人に許与されたると同一のものを解放して下さらないのか是等の事を考えて見ると吾々は未だ日本を信用する事が出来ないのですと(某政客談) 

東京日日新聞 1920.12.9-1920.12.19(大正9)
朝鮮半島雑記 (一縲恚)
松岡正男
 
(二)
半島国民の不平
誓え騒擾は半島国民の天牲なりとは云え、それが為に彼等の不平に耳を貸さぬは乱暴に非ざれば、怯儒か、然らざれば愚なる業である。 
 私は先ず直接に彼等から聴いた不平の数々を列記すれば大凡そ左の通りである。 

一、参政権絶無なり 
二、租税は高きに失す 
三、行政上の諸手続は煩雑を極む 
四、内鮮人の差別を撤廃せよ 
五、民意の暢達を計るべし 
六、教育の普々並に改善 
七、同共埋葬は旧慣に反す 
八、道路夫役及用地奇附の強制 
以上の不平に就て詳細に研究すれば、誤解から導かれたものもあり、又実際無理がないと認むべきものもある。而して新総督就任以来無理からぬと思わ るる大部分は制度の改正を敢行した。

(三)
吾輩は今回の旅行に於て多数の知識階級の朝鮮紳士に遭った。彼等の中には伊藤公暗殺事件に連坐して、二十六箇月間旅順の鉄窓に繋がれた、生粋の排 日者も居る、乃ち試みに彼等に「朝鮮の独立を欲するや」と問えば、彼等の多数は「然り」と答える。「然らば独立は可能性を有するや」と反問すれば、其大多 数は「否」と答える。「外らば貴公等の望む所は何なりや」と促せば日鮮人間に於ける差別待遇の撤廃なり」と答える。是は真実の朝鮮同胞の希望である。

(七)
半島の教育
・・・併し乍ら朝鮮に於ける教育には根本に於て困難なる一つの問題がある。それは畏れ多い事であるが教育 勅語を如何に奉戴すべきかと云うことである。総督府学務局では大体故重野文学博士の解釈を基礎として内地同様に之を奉戴する事に決めて居る。然るに私は本 問題に就きて、教育当路者や自ら教育の衝に当る人々の意見を尋ねて彼等の多くは教育勅語の御趣旨、御精神を伝うるよりは、寧ろ其奉戴の形式に就て、迷うて 居るものの多い事を認めた。私は彼等が一日も早く斯る形式の桎梏より脱離して勅語を捧読するよりは、寧ろ其趣旨の存する所を理解せしむるに努むべきであろ うと思う。而して直後の趣旨を半島国民に宣伝し、理解せしむるには勅語を捧読する事が決して絶対の必要事ではない許りでなく、時に之を捧読せざるの利益あ る場合もなきにしもあらざるを悟了せねばならぬ。

京城日報 1920.12.25-1920.12.30(大正9)
朝鮮現下の治安 (一〜五)
警備機関の活動と不穏分子の剿滅

(三)
宗教類似団体以外にある各種団体は参政権の獲得、社会の改善、教育の発展、育英事業、儒学の振興、労働者の救済、婦女子の覚醒、商事の発展等を標榜せるが其の多くは穏健質実の目的を有するものは皆無と云うも可ならんか殊に警備力の充実と不穏企画の検覈とに依り独立運動漸次不能となるや不逞輩は青年会又は基督教伝道隊等を組織し若くは学術講演会等文化運動の美名の下に巧みに隠語又は反語を用い排日独立思想を宣伝せんと企画せしも苟くも併合の大精神に背反し統治の方針に悖り独立を主張すと認むる結社に於ては解散を命じ、不穏の後援は悉く之を禁止すると共に一面弊害なきものに対しては斯道誘掖に努め以て当局は結社及言論に対する方針を明示せり

東京朝日新聞 1920.11.16 (大正9)

朝鮮統治の根本義

鮮人の内地人に対する思想は、昨春暴動の勃発せし以来、一般に悪化せりと伝えらる。是に於てか近来朝鮮統治に関する論議行われ、不逞鮮人の盲動は文化政策の結果なるを以て、宜しく威力を以て之に臨み、寸毫も仮借する所なかるべしと説く者あり。・・・
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10102726&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1&LANG=JA


大阪時事新報 1920.12.3-1920.12.18(大正9)
朝鮮の治安回復 (一〜十一)
朝鮮視察を了りて 小川生

(十) 民心悪化とは何ぞや
悪化か善化か
然るに記者が京城に行った時、在住日本人の多数から朝鮮人は文化政策を謳歌して居る所か、却て反対して居る其証拠は彼等が日に増し悪化しつつあるに見 [欠] 化ではなく只日本人に対して理屈を云う様になったとか電車の中で座席を譲らなくなったとか云う意味の悪化であると云う事が解った□して見れば朝鮮人の所謂悪化とは世界の大勢に伴れて個人の権威の上に目醒めたのであって何も朝鮮人に限った事ではない、東京でも同様の悪化は沢山ある、否東京こそ本元で京城などは其出先きに過ぎぬ、而して此の意味の悪化ならば寧ろ賀すべき事である、蓋し日本の同胞となった一千三百万の人間が何時までも小供の様に何等の自覚もなく何等の向上もなく卑屈一点張りで終る様な事では日本帝国将来の上に悲しむべき事であるが之に反して彼等が斯くも自覚し向上したと云う事は我帝国に取り大なる強みであるからだ其れを日本人が悪化したと云えば彼等の向上を抑え様とするのは誤って居る。殊に文化政策を標榜する総督府が一旦発行を許した朝鮮諺文新聞が少しく階級打破、自由平等を叫び若くは内鮮人差別撤廃を主張したからと云て直に発行禁止を命ずるなどは余りに了見狭少なるを示すもので記者の断じて与せざる所である 

不平の数々
其証拠は朝鮮の知識階級に属する連中が今尚総督政治に対して無限の不平を抱いて居る事実に見て明かである、現に記者は京城に於て色々な階級の人に会ったが何れも皆総督政治に対し無限の不平を漏して居た。今其代表的のものを摘記して見ると彼等は斯う云う事を云って居る、曰く 
 日本は朝鮮の土地が取りたいのであって朝鮮民は何うなろうと一向御考えはない、現に是迄は勿論今でも朝鮮人に対しては少しも人間らしい取扱いをして下さらないではないか、此の間も私(某侯爵の所へ訪ねて来た某郡守が途中で一巡査に誰何されてマサカ自分の事ではあるまいと思って通り過ぎようとするといきなり某巡査に蹴飛され大怪我をして某病院に入院した事実がある、こんな所を見ると日本は朝鮮の土地丈けが欲しいのであって人民は欲しくないのではありますまいか、若しそうだとすれば日本は早く三百万の内地移民を朝鮮に入れて確固たる植民地を造られた方がよかろうと(某侯爵談) 
又曰く 
 内地人は動ともすれば鮮人をヨボヨボと云い、又総督府は一向吾々の自由を認めて呉れない、否其れ所か重要な地位にもつけて呉れない、現に総督府の役人名簿をご覧なさい 

[図表あり 省略] 

 右表の如く朝鮮人の地位は内地人に比し未だ甚だ低いではありませんか、之を彼の米国が比律賓に自治を認めハリソンの総督時代から上下両院は固より総督府の役人迄全部比律賓人を用い米人を一人も用いない事実や又英国が同国内閣内に印度省を設け其次官に印度人を用い、或はトランスパールの叛将ゼネラル ポータを南亜連邦の首相とし或はトランスパール出身のゼネラル スマツツを講和委員として講和会議に出席せしめた事実等に対照せば雲泥の差があります、こんな事では何うして吾々は日本に信服する事が出来ましょう、現に併合当時は吾々は日本留学を以て得意とし先を争うて之を学び且つ日本に留学し中には日本婦人と結婚したものもあった位です、其れが今日では何うです日本語を以て和奴の語となし斯かる語を学んで何んになるものかと云う思想を懐く様になったではありませんか、之れは全く総督府が吾々に自由と地位とを与えないからで、こんな事では吾々はワシントンを真似る訳ではないが「自由を与えざれば死を与えよ」と云いたくなるのです(某留学生談)と 
又曰く 
 文化政治と云うも其れは名ばかりで税は高し手続きは面倒だし到底吾々は感服せない、殊に朝鮮人の唯一の楽みは濁酒と煙草とである、其れに総督府が高い税を課けるなどは甚だ以てその意を得ない、寧ろ地租を増して此等の貧民税は廃した方が可いと(某実業家談) 
又曰く 
 内地の人は朝鮮に対し一視同仁の内地延長主義を以て臨むべしと主張して居るが総督府の官吏は依然朝鮮を以て植民地となして居る観がある、勿論斉藤総督は就任以来憲兵制度の廃止、会社令の撤廃、言論の自由解放、自治制令の発布等を決行し此主義の実現に努めて居らるる様だが其実未だ植民地風が去って居ない様である、若し真に内地延長主義を採るの雅量があるならば何故朝鮮に内地府県制度と同一の制度を布かれないのか又何故帝国議会に参与するの権利を与えて下さらないのか又何故言論集会出版の自由も内地人に許与されたると同一のものを解放して下さらないのか是等の事を考えて見ると吾々は未だ日本を信用する事が出来ないのですと(某政客談) 

東京日日新聞 1920.12.9-1920.12.19(大正9)
朝鮮半島雑記 (一縲恚)
松岡正男
 
(二)
半島国民の不平
誓え騒擾は半島国民の天牲なりとは云え、それが為に彼等の不平に耳を貸さぬは乱暴に非ざれば、怯儒か、然らざれば愚なる業である。 
 私は先ず直接に彼等から聴いた不平の数々を列記すれば大凡そ左の通りである。 

一、参政権絶無なり 
二、租税は高きに失す 
三、行政上の諸手続は煩雑を極む 
四、内鮮人の差別を撤廃せよ 
五、民意の暢達を計るべし 
六、教育の普々並に改善 
七、同共埋葬は旧慣に反す 
八、道路夫役及用地奇附の強制 
以上の不平に就て詳細に研究すれば、誤解から導かれたものもあり、又実際無理がないと認むべきものもある。而して新総督就任以来無理からぬと思わ るる大部分は制度の改正を敢行した。

(三)
吾輩は今回の旅行に於て多数の知識階級の朝鮮紳士に遭った。彼等の中には伊藤公暗殺事件に連坐して、二十六箇月間旅順の鉄窓に繋がれた、生粋の排 日者も居る、乃ち試みに彼等に「朝鮮の独立を欲するや」と問えば、彼等の多数は「然り」と答える。「然らば独立は可能性を有するや」と反問すれば、其大多 数は「否」と答える。「外らば貴公等の望む所は何なりや」と促せば日鮮人間に於ける差別待遇の撤廃なり」と答える。是は真実の朝鮮同胞の希望である。

(七)
半島の教育
・・・併し乍ら朝鮮に於ける教育には根本に於て困難なる一つの問題がある。それは畏れ多い事であるが教育 勅語を如何に奉戴すべきかと云うことである。総督府学務局では大体故重野文学博士の解釈を基礎として内地同様に之を奉戴する事に決めて居る。然るに私は本 問題に就きて、教育当路者や自ら教育の衝に当る人々の意見を尋ねて彼等の多くは教育勅語の御趣旨、御精神を伝うるよりは、寧ろ其奉戴の形式に就て、迷うて 居るものの多い事を認めた。私は彼等が一日も早く斯る形式の桎梏より脱離して勅語を捧読するよりは、寧ろ其趣旨の存する所を理解せしむるに努むべきであろ うと思う。而して直後の趣旨を半島国民に宣伝し、理解せしむるには勅語を捧読する事が決して絶対の必要事ではない許りでなく、時に之を捧読せざるの利益あ る場合もなきにしもあらざるを悟了せねばならぬ。

京城日報 1920.12.25-1920.12.30(大正9)
朝鮮現下の治安 (一〜五)
警備機関の活動と不穏分子の剿滅

(三)
宗教類似団体以外にある各種団体は参政権の獲得、社会の改善、教育の発展、育英事業、儒学の振興、労働者の救済、婦女子の覚醒、商事の発展等を標榜せるが其の多くは穏健質実の目的を有するものは皆無と云うも可ならんか殊に警備力の充実と不穏企画の検覈とに依り独立運動漸次不能となるや不逞輩は青年会又は基督教伝道隊等を組織し若くは学術講演会等文化運動の美名の下に巧みに隠語又は反語を用い排日独立思想を宣伝せんと企画せしも苟くも併合の大精神に背反し統治の方針に悖り独立を主張すと認むる結社に於ては解散を命じ、不穏の後援は悉く之を禁止すると共に一面弊害なきものに対しては斯道誘掖に努め以て当局は結社及言論に対する方針を明示せり

国民新聞 1922.8.29-1922.9.23(大正11)
朝鮮の労働者 (一~十五)
鈴木文治
 
(一) 町から野へ
・・・七月の十二日に東京を発し、八月の二十日に東京に戻った。此間往復の船車に費した数日を除いては、全部朝鮮に暮したのである。或時は大洪水を冒して、舟に乗って朝鮮小作人部落を訪問した。或時は巻脚袢をつけ、災天百二十度の酷暑を凌いで農場の視察に出かけた。或は汽車の便に、或は自動車の便によって、町から野良へと視察の旅をつづけた。かくて咸鏡北道の一道を除いては、大抵の道に足跡を印した。勿論、一通りの視察旅行である。観察の範囲も狭く、且つ浅い。夫れでも私としては、一応朝鮮に対する理解を得たとの感なきを得ない。 
・・・私は右の見聞に基き、大体工、鉱、農の区別に従って、朝鮮の労働者に就いて述べて行こうと思う。

(二) 工業労働者
・・・従って朝鮮には工場法のような規定もなければ、労働争議らしいものも従来は殆んどなかった。此点のみを以て見れば、朝鮮に労働問題なしというは、現状を道破したる至言である。凡そ労働問題の発生には、二個の条件が必要であると言われる。一は労働の悲惨なる状態の存在、二は労働者の自覚、即ちこれである。知らず、朝鮮の労働者の労働状態は、果して天国の夫れの如くであるか、はた又朝鮮の労働者はいつまでも無自覚にして止むであろうか。 
私の視察の範囲では、労働状態は頗る区々であった。例えば労働時間に点に就ても、短きは八時間より、長きは十三時間に及ぶものがある。労働賃銀も区々であるが、概して内地人三円乃至三円五十銭位(役付職工は夫れ以上)、朝鮮人支那人は大抵、最低八十銭より一円二三十銭に至る。(少年労働者は勿論夫れ以下)、支那人朝鮮人と雖も熟練者は内地人と同様なものがある。内地人の比較的高級なのは、技術的に秀れて居るのと、内地より呼び寄せたという点にあるらしい。生活程度の高いのも勿論一因である。 

(三) 能率と勤怠
・・・朝鮮の労働者には年齢の制度というものがない。そこで事業の種類によっては、随分頑是ないような少年少女も成年男女の間に立ち交って働いて居る。労働時間の制限のない上に、年齢の制度もない少年少女の無制限使用は、其弊決して少くはあるまいと思われる。加うるに朝鮮の工業労働者に取りて、重大なる苦痛の一つは、作業中の負傷、疾病並に不具、老衰、失業等の場合に対する保障の殆んど全く欠けていることである。会社によっては多少の規定の存するところもある。併し夫れすら労働者の立場を十分尊重した者というよりは、むしろ会社の恩恵的施設に属する者である。

(四) 鉱山労働者
・・・けれども私は丁度最近平安北道の雲山金鉱を実査したる一友人に就、精確なる実況を聞くを得た。・・・今日は会社組織となし、東洋合同鉱泉会社と称している。従って幹部は悉く米人であって、事務員に一人、雇員に一人、日本人を使用するの外、労働者は悉く朝鮮人支那人である。・・・労働時間は朝六時より夕六時まで十二時間で、採鉱関係の仕事は昼夜二交代、五日目に交代する。休憩時間は一時間あるが、休日は絶対にない。尤も係員の米人は勝手な日に休むそうな。宿舎は各自豚小屋然たるものを構えて住んでいるが、便所、水道等の設備がないというから、その衛生状態は大抵想像される。好景気の際は採鉱奨励の意味であろう、共同賞与というものを出したが、今は中止した。但し山火事等の場合、消防に尽力したものには特別賞与を出すという 

(六) 屋外労働者
・・・夏の朝鮮に行く人は、誰でも町に、村に、辻々に、路上に、何千何万と堆く積まれた黄色に熟した真瓜売る人々を見るであろう。又その前には大人も子供も群をなして集まり、手に手に真瓜を煩張っているのを見るであろう。私は最初これらの真瓜は全く間食の為だと解した。そして朝鮮人は馬鹿に真瓜を喰うものだと驚いた。併しよく聞けば、彼等の真瓜を喰うのは、決して間食などと贅沢沙汰ではない、食料にするのだ、飯の代りだと聞いて、再び更に驚いたのである。 
真瓜の代価は一個二銭位である、一寸甘味のある味のいいものだ、併し我々にはこれを飯の代りに食わうとは思われぬが、『チゲ』さん達は之を一個又は二個を以て食料とし、甚しきは日に三度、夏中を通して之許りを常食としているものがあるという。そこで昔は夏真瓜の出る頃になると、米の値段が下ったという嘘のような話もある。 

(十三) 土喰う農民
朝鮮の小作料は地方によって一様でないが、半々に収穫物の叩き分をする所が多いようだ。然るに奇怪なるは、長年の習慣として、土地改良の諸費用、肥料代等は勿論、甚だしきは実に地租を小作人に負担せしめて居る所が今尚多いことである。とこの世界に小作人が地租を負担するところがあろう!真に驚くの外はない。是に於て小作人は実に骨までもシャブリ取られるという有様である。故に小作人の大部分の生活は、文字通りの亦貧洗うが如しである。汽車の中よりも眺められる、鉄道沿線到るところに、水田の間に点在している藁ぶきの低い小さい豚小屋のような家が、小作人の生を託する所である。下には石ころを集め、泥で塗り固めた温突を作り、その上に細い曲った杭を立て、周囲を泥で塗り、屋根に藁を重ねたのが、千数百万の農民の『家』なのである。時価にして百円乃至二百円で出来るという。窓や出入口は小さく、室内は薄暗い。板敷の床というものはなくて、泥の温突の上にアンペラを敷いて坐臥する。紙を張ってあるのは上等の方である。布団というものもない、夏も冬も著のみ著のままゴロ寝をするのである。尤も温突の焚口は同時に炊事場になっているので、夏も火を焚く関係上、暑くて室内には眠れない。そこで夏は家族悉く藁むしろやアンペラを敷いて屋外の地べたの上に寝る。枕は木の角枕である、中には石を枕にするものもある。湯には年中入ることなく、夏は時々小川に入って水浴を試みる。米産地の農民の外は滅多に米を食せず。粟、稗、高梁の類を常食とする。 
それもこれ等の食料が喰い続けられればよいが、大抵収穫季より春までで尽きて終う。都会地に近いところでは野菜を作ったり、日傭に出たりして喰いつなぎをするが、そういう便りのない片田舎になると、その生活の悲惨なる、正に想像以上である。 
彼等は先ず野に出で山に出でて木の実を拾う、草の葉をむしる。そして粟や稗と交ぜて粥のように煮て喰う。朝鮮には不思議といろいろな薬草がある、これ等はいはば彼等の状剤となるわけである。松葉の青みや、松の甘皮などは好個の食料となるのである。然もその混食用の穀物も尽きて終えば、遂には土を取って喰うのである。 
土を喰うといえば如何にも嘘らしいが、実に嘘のような話である。私は裡里の田舎の朝鮮小作人の持って来たものを見、且つ研究資料としてその一塊を携え帰った。指に摘めばサラサラとして丁度メリケン粉のような粘土である。茶褐色をしていて、内地の安いビスケットに混ぜるという粘土に似ている。それは医学上格別害にならないが、又滋養分もないものだという。これを草根木皮と共にゴタ煮にして、腹の中へと詰込むのである。彼等は正しく平時よりして飢饉の生活を送りつつありというべきである。 
種子は地主の方から借りる習慣になっているが、それは大抵喰って終う。そしていよいよ播種の時になって騒ぎ出す。又肥料を貸せばその肥料にする豆粕を食うという話である。彼等としては背に腹はかえられぬのだ、若し秋の収穫まで米や粟を地主から借入るる時は、秋はこれを二倍にして返さねばならぬ。誅求、搾収は正に極点に達している。農村の改良も何もあったものではない。 
   
京城日報 1923.1.1(大正12)
農家経済の現状及び其の向上に就て
殖局産長 西村保吉

・・・以上の三項目は現在朝鮮農業の進歩を阻害するの病根であって朝鮮の農民を以て之の内地農民に比すれば其一戸当耕地面積は内地の平均約一町歩に比し朝鮮は平均約一町六反歩にして其耕作面積の多大なるに拘らず其収益は却て甚だ少く単に主作物たる米のみに就て見るも大正九年に於て内地の一旦当り収穫高が二石二升一合なるに比し朝鮮の一反当り収穫高は僅に九斗五升五合即ち内地の半数にも足らない状況である亦以て朝鮮農家の収入が如何に貧弱であるかを知るべきでないか以上は朝鮮の農家の経済が微々として振わざる主なる原因であって是等の原因からして朝鮮農民の地主の一部階級を除くの外は一般に薄弱微力であって啻に余財なきのみならず大多数の小農は少からざる負債をも有し日常生活に苦しんで居る状態である 
即ち毎年収穫を了りたる後一定の小作料を支払い其残余の半産物を自家用として保留し得る余裕ある者は極めて少く米の如きは概ね直に売却して金銭に換え負債の償却、納税、日用品の購買其他□□の雑費に充て実際の食料代□□を以て之を充たすの状況であって中には負債を償却する余裕さえもない者が少くないのである殊に甚だしきに至りては青田売買と称して立毛の□にて之を売却し若くば担保に供する者さえもある位である農家経済の向上を図る方法は之を□論せ□□々の事項を挙ぐることを得べきも要は主業副業の発達を図りて農家の収入を増加すると共に一面消費を節約するより外には仕方がない即ち・・・
 
京城日報 1923.6.7-1923.6.17(大正12) 
朝鮮の治安に就て (一〜六、八〜十) 
五月十四日全国新聞記者大会に於て 
警務局長 丸山鶴吉

(六) 要するに朝鮮は全然平穏無事なりとは私は申しませぬけれども、段々落著いて居ることは事実であります。其落著は如何なる処に落著いたかということを少しく説明したいと思います。今迄講和会議の力に依って独立しようとか、国際連盟の力に依って独立しようとか、又亜米利加の同情があったので、亜米利加の力に依って朝鮮の独立を齎そうとか、そう云うことを考えて種々の運動を継続して見たけれども、此等の希望は総て駄目であった、殊に亜米利加の議員団は比津賓の独立問題を研究した者であるから、定めし朝鮮にも非常の同情を有って、朝鮮独立の為めにも相当な理解と援助をするであろうと期待して多少の動揺を感じたが、朝鮮人の歓迎会にも臨まないし、又一切の政治問題を避けると云う口実の下に鮮人を回避したので、非常に失望落胆したのであります。結局亜米利加頼るべからず、講和会議、国際連盟頼るべからず、要するに、他力に依る独立運動は是れ一場の夢であったと云うことを、朝鮮全道の人々が考え始めたのであります、結局朝鮮人が独立を欲するならば自分の力に依って之を遂行するより外にないと云う自覚が漸次拡まって、今や何人がどう言っても、朝鮮上下を挙げて居る思潮であろうと思います。自分の力に依らざるべからざる自覚を得て、さて自からを顧みる時に、一部の人は進んで居るかも知れませぬ、或る種の階級は富を有って居るかも知らぬけれども、千七百万の人間を平均すれば其文化の程度其経済力に於て、今直ぐ独立すると言って見た所が到底独立を支持することの出来ないことに気附くのであります。今日本が手を引いて、直ぐ独立国を維持して行くことが出来るか、出来ないかと云うことを聞いて見たならば、総ての人が否と云う返事をするより外はないのであります。大部分の人々が此の観念を持って居ることは動かない事実であります(拍手)。直ちに独立が不可能とすれば何に依って自分等の要望を満たすのか、結局朝鮮人が奮闘努力して文化の向上に努力せねばならぬ、産業を発達せしめて朝鮮人の富を増殖せなければならぬと云う考になることは当然の径路であります。其処で産業開発、文化促進と云うことが近頃朝鮮人の頭を支配する思潮となって来たのであります。・・・

(八) 最近に至って、朝鮮を視察された方が内地で色々御報告になって居るパンフレットも拝見致しますし、演説の筆記も拝見致しますが、朝鮮の前途に就ては誠に堪えないと云う悲観的な観察が多いのを見るのであります。それで茲に詳さに私の信ずる現状を披瀝して置くことが必要であると思います。御承知の通り段々文化が進んで参りますれば必ず民族的自覚が起って参りますることは何れの民族の例を以てしても明かなことであります。殊に欧洲戦争と云う思想界の大鉄槌を受けて以来、各地の諸民族が到る所で紛糾せる問題を惹起して居ることは御承知の通りでありまして、独り朝鮮が此の圏外に出ることはできないのであります。朝鮮人が漸次に民族的自覚心を起すと云うことは当然のことであります。殊に新総督政治になって以来言論の自由も相当程度に認められ、朝鮮人の方で諺文の新聞を経営されて、各地に此の新聞が配布されるのでありますから、今迄嘗て知らなかったことが全鮮の朝鮮人の頭に這入って来る訳であります。忌憚なく申せば朝鮮人諸君の御やりになって居る新聞が本当に公正を保ち、虚心坦懐に所懐を披瀝して真に朝鮮民族の将来を憂えて居るかどうかと云うことを疑問に致しますけれども、一種の意見抱負を有って新聞を経営されて居て、それが津々浦々迄廻って来るから、段々に民族的自覚を煽るようになって来ることは勿論のとであります。それであるから実力養成を標榜して各種の社会団体が雨後の筍の如く起り、或は青年会と称し、或は矯風会と称し各種の会合の起って来ることは皆文化促進の為め一つの現われでありますが、内容に至っては一つの民族精神の刺戟機関となる場合が多いのであります。又教育を尊重して行かなければならぬと云う場合に於ても朝鮮の人達が教育を批判する時には、常に朝鮮人の為の教育を主張されるのであります。今度教育令が改正されて殆んど内地と同一の教育制度となり、内地との連絡は完全になり、此改革位教育上の大改革はないと信ずるのでありますが、鮮人諸君は何故根本的に朝鮮語を以て教育しないか、難しい日本語を以て教育するのは、生徒の能率を害し教育の効果を減殺するものである是は要するに教育を国策に利用するものであると批難攻撃をして偉大なる教育界の大進歩に対しては寸毫も推賞しようとはせないのであります。唯朝鮮人本位という一点を以て立派なる教育令の全体の価値を没却する如くプロパカンダされたのであります。それ或折角の教育令改正も朝鮮人の多くの人には美しいもので、大なる革新であるが如きは到底伝わらないのであります。かく教育に対しても民族的自覚が進むに従って、朝鮮人本位の教育でなければならぬと云う議論が一般に伝わったのであります。官立大学が出来ると云うことになりますれば、全道を挙げて熱狂的に民立大学既成準備会と云うものが出来て活動を開始するのが現状であります。併しながら完全なる大学を推持して行くには中々容易なる資力、容易なる財力で出来るものではありませぬが、一千万円の金を民間から募集して私立大学を造ると云うので、全道挙って有識階級の人々が騒いで居るのであります。勿論是は文化の発展上喜ぶべき現象でありますけれ共それを為すより猶一般民衆として為すべき他の施設か沢山残って居る様に思うのであります。官立大学が出来んとするから反抗的に民立大学を建設せんとするのであると見る外はありません、又先年朝鮮の経済政策を樹立する為に、専門家、実業家を集めて朝鮮産業調査会が催された際にも、朝鮮に於て其方面を研究すると称して出来た経済会、維民会等の会合から同会に建議されたのでありますが、朝鮮の産業は宜しく朝鮮人本位の産業でなければならぬ、朝鮮人の産業を発達させるには日本人の産業に対して制限を加えなければならぬ、内鮮人を同一の基礎に置くときは朝鮮人が圧迫されるから、日本人の産業を制限し朝鮮人の企業を助成せねばならぬと云うことが終始一貫した議論でありました。そうして日本の資力の移入と云うことに対して反旗を翻えしたのであります。又消費を節約して生活を安定する方法として、土産を奨励する為めと称して物産奨励会、土産愛用会等の会合が出来たのであります。名は美しいものであって表面から攻撃することは出来ないが、その衷心を割って見れば土産奨励は裏面に日貨排斥の思想を懐いで居るであります。斯の如く近頃総ての方面に於て日本を排除すると云う気分が稍々濃厚に現われて居るのであります
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10102781&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1

大阪朝日新聞 1924.11.22-1924.12.7(大正13)
朝鮮見たまま (一~十四)
 
(十一) 東拓移民に集まる怨嗟 悲痛なる鮮人の叫びを聞け
以上数回に亘って挙示した耕地改良拡張上の障碍は、いずれも制度及び組織上の欠陥であるが、更に大なるものは経済上の障碍である。経済上の障碍とは他なし、工事のお金がままならぬこととだ。地獄の沙汰も金次第で解決が出来る世の中だから、朝鮮の耕地改良拡張も金さえあれば少しぐらい制度や組織上に障碍があっても、何とかこれを突破して事業を押進められないこともなかろうと思われるが、その先立つ金が不如意では手も足も出ない。 

だから、本論も朝鮮に於ける現在の事業資金融通状況と、今後の資金を如何にして何処から求むべきかを延ぶれば終局を見るのであるが、東拓へ向いた筆序に同社の朝鮮に於ける事業と、朝野の評判をチョッピリ紹介して置くことにしよう。 

朝鮮に於ける農業の改良進歩を促すには、内地の精農を移住せしめて、進歩せる農法を目の当り鮮人に示すに如くはない。東拓は実にこの使命を果すべく政府の絶大なる庇護の下に設立されたものである。然るに創立以来十有六年、政商に対する不良貸や、大政党に対する選挙費の御用達などは精々勉強したようだが、肝腎の使命の方はカラお留守で、今日までに東拓の手で移住した内地人は一万人に過ぎない。本年の七八月頃も東拓は各府県で朝鮮移住者を募集したが応募者は予定数の半分にも充たぬ不成績に終った。 

東拓は移住者の募集に少からぬ費用をかけているばかりでなく、移住した者には五町歩の既墾地を与え―尤もこれは二十五年賦で売るのであるが―更に農業資金を貸付けるやら、その他いろいろの便宜を与え、政府からはその移住旅費まで給しているのである。然るに募集成績は叙上の如く、而して移住者は政府の庇護を受けて大地主となりながら、尚現状に慊らずして五町歩の耕地を七町歩に増加せんことを要求し、鋤鍬などは手にすることも忘れ、俄然として鮮人に臨みつつあるため、農業の改良進歩に稗益するどころか、徒らに鮮人の呪いの的となっている。 

一鮮人は東拓の移民に対して斯く語った。「東拓は進歩せる農法を鮮人に教えるという理由の下に内地人を移住せしめ、之に五町歩ずつの土地を与えているが、その土地は我々の祖先から耕作し来った既墾地である、鮮人地主の所有耕作地は多く一町歩内外だから、内地陣が一戸移住すれば鮮人五戸が流浪しなければならぬ結果となる。荒蕪地に移住者を迎えるならば兎にも角、先祖代々の既耕地に内地人を入れて鮮民を路頭に迷わしむるの要何れにかある。我々鮮人は内地の進歩せる農法を眺めながら飢えねばならぬのであるか」と。 

何と悲痛な叫びではないか。「これは実際大に考えねばならぬことである」とて西村前拓殖局長は辞職前にどんなことを言っていた。「朝鮮に内地人を移住せしめることは必要であるが、東拓が半官半民の会社であるために、鮮人は政府が東拓の手を通じて内地人を移住せしめ、鮮人を放逐するのだと言っている。だから東拓を純然たる民間会社とし、自由移民にしないと政府はあらぬ誤解を受け。徒らに鮮民の怨府となるに至るであろう。」と。(狩野生) 

第50回帝国議会
貴族院予算委員第六分科会議事速記録第四号 大正14年3月10日 ※1925年

○政府委員(下岡忠治君)
・・・内地人の移住の有様でありますが、現在は確か三十八万人ほどと思ひます、近年余り殖えない、遅々として進まぬとでも申しますか、一時のやうには殖えませぬ、併し多少づゝは先づ殖えて行く見込があるのであります、併し余り之を人為的に無理に移住せしむると云ふことも考物で、朝鮮人が非常にそれを嫌ふ、例へば東拓会社が朝鮮人の怨の的になって居るが、其怨の的になって居る一つの理由は、東拓が内地から百姓を伴れて来て、我々の土地を奪って占領してしまふと云ふことは甚だ怪しからぬ、と云ふやうな点が東拓に対する怨の本になって居るやうなので、人為的に内地人を向うに移住せしむると云ふことは、彼等に取っては非常にまあ脅威とでも申しますか、之を好まぬやうな訳であるから、余りに特別な取扱を以て内地人を移住せしむると云ふやうなことは考へ物であらうと思ひまするが、(p7)

出席者左の如し
政府委員 朝鮮総督府政務総監 下岡忠治君(p8)
http://teikokugikai-i.ndl.go.jp/SENTAKU/kizokuin/050/0184/main.html
(左蘭から大正14年3月10日第4号を選択)

吉野作造「公人の常識」大正十四年十二月十九日発行 ※1925年

朝鮮の農民
  朝鮮に二十年も居て農業を経営してゐる友人の手紙の中にこんなことが書いてある。
「朝鮮の農民は年々貧乏になりまさるのみです。
「総督府では朝鮮全道にわたり一郡村も洩さず金融組合と申す高利貸機関を設けてくれました。之はもともと農業資金を与へて貧困なる農民を救済するといふ趣旨のものでせうが金利は驚くべし抵当貸付に在て日歩四銭五厘延滞利子五銭八厘、また信用貸付に在ては五銭八厘、延滞日歩六銭五厘といふ高率です。金を借りるには一口拾円以上の出資をして組合員にならなければなりませんから、本当の貧乏人は実の所絶対に寄り付けません。貸付金額は普通五十円乃至二百円程度ですが、抵当貸付には一人、信用貸付には二人の連帯保証人がいります。猶借りる時に色々の名義で若干の手数料も取られます。さて愈弁済期が来ますと組合の役員は田舎に出掛けて居催促をやります。返せる見込は無論ありません。そこで田畑は勿論のこと、家屋から耕牛まで取り上げられます。組合の役員は自分の成績さへあがればいゝので、組合員が困らうが困るまいが頓着がありません。組合の決算期に近づくと、いつも私共の眼に映ずる事一から十まで不快でないものはありません。
「地方庁の技術員即ち農業技手は田舎を巡回して盛に金肥の奨励をして居ります。農民には固より之を買入るゝ丈の資金がありませんが、技手等は商人と結託して肥料の前貸をさせます。そして殆んど強制的に之れを使用せしめてゐます。肥料代金には月に三分の利子を徴するのが普通ですが、之が秋の収穫期になると有無を云はせず取られます。農民に残る所極めて少いことは御話の外す。
「斯んな風で朝鮮農民はとても浮ぶ瀬がありません。彼等が年と共に貧困に陥るのは単に彼等の無智なるが為ばかりではありません。内地の人々にも能くこの事を考へて頂きたいと思ひます。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/982101/71

京城日報 1928.8.16-1928.8.17(昭和3)
朝鮮人更生の途
=我が道の新施設=
慶尚南道参与官 李範益
 
朝鮮人の生活状態は依然として旧態を脱せざるのみならずその内容を査覈するときは困窘の度日に増し月に加え殊に全人口の七割強を占める細農民の生活は実に悲惨を極め正視するに忍びざるものあり然しながら朝鮮人の経済状態貧弱にして生活程度低劣なるはこれ祖先伝来の遺物にして近来の新事実にあらず否その生活様式は一般に向上進歩せりというべしただ他に比較しまだはその数において増加しその内容において困窮しあるのみなり、

大阪毎日新聞 1928.8.21-1928.8.28(昭和3)
朝鮮米の宝庫
全州平野を見る

西村生
知事の話を聴いて自動車を全州平野に馳せる。アカシヤの並木かげ涼しき通路は坦々として沃野の真中を貫く。一行は外山大阪府農林技師、杉本本社裏里通信部主任本山富民協会朝鮮出張所主任の人々である。外山技師はただ曠々漢々たる平野のつづく限りが稲田なることに驚くのみである。杉本氏は説明を加えて 
この道路の敷地も表向きは寄附だが実際は道路に占領してしまったものだ。ここに敷かれた割石は賦役で村民が割って敷いたものだが石を割るときに知事のあたま、知事のあたまといって割ったのだそうだ 
という、渡辺知事に尋ねることをつい忘れてしまったが、それじゃ知事の頭がいくつあっても足りっこはあるまい 

だが、朝鮮の道路改良も産米計画も、全くこの道路のように、左様に簡単に実行できるのだ、それは朝鮮の奨励なるものは直ちに命令となって下僚役人から農民に強制されるからである。悪いといえば悪いかもしれないが、とにかく徹底している。正条植がよく行われていると感心するとある役人は立どころに「正条植をやらないところは皆抜いて終うからだ」と応じた、そのくらい仕事に熱心な役人がおることと、またそのくらい強制的に奨励されて黙っている朝鮮人がおることによって、朝鮮の農業はグングン発達して来たのである。だから朝鮮の農業は命令的に発達して来たものだともいえるそれだけまた弊害もある。かつて某道では十ヶ年計画で棉作の奨励をやり、毎年少なからぬ費用を投じたのであった。十年目に見事統計は予定数量に達したが、実際市場に取引されたものは十年間に十分の一になっておったそうだ。役人がテーブルの上で数字を計画通りに製造しておったのである 

神戸新聞 1931.6.19(昭和6)
新総督の手腕に俟つ治鮮上の諸懸案
政治的、国際的に解決を急ぐ
産業、文化各般の要求

一、教育問題
 教育問題は池上総監時代に一面一校主義の実現に努めたが富裕の地方には行き亘っているが財政貧弱の地方には学校未設立のもの多く教育は行詰りの状態にありまた教員についても当局は内地人教員を主としているが内地人は俸給高く経費の都合上朝鮮人教員を多く採用すべしとの問題もある統治上多大の利害関係ある問題だけにこれを如何に解決するかは注目されている、また朝鮮においても内地と同様小学校卒業者の上級学校に進むに当り中学校を主とし実業学校を蔑視する弊習があるから実業学校の増設を奨励すべしといわれている、これは産業政治上朝鮮人の技術習得者を必要とする現状に鑑み軽視し難い 

大阪毎日新聞 1932.2.13(昭和7)
外地統治の一進歩
日刊新聞許可と立候補

最近外地関係において、二つの注意すべき出来事を見る。その一は、台湾党則府が土着民すなわち台湾本島人に、日刊新聞発行権を許可したことであり、その二は、東京および大阪において、朝鮮人が衆議院議員選挙場裏に打って出たことである。・・・
  台湾人が自己の手になる新聞を有せんとする希望は、決して今日にはじまったことではない。かれ等は大正八年朝鮮人に日刊新聞の発行権が許与されて以来、熱心に同様の特権獲得運動に従事したが、島内においては到底望みなきを知るや、大正九年東京において「台湾青年」なる月刊雑誌を発行し、昭和二年漸くその発行所を台北に移転することを得、「台湾新民報」と改題して、半月刊より旬刊に、旬刊より週刊と漸を逐うて進み、遂に今回当局の諒解によって、多年の宿望を達することを得たのである。・・・台湾当局は台湾人に日刊新聞の発行権を許可すると同時に、また内地で発行する新聞に対しても、島内における号外発行権を認めた。これも当然のこととはいいながら、当局の新聞に対する理解の進歩を示すものというべきである。然るに早くすでに土着民の新聞発行権を承認した朝鮮総督府が、今なおこの点につき逡巡決するところなきは、吾等の諒解する能わざるところである。

京城日報 1932.6.14(昭和7)
全鮮農家の七割借金で四苦八苦
哀れ生活費の赤字

朝鮮農村に於ける農業資金としての負債額につき本府当局が小作慣行調査に附随して調べたところによると昭和五年末の現在は次の如くである 
各種銀行貸出一億七千三百七十三万四千円 
東拓貸出八千二百六万七千円 
金組その他貸出二億八千四百八十二万六千円 
計五億四千六十二万七千円 
地主 土地購入資金、農業資金、土改資金、保証債務、浪費、商工業投資、投機、教育費冠婚葬祭費 
小作 大部分生活費、冠婚葬祭費、農業資金 
この他に個人賃借も相当莫大なる額に上る見込みで全鮮農家の七十パーセントが借金に悩まされて居るが当局者の談によると一戸当り先ず二百円見当の負債を背負っている模様である、なお右借金は地主に於ては大体抵当債務、小作に於ては信用貸でその種類は次の如くである 

国民新聞 1933.1.28(昭和8)
全鮮の司法官結束 宇垣総督を排撃す
一大廓清運動を開始

独裁政治に阻まれる司法部の威信 速やかに本省の直属とせよと議会を目指して運動 
  裏面に潜在せる理由としては?その影響するところを恐れて厳秘とされているが、朝鮮の司法部は地方法院、覆審及び高等法院の三部制となっていて、しかも司法の権限は総督の独裁政治下にあるだけに総督の自由意思によって左右され得るものである、これが為め仮令重大な事件或は犯人についても断然法の処分を免れぬものであっても、最後の裁断に至って総督の意思により往々握り潰しにされる事があり、又内地に於て過般来問題となり涜職事件をじや起して、遂に幾多起訴収監された鉄道省の談合事件の如きも、朝鮮に於ては法律に処断すべき条文がない為め官公吏の如きは公々然として醜行為を行っているので検事局では官制の欠陥に何れも切歯しているものの手の下しようなき有様などその一例に過ぎぬものであり又新時代に適応した思想方面の取締り施設に関する新規事業の予算を提出せんとしても前記の如き冷淡な態度よりして貫徹せず遂に宇垣総督不信任の声となり、更に神聖なるべき司法部の威信をより良く発揚する為めこの際裁判所法を改正して司法大臣の直属とし、根本的に改革せよと云う重大なる要求を拓務、司法両省に向って提出せんとするもので、中野氏は全鮮判検事の決議と意思とを代表して議会開期中を機会に密かに上京し、先ず倉富枢府議長、貴族院議員法学博士鵜沢総明氏等を初め政界要人等の間に賛同を求め小山法相、永井拓相等の間に実際運動が着々として行われつつあるもので過日朝鮮より司法官代表者が密かに上京し在京司法官及び法曹団との間に諒解が行われた模様で、朝鮮及び内地相呼応して猛烈なる運動が愈々展開される雰囲気となった

中外商業新報 1933.1.31-1933.2.4(昭和8)
満洲国成立後に於ける朝鮮
法学博士 蜷川新

・・・然るに事情はここに一変した、朝鮮人のための天地は日本の努力によって広き満洲に拓けたのである、これ迄朝鮮人は朝鮮を以て日本の西北端であるとなし、いわば辺境にあるの心情をもっていた。日本内地に対する独立運動の如きも、日本からの冷遇と、辺境にあるという二つの誤解より出発しているものが多かったのである、然るに満洲国の成立により、ここに日本内地人、朝鮮人の進出の地が見出されることになれば、朝鮮は最早、辺境の地ではない、それどころではなく、朝鮮の地は朝鮮人を含めた日本民族の移動、活動の大中心地となったといわなければらないな。 
 これ等のことが朝鮮人の思想、精神に良好なる影響を与えたことは否むことの出来ない事実であるこれは予の親しく目撃せるところであるが、今より三四年前までの朝鮮人の気持の中には、現状に対する不満と、呪咀と、悲観とが明かに観取されていたのである、しかるに今日の朝鮮にはかかる悲観的気持と、思想的危懼は一掃されているのを見ることが出来る、これは即ち朝鮮に思想的又物資的に輝ける希望の齎らされたことの反映である、これは甚だ喜ぶべきことであるが、それと同時に、この朝鮮に齎らされた一好転機を利用助長しないならば再び元の朝鮮、暗い憂鬱なる朝鮮に復帰しないとも限らないのである、・・・

昭和九年一月十日於総督府 ※1934年
宇垣総督口演要旨(各道農村振興指導主任者打合会席上)
朝鮮総督府

○農村窮乏の実情
  始政以来各般の施設は年を逐ふて面目を革めつつあることは、統治の大局より見て争ひなき所でありますが、飜て仔細に之を見直すときは、尚未だ刷新改善を要するものが少くないのであります。就中最も窮乏を訴へつつある現下の農村に付て之を見まするならば、其の約八割は小作階級に属する細農を以て占めて居ります此等は過去多年の秕政の結果、搾取、誅求に苦しめられて来たのでありまして既に其の心境は著しく荒み、所謂酔生夢死奮発心も感激性も消磨し希望も理想も意気もなく、其の日暮しの悪習に惰し、自ら意識して其の生活に改善工夫をすると謂ふやうなこともなく、全く時代後れの環境に甘んじ年々歳々食糧の不足を訴へ、高利の負債は逐年増嵩するのみならず、収穫時期には債鬼殺到して、彼等全年の努力も或は借入食糧の返済となり、或は負債利子の償還に充て余す所なく、春窮即ち端境期に於ては食糧不足し、山野に草根木皮を漁り辛ふじて一家の糊口を淩ぐが如き惨目なる状態であって、此等は年の豊凶に依り素より一様ではありませんが、其の概数は農家総戸数の四割八分約百二十万戸に及ぶ年も在ったのであります。換言すれば朝鮮の農民中には過去に追はれ、現在に苦みて、将来を楽むなどは思ひも及ばざるものが多いと申さねばならぬ

○農村窮乏の恢復困難なりし原因
  始政以来此の窮乏を恢復することが容易に出来ざりし原因が奈辺にあるかと申しますれば、一言にして盡せば、農村の大衆が一般に無自覚であると謂ふことに落付くのであります、更に之を具体的に申しまするならば、一般農民が農村の特色、農業の本質、農村人の理想信念人生観と謂ふやうな、農村生活の基調となるべき大切な事柄に付ての理解が極めて乏しかったからであります、之は独り農村人のみの罪に課すべきものでなく、広く政治、経済、学術等に携はる者の認識の欠如も斯くせしめた一半の責を負ふべきであって、其の窮乏打開の途も亦自ら此等両方面の覚醒に俟って之を解決するの必要があるのであります、此の点は御互も深く反省して見る必要が大にあると思ひます。
  話が少し横途に入りましたが元に帰って、此等農民の無自覚は如何なる点に顕れ、如何なる点に禍するに至ったかに付、少しく考察を加へて見るならば、先づ第一に自家の立直し、即ち生活、営農に或種の必要を意識して之が改善工夫を為すことがない為に、各種作物に尚幾多増収の余地を残したまま、余剰労力は利用消化の途を講ずることなく捨てたまま、孰れも之を放任して顧みない、其の結果は食糧の不足も補ふことも出来ず、負債の償還は素より利子さへ碌々払へないのである。更に経済的打算の観念に疎い結果として、必要の前には前後の事情も弁へず、極めて無頓着に高利の債務を新に作りて益々其の重圧に苦しみ、自己の立場に不相応なる文化生活の風潮に煽られて自給自足の経済観念を弛めたる結果は、交換経済、貨幣経済が不自然の状態に迄農村に喰ひ込んで来て、農村社会組織の特色は驚くべき勢を以て破壊に導かれつつあったのであります、朝鮮の農村は大様以上の如きに原因を胚胎して積年の疲弊に更に一段の拍車を加ふるが如き、状態に至ったのであります。

○農村救済の必要
  斯る窮乏の中に多数の農民が不安なる生活を続けて居るから、春窮期には食を山野の草根木皮に求むるが如きことにもなるのであらうが、如何に之が旧来の陋習であり、自他共に怪まざる伝統的農村の姿でありしとは申しながら、誠に気毒千万、実に一視同仁にまします陛下の赤子を永く此の状態に置くことは忍びないのであります、此の多数の恵まれざる農民の存在は、正しく朝鮮統治の一大憂患であって其の生活の安定と向上とを放任しては朝鮮の開発は断じて望み得ないのでありまして、之が対策は統治上最先最急の要諦であり、且其の根幹を成すものと信ずるのであります、始政以来二十有五年、其の間歴代の統治者が、此等大衆の生活に同情し、苦心して過去幾多の施設を重ね来れるは寔に其の着想に敬服の外ないのでありまして、私が着任以来特にこの点を重視し従来の施設に更に一歩を進め、之を強調しつつある所以も、亦此の意味に外ならないのであります、殊に最近異常の豊作と農産物価の低落とに因り、一層の施設対策を要するものがあり、更に連盟脱退後に於ける帝国内外の情勢と朝鮮の経済的、地理的特種事情とは、本施設に格段の重大性を加へ且急速度を以て其の実施を要するに至った次第であります。
・・・

アジア歴史資料センターhttp://www.jacar.go.jp
レファレンスコードC13021421300

時事新報 1934.1.18(昭和9)
農奴解放を唱えつつ何故弾圧を加う?
朝鮮小作令制定に絡む不可解な当局の態度

朝鮮総督府に於ては朝鮮全土に小作令を布き、以て朝鮮に於ける農村経営の合理化並びに農村振興の資に供せんとて目下拓務省を始め法制局方面とで折衝中であると云われている、朝鮮小作令の趣旨は政府に於て曩に内地に制定せんとした小作法案を骨子とし、これに朝鮮特有の慣習を考慮して立案されたるものにして、朝鮮総督府はこの小作令を以て「朝鮮の農奴を解放するものなり」との殉情的感情に自ら興奮を感じていると伝えられている、然るにも拘らず朝鮮総督府は一たび朝鮮農民がこの法令に対して賛否の声を挙ぐるや之に対して断乎として弾圧を加え、小作令に対する言論、出版の一切は禁止し、集会をも禁止するの強圧手段を執りつつあるは何故であろうか、吾々の頗る不可解とする所であって、人心の不安動揺を却って激化せしむるに役立てばとて百害あって一利なき次第である、故に本社は茲に朝鮮小作令の骨子並に農村事情を報道すると共に小作令に対する賛否の意見を掲載し内地人が朝鮮小作令に対する是非の批評を為すの資とし進んでは朝鮮統治の立場より検覈するの要あるを感ずる次第である

京城日報 1934.6.28(昭和9)
総督府の自主解除果然、好評嘖々!
農林省の横槍を他処にして米価も徐々に安定

朝鮮総督府において全鮮的要望と特殊的な鮮米事情に鑑みて実施を発表した長期貯蔵籾六十万石解除問題は、飽迄目前の米穀有掠れに頬冠り態度で静観にあった農林省にとって寝耳に水の大衝動をあたえ、朝刊既報の如く農林省では朝鮮総督府の解除を遺憾とする旨の態度に出で、俄然内鮮米界にこの喰い違いは一大センセーションを捲き起しているが、一般朝鮮財界及び貯蔵者は総督府のこの英断的な解除を早天に慈雨の如く歓迎し、かつ金融筋その他でも解除実施に好評さくさくたるものがある、即ち 

一、鮮内の米穀事情は例の外米統制を繞り極端に出越せるため、飯米飢餓は特に深刻を極め、四月以降より満洲への代用食輸入、蓬莱移入をもって充てる状態で、この解除実施はこの極端化せる飯米飢餓解消の役割を果たす 
二、長期籾貯蔵は周知の通り朝鮮の特殊的な□積が行れて居り、梅雨、□実期をむかえてその懸念あり、積替えの技術的困難(混保を行い得ず、特別保管のため)等から実際問題としても解除の必要があった 
三、一部解除は、これがため産繭安で春窮から夏窮と連続する鮮内農村に丸貸と時価差収入で弾力をあたえ、購買力を助長する 
四、更に籾貯蔵は内地と異り朝鮮にとっては連続的実施の必要あり、この点解除条件に適合に際し解除実施は、貯蔵者金融筋ともに好感をあたえ明年度実施上にも好響がある 

しかして前日籾解除のニュースを移して衝動的に悪化した米価も、解除内容の徹底とともに漸次落付き、本日の市況は前日太引に比し朝取十二丁高、釜山十三丁高と夫々前日の人気下げを訂正し来っている 

京城日報 1934.8.9(昭和9)
米と朝鮮
高田米穀顧問の調査報告

過般来鮮、約一ヶ月に亘り、朝鮮の米穀事情を調査して帰東した米穀顧問高田耘平氏は、七日、農相官邸に開かれた米穀顧問会議に於て、氏が調査の結果を報告したその梗概は、本紙八日の朝刊に記載せる通り、昨年来、立替り入代り米穀事情調査のためとて、朝鮮を訪れた人々のそれに比し、幾分立優っているようであるし、殊にその結論に於て特色が認められるので、ここに簡単に論評を試みることにする、尤も氏の調査も他の調査班や、視察者同様、不徹底の憾みはあるように見える、ただ他と異るところは、結論を、朝鮮海峡の彼方に於て準備し、これが引証のために、種々の材料を、朝鮮に物色するの□みに倣わなかったことである。 

氏は『朝鮮農民の生活は、全くお話にならない、その大半は大麦や粟を常食としている』といい、春窮期には麦も粟も食尽し、草根木皮に露命を継ぐもの百二十万戸六百万人に達す、と驚き、一、而もこれ等の農民が、小学児童の月謝七十銭を納め二、併合当時、米一人当り消費量は七斗二升一合であったものが、最近では、四斗八合に激減している、自分は、朝鮮の農家を実地に視察するまでは実に不思議に思っていたが、あの状態では、朝鮮農民は、到底米を食うわけに行かない、と嘆じ、而して、ただ徒らに朝鮮米の内地移入を問題にするのは、朝鮮農村の実情を知らないもののいうことである、と悟り、『朝鮮の農民を如何にして救うべきかが先決問題で、それが自ら朝鮮米問題の解決ともなる』と断じている、即ち朝鮮の実情を直視し、そこから結論を抽出している、然し実情を真情を直視しながら、その由来と、動向と、更にその内臓、裏面に対する洞察に於て、多くの及ばざる点がある、総じて『今一息』の憾みがある。 

氏の観察に従えば、併合以来二十五年、朝鮮総督は、総督府は、一体何をしていたか、ということくらいのものだが、氏といえども、既往二十余年間に於ける産業の発達、民度の向上が、如何に目醒ましきものであったかを、よもや見落し、聞漏らしはしなかったであろうと思う、先ずこうした事実を具わなくては、氏の報告は、嘘ではないが、真を伝え得ないことになる、何故ならば、春窮は近年に始まったことでなく、内地でも端境期の農村は、随分平年でも、生活に苦しむ時期なのである、況じて朝鮮の農村である、文字通りの春窮は、晩春の交から、夏日の暑気と同じく、間違いなく、襲来するけれども、併合前と、今日では、多大の相異がある、その程度をいえば、疇昔、春窮期に於て、草根木皮に露命を維ぐのは全鮮を通じて、細農一般の恒例であったものが、現今では、早魃、水害、或は特産物の不作など、諸多の原因による、或地方における或階級或村落に於ける或家族の上に起る特例的な事象になっている。 

尚お上記一、二の事項に就ては特に一言するの必要を感ずる、一初等学校の月謝七十銭は、朝鮮の場合、頗る重き負担のようであるが、各校々舎は、原則として官の建設に係り、教職員の俸給は、官給であり、未だ義務教育の制度を採用するに至らないので、月謝はいわば負担し得るものが、負担するという立前におかれてある、さすれば改善の余地はあるにしても、非難の理由はない筈、併合当時、米一人当消費量七斗二升一合であったものが、最近四斗八合に激減した、という、ただこれだけを指摘したのでは、如何にも民度衰退の左券を挙げたようで、甚だ面白くない、鮮内雑穀の増産著しきのみならじ、巨額の満洲粟を輸入し農村では米よりも雑穀を以て主食物としているのである、だから米の消費率は、これは民力の衰退を意味するものではない、但し安価な雑穀を食い高価な米を売るの必要なる、悉くは已むを得ざる事情の厳存を否認することは出来ない、だから氏が鮮米の内地移入に関し、『朝鮮の農村民を如何にして救うか、ということが先決問題であり、それが自ら朝鮮米問題の解決ともなる』とする氏の見解はその妥当性に於て、従来発表されたる雑多の鮮米対策を圧して特色を示すものである。 

京城日報 1934.9.12-1934.9.16(昭和9)
朝鮮の将来 (一)
中等学校長会に臨み 宇垣総督の大講演 京城帝国大学講堂にて
地方振興、自力更生 ※宇垣一成

先刻は話が一寸地方振興自力更生のことに触れましたから、少しく話題をその方に進めます、即ち今日疲弊萎靡の極にある半島を蘇生せしむるには、何んと申しても総人口の約八割を占むる農村の建直しと云うことが最も先決問題であると考えまして、現在の統治に於て最大の力をこめ、大車輪になって遣り居るのが此建直しの作業であります、今日内地でも農村問題のやかましく白熱化し居る折柄朝鮮の夫れの一端を御紹介申上げるも敢て徒爾ならずと存じます、併合以来各般の施設は年を逐うて面目を改めつつあることは統治の大局より見て争いなき事実でありますが、飜て仔細に之れを見直す時は、尚未だ刷新改善を要するものが少くないのである。就中朝鮮実力の核心をなし、而も最も窮乏を訴えつつある現下の農村に付き之を見ますならば、其の約八割は、小作階級に属する細農を以て占めて居るのである、此等は李朝中葉以降搾取、誅求に苦しめられて来たので既に其の心境は著しく荒み意気は甚だしく衰え、所謂酔生夢死、奮発心も感激心も工夫力も消磨し、全く其の日暮しの悪習に堕し、自ら意識し、発奮して其生活を改善工夫するとか、向上発展を図るとか謂う様なことは乏しく全く貧窮の環境に陥り、年々歳々食糧の不足を訴え、高利の負債は逐年増高するのみならず、収穫時期には債鬼殺到して、彼等全年の努力の結晶物も或は借入食糧の返済となり、或は負債利子の償還に充てて余す所なく、春窮即ち端境期に於ては食糧が不足し、山野に草根木皮を漁りて、辛うじて湖口を凌ぐとか、袖乞となりて他家の門前に立ち、僅かに露命を繋ぐが如き誠にみじめなる状態であって約言すれば朝鮮の農民中には過去に追われ、現在に苦しみ、将来を楽しむなどは全く思いも及ばざると云う状態のものが頗る多いのであります、併合以降此の窮乏を回復することが容易に出来ずして、最近に至りし原因が那辺にありしかと申しますれば、一言にして尽せば、農村の大衆が一般に無自覚であると謂うことに落着くのであります 
 更に之を具体的に申しますならば、一般農民の特色、農業の本質、農村人の理想信念所謂人生観と謂う様な、農村生活の基調となるべき大切な事柄に付ての理解が極めて乏しかったのであります、之は独り農民のみの罪に帰すべきものでなく、長い間の因習及び政治経済学術等に携わる者の此の点に関する矯正努力の欠如も斯くせしめたる一半の責を負うべきである、従て今後に於ける窮乏打開の途も亦自ら此等両方面の覚醒に俟って之を解決すべく、今や正に其の方途に進みつつある所であります 
更に此等農民の無自覚は如何なる点に触れ、如何なる点に禍するに至ったかに付、考察するならば先ず第一に自家の建直し、即ち生活営農に或る種の必要を意識して之が改善工夫を為すころが無い為めに各種農作物に尚幾多増収の余地を残したままに、又余剰労力は利用消化の途を講ずることなく捨てたままに申す様に、孰れも之を放任して顧みない、其の帰結は食糧の不足も補うことも出来ず、負債の償還は素より利子さえも碌々払えないのが普通である、更に経済とか打算とかの観念に疎い結果として必要の前には前後の事情も弁えず、極めて無頓着に高利の債務を新に作りて益々其の重圧に苦しみ、又自己の実力に不相応なる文化生活の風潮に煽られて、自給自足の経済観念を弛めたる隙に乗じて、交換経済、貨幣経済の風潮が不自然の状態に迄農村に喰い込み来たって、農村の社会組織の特色は破壊に導かれ、斯くして朝鮮の農村は積年の疲弊に更に一段の拍車を加うるが如き惨状に立ち至ったのである 
 斯る窮乏の中に多数の農民が不安なる生活を続けているから、春窮期には食を他家の門前に、或は山野の草根木皮に求むるが如き事になる、昨日到城廊、帰来涙満巾、遍身綺羅者不是養蚕人とか米作人非米食者との古入の言葉も偲ばれて、如何に夫が旧来よりの陋習、仕来りであり、自他共に怪まざる伝統的農村の姿でありしとは申しながら誠に気の毒で、実に一視同仁にまします、陛下の赤子を永く此の状態に置くことは忍びない、相済まざることである、而して此の多数の恵まれざる農民の存在は、正しく朝鮮統治の一大憂患であって、其の生活の安定と向上とを放任しては朝鮮の開発も進歩も、繁栄も断じて望み得ないのでありまして、之が対策を講ずることが実に統治上最先最急の要諦であり且其の根幹をなすものであると考えまして、就任の翌年即ち昭和七年の初春以来、夫れに大いに努力を傾注して来った所であります 
然らば如何にして此の窮状を匡救打開すべきか、如何にして其の運動を強化すべきかの方策につき案ずるに、凡そ二つの方策がある、即ち其の一つは土木砂防工事等の□銀撒布に依る救済施設がこれであり、他の一つは所謂自力に依る農業経営の改善、農家経済の建直しである、前者は素より必要であり、現に実行も致しては居るが、其の効果は一時的に農村に活を入れるようなもので、恰も重病人に対するカンフル注射と同様で、時を経て更に又第二、第三の注射を要するものであります、斯の如きことは政府の財政の見地からしても永続せしむべき性質のものではない、畢竟するに、真に農村を救い、農民を根強く起ち上らしむる唯一無二の根本方策は、後者の所謂自力更生の運動で、即ち現に最大の力を傾注して実行中の農村振興運動より他に求むべき方法はないと信じて居ります、而して此の運動は第一に農村今日の窮乏の因を成している点に遡って其の方策を建てねばならぬ、之には先ず農村の特色と農業の本質と、農民の理想信念所謂人生観の三つの重点に立ち帰って農民は勿論、農村の指導に当る一切の関係者を挙げて之れを自覚せしめねばならぬことであります、この自覚を促進する方法として昭和七年春以来盛んに精神作興、民風改善の教化施設に力を用いたのである、之を基調として更に生活の改良、営農の改善、余剰労力の利用等の経済施設に及ぼして農村の更正を実現しつつある所であります 
此の自力更生運動は民衆が比較的今尚素朴、簡易生活になれて居り農法は原始的にして、改善の余地大に存し居る関係上着手後日尚浅きにも拘らず、一般の自覚と、あらゆつ公私機関、有識者の協力一致せる努力と、全鮮総動員的の奮闘によりまして、着々と効果を挙げつつある所にして、五年八年の後には朝鮮農村の面目は一新し実力は充実し、農民の生活は安定より更に其の向上の域にまでも進みて裕に母国の進運に寄与貢献し得るの見込みが確立しかけて居る所であります 
而して尚当局としては此の運動を強化し、促進し、且効果的ならしむる為めに、農村中堅人物の養成に格段なる努力を払い、高利の借金を低利債に借換えしむべく便宜を図り、地税を引下げて農村負拠の軽減を行い、低利資金を融通して自作農の創設に資し、小作法(農地令)を制定して地主小作人間の協調により農事の改良、小農の生活安定を図る等色々と此の運動の大成に資すべき施設を致して居る所であります、斯くして農民が自覚し、農村が振興し、地方が楽園化せんとする結果として、田舎の人々が禄々に仕事も無いのに都会地に集中し来らんとする、忌むべき傾向も漸次薄らぎつつある様であります、此の運動に関する目覚しき、溌刺たる趨勢は恐らく今の処では母国に誇り得る朝鮮特色の一つであると申上げ得るのであります尚都会地の更正運動も地方振興と相呼応して今春来着手している処であります 

京城日報 1934.12.27(昭和9)
過剰非常時下の米穀界
鮮米擁護運動の苦験

鮮米の三四年の苦験は正しく歴史的事実であった、と同時に強化しゆく米穀政策下の朝鮮はその統制おいて銘記さるべき自主的統制を発揮し他動的ならざる朝鮮独自の対策を施行した点に、おいても記録さるべきであった、まず全鮮を一度は亢奮のルツボの真只中に投入した米穀統制の試錬を回顧すれば本年初頭に展開され来った米穀過剰非常時の展開八年度の端境持越が理想持越の三倍余一千七百万石突破予想と米統法が公定米価買上の激増によって遂に破綻にひんする……との新事態は過剰対策として鮮米の法制的移入管理問題を内地において熾烈化せしめ、これは帝農、政党のみならず、六十五議会において農林省もまたこれに追随の形勢を示した、朝鮮経済の生命線、鮮米に切迫せるこの事態は鮮内の官民識者の与論を沸騰し、鮮米擁護期成会の決然奮起となり二月七日まず松井、三井等の鮮米擁護統制絶対反対を中央に徹底せしめる陳情運動となり、引続き東上運動員五十余名を送り全鮮各地において暸原の火の如く統制反対運動を烽起せしめたこの全鮮をうって一丸とする猛運動と拓務及び朝鮮総督府の猛運動は遂に奏功し、六十五議会では外地米統制は 

一、臨時外地米統制法 
二、米穀特別会計資金の拡充 

但し来るべき米穀年度までに根本解決を計るべしとの附議決議を付せられて鮮米の危機は一応経過したのであった、その後米穀対策が強調されつつ斉藤内閣は岡田内閣に代った、夏期を迎えて稀有の変調天候は北陸の水害をトップに九州旱害、朝鮮水災、東北冷害、関西風水害の連続的の現出は飯米飢饉の現出となり、九年米米作は俄然一大記録的凶作を見越されるに至った、この状勢の下に、斉藤内閣の公約たる米穀根本対策のために十月初頭米穀対策調査会が招集された、同会には農林省を始め政党、有識者の夫々試案の提出をみ、政党、官界、民間の権威をあつめて対策を附議したが、依然最終解決を見出すに至らす現在に及んでいるが、常に鮮米の差別待遇説を生じ勝ちで、これに対し米調会の調査委員有賀賀光豊氏及び総督府関係では効果的な反対運動を継続したのである、この米調会帰着点は未だに逆睹を許さぬものの、鮮内官民が白熱的に一致団結し、鮮米統制論に抗した事に、ながくながく銘記さるべき事実であった 
しかしてこの一面、好むと好まざるに拘らず、米穀政策は一歩一歩強化を示し、九米年度には米穀法第四条による季節調節買上げ及び、籾の長期貯蔵三百万石が施行を見たのである 
鮮米買上げは、米穀統制の第四条により、公定米価買入の補強工作として十二月初頭より四回に亘り、通計百三十四万石余を買上げ、鮮内の浮動米を一掃したこれと併行的に朝鮮総督府では低資二千九百万円をもって籾の三百万石長期増蔵を施行し、両者共に殺到的要望で大成績をおさめたが、これは内地の公定米価により政府へ米穀吸収と相俟ち、本年五月末より政府は一千五百万の手持米を擁し乍ら目縄自縛的な飯米飢饉を惹起し特に春窮期の朝鮮の飯米不足は極度に達したこの対策として本府では六月末敢然籾自主解除を断行したこれは朝鮮の特殊的事情に立脚し鮮内から好評嘖々たるものがあったが内地特に農林省ではその抜打的態度に対する批難を生じて問題化したものの結局内地の六百万石貯蔵もこれに追随し断然朝鮮は面目を見せた、この長期増蔵は八月及び九月と三回に亘って解除をみ鮮内の籾放売慣習並に金融化に大きい貢献をあげつつ貯蔵差益七百万円余を農村に潤した 
九米年対策内鮮凶作によって、過剰米穀の事情は解消しきたったが、米価の急奔騰と内地凶作のため移出調節が考慮せられ、十一月末の米穀委員会では外地米の百三十五万石買上方什を決定したが、年内に実施をみず、籾の鮮内貯蔵も長期を行わず短期のみ十二月より玄米二十万石、籾三十四万石に対して施行せられたのみだが、自治調節問題がこの前途に横り依然多難を予期せられている 
この米穀統制の波及は鮮米の移出動向に反射的に現出し、本年初の買上げ、籾貯蔵は二月上期まで順調の月別移出を示したが、その後統制問題は見越移出を激増せしめ内地の飯米不足も作用し総移出が九百四十九万九千石と記録的大量を示したのみならず移出月別もまた変調を示した、五年平均の季節指数及び前年及び本年を対比すれば次の通り 

大阪朝日新聞 1935.6.11-1935.6.29(昭和10)
朝鮮の経済
特派員 広岡知男
 
人口の急増加に伴わぬ産業 内地、満洲へ溢れ出る因
 ・・・しかしながら、翻って産業の伸張と人口増加が相伴っているかどうかをみると、総人口の七七・五%(昭和八年末現在)を占めている農林牧畜業者が、大正十三年より昭和八年にいたる十年間に百二十六万一千人(全増加の約半分)殖えているに対し、農牧産品価額は世界的な農産物価低落のため十二億八千五百万円から九億二千万円に減少し、林産物価額も同様な傾向を示しているのである。もっとも農産物収穫高は耕地面積の拡大と耕作技術の進歩とによって漸増してはいる。しかし父祖伝来の重い負債をおい、冠婚葬祭を□る弊風に縛られている多くの下層農民達にとっては、価格の下落は最も手ひどい打撃に違いない。 
 この窮状こそ農家の男女をして満洲へ、内地へ、都市へと流動せしめている原動力である。貧農階級の子弟達は、旱害と水害と風害に脅かされねばならない農耕を捨てて直接現金を握ることの出来る労働生活に走る。斎藤総督時代に創始された窮民救済土木事業は、もともと農家経済を霑すことが目的であったのだが、農村を離れて労働者に転身するものが続出したため、地方庁が財源難に苦しみつつある今日、総督府は失業問題ひいては内地渡航問題の激化をおそれてなお打切り得ない現状にあるこの事実は前記の傾向を反映するものに外ならず、朝鮮農村が労働者群に吸収しうべき過剰人口を、豊富に包容していることを物語っているものではあるまいか。 

知識程度の低い朝鮮の労働者
 工業にとって労働が有利な条件であるためには、労力が容易に得られると同時に、それが安価でなくてはならないが、朝鮮における労働は供給が豊富であるのと労働者の生活程度が低いために今なお低廉である。朝鮮には担軍という、よく支那の苦力に対比される自由労働者の群がいる。担軍は苦力と同じく荷物の運搬が主な仕事で、南鮮地方の波止場人足など大部分これだ。群山の港では担軍達が重そうな米袋を背負って船に積込んでいるところをみたが、朝から晩まで□々として働いても五、六十銭位なものであるという。また、朝鮮人の土工トロ押し、担軍などの並人夫についても、総督府の「道路、港湾、建設諸工事に関する労働者使役状態調査」は、日給四十銭乃至八十銭と報告している。 
 以上は単純な筋肉労働を売る戸外労働者であるが、工場労働者についても同様である。即ち当時十人以上の労働者を使用する鮮内各工場について、総督府学務局が調査作成した統計によると、男子成年工(十六歳以上)の賃銀は、内地人が最高七円四十五銭、最低十銭平均一円八十七銭であるに対し、朝鮮人は最高四円八十銭(精穀業)最低十銭、平均八十五銭で大体朝鮮人は内地人の半分となっている。さらにこれが朝鮮人の幼年工(数え年十六歳未満)や女工となると、また遥に安く、男子幼年工は最高一円、最低十銭、平均三十銭、女子成年工は最高二円五十銭、最低十銭、普通四十六銭、女子幼年工にいたっては最高一円二十銭、最低六銭、普通二十九銭を示している。 
 六銭という全く途方もない日給は、製網工場に働く少女の賃銀である 
 賃銀が安いのみならず、労働時間も内地に比して遥に長い。前記の統計によると、千百九十九工場中就業時間九時間以内のものは六十七即ち総数の五%強に過ぎず、十二時間以上のものが四百九十三即ち四六・九%を占めている。就中、米の収穫期後における精穀業メリヤス製品製造業などの如きは一日の労働時間十五時間以上に達し、しかもその莫大小製造業が昼食時に一時間の休憩を与えている以外は、休憩時間の定めさえないものが多い。 
 現に、平壌の三共洋襪工場(木綿靴下製造)の如きは、歴代総督の視察した模範工場でありながら、普通就業時間は午前六時より牛後八時までであり、繁忙時には午後十二時まで延長することになっていると語っていた 
 なお朝鮮において内地人職工の賃銀が朝鮮人の約二倍に達している理由は、内地人が主として熟練工であるに反し、朝鮮人は概して知識程度の低い未熟練労働者である結果である 
 記者が参観した内地資本系の工場では、内地人は係長や特殊技能者が多かった。殊に屡々見かけたようにそれがやっと二十四五歳位にしかなっていないような青年である場合には、内地から出かけたものの目には何だかチグハグに映ずるのであった。 
 勿論、労賃の高低は労働者の能率と関聯せしめて、これを見なければ無意味である。朝鮮人の労働者としての素質に関しては袤貶とりどりの批評が行われている。先ず欠点としては、知識程度が低いために頭脳を必要とする仕事または緻密な仕事に適せず、また忍耐力薄弱で不平が頗る多いということが一般にいわれている。 
 日本鉱業の鎮南浦の精錬所では責任感の弱い点をあげ、嘗て同所で金鉱石の分析に朝鮮人労働者を使用していたところ、鉱山側に買収されて鉱石の品位を高めるために金粉を試験用の鉱石粉末中に混合して、非常に困った事実を述べていた。また、新義州の王子製紙では、退職金のやっとつくころになると、これをほしさに会社をやめるものが多く、また賃銀につられて諸所を転々し熟練するまで一定の仕事に辛抱するものが少い点を指摘していた。 
 しかし、一般に認めめられている鮮人労働者の長所は、天性手先きが極めて器用であり、どの仕事に対してもこれを厭わずに相当こなして行く点である。平壌の小野田セメントでも、仁川の東洋紡でも操業の最初は内地人職工を混ぜたり、内地へ見学にやったりしたが現在では完全に仕事に習熟してその必要を見ないといっている。殊に前記の欠点は教育の普及と生活の改善によって最近迅速に矯正されつつある。 
 即ち一方において総督府が下層民の生活改善に力を尽しているのと同時に、他方朝鮮人の自覚により近来民間の教育熱が頓に旺盛となり、学校設立、図書館設置などに対する民間の寄附は年々多額に上っている。特に普通教育の発達には驚くべきものがあり、貧弱な藁葺の朝鮮人部落の間に堂々たる西洋建築の普通学校(小学校)が聳えているのに目を瞠る場合が少くない。 
 上述の諸点を総合すれば単純労働では苦力に劣り、頭脳において内地人に劣る朝鮮人労働者の今後進むべき途は、この両者の中間を行くメリヤス、紡績、麻布、製糸セメント、製紙等の軽工業方面であろうと思われる。 

京城日報 1935.10.26(昭和10)
西北鮮六道 冷害・高地帯対策会議
特異地帯に対し最初の根本討議
本府、関係道五十余名の知嚢を集めてきょうから本府に開かる

・・・然るに西北鮮高地帯に昭和六年以降殊に昭和八年、九年及本年と引続き夏期低温過湿であって日照充分でなかったのと農家の之に対応すべき経営法当を得ず、農法亦粗放なる為同地方の主要農作物は伺れも被害を受け著しき凶作を示すに至り元々豊ならざる農民の被った打撃は実に甚大であって、困窮の状態は見るに忍びざるものがあるのには遺憾とするところであります、従て当該地方農民の窮状に一日も之を忽にするを許さざる実情に在りますので直に応急的の善後措置を講ずると共に将来に於る災害の防止及高地帯農民の農業経営並に生活様式の改善等恒久的の対策にも関し慎重なる研究を遂げ成案を得て以て本地帯開拓の使命を全うすると共に農民の安定と其の福利の増進を期せなければならないのであります 

京城日報 1936.1.8-1936.1.9(昭和11)
農村振興運動の強化
進展に寄与することを念とす
農林局長 矢島杉造

翻って地方の現状を観るに輓近経済界の好転に伴う農産諸物価の高騰と昨秋の豊作とは多年疲弊せる農村にも一脈の活況を呈せしめ、所謂農村景気を現出せんとする恵まれたる情勢の下に在って此の点独り農会のみならず邦家の為め同慶に堪えないところであるが、斯の種好調時代には人心動もすれば緊張を欠き節制を失って浮華軽佻に流れ易く、或は廃退的風潮を馴致する等却て禍根を将来に胎した事例も洵に少くないのである、

金振九「国癌切開」昭和十一年四月二十日発行

三、現下両民族間に於ける極端なる感情の尖鋭化
1、警務局と言論界の睨み合ひ
 最近京城のニュースの一端を、紹介して見れば、朝鮮総督府警務局と、朝鮮文新聞雑誌業者との間に、極端なる感情の疎隔があるさうであります。
 これは、今に始まったことではないけれども、昨年の十月以後、殊にこれが、露骨化してゐるさうであります。その原因は十月一日、総督府の主催で、始政二十五周年記念式を、盛大を極めて挙行しましたが、これが記事をば、民間朝鮮文新聞並びに雑誌では、一切に掲載しなかったことに、出発してゐるさうであります。
 これは、公平な立場から論ずれば、言論界の方に、非があるのではないかと思ひます。何となれば、如何に気に食はぬことにせよ、全道を挙げてのお祭騒ぎであるから、百歩譲って、社会相から見た時にも、立派な三面記事の材料ではないでせうか。
「君等は、新領土を得たから、祝賀もお祭騒ぎもするであらうが、我等は国を失った方であるから怨恨こそあれ、祝賀のあらう筈がないぢゃないか」といったような心底であったでせうが、それにしろ、目前に湧き出づる感情とか気分とか、いったような微小なる問題に囚はれて、明日の大局を見透せず、それがため、将来する所の無形、有形の苦痛を如何にせん?。且又両民族間には、何時までも、この不幸と積怨とを継続して行って、百年後に、禍福何れかの結実を、見るのでありませう?
 最近、二三言論界の一流人士に逢ひましたが、開口一番に「朝鮮で我々の仕事は、どうしてもやりきれない。切抜く方法がない」といふ、哀訴の声であります。無論、当局の弾圧を意味するのであります。
 旧臘上京中、丸山鶴吉氏を訪へば、「困ったものだ、朝鮮の諺文新聞は、困ったもんだ」と、繰返して歎声を漏らすのでありました。これは、同一の事実を以て、日本の識者としての訴へであります。
「抑も、朝鮮の言論界は、斉藤総督時代に、吾々の手に依って造り出したものだが、この間、施政記念式に行って見たら、あれだけの事実を故意に一行だも書かない。困ったもんだ。あれだから、朝鮮には、新聞もこれ以上許せない。して見れば、それだけ、朝鮮は文化発展が、遅れるといふことになる。それを書いて、人気が落ちるとか、読者が減るとかのことなら、吾輩は少くとも、それ位は諒解するけれども、今日朝鮮の情勢から見て、そんなことでもないのに、新聞社が率先して、敵意を表しようと務めるから、全く困るものだ」
と、しきりに、悲歎已まざるものがありました。
 しかし、朝鮮のような畸形的社会(僻見、愚痴、仮面、反発の世の中)に於ける、言論機関の人々も、当局と民衆との間に立って、人に言はれない悲哀と苦痛が、あるだらうと察します。十二分同情はしますが、しかしこれが打開策なしに、「なるようになれ、止めろといって来たら、何時でも止めるまでだ」と、自暴自棄に、事を進ませようとするのも、指導階級として、大いに、取るべき道でないと存じます。

2、親日と排日を如何に色別せん
 朝鮮には、親日とか排日とかいふ言葉が、盛んに行はれます。先づ総督府所属官公吏、同名誉職並びに総督府に依って、衣食する者をば、親日派と指し、民間新聞雑誌系統宗教団体、私立学校教員並びに同学生生徒、新文学者、思想団体、青少年会等を、排日派と見做すのが、朝鮮に於ける智識階級の色彩を、大別するものでありませう。
 しかし、朝鮮の思想界ほど、鑑別のつかぬものはありませぬ、総督府所属官公吏だからとて、必ずしも親日派と見るのも浅見であり、一般社会人だからとて、必ずしも、排日派だといふわけでもありませぬ。同じ親日派の中にも、苟くも最高学府を出たる者を、忠良なる日本臣民であり、総督政治に全然心腹したるものだと見るのも早計であります。
 要するに、排日派といっても、少数積極主義者の外は、極めて消極的なる名誉維持と、一種の処世術(排日派と見られると、大衆から尊敬される)に囚はれるのが、大部分であります。之と同様に、親日派と目される官公吏の中にも「俺は、パン問題解決の為め、不本意ながら、総督府の厄介になるまでだ」と、友人或は社会人に逢へば、さういふのであります。上司の命令の通り、器械的執務をするものが、これ亦多数であります。
 試みに、京城市内の官公吏を検討して見れば、直にわかります。朝の八時から、夕方の四時までが、総督府の役人にして忠良なる日本国民であるけれども、退庁後、一旦家庭人となり、社会人となれば、立派な民族主義者であり、社会主義者であり、或は今尚依然として尊周主義者ともなることがあります。これは、万已むを得ませぬ。その家庭制度から、親戚友人の関係から――。祭祀、接待、門閥、族譜(系図)、結婚喪葬其他の家礼、処世、交友等が、悉く旧態そのまゝの環境でありますから――。
 これが、心服政治であり、同化政治であったと、いひ得られるでありませうか。私は朝鮮人にして愛国運動者の一人と自任し、今後進出すべき道も、この精神に由る決心であるから、少しも遠慮せず、忌憚せず、躊躇もせず、他人行儀を執らずに、率直に申述べるのであるから、江湖の諸君子は、この点諒解すれば、幸甚に存じます。

5、徴兵制度実施の着手(p31)
 昨冬、宇垣総督の上京車中談に曰く、「朝鮮に徴兵実施は、義務教育実施後のことだ、言葉も通せず、文字も読めない者に、兵役ができるか」とあります。それは、全く道理であります。又曰く、志願兵位は、出来るかも知れないと――。・・・
 昭和九年度から、朝鮮人中等学校の一部に軍事教練を施行するさうであります。これは確かに宇垣総督の一大英断であります。「朝鮮人に、銃を持たせてはならない。朝鮮人に、鉄砲の打方を教えるのは、危険千万だ」と、思ってびくびくしてゐた人等とは、自ら選を異にする感がします。
http://www.dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1274703/15

京都市社会課「調査報告第四十一号 市内在住朝鮮出身者に関する調査」昭和12年1月30日発行 ※1937年

第三節 朝鮮に於ける農業の状態
 以上の如き小作慣行の下に小作料は農民の上に課せられてゐるのであるが、今これらの方法に依る小作料の生産高に対する割合を見るに、畓に於いては定租、普通四割乃至五割一部、打租は四割五分乃至六割、執租は五割乃至五割五分であり、田に於ては定租三割五分乃至五割、打祖四割九分乃至六割、執四割乃至五割五分となってゐる。
 然しその高額なるものにあっては八割、九割等の驚くべき高率を示してゐるのである。即ち次表の如くである。
(表省略)
 小作料が八割も九割にも上るものがあることは真に驚異すべき点であり、朝鮮農業の特殊的様相を示すものといふべきである
 斯かる高率の小作料の下に於て彼等は幾何の面積の耕地を占有し得るやを見るに
(表省略)
則耕地面積は平均一町五反であり、内地に於ける農家一戸当平均耕地面積に比較すれば比較的好条件の下にあるが如くであるが、上述の小作料の苛酷性は彼等をして極度の窮迫に陥らしめてゐるのである。
 今朝鮮総督府発行の昭和十年「農村窮乏の実情とその原因」七一六―七一七頁を引用すれば
「半島総人口の約八割を占むる農民の生活向上と安定とは、半島施政以来の緊要問題であり歴代総督の深甚なる考慮と最善の努力とを費して来た所である。今これらの農村を通観するに、耕地面積の如き一戸当内地の一町歩余に比し、朝鮮は一町六反歩余である。従って農家の生産と経済とには大に余猶があるべき筈の如く考へらるゝにも拘らず、事実に於ては遙かに内地の農家に及ばざる現状である。これら農民の八割は細農階級であってその多くは資力極めて薄弱且一般の教育に恵まれず自覚に乏しく従って自分に依り栄養各般の改善向上等は出来ぬ。徒らに旧習に捉はれて極めて低級なる生活に甘んじながら、年々歳々食料の不足を訴へ、現金の収支は年五、六十円乃至二百円程度の者最も多く、又一面必要の前には前後の事情を顧るの暇なく、徒らに高利の負債を増嵩し、春収、秋収等一年の努力もこれらの細農者の為めには或は借入食糧の返済となり、或は利子の支払となって余すところがなく、甚しきは所謂春窮期(自二月至四月)に於て食糧不足の結果、野生の草木に依って辛うじて一家の糊口を凌ぐやうな者が頗る多いのである。これらは多く多年被搾取者として虐げられた結果、勤勉、節約、貯蓄の気分は喪失し、向上発展を求むる希望もなければ努力も為さず、全くその日暮しで陋屋の中に酔生夢死して今日に至ったものである。所謂長き歴史と環境とが然らしめたものであって、決して朝鮮民衆の素性ではない」
以て朝鮮農民の如何に苦難の状況におかれたるかを指摘せるものであり、われわれはこれに依ってその状況を具体的に把握し得るのであるが、更に昭和十年版「朝鮮年鑑」に依りその状況を再瞥すれば
「内地に劣らず半島農村の疲弊は甚しく農家、特に小作農の中には生活に窮して折角粒々辛苦の結晶とも云ふべき貴き生産物も年々嵩み行く借金の利払ひ位が関の山で、中には秋の収穫の際、小作料と食糧返済及債金の利払とを済ませば後には籾を打ち落した臺と、籾を掬ひ込みたるバカチのみが残るといふ惨憺たる状態にあるものも決して少くない。故に之等の農民は地主に向って来年の収穫物を引き当にして食糧の前借をなすを常とする。これを食糧と云ってゐる。食糧も高利の利がつき、斯くて農家は食糧と借金とに追はれ、毎年々々これを返済して行くばかり、尚甚しきものになると、自ら食糧を生産しながら自分はこれを食ふことが出来ずして端境期になると全く草根木皮によりて生を保ってゐるものも沢山ある。この窮状を表現するために朝鮮特有の「春窮」とか「麦嶺難越」とかいふ様な言葉が出来るやうになった」
とあり、朝鮮農民の地主的高利貸的搾取に依り惨憺たる生活を営みつゝあるを髣髴せしめるものがある。即ち農地改良策、産米増殖計画等諸政策の下にその生産の年々の発展にも拘らず、その下に如何に農民が惨目なる状態にあるかを推測し得るのである。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1451731/11
 
「極秘」 ※1937年
別冊第二 昭和十二年六月 調製
朝鮮人志願兵制度に関する意見
朝鮮軍司令部

・・・半島民心趣向の善導は現下に於ける重要焦眉の大問題たるを失はず。然るに今静に半島統治の現況と之に対し滔々として隠然底流する朝鮮民族の反撥(原文旁「発」」、自棄的思想の儼存を看取するとき、吾人任を朝鮮の防衛に承くるもの断じて晏如たる能はざるものあり、・・・

尚参考の為
一、朝鮮民族思想変遷概要
二、日蘇開戦に対する朝鮮の観察
三、朝鮮人の経済状態概観
四、朝鮮児童就学状況
を添付す。 
 
三、朝鮮人の経済状態概観
・・・然れども朝鮮総戸数四百一万戸中三百一万戸は農民にして実に全人口の八割を占む。
而も其の農民中自作は二割弱自作兼小作二割強に過ぎずして小作五割、被傭者及火田民等一割にして其の生活状態は一般に貧賤困窮の状態に在り

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レファレンスコードC01004253900(23・47枚目)
昭和12年「密大日記」第2冊


昭和十五年初頭に於ける朝鮮食料資源に関する一般情勢 ※1940年
昭和一五、一、一六
朝鮮軍司令部

判決
一、旱害に伴ふ朝鮮食糧の対策は一応樹立せられたるを以て実施之に伴ふに於ては鮮内の食糧問題は漸次好転すべしと雖も春窮期に於ける食糧不足に対し速に鮮外雑穀を輸移入するは刻下に於ける急務なり。而して其の輸移入せる雑穀を適時適切に鮮内に配給すると共に速に鮮内民間手持米を買上げて米穀の需給を確実ならしむること必要なり。

二、都市に於ける米穀の配給は昨年末の状態より漸次改善せられつつあるも尚円滑を欠くものなしとせず。雑穀の輸移入は今尚充分ならず。然れ共一般に民心緊張し目下の所大なる動揺なし。特に地方農村に於て然りとす。
然りと雖も雑穀の輸移入現状の如く遅々たるに於ては春窮期至り遂に食糧甚しく欠乏するの地方を生ずべきを以て其の推移に付ては特に戒心の要あると共に軍としても亦鮮外雑穀の輸移入に付て積極的に之を助力するの要ありと認む。

三、昭和十五年度軍需動員整備精米八十万石の取得に付ては鮮外雑穀の輸移入予定数量三百万石の外更らに同量八〇万石の雑穀を増加輸移入するの要ありと認めらるるを以て特に各関係当局間の打合等之が処置に付遺憾なからしむるの要あり。

説明
一、に付て
イ、朝鮮食料の対策輸移入の急務等に付ては別冊第一を参照せられ度。特に旱害地方に於ては農家にして収穫皆無のもの多数あるを以て此等の者の食糧の取得は麦の収穫まで鮮外雑穀を以て補填せざるべからず
然るに目下に於ける輸移入の状況は別冊第一の五、六、七にあるが如く対策遅々として進まず若し現状を以て推移せんか二三月の頃局部的には全然食し得ざる者あるに至るべし
又旱害地方に於ては鮮外の雑穀を速に輸移入し僅少なりと雖も収穫せる籾を農民より買上げ都市に対して米穀を供給せざるべからず。然るに現状の如くんば右の買上は至難にして米は農家に於て消費せられ都市の供給亦至難なるに至るべし。

二、に付て
食糧の配給取得特に都市に於ける状況は別冊第二を参照せられ度。農村の情況に付ては一月十三日山之内参謀の実施視察したる所に依れば旱害地方農家の食糧欠乏は意想外にして十数名の家族を搖〔ママ〕しながら僅かに粟等数升を貯へあるは寧ろ良好なる向にして全然貯蔵なき農家も亦少からず。此等の農家は●、「ドングリ」の実桔梗の根、「ヒマシ」の葉等を単独に又は僅かなる粟と交ぜて粥(※原文「米」+「弱」)とし一日二食を常とし時としては一食場合に依りては全然欠食する向もあるは確実なり(別封山之内参謀自ら現地に於て農家より求め来れる代用食参照)。此等の者は旱害対策としての各種労務より得たる僅かなる所得に依り小売商に付雑穀を求めあるも輸移入の雑穀不足の為此等小売商の手持極めて少く現に交通の便必ずしも良好ならざる農村の小売商に於て僅かに五日分を有するに過ぎざるものあるを認めたり。此くの如きを以て満洲方面の雑穀の輸入遅延するに於ては二月乃至三月に至り寒心するべき状況を呈するに至るべし。従て要輸入雑穀の大分は速に春窮期前に鮮内に配給するの要あり。
但し農村に於ける民心は極めて平静にして忍苦しあるは全く時局の結果にして朝鮮人知事某の言に依れば大正十三年の旱害時に於ては既に此の如き程度に至らざるに拘らず農村の倉庫襲撃事件等起りたる由にして今回此の如きことなきは全く時局に基く民心緊張の結果なりと感歎しありたり。
然れども当局としては決して民心の現状を以て楽観すべきにあらざることに深く鑑み今日に於て断乎たる対策を講ずるの要ありと認む。
尚遺家族食糧問題に関しては対策徹底しあるを以て憂ふべき点なきものと信ぜらる。

三に付て
別冊第一参照

四、軍は万一騒擾勃発せる場合には断乎たる対策を取り得る如く準備しあり。


別冊第二
食糧問題に伴ふ治安観察
判決
一、米穀の出廻は漸次促進され頭初の情勢は幾分緩和されたるが如くなるも一部地方特に下層階級に対する配給は依然円滑を欠き物資の不足、物価の高騰と相俟て国民生活を圧迫し大衆の不満相当深刻なるものあるのみならず旱害地住民の動向亦楽観を許さず。
治安に対する顧慮は目下特に憂慮すべき事象なきも端境期の近迫と共に相当警戒を要する情勢にありと認む。
二、当局をして速に雑穀の確保と配給の円滑化を期せしめ以て民心の不安を一掃すると共に旱害罹災民の結氷期間に於ける救済策を講ぜしむるの要ありと認む、
説明
一、食糧取得難に伴ふ治安監察
朝鮮米穀配給調整令の施行、関係各機関の努力等により米穀の出廻は漸次促進されあるも京城地方並南鮮の一部地方に於ける配給は依然円滑ならず特に下層鮮人の米穀取得難は相当深刻にして雑穀の品薄並価格の割高と相俟て之等細民の生活を脅威し不安を生ぜしめ或は米穀業者の店頭に群衆殺到し或は米騒動勃発を流布し或は当局の施策を非難する等騒擾惹起の危険性を包蔵せる事象尠しとせず、
之が具体的事象を挙ぐれば次の如し、

(一)米穀取得に対する特殊事例
○京城府岡崎町 龍山精米所
   〃 孔徳町 兄弟精米所
右店頭には米穀購入者常に殺到しあるが十二月十八日には数百名に達したるを以て所割署に於ては治安上有害なりとし制服警察官数名を派遣し之等群衆を解散せしめたり、

○京城府北米倉町 京一商会
右は十二月十七日江原道より五百叺(原文口偏に「人」)の入荷ありたるを以て道経済警察課に連絡の結果四百叺を府内小売商人に配給し残量百叺を同店に於て翌十八日午前十一時より一人五升以下の制限販売を開始したる所付近の細民蝟集し大混雑を呈したるを以て所割署員十名立合し之が整理に努めたるが購入不能者二百名ありたり、

○京城府西大門地方鮮人経営の各精米業者は籾入手難の為十二月十五日以来販売停止中なりしが十八日に至り某精米所に入荷せるを探知せる付近住民は同精米所門内に殺到販売方を要求せり。之が為同精米所は各門を閉鎖し門内に於て小量宛配給しありたる所殺到せる群衆は外部より各門を破壊侵入し大混乱を呈し警察官の応援により鎮撫し事なきを得たり。

○京城府内某店に於て飯米販売中購入者多数殺到せる為忽ち売切となりたるが此際購入出来ざりし鮮人群衆は購入を急ぎて列を離れ先に割込みたる内地人数名ありたるに対し臨場警察の取締不公平なりとて該警察官を難詰し遂に口論となりたるも大事に至らず解散せり、

○京城府永登浦町 甲敬植商店
右店に於ては十二月下旬に至り一日平均約一千名の飯米購入者殺到し百名内外の購入不能者を出しあり

右の如き事象は鮮人の特性上一歩誤れば直に騒擾化●虞あり治安上偸安を許さず

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昭和15年「密大日記」第9冊

第七期演習処置書 其の一 ※1941年
 
内地の食糧逼迫に伴ふ朝鮮及台湾の措置
一、朝鮮に於ては約二千四百人〔ママ〕の人口中約半数は最低生活者にして食糧の消費規整を強化すべき余地なし、其の他の半数は現在最高程度の生活者と雖も三割の雑穀を混食して其の配給は普通大人一日二合五勺なり
二、台湾に於ては人口約二百五十万にして其の半数は朝鮮の場合に同じく最低生活者にして食糧の消費規整を強化する余地なし、其の他は台湾に於ては雑穀の生産なき(?)を以て南部地方に於て一部甘藷の混食を為さしめつゝあるの外はすべて米食にして、其の配給は内地と仝じく一日普通成人玄米二号五勺、之を精白して二合三勺となる、
三、朝鮮及台湾に於ては従来より消費規整の徹底を図余剰はあげて内地に供出しつゝある現状なる●、内地に於ける食糧事情の一段と逼迫せるに対応し、、朝鮮、台湾に於ても更に規整を強化し、一日一人当二勺ずつを減ずる事とし、其の結果朝鮮に於ては七五万石、台湾に於ては約八万石、合計約八十三万石を内地へ供出することゝす、

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第1回総力戦机上演習経済戦処置書 昭和16年8月

「極秘」印
朝鮮人及台湾人の政治的処遇に関する伊澤枢密顧問官口述要旨
(昭和十九年十一月二十八日)

二、参政権問題
・・・要するに純然たる日本人たることを前提として差別なく取扱ふこととし、唯其の日本精神に徹したる程度に応じて参政権を賦与せんとするものである。之は一面政治的にも意味があり、一度に多数の議員が朝鮮及台湾より選出されるときは、現在の皇民化の段階ではアイルランド問題の二の舞を演ずる虞も考へられるからである。

三、朝鮮及台湾統治に関する所見
余は外地に付ては大学卒業以来関心を持して居り、明治二十八年大学卒業と共に領台直後の台湾に仕官を志願しただが遂に其の志を得られなかった。而して当時台湾の留学生とも数ケ月間寝食を共にして、方法を以てすれば必ず新付の台湾人を悉く陛下の赤子として純乎たる日本精神に徹底せしめ得るものとの確信を得たのである。大正五年寺内総督時代に、余は朝鮮を視察したことがあるが、其の際努めて独立運動者等の民族意識の強い者に会ったのであるが、其の結論として左の如き所見を総督に対して述べた。第一は善意の悪政が存すること、第二は威あれど恩足らざること、第三は行政が煩瑣なることの三点である。第一点は例へば総督は道路の整備を説き交通の便が民政上に及ぼす好影響を語り、殊に洪水に際して部民が自己の家財を省みず道路の防衛に協力せる美談を●えたが、事実は部民は道路の再建に要する夫役の負担の大なるを虞れ家財を失ふを寧ろ軽しとしたに外ならなかったのである。第二点は例へば余はさる汽車旅行中襤褄を纏へる一西洋人に対して到る●に於て朝鮮人が相慕ひ相擁(?)せんばかりの有様を目撃したが、之は引上げの洋人宣教師に対する別離を惜しむ美しい情景であった。併し乍ら内地人に付ては全鮮何れに於ても斯く内鮮人相睦び相和する姿なく、唯見るは相互に白眼視する有様のみであった。第三点は韓国時代に比し内地の役人は何れも清廉潔白にして施政公平なるが、行政は煩瑣画一的にして迷惑多きを訴へたのである。
尚大正六年には台湾を視察し朝鮮に於けると同様に台湾人の真意を探った。台湾人は朝鮮人とは民族性を異にし、漢民族特有の社会的国際的成熟の結果、装うて容易に真意を語らないが、其の漏らす所に依れば台湾に於ける内地人の官吏は朝鮮とは違って貪官汚吏であると云ひ、事実又其のやうに考へられた。又当時台湾人の官吏登用の状況を見るに朝鮮と異りて一人の判任官も存しなかった。台湾は朝鮮より十数年前に領有され統治の効も●るべきに拘らず、事実は右の如き有様で、鮮台の統治方法に相違あり、其の処遇にも著しき差異を存して居た。
右に述べた朝鮮及台湾の状況は余の見る所では今日に於ても同様である。
思ふに右の如き状況では朝鮮人及台湾人は真に満足して皇民化することを得て臨むことが出来ない。参政権の賦与も固より必要であるが各種の事実上の処遇の改善が寧ろ第一である。
右にも触れた官吏の任用の如き又教育上に於ける差別待遇の如き其の他各般の社会上、経済上、行政上の差別待遇を撤廃するに非ざれば真に民心を獲得することは出来ない。

四、台湾統治の実情
尚世間一般は台湾に対しては無関心にして、朝鮮に付ては種々憂慮して居るが台湾は大丈夫と考へて居るやうである。併し乍ら事実は逆で台湾は朝鮮以上に民心が離れて居る。唯朝鮮の如く表面に表れないのみである。・・・

アジア歴史資料センターhttp://www.jacar.go.jp
レファレンスコードB02031288300(12枚目)
本邦内政関係雑纂/植民地関係 第三巻

京城日報 1941.9.23(昭和16)
国民皆労座談会 (一~六)

出席者
朝鮮連盟総長 川岸文三郎氏 
同 総務部長 烏川 喬源氏 
同 宣伝部長 御手洗辰雄氏 
朝鮮軍参謀大佐 山之内二郎氏 
総督府労務課長 林 勝寿氏 
城大教授 森谷 克己氏 
鐘紡京城工場長 片岡 勉氏 
社会思想家 青山覚鐘氏 
(旧名李覚●) 
三千里社長 白山 青樹氏 
(旧名金東●) 
淑明女専教授 豊川淑宰女史 
京城友の会 花山芳子女史 

(二) 妥当な労務の供出 半島で六百万
林労務課長 従来朝鮮で道路の修理そのほかに賦役という制度があったことは御承知の通りでありますがこの賦役と勤労報国隊との根本的な相違は前者は労働の強制でありかつまた賦役に出る人が極めて特定な限られた人、すなわち一部の下層階級の人であったのであります。しかし勤労報国隊の狙いどころはあくまでも自発的、積極的な愛国運動であって民衆から真に盛り上がった愛国精神に基づいて国家的、公共的方面の仕事に労力を提供して戴くのであります。従って勤労運動は単に賦役で狙っておるような単純な肉体的な労働ばかりでなく精神的な労務をも意味するのであって、肉体的精神的なあらゆる自己の技能を通じて国家に奉仕して貰うのであります 
御手洗宣伝部長 どうです皆さん、今のお話が一般民衆に解るだろうか、解らないということになると皆労運動が思想的に相当に悪い結果を生む虞れがあると思います 


八紘一宇・大東亜共栄圏とは


小倉鏗爾「日本の全体主義」1938年

 この八紘一宇の大理想を、別の言葉でいへば、天皇様の御稜威(即ち皇威・皇風)、天皇様の御聖徳の感化(即ち皇化)を、全世界に洽からしめ、宣布することであります。又た別の言葉でいへば、天皇様の道(即ち皇道)を世界に宣揚することであります。皇威・皇化を全世界に洽からしめることが、即ち、八紘一宇となるのであります
 一口にいへば、皇道は、八紘一宇の道であるともいへます。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1257167/60

宮崎正義「東亜連盟論」1938年

斯くして王道は、連盟各国家を形成せる自覚ある民衆の理性と良心とに従へる、最高価値への信頼と服従への関係を律する思想であり、我国の内治と外治との対立的観念を総合統一する理念であり、更にまた個人と民族の自由と尊厳とを容認しつゝ、而も新らしい東洋的全体主義を顕現する大東洋社会建設の指導原理である。斯る指導原理の確立と其の実践とは畢竟八紘一宇の大使命の遵奉であり、其顕現に外ならない。而して、斯る八紘一宇の中心に位し給ふは、最高絶対価値としての天皇にあらせられる。王道主義とは、まさに斯る最高絶対価値の流露し給ふ万邦協和精神の発揚であり、その政治的表現に他ならないのである。(p114・115)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1278350/68

藤沢親雄「日本民族の政治哲学」昭和12年8月23日発行 ※1937年

「三月の辛酉の朔丁卯の日令を下して曰く我れ東を征ちしよりこゝに六年になりぬ。以て皇天の威に頼りて凶徒就戮されぬ辺の土末だ清らず、余妖尚梗しといへども中洲の地また風塵無し。誠に皇都を恢廓め」云々と述べ給へる後に於て、更に御言葉を強められて、「上は則ち乾霊の国を授け給ふの徳に答へ、下は則ち皇孫正を養ひ給ふの心を弘めむ。然る後に六合を兼ねて以て都を開き。八紘を掩ひて宇とせむこと亦可からずや」とのたまはせられてゐる。
 此の詔は所謂天業恢弘、即ち世界の精神的総括整理の聖業が、日本民族のまさに遂行すべき一定の進路であることを明らかにせられたものである。而して今日の日本は既にこの雄大なる理想が具体的に現実化せらるる多くの契機によりて恵まれてゐる。満州国の出現しかりである。近時多くの問題によりて曝露せられたる大英帝国の衰兆しかりである。日本の眼ざすものは実に世界に於ける理想と現実とを結ぶべき新たなる天孫降臨に外ならぬ。現在に於けるが如き株式会社的世界機構を打破し、日本精神文化を以て他の諸民族を極めて自然に感化し融合し我が天皇を精神的中心となす全人類大家族的国際社会を現出せしめることが、我等大和民族の理想である。(p498)

 我が国に於ける外交原理は文武一体であるから、皇道の世界光被即ち天業恢弘の為には、武の実力を用ひる場合のあることは神武不殺の意味に於て許容せられねばならぬ。日本の世界的使命遂行によって実現せられるべき国際正義の貫徹擁護に当っては、兵を用ひ武を振ふべき場合あることは之を予想せねばならぬ。・・・日本の戦争は天皇に「まつろはぬ者」を「まつろはす」ことである。即ち天皇の行はせられる絶対創造愛の聖業に反抗し敵愾するものを転向せしめ教化して、天業恢弘を翼賛せしめるのが「まつろはぬ」ものを「まつろはせる」といふ事である。「まつろふ」とは「祭る」「奉る」と同じく信仰に於て一体となり、心から順ふの意である。即ち戦争によって却って真の平和が実現されるのである。・・・日本は文武不岐一体の外交の範を示さねばならぬ。その妙用によって、日本民族を中枢とする権威によって秩序付けられた世界大家族社会を創造せねばならぬ。(p501・502)

・・・即ち神の直接の御延長として絶対的道徳権威を有せらるる万世一系の天皇をいたゞく日本が、現実的に世界の中枢となり、極めて自然に各民族が其の御稜威の下に相親和して、一大家族的国際社会を構成し得る暁に於て、初めて移民問題も、天然資源開発問題も、門戸開放の問題も、機会均等の問題も、人種平等の問題も、軍備縮小の問題も解決せられ、其の結果国際正義を保護する真の世界平和が現出することゝなるであらう。かくて百姓昭明、万邦協和の深き意義を包蔵する昭和日本の世界的使命が如実に達成せらるゝのである。
 以上本章を通じて究明したる如く、皇道の外に真に普遍的なる国際政治原理は存在しない。皇道に比肩するに足る他の現実的な世界指導精神も存在しないと思ふ。且又日本民族を措いて世界絶対平和を実現し得る王者的民族は存在しないと信ずる。・・・我々は近きより遠きに及ぶ政治原理に基き、先づ何よりも支那をして王道国家たらしむるやう補導し、東亜に於ける日満支三邦を皇道に依って一致協和せしめ、此処に三邦の行動国際原理による外交の美を修めるならば、遠き欧米亦之を模して皇道に和順し、八紘一宇万邦協和の世界が次第次第に顕現されることとなるであらう。(p506・507)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1876365/257

金子鷹之助「大東亜経済の推進」1945年

最近の新聞写真によると、昭南神社が建設されたが、あの清流に神橋が架せられ、静な森の中に、石のある庭、簡素幽玄なる木造神殿が造営せられたる風景は、大東亜諸民族の魂の底にある、悠久遠古の生活の記憶を喚び起すに相違ない。而して之は北方諸地方には既に凡ゆる処に建設されたが、南方でも独り昭南島に限らず、すべての処に造営され、諸民族の礼拝の中心とせねばならない
諾冉二神は大東亜の国生み、神生みの祖神であらせられ、天照大神は大東亜に君臨し給ふ、日子の神の祖神であらせらるゝと共に、社会と五穀に光を恵み給ふ大母神であらせられる。我国の神話こそは、欧米の如く科学的合理思想の為に抹殺もされず、又後進諸民族の如く、アニマティズムやアニミズム、や、マジックやタブーや、その他あらゆる呪術教的堕落にも陥らずして、炳乎として数千年を光耀き、幾度びかの国家的・社会的危機を救ひ、今や大東亜に解放と繁栄を齎さんとする、聖化され政治化されたる、社会思想となった。それは哲学でもあり、宗教でもある。
 但しこれを難解高邁なる概念を以て、諸民族に説教することは当分不可能である。先づ日本人が挙って日曜毎に参拝することである。従来の如く七日に一度エホバの神の為に、休息するといふことは無意味である。大東亜の大神にこそ参拝すべきである。諸民族はこれを以て「かゝる大神に帰依すればこそ、日本人は強く且つ情けがあるのだ」と悟るやうになるであらう。そして程なく伴いて来るであらう。又、神前の神楽は、彼等のガムラン舞楽の聖化したものとして、了解して来るであらう。支那ですら治者階級(士大夫)の、概念的政治的倫理たる儒教や西洋思想の翻訳たる三民主義の外に、農民の中に、自然的に発生したる社会道徳たる道教があり、それは福禄寿の神々を祭るのである。
 独り日曜だけでなく、大祭日を設けて参拝を重ねゝばならぬ。又、雨乞ひの龍神祭や豊年祈願の稲荷祭や盆踊りの如きも、諸民族一丸となって、楽しく賑々しくやるべしだ。山車や御輿も一緒になって引いたりもんだりすべきである。彼等の現在の宗教生活が、無害なる限り之に急劇なる禁圧を加ふることは、最も危険であるから、むしろ正しい文化・宗教を高く掲げて、自然に心の通ふやうにした方が良い。
 いふ迄もなく、八紘一宇の家族社会は、文化や思想だけでは建設されず、之と並んで経済的な福祉を与へねばならぬが、此の事は別の機会に屡説したので、茲には省くことゝする。(一七・一〇・一七)

補説一 八紘一宇思想の具現方途
 八紘一宇の思想とは、畏くも皇統を現御神ならびに大御親と仰ぎ奉り、人民はすべて兄弟なり、と考へる家族国家思想であるが、之を大東亜に具体的に表現するには、経済的、社会的、文化的等種々の方途がある。その経済的方途としては、キニーネの施薬、水力発電による治水、灌漑、電気化学(肥料、油脂等)、電気精錬(アルミニューム、鉄、錫)等科学技術や、経済的恩恵によって盟主たるの実を挙ぐべきことは筆者もしばしば他の機会に論じた。
 社会的文化的方途は、先づ神社の造営が第一であらう。過日新聞に昭南神社の写真が出てゐたが、水源から引かれた清流に神橋が架せられ、之を渡れば小高き丘の森林中にいとも清楚、崇厳なる神殿あり、といふ風景が拝せられた。
 この神殿の風景や神殿の構築様式は、特に南方民族の原始宗教内容と相通ずるものがある筈であり彼等は今でこそ印度教や仏教や回教やキリスト教に教化せられてゐても、その古い民族的記憶を潜在意識の奥底より呼び覚まして、われわれと同祖同族の自覚を確立するに相違ない。況んや神前に奏せられる神楽と舞を見て、彼等のガムラン舞楽の荘厳なる発展の極致を発見するであらう―大東亜に於ける舞楽は、神に捧げたものであり、欧米に於けるが如く、人間の享楽の為のものではない。能楽の冴えを見て日本精神を悟るところまでは、仲々時間を要するであらうが、神楽を見て、彼等の芸術と物語を向上せしめることは、容易であらう。
 現地に於ける日本人は、祭日休日の参拝はもとより、私人の冠婚葬祭も一切、この神前に於て行ふべきである。何よりもかゝ神様を信奉すればこそ、日本人は強いのだ―彼等が数百年間、神とも鬼とも恐れて来た米英国人を、一撃の下に彼等の面前に調伏したのだ―といふことを考へて、いつとはなしに彼等も、日本人の後について参拝するやうになるであらう。やがて日本人が強い許りでなく、情があることも、知るやうになるだらう。
 かゝる神社は既に、台湾、満、鮮、蒙、支至る所に造営せられてゐる大陸に於ても、少くとも原住民族は、日本民族及び南方民族と、同祖同族だった筈であるから、やがては太古の記憶を覚醒し、神社参拝を理解し得るに至るであらう。(p133~137)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1065646/85

武政太郎「国民教育の心理」昭和15年12月20日発行 ※1940年

四、八紘一宇、東亜新秩序の理念
  そしてわが国は、なりませる宇宙神たる神の御心によって生れ出で給ひし皇祖天照皇大神の神勅によって肇められたる国であり、その神意によって神武天皇は、天下の民を同胞一家として弥栄えに栄えしめたまはんとて、皇国を建て給うたのである。これこそ八紘一宇の理念である。
  万物をして洽くその恵沢に浴せしめ、各々そのあるべきところに安んじて生を楽まして給はんとの大御心はまた皇祖天照皇大神の大御心であらせられるのである。この皇祖皇宗の神意を吾々国民が奉体して隣国諸民族の上に平和と光栄とをもたらさんとすることが、我が日本民族の一大使命である。満州国において建国神廟を造営され、わが皇祖の神霊を礼拝して一億一心の実を挙げんとされたことも、わが神皇国の発展の結果であると考へられる。蒙疆、北支、中南支援、否、南洋諸民族においても、わが皇祖天照皇大神の徳をたゝへ、真に吾々人間が「ひと」(日徒又は霊徒)であり、「ひこ」(日子又は霊子)であり、「ひめ」(日女又は霊女)であることを会得信奉せんことを祈るものである。これは、今日わが国では、仏教徒、キリスト教徒の間に仏の教といひゴットの教といふも、すべてわが固有の思想たる神ながらの道即ち天照皇大神の道に帰一せざるべからずとして新体制運動が生じてゐることと思想的には一脈相通じてゐるのである。平安鎌倉時代に本地垂迹説の生れたのと同じ気運にあるのである。
  わが国では、天照皇大神は、神霊であらせられると共に祖霊であらせられる。日本人の信仰は、神人一体にある。これは神人を別とするキリスト教思想と全く異るところである。かやうな国民的信仰を盛んにし、外地にこの日の神の道をひろめ、信仰を等しくする運動を起すことは、またわが国民教育における一つの任務であると私は信ずるのである。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1461696/129

井上哲次郎「日本精神の本質」昭和16年7月20日修正増補第一版発行 ※1941年

平和は功利を超越した道義心に由るより外は無い。苟も理性ある人間であるならば、道義に反対することは出来ない筈である。その道義に反対することの出来ない崇高遠大な精神に縁って永久の平和を実現するより外道は無いのである。
  今我が日本の如き道徳を主とする国と英・米の如き利益を主とする国との摩擦・軋轢・闘争を根底より一掃するのには何によるかと云へば、矢張り理想主義・精神主義によるより外は無い。換言すれば、総ての人類を融合調和するに足るような道徳主義を以てするより外は無いであらう。此の精神を以て基調となして我が日本は世界を統一しなければならぬ。世界を統一すると云っても、固よりそれは侵略的の意味ではない。さういふ大事業を成し遂げようといふのには忽ち起って忽ち滅びるやうな国では駄目である。万古を貫いて変らぬところの国体を有する我が日本の如きものでなければ、此の大任を果すことは不可能であることは余り明瞭である。是に於いてか「天壌無窮・八紘一宇」の大理想を掲げて之れが実現を目的として世界的に発展する我が日本の大使命が何うして看過し得られようか。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1212715/220

洪火会文教部編「時局と洪火会を語る」昭和16年1月25日発行 ※1941年

『大東亜共栄圏の指導原理についてお伺ひしたいのでありますが…………』
『要約して言ふと、それは今にも言った通り、肇国の大精神即ち八紘一宇の精神換言すれば皇道主義でなければならぬ。だから大東亜圏結成に当っても力を以てこれを強制すべきでなくて東亜各国各民族が真に心から協同できるやうに日本が指導扶援しなければならぬ。だから、大東亜圏の確立は日本を盟主とする搾取なき大東亜安定圏を意味するものだ』(p6・7)

『新体制と八紘一宇と言ふ標題の下に近来到る処で論議されてゐますが、我々としては、此の際真の新体制と八紘一宇なるものを観念付けることを必要と思ひますが、これについて御話を御願いし将来の心得と致したいのですが……』
『支那事変の経過、激化せる欧州動乱による国際情勢に直面してをる日本としては所謂新体制も真剣に考へなければならないと思ふ。
 過去何十年かに渉って日本の思想界乃至経済機構は英米のデモクラシイ的思想の影響を受けることが少なく無く、その結果真の日本の国家観念からいくらか逸脱した状態を呈し国家精神の萎靡国民思想の混濁を来たし幾多憂ふべき諸相を露呈し続けてゐたが満州事変の勃発によって警鐘は乱打され更らに支那事変の発生によって愈々血みどろの試練に際会するに至った。
 最早や従来のような放縦な弛緩した状態を以て国運を推進することは出来なくなったのである。即ち先づ内に於て自由主義、個人主義、功利主義的思想を除去し真に日本精神に基づく国民思想を復興高揚し士気を振作して一億一体大政翼賛の大義に邁進するの外難局を突破し皇国百年の大計を樹立するの道はないのだ。かゝる意味に於いて革新の声は随所に起り旧体制を打破是正して新体制を組織しなければならないと言ふことは今は最も真剣な国民的要望である。・・・」
『八紘一宇とは現在到る処で唱へられてゐますが多少その内容に関する説明が異なってゐるやうに感ずる場合も尠くないのですが、八紘一宇の真意義は一体どこにあるのでせうか』
『これは元来古事記や日本書紀に明文として示されてゐます。神武天皇の御詔勅の一節に基いて唱道されてゐるものでありまして、その字句の意義は一言に申しますと天下を掩ふて一家にしようと言ふことである。本来我が国は、古来華族制度を以て国家形成の単位とされてをり、皇室を中宗とする大家族主義的形態を以て形成されてをるのであります。神武天皇の大御心は天下万民を以て赤子とみそなはし、父母仁愛の情に基いて、民草を愛撫しこの一事を以て世の根源とせられようとするにあるかと拝察いたします』
『世界には多くの国があり、人種民族も到底列挙しきれぬ位沢山あるのですが、これらの他国他民族多人種に対し八紘一宇と言ふことを普及徹底せしめることが、出来るでせうか。言葉の上ならば兎も角、実際に於いてどうでせうか』
『尤もな質問です。それは一つの重大な問題です。世界を掩ふて一つの家にすると言ってもそれは遠い将来は別問題として、現実の問題としては、先づ不可能なことかと思へます。たゞ一家の如き親しみと誠とを以て、他国他民族に接するの外ないのである。然かし、他国他民族が、日本の正義と理想とを諒解し得ない場合は、なんとも致し方がないのである。誠を尽し、実践に示してこれを諒解せしめるの外はない。元来八紘一宇の意義は同じく神武天皇の御詔勅にある天業を恢弘し天下に光宅せんと言ふ御言葉と関連してこれを拝誦し解釈し奉戴するの外ないのであります。決してデモクラシイ的国際主義的な内容をもつものではありません
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1455098

藤沢親雄「皇道世界経綸の理念」1941年

  八紘一宇はかくて、まつろはぬものをまつろはしめ、世界をして宇宙の中心生命としての天皇に帰一し、その大御心を仰ぎかしこみつかへまつらしむることによりて達成されるのであって、これ肇国の精神である。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1033175/14

徳冨猪一郎「皇国日本の大道」1941年
  八紘一宇は我が皇道を光被するものであって、所謂る内に於ては政治を倫理化し、外に向っては国際を道義化するものである。我等は何を以て国内政治を倫理化するかと云へば、飽くまで皇室中心主義の大旆の下に、総国民が一致戮協し、皇国の為に一切の自我を擲ち去って奉仕することに外ならない。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1267273/140

加藤一夫「八紘一宇史の発足」1942年

  斯くの如く神々しい御心をもって、先づこの御用意をもって、国内を鎮められ、都を開き●も八紘を掩ひて、即ち世界全体を、一宇としよう、可いではないか、と云ふ御法悦を述べられてゐる。
  何と云ふ大きな御理想であるか。啻(?)に日本の君としてではなく、八紘を一宇としようとされる全世界の君である。前にも云ったやうに、今までは、日本の国力、日本の文化、日本の富、はまだ、全世界を神の国として一宇たらしむべき段階には入って居なかった。が、それは必ず来るべきであり、日本の天皇が、その全世界の君となり給ふことは、日本の確信である。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1042308/100

小牧実繁「日本地政学」1942年

  日本では古来、四季の清明とか、四季の巡行が正しいとかいふことが尊まれて来たのであるが、これは決して四季が共に温暖で住み易いといふことを意味したおんではなく、それは全く字義通りに、春はのどかに秋は爽かにといふことだけでなく夏は暑熱甚だしく冬は寒気酷烈であることをも意味してゐたと解釈しなければならないのである。而してこれこそ皇国日本が天地創生の祖神より賜はった大いなるたまはりものであったと考へなければならないのである。
  東京で畳の上に坐ってをりながら一年に一度必ず熱帯の気候を、同様に一年に一度は必ず寒帯の気候を経験させて頂くといふ皇国日本んほど有り難い国は世界の何処にも存在しないのである。何故かと言へば、それは日本民族といふものが南方の経営に対しても、また同時に北方の経営に対しても、往くとして可ならざるなき素質をそなへてゐるといふことを意味するからである。
  独逸の地政学者たちは結局将来の世界を支配するものは南方の熱帯地方、特に彼等が「死の十字路」と呼ぶ、アジアの南方、大東亜海地域の熱帯を支配しなければならないと考へてゐる訳であるが、併し日本民族といふ優秀な、而も気候に対する馴化能力の最も大である民族が存在する限り、ヨーロッパの勢力による南海の制覇といふことは絶対に不可能なのである。南方の、真に正しい意味における経営といふことは、日本民族による以外には、決して実現せられ得ないのである。・・・八紘一宇の大理想は大御稜威のもと、日本民族によってのみ実現せられると確信せられるのである
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1275962/148

山本英輔「天皇帰一の生活」1942年

八紘一宇
人類救済の指導理念
  八紘一宇といふのは、何も武力をもって、世界を征服しようといふのではない。武力をもってしたのでは、一時的に平和になっても、何年かの後には、また平和がこはされる。決して永つゞきがしない。永久の平和は、あらゆるものが、日本天皇の大御心を奉戴して、天皇を中心にまつろひ奉ることによってのみ、招来されるといふのであって、私が八紘一宇連盟を主唱するおは、一はこれによって、国内一億国民に、日本精神をしっかりと把握させ、所謂一億一心となって国難を突破させる。そして、次には、その立派な精神によって、世界人類を救済させようといふに外ならないのである。
  そこで、私は昨年の四月、この八紘一宇連盟の案を、私の友人の英語のうまい人に翻訳して貰ひ、之を外人に見せたところ、非常に穏健なことを書いてあるといふので、はじめて私に会ひたいといって来た。一番先に来たのが、英国大使館の情報部長、それから陸海軍武官、書記等であた。その時、いろいろ議論や意見を闘はした後、私は彼等に向っていった。
(中略)
『私は、世界永遠の平和を招来するために、この主張をやってゐる。今度の戦争で、勝った奴が負けた奴を押へ、またあのベルサイユ条約のやうなことをやったら、何年かの後には、再び戦争を繰り返さなければならない。結局八紘一宇の精神で、世界が融和帰一しなければ、真に世界の平和は来ないのである』と。
『では、国際警察はどうか』
といふから、
『それは、日本の国体に反するからいけない』
『さうすると、一体日本は世界を指導するつもりか』
『いや、自分の研究したところでは、日本精神が一番いゝと思ふからだ、万一あなたの方に、これにまさるいゝ指導精神があるなら出し給へ。ほんとうにいゝものなら、いつでも賛成する」
『ほう、さうすると、結局あなたの考へは、非常に穏健ではないか』
『さうだ、日本の本当の精神は平和である。世界中に日本ほど平和を愛する国民はない。それを、あなた方が誤解して圧迫して来るから、われわれもそれを撥ね返さなければならないのだ。・・・」
  私は、この八紘一宇といふことは、各国が、俺が俺がといってゐる間はできない。もう少し弱るところまで行かなければならない。そして、その時、中心になる日本が、ほんたうにしっかりしてゐなければ、基礎の鞏固なものにすることはできないと思ってゐる。私の主宰する八光会は前述の八紘一宇連盟案の変化したものである。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1033087/66

宮崎県教育会 編「神代の日向」1942年

我国は、神代以来八紘一宇の大理想を以て国是
とし、今日の国運を見るに至ったのでありますが、此の八紘一宇の御精神は忝なくも我が祖国日向に発源したものと思はれます。(p97)

迷へる隣邦の眼をさまし、世界を喰ひ物にせんとする暴虐なる国国をしりぞけて、美しい理想の世界を造ることは神の国日本に与へられた尊き使命であり、光栄ある責任であります。此の重大なる使命は我が国、肇国の大理想に基づくものでありまして、今こそ神武天皇の尊い大御心を世界に実現(あらは)すべき機会が与へられたのであります、(p103)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1057119


石原莞爾「昭和維新宣言」1942年

数十年後に近迫し来れる世界最終戦争により、八紘一宇はいよいよ実現の第一歩に入ることを信ずる我等は、八紘一宇を単なる美しき観念とは考へてゐない。正に我々の眼前に髣髴として望見する気持がするのである。(p8)

結局最終戦争は、道義の最高護持者であらせられる天皇が世界の天皇とならせらるゝか、力によって人類に幸福なる生活を与へようとする欧米の大統領の類が世界の指導者となるかを決定する人類歴史の最も重要なる時期といはねばならない。(p15・16)

既に述べたやうに最終戦争は王道と覇道の決勝戦であって、これによって世界の絶対平和、八紘一宇の第一歩に入ることが出来るのである。(p16)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1272536

今泉定助「御国体の実相」1942年

24八紘一宇
  大国とか強国とか云ふものも若し本当に日本がさう云ふものであると云ふことが分りましたならば、彼等は一体どう進退する。又印度の如き国はどう思ふでありませうか。真に八紘一宇の御境地から足りない所を保護して、世界平和の為に、日本天皇が天業を御施しになるのであると云ふことがハッキリ致しましたならば、小国、弱国が靡いて参りましたならば、大国強国と云ふものはどうなるでありませう。是は何時かは大天皇の統一の下に、世界の平和幸福の高峰に到達する時代が来るものと、私共は日本の古典の上から確信するのであります。さもなければ、日本独り神の天皇を戴くと云ふことは、神に私ありといふことになる。日本の天皇の大使命は、結論と致しまして、私は深く信じて疑はない。将来必ず何百年か何千年の後か固よりわかりませぬけれども、今日以後は割合に早く進んで、世界統一の天津日嗣の使命を御果しになる機会が来るのであらうと考へるのであります。(p40・41)

【問】八紘一宇につき御教示を乞ふ。
【答】八紘一宇なる語は近時漸く世人の注意を惹くに至った如くであるが、その出典は遠く神武天皇の建都即位の大詔にして、八紘は『あめのした』宇は『いへ』であるから、世界一家即ち皇道精神の世界光被を意味することになる。
然るに世は往々にしてこれを武力征服と誤解する者がある。若しそれが自己の功利的世界観より脱し得ぬ欧米人の見解なら兎も角、日本人、しかも識者を以て自ら任ずるものでさへさうあるから、吾人が古典を説き、皇道精神を叫ばざるを得ぬのである。
試みに日本書紀を繙き右の大詔の前後を一読するならば、それが武力征服とは全然異なるものなることが明瞭となるであらう。即ち八紘一宇は神武天皇が天業恢弘の為め東征遊ばされ国内が平定せられたので、建都即位の上、更に進んで全世界をも和気靄然たる一家の如からしめんとの大御心を現はせるものである。しかも此の実現は『鋒刃の威を仮らず、座ながらにして』行はせられることを理想とせられたことは幾多の例証を挙げ得る。
斯くの如く八紘一宇なる語は神武天皇の大詔の中に拝されるのであるが、その根本精神は遠く修理固成の神勅に由来する天皇の御使命と、八神殿、大嘗祭による天皇の御本質の当然の結果にして、それ故にひとり神武天皇のみには止らず御歴代の天皇の大御心でもあるのである。天皇は八神殿、大嘗祭の行事によって生成化育の本源とならせられ、宇宙万有を各あるべき処にあらしめ給ふ。八紘一宇はこの一つの表はれに外ならない。世界の各国家、各民族は斯くして始めて自性を発揮しつゝ全人類の生成発展に貢献し得るのである。天皇は独り日本のみの天皇ではなく、世界の天皇であり、宇宙の天皇であられるとは斯かる意味にて申上げるのである。此の度の事変も、まつろはぬ支那を言向け平和し相提携して、八紘一宇の精神を実現んせんとするにある。国民各自は須らく此の意義を正しく認識し、各々の立場に於て天業翼賛の実を挙ぐると共に、外務省などに於ても徒らに当面の問題のみに捉はるゝことなく、積極的に我が根本精神を闡明して皇道宣布省たるの実を発揮すべきである。(p44~46)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1094651

東亜連盟同志会「昭和維新の指導原理」1944年

 皇国日本の国体は世界の霊妙不思議として悠久の古より厳乎として存在したものであり、万邦にその比を絶する独自唯一の存在である。中外に施して悖らざる天地の公道たる皇道即ち王道は、畏くも歴代祖宗によって厳として御伝持あそばされ、歴世相承けて今日に至った。
  八紘一宇とはこの日本国体が世界大に拡大する姿をいふのである。即ち御稜威の下道義を以て世界が統一せられることであって、換言すれば天皇が世界の天皇と仰がせられ給ふことに外ならない。・・・真に天皇を信仰し、皇運扶翼に全力を捧げるものは、民族、国家の如何を問はず、すべて天皇の赤子であり、我等の同胞である。(p3)

かくの如き昭和維新完成のためには、民族間の新しき道徳の創造を必要とする。恰も明治維新に於て各藩侯に対する忠誠を天皇に対し奉る忠義に復帰せしめた如く、天皇の忠良なる臣民たるために東亜諸民族の大同し得る新しき時代の道徳を確立し、民族闘争より民族協和に飛躍せしめねばならない。(p12・13)

天皇を戴く日本国は連盟の中核的存在とならなければならぬ。・・・
悠久の古より東方道義の道統を御伝持遊ばされた天皇は、世界唯一天成の王者であらせられる。天皇が東亜連盟の盟主として仰がるゝときは、即ち東亜連盟の完成せる日である。東亜諸民族がこの信仰に到達すべき自然の心境を攪乱してゐるのは、日本民族の不当なる優越感であることを猛省し、速かにこの大不忠の行為を改めねばならぬ。 (p16)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1459114/17

下中弥三郎「思想戦の本義」1943年

皇戦は、普通に考へらるゝ戦ではなく皇稜威の世界光被の戦である。・・・皇国にありては、戦争はすべて皇戦である。大義を宇内に布く、これが皇国独自の戦争意義である。ことむけやはす、即ち服ふものは哺み育て、服はざるものは討ち懲らす、斯ういふ戦の原義に基いて為されてゐる戦である。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1436976/4

内閣・内務省・文部省編「国民精神総動員資料.第四輯 日本精神の発揚 八紘一宇の精神」1937年

八紘一宇の精神
  大日本は万世一系の、天皇皇祖の神勅を奉じて永遠に之を統治し給ふ。これが我が万古不易の国体である。この尊厳なる国体を永遠の指標とする我が国民の精神は、時運を貫き隆々と栄えて窮るところがない。併し乍ら我が国と雖も現実世界の裡(うち)に在り、各国家・各民族と共存して居る以上は、独りこの世界史的問題に関係がないといふことはあり得ない。否、我が日本こそ諸国家・諸民族に率先し、万死をも辞せざる不退転の覚悟を以て、世界を闘争と破滅とより救済する為にこの難局に当らねばならぬ。然らば何故に我が国が率先してこの難局に当らねばならぬか。それは宇宙の大生命を国の心とし、之を以て漂へる世界を永遠に修理固成(つくりかため)なして、生成発展せしめる我が天壌無窮の国体が、正に全世界を光被すべき秋(とき)に際会して居るが為である。流転の世界に不易の道を知らしめ、漂へる国家・民族に不動の依拠を与へて、国家・民族を基体とする一大家族世界を肇造(ちゅうぞう)する使命と実力とを有するのは、世界広しと雖も我が日本を措いては他に絶対にないのである。茲(ここ)に我が国体の尊厳と我が国家の不滅との深き根拠がある。されば我が国体と国家とに対する自覚と体認とは、我々国民が現在直面せる支那事変の時艱を克服し、天壌無窮の宏謨を翼賛し奉り、以て世界救済の歴史的使命を果す最深最大の原動力である。
  抑々(そもそも)我が国は他の外国とその根基・成立・精神・歴史等を本質的に異(こと)にして居る。それは、強者が多数の弱者を征服して自ら君主となって打建てた権力国家でもなく、或は又多数の民衆が自己の利益の為に相互に契約し、一人の代表者にその統治権を委任して成立せる約制国家でもない。我が国はかゝる人意の国にあらずして、神命に基き自然の理法に随って生成せられた国であって、彼の北畠親房が「大日本は神国なり」と述べし如く神の国である。今これを我が神代の語事(かたりごと)に徴(ちょう)し見んか、神国の面目躍如たるものがある。天地開闢の神霊、宇宙生成の原力は霊動生成して伊弉諾尊(いざなぎのみこと)・伊弉冉尊(いざなみのみこと)に至り、二尊(にそん)は天神(あまつかみ)諸々(もろもろ)の命(みこと)もちて「この漂へる国を修理固成(つくりかため)」なして国生み神生みの大御業をなし、終に天(あめ)の下(した)の主(きみ)たるべき天照大神を生み給うた。
と道破したのは、独り生成発展の国体の本義、一切万生を育ていつくしみ給ふ皇祖の大御心を体得したのみならず、この皇祖天皇を戴(いただ)く我々国民が、国家の常時と非常時とを問はず、万世不易の国体に対する不動の信念を示したものである。惟(おも)うて茲に至るとき、皇祖の神籌は、天地と共に宏(ひろ)く富嶽と共に高く、三千年の国史を貫いて今日に存する。この宏謨の光被するところ、その国家・民族に廃墜なく、世界の流転の裡にあって而もその奥底に脈々たる不易一貫の道を堅持し、この国体の一貫するところ、この国民精神に萎靡なく時勢の変遷の裡にあって而も昏迷せず、向ふところ常に皇運扶翼の一路があるのみである。この一路こそ我が国をしてこの時艱を踏破して無窮に生成発展せしめ、同時に全世界あらゆる国家をして各々その処を得、その分を竭(つく)さしめ、万邦大和(ばんほうたいわ)、真正なる世界平和を実現せしめる所以である。是実に神武天皇が皇祖の神籌に之を享(う)けて、天(あま)つ日嗣(ひつぎ)の弥嗣々(いやつぎつぎ)に万世に伝へ給へる「八紘(あめのした)を掩(おお)ひて宇(いえ)と為(せ)む」と詔(のり)給うた「八紘一宇」の大精神である。
  「八紘」は「八荒」ともいひ、前者は八方の隅、後者は八方の遠い涯(はて)といふ字義であって、共に「世界の涯」とか「天(あめ)の下」といふ意味である。「一宇」は「一家」といふ字義で、全体として統一と秩序とを有する親和的共同体といふ意味である。従って「八紘一宇」とは、皇化にまつろはぬ一切の禍を払ひ、日本は勿論のこと、各国家・各民族をして夫々その処を得、その志を伸(のば)さしめ、かくして各国家・各民族は自立自存しつゝも、相倚(よ)り相扶(たす)けて、全体として靄然たる一家をなし、以て生成発展してやまないといふ意味に外ならない。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1266412/5

大阪朝日新聞 1942.3.12-1942.3.15(昭和17)
蘭院覆滅の素因 (上・中・下)
石橋五郎

吾人は過去における蘭印為政者の失敗に省みて、蘭領の統治には出来るだけ多くの邦人をここに送って各地方を平等に開拓し、到る所に邦人の集団地を作り、これをまた軍事上の基地となすと共に、土着人に対しては一視同仁の政を布き、土着人をして心より邦人を信頼せしめ、彼等が現在我が外地人の如く日本国民たることを誇りとするようにせねばならぬ。これは我が聖戦の目標たる八紘一宇の大精神にそうものでもある。
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00503599&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1&LANG=JA


 

戦前日本人の海外売春(3)

戦前日本人の海外売春(1)
戦前日本人の海外売春(2)
の続き

「五大洲探検記2 南洋印度奇観」五大州探検家中村直吉 冒険世界主筆押川春浪編 明治42年1月1日発行 ※1909年

(二)新嘉坡の醜業婦
 日本の醜業婦といへば世界に鳴響いたもので、甲は是を以て日本人の面汚しだといひ、乙は是を以て邦人発展の先駆者であるといふ。其孰れが真理であるかは吾人茲に暫らく措て問はないが、実際彼等醜業婦の現状と見ては、是でも日本帝国に籍を置いてる、日本人の片割れかと殆んど情けなくなるのである。
 是等醜業婦が殆んど世界のあらゆる方面に散在して居るのは、今更改めて言ふまでもないが、新嘉坡は其中でも激烈であるやうだ。吾輩の見る処では、其今日あるは日本の船乗が預って力があるらしい。
 今より数十年前、日本の船乗が此地に漂着して、其殖民地に女性の必要なる所以を看破し、竊かに案を打ち帰来甘言を以て数人の婦女を誘拐し、直ちに渡航して醜業を営ましめて見ると、殖民地の秩序なき人情の常として、恰も大旱の雲霓を望むが如く、押寄せる白郎黒客、夜毎日毎の枕は数知れず、喃々たる私語低唱、後朝の訣別に片言交りの難有う又来ますが解るやうになって、需要忽ち嵩じて供給遽かに不足となり、旨く人情の弱点を捉へた事業が当った本人は大喜び、直ぐ又幾人かを仕入れて、そも突出しの其晩より、宵の縁喜は鼠鳴きの鳴き損なく、吾から求めずとも来る赤髭南京を初めとし、馬来印度こ好色漢を手玉に取って投げても投げても、色様々の情の綾は解けつ結びつ、赤道直下の宵々、待人の畳算用更に要なく、売る枕の数に抱主の弾く算盤玉の音は日を追ふて忙しげなり。
 斯うなると見やう見真似の、我利々々亡者共が、吾も吾もと開始めた悪商売が、抑も今日新嘉坡日本遊郭の盛大をなした基礎となったのである。で、事業夫自身の性質から、固より人間並の血の通ってる輩の、あづかって居る筈もないが、現今新嘉坡日本遊郭の楼主と号する奴等は、多くは内地の喰詰者で、其身元を洗って見ると、裁判官巡査船員等のあがりそれに博徒ゴロ書生等であるやうだ。
 九州が醜業婦唯一の輸出地であることは、三歳の童子でも知ってる有名な事実だが、猶且此地方に出稼の醜業婦も、殆んど其の全部が九州出身で、長崎天草島原辺の者が多いやうである。
 以前は誘拐の口実として種々の甘言を弄したので、無智の婦女はウカと夫に乗って、新嘉坡三界迄地獄の憂目を見に行くやうになったのであるが、茲に吾人の不審に堪へないのは、比較的教育の普及した今日、尚ほ九州地方から悪漢の甘言に乗って、誘拐される婦女の絶へないことである。是は慥に不可思議千万なことで、過去数十年の間、幾多悲惨の涙を以て書れたる罪悪の歴史は、必ず是等悲惨の子を出したる地方の人々に読まれて居るに相違ない。然るに今日猶ほ是等地方から婦女誘拐の跡を絶たぬは、吾人の最も不思議とする処である。誘拐者の口実がさまで千変万化の巧妙を極めて居るとも思はれないとすればどうしても、此地方の婦女は、或程度迄吾から進んで誘拐されるのではあるまいかといふ疑問が起る。而も此疑問が疑問でなくして、多少根底ある事実ではないかと思はれる節もないではない。
 長崎を訪れた人は、稲佐のお栄の邸宅が、稲佐の丘上から全市を下瞰して、十万の甍に有意味の冷笑を浴びせかけて居るのを見たであらう。稲佐のお栄固より新嘉坡の醜業と関係はないが、彼女が西比利亜を横行して、帰来稲佐の丘に斯の如き豪奢を衒ふ所以の者は、慥に長崎付近に婦女誘拐の盛に行はるゝ事実の一面を説明するものではあるまいか!?
 女性は虚栄の最も忠実なる崇拝者である。若し此稲佐のお栄以外に、新嘉坡若くは香港地方で醜業に成功し、宝玉と黄金で其汚れたる臭骸を粉飾し、其土臭い郷土に帰り来り、純潔無垢なる村娘の虚栄心を刺戟したらどうだらうか。氷雪寒き西比利亜も鉄石熔る赤道直下も、眼前の虚栄に心狂ひたる婦女の前に何の恐るゝ処ぞ。
 斯くして九州地方の婦女が、土臭い生活から脱せんとして、恐しい焦熱地獄にと踏込むので、考へ来れば其悲惨なる運命の責任の半ばは、彼等誘拐されたる婦女が当然受けなければならないのである。
 併し中には実際健全なる職業に有付けると思って来たのも少くないので、是等が異境万里の地に於て、其鬼の如き楼主に依って醜業を強らるゝ悲惨の光景は、能く筆舌の尽し得べきことでないのである。
 日本遊郭の楼主を親方といふが、是等の親方が醜業婦を仕入れる方法は、実に都合能く出来て居るのである。新嘉坡には印度人の高利貸が沢山居るが、所謂親方共は是から借金して醜業婦を仕入れる。で、其貸借の方法なるものが極めて簡単で、若し一醜業婦を抵当として提供すれば、高利貸は大喜びで六百円乃至八百円を貸してくれる。而も其抵当たる醜業婦は自分の手元で営業させるのだから少しも差閊ないのみならず、借金の八百円位は忽ちの内に消却し尽し尚ほ優に相当の利益を見ることができるのである。
 醜業婦に対する楼主の待遇は、世人の想像するが如く残忍なものではないが唯楼主は一意借金で自家の醜業婦の体を縛することを力めるので、無暗矢鱈に煽動して無益な贅沢をさせる、而も其贅沢は必ず楼主の仲介に依ってするのだから、彼等醜業婦の負担は日日増すばかりで、目に一丁字なきもの若くは算数の観念のない輩は、楼主の手加減に依って何時までも醜業を営まさせられる。併し中には玉帳やうのものを用意し、収支の道を明らかにしてる連中は、幾年かの後には負債の全部を償却し、経営惨憺たる貯蓄で、身に綺羅を飾り得々然と故郷に帰るといふ順序になるのだ。
 彼等醜業婦の風俗は、浴衣に赤い兵児帯をだらし無く巻きつけ、頭髪は蝶々髷に紅い鹿の子などを掛け、足は紺足袋に突掛けの麻裏といふ拵、夫で以て軒下に椅子を並べ、通り掛りの支那人馬来人及び白人の水夫などを、喋々喃々と呼掛けて居る。迚も正面に見られる光景ではない、吾輩などは是でも正気の沙汰かと疑った位で、世人が是等醜業婦の存在を以て、国辱の大なるものとするのは、強ち無理でないと思った。

茲に小説のやうな事実がある。醜業婦の事を書た序だから書き添えて置かう其当時新嘉坡に中野といふ医者が居た、譚は此人に関してのことなので……。中野君が日本を出発した動機は吾輩勿論精しく知らないが、当事と何とやらさて新嘉坡で開業して見るとどうも旨く行かない、そこで暹羅に渡航した。其時の公使が稲垣満次郎君だ。盤谷府で中野君は公使の尽力で開業したが、其処でも業務は全然失敗に帰し、詮方なくなったので、又も新嘉坡へと逆戻りをした。併し此時は最早再び医者をする勇気も失せ、其隠芸の三味線と舞踏を以て旨く遊郭の楼主に接近し、其お蔭で幇間同様遊郭に出入して居た。
 前に述べた通り、新嘉坡の日本醜業婦なるものは、悉く其前身が九州地方の農夫の娘かさなくば、炭鉱付近の石炭担ぎであるために、遊芸の嗜みのあるものとては殆んど絶無の姿であるから、幸にも中野君の未熟の芸当が、日本遊郭中に非常に持囃され、夫が動機で一個の醜業婦が、深く中野君に恋するに至った。一方中野君と雖も木石でない以上遂に其恋を成立せざるを得ないので、夫からといふもの両個は最も深き相思の間柄となった。
 処が其醜業婦中々の女丈夫で、其貯財の全部と日々の稼高を惜気もなく中野君に提供し、同君をして遺憾なく医業の経営費に充てしめたのである。斯うなれば中野君と雖も一生懸命とならざるを得ないので、疲弊せる勇気を揮ひ起し幇間時代に受けたる愛顧を縁に、遊郭全部を重なる顧客として、鋭意熱心、仆れて後止むの覚悟でやったものだから、瞬く間に好評を博し、其当時既に其愛人を迎へて楽しい家庭を形造って居られた。
 秩序なき殖民地では妙な動機から成功する人がある、此中野君の如きは実に其好模型であるのだ。

(七)瓜哇珍談(p60~)のp64から
 日本の醜業婦が殆んど世界のあらゆる方面に発展しつゝあるは、最早掩ふべからざる事実で、吾輩は曩きに新嘉坡の処で其実状に就て少しばかり語ったが更に転じて瓜哇に入るに及び、其侵略勢力の猛烈なのには一驚を喫せざるを得なかった。ソラバヤ、スマラン、到る処多少の日本人の居ない処はないが、而も其日本人が大抵所謂女郎屋の親方なるものである。新嘉坡では此親方が遊郭内に棲むことができないので、中には親方が其副業として雑貨店などを経営して居る。新嘉坡の雑貨店では音宗商店を除いて、他は大抵是等親方の経営にかゝるものである。
 話が余事に渉ったが、要するに瓜哇でも到る処日本人が居る、而も其日本人の大部分が女郎屋の経営者であるとしたならば、外のことは兎も角、無銭旅行の吾輩としては、どうしても彼等親方達の同情に浴せざるを得ないので、事実又此種の人々は浮世の荒波と戦った人だけに、其心の奥深には実に深い熱実な同情心を有して居る。我輩も旅行中其同情に浴すること決して少くなかったので、現に汽車がバタビヤに着くと、吉坂虎吉といふ人が非常に同情を寄せられてバタビヤ滞在中は同氏の宅に宿泊するの便宜を得たことを感謝しなければならない。

(八)スマトラ島探検(p75~)
 ・・・薄暮パレンバンに錨を投じた。で、此処ではバタビヤの吉阪といふ人から紹介されて、同じく女郎屋の親方林弘君を訪問すると同君は非常に喜ばれて下へも置かぬやうに歓待された。
 思へ!、日本人の内にパレンバンの地名を知ってるもの果して幾人あるだらう。否恐らくあるまい、而も同胞の夢にも知らざるスマトラの一角パレンバンには、例の醜業婦が偉大なる勢力を以て発展しつゝあるのだ。前記林君は遠征娘子軍を率ゐる親方の内でも、中々の勢力家であったのである。
 林君と雖も最初からの親方ではなかったのであるが、途中商業に失敗し止むを得ず女郎屋と宗旨を換えて、現今はパレンバンで大に成功して居る。併し其成功を謳歌すべきか非難すべきかは第二の問題として、同君が一種の奮闘児であったことだけは事実である。厄介になったからいふのではないが、林君の如きは女郎屋に親方として一生を終らせるには惜しい人物である。而も蛮境に醜業を営んで居るもの、是れ人の罪にあらずして境遇の罪である。(p76・77)

(九)彼南に於ける幻燈会(p86~)
 ラングン号は新嘉坡を出港しマラッカ海峡を抜け彼南に入港した。・・・
 彼南(ペナン)には日本人が二百人ばかり居る。併しながら例に依って其大部分は醜業を営むもので、其他料理店旅館などを経営するものもないではないが、茲に一つ珍しい商売が熱帯の彼南に行はれるといふことを耳にした。珍しい商売、然り珍しい商売である。
 此付近一帯、其支那たると印度たると、瓜哇たるとスマトラたるとを問はず日本の醜業婦の居ない処のないことを知ってる人でも、恐らく彼南に玉コロガシの行はれてることまでは、有繋に気が付かなかったであらう。

(十)猛獣の如き婦女誘拐者(p94~)
 午前六時彼南出港の英船スマトラ号に便乗して、スマトラ北部探検の途に上った。此航海は曩きに彼南の幻燈で成功したので、左程苦しまずとも済んだのである。船客は例に依って例の如く、スマトラ、馬来の甲板客で満員、日本人は吾輩とそれに同行者の木村といふ呉服行商人で、此外婦女誘拐業者が一人と、是に誘拐されてスマトラに渡航せんとする婦人三名で、日本人全体としては都合六人であった。
 新嘉坡付近では此婦女誘拐者のことをピンプといって居る。で、此ピンプが多くの婦女を誘拐し、其悲惨なる境遇に泣かしめるさへ既に天誅に値するのであるが、彼等は是を以て足れりとせず、誘拐の途中必ず被誘拐の婦女を辱しめなければ止まない。中にな其毒牙にかゝったのを恥ぢて、自ら無残なる最後を遂げるものもある。併し又女性の身の心弱くも、其残忍なる圧迫に遇って、泣く泣く彼等悪鬼の獣慾的犠牲になるもの、殆んど十中の十であるに至っては、驚かざらんと欲するも豈に得べけんやで、実に吾輩の如きもスマトラ号の甲板に於て、其惨劇を実見した一人であるのだ。
 彼南を出帆してから幸海は平穏であった。其内に日が暮れかゝると、馬来スマトラ共が落日に向って礼拝する。夫が済むと何時とはなしに甲板の上が薄暗くなる、両舷燈檣燈が夢のやうな光りを熱帯の海に投げて、推進機の響きが刻一刻と寂しくなってくる。空は晴れて居るが星光の闇を照す由もなく、甲板客で埋められた上甲板に、僅かに朧気のランターンが二つばかり、暁の夢にも等しき淡き名ばかりの光線を浴びせかけて、夜は漸く深からんとするのであった。
 吾輩は船長の好意で船室を有って居たが、蒸熱つで堪らないので、暫時上甲板で涼まうと思って出てくると、有繋に涼しい風が顔をなでる、欄干に凭れ思ふとしもなく越し方の事を辿れば、万感胸に湧いて征途万里の行末が、何時とはなしに案じられる。
 星が一つ南に流れた。甲板客は男も女も船の上で船を漕いで居る。途端「お止しなさいよ。」と若い婦人の声が聞こえた。無論日本語で…………。
 熱帯の海をスマトラに向って南下する外国船に、夜更けて若き日本婦人の唯事にあるまじき声を聞いては、誰しも好奇の眼を見張るであらうが、吾輩は此時格別珍しいとも何とも思はなかった。といふのは彼南を出るとき誘拐者が其誘拐せる三人の婦人を伴って居た事実を知って居たからである。又一方では如何に悪魔の如き誘拐者と雖も、婦人の強硬なる抵抗に遇っては、有繋にどうすることもできまいと思ったので、格別深い注意も払はなかったのである。併し吾輩の予期は全然外れた。彼等のこと到底常識を以て判断し得べきでない。其又手続に至っては吾輩の口にすべき筋のものでない、あゝ止みなんかな、彼等は終に人間界に籍を置くことのできない輩である。
 翌朝未明、スマトラ号は無事デレに投錨した。
 デレは人口約一千位の市街で、日本人が八九十人居る。雑貨店も三軒ばかりある。人口一千に在留邦人の八九十人は少し多過るが、御多分には洩れない其大部分は例の醜業婦であるのだ。
 デレの雑貨店はかなり繁盛して居る。夫れは一大理由があるので、話を聞いて見ると成程と合点が行く。デレから廿哩ばかり内地に茫漠たる煙草の耕作地がある。其耕主は主として白人である。従って彼等はデレを通過して去来する度毎に、日本雑貨を土産物として購ふことになって居る。と今一つ重大なる理由は、日本婦人が四百人ばかり是等耕主若くは、煙草園に関係ある白人共の妾になって居るので、其日用品は自然デレの日本雑貨店から供給を仰ぐといふ風になって居るためで、さてこそ三軒の雑貨店が相応に繁盛する訳である。
 スマトラの内地に日本婦人が四百人もになって居るとは、恐らく読者には破天荒な事実であらう。而も東印度諸地方に於ける日本婦人の状態は、到底普通の想像力を以て律すべきでない。来て見れば左程にもなし富士の山といふが此方面を旅行して醜業婦の話を聞くと、実に何から何まで驚くことばかりで、来て見れば聞きしに勝ることばかり、緬甸印度も斯くやあるらん、まだ足も踏み入れないのに、既に其乱脈さが思ひやられる。
 煙草耕地に於ける妾の給料は月額三十弗乃至四十弗である。而して此等の妾連は大抵一週一回賜暇を得てデレにやってくる。といふのは要之気保養のためで何しろ煙草の耕地といふのが、漠々千里際涯なき底の境で、而も平常其主人なる白人と相対し、堪へ難い程莫寂しい生活をして居るのであるから、斯くは一週一度の休暇を得てデレに来り、懐しい日本人と相会し他愛もなく遊び暮すのである。で、彼等のデレに来る当面の大目的が気保養であるから、貰貯蓄の給料及び小遣銭は大抵デレで消費い果し、財布の底をはたきながら元の黙阿弥で再び煙草の耕地に帰って行くのである。
 然るに茲に面白い事件が持上るのは、デレに居る日本人の無頼漢が、是等妾共の来遊を待構へ語巧みに欺いて、其飽くなきの獣慾を遂ぐるのみならず、甚だしきに至っては其所持金衣類まで捲きあげる奴があることで、妾共も毛色の変った白人の旦那より、同じ種の日本人の方がいゝと見え、だまされると知りながら、不知不識深みに陥るのだそうで、中には日本人を買ったことが其主人に知れ、大騒動の末解雇される者も少くないといふことである。何と厄介千万ではないか。併し吾輩のデレに行った当時は、何等自覚なき妾共も漸く其馬鹿らしさが解ったとかで、日本人を買って裸体にされる奴が非常に少くなったといふ話であったが、夫でも吾輩の目から見ると意外に感ずる程、其お目出度さ加減が激しいのであった。而も斯の如き果敢い慰藉で辛くも其生命なき境遇に甘んずることができるのであると聞いては、吾人日本人として一掬同情の念を禁ずることができないのである。
 斯の如く煙草耕作地に雇傭されてる妾共が、新陳代謝してデレに滞在するもの、多きは十五六人少くとも七八人はあるので、是がため日本雑貨店若くは料理店は年中賑って居るのである。吾輩の見る処に依ると、彼等は日本料理店の二階で賭博を行るらしい。で、其際に相手の日本無頼漢と醜交を結ぶやうになるのであるやうだ。
 デレは一名メダンともいふ、日本人協会がある。滞在中は柏木亭と云ふ宿屋に止宿したのである。

(十一)林中の冒険
序だから此方面の呉服行商のことを話さう。東印度方面に醜業を営む日本の婦女其数幾百千、是に付随する楼主誘拐者妓夫幾百、是等が是より説くかんとする呉服行商人の常顧客である。(p111)

(十二)馬来半島を経て緬甸に入る(p112~)
・・・スギブセを経て陸路テレンシンに向った。此地方も錫の産出が盛大だ。併し其鉱区は大抵英国人の所有である。
 此方面の日本醜業窟は他の東印度諸地方と異り、入口に目隠しがあって、其中に入ると所謂女郎が張店をして居るのが見える。而も長煙管を構へた処は大に国粋を発揮したもので、真黒な素見の兄イ達をして、吸付煙草で魂を有頂天外に飛ばさしめる計略かと思ふと、吾輩もそゞろに物の哀れを催したのである。(p114・115)

 ニコバル群島アンダマン群島を左舷に見て、五月一日午後一時頃イラワヂ河口を逆航し無事蘭貢(振り仮名ラングン)に入港した。(p117)
 御多分には漏れない日本の醜業婦が、此処にも三四十人は居て、夫が相応に繁盛しつゝあるから妙だ。(p119)

 翌日午後六時頃汽車はマンダレー駅に到着した。停車場を出て日本人の居所を訊くと、例の赤帽が親切に教へて呉れた。日本人居留地といひたいが、どうもさうはいへないから日本人の居所と書いたが、外でもない例の醜業窟なのだマンダレーに来ては其処を訪れるより外に行く処はない。日本人といへば醜業婦及び其抱主ばかりだから詮方がない。
 赤帽に教わった通り来て見ると成程日本人が居る。いふ迄もない婦人だ。路次の突当る木造の二階家を訪れると、年の頃なら卅七八、顔の白粉焼けのした眼瞼が気味悪く黒くなって、生際の薄い婦人が出て来て、是は又意外だといったやうな顔付をして入口に突立った儘、吾輩の顔を穴のあく程凝視て居る。何しろ異様な服装をした風来坊が飛込んだのだから、先方も定めし驚いたであらうが、まづ名乗りをするに如くはないと、名刺を出して無銭世界探検旅行の次第を物語ると、何は兎もあれどうぞ此方へと導かれたのが二階の応接間、丸卓を中にして吾輩と主婦とは相対して座を占めたのである。
 当時日本の無頼漢が多く東印度諸地方に入込み、夕に銅色男子を迎へ、朝に黒色の郎を送る醜業婦が、同胞の慰藉同情なきに泣いて居る矢先を見計ひ、甘い口車に乗せて衣類所持金までも捲上げつゝあったことを聞いて居たので、先づ此種の誤解を避けるために口数を尽して述べ立てると、先方も始めて安心したと見え、
「実は英国政府の命令で、廓内には日本の男子は入れないことになって居りますが、さういふお話で厶いますれば、宜敷う厶います。手前共でお宿を致しますから、どうぞお心置きなく御逗留遊ばしませ。」と早速承諾してくれて、夫からは下へも置かぬ待遇振り、直ぐ一間を吾輩の専用にあてがひ、・・・(p122~124)

(十五)牛糞の如き印度人(p146~)
 カルカッタの日本女郎屋は、香港新嘉坡乃至他の各地に於けるものと、大に趣を異にして居るので、其家屋及営業方法が中々ハイカラであるのみならず各楼主の経営にかゝる日本人倶楽部は、慥かに印度南洋方面に於ける遠征娘子軍中に異彩を放って居る。
 早合点しては困る、女郎屋の主人公に依って組織された倶楽部は、恐らく遊興を強ゆる一種の機関ではあるまいかと、否々決してさうでない。一体日本人で印度視察に来るものゝ不便とする処は其旅館で、多額の旅費を持って遊山三昧の旅行なら格別、カルカッタに来るものゝ多くは、仏教研究とは仏跡調査が主なる目的で、上等の旅館に頑張って贅を尽す訳に行かない。といって下等の旅館には種々なる障害と弊習があって、迚もポット出の日本人には安心して滞在することができない。要之日本人倶楽部は此不自由を救済せんとする目的で建てられたもので、いはば各楼主の暗黒なる他の一面に於ける慈善的光明面で、軽い財布を首に掛けて印度に来たものは、大抵此倶楽部から多大の便宜を得るので、其献身的設備に対して感謝しないものは、未だ一人としてあるまいと思はれる。(p155・156)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/767232/22

酌婦を解せず。
市内松公園内、料理店、松金、抱芸者、梅八、事、西本サキは、今度、内地へ帰り、大阪府下、西成郡勝間村生れ、金沢ノエ(十九)が丁度、遊んで居れば、満州にいっては何うか、酌婦をしても、月に七八十円の収入はあると、例の調子で誘ひ出し、一日入港(の)台中丸にて来連したが、満州の酌婦は内地と違ひ、女郎と一緒と解り、這麼(こんな)恐ろしい所であったら、来るのではなかったと、頻りに悔み居るより、松金の主人も呼出され、相談の末、ノエは一先づ内地へ帰る事となる。(満州日日新聞、大正二年八月二日) ※1913年
(倉橋正直「従軍慰安婦と公娼制度」p122)
 
之と共に北満州の一部と西比利亜(シベリア)に居るものを算すれば、少なくとも五千人に達する。日本の男性が一人も住居していない小村落にも、支那人のとなり、酌婦となって四、五人は住んで居る。一般に料理店と云ふのは娼家を指し、酌婦とは娼妓を指すのである。唯だ慣例上、料理店又は酌婦なる名を冠するに止まり、日本内地に於ける如き料理店又は酌婦ではない。純然たる女郎屋と女郎のことである。」(布川静淵「日本婦人の面よごし―海外に於ける日本醜業婦の近況」、『婦人公論』、三巻二号、一九一八年二月)
(倉橋正直「従軍慰安婦と公娼制度」p126)

藤田四郎「清国視察談」明治35年3月21(?)日発行 ※1902年
(p1に前農商務総務長官 貴族院議員とある)

十五 醜業婦と貿易の関係(p43~)
次に注目すべきことは醜業婦のことである、醜業婦のことに付て私共は外務省に居る時分にも心配したことで当時の政府の方針に依り調べたこともあるが条約改正の前であるから少しでも非難されることは避ける方針であった然るに最早今日あちらに往って見ると醜業婦は誘拐されて往くものは別として自分の自由意志に依って往く所の醜業婦はひどく制限する必要はないと思ふ、日本の貿易は国旗に従ふと云ふ方針を云ふ人もあるが之は嘘である日本の貿易は醜業婦の下に従ふと云ふは実際ではないかと思ふ、先づ以て醜業婦が往って而して後に詰らぬ雑貨が出て往き下等なる日本人が続いて往く夫れから貿易の端緒が出来、領事館が出来、良い商人が往くと云ふ順序が今日亜細亜の貿易の有様である今日我国の醜業婦は多く関西、九州地方から往って居るやうであるが聞く所に依れば今より殆ど二十年前にも随分内地に迄醜業婦が這入り込んだと云ふことである、一例を挙ぐれば揚子江の鎮江の如き数十名の醜業婦が居ったと云ふことである其が今日では一人も居らぬ、其処でどう云ふ訳かと聞いて見ると即ち支那の遊女●が種々の反対運動をやって領事館に訴へる事抔をして遂に皆厳しき命令に依って之を引払はしたのである、而して其貿易如何と云ふて見たならば鎮江は今日互市場であるが其貿易は我国に依って営まれて居るものはないのである、日本人が時々あちらに往くことを聞いて居るが未だ貿易業者が居ると云ふこと迄には至らぬのである若しも醜業婦が数十年前居った儘で之を抑圧しなかったならば今の鎮江の貿易は必ず日本が一大優者となって居ったと思はれるのである、然るに今日では其地を見るに僅に英米等の商人が居るのみである、畢竟之は残念ながら醜業婦を抑圧した結果と断言するを憚らぬのである、私が十数年前印度洋を経て欧洲に往った時分にもシンガポール、コロンボ通りに既に此醜業婦が居ったと云ふことで今では亜非利加、濠洲、其他南洋諸嶋の奥に迄入り込んで居ると云ふことを聞いて居る・・・
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/767012/25
 
矢津昌永「朝鮮西伯利紀行」明治27年1月13日発行 ※1894年

浦盬を出発す
八月十日快晴、朝八十四度(熊本七十六度)。当市第一流の商店なる独逸アルペルス商館に至り、種々買物をなし、又蛮子の市場に於て、物品数点を求め、夫より貿易事務館、に至りて告別す、川邊、鈴木土橋等の諸氏に送られて、支那の赤猪牙舟より東京丸に乗組めり、同船者は小森、加藤、川田の三氏、及び仏人美好(G.Bigot)氏と、共に五名とす、他等の室には。日本人二十二名、支那人凡そ百名、朝鮮人十六名乗組めりと云ふ

醜業婦
艀船に婦人の一連の乗するもの両三艘あり、諦視すれば皆日本婦人にして、即ち所謂醜業婦なり、彼等今顧客を本船に送りしものなり、其粉粧を見るに、束髪にして洋装するものあり、或は大柄縞の日本服に、細帯を締むるものあり、視然耻る色なく、揚々支那語を放ちて、舟を隔てゝ蠻子の舟子等と戯談す、醜躰見るに堪へず、然れども万里の波濤を踏んで、未知の境に入り、言語不通の異物を相手として。彼が財嚢を絞り、跋扈跳梁するに至りては、其勇に驚かざるを得ず、何れの外人も。我醜業婦には常に一目を譲ると云ふ。而して有髯男子は、却て猫額大の内事にのみ汲々して、身自ら洋波を踏んで、富を外邦に覓むるが如きは稀なり「日本男児は、終に女子の勇に若かざるや」とは、当港一般の評なりと聞く
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/766904/60

山浦瑞洲「一兵卒乃告白」大正元年11月18日発行 ※1912年

麗水は南海岸の一小港にして、日本居留民も百余名を算せしが、此の倉村とては極めて山間の僻村にして、日本居留民は僅か五六人に過ぎず。
 さるにても奇なる現象は右五六人内の、一名は順天守備隊御用商人の出張員、一名は料理屋の主人、他は例の醜業婦なること是也兼て聞く『殖民地に醜業婦を送るは是れ植民政策の妙策なるもの也』と、其の言の適否善悪は兎に角、先づ渡韓以来瞥見したる彼の麗水と云ひ、順天と云ひ、又此の山間の倉村と云ひ、彼等醜業婦の跋扈には殆ど一驚を喫せざるを得ず
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/947773/80

藤田敏郎「海外在勤四半世紀の回顧」昭和6年7月21日発行 ※1931年

醜業婦の輸入及裁判事件(p32~)
 明治廿二三年の頃、桑港(サンフランシスコ)に於ける日本無頼の徒は種々の工夫を凝らし、醜業婦の輸入をなせり。米国官憲は数人の探偵を使ひ是が事実を探り、不正者の上陸を阻止し、日本領事館は真正なる渡米婦人は極力保護上陸せしむるも、不正者は米官憲の所為の任すよりも、寧ろ官憲を補助し上陸を拒絶せしめたり。然るに無頼の徒は、地方の悪弁護士と一致し、人身保護律に依り上告をなすを例とす。米合衆国裁判所は之を審理するに、言語習慣其他を異にし不便なれば、屡々領事館に交渉して便宜を借り、遂に裁判毎に、館員も判事の傍らに坐せしめ、種々の解釈進言を求むるに至れり。或時某新聞紙は、日本領事館員は裁判に干与し、恰も立会裁判の如き体裁にて自国醜業婦の上告を拒絶せりと記載したり。其翌日午後余等帰宅せんとせし際、三人の在留者来館、領事代理たる余に面会を求め、大に興奮して曰く、汝は日本の領事にあらずして米国の領事なり、我々日本人に不利益を与ふる者なり。昨日の裁判の如きは、汝の意見にて善良の日本婦人を帰国せしめたり。仍て我等汝の生命を貰はんとす、覚悟せよと、各自隠し持ちたる「ピストル」を出し事将に重大に至らんとするや、隣室より雇外国人「ダニエル、エス、リチャードソン」氏太き洋杖を携へ入来り曰く、領事貴下余に乱暴者の向脚を折り三階より往来に放出することを許せ。余曰く善しと。リ氏将さに最先の無頼漢を打たんと身構へたれば、三人其剣幕に恐れ帽子其他を遺棄し倉皇として逃げ去れり。リ氏は容貌魁偉なる小丈夫なれ共、性温厚篤実、平素人を打つ如き人にあらず。然るに此時は半ば恐喝し、半ば激昂し余を救はんとせしものなり。氏の心情と頓智は感謝に堪へざるなり。
 当時我醜業婦は八十余人ありて、無頼漢の食ひ者となり、市内に半公然醜業を営みしかば、在留者中有志者、市の官憲に迫り営業を禁止せんと請ひしも、独り日本人のみに限り禁止する能はず、宜しく諸君其家々に赴き営業を防〔ママ〕害すべし、余等は見て見ぬ振をなすべしと。於是有志者二三十人、毎夕交替に醜業者の多数住居する街に赴き、盛んに防害を試み、他方幼者逆待防止会と一致し、十六歳以下の醜業婦人の救助に努めたり。

醜業婦の送還(p71~)
 明治廿九、卅年頃新嘉坡(シンガポール)在留日本人は約千人にして、内九百余人は女子にして其九割九分は醜業婦なり、其多くは誘拐されたる者に係る。彼等姓名を偽称するが故に、外務省より取調べ帰国せしむべく命ぜらるゝ毎に多大の困難を感じたり。新嘉坡政庁婦女保護官と協同し、漸く名簿を調製したるも、馬来半島「スマトラ」瓜哇等に至りては、到底之を知るに由なし。偶々被誘拐者を物色し呼出すも容易に実情を吐かざるを常とす。或時小西氏と被誘拐者及主婦を呼出し取調ぶるに、曰く父母の許諾を得て香港に来り、更らに当地に転航したるものなれば誘拐されたるにあらずと主張す。或時余其挙動の不審なるを見たれば、主婦を帰宅せしめ、徐ろに訊問せしに、女泣て誘拐され且可驚虐待に逢ひつゝある実情を告ぐ。盖は主婦の面前にて実情を告ぐれば、後日如何なる憂目に逢はんかと気遣ひ、反対の言辞を云立つるなり。依て再び主婦を呼出し、早速帰国せしむべきを申渡す。主婦は紋切形の如く、千幾百弗を出し抱へたる者なれば、六ケ月の猶予を請ふと歎願す。余之に歎願の謂れなきを告げ、旅費の支出を命じ、次便にて長崎又は神戸に帰らしむることを命ず。新嘉坡の法律に人を誘拐し且醜業を余儀なくする者には大なる刑罰あり、余より之を告発する時は乍ちに罪人となるが故に、彼等之を恐れて承服するなり。斯くして主婦より旅費を支払はしめ、領事館より日本船の船長又は事務長に保護を依頼し、神戸又は長崎の官憲に引渡すなり。中には誘拐者にして全然旅費の貯へなく、又は其出所なきものあり。其場合には船中の食料代として、五弗乃至十弗を私嚢より事務長に交付し送還をなしたり。之は外務省に斯る資金なければなり。其後船舶法制定せられ、領事は日本船船長に対し此類の臣民の為め送還命令を発することとなりたり。
 海峡殖民地総督「サー、チャーレス、ミッチェル」氏婦人(レデー、ミッチェル)は、醜業婦の哀れむべき境遇に同情し、屡々余に可及丈の方法を講じ、新嘉坡港に来ることを制止せんことを以てし、又保護局長「エヴァンス」氏と協議せしめ、十六歳以下の者は随時停業せしめ、余の手より本邦に送還することに尽力せられたり。或時婦人曰日本人の在留者は千人内九割以上は醜業婦人にして、其割合を失し、其多くは英国より来る無邪気なる兵士の誘惑者なり。しかも其夫人は自由意志にあらず、他人より強ひらるゝ醜業者なり。何とか方法を講じ、最少限度迄減少したしと。余の在任中或事情の為め、禁止案採用せられず、唯二年半の間百五六十人を送還せしのみ。而して余が暹羅に転任を命ぜられ出立せし日、彼等一大祝賀会を催ふせしと云へり。
 大正九年余「サンパウロ」赴任の途次同港を通過し、山崎領事より醜業婦退去の顛末を聞き、時勢の進歩、外務省の態度の変化と、在留日本人中多数の紳士出来、同領事に協力し、此大事業を遂行し、今や同港には一人の日本醜業婦無しと云ふ、喜悦に堪へざるなり。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1268579/44

拓務省拓務局「海外拓殖事業調査資料第三十七輯 サラワック王国事情」昭和13年7月発行 ※1938年

第十六章「サラワック」に於ける邦人活動事情
第一節 邦人発展の経緯
 「サラワック」に於ける邦人発展の起源は詳かでないが、他の南洋地方にける〔ママ〕と同様娘子軍の進出を以ってその嚆矢とする。而して邦人活動に一転期を画した日沙商会の創始者たる故依岡省三氏の渡サした当時、在留邦人は約六〇名でこの娘子軍を中心とし、多少商業に従事する者があった模様である。(p195)
 
一八、娘子軍時代
1、明治維新以後の日本人の発展
・・・随って明治維新以来日本人の海外発展が亜米利加海岸の外、至る処婦女子の賤業を先駆とせざるを得ざる一種変態の発展であったことも、怪しむに足らざる事実であった。
 米国海岸は労銀高く日本男子が甘んじて出稼したのであって、敢て婦女子の賤業を先駆に発展する必要はなかったのであるが、然も満州、支那、南洋地方は労銀低廉で劣等生活に甘んずる労働者が多いのであるから、特別の事情なき限り日本人の労働者を必要とせず、随って婦女子の賤業が発展の先駆になったのも是非なき次第であった。蓋し徳川時代の鎖国政策と武士制度の下に数多の人を飼ひ殺し、自営奮闘の尚ぶに足らざるを教へてゐた祟りは、工業の海外に誇るべきものなく、商人といへば御用達類似の狡猾漢のみを作りだし、一旦開国しても海外に貿易する物もなく、勇気もなく却って九州地方の冒険女子が相率ゐて西南に色を売りつゝ発展したのである。人或は日本の婦女子が海外に賎業した事実を国家の醜恥と為し、極めて之を排斥せんとするが、そは海外に於ける日本賎業婦の横流を顕著ならしめた裏面の実情を知らず、日本が此方面に貿易品を有せず、商人の多くが此地方に来ても仕様がなかった為めで、寧ろ当時の日本商工界の無能力、無気力を間接に証明したものとして、それをこそ日本の恥辱といふべきであったのである。一賎業婦を南洋及び其他の海外に出さゞる謹厚の朝鮮が遭逢した運命を思ふ時、個人としても団体としても敢為大胆なる者でなければ到底世界競争に堪へ得ないことを会得せずに居られないのである。
 易の泰の彔に曰く「暴荒憑河」と、暴荒は清濁併呑の意、憑河は冒険の謂である。論語に孔子が憑河暴虎を斥けたのはともすれば蛮勇を振ふ子路に対する一片の投薬に過ぎなかったのである。

2、娘子軍の元祖
 明治の初年、横浜より日本女子を妻とせる一英人の新嘉坡に転勤し来り、幾もなく死去せる者あり、その妻断髪男装して欧羅巴ホテルのボーイとなったが、容色なほ衰へず遂に人に誘はれ陋巷に賎業を始めたのが、実に南洋に於ける日本賎業婦のお祖師様だと伝へられて居るのである。然も需要は必然的に供給を誘ふのである。其類の集る者月に年に漸く多く、男子の之に寄生する者も続出し、爾来これ等の男女は輔車相依って或は馬来半島に、或は蘭領諸島に、或は濠洲方面にその羽翼を伸ばし、隠然として南洋の豪を以て自任する者を出し、高潔好きで然もお祭り騒ぎ癖ある日本人社会から何かと云へば、金銭の相談を是等豪傑仲間に持ち掛けしめるに至ったのである。然し斯くナブられつゝあった賎業婦も一部落を成せば必ずそこに日本雑貨を売る店舗を生み、花街の娘と所謂旦那持ちが競ふて日本雑貨を外人に購買せしむる機縁を作ったのであった。
 明治維新以降の邦人南洋発展史は之を娘子軍時代、護謨事業勃興時代、欧洲大戦の好況時代、戦後の不況時代、満洲事変後為替安時代の五項に分けて記述するのが便利である様に思ふのである。

3、草分と其頃の新嘉坡
 維新前後、尤も古い時代に新嘉坡に来てゐた人と云へば元ローヤルシヤターの母親さんと云ってゐた松田うたさんであったらう。何んでも御維新の三四年前大阪で支那人の細君になり、一所に新嘉坡に来て店を開け仕入れに帰朝中台湾征伐が始まり、便船がなくて帰星を遅らした事があったと云ふ話をしてゐた。サーカスに加って来星其まゝ居残った傳多の婆さんと共に、井上外務卿の署名ある旅券を持って威張ってゐた。俗に神戸新と云ってた淡路島の家老の家に生れたと云ふ稲田新之助爺さんも御維新前外国船に乗ってゐたので既に一度新嘉坡に来た事があるが、其後米国に渡航しマカオから新嘉坡に来て腰を落付けたのは明治十七八年頃だったと云ふから、馬来のお豊婆さんは勿論来てゐたに相違ない。更に現存してる人では米屋の婆さんと云ってる小川しのさん(七八歳)が来たのは明治十年だと云ふから恐らく今居る人では一番古顔なんだらう。小川の婆さんが来た頃はまだ新嘉坡に二階建はなくアタップ葺きでカトンに行くと馬来人ばかりであったそうだ。ビーチ路から花街までずっと湿地でマライ街あたりの丘に支那人の墓場があったのだそうだ。随って邦人娼家の発祥地は所謂花街といった馬来、マラバ、ハイナム街辺りではなかったのである。日本街は後に澁谷銀治の細君になった九番のお安が大道で芭蕉果を売ってゐたからつけられた名だといはれて居る。米屋の婆さんもお安といふのが長崎で支那人の船乗りと馴染になり、自分よりずっと前に来てゐた。其頃廿歳前後で大変別嬪でしたと話してゐた。清水たつ後に十三番の腹ぼての婆さんといってゐたのは、最初米屋の婀媽をしてゐた、異人について来を〔ママ〕のだが其異人が香港で死んだので欧羅巴に行く筈だったが、此処に上陸って仕舞ふたのである。しの婆さんよりは少し遅かったそうだ。兎に角明治十年頃には既にマライ街に二軒の邦人娼家があった。軈てそれが十軒になり五十人も六十人も娘が居る様になったのである
 蔦田歯科医が廿四年に来た頃でさへタンヂョンパカーやカンポンバル方面は皆山で、ラフルスホテル辺マングローブが茂ってゐたさうだ。
 バンダが出来たのは一八九九年で支那人ばかり最初は邦人の娼家はなかった。華民保護局が出来たのは一八八八年で支那苦力が奴隷的に輸入され、殊に売られて来る女が余りに可愛想だと夫等を保護するために出来たのであって、インスペクタ・ピッカリング氏が最初の局長で、誘拐されて来る哀れな日本娘も亦其処で保護されてゐたのである。
 新嘉坡に日本の名誉領事が置かれたのは明治廿一年四月で、今のAPSが居るビルディングの処に事務所を持ってゐた支那人胡施澤氏が開祖だった。そして廿二年一月廿二日中川恒次郎氏領事代理として着任、ソフィヤ路に始めて帝国領事館が開設されたのであった。
 当時女郎屋には二木氏を始め銃後版の澁谷初五郎夫婦など云ふ確りした者もゐたが、店らしい店を開いてゐたのはハイストリートに國井藤兵衛と云ふ人が開けてゐた大和商会位のもので、三井物産が廿四年バッテリ路の今のチャタード銀行のある所に支店を開設したのが、日本貿易業者の南洋に発展する抑々先駆であったのである。・・・

8、日露戦争時代(p143~)
 それから日露戦争の大勝に依って形勢は更に又ガラリと一変した。・・・娘子軍の全盛時代も恐らく其頃が絶頂であったらしく思はれるのである。明治卅九年華民保護局への登録数実に六百二十人に達し、まだその外に登録洩れの所謂モグリが相当ゐたのであるから、花街と女郎屋の繁昌振りの如何に物騒いものであったかゞ創造されるだらうと思ふのだ。

9、其頃の在留邦商
 娘子軍に寄生して南洋の邦人商店が発展したと云ふのは余りに気の毒な様であるが、全く事実であったから仕方がない。・・・其他馬拉加芙蓉、カラン等苟も日本娼妓の部落をなせる処雑貨或は呉服を鬻ぐ者之無きはなく、更に娘等の需要に応ずべく至る所に行商が入込んでゐたのである。

10、娘子軍時代の末路
 然も流石に我世の春と全盛を旺歌してゐた娘子軍時代にも漸く衰調が明かに見えて来た。大正二年暮れ白人娼婦一斉に退去を命ぜられ、夫々尤も近い領事館の所在地まで送還されて、昼をあざむく軒燈に不夜城の栄華を誇ってゐた花街にも時ならざる暴風の襲来を思はすものがあったのである。斯くて愈大飛躍の気運に遭遇した我南洋在留同胞社会は先づ其腐乱した毒血を絞り出して、愈真剣に戦闘準備を整へる為めに突如一種の血清療法を受けねばならぬのであった。それは時の領事藤井實氏の英断と政庁当局の荒療治に依ってゞあった。アンシャマトワンだとかニーサンなぞ云ふ聞きづらひ称乎を半島の山奥、蘭領の島々のはてに至るまで聴かされねばならなんだ当時の有様で、何うして在南邦人は世界大戦と云ふ千載一遇の大舞台に乗り出す事が出来たゞらうか。開国五十年に近き努力を以てして尚且つ婦女子を海外に輸出し、甘んじて賎業に従事せしむる以外殖産工業を以て世界人類の生活を向上せしむることに資すべき何者も無いとすれば、寧ろ日本人の存在は呪ふ可きであったかも知れないのである。然も難きを避けて易きに就くのが人情の常である。まさか可愛い自分の娘を南溟の瘴癘に苦しませ肉を鬻ぎ血の涙を絞らせて唯一身の安逸を貪らんとする程の極悪無道の親も無かったらうが、田舎娘の無智を喰物として比較的同義観念の薄い海外殖民地の不義の享楽にふけらうとするが如き者は少なくなかったのだ。先づ内に之等徒輩を殲滅し努力奮闘自らの汗に依って新天地を開拓して行かふと云ふ元気ある者ばかりにならねば、折角の機運をとらえても真に日本の南洋発展は確実な基礎を築く事は出来なんだのである。況んや全盛を極めて醒むる事を知らない歓楽に酔ふてゐた花街にも裏面の暗闘は絶ゆる事なく、ニ三有力者が新たに手を染め出した護謨栽培事業に投下された資本に対しても怪しむ可き風聞が切りに伝へられ、在留同胞の親睦和衷を標榜して廿年の歴史を有する共済会の内部も腐敗し切って、最早や表面の糊塗ではどうにも遣って行けない処まで形勢は切迫しつゝあったのだった。而して卅五六年頃から既に其落伍者や不平党に依って如何はしい珈琲店等云ふものが営まれ、当時北橋路にあった五六軒のそれ等の店を圧倒し尽さんとした事が動機となり、此処に嬪夫狩りの大活劇が商売がたきの密告猜排に胚胎して突如颶風の如くに所謂密航者の頭上に襲来したのであった。暗闇の恥をさらけ出す事位はものかは降りかゝる火の子は何うしても払はずには居られないと互ひに訴へ、陥入れんとして藤井領事の大英断により大正三年の春から五月頃までに追放された者、海峡殖民地と馬来半島を通じて殆んど百に近かったらう。然も身の程を弁へずに何処へでも出娑張るそれらの男は斯くて一挙に駆逐されて仕舞ふたのであった。そしれラヽんが苅取られてから護謨の若樹がスクスクと延び育った様に、花街方面から如何はしい男が影を消して同時に堅実な在留邦人の発展が真に目覚ましい程の活躍を見せて来たのだった。

11、藤井領事嬪夫追放
 英領の法規は男子の女郎屋経営を禁じて居る。敢て表面のみならず裏面に於ける関係も許さない。然も日本人と云へば昔は直ちに売笑婦を連想せしめ帝国領事をすらアニシャマ・トワンと呼んだ者さへあるのである。随って当時妓楼に男子の寄生を已むを得ずと看過し嬪夫も亦怖るゝ政庁当局の寛大に狎れて終に世上に跳梁跋扈するに至ったのである。然し在留邦人の素質も変り地位向上して政治的にも商業的にも果た栽培事業方面にも目立って発展して来て国違ひから邦人男子の総てが女郎屋のアニシャマと思はるゝ如きは到底忍ぶことの出来ない侮辱であり、甚だしく邦人活動の支障となるものと認められ彼等の一掃が焦眉の急となって来たのである。
 大正三年四月或日の早朝特別命令を帯べる数名の刑事は青天の霹靂的に邦人遊廓を襲撃して嬪夫の頭目四名を捕縛せんとした、内一名は早くも風を喰って逃走せしも三名は逮捕されて監獄にぶち込れて仕舞ふた。彼等は護謨園主、歯科医、雑貨店主と表面を繕ふてゐたが政庁のこの英断に全く手も足を出す事が出来ないのであった。遊廓は上を下への騒動で当の嬪夫はいふ迄もなく多少の関係を妓楼に有する者は蒼くなって倉皇行李を収めて縄目を避け姿を隠して仕舞ふた。有志の奔走となり領事の活動となり遂に政庁当局をして「彼等が確に退去するならば強ひて投獄せずといふことになり一々写真(正面、横、背面の三面撮影)を警察に残して英領土を追放されたのであって其数四十余名に及んだ。
 新嘉坡嬪夫退治の報四方に伝はるや半島各地の恐怖一方ならず、良心のまだ麻痺せざる者は直ちに業態を改め、逃げ足の早き者は何処へか姿を晦まして仕舞ふた。更にこの嬪夫征伐と同時に新嘉坡では以後新に娼妓の鑑札を下付せざる方針を決したのであった。

12、廃娼問題断行
 邦人の護謨栽培事業勃興、欧州大戦開始と南洋の天地にも時代の変調は滔々として押寄せて来つゝあった。如何に女ならでは夜の明けぬ植民地と雖も、財産が出来れば体裁を飾り度くなるのである。大戦好況の絶頂時一夜に千金を蕩尽する遊興子もあったが、既にそれは女郎屋でなくして料理屋の二階で芸者を揚げての散財であった。然も大正八年の暮れ頃から景気逆転の兆候漸次歴然たるものがあったが、よもや急転直下全盛を極めてゐた日本の南洋発展が根底から覆へされ様と誰が果して予感し得たであらうか。戦後愈々堅実なる在留民の発展を期する為めに九年正月、新嘉坡総領事館管下各地の在留民代表は山崎総領事代理より招集されて新嘉坡に集まり、断乎年内に自発的廃娼を実行することを決議したのであった。三十年の歴史と猛烈なる彼等の活躍は到底容易に其絶滅を強ふ可くもあらずと、ツイ数年前までは思はれてゐたのであったが、欧州大戦に依る堅実なる在留同胞の発展は内容の改善と面目の向上を痛感する事一層痛切なるものあり、到底彼等の存在に依って受くる軽侮に甘んじ、為めに着実なる発展がともすれば動揺せしめらるゝ如き事あるを忍ぶ能はざるに至った結果であったに相違ない。各地代表は当時進んで此至難なる事業に当らん事を何れも欣然として決議したのであった。尤も彼南は既に其前年度末廃娼を断行して居り、新嘉坡も亦各地に先達ち同年六月一杯で断然廃娼を決行する事を声明し兎も角も二百有余の公娼を全部撤退せしめたのであったが、支那人の排日貨運動に依って惨憺たる悲境に陥入れられた上、護謨価無前の暴落に逢ふて極度の不景気に襲はれつゝあった半島各地の実情は、断乎たる態度に出でし約束の廃娼を決行するには余りに甚しい惨状を呈してゐたのだった。
 新嘉坡と彼南は開戦と同時に白人娼婦の撤退に連れて一切新規の開業を承認しなかったのであるから、さしも全盛を極めてゐた其醜業区も漸次衰運の顕著なるものあり、殊に在留同胞の財力が充実してゐたから比較的絶滅は容易であったが、何しろ尚千五百に余る娼婦を擁してゐた馬来半島では斯如簡単に一挙解決すると云ふ訳には行かなんだ事情があったのである。娘子軍の全盛を極めてゐた頃は蘭領スマトラのメダン付近等を加へて、当方面一帯に活躍しつゝあった彼等の実数は六千に余り、年優に一千万弗からの稼ぎがあったのであるから其財的勢力侮る可からざるものあり、殊に四十年近い歴史を有して居るのだから経済関係の錯綜せる事実殆んど想像以上であったのである。然も彼等の奮闘は要するに不健全であり、収入の大部分は当然浪費さる可き性質のものであったから、其目覚ましい活躍に顧みて何等残された事業の無かったのみならず、寧ろ莫大な債務を彼等は所謂チッテなる印度人の金貸業者等から負はされてゐたのであって、容易に動かれない内情がそんな処にもあったのであった。だから醜業婦其者の駆逐は単に在留民の態面を修飾すると云ふに止まらず、経済方面にも直接痛痒を感ずることさして深くはなかった筈であったが、間接に其収入を融通して貰ふてゐた方面―殆んど半島在留邦人の大部分が為めに蒙むる影響は実に甚大なものがあったのである。支那人のボヰコット、護謨価の暴落、極端な不景気にかてゝ加へて廃娼の断行と来たのであるから、将に半島在留同胞の多数は全滅の悲況に直面させられてゐたのだった。

廃娼断行代表会の出席者
 大正九年一月四日山崎総領事代理の招請に応じ、廃娼問題を協議すべく新嘉坡に集った各地日本人会代表は廿九名で
 彼南 会長岡庭喜惣治 副会長長田利明 理事荒木竹三
 マラッカ 会長彦坂正義 理事筒井信吉
 ケダ州アロスター 会長田邊吾一
 ペラ州タイピン 会長内田鉄吉 理事佐藤源次郎
 同 一保 会長水上庄太郎 副会長下山均 理事遠藤良助
 同 テラカンソン 代表諸戸末松
 同 チッテワン 代表川原忠吉
 セランゴール州吉隆坡 会長佐竹逸蔵
 同 コーラクベ 支部長長谷川義男
 同 カラン 支部長桑山定省
 ネグリスミラン州芙蓉 副会長朝永誠三 理事山田政記 理事小岩井靖
 同コーラビラ 支部長松永麟五郎
 柔仏バル 会長野村勇 理事明坂安治 理事濱口友彦
 同 バトバハ 会長佐々木亦二 理事安田隆治
 同 モア 代表谷由輔 代表山崎政吉
新嘉坡川は同会長宮下龍蔵、副会長中川菊三、理事大塚伸二郎、古藤秀三、高木復亨、竹内精一、木村増太郎、星崎武夫及び佐藤栽培協会幹事の九名でバトバハの佐々木氏を座長とし四日に亘る論議の結果尤も円満に自発的廃業を決議したものであった。

13、新嘉坡の女郎屋と嬪夫の引揚を送る
 南洋娘子軍なる名を何時の頃誰が称へ出したかを知らないが、二六新報に黒龍会や参謀本部や洲崎の大八幡楼の主人公であった中村伝蔵氏等から材料を貰ふて「南洋娘子軍」なる題目で当方面の娘さんの事を連載してゐたのは明治三十三年秋から三十四年の夏頃までの事であった。当時既に馬来半島からメダン地方にかけて約四千の娘子軍あり、年々五百以上の補充が何うしても必要であると云ふ様な事まで書いたと覚へてゐる、殊に其頃は南海先生の康有為が新嘉坡に抑留されてゐた為に宮崎滔天が態々逢ひに行く、福本日南も亦出掛けると云ふ騒ぎで、私の若い血汐を沸き立たせた事は頗る非常なものであった。遂に孫逸仙の挙兵に参加すべく用意をしてゐたのであったが目的を達しなんだ等が原因で結局今日までブラブラ浪人生活をする事にもなったのだけに、私の方から云ふと随分久しい南洋娘子軍とは馴染であったのである。其後更に長崎の出雲街にゐた侠客丹波屋の親分と懇意になり、益々当方面の詳細な実況を親しく聞く事を得て愈々一度は自分も渡南して見やうと云ふ気になってゐた折りから、妙な事で此処とは特殊な関係を持ってる岩本千綱氏は宇都宮太郎中将や梅屋庄吉氏らと交際する様になって、遂に大正四年の春南洋まで流れて来る事になったのであった。
 然し私の新嘉坡に来た時は既に娘子軍の勢威はとくに盛りを過ぎてゐたのだった。最も前年所謂ピンプ退治があり、醜業関係の男が全部逃出した為に残った女将は勢ひ途方に暮れて居ると云ふ有様で、澁谷や二木等云ふ頭株は死んでゐたし、十三軒からの女郎屋を持ち百人も娘を抱へてゐたと云ふ一保の山田すらもう見る影もない程寂漠に帰してゐたのであった。然し外観から見る景気はまだまだ素晴しいもので、昼を欺くナンバー入りの軒燈輝くカキリマに友仙モスの派手な店晴着の胸を張り、黄い声を振絞って盛んに通りすがりの漂客を呼立てゐたのであって、勿論其時はまだ白人の娼家も軒を列べてゐたし、其繁昌振りは確かに新渡航者の目を驚異せしむるに十分であった。然し事実はもう其頃から花街は既に魂を抜かれた抜殻であったのだ。私に云はすれば藤井領事のピンプ退治其場が既に南洋一帯の娘子軍をまとめて行く事が出来る人間を失ふた結果であったのである。丹波屋が死んでも多田亀が生て居りさえすれば勿論南洋娘子軍は一糸乱れず勢威を失墜する事なくして今暫くは繁昌を続けて行くことが出来たかも知れないのであった。然し時勢をどうする事も出来ないのだ。丹波屋死んで一年もたゝない中に多田亀が西伯利亜で非業の最後を遂げたのは結局運命であったらう。多田が死んではもう丹波屋の後を継ぐべき腕のある者は何処にもゐなかった。喧嘩力の強いのや相当理屈の言へるのならゐない事もなかったらうが、前途が見へて居るのであるから目先きの見へる者は来はしない。随って私は現在残って居る女将や蔭に隠れて居る二三の男を知らぬでもなかったが、心密かに撤廃が何時誰の口から呼ばれるかを待ってゐた、然も其時は思ふたよりも案外早くやって来た、誰の力と云ふよりも私は時勢の力―欧州大戦に影響された日本の南洋発展がこの要求を齎したのだと信じて居る。同時に山崎総領事代理が機運の熟した事を鋭敏に観取して機会を失する事なく、各地代表会議を召集して一気に自廃決議をさせて終ふた果断を心から讃仰せないで居られないのであった。或は其遣り方に就いて異論をはさむ者があったかも知れぬが、大勢には抗す可からず、内輪を云へば苦しい事は各地とも山程有ったに相違ないが、一言半句も代表者会議席上では不賛成を唱へ得る者はなかったのであった。女郎屋の存廃を道徳問題や国家の体面から論ずるのは野暮の骨頂である。現代は何事も先づ資本家の利害関係を基として計算されねばならないのだ。日本が一等国民として堂々土庫に事務所を開設し馬来半島でドシドシ護謨園を経営して居るのに、同胞である女が素足で通ふ国違いの玩弄物となって居るのを其儘に放置して居る事は出来なかったに相違ない。今引揚げて行く女将とそして抱娘に対して私は万斛の同情を持って居る。諸君多年の営業が奪はれ世智辛い日本に帰って行かねばならぬのは全く情ない事であらうが、国家の発展に伴ふ必然的結果であるとあきらめて欲しいと思ふのだ、御国の為めだ諸君はしほしほと追はるゝ者の如くに帰って行く事は無いのである。過剰な国民は何れ何処かに掃き出されねばならないだらうから、例へ南洋一帯が諸君の生存を拒絶しても人間至る処に青山あり、自分がゐた土地が益々同胞の活躍に依って繁昌して行く為めであるから諸君も勇み喜んで引揚げて貰はなければならないだらうと思ふのである(大正九年六月記)

一九、花街の思ひ出
 欧州戦争前には南洋で女郎や旦那持ち(洋妾(振り仮名「ラシャメン」)と云った所謂醜業に従事してゐた日本娘がざっと四千人程もゐたであらう。新嘉坡の花街(マテイ街、マラバ街、ハイナム街)及びバンダだけでも四百以上の娘がゐた。殊にスマトラの煙草耕地として有名なデリー地方には千近い旦那持ちが婉然女護の島の観を呈しつゝ肉に飢えた外人の要求に応じて其貞操を切売し、或は年期をきめて仕切られてゐたのである。其他馬来半島各地は勿論の事、蘭領の島々から蘭頁、盤谷、西頁、トンキン、マニラと殆んど彼等の影を見ない処なく南洋の至る処に日本人の女郎屋町が立派に出来てゐた。そして長崎の丹波屋とか長田亀なぞ云ふ親分に依って統卒され年々五六百人も新しい娘が補充としてロの津や門司の港から香港、新嘉坡へ誘拐されて行きつゝあったのであった。
 香港渡し二百五十弗、新嘉坡渡し三百弗乃至三百五十弗が相場で、旅費雑用一切を差引いて一人頭二百弗近く儲かったと云ふから少くとも十万内外の金が年々誘拐者の懐中に這入った勘定だから、当時彼等の仲間が如何に活躍してゐたかは蓋し想像に難くないだらう、のみならず長崎郵便局が取扱ふ南洋から彼女等が郷里に仕送る金だけでも年額二十万円以上に達してゐたと云ふから其全額に至って必ず更に幾倍したに相違なく、その大部分を送りだしてゐた島原、天草がためにどれ程霑はされてゐたかは中々今頃話しても一寸真実とは思へぬ程であったのだ。
 随って誘拐とは云ふものゝ娘自身も親達も寧ろ進んで南洋へ連れて行って貰ふことを彼等に懇願してゐた程だった。殊に旦那に死別れたとか或は万以上の纏まった手切金を貰ふた彼女等の成功者が光り輝くダイヤやルビーの指輪を五六本も嵌て突然帰って来る様な事実が時にはあったのであるから、其評判は忽ち狭い部落の空気を極度に昂奮させて我れも我れもと南洋行きを若い娘に志願させる様になるのだった。
 勿論可愛い娘を遠い南洋へ身売りさせる彼等の家庭が物質的にも精神的にも恵まれてゐよう筈はなかった。天草の或る村で大胆にも公然娘の旅券下付を警察へ出願した者があった。吃驚して懇々その不心得を説諭させようと態々巡査をやったのだが、余りに惨憺たる其家庭の実情を見ては流石に巡査も同情に耐へず、却って自身南洋行を世話して遣らねばならなんだと言ふ話さへあったのだ。 
 何しろ両親とも病身で思ふ様に働けない上、ヤッと十八になった其娘を頭に七人の弟妹が破れ果てゝ雨露をしのぐことさへ出来ない小屋に飢えと寒さに顫へつゝ辛うして生てると云ふ有様だったのだ。紡績女工等ではとても追着かない内地の女郎屋へ身売したって果して半年支へることが出来たらうか。恥や外聞なぞ云って居られる場合ではなかった。巡査が同情して南洋行の世話をしたと云ふのだから余程惨憺たるものであったに相違ない。然も其娘は間もなく新嘉坡の花街で全盛を唄はれ月々欠かさず七十弗からの仕送りを六年も続け、スグの弟は汽船に乗って運転手の免状を取ったし、其次の弟も電気学校を出て相応の給料を貰ふまでになったのだった。
 然しこんなのは勿論南洋でも珍らしい事で、出稼の娘は寧ろ一時の虚栄心に煽られ浮々誘拐的の口車に乗せられて来たと云ふのが多かった。だから中には相応な家に生れた娘もゐたし、女学校の卒業近くまで行った者さへ間々あった。現に彼南では貴族院議員の妻君だった人が女将をしてゐたし、仮名書の名家として有名な○○氏の姪が馬来○○番のお職で特に海軍の将校連に持囃されてゐたなぞ云ふ話は恐らく今でもまだ忘れてゐない人が居るだらう。
 斯くて新嘉坡を中心として南洋の島々、山の奥まで入込んで素足の馬来るや不潔極まる支那苦力、さては真黒な印度人さへ相手にさせて若い娘に血の涙を絞らせつゝ不義の栄華に耽ってゐた。日本人の女郎屋家業も遂に大正九年の正月、時の総領事代理山崎平吉氏の勇断で新嘉坡に召集された在留民代表者会議の協議に依って、断然自発的に撤廃することに決定した。そして彼南は其前年十二月限り、新嘉坡は其年の六月、馬来半島と英領ボルネオ一帯は同年一杯で兎も角も表面同胞の公娼は全部南洋から影を没して仕舞ふた筈だった。
 猶蘭領では大戦の前年既に公娼は全然禁絶され、其後更に私娼の取締を厳重にし、特に日本婦人の渡航を監視することになってゐたので僅かにメダンやパレンバンやボンテアナ等に昔の名残を辛うじて存する位に過ぎなんだ。然し国家の体面とか人道上から論ずればもとより問題にはならないが、端的幾千と云ふ醜業婦を一時に内地へ追返すと云ふことは到底経済上不可能な事だった。例へ自発的に公娼は廃業させても生るために或は性の必然的要求に余儀なくされて、遂に私娼の跋扈を如何ともする訳には行かなんだ、況んや旦那の名で彼等が国違ひについてる者を今更ら引離して追帰すと云ふことは到底出来ない相談でなければならなんだ。
 
出稼女の草分

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1462610/96

満洲事情案内所編「まんしう事情」昭和11年5月25日発行 ※1936年

先駆者娘子軍
辺陬の地が拓かれるとき、同時に、いや時には前以て地を占領してゐるといふ素早いのは娘子軍。たゞ此等が対象とならないのは農業移住地だけだ。熱河挺身隊が一日一城を陥れる早さで、トラック隊の列が南下した。その後輜重トラックが通る、商人のトラックの荷物の中には生物もゐた、どうもこれは兵隊さんの引力もあらうといふ、将校が思ひやりで黙認するらしい。
 鉄道建設の為に現業本部が出来る。其処は家らしい家は見えないが人の混雑する、バラックの都会が出来る。板張り間口三間くらゐ、奥行これに準ずる何々ホテル。棒杭の上に板を渡した―高い方がテーブル、低い方が椅子といふカフェーなどが出現する。ビール一円は廉い方といふ次第。北満といっても哈爾濱は別として、こんな新開地若くは小さい町の宿は原則として兼業である。要求の然らしむるところなのであらう。何の兼業かは読者の第何感かで分る筈だ。
 斯うした町でも芸者といふものはやはり髪は国粋派である。髪結女なんてゐないが誰かゞ恰好をつけるらしい。道は凸凹でも、土埃が何寸の中でも、夜は街燈一つ無からうが招きに応じて出てゆく、若し夫れが雨が降らうなら、其日とあと二三日はゴム長靴を穿いて、褄をまくって泥を渡りなさる、正に壮観である。随分酔払うがなかなか帰りに泥漬にはならぬといふ。此頃は田舎でも日本人が居るが建国以前は北鉄沿線の小駅の宿など一年の投宿者何人もない、そんな地にも女は朝鮮人が多いが内地人もまた相当居た。これ等は偶に見る日本人には力めて会はせないやうにしてゐた。低級なのを対手だから恥しいだらうと思ふとさうではない、業主の政策の然らしむる所で、女等に郷国をなつかしめさせないといふ深謀遠慮の次第だ。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1268420/74

「五大洲探検記1 南洋印度奇観」五大州探検家中村直吉 冒険世界主筆押川春浪編 明治41年8月28日発行 ※1908年

(廿六)退屈凌ぎに偽医師の助手となる(p258~)
 新嘉坡(シンガポール)に於ける日本の名物は、領事館員の空言壮語と淫売出稼である、由来日本の淫売婦程侵略性の激烈なものはあるまい、彼等は恰かも空気の如きものだ、地球の殆んど総ての部分を満し尽さんとして居る、而して淫売婦の行く所必ず多少の日本人が伴ふから、是を善意に解釈すると彼等は邦人発展の先駆者であるといへるし、是を悪意に解釈すれば日本帝国の体面に泥を塗るものであると言っても差閊はないのだ、若し前段の解釈をする人は、恐らく出稼ぎ淫売婦に一の正業が伴ったことのないといふ重要なる事実を知らない抜作であらう、吾輩は断言する出稼淫売婦は徹頭徹尾国家の体面を汚すものだと、文明の暗黒面には恐るべき罪悪が潜伏して居るものだ、今日世界の各方面に散乱しつつある幾万の淫売婦は、厳重なる人道と法規の網の目をくゞり抜けどうして故国を去ったのであらう、是れ殆んど一種の魔術ではあるまいか、天下唯一人の多田亀吉君を罵るのは酷だ、婦女誘拐を以て正当なる営利の事業であるかの如く、国家の大法を無視して最も大胆に振舞った彼多田亀吉の如きを出したのは、抑も社会に罪があるのだ。
 閑話休題、新嘉坡(シンガポール)とし言へば必ず日本の出稼淫売婦を連想する程有名な処である、吾輩は上陸すると直ぐ土人の人力車に乗って日本人居留地に向はんとした。支那人にしても土人にしても此地方の車夫程無意識なものはあるまい、土地不案内の悲しさ日本人居留地だと言ったつもりなのが、何でも彼でも此処へ曳込めば間違いないと思込んだ俥夫のことだから、軈てガラガラと轅棒を下したのが日本の淫売窟、と見ると二町程両側にヅラリ軒を並べたのが淫売屋で、軒下に廿五六の大年増、蝶々髷に赤の鹿の子を掛け、華美な浴衣を丈長に来て赤いシコギを腰に締めた醜態は何に比べやうものもない、是でも日本人かと思ふと吾輩急に情けなくなってきた。夕に越客を迎へ朝に呉郎を送るといふ文句は、同じながら多少の詩趣を帯びて居るが、呉郎越客どころか白人支那人印度人馬来人何でも御座れの情の切売、夜になると総勢五百人の淫売婦が喃々たる口説に外国人の機嫌気褄を取らねばならぬとは、天下是程殺風景極る悲惨事があらうか!?(p263・265)

(廿八)暹羅(シャム)王維納に墺帝をヘコます(p277~)
 当時在暹の日本人は百人足らずで、職業の種類は公使館員、領事館員、錺職、写真師、画家、医師、理髪職、コーヒー店等で、余り大きい声では言はれないが日本の女郎屋も二軒あった。此女郎屋に有名なやりて婆が居るさうだ、彼女は日本を出てから最う卅年にもなるそうで、最初はおさだまりの甘い舌の上に乗せられて日本を脱出で上海に着くと直ぐ売飛ばされ、其後流れ流れて盤谷府へ来たのであるが、人は呼んで上海婆といって居るそうである。此上海婆の其暗黒面には小説よりも奇なる事実が潜んで居るに相違ない!(p285・286)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/761084 

済軒学人「浦潮斯徳事情」

第十七章 浦潮斯徳以外本邦人の在留する主なる市府(p144~)
第一節 ニコリスク市(沿海州)
在留本邦人は左の如し。
職業    戸数  人口
貸席業   八   男一三  女五〇  計六三
支那人妾  -   -    女一三  計一三
計     九一  男一四四 女一六五 計三〇九

第二節 イマン市(沿海州)
職業    戸数  人口
支那人妾  -   -    女七   計七
計     九   男一四  女一六  計三〇

第三節 ハヾロフスク市(沿海州)
職業    戸数  人口
貸席業   一〇  男一六  女二一一  計二二七
外国人妾  -   -    女三〇   計三〇
計     一二九 男二九八 女四〇四  計七〇二

第四節 ゼーヤ、プリスタニ(黒龍州)
職業    戸数  人口
貸席業   一   男二   女一一   計一三
外国人妾  -   -    女一九   計一九
計     一三  男一二  女五〇   計六二

第四節 ゼーヤ、プリスタニ(黒龍州)
職業    戸数  人口
貸席業   一   男二   女一一   計一三
外国人妾  -   -    女一九   計一九
計     一三  男一二  女五〇   計六二

第五節 ブラゴウエシチエンスク市(黒龍州)
職業    戸数  人口
外国人妾  -   -    女二八   計二八
貸席業   四   男七   女五七   計六四
料理業   三   男六   女三    計九
計     一〇二 男一九二 女二〇〇  計三九二

第六節 チタ市(ザバイカル州)
職業    戸数  人口
私娼妓   -   -    女六    計六
支那人妾  -   -    女一〇   計一〇
計     一〇二 男一九二 女二〇〇  計三九二

第七節 ネルチンスク市(ザバイカル州)
職業    戸数  人口
貸席業   一   男一   女一    計二
娼妓    -   -    女十    計七
外国人妾  -   -    女二    計二
計     四   男四   女一三   計一七

第九節 ウエルフネ、ウージンスク市(ザバイカル州)
職業    戸数  人口
貸席業   一   男二   女一〇   計一二
計     一〇  男一六  女一九   計三五

第十八章 浦潮斯徳在留日本人の状態 
第二節 浦潮在留本邦人の職業、人口及戸数
職業    戸数  人口
料理店   三   男五   女三    計八
貸席業   六二  男三〇  女四五   計七五
芸妓    一二  -    女一二   計一二
娼妓    -   -    女三二三  計三二三
外国人妾  -   -    女六〇   計六〇


戦前日本人の海外売春(2)

戦前日本人の海外売春(1)の続き

大阪朝日新聞1921.1.17(大正10)
海外には五十万人
国勢調査の投網を地球の上にパッと蔽せた結果

キリスタンの島原さては長崎辺から椰子の花咲く南洋へ出稼ぎしている女達や、排斥々々で遂いまくられる亜米利加辺の移住民の男達夫がどれ程ある事やら、
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大阪毎日新聞 1933.9.4(昭和8)
緊張の国境へ大アムール河を溯る
思いきや此僻遠に邦人女子十四名日章旗を仰いでただ感泣
紅葉織りなす両岸の美観
駐満海軍部参謀佐々木少佐(談)

黒河から上流では恐らく日本人の影は見られまいと思っていた私らの想像は見事裏切られた、この僻遠の地に十四名もの日本人がいたのだ、それはみな女であった 
ここに二名、金山鎮七名、旺哈達一名、鴎浦一名、漠河三名いずれも四十歳から六十五歳の人人で彼女らは数十年来このあたりに住んでいて今は満州国人の妻になっている、ここでは重病の床について余命幾許もないという哀れな一日本婦人がいた、そのことを聞いた私達は艦からその茅屋を訪ねて行った、日本海軍の将校である旨を告げ何処へ行くのにも離したことのない日章旗を出して見せると病床からからだを起したその女は敬しく日の丸の旗に合掌した 
「明治の天子様がお亡くなりになった年に満州に来てとうとうこんな奥地にまで流れて参りました」の言葉が涙とともに辛うじて語られた、彼女も気の毒な同胞の一人である、去るに臨んで金一封を見舞いのしるしに与えて来た、砂金の街にいる七名の日本人は多数の村民にまじって艦の着く岸に出迎えてくれた、艦上高く、翻る日章旗を遠く見た時彼女らのある者は手をあげ、ある者は飛び上り互に手をとり合って感泣したそうである、満州国の最北端この僻遠の地にも大和なでしこの花が咲く、彼女らは今も故国を忘れていない郷里を後にこの奥地に入ってから二十年、この日本国旗を拝んだのは幾年ぶりのことだろう、私達はその七名の彼女らとその子供を艦の食堂に招いて食事をともにしながら四方八方の話をした、彼女らの日本語は最早、奇妙な語調に変化している、天草、島原地方の人が大部分だった、その半生の運命を聞くことは彼女らの心中を察して差控えたが私達が漠河の奥地を究めて帰って来た時には即製の日の丸の旗をふりなから意気揚々江岸に出迎えていた 
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満州日日新聞 1928.8.15-1928.9.1(昭和3)
真夏の松花江下り (1〜13)
秋山生

ハルビンの矢倉に住んでいたおせいさんというは不幸な女であった彼女は矢倉に女中奉公中昨年の結氷期前に遂に島原、天草の女等が一度は辿る運命の道を踏まねばならなかった、最後の便船で彼女は満洲里から姉の瀕死の病気を見舞うため三姓へ急ぐ女と共にハルビンを出発した、其途中船は馬賊のために襲撃され数名の支那人は重軽傷を負うて斃れるものもあったがおせいさんは懐中物も略奪されず無事三姓に到着したのであった、道伴れの女は全部金子を強奪されたが彼女には少しも手をかけなかったのである、これは実に不思議の運命であった−と井川さんは説明した、三姓に住む三十余名の日本女の半面にこうした幾多の物語が秘められているのだ、十余年日本の土を踏まぬ彼女の運命!其れは涙なくては聞かれぬことであろう!
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新愛知 1917.7.24-1917.7.28(大正6)
満洲から西伯利へ (一・二・三・四・五)
六月二十五日チタ市発 旭水生

満洲里駅の人口
四月二十五日夜半海拉爾車站を発したる郵便列車は翌二十六日午前十一時前満洲里駅に着す、同地は人も知る如く東清鉄道西端駅、露、支、蒙各国境地点にして、各国税関所在地たり・・・

在留邦人の状態
在留邦人二百余名中の約半数は売笑婦及之に関係を有する者なるも而も一方に日本病院、東洋医院、久保医院等邦人経営の病院ありて・・・

センナャの花街 
余の投宿センナャ街は俗に下町と称し、チタ河畔埋立地一帯の総称にして、チタ市特別の花柳街なり、露支人の耳にはセンチャ街と云うだに弁財天の在す極楽園を直覚す、昼夜の遊客絡駅絶えざる色街にして、露人、ポーランド人、ワリヤーク人、オロチョン人、蒙古雑種の露人及日本娘の錫を粋を蒐めたる佳人揃い、日露娼家軒を接して『戦雲何処に横わる、政争那辺にかある?』と全然軍国の何たるを知らざる、淫風盛んにして、此処ばかりは不景気知らずの大繁昌、就中日本娼家二十二戸、シベリヤ遠征の紅褌隊員無慮八十九十名、多くは九州出身の猛者揃いならざるはなし 

自ら淫売屋と称す
当地在留邦人にして此種の営業に従事せざる者極めて稀なり、比較的成功者と称すべき人士中尚お此営業を兼営するもの尠しとせず、去れば爾余の少資本家何もシベリヤに流浪多年、洗濯屋賭博師、床や、コックなどの成上り多く、概して内地の正当なる学校教育を経たるものなく、勿論紳士紳商と称すべきものなし故に言語、作法自から内地人と其趣きを異にし、一種独特のシベリヤ式風俗を成せり、彼等は此の種の営業を称して「淫売屋」ち称して意とせず是れ決して他人が呼ぶにあらずして自己亦遜称の意にもあらず、自他平気に「淫売屋々々」と称して怪まず、而して面白きは、高木某外二戸の経営する同業家は之を「女郎屋」と称え他の二十戸ばかりは総て淫売屋と称す、蓋し「女郎屋」は一戸四名以上の売笑婦を収容する権もあるも他は三名以下に限り、若しそれ以上の人員を置かんとせば三名につき一個宛の出入口を設けざるべからず、故に一家四名以上を置ける家は同じ一戸にして出入口二箇所を有し居れり、彼等を称して淫売屋とは称する次第なりと 

出獄人が上等客 
海外遠征の紅褌隊は何処も同じ、九州は天草若しくは島原、佐賀あたりの猛者揃いなるは世人の洽く知る所なるが、当地も其例に洩れず多くは天草、茂木、佐賀、島原出身者多きが如し、そして奇なるは他所に見られぬ年増女の多きことにして、花羞かしき乙女子は蓋し指を屈する程に過ず然も老幼に拘らず其収入は概して七八留より二十留に上る、而して彼等は何れも露西亜式の派手なる洋装をなし露語を囀り見るも恐ろしげなる加薩克兵又は職工、小商人、農夫を対手とせり、殊に近来革命の恩典に浴して放免せられたる出獄人など一時盛んに来遊したれば「監獄人」と云えば花柳界に一時歓迎せらるるの奇観を呈したり、夫れも其筈、彼等は多年シベリヤ流謫の身、殊に獄中異性に接する機会なかりしより、多年在監中の工銭を所持し、之を一夜の豪遊に一擲して悔ず、概して金離れよかりしより、笑君連は何れもこの種の客人を歓迎したるなり
 
醜業組合の現状 
一戸多きは十数名、少きも両三名を下らざるチタ市センナャ美人街に於る我君子国の紅褌隊は最も優勢にして、一昼夜少きも五六名、多きは二十余名の色餓饑を征服しつつあるは驚嘆に値す、而して是等娼家は同業組合を組織し、現に何某之が組長たり、彼等は年久しく露国の圧制治下に弱い商売を営み居れる事とて、露国官憲の如何なる理不尽なる命令にも惟々として服従し来り、自家の主張すべき当然の権利さえ之を放棄して無智なる下級官吏の圧迫にすら萎縮し居れり、彼等は何等結束して向上的発展の方策を講ずることなく、暇さえあれば賭博に耽り居るとは慨嘆に堪えず、特に当業家に必要なる検黴衛生の機関すら之を有せず、自他共に甚大なる損害を醸成しつつあり、併し、個人間の交際は極めて親密にして近隣相助け、旅行者の来るあれば相当の待遇を与え、貧窮者あれば各戸醵金して之を救助し、吉凶禍福互に同情を以て共済補給するの美風あるはセメテもの取柄なり
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報知新聞 1942.2.26(昭和17)
スマトラ夜話 (第一話〜第五話)
その後スマトラと日本人との関係は不明なのだが、明治も二十年代になってマレー方面に多勢いた島原女カラユキさん達が何人かパレンバンやメダンに入国し始めたことは、明治二十九年来メダンに住む邦人の長老植田益雄翁の話によって知ることが出来る、それからぽつぽつ男子群も入島商売をする者が出始めた
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満州日報 1933.9.30-1933.10.3(昭和8)
黒竜江上流を観る (上)
スンガリーよりアムールへ
駐満海軍部司令部海軍一等水兵 坂津芳一手記

黒竜江沿岸に住居して居る日本人は黒河上陸奥地にも十余名点在して居る大部分は女で天草、島原の出身が多い、彼等の前身は察すれば解ることである、現在彼等は満洲国人の妻となって無事に其の日を送って居る、中には子供まであるものも居た、私達が行った時船の高い所に掲げてあった大きな日章旗を遠くから眺めて懐しい祖国の情にうたれ自然に涙が出たと云って居た
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福岡日日新聞 1913.8.16-1913.8.19(大正2)
朝鮮視察談 (一〜三)
大阪毎日社長 本山彦一氏

只今警察制度の中枢になって居るのは福岡県出身の明石中将で此人が憲兵司令長官で警察権の全部を握って居る其他福岡県出身の人は官吏にも実業家にも沢山名望を有して居る一面料理屋でも芸妓にも福岡県出身のものが多く成功者が沢山出来て居る。
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東京日日新聞 1913.8.6-1913.9.26(大正2)
樺太島 (一〜三十二)
旭東生シカシ

便利な散娼制度、芸妓娼妓と兼帯の美人が散在して其処此処に陣取って居る、無論集娼制度もあるがこれは余り発展しないこと当然である、約束したように臭い物に蓋をする吾妻コートが冬の流行でお高祖頭巾に好ましくない御面相を包んで雪の夜路を辿る所は何れを見ても美人ばかり、白い雪と黒いコートが能く調和されて影長く月光を浴びて行く冬の情趣は別世界の観があるが彼等は極めて無事泰平なもので「内地へ帰りたくはないか」と聞けば「樺太の方が呑気で宜しい」と来る、これは宿屋の女中や下婢なども同様で彼等に取っては樺太は実に呑気な所と見える、さりながら娘子軍は開発の急先鋒である、総じて体格の好い此娘子軍あるがために拓殖上に寄与する所は少くない、何れ植民地は同様だが特に樺太に於て散娼制度を開放して居るのは要領を得て居る。
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福岡日日新聞 1921.9.7(大正10)

目覚しく南洋に発展して行く邦人 信用も亦増加した


横浜漁油株式会社南洋支配人藤野規矩氏はセレベスを根拠地として広くコプラ雑貨等の南洋貿易を経営していたが六日商船桃園丸にて門司着帰来した氏の談に曰く

・・・ 和蘭人の日本人に対する感情は同方面に於ける本邦人の先駆者が醜業婦や無頼漢等であったので多大の誤解を受て居たが後漸次着実の事業家が渡来するようになったので信用を恢復向上して現在では和蘭領沿岸警備に当って居る仮装軍艦にも特に便乗を許し便利を計って呉れる程に好感を持つようになって来て居る
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読売新聞 1921.11.25(大正10)
実行不可能の満蒙移民

今日在外の本邦人総数六十万の中、支那本土、満洲、及び西伯利(シベリア)に在留する者は大約二十六万で、即ち四割五分を占めて居るが、内二十万有余までは南満洲各地で、支那本土、西伯利、北満洲、蒙古の居留本邦人は六万に足らず、即ち在外本邦人総数の一割を出でない。南満洲にありても、鉄道の従業及び労働者、諸会社員、諸商買、賎業者、其の他直接間に満鉄と消長を共にするものを除けば、狭義の移民に属する労働者、殊に農業労働者の如きは何程もない。北満洲、蒙古、西伯利に至りては尚更である。
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沢田順次郎「姦淫及び売笑婦」昭和10年3月17日発行 ※1935年

第三節 南洋及び東洋に於ける売笑婦―日本娘子軍の発展
 ・・・面白いことは、此れ等の集まり売笑婦の国分けで、南洋と東洋とに多く発展せる者は、日本の売笑婦で、支那の売笑婦は之れに次ぎ、欧州の売笑婦では、独逸、仏蘭西及び露西亜の女が多く、其の次ぎは米国の売笑婦である。・・・然るに日本の娘子群は、之と反対して、東洋と南洋とに大勢力を占め、欧洲及び南米等は微弱である。此の事実は、外務省の統計に徴すれば明かで、我が海外に於ける娘子軍は、支那を第一とし、次ぎは新嘉坡、浦塩、バタビヤ、ホノルヽ、香港及びマニラの順序で、其の他を合せ総数二万三千である。其の内訳を示せば、次の如くである。

地名     売笑婦の数
支那      16,424
新嘉坡(英領) 2,086  ※シンガポール
浦塩(露領)  1,087 ※ウラジオストク
バタビヤ(蘭領) 970
ホノルヽ(米領布哇) 913
香港(英領) 485
麻尼刺(米領) 392 ※マニラ
桑港(北米合衆国) 371 ※サンフランシスコ
柴棍(仏領)   192 ※サイゴン
孟買(英領印度) 147 ※ムンバイ
晩香坡(英領加奈陀) 83 ※バンクーバー
シドニー(英領濠洲) 74
シカゴ(北米合衆国) 35
ポートランド(同上) 27
墨西哥(北米) 24 ※メキシコ
秘露(南米) 23 ※ペルー
盤谷(暹羅) 8 ※バンコク、シャム
倫敦(英国) 7 ※ロンドン
独逸     4
仏蘭西    4

 これは大正三年の調査で、少し古いが、此の総数は二万二千三百六十二人で、此の内支那は、過半を占めて居る。支那で最も多いところは、関東州の八千三百八十八人次は牛荘の一千九百二十四人、奉天の七百九十人、安東の七百七十一人、上海の七百四十七人、哈爾濱の六百五十六人、長春の五百七十三人、斉々哈爾の四百五十一人漢口の三百八十四人、遼陽の三百人、鉄嶺の二百八十九人、天津の二百五十一人、芝罘の二百二十一人、間島付近の百九十八人、其の他百人以下の各地方を合せて、一万六千四百二十三人の大数に上って居る。尚、此の統計以外に、密売淫に従事する者の約三割はある見込みといふから、日本の海外売笑婦は三万は下らないと思ふ
・・・斯くの如く、海外に於ける日本の売笑婦は、世界第一と言はれて居る。故に日本の売笑婦に対しては、欧米人も一歩を譲り、何れの地に於いても、日本の売笑婦を向ふに廻して、競争する者はない。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1442404/109

蘭印事情講習会編「蘭領印度叢書 下巻」昭和15年9月28日発行 ※1940年

満洲、支那、南洋の如く労銀廉き地方には男性移民よりも寧ろ長崎出島の和蘭屋敷、或ひは唐人屋敷を通じてその生活に慣れた長崎、熊本地方出身の賤業的婦人の進出をみることゝなった。
 日本人婦人賤業者の南進も倭寇と同様、漸次南下を辿り、その基地は上海、香港、新嘉坡(シンガポール、彼南(ペナン)に達し蘭領東印度に彼女達の群が這入って来たのは明治二十年前後ではあるまいか。尤も明治の初年横浜より英人に嫁せる日本婦人が未亡人となり、陋巷にて賤業した事実はあるが明治十年前後の実数は微々たるものであったであらう。
 これら娘子群は日本男性さへ未知の土地に進出、聚落を為しては日本商品、日本事情の宣伝をも兼ね現在南洋に於ける日本商権の開拓功績は実に彼女等に負ふところが重大である。明治四十年代にはスマトラのメダンに五、六百名バタビヤ百余名スマラン六十余命スラバヤ二百余名遠くロボには実に四、五百名の紅裾が活躍し後輩日本男性は彼女等の支援の許に今日の発展の基礎を開いたものであるが、当時の情況を想起するに最も参考になると思へるスマトラ島メダン日本人会創立記を摘抜してみよう。

 マラッカ海峡を押し切ってラブアンの旧港から上陸した娘子群達は牛車に乗ってメダンに聚り相当数に達する頃、彼女等相手の雑貨商林商店が出来、次いで澁谷、小西等の商店が進出、これ等店主店員の娯楽機関「日曜会」と称する在留民最初の団体が出来たのが明治三十年正月である。其後邦人渡蘇(スマトラ)の数も漸増し、日曜会も漸次民団の色彩を帯び、遂に男子三名女子三名の委員が選出されて成立会の創立をみ、創立委員婦人部は主として寄付金募集に努力したるなど女性の存在が重視される。
 降って明治三十二年七月の筆記には、内地雑居(日本に於ける)の制が実施せられ、治外法権撤廃の公報に接するやいかばかり当地邦人等が喜びを緒にしたかゞ窺ふことが出来る。即ち、
「内地雑居、条約対等と相成りしに就ては日本人に於ては無論これ迄と違ひ、一層権利を振ふべき今日、他より嘲笑を招く事なからんことを決議し、以て後来の参考に供せんとす。」
などと云ふ趣旨の下に常に相寄り相会し、今迄支那の属国的冷視を受けてゐたものが、こゝに一躍欧米先進国と対等の国運隆進を見たのに狂喜してゐる。更に九月二十五日の同記録には、「在島日本人申合せ風俗を紊さゞるやう協議したるも充分の決議とゝのはず。」とある。これなどは当時の娘子軍の勢力が如何に強かったかを物語るものである。
・・・特に女性の多かりし当時とは云へ、バルチック艦隊がマラッカ海峡を通過北上すると伝はるや娘子群は競って寄金しては男子を要所々々に見張らせる等、大和女性の気性を海外に出ても飽迄も堅持してゐるのは面白い現象で、当時の記録には左の如く愛国の至情に燃えた文が書きつらねてある。
「旅順陥落祝勝会によって溜飲を下げたる在留邦人は一層緊張の色を見せたり。殊に或る者はサアバン岬頭に月余を過し、バルチック艦隊の出動を今日か明日かと凝視したるものなり。遠く印度洋の水平線上を警戒して眺め暮したる憂国の志士も生ぜしなり。」
とある。日露戦捷は、実に彼等在留邦人に驚くべき進境を与へ、在留欧洲人の長き侮蔑的態度を一掃すると同時に、奥地土人にまでも新たなる脅威の目を見開かせてしまった。
 恁うして娘子群相手の雑貨屋は時勢に目覚め日本美術雑貨を輸入販売するや羽が生えたやうに売れ出し、澁谷、松崎商店などは完全な地盤を作り、各地に支店を盛んに設けたものである。明治四十二年二月バタビヤに領事館が開設せられ、初代領事染谷成章氏が赴任するや自然この地の日本人協会もバタビヤとの交渉が頻繁となる頃、対岸の馬来半島方面では邦人の護謨栽培熱が勃興して来たのであったが当地の邦人商店はそんな事には目も呉れず、専念各自の業務に努力して、年額五万盾の商取引を為す者さへあった。
 ◇   ◇
 斯くの如くメダン地方は矢張り女性群が先行し男性が漸次増加して日本人の地位は国力の伸張と共に発展向上を辿って来たが、東印度の他の地方では如何であったであらうか。
 バタビヤの娘子群の最盛期は明治四十年前後の百余名を最高とするが、ケルト街の共同墓地には明治卅八年卒云々の日本式墓地がある点から考へても日清戦争前後から相当数の同族が居たものと察せらる。
 これ等女性相手に雑貨商兼旅館兼女郎屋を開業したのが明治卅四、五年頃創立の日本館であるが、日本館には常に多数の日本男性が漂着しては売薬、雑貨の行商に出かけ、更に同館は後年活動写真館の経営に着手、西部爪哇邦人間では飛ぶ鳥を落す勢であった。日本館に世話になって現在爪哇で成功せる者はバタビヤの久保辰二氏、植竹眞吾氏、玉木茂市氏、バンドン市の木田氏、トロアグンの矢部氏、建源公司日本支店長大橋亀太郎氏、ケデリの中村福松氏等である。
 ◇   ◇
 スラバヤ地方に於ては、依然女性の渡来が男性に先行してゐるが、その数はバタビヤに比し約倍の二百余名に達してゐたのは商都スラバヤの好景を物語るものであらう。
 之等日本人の渡航は新嘉坡、香港経由により当時は南洋郵船が未だ開始されぬ時代で真珠貝採りで黄金境を現出した濠洲、ロボー地方への中心地に当りボツボツ男性の到来もあったやうになったが、日露戦争直後新嘉坡経由で西村某なる者が初めて売薬行商員を連行し来って原価四仙の千金丹が一盾で飛ぶやうに売れたと嘘のやうな実話があるが、明治四十三年代に後ると市川直太郎氏が博愛堂病院を開業し無職新渡来達の梁山泊と化し或ひは長崎医専第一回卒業生の高橋保氏は本職を放棄して雑貨商を開業、女郎相手にチリ紙呉服太物を売り、官憲、華僑方面に絶大の信用を得て名誉領事の観あり、更に濠洲新嘉坡、爪哇にかけての大親分上田丑松氏の如きは雑貨、女郎屋を開業するなど男子のみでも既に百五十名の多数に達してゐた。
 さてスラバヤに於ける当時の娘子群の勢力を物語る次の如きエピソート〔ママ〕がある。
 大正三年には和蘭独立百年祭が東印度各地でも催されたが、在スラバヤ法人は之を奉祝すべく、準備七十五日もかけて百余命の武士行列を為したがその実費四千盾を日本共済会でどうしても支弁せぬ。そこで当時の顔役北元隆、奥山英次郎、安田馨、上田丑松の四氏が檄を飛ばして寄金にかゝったら即座に六千盾も集まり四千盾の実費を差引き残りで、大型ランチを借り切り豆灯堤の満艦飾を施し在留邦人男女三百五十名を乗せて終日マズラ海峡に清遊を試み一日にて二千盾を消費したとの豪華な思ひ出もある。
 また同奉祝祭に和蘭人側より日本の剣道を市民に観覧せしめたしとて出場を頼まれたが、その呼名がサムライ、ダンスとの申込みでは、吾々武士道精神を理解せぬも甚だしいと即座に拒絶するなど、女郎屋の連中にも仲々よいところを持ってゐたものである。
 ロボ地方の如く、爪哇より遙か遠隔の地に明治末期既に四、五百名の娘子群が活躍してゐた事実は奇異の観がある。同地方は真珠貝の産地として有名なところで邦人漁夫相手に半年はロボに暮し、漁夫が沖に出漁した半年は周囲の島々に出稼ぎに行ってゐたやうである。

三、商業移民時代
 明治以後に於ける日本人の南洋進出が上海、香港、新嘉坡を経て東印度各地に発展いしたのは前述のとほりである。特に娘子群のそれをみると別嬪は先づ上海、香港に留まり、若干見劣りするのが新嘉坡、彼南に渡ったものである。東印度で最も早く多数渡来したメダン地方への娘子群の殆んど大部分は、偏目か跛かの片輪者が新興農企業地に働く白人達の相手となった事実があり、男性にしても北で食ひつめた連中が邦人の尠い南方へ漸次落ちて行った傾向があった。斯る意味から東印度に渡来せる古い時代の男性邦人中には若干他の地方に比較して娘子群同様見劣りする点が当時の活躍状態で察せられる。
 それが今日に於てみるとき南洋各地の在留邦人中爪哇に在留する者の質が一番向上してゐるから面白い。
 この原因の一つとして先づ挙げねばならぬことは、爪哇人口の稠密さと物産の豊富さ、更に明治四十二年二月にバタビヤに創設された日本領事館に赴任せる、初代領事染谷成章氏の努力と在留邦人のこれに対する協力を想起せねばならぬ。
 即ち染谷領事は赴任以来在留邦人の将来的発展性を考察して、娘子群依存より堅実な商業的発展を為すべしとの慧眼の許に之等関係者の自廃を要求し、再渡航又は呼寄せを厳禁した為め新嘉坡より十数年早く娘子群の姿が爪哇スマトラ其の他より漸次没し去り、替るに商売人が陸続と現れて来た。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1160111/137

入江寅次「明治南進史稿」唱和18年3月15日発行 ※1943年

四 娘子軍進出事情
 新嘉坡帝国領事館開設以後の、前掲管内在留邦人中、女性の数の多いことはどうであらう。而してその殆んど全部が、謂ふところの娘子軍なのだから、驚くばかりである。このやうな状態が、ずっと第一次欧州大戦の後まで続く。単に南洋ばかりでなく、支那でも、満洲でも、同様な行方を見せたことがある。特に上海だの、香港だのは、初めからさういふ彼女らの基地であって、従ってその旺んなること、前記新嘉坡在留者数の比ではなかった。
 たゞ彼女らの活動のあとを見て、特に心引かれるものがあるのは、シベリヤ、沿海州のそれと、南洋一帯、濠洲の方まで含めてのそれとであった。
 彼女らが初めて新嘉坡に現はれたのは、明治三、四年頃だといはれ、それに当嵌る二三女性の名が伝へられるのであるが、これらは何れも初め外国人に連れられて上海に渡り、香港に着き、いつかその主人とも分れて、こゝまで流れて来たことである。
 幕末から明治初年にかけて、わが開港場に在留してゐた外国人は、大抵日本の女性を雇ってゐた。媬姆、子守、召使といふやうなのがそれであるが、純然たる娼妓、芸妓の類を、その抱主と契約の上で、期間をきめて身辺に置くものも少くなかった。当時これを呼入れといったのだが、このやり方は特に長崎在留のそれに多かった。そしてこれらの女性もまた、其の外国人と共に、海外にでることが出来たのである(第一章一参照)。
 長崎の女性達は、出島の蘭館時代から、異国人に対する一種独特の親しみを持ってゐた。支那人に対しても同様で、これら異国人と長崎女性との間に繰りひろげられた情艶物語が少くない。彼女達は親切でよく勤めたし、これに対する異国人の手当もまた悪くなかった。
 上海には明治元年に、早くも田代屋なる日本商店の開店を見、本来陶器商であるこの店に小間物類を取扱はせる程、本邦女性が在留してゐたといはれるのだが、果してどの位の女性がゐたものか判然せぬ。しかし何しても同地はわが長崎と相対して、本邦対支輸出貿易の門戸であり、且つ横浜、長崎からの外国船航路も早くから開けてゐた。
 而してわが輸出品の大宗が石炭である。明治元年、佐賀藩と英国がラバル商会(ゴロウルともいひ、実はGloverである)との共同で、高島炭坑の経営が始まり、その石炭が多く上海に向けられたやうである。これに次では海産物、茶などであるが、一方上海から日本に入って来る外国品も多く、このやうな関係からしても、長崎、上海間の内外人の往来は、当時既に相当賑かであった。
 わが政府は、七年、商用で頻繁に上海に往復するものに対し、特に一ケ年間有効の旅券を渡すことにした位である。この上海渡航手続きの大きな省略は、やがて雑多な人間をこれに介入させ、いろいろの手を用ひて、目的の曖昧な女性の進出を多くした。外国人に伴はれての合法的な渡航でなく、或は妻と称し、妹と称し、または全くこれを秘して船底に置いたりして上海に送った。後になると、石炭輸送船によるものが多く、船で汚れた女性たちが人眼を忍んで上海に上る様子が、何ともいへぬ風景だったと伝へられる。
 かくて香港の女性も殖え、シンガポールも殖えて行った。日本基督教婦人矯風会が、初めて太政官に対し海外に於ける本邦醜業婦に関する建白書を提出したのは、明治二十一年のことであるが、これは十九年二月、同会創立後間もないこと、大阪浜寺の石神亨といふ医師が、海外旅行からの帰途、新嘉坡に立寄り、同地の本邦女性の状況を見て心を痛め、帰来矢島輯子に対し、これについて何等かの措置あるべき必要を説いたに基く。(日本基督教婦人矯風会五十年史)
 しかし彼女等の進出は、必ずしも醜の一面だけではないのであって、その邦人の、特に南洋発展に寄与するところ大なるものがあったことは、蔽ふべくもないのである。ハノイ付近で、明治十八年死没女性の墓を見たものがある。ボルネオのおクニ婆さんで有名な、サンダカンの木下クニ、これは天草の女性だが、実に明治十八年にボルネオに渡って以来、一生を同地邦人の草分けとして、特に娘子軍の大元締として、異色ある活動を続けたことである。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1281112/95

山室軍平「社会廓清論」大正3年10月19日発行 ※1914年

第六章 海外醜業婦
○日本の令聞を奈何
一年程前に在東京の英国人セシル監督は、シンガポールより受取りたる半官的の書面を添へて、一通の公開状を時事新報社に寄せ、「日本の令聞」の為めに其在外の醜業婦を取締らんことを求められた。監督が受取られたる書には、「日本国より馬来に向ふて輸入せらるゝ婦女の売買に関して、少くも教育ある日本人間になりとも、輿論を喚起することは出来間敷や」とあり、事実を証明する為にとて、左の一表を添へてあったのである。

馬来連邦人口調査報告(一九一一年)
         男   女   合計
在留日本人総数  337  1,692  2,029
内訳
ペラク在留    125  629   754
セランゴア在留  116  579   695
南セムピラン在留 71  262   333
パハン在留    25  222   247
(摘要)馬来連邦に渡来する日本人の数が、一九〇一年には五百三十五人なりしに、一九一一年には二千〇二十九人となりしは、実に驚くべき増加なり。十年前に在留せし男女の数に比すれば、現今は殆んど各四倍となれり。此劇増はセランゴアにては余り著しからず。此地にては只二百三十三人より、六百九十五人に増したるのみなれども、而かも連邦一般に其劇増すを感ずること甚しといへり。馬来(マライ)連邦に渡来する日本婦人の多くは、醜業に従事する女なり。又日本の男子移民の多数を占むる下等民中には、一定の正業に従事するもの甚だ少なし。

右の表に由て見るに、日本人は男子一人に婦人五人の割合にて、其地方に出かけて居ることが分るので、唯此一事に由りても、彼等の中に如何に多くの醜業婦が居らねばならぬかを、事実の上に示すものと言ふべく、真に汗顔の至りである。時事新報汽車が其事につき「日本人としては如何にも慙愧に堪へざる次第なると共に、道徳高き宗教家の人々が、斯くまでに懇切なる配慮を為すを見るときは、其配慮に対しても、之を其儘に打捨て置くべからず」と論じたるは、如何にも尤ものことと思はれる。

○一箇師団以上の醜業婦
然るに日本の醜業婦が海外に赤耻を晒して居るのは、唯馬来連邦だけではなく、それこそ南満洲、北清の辺りは言ふも更なり、西比利亜にも、印度にも、南洋にも、阿弗利加にも、太平洋沿岸にも、到る処彼等の徘徊しない処はないやうな有様にて、今では海外に醜業婦を輸出すること、日本の如きものは世界にないと称へられて居るのである。然らば一体、日本からはどれ程の海外醜業婦を出して居るかといふに、目下日本人の海外諸国に在るもの約参十万人にて、内雑と其一割位は醜業婦であると伝へられる。それに就て左に雑誌「新公論」に掲げられたる鬼哭生の一文を抜萃したいと思ふ。

日本から醜業婦が海外に出て居ることは聞いてゐた。しかも日本の海外発展は醜業婦から始まると云ふことも聞いてゐた。しかし其数がこんなに多いとは夢にも思はなかった。統計について其示す処を見よ。統計に現はれてゐる料理屋、飲食店、遊芸家業、酌婦、雑業、無職の女は之は大抵は醜業婦である。之を寄せたものは実に各地、左の如き数となってゐるのである。
△支那 16,424
内、関東洲 8,388
  間島付近 198
  局子街付近 50
  頭道溝付近 21
  琿春付近  65
  安東   771
  奉天   790
  新民府付近 23
  遼陽   300
  鉄嶺   289
  牛荘   1,924
  長春   573
  吉林   70
  哈爾濱  656
  斉々哈爾 452
  天津   251
  北京付近 51
  芝罘   221
  上海   747
  南京   22
  蘇洲   4
  漢口   384
  長河   6
  福州   24
  厦門   91
  広東及仙頭 53
△新嘉坡(英領)2,086 ※シンガポール
△香港(同) 485
△柴棍(仏領 192 ※サイゴン
△マニラ(米領) 392
△バタビヤ(蘭領) 970
△バンコック(暹羅) 8
△孟買(英領印度) 147 ※ムンバイ
△シドニー(濠洲) 74
△桑港(米国) 371 ※サンフランシスコ
△シカゴ(同) 35
△ポートランド(同) 27
△ホノルヽ( 哇) 913
△晩香坡(英領加奈陀) 83 ※バンクーバー
△亜爾然丁(南米) 6 ※アルゼンチン
△秘露(同) 23 ※ペルー
△墨西哥 24 ※メキシコ
△倫敦(英国) 7 ※ロンドン
△独逸 4
△露西亜 4
△浦潮(露領) 1,087 ※ウラジオストク
総計 22,362人

実に驚くべき数である。日本人の海外に出てゐるものは総数約三十万であるが、其約一割は醜業婦である。此の多くの同胞が何の為に外国まで出て恥を晒してゐるか。其多くは日本の何辺から行ったものか。主な処での彼等の生活の有様は何うであるか。

○海外醜業婦の輸出事情
斯く迄多数の海外醜業婦は、如何にして其本国を立出で、又如何にして各地に集散せられて居るであらうか。

試みに日本郵船会社の欧洲航路の汽船を見るならば、どの船にでも三等客の女で怪しいのが乗って居ないことは無い。之は大抵、香港や、新嘉坡、上海などに行く醜業婦である。月二回の欧洲航路には、毎船往き復りに必ず居るばかりでなく、社外船の如きは実に多い。三等客の幾分は、醜業婦と其関係の男である。之が取締なども厳重だとは云はれてゐるけれども、夫は形式だけで、上海でたゞ水上警察から一応見に来ると云ふ位なもの。彼等は大手を振って公然の渡航をしてゐる。中には石炭の中に隠れて密航するものも無いではないが、之は極めて少数で、大部分は官憲も見て見ぬ振り、大目に通してやるのである。これ等の醜業婦は皆門司から乗船するのであるが、其国元を調べると多くは九州もので、醜業婦輸出で有名な、島原、天草付近から出るのである。中には神戸や東京付近から、近頃では北国からまで、買はれて行くものもあるが、それは少数である。是等の女は何で海外まで恥を晒しに行くかと云ふに、彼等に取っては、海外に行って醜業を営むのが、嫁入仕度に行く位の心持で、所謂稼ぎに出るのである。故に彼等は少しく金が出来ると、日本服の晴着や帯などを買ひ調へる。彼等は全く無智の女である。街頭を行く紳士を捕へて「アンサマ」と云ふより外に、何事も云ひ得ず、語り得ざる憐むべき女である。其多くは貧家の女、百姓の娘で、渡航しては女子供の着るやうな赤いメリンスの浴衣を着て、新嘉坡のマライ街あたりに嫖客を呼ぶのである。我が同胞が海外で斯かることをしてゐるのを見ると、何とも云へぬ不快と哀愁を感ぜずには居られぬ。さて日本の醜業婦の北に行くものは大連を根拠として、これより奥に入るのであるが。南に行くものは、前には香港を中心として、新嘉坡、比律賓、柴混等に入り込んだものだ。然るに香港は近頃日本の紳士、紳商が多くなったので、自然体面を重んずるやうになり、芸妓が多くなって娼婦の方が減ずるやうになった。それが為め近来では新嘉坡が其の中心地点と変り、香港は第二位に下り、其の繁華の度も、新嘉坡は新進の気著しく現はれ、香港は稍停滞の気味がある。香港では事業をしてゐる人々の間では、醜業婦関係のあるものは、排斥されるやうになったが、新嘉坡では、表面は其気味もあれど、内部では醜業婦の助力によって成功し、其の便宜を得て仕事をするものが多く。今では日本醜業婦の南方発展の中心は、全く新嘉坡に移ったと云ってもよい。こゝを中心として仏領印度、ピナン、スマトラ等に入り、スマトラのデリーと云ふ処から、更に英領印度、カルカッタ、ボンベ―等にまで行くのである。

○日本国民の耻辱
明治三十七年の晩春、私共は間もなく英京倫敦にて開かるべき救世軍の万国大会に出席する為め、一行六人にて仏国郵船ポリネシエン号に乗り、欧洲航路にて出発したのであるが、一日船が香港を出やうといふ間際に、私共が食事をし居る最中、忽ち日本を出て以来、絶て聞き慣れぬ駒下駄の音の如きものが頭の上に響くのを聞いた。不思議なこともあるもの哉と、訝りながら尚も食事を続け居ると。そこへ狭い階段を下りて入って来たのは、白地の浴衣に細帯をしめ、団扇を片手に持った二十八人の日本醜業婦の一隊と、それに付添ふ者とを加へて合計三十三人の一行であった。彼等がカラリコロリと駒下駄の音を立て、入って来ると下等な仏蘭西人などの乗客が、拍手喝采して之を歓迎する。此有様を一目見た私共は胸つぶれて最早ナイフも、ホークも、動かなくなってしまふた故。直ぐに食事をやめて一室に退き、一行六人にて先づ涙ながらに天父に号泣したのである。「オヽ我が神よ、これ迄日露戦争の風向の好いことなどを恃み、日本人と生れて来た光栄にのみ酔ふて居ったる私共は、今図らずも、こゝに此大なる国民の耻辱を蒙らねばならぬことゝなりました。私共の区々の耻辱は言ふに足りませぬ。併し乍ら彼等に由て毀損せらるゝ日本国民の体面は、如何にして之を保持することが出来ませうか。一体私共は斯かる場合に出あふた日本人として、殊に日本の救世軍人として、どういふ処置を取ったら可いのでありませうか、神よ力弱き私共を助け給へ。彼の耻を異境に晒らす不幸なる婦人達を憐み給へ、日本国民を救ひ給へアメン、アメン」と

○淫売は日本人の耻晒し
斯くて後、私共は堅い決心を以て起ち上ったのである。「仮令此場合自分共に何程の事は出来ずとも、力に及ぶ限りの事は之を尽さねばならぬ」と。それから毎食事の後で、名を聖書研究に借り、彼等と其他二三の日本人の乗客を目当に、大声に説教を始めたのである。「なぜ、あなたがたは然ういふ不心得なことをして、日本人の顔に泥を塗り、自分では亦滅亡の道に堕ちて行くのか。なぜ今の内に思ひ直して、正しい道には帰ることをし得ないか」と。此ういった様なことを其度毎に説教して居ると。そのうち婦人達の中から私共の一行の、殊に女士官に近づき、其身の誘拐せられた顛末などを訴へて、忠告を求めるものも現はれるやうな始末。それを見て取った付添の者共は、給仕長に相談して、彼等の食事の時間を取り変へ、私共と同じ時刻には食堂に出て来ぬことにしてしまふた。のみならず亦其婦人達を追ひまはして之を監視し、一人も私共の仲間に近づかさない様な工夫をし出したのである。其為め私共は、最早食堂にて説教するともその甲斐がなく、亦彼等と対話する機会もなくなったゆゑ、これではならぬと、今度は誰か持合はせて居った一反ばかりの白木綿を六つに切り、細長い襷の様なものを作り、前の方には「いんばいは日本人の耻さらし。」後の方には「どんな難儀をしてもすぐ正業に就け」といふ様な文句を書き付け。それを肩から懸けて一行六人、朝夕絶間なく彼等の寄って居る辺りを右往左往に散歩することゝし。せめては彼等の眠れる良心に、多少の覚醒を与へんことを努めたのである。

○誘拐の事実
是に至って彼等に付添へる無頼漢の一人は、大きに腹を立て、凶器を携へて、私を刺殺さうと早やり立ったのであるが。其首領が之を押し止め、強て浴室に連れ込み、半日説得して漸く思ひとゞまらせたのださうである。後に其首領なる者が私共に会見を申込んで来たので、同行の矢吹少佐をして私共を代表して対面せしめると。彼は只管私共に詫言を述べ、「どうか新嘉坡迄目をねむって居てくれろ」といふのである。目をねむるにも、ねむらぬにも、私共とした処で、此場になって此以上に為し得る処もないのであるから、其儘これ迄やりかゝった通りをやり続けつゝ、船の新嘉坡に着くのを待兼ね、急ぎ上陸して日本の領事館を訪ひ、領事に会ふて船中にてありし事実を述べ、少く共本人の意志に逆らひ、余儀なくも然ういふ生活を営ませられて居る婦人を救護せられんことを求めたが、更に要領を得なかった。左に掲ぐるは其節、領事への参考にもと、予め船中にて認めて置た書類の謄本である。
一、明治三十七年五月十七日、香港より新嘉坡行の日本醜業婦二十八人、四人の男子と一人の婦人とに伴はれ、仏国船ポリネシエン号に乗込み来れり。
一、彼等の中多く悪漢無頼の徒に欺かれて、日本を去りたる者あり。今も如何にかして故国に帰り、正業に就きたき熱望を有しながら、然も悪漢無頼の徒の手中に陥りて為すべき所を知らざる者あるは、明確なる事実なり。
一、豊後の者にて姫野カツといふ婦人あり。二十歳の少婦なり。門司に滞在中、或男子より小倉に行かんことを誘はれ、之に従ひしに、其の儘石炭船に乗せられ、六昼夜絶食の後香港に上げられたり。而して心ならずも醜業を強ひられつゝあり。如何なる苦労難儀をも辞せず、帰国して正業に就かんことを熱望し、我等の一人に嘆願せり。
一、長崎県篠原上総七十番地八木シナヨといふ者あり、十八歳の少女なり。父は海軍大機関士を勤めたりしが、三年前拍子、兄三人は皆海軍の機関士たり。一人は軍艦八雲に、一人は出雲にありといふ。母より思はぬ先に嫁すべきことを命ぜられ、逃れて神戸に赴く。こゝにて或男子より好き奉公先に周旋せんとて船に乗せられ、其儘香港に連れ来らる。母に詫びて帰国し、正径の生涯を送らんことを熱望す。路用金の如きは、兄にさへ訴へなば送らるべしと信ずと言へり。
一、作州勝間田の者にて服部クマといふ者あり。二十歳也。神戸にて奉公中、佐世保に給料を多く払ふ奉公先ありとて、或男子の其兄と共に来り勧誘するに会し、之に従ふて乗船す。荷物と荷物の間に潜ませられ、数日間食物を給せられず、苦悶を極めたる後、香港にて上げられたり。心より醜業を厭ひ、正業に就かんことを熱望す。
一、松本竹子なる者あり。長崎県上町の者也。高等小学三年級迄卒へたりといふ。亦欺かれて今日に至りたる事情を訴へ、我等の一人に聖書を買はんことを求め、之を与へしに熱心繙読しつゝあり、正業に帰らんことを熱望す。
一、同時に彼等の大部分は、浴衣に細紐のしらだき風体にて、終日船中を徘徊し、下賤なる乗客と戯れ、時としては、裸体にて衆中に出づる者さへあり。印度の紳士にて、絹物貿易に従事するテラスダス氏の語る所によれば、五月十八日午前二時に氏は臥床に在りて寝返りせしに、同じ船室にて、一日本婦人が独逸人なる一乗客の寝台に入り居たるを見たりと。
一、乗客の一人、ドイツ人ウィルヘルム、トレンデル氏は曰ふ、日本の領事は宜しく、此の如き婦人等の上陸の際之を取調べて、其事実、他人に誘拐せられ、心ならずも此の如き有様にある者は、直ちに帰国の手続をなし得さすべきものなりと。
一、又英人、エー、ロニック氏は曰ふ、君等若し事を領事館に訴へんんい、若し必要ならば、余は喜び同行し、逐一余が目撃したる此不都合極まる事態を訴ふべしと。
 明治三十七年五月二十日 ポリネシエン号にて

私は今に至る迄、其時出会ふたる婦人達の、気の毒なる身の上を、どうしても忘るることが出来ない。

○大連婦人ホーム
其翌明治参十八ね、日露戦役の漸く終を告げんとする頃から、満洲大連を経て段々奥へ奥へと入り込む日本醜業婦が引きも切らず、中にはひどい誘拐の事実等も甚だ多い様子を、見るに見兼ねて、当時青年会の慰問部に居られた、今の廓清会理事益富政助氏其他の有志が、満洲婦人救済会といふものを起し、彼等の幾人かを救済して、最初の間は救世軍の東京婦人ホームに送り届けて居られたが、余り遠くて不便利故、後には大連にて一軒の家を手に入れ、そこに然ういふ婦人を収容し出されたのが本で、終に一箇の婦人ホームが出来た。後其婦人ホームは之を救世軍に引渡され、爾来八九年間救世軍の手にて経営し、今日迄に計七百人余りの不幸なる婦人達を救護して来たのであるが、救済を受けたる婦人達の身の上に就ては、言ふに言はれぬ程悲惨なるものも少なからず、若しさういふ細かい話を始めたものなら、唯それ丈でも一冊の大きな書物となる位である。併し今はさう沢山なことを述べて居る場合でないから、唯其中の二つ三つ丈を左に紹介することゝ致さう。

本年春頃悪漢の手に誘拐せられて大連西通の某料理店に連込まれし姉妹ありき。生れは山口県吉敷郡平川村の者にて姉は十九歳、妹は十七歳の娘盛り、好き良人を迎へて幸福に暮すべき身の、哀れにも満洲風に誘ひ出され、奉公する気で来て見れば鬼住む宿の恐しき事のみにて、来た其夜より客を取れと強ひられ、厭と言へば打ち叩かれて、姉妹相抱いては泣き悲み居たるが、夜毎日毎の勤め愈々辛く、斯くては命も危かるべしと故郷の空のみ打眺めて、身の不幸を嘆き居たる結果、到底浮む瀬の有るまじければ、寧そ一思いに死なんものと、姉が泣いて言へば、妹も同意し、姉様に別れては生き存へる甲斐も無しと、両人窃に諜し合せて或夜家人の隙を窺ひ、跣足の儘飛出して彼方此方と死場所を探した末、漸く大桟橋に辿り付きて、今しも死なんと用意し居る処を折よく通行の人が認め、危ふく二人を取押へて能々不心得を諭したる上に、先づ婦人ホームに連れ来り、同所にて旅費を調へ、妹は故郷に帰りしが姉は面目なしとて当地に留まり、慈恵病院の看護人としていと神妙に勤め居たるも、此女よくよくの不運と見え、間もなく病死したりといふ。(満洲日々)

これは誘拐せられたる娘等が、悲嘆の余り姉妹相抱いて、投身するのを救はれたといふ物語である。

○娘を誘拐せられて発狂す
こゝに又其可愛い娘を誘拐せられた為め、発狂したる哀れな母親の物語がある。
本年二月、鉄嶺門外料理店住吉館事角伊三郎方へ誘拐されたる女ありけり。長崎県高来軍上総村の者にて、十九歳といふ花耻かしき姿を無惨なる、色魔の犠牲となり、泣く泣く勤め居たる折柄、国元にては母親が娘の安否をのみ思ひ暮して何うして居るやらと心配の矢先へ、不図娘が角伊三郎の手により更に満洲へ売渡されると聞き、驚く事一方ならず、そんな事をされては一大事なりとて、十二歳になる子と、九歳の子とを携へ、遥々大連に渡航して汽車にて鉄嶺に辿り行き、漸く娘に逢ひて事情を聞けば恐ろしき勤めを泣いて暮して居ると判り。母親は殊の外立腹して伊三郎に娘取戻の相談をなしたるも、根が畜生同様の根性なれば、容易く渡して呉れる筈は無く、其上親子を虐待して犬馬同様の取扱ひを為すにぞ、母親は女気の心も心ならず、果は精神に異状を来したる矢先き、九歳になる子が病気に罹りて呻き苦み居るに拘らず、薬一服呑ますでも無ければ却って厄介者だと罵り散らされ、碌に手当もなす能はざる為め、哀れやその子は死亡したり。さらぬだに心を痛め居たる母親は、娘の境遇と、己が身の上と、子供の死亡とに心益々乱れた果は、全くの発狂気となりて、あらぬことのみ口走るにぞ、此事遂に領事の耳に入り、伊三郎は呼出されていたく叱られ、親子三人は領事の手にて始めて人間世界に戻るを得たるが、漸く大連迄帰り来りしものの、帰国するさへ旅費なき有様に、是又婦人ホームの救ふ処となり、事情を聞けば哀れなる話と受持士官山田氏夫妻が甚く同情して、此の悲惨なる物語を社会の人に訴へ同情を求めたる処、世には仏もあるものなり、我も我もと義捐金を送りてその額七十円近くに上り、安心せし為めか母親の病気も全快し、親子三人が手を合せての喜び、幾度か嬉し泣きの涙を溢していそいそ本国に帰り行きしといふ。(満洲日々)

○少女の誘拐者
こゝに又数人の娘を誘拐し損ふて捕へられたる人鬼の物語がある。此ういふ人間の事も紹介して置く方が可いかとも思ひ、左に掲載することにしたのである。

昨日入港の商船大義丸の三等客、愛知県愛知郡下の一色村内藤キン(五十六歳)が同村木村末太郎長女イト(十七歳)同村森定吉長女サイ(二十歳)同村犬飼半三郎長女ハル(十五歳)の三人を拉れて上陸せんとせしを、現場に臨検し居りたる水上派出所の桃井、吉田の両巡査が、例の警察眼を以て如何にも怪しき奴と目星を付け、直ちに水上派出所に引致したる事は昨紙に逸早く報導したる所なるが、其後取調べたる所、全くの誘拐犯たる事判明するに至れり。而も其顛末は頗る込み入りたる事実あるを以て、茲に之を詳報すれば。名古屋市は熱田町字中瀬に雇人口入業の看板を表に掛け居れる野田常次郎と云ふは、口入は名のみにて、実は誘拐専門の悪漢なるのみならず、広く海外各地の同類と気脈を通じ、是れまで其地方の婦人を誘拐しては、海外に送り出したる事数知れず。今回内藤キンが前記三人の小娘を誘拐したるも、全く此男の指金に依るものなるが、偖此のキンの素性と云ふは、一色村の百姓にて、数年前より麦稈細工の営業を始め、村内は勿論近村の小娘を自宅に集めて麦稈編みをさせ居れるものにして、小娘を説き付けるには至極好き関係を持ち居るを知りたる前記の常次郎は、奇貨措くべしと、予てキンに対し婦女誘拐の事を利を以て誘ひたる所、キンは既に六十近き老婆にて片足は棺桶に突き込んで居る年輩なるに拘らず、却々死に欲が強く、つい利の為めに迷はされ、常次郎の同類となり、自分方の工場の婦女を甘く欺きては、常次郎の手を経て満洲より西比利亜掛けて誘拐し来りたるもの、これ迄にも甚だ多く、今回の被誘拐者イト、外二名も此手に乗りたるものなり。
 前記三人の小娘は、本年始め頃よりキン方の麦稈細工に雇はれたるものなるが、固より女の仕事の事とて、一日に僅か十銭か、十五銭しか儲からぬより、外の好き儲け口もなきかと思ふ矢先き。廿日程前の事なりしがキンは三人に向ひ、「今度満洲長春の手堅き商家にて、下女が三人要るので雇入に来て居るものがある。月給は向ふ口で十円呉れるとの事だが、行くものないかしら」と話しをしたるに、此三人は騙されたとは知らう筈はなく、つい其話しに乗り気になり、親にも相談して愈々必要なる種々の書類を調へて、去る十三日大阪出帆の大義丸に乗り込み、老婆キンに拉れられて大連に渡来する事とはなりたり。偖て船は去十五日門司を出帆したりしに、キンは此れにてもう大丈夫これから徐々口説に取掛らんと、三人に向ひ。「お前達は国では堅い商家の下女奉公と云ったが、実はさうではなくて、長春に行けば酌婦にするのだ。酌婦となれば、淫売は勿論せねばならぬ。かう始めて聞いたらお前達は驚くだらうが、もう此処まで乗り出して来れば仕方がない。嫌なれば直ぐ此処で前借を返せ、さもなくば、之から私の言ふ事に従ふか」と。死地に臨んだ小兎と知って、狼にも劣らぬ残忍の嚇し文句を浴せ掛られたれども、旅の空とて依頼りにする人も無き小娘三人は、何の分別も立たず、つい渋々ながら老婆の言に従ふ事になりたるを、キンは又々三人に向ひ、大連上陸の際に於ける警察の取調に対しては、何処までも「酌婦となります」と答弁すべしと迄に抜目なく教へたり、水上署にては前記の如く四人の者を船中より引致したる後、小原部長は直ちに取調べに着手したる所、此三人の女は、長春城内三東街料理店内藤ヤス方にて酌婦として拉れ行くものにて、当分大連の磐城町菓子商白木庄太郎、信濃町第三楼民澤一知、若狭町徳泰号犬飼観二の、三軒の内に宿りますとの曖昧の返事をなせり。仍て更に娘の方を取調べしに、前記の如く三人は充分に仕込まれ居る事とて、飽まで酌婦となると申立つるに依り、書類を調べ見れば、総ての手続の完全にして、之には警官も手の付け様なく持て余しの体なり。話頭一転、本月四日入港の大義丸にて渡来したる同郡一色村の西川エツ(十七歳)と云ふ美人は、矢張右の悪婆キン方の麦稈細工の雇人なりしが、キンの勧めに依り前記常次郎の手許を潜り、熱田町冨澤町石田ヒサ(三十五歳)の為めに拉れられ、市内監部通春日洋行へ下女奉公する約束にて来たりしが、話しと事とは全く異り。ヒサの為めに統合街食道楽濱の家に百円にて売り飛ばされ、卑しき酌婦となりたりしが。忽ち子宮病に罹り、業務に堪へぬ所より、どうぞして国へ帰らんと思ふ矢先き。一昨日大義丸の入港すると聞きて、自分の乗り来りしも同じ大義丸なれば、船長に頼めば内地に帰れぬ事もあるまいと、そっと同家を脱け出して桟橋に至り、大義丸に其旨頼み込みたりしに、船員は夫れは水上派出所に行くが宜しいとの事に、直ちに同所に至って泣く泣く保護方を願ひ出でたり。西川エツの水上派出所に保護方を願出でたる際は、丁度イト、サイ、ハルの三人取調べ中なりしが、軈てエツが三人と顔見合すれば何れも同村の朋輩にて、而もキン方にて同じく麦稈細工をなし居りしものなれば。エツも三人も驚き一方ならず、「どうしてこんな処へ来たのか。」「お前はどうして此処に」と、知らぬ外国で朋輩に逢ひし為め、嬉しさ極まって四人は抱き合ひつゝ、どっと其場に泣き伏したり。然るに此時突然悪婆キンが「私が居るから泣く事はいらぬ」と云ふ声にエツは、不図心付いて其辺を見廻せば、直ぐ傍に自分の元の雇主キンの来て居るのに二度吃驚し、何が何やら夢の様にてさっぱり解らず、能く心を静めて其事情を聞いて見れば、前記の始末に又驚きて、エツは更に三人のものに対し、自分の辛き目に遇ひし事を物語りたる後、「決して酌婦などには死んでもなるものでない」と言ひ聞かされ。「今迄酌婦になる」と頑張りし三人も始めて其事情を知り、泣いて警官に対し其真実を物語り、保護を申出でたり。此愁嘆の場を目の当りに見せられし立会の警官は、之に対し頗る同情の涙をそゝがれしが、此時遉がの悪婆キンも自分の前非を悔たるものか。「実は長春迄此三人を拉れて行けば沢山の金も貰へるが、これ限り内地へ帰れば旅費も借りて来た事ゆゑ夫れ丈は支払はねばならぬ。さりとてこうなった上は目的地へ拉れて行けず、全く困りますのは妾だ」と申立てたる由なるが、天罰覿面、実に好い気味と云ふべく、由って四人は直ちに保護して婦人ホームへ入れ、キンは誘拐犯嫌疑者として目下拘留中なりと。(遼東新報)
これに似たやうな少女誘拐の事実は、毎度私共の見聞する所である。

○三等舩室の説教
私が去年の春、大阪商船会社の汽船天草丸にて、大連にいった時のことである。既に玄界灘に乗出して後、事務長が私にむかひ、一等二等の船客の希望であるから、一場の講話をして呉れまいかといふ依頼である故。喜んで之を承諾すると同時に、「併し私は寧ろ三等客に行って話をしたいのですが」といふと。事務長は怪み、「それは何ういふわけですか」と問ふ故。「実は此うして見て居ると、どうも三等客の中に、誘拐せられて、満洲に行くのではないかと思はれる婦人がありますから。出来ることならば今の内に、少し注意をしてやりたいのですが」と答へると。「宜しうございます。それでは今夜、別に三等客の為にも御説教を願ふ様なことに計ひませう」といふて、事務長は迅速に其準備をしてくれた。そこで其夜三等船室に行って、乗客の為に暫く宗教上の話をなしたる後。「時に皆さん、人間の身の上には、何時どういふ思はぬ災難が、ふりかゝることがないとも限らぬものですから。諸君が満洲に上陸の後万一、不幸にして何か自分で自分を持て余す様なことに出あはれたら、大連ではこれこれの処に設けてある、救世軍の支部へ相談にお出でなさい。必ず及ぶだけの御相談相手にはなって上げます筈ですから」と、いふ様なことを、嚙んで含める如くに話したのであった。処が案の錠、其翌々日即ち船が大連に着いた次の日、一人の少女が突然其地の警察署に飛び込み、「どうか私を救世軍にやって下さい」と願ひ出た。其わけをたづねると、此れは備前岡山の者にて、まだ十六歳の少女であるが堅気な家に奉公をする約束にて、他に二人の年長の婦人と一緒に、連れて来られて見ると。堅気な奉公といふは真赤な偽り、直ぐに大連市外の小崗子といふ支那人町の遊女屋に連れ込まれ、醜業を強ひられるので堪り兼ね。其前日船の中で聞いて居った其救世軍にやってくれる様にと、警察署に願ひ出たものであることが分った。警察署では直ぐに其願を許し、私が未だ其地に留って居る間に、少女は早速婦人ホームに引渡され、其保護を受くることゝなったのである。(p381まで)

○排日思想の裏面(p387~)
・・・いつぞや井上胤文といふ人が布哇に於ける日本人を論じて、排日問題の裏面に及ばれるのを聞き、今更の様に慙愧に堪へられなかったことがある。
それからまた、も一つは醜業婦である。尤も外国の女と云へども醜業を営まぬではない。けれども何れも自国人を相手にして居るに反し、日本の女は金さへ貰へばどこの国人でもかまはない。且又数に於ても第一位にある。ホノルヽより少しはなれたイブリと云ふ土地では、日本の醜業婦が三百人住んで居て、五百人までは、いつでも供給する事が出来ると云って居る。外人醜業婦は居ると云っても実に僅少なもので、三百人五百人と供給する事の出来るのは、独り吾々の姉妹のみである。殊にペイデイ(月給日)になると、どこから来るものか、沢山の醜業婦がやって来る。彼等は今日は、どこそこのペイデイだ、明日は彼のキャンプのペイデイだから、と云ったやうに、月給日をつけ込んで醜業を営みに来る。まことに我が同胞は、あらゆる耻を外国にさらして居るのである。(p388~390)

○海外発展の将来(p391~)
故大久保眞次郎氏が、久々にて米国から帰朝せられた時にも、これと似た様な話を聞かされたのである。即ちオグランを中心とする方数十哩の処に、日本人は五六百人しか居ないにも拘らず、それ丈の日本人を相手にする宿屋の数が十三軒、玉突が十三軒、料理屋、銘酒店等が六七件、外に多数の醜業婦、博徒あり。恰かも日本の労働者は、酒と、女と、遊び場とがなければ、一日もやって行けぬものかの感想を与へ、然ういふ事が排日思想を助長して居るのは如何にも残念で堪らないと、いふのであった。(p392まで)

私共は此際有らゆる手段方法を用ゐ、官民共に協力して、在外の我が日本醜業婦を救護し、如何にもして我が日本を、世界第一の醜業婦輸出国たる汚名と事実とより脱れ出でしめねばならぬ。(p410・411)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1748928/189

救世軍日本々営「日本の救世軍とは何乎 何を為しつゝありや」大正2年9月25日発行 ※1913年

いつぞやも、警察官が大連市中を巡回するうち、二人の少女が塵箱を探して食物を求むる有様の、如何にも憐れなのを見て之を怪み、取調べて見ると、此両人は姉と妹にて、名古屋の者であるが、芸者の見習として次から次へと売り渡され、近頃大連に来た処が。其抱主が邪見にも、芸を覚えることが鈍いといふては度々絶食を命ずるので、空腹に堪えず、果は塵箱をあさって食物を求めて居るのであると分った。民政署では其二人の少女を取りあげ、これが保護を救世軍の婦人ホームに托さるゝこゝ〔ママ〕になった。ホームの士官が少女に其身の上の事を尋ね、「お父さんは」と問ふと、「もう死んでしまふた」といふ。「お母さんは」と尋ねると、「四人あるうちの何れか」と問返した。次から次へと芸者屋の手に渡り、往く先々の主婦(振り仮名「おかみ」)を「お母さん」と呼ばされて居る故、偶々「お母さんは」と問はれて、「四人ある中の何れか」と問返したなどは、如何にもいぢらしいことではないか。此二人はまだ漸く十三歳と十一歳とに過ぎなかったのである。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/922980/30

元田作之進「善悪長短日本人心の解剖」大正5年7月10日発行 ※1916年

十五、日本の醜業婦
 曾てビルマのラングン市を訪ふたことがある。同市の青年会幹事より馬車を命じて市内見物を案内せんとの招待を受け、隅から隅まで駆け廻ったが、最後に小さな街路に馬車を入れ二町程の処を徐行した、意外にもこれは日本婦人の遊廓であって、白粉臭い小女等が通行人に向って頻りにカム、インを連発して居る。青年会館に帰り、幹事より此実験上の感想を聞かれた時は、返答に困ったのである。こんな処まで日本の醜業婦が出稼に行って居るかと思へば、実に国家の為めに痛嘆せざるを得ないのである。

世界を股にかけた娘子軍
 近年麻尼刺(マニラ)を訪ふたが、此処にも醜業婦が入り込んで居る、三井物産の某君が予に告げて容易に自分の妻を外に出されぬ、偶々一人で町でも出でようものなら、醜業婦に取違へらるゝのである。と、日本の婦人を見れば直に醜業婦であるかの如く土地の人をして思はしむるに至ったのは誰れであらう矢張り日本の醜業婦である。
 東洋沿岸地の浦塩、大連、上海、香港、シンガポール、ペンナ、コロンボ等いづれも日本婦人の醜業地である。航路を太平洋に取れば先づ布哇を始めとして太平洋沿岸の米国には日本の類似醜業婦が出張して居る、沿岸だけではないやうである、支那、印度、南洋諸島、または米国にても奥深く進入して居ると云ふ。・・・(p233~235)

 此等の事実に徴しても日本人は男女間の道徳に関する観念が強くないと云ふことは疑はれない処である。吉原と芸者の名は世界に知れ渡って居る。西洋人から日本は醜業婦の輸出地であるの、美しい芸者の国であるの、妾を持ってもよろしい国であるのと思はれ或は言はれて居る、・・・
(p237・238)
 
佐野実「南洋諸島巡行記 : 附・南洋事情」大正2年12月28日発行 ※1913年

醜業婦の大打撃
 余は泗水滞在中に或人から左の話を聞いた。一九〇八年に交替した吧城(バタビヤ)総督は非常なる基督教信者で施政方針も前総督時代と異って居る、従て醜業も一九一〇年三月限り禁止さるゝことに為るとの事であった、然るに此三月二十七日の昼頃例の巡査が来て、今日行政長官は日本の醜業婦を役所に呼び、今月限り営業を停止し且つ此の美拿登県管轄意外に出立す可き旨を申渡したが、彼等の歎願に依り来月十五日迄延期を許されたとの事を語った。余等は別に関係ある事でもないが、此事が果してミナド丈けであるか左なくて蘭領全体とすれば、夫れこそ三千内外の醜業婦は如何なるだらう、其の職業の善悪は別論として差当り如何なる所置を取るだらうかとK君と話しをして居る時、女郎屋の主婦が突然やって来て、今日役所での一件を心配相に委細物語って、蘭領東印度全体が此様であるか、又営業を停止さへすれば立ち退く必要もあるまいと思ふが如何で御座いましょうと不平半分に役所で聞く可き事を余等に聞いて居る、余等は兎に角にも、役所と争ふては却て不利益だから船の入港も間近の事であるから、夫れ待ってば泗水地方の様子も分らうしするから、其の船を待つ方が宜しからんと諭してやったが、船が入港して瓜哇地方も同様であると分ったので、今は二軒の醜業屋も途方に暮れて居たが、瓜哇地方は定めし大騒動であらうと想像する。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/950708/112

鳥井三鶴「世界徒歩十万哩無銭旅行」大正8年6月30日発行 ※1919年

一二 娘子軍と土民化せる女
 南洋へ航した人は誰しも一様に言ふところであるが、彼等売春婦及土民化せる女の不快さである。口には毒々しく紅を染め、額の小皺を厚化粧に隠して、身には華奢な模様の着物を着込んでゐる女郎。嚙む檳榔樹に人の生肉を啖ふたかと思はれる口した馬来人、南国の夕の気分に耽溺の血に暍えたる紅毛の出稼人 道行く人をも鼻をそむけて過ぎ行かしむる悪臭の支那苦力、蛇の肌を思せるやうな皮膚のざらざらした漆黒の印度人、それらを相手選ばず、金さへ持てば手招きしてその肉を鬻ぐ日本の女郎。それが南洋には六千人を降らない。「日本の姉さん」それが南洋名物の一つであるのだ。
 南洋に於ける日本の姉さんを分けて三種類とすることが出来る。その一は定まった家を持って朝に夕に、張三たると李四たるとを問はず、求めに応じて情を売る娼婦の類である。其の二は主に欧米人の荒んだ生活の慰藉にとてその妾に囲はれて洋妾(振り仮名ラシャメン)になった手合である。其の三は所謂土人化せる女であって、正式或は半ば正式に異国人の妻妾となってゐるもので、その主なるものは馬来人、支那人、蛮族等である。
 馬来半島に於ては第一種の手合及び第三種の「マソ、マライ」となったものが相半ばしてゐ、蘭領の各地及び北〔ママ〕律賓には第一種の娼婦が最も多く、印度支那には第二種のものが最も多くその大部分は仏蘭西人の妾となってゐる。スマトラのデリーなどにもこれが多い。
 これらの女の大部分は始め密航業者の手によって南洋へ向ふのである。密航業者で誘拐者を兼ねてゐるものが多い。先づ巧辞を以て四五の少女を誘拐して巧に日本の官憲の目を晦まして港をぬける。第二関門である上海をも無事に通過すればも早や彼等の天下である。官憲の異なった香港で一先づ船から降りる。そして其処で売買されるのである。玉によってその売られて行く方面が違ふ。かうして売られた無垢の少女は自棄気味から酒をのむ、男をたらす、そして次第々々に倫落の淵に沈んで行く。売られた金は殆ど全部、密航業者或は誘拐者の収入となってしまふ。
 私の会った女だけでもかなり多い。その二三の例をこゝで言はして貰ふ。
 土人の巡査の妻になったものに会った。それは最も「マソ、マライ」を代表した女であった。心も身もも早やマライの血で爛れてゐた。耳に穴を穿って金環をさげ、手足の首にも金輪を穿めてゐる。サーロンと称する馬来の衣服を来て素裸足である。言葉も馬来語である。日本人に会っても日本語を話さない。否、話すことが出来ないのだ。
 支那の苦力の嚊となって、護謨山や、錫鉱山に苦役に服してゐる女を見た。も早や手足は荒れて、顔つきまで獰悪になってゐる。中には美人と思はれる容色の艶な女もないではない。
 或時はコーラランボで菊子といふ女の面倒を見てやったといふ日本の紳士にも会った。その女は一人の馬来人に誘拐されて遂に其の妾となってしまった。然し人情を知らぬ馬来人は彼に三度の食事をすら与へることをしない。そして夜となく、昼となく、肉に飢えた眼をして彼女を挑む。遂に居堪らずこの紳士のもとへ逃げて来て救ひを求めた。が、その女は日本語は殆ど話せなくなってゐて、馬来語で話をする。サーロンを着て素裸足でゐた。行儀作法といふことは一向知らない。一ケ月も居堪らずにまた元の古巣へ帰って行ったといふ。その紳士は「こんな女の末が思ひやられる」と言って悲痛な顔つきをして話してゐた。かうした馬来の風習に染まって回教を奉じ、割礼まで行ふ女はどれだけあるかしれない。二千人に降らないであらう。私はこの種の女を購買市(振り仮名バザー)でよく見ることがある。人を呼びかくるにも「トアン」と言ふ。日本語は話せない。馬来語である。
 人の首を切り、人の肉を啖ふと言はれてゐるボルネオの山深くに住むダイヤ族の巣窟で、欧米の探検隊すら這入ることを恐れた深山幽谷の中を先年日本の娘子軍の二人が横断したといふ。その無謀なる大胆さには一驚を喫しない訳には行かない。そして彼等はその無智より来る大胆さ、故国を離れて何等精神的慰安なく、夜も昼も肉欲に飢ゑたる男を相手に枕をかはす、彼女等の自棄から来る大胆さには男も及ばない。その大胆さを以て今や印度からアフリカにまで手を伸ばしてゐる。
 私が先年印度で実見したが、マドラス港には邦人の商人すらまだ一人も居ないのに、三人の女で巨万の金を貯へて栄耀栄華に耽ってゐるものがゐた。この種の女が印度には六七百もゐる
 そして支那人や馬来人の嚊になった日本の姉さんも、寄る年波に容色が次第に衰へて行けば彼等は彼女等を惨殺する。それは硝子の切片を何処からか得て来てそれを細かい粉末にする。そして少量づゝ彼女が珈琲をのむ折或は酒をのむ時その茶碗の中へ竊に入れて置く。知らず知らずにのんでしまふ。透明であるから解らない。かうして一月、一年、二年とやって行く中に彼女の胃の腑は硝子の粉末のために爛れて来る。腸が次第に破れて来る、顔色憔悴して遂に斃れる。死ねば深林に持ち運んで椰子の根元を掘って埋めてしまふ。彼女のふるさとには白髪の父母が彼女の帰るのを門に凭れて待ってゐる。何時までたっても帰って来ない。彼女の死体は椰子の木蔭にも早や白骨となってゐる。南国の月は何事もなかったかのやうに静かにその白骨を照してゐる。偶には日本人の護謨園などで髑髏なども掘り当てることがある。然し誰の骨とも解らない。と、苦力は忌なものでも見たやうに「畜生」と呟いて再び谷底目がけてドサリと投げ棄る。
 あゝ爾、土民化せる二千の女よ、お前達の行末は果してどうなることであらう。
 彼女等はどうして「マソ、マライ」などになったかと訊く人があったら必らず土人に惚薬をかけられたと答へる。椰子の葉に夕日が縺れて黄昏れる頃、ほの闇い小屋の隅に色黒い手で拵へる惚薬とはどんなものであらう。彼は黒い顔に白い眼を輝して製薬に余念がない。時折それをかけられた時の恋しき女の様子などを思ひ起しては物凄く笑ってゐる。呪の笑みよ――
 あゝ恋の南国よ、魔の南国よ、何とした神秘をこめて大空高く星は何時でも瞬いてゐることよ。
 維新以前平戸や長崎が海外文化輸入の根源であっただけに長崎県沿岸一帯の地には、早くから海外思想が盛であった。而して海外へ出稼ぎに行くことを何とも思ってゐないばかりでなく、外人とは決して嫌ふべきものではない、親しむべきものであり、愛すべきものであるとさへ考へるに至った。此の思想が時代の進むにつれて発展して遂に海外へ飛び出して肉を鬻いで稼ぐといふ醜業婦といふものが出来るやうになったのである。道徳の上から、宗教の上からこれを論議すれば価値は絶無であらねばならない。無価値であるばかりでなく罪障であらねばならない。とは言へ、彼等が国民的発展の導火線となって海濤万里の外に平和的戦争の頭取役を勤めてゐる点から見ればまた必ずしも忌避すべきものではない。
 一般に島原(島原女といへば娼婦を代表してゐる)地方は人口の増加が盛であって、食物の如きも、魚肉と薩摩芋と麦が主要なものであるといふ関係もあらうが、人口は非常な勢ひで増加する。ドシドシ海外へ出稼ぎしても一向人口が減少したと思はれないほどである。この天与の人口増加といふことも島原、天草地方の女子をして海外へ発展せしめる原因の一つであるとも言へる。
 島原天草地方では出稼ぎ醜業によって大に成功し、所謂女郎成金の連中が少なからずある。出稼先から親元に送金して蔵を建て田地を買入れて堂々と大地主、富豪となってゐるものが多い。そして此の顰に倣って吾も吾もと出掛けるのである。即ち彼等の目的は個人の利益一点張りではあるが、別に何等の意識もないけれども、知らず識らずの中に国民的発展の先駆といふ大使命を果してゐる日本の威信と期待とを落すこと尠くはないけれども、それもまた一つの勢力であると思ふ。結果から見て三つの使命(?)があると思ふ。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/960871/98

 
大橋乙羽 (又太郎)「欧山米水」明治33年12月廿●日発行 ※1900年

新嘉坡
四月十八日船新嘉坡に着きたれども…(p40)

醜業婦
われ等は背広の飾気もなく、嬉々として一卓を囲み、ビールの酔に壮語するを日本語知らぬ白人の、奇しき眼もて見詰むるもありき。食果つれば案内者の来りて誘ひ行くまゝ海岸に沿ふて進めば、支那人の家軒を並べて賑はしく、市場は戸を鎖して人無ければ、只ある横丁を曲るに、こは如何、日本醜業婦が恥を露らしつゝあるを見る。その家四五十戸もあらんか、戸々八九人を抱へ、主婦戸口にありて、遊客を呼ぶ声囂しく、娼婦多くは友染メリンスの単衣に、黒朱子の襟つけたるを着け、髪は前毛を断りて、鏝もてつゞらし、足には黒き靴下を穿きぬ、客は白人最も多く、支那人もまた打交れり。その娼婦の数を問へば、日本人殊に多くして、その数四百に余るべく、欧人も南京も顔色無しとか、その一廓の内には間々白人も交りて媚を売れども、一家三四人より多きは無く、南京娼婦亦二百人余あれども、特にこの地の名物は、日本の醜業婦なり。今は漸く蔓延して、秋風の枯草を吹くが如く、暹羅(シャム)、安南、ジャワ、スマトラを風靡して、醜業社と称する会社組織の、周旋業さへ起るに至れりと。噫、旭日章旗の力も、その百鬼の横行を打消すこと能はずや、予輩海外に遊ぶもの慨嘆に堪へざるなり、
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/888972/61

長田秋濤「新々赤毛布 : 露西亜朝鮮支那遠征奇談」明治37年3月1日発行 ※1904年

醜業婦と仕切られ(p100~)
西比利亜(シベリア)の日本女郎屋、就中浦汐(ウラジオストク)やハゞロフスクでは日本人を客に取らない女郎屋が沢山ある、其原因は遊費が層まったり、儲けが薄かったりするからであるが、コンナ辺からして醜業婦は自然に朝な夕な露西亜或は支那の客に多く接し、其中でもより多く支那人に接する者故、従って余計支那人の方に親くなるのである、所で又チャンさんの習慣として、本国に立派な妻君を持ち乍ら之を引連れて渡航する事が出来ない、西比利亜に出稼ぎすれば金儲けは中々多いが、空閨孤枕は彼等が祖先からの大禁制、我等日本浪人の様に膝ぶしを抱いて寝る事は到底も出来ぬ、ソコには幸ひ日本の女郎屋があるから彼等は悦んで之に遊びに行く、遊ぶ事の度が重なれば互に親しくなる、チャンだと言ってホレて見れば余り悪くは無い、別けて金払いは日本人よりも好し、女と見れば可愛がる事も亦一通りぢゃ無し、コンナ人間を生擒にして置けば結構な事だと大悟一たび徹底しては女郎も亦之に向って愛嬌を振り撒かずには居られぬ。ソンナ仕儀からデレチャンは
益々デレの度を増して先き先き必ず身請けの相談を持ち出す、女郎は思ふ壺へハマったと喜んで早速之を承諾すれば苦も無く前借なんぞは払って呉れるコーして支那人の妾に行くのを彼地では「仕切られ」といふのだ、其仕切られて行く時には必ず、百円又は二百円の金を約束金として手に納め、扨万事話が済んで輿入をなせば之から先きは女郎共最得意の時代で、愈々自堕落放逸に日を送り、朝も亭主が先づ起きて立ち働けども自分は枕を高ふして床上に鼾でもかいて居て、十時過ぎにでもなら無ければ中々以て床離れをする所じゃない、ソシテ常不断着物はネダル、金やダイヤモンドの指環はセガム、若しも亭主が其請求に応じなければフテ腐れて「私は病気だから」など云って亭主を傍へも寄せ付けぬと云ふオッカない始末、又中に気の利いた連中は月々貰ふた金を諸方に貸付けて七分なり八分なり或は一割なりの利息を取って財を殖す方法を講ずるのも決して少く無い、先づ西比利亜に居て支那人に仕切られてる女に、二千や三千の現ナマを所持せぬ者は無いさうだ。

日本人の資本主
此チャン妾は段々年を経るに随って金を貯るが元々日本人であるから豚尾漢ばかりでは鼻に付いて、軈て否になると見へ、金のあるに任せて往々間夫を拵へる、男の方でも金が目的物だから早速之を承諾すると云う鹽梅式で亭主の目を竊んで妙な快楽を尽して居る、其内支那人が本国に皈ると云ふ様な時には分け前を貰ふて、其儘男の方へ走るし、或は不幸にして夫が財産を貽して死する様なる事があれば早速其の財産は悉皆遺族即ち妾の手に落つるので、死んだが最後、三ケ月も立たぬ内に忽ち日本人の間夫と結婚をして本望を遂げ安楽な世帯を立つると云ふ、夫から男は女の金を元手として何か一事業を遣って見るのもあるが失策しても男の方では元々空っ尻だから何の心配も無い、ソシテちと都合が悪くなれば女を見捨てる丈の事、又た都合が善くなれば善くなったで見捨る事がある、其処で兎や角云ふた処で元々野合の夫婦であるから、何処に持ち出して訴ふべき処もない、実に憐れむべき彼等の末路である。
西比利亜に迷い込んで行ても扨て何も取り付き場処がない、元来無一物で渡って来たものであるから、店一つ開かんとしても資本はなく、女郎屋するにも金はなしと困る場合は其の「仕切られ」に愛嬌を振り蒔ゐて甘心を買い、融通を付けて貰ふ、夫れが為めに日本人の助かったもおは年来幾許なるか分らぬ、実に日本人の西伯利亜にて事業を起したものゝ資本は、十中の八九女郎屋或は仕切られの手により融通されて居るので、特に彼の有名なる支那人「チーフンタイ」の為めに昔し仕切られて居た「おサダ」と云ふ女の為めに資本の融通を付けて貰った者は今でも彼地此地にごろごろして居る位だ。

仕切られの勢力
此の仕切られなる者が西比利亜全体に幾百人居るか判然とは分からぬけれど、誰でも知って居る丈けの大概を申さうなれば、浦汐(ウラジオストク)に於て二三年以前既に三百人から居たと云ふ事、之れは只だ支那人の妾のみであって其支那人の内でもまだ判明されないのがある。此三百人の外に露西亜人或は其他の国人に仕切られて居る人々を算入したならば少く共百位はあるであらう、如何にして三百人といふ事が判明して居るかと云へば、彼等は殊勝にも仲間の不幸なる「仕切られ」に対して夫を保護せんが為め慈善会を設立したさうだ、其の慈善会の発端と云ふは、或日本婦人が或支那人に仕切られた処が、其支那人が余り富有でもなかったと見え、女の方から同情の涙禁え敢へず縦令支那人でも之では可愛想だとの観念より、自分の所持した衣類や古道具迄一切売り尽して其の支那人に入れあげた処、不運といふものは致方がない者で其内ツイ其支那人が死んだ為に女は弥弥困窮に陥って、葬式等は兎に角無事に済したものゝ、扨其後の方法とてはドーにもコーにも考が就かぬ、止むを得ず事情を浦汐の日本人に訴へた処「仕切られ」といへば同胞人中に於て度外視して居る者であるから誰一人として其話に乗って呉れやうといふものが無い、其処で仕切られ仲間が大層同胞人の無情を立腹して、同胞全体が斯な考なら今後決して金銭上や、何かに就て御相談は申し上げぬ、と「仕切られ」中で、慈善金を募集して其の婦人を日本に還したさうだ、夫から以後は之に懲りて将来又た斯の如く不幸なる人があった時の用意にと、一人一円宛月々積み立て決して日本人同胞の厄介にはならぬと云ふ大意気込みで出来た慈善団体の加入者が丁度三百人あって今でも月々貯蓄を為し、会場を本願寺に定め、絶えず持寄りをして居る所を見ると「仕切られ」も亦中々侠骨稜々たるものである。
「ハヾロフス」に於ても「仕切られ」は十二三人も居るが、彼等は寺の寄付金でも、時々折々の募集金でも、二度返事でスグ出す程に物の分りが早い、間には非常に理解力の乏しい者も無いでは無いが之は十分一にも足らぬ位だ、ソシテ彼等は確かに西比利亜に於ける出稼ぎ人としての一勢力を有して居るから、日本人の露西亜人或は支那人の豪商に近づくには乃ち非常に便利なる媒介者である、彼等あってこそ西比利亜の日本人は今日三千計りにも繁殖したのである、「仕切られ」が常に口にする所では、憚りながら日本のお為といふ事は始終忘れませんと、然し境遇が境遇故ドーモ根性のひがむ癖が起ると見へ、一寸した事を云ふても忽ち気に障へ、我等はどうせコンナに零落して居るのだから様々悪口云はれても仕方がないが、誰某さん達でも本を洗へば皆な私の金を借りたればこそ、今日の地位に成ったのであるのに、今更立派さうな口上を吐て、途中で逢ても知らぬ振りして行き過ぎるのは余り不人情ではあるまいか」と面の当りやり込めらるゝので日本人先生大に赤面して下る様な事が沢山ある。だから大概の者は彼等の御気に障らぬ様に頻りに御機嫌を取て居るが是は如何にも止を得ない次第であらう。

醜業婦の出産地(p196~)
西比利亜(シベリア)に渡航して行て醜業婦人と云ふ憐れむべき名称に甘んじて外国人に情を交はして、御髯の塵を払ふて居るもの共の出産地の戸籍を酔狂にも洗って見れば、大概は九州で其多数は九州の内で熊本県天草か、長崎県島原辺りの者で長崎市の内外も沢山ある、其の次は中国から中仙道に懸けてゞある、何故に長崎地方天草辺りが大多数を占めて居るかと尋て見た処で薩張り判らぬが、併し長崎と云ふ処は日本の果であるけれ共、昔から外国人が此土地へ通商貿易の為めに来て居る処より、早く外国の事情に熟して外国人に就て金儲けをしようとの観念を起し、男は料理方を覚え洗濯屋を覚へると云ふ都合で、日本で取った事のない月給に有付くのが娯しさに希望者のあるに任せ伴はれて行て見る気になり、他の地方は云ふに及ばず西比利亜の方へも渡航したものと思はれる、夫から段々尻尾に就て女も渡航する事になった処が、其の渡航した女が女郎になり夫から洋妾に抱へられ甘い汁を吸い思ひも懸けぬ主人の愛を得て、下女も使い下男も役する事が出来、又た古郷に帰る時には金剛石入りの指環は近傍眩ゆき迄に輝かせ、帯締めから頭のもの、衣物は高価なる御蚕ぐるみにて、話しは決して自分の行て居た処だから悪くは申さん、有らん限り弁舌を以て近所近辺の人に宝の山でもある様に云って聞かせる者だから、歳頃の娘さん達はトテモ堪らん、女に第一の大事のものは衣物、其の衣物が思ふ様に着れると云ひ、太平楽も云へると云ひ、朝も晩迄寝て居る事が出来ると云ふので、誰れも行く、彼れも行くと云ふ事になるが、シカシ行き度くても如何にして渡航せば善からんかと思案に暮れて居る矢先き、其事を聞き込んだる誘拐者が有らん限りの甘言を尽して之を誘ひ出し、自分の懐暖めの材料に做すと云ふ様な具合で、斯く一人連れ二人連れて行たのが今日の如く殖えたのである。

長崎人の努力
夫れであるけれ共、西比利亜侵入者の中には長崎人より天草人が多数である、然るに社会上の勢力の方に至っては天草人よりも却て長崎人の方に占めて居らるゝのである、と云ふものは西比利亜全体の日本人が日々の行事は凡て長崎風である、即ち正月元日の飾りものより、極月廿九日迄の礼なり式なりと云ふものが皆な長崎風に依て取り行はれ居る、其の上言語迄が長崎ナマリでなければ行かぬと見へ、天草人の沢山なるにも拘らず、大概自国の言葉を脱して長崎語の「アンシヤマー」「ドンケンシマスノー」「一寸ヲアガリマツセ」「ヨツテイカンノーシ」「一服ヲスイマツセー」等の言葉を上下なしに通用して居る、ソコデ夫の世人が善く歌ふ処の「オンダーイーヤ、ソンゲンシマスナ、バケエシーチヨツタイ、ドーユウコンナンナ、ヨソワシカモンジヤローカ、オンドガアワモチヤホカニアル」と云ふホーカイ節も、彼等醜業婦は出産地の何処たるを問はず、皆常に口にして居るのである、如斯き風で長崎人の勢力は極めて盛んなるものである。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/761167/107

岩本無縫「東京不正の内幕」明治40年3月20日発行 ※1907年

▲醜業婦輸出の悪漢
紳士風なぞ装ふた腹は鬼にも均しき人物が、よく九州辺を徘徊して、若き娘共を何とかうまく口車に乗せて、神戸又は横浜におびき出し、これを船に載せて海外に醜業婦に売飛ばすを業とする者が今の世には多くある、是等の人鬼共は其弁説のうまきこと到底尋常ではなく、田舎娘はころりと一杯食はされるのだ、故に何と言って此の連中が田舎を廻らうとも、決して其わなに罹ってはならぬ、彼等は其人を見て夫れ相応のうまいことを言ひ、年々幾百人と云ふ罪もなき少女を地獄に連れ行くのだ、先づ田舎の女子共は決して親の家の敷居なぞまたいで遠出するのは善くない、中には馬鹿娘があって、親に隠れて此の手に乗るのがある、今日海外の各開港場、即ち浦塩斯徳(ウラジオストク)、大連、上海、韓国、布哇(ハワイ)、比列賓(フィリピン)群嶋、桑港(サンフランシスコ)、其他至る処に淫売を業として居る婦女子は、これ悉とく此の手に罹って身を売られた人達である、人の振見て我が振直せで、よく警戒するがよい。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/798829/59

中川柳涯「秘密探偵露国の内幕」明治37年3月6日発行 ※1904年

西伯利亜の風俗(p34~)
・・・殊に西伯利亜(シベリア)内地に於て勢力のあるのは日本の醜業婦で、到る所に露人を籠絡して其の生血を搾り取て居るとか、されば我が国商人が西伯利亜内地に往て開店する時には先づ第一に彼等を頼んで万事の引廻しを為して貰うので、それが最も安全で又最も繁昌する賢き方法であるとか。
 読者よ、日本の醜業婦が世界至る処へ出掛けて、恥を外人の前に曝す等と云ふ野暮な理窟を言ひ給ふな、彼等は一厘半銭の資本も入用ずに万里の波濤を越えて猛進し、鬼の如き髯クチャだらけの毛唐や、野獣の如き露人を手玉に取り、搾れる丈け搾り取ってはこれを本国に送るので、其の男子も及ばぬ勇気は雙手を挙げて賞揚すべき値があるのではないか、殊に日本醜業婦が至る所に於て各国の醜業婦を駆逐して独り跳梁を擅(?)まゝにするとは猶ほ更ら醜業婦万歳を嘔はねばならぬ。(p39・40)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/988198/24

桐友散士「夜の女界 : 暗面奇観」明治35年9月11日発行 ※1902年

十三 海外の醜業婦
 支那沿岸の各港、上海、香港、寧波から、南洋の方へ掛けて、船の着く港には、大概日本の女と広東の女が出稼ぎに行って居る。此れ等の密航婦が、此処まで密航して来るには、随分、幾多の危険と艱難に遭遇した結果、漸くに上陸し得るので、此の取扱ひを秘密に営業として居るのは、昔しなら所謂女衒と云ふ奴である。
 女衒は烏の様な眼をして、諸所方々を彷徨きまはって、無教育な女を欺して、窃に自分の所へ連れて来る。そして、船の水夫と共謀したり、或は、石炭をつみこむ時に石炭運びの女人足にしたてたり、或は荷物にして大きな行李に入れたり、あらゆる秘密の手段を案出して、兎に角に船へ積み込んで了ふのである。で、航海中は時として、非常な惨劇が演じ出される事があると云ふのは、何しろ、人間ではなく荷物になって船底にかくされて居るのであるから、蓄はへて居た食料が無くなって、飢死にして了ったと云ふ話もあれば、又は、窒息して死んだと云ふ様な話もある。幸ひに、命あって、目的地へ付くと、其々受取人が、同じく夜陰に船を出して、秘密に上陸させて、己れの巣へ連れて行き、こゝで、いよいよ醜業をさせる事になるのである。
 大体は、本国の青楼と別に変った事は無い。夕暮時から、化粧をして店へ居並らぶのである。店と云ふのは、大抵、大きい硝子窓がある、板床の一室で、其処の椅子へ腰を掛けて並んで居ると、開港場の事だから、各国の船の水夫や、居留民が其の辺の酒屋で、ブランデーとか、ウイスキーとか云ふ、強い酒を引掛けて、鬼の様な赤い顔をして、嚙み煙草をかぢりながら、其の窓を覗きに来る。
 もの馴れた醜業婦は聞き覚えの英語で、中から、声を掛けるものもあるが、まだ、馴れ無い新娘は、先づ物怖ろしさに胆を潰して了うだらう。日本人のお客でも、肌を触れるのは身を切られる程に辛いのを、まして、雲をつく様な背丈の高い、大きな赤髯が何してお客に取れるものだらうと、云って、今更、何ともする事は出来ない。・・・
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/900369/75

岸本能武太「倫理宗教時論」明治33年9月19日発行 ※1900年

第七「日本は世界に醜業婦を供給す」
 聞く海外に一種の流言ありて、少くとも或る社会に於ては殆んど一の諺をなせるものゝ如しと。其諺に曰く「支那は世界に労働者を供給し、日本は世界に醜業婦を供給す」と。・・・
 吾人を以て之を見れば、斯の如き流言の世界に伝播するに至れるには、少くとも内外二個の争ふべからざる事実之が根拠を為さずんばあらず。何をか内外二個の争ふべからざる事実と云ふ。曰く、苟くも航通の便の開けたる処には、米国と云はず濠洲と云はず、我商人より先きに我醜業婦の渡航しつゝあること、是れ外部の争ふべからざる事実なり。曰く、我国に於ける男女間の道徳の極めて陋醜にして、外国人をして我国を淫楽国なるが如く思はしむるものあること、是れ内部の争ふべからざる事実なり。
(一)、之を広く海外を旅行せる人々に聞くに、苟くも航通の便ある処には、至る処殆んど我国の醜業婦を見ざるは稀なりと云ふ。日本商人の未だ行かざる津々は多からん、日本業婦お居らざる浦々は多からざるなり。我政府は固より醜業婦の渡航を厳禁しつゝあり。然れども元来醜業婦となる程のもの、又醜業婦渡航の周旋を熱す程のもの、如何でか奸智に長ぜざらん。されば政府の厳禁に係らず醜業婦の海外に渡航するもの日に月に其数を増加しつゝあるなり。所々方々に在る我国領事の報告は始〔ママ〕んど常に醜業婦の事を含有するにあらずや。斯くして朝鮮支那等の近き国々は云ふも更なり、印度、濠洲、南北アメリカ、又アフリカ等の港湾に至る迄、我醜業婦は至る処に群を為して返って得色あるものゝ如しと云ふ。而して此等外国の人々の多数は、日本を知り又日本人を知るに、先づ醜業婦より知り始むるが故に、彼等は自然に醜業婦てふ眼鏡を通して日本を見るなり。是に於て乎此等の人々、即ち他の方法によりて我国の事を知る能はざる人々が、日本は醜業婦を出す国なりと結論するは、強ち無理とは云ふべからず。曲は彼にあらずして寧ろ我に在るにあらずや。
 吾人は速かに適当なる取締規則の発布せられて、遅れ馳せながら、此上醜業婦の為めに我国民全体が誤解と汚名を蒙むることなからんことを欲して止まざるなり。一方に醜業婦ありて我国の面に泥を塗る以上は、如何に他方に面目を維持せんとするも、遂に難事たるを免れざるべし。醜業婦は実に我国の耻辱なり害物なり国賊なり売国奴なり。然れども翻って考ふれば、兎も角も我国は斯く多くの醜業婦を世界に供給しつゝあるに相違あらざれば、責任の幾分は、否な大部分は、醜業婦よりも寧ろ醜業婦を出だせる我社会に在りと云はざるべからず。風見は風の方向を示す。醜業婦の多きは我社会道徳の陋醜を証明するものにはあらざる乎。斯く考ふれば吾人は実に自ら省みて慙愧と慷慨とに堪えざるものあるなり。そは我社会道徳の卑劣なる、我社会は醜業婦を出だせりとの非難を免かれざるものあるを知ればなり。
(二)、我国今日の社会道徳は果して醜業婦を出す程卑劣陋醜なりや。外人あり、日本は醜業婦を出だすが故に其の社会道徳の程度も亦推知すべきのみと云ふものあらば如何。固より醜業に従事するものは日本の醜業婦のみにはあらず、野蛮国にも半開国にも又文明国にも、各々其国固有の醜業婦あることは、古今万国の定数なるが如し。故に単に醜業婦を出すが故に、日本人の道徳は悉く醜業婦的なりと云ふものあらば、是れ実に非常の誣言に相違なし。又真逆斯くの如き臆測をなす人は、少しく思慮ある人々の中には之あらざるべし。然れども日本に於ける男女間又夫婦間の道徳は果して清潔なり高尚なりと云ふを得べきや、泰西文明国の道徳に比して毫も遜色無きか。試みに外国人にして我国に在り、位置より云ふも職務よりも、道徳上責任の重き人々の私行を看一看せよ。或は諸外国公使館の役員の如き、或は諸官省諸学校雇ひの外国人の如き、或は居留外国商人の如き、彼等の本国に於ては彼等は決して敢て為し得ざるが如き醜行の屡々新聞紙上に現出するものあるにあらずや。又新聞紙上に現出するに至らずとも、彼等の醜聞は屡々吾人が耳にする処にあらずや。文明国の公使にして蓄妾するもの多しと云ふにあらずや、有名なる詩人にして醜聞を流せるものあるにあらずや、学生の模範たるべき教師にして道徳上頗る素行の修まらざる者あるにあらずや、姦淫せりとの嫌疑を蒙り本国に住み得ずして我国に逃れ来たれる美術家ありと云ふにあらずや。此等の例は殆んど枚挙に遑あらざる程多数のことなるが、此等は一方に於ては、如何にも此等の不品行なる外人の本国即ち所謂文明国の道徳が、如何に彼等を根本的に感化するに力なきを証すると同時に、又他の一方に於ては、此等の人々をして本国に於ては敢て為し得ざる程の不品行を為さしめて、而も之を咎めざる我社会の道徳の陋醜なるを示すものにあらずして何ぞや。不品行を為すは為す外人の責任なり。然れども本国に於て為し得ざる程の不品行を為さしむるは、我社会の責任にあらずや。若し此等の学問あり地位ある外国人に取りて、我日本国が宛然淫楽国たるの実あらが、其他の無責任なる不道徳なる外国人が我国を淫楽国視するは、必ずしも無理にはあらざるべし。
 今試みに我国人間に於ける男女間の道徳に就て考ふれば如何。上は大臣宰相より下は職人車夫に至る迄、夫婦間の道徳は極めて弛廃せりと云はざるべからず。我国に於ては登楼蓄妾は殆んど善悪の問題にあらず、単に貧富の問題なるが如し。蓄妾せざるものは多からん、サレドモ我国人中曾て一度も己れの正妻にあらざる婦女に接せざるもの果して能く幾何人ぞ。多情宰相あれば姦通次官あり、放蕩書生あれば遊冶丁稚あり。芸妓娼妓の跋扈するあれば、目懸手懸の横行するあり。建築物の尤も壮大にして出入者の尤も頻繁なるは遊廓と監獄とにあらずや。泰西の文明社会に於ても遊廓なきにあらず又芸娼妓なきにあらざるべし。然れども社会の道徳的制裁に至りては彼我大に同じからざる処あるなり。宜なり、久しく我国に在留せる一米人が或る外国新聞への投書中に於て実に左の如く云へるや。曰く。

日本の政治界にて最も重要なる位置を占め、愛国者として世人の許す人にして、常に不潔なる妓婦と戯れ遊ぶことあるも、何人も之を非難せざるなり。此一点に於ては日本と泰西の道徳とは大にその趣を異にするなり。ブレッキンリッヂの如き人も日本に於ては安然にその位置を保つことを得べし。女子には淫行の罪を咎むることあれども、男子は殆んど如何なる淫行を為すも自由なり。如此は開明諸国に於て決して許すべからざることなり

と。日本の社会道徳に関して此種の感想を懐くもの決して此一人に止まらざるなり。されば日本に来る道徳上責任ある外国人の稍もすれば醜行を為し醜聞を流すは、云はば其の責任の半ばは我社会道徳の陋醜なると制裁の無力なるとに帰すべしと云ふものあるも、吾人は之に対して如何に弁疏し得べきや。若し又我国が多くの醜業婦を出だすは、其責任醜業婦其者よりも寧ろ之を出だす日本の社会に在りと云ふものあるも、吾人は殆んど之が弁解の辞に究〔ママ〕するものあるべし。
 若し世界の労働に従事する支那人が憫むべきものなりとすれば、世界の醜業に従事せんとするものは如何。如何にも腕力的労働は脳力的職業に比して下等なるべく賤業なるべし。然れども共に是れ世界の進歩の為め必要なる職業にして神聖てふ形容詞を冠らしめ得べきものなり。之に反して醜業は何処迄も醜業に相違なく、遂に神聖なるもおにあらず。吾人は「世界に醜業婦を供給す」と云はれんよりは、寧ろ「世界に労働者を供給す」と云はるゝを欲す。吾人は支那人が世界より労働者供給を特色なりと思はれたるを憫むと共に、一層我国が醜業婦供給を特色なりと思はるゝを耻ぢざるを得ざるなり。若し此の流言にして無根ならしめば則ち止む。苟も内外に於て此の流言をして根拠あらしむるが如き事実あるに於ては、吾人は慙愧と慷慨とに堪えざるなり。我国の宗教家、道徳家、社会改良家を以て任ずるもの豈に自省自決する処なくして可ならんや。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/758620/32

宮川寿美子「 女房説法鉄砲 三ぼう主義」明治44年11月20日発行 ※1911年

東洋諸港と醜業婦
 茲に、忌はしき話があります。私共が英国に参ります途中、上海及香港に上陸した時には、私共日本婦人四人が皆日本服を着て、見物に出掛けました。
 ところが明日はシンガポールに到着と云ふ前夕、船の事務長が、私共に向ひ「明日御上陸の際は必ず西洋服を御用ひなされませ」と、之れを聞いた時、あまりに異様なる為め其故を尋ねましたら、シンガポールにて日本婦人が日本服を着る時には、売笑婦と見間違へられるからとの答へであった。
 其時に日本服がかくまで、辱しめを受けて居るかと残念に思ひました。皆さまと上陸し色々話を聞けば、此処には数百人の日本人が居るけれども、三大節に(元始祭、紀元節、天長節、)正々堂々と私は日本人で御座ります。と領事館に頭を出す事が出来るものは、ほんの僅かで、他の多数吾々日本国民殊に日本婦人の名を汚すものであるとの事でありました。其被も折々は怪しげなる相乗りの姿をも見受け、一層忌はしき感じを起しました。
 私は未だ日本人の諸処の殖民地には行きたる事がありませんが、若し、其土地に宗教家のやうな精神教育者が先きに行かずに、賤しき島田頭が先きに行きたなら、英国の殖民地と、大いに趣きを異にするであらうと思ひます。・・・
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/798475/143

河東碧梧桐「支那に遊びて」大正8年10月25日発行 ※1919年

四 醜業婦
 私は曾て肥前の島原あたりをあるいた時、百姓の家にしては妙な窓のつけ具合や、立派な倉庫に等しい壁の塗り方などを、田甫の中に発見した。それは島原天草辺をかけて特殊の産物として聞えてゐる醜業婦の建てた家だとの事だった。巨万の富を擁して帰って来た醜業婦が、物質的な虚栄の真似をそこらぢうにヒケラかしてあるく、其のヒロインの照り栄えもしない、放射線のホンの微光の一端が、それらの建築物になったのだ。けれども土地の空気に融和すべき可能性の少ないそれら虚栄は、長つゞきはしない、其の建築物は長くて二年、早ければ一年経たないうちに大方所有主が違ってしまふ、さうしてヒロインの一時的の眩しい光りも、いつとはなしに掻き消されてしまふ、と土地の人が言った。私は異様な百姓家の来歴を聴いて、そんなことなら聴かんでもよかったと思はんでもなかった。たゞ島原付近には、変った百姓家がある、と呑気に眺めてゐる方が罪がなくていゝやうにも思った。私のあるいたのは夏の初めで、そこら田甫には、実になった菜種や、穂の垂れた麦がもう大分黄ばみかゝってゐた。強い光線に照らされて、総てが発動の気を漲らしてゐる初夏の光景の中に、菜種の実殻と熟れかゝった麦とは、ある淋しみを伝へるものだ、それを背景にしてゐる異様な百姓家の作りは、たゞそれだけで、切支丹の昔をも想像せしめる島原気分であったのだ。が、一歩其建築物の内容にはいって行けば、もう門口を素通りすることも出来ない。私は其の醜業婦の遺物、虚栄の残骸をあさましいとも何とも思はない、それが島原の風教上いゝことであるやらわるいことであるやらも考へない、たゞもっと醜業婦といふ者の生活内容にブツかりたいやうな心持で一杯になった。土地の人は、どれ程海外渡航を禁ずる法律が微細になっても、それを易々として潜り得る醜業婦手段を話して聞かせた。醜業婦にも親もあり兄弟もある、それらが其の子や姉妹の密航について、大抵は何の考へも持ってゐない、長崎や熊本辺へ石炭担ぎに出かけたり、下女奉行に住み込むのと同一に取扱ってゐる様子を物語った。一旦病気で帰郷した醜業婦も、健康が回復すれば、きっと二度も三度も出かけて行く、よくよく病身である者も、別に定った家庭を作るでもなく、往々惨めな死に方をする二三の実例をも挙げた。たゞこれだけの梗概を耳にしたゞけでも、彼等が生れ落ちるとから死んで行くまで、醜業婦として、運命づけられてゐる、人間の力ではどうすることも出来ないやうな或る法則に縛られてゐる、寧ろ不思議な生活が思ひやられるのだ。仮りに私が其の醜業婦の兄に生れて、さうして今の私が出来上ってゐたとしたら、その程度に其の生活内容にヂカに接触し得たとしたら、そこにどのやうに変った世界、どのやうに別な情緒が展開し廻転するだらうか。菜種の実殻と黄ばんだ麦の中に、力ない夕日を、其の痩せこけた頬骨の尖った蒼白い顔一杯にうけて、何のあてもなく遠くに視線を向けてゐる絶望的な姿がしょんぼり立ってゐる、そのやうな幻影が、又してもありありと私の眼の前に浮ぶのだった。
 淫売、醜業婦、密航、不健康、低級な虚栄、そのやうな暗い重くるしい陰影を与へるものゝみが、私の頭に一杯になって、島原といふ土地に一種の色彩を感じて去ったことは、いまだに忘れられない私の印象であった。
 馬尼刺に上陸した夜、三井物産の自動車に乗せられて、これからガルヂニヤ見物に出かけようとした時、私はまだ生ま生ましい島原の印象を思ひ出して、けふは其の出稼地にある醜業婦にヂカにブツかるのだ、と妙に胸の躍るのを覚えた。彼等の生活内容に一歩近づいて行く、それが何だか恐ろしいものでも見るやうな、好奇心と冒険とさうして一種の危惧心と疑惑の念をそゝるのだった。アスハルトの滑らかな大道をすべる自動車の中に、不快な夢に襲はれて手足の筋肉までが堅くスクんじゐるやうな私を見出さねばならなかった。
 案内をした人は、これがナンバーセブンチーだと言って私達を導いた。鉄の格子のはまったおっぴらいた窓の処に、真白な女の顔の並んでをるのを、ずっと下から見上げる、何だかそれが飼はれた白兎のやうだった、其の十七番の階段に私の靴の片方がかゝった。この階段を踏む意義、といふ程にはっきり纏ったものではなかったが、これを踏む以上には、踏むだけの用意をしなければならない、と言った妙に冷やかな理智がむらむらと私の胸に湧いた。さうだ、私は私の眼に映ずる総てを十分に見ねばならない、私の耳に響く総てを残らず聞かねばならない、と私は強ひて私を落着けた。
 私は先づ女の服装を見た。総てが西洋式で、絵葉書や雑誌の挿絵で見る踊子のそれに似てゐた。肩も腕も露出した半裸体の派手なスカートをぞろと垂れてゐる。かういふ光景に馴れない私は、それが日本人であるのか外国人であるのかも区別がつかない位だった。私はハヽア南洋の醜業婦は、かういふ扮装をするのだなと思った。中には長襦袢にしかしない派手な友禅を浴衣にして著てゐるのもあった。それから座敷に上れといふので、靴を脱がせられた。そこは十畳と八畳位の二間の居間と座敷になってゐる。立派な日本風の間であって、床の間も違ひ棚も正式に作ってある。この床柱はと言った風に、黒柿か何かの艶々しい光りが、横柄にひん曲ってのさばってゐた。床の間には花も活けてあり、山水の軸も掛ってゐた。一方には焼桐の目も鮮やかな琴が二つも立てかけてあり、こちらには三味線が三挺も吊ってあった。其中に、米国出来の版画が、もう幾年掛け通しにして置くのだらうと呟いてゐるやうに、かしぎながらつらくってあるだけで、別に外国らしいトンチンカンな取り合せもない。何だかデブデブに太った婆さんが私等の前に坐って、皺枯れたドーマ声をして挨拶した。十七番の誰さんを知らないでは南洋通ではないとまで言はるゝ、其の誰さんがそれなのださうな、女達が「ねえさん」と呼ぶと、其の婆さんが「アイヨ」と返事する。尤も婆さんと言っても、私達よりはずっと若いのだらうが、頭や眼元に刻みつけた深い皺が、婆さんと言はなければならない余儀なさを語ってゐる。筒ッぽの白地の浴衣を著て、細帯で胸の処をぐっと締めつけた出張った腹の恰好は、根から生えたやうでもある。額の汗を幾度撫でるか知らないが、それが小やみなく玉になって行く、私は姑らく其の手のやり場に困って、もう汗がぽたぽた落ちても構はないでゐる、この婆さんにとっては、手のつきかたが甚だ不自然に見える恰好を眺めてゐねばならなかった。「ねえさん」「アイヨ」の応答が其の間にも幾度も繰り返される。とても動かされさうにもなかった婆さんが手軽に立ってすたすた部室を出て行く、戻ったかと思ふと又た立って行く。不図女の声で、ぢっと聴いてもゐられない露骨な事を投げ出したやうにいふのが聞えた。それまでは、別に長崎弁以外変った心持ちもしなかったのが、まるで裏切られてしまった。醜業婦を一つの職業と見れば、彼等が業務上の話をすることを人に憚かる所以はない筈だ。けれども我等の羞恥心が露骨には言明し得ないことを、いくら業務上のことだって、忌憚なく言ってしまはせる醜業其のものが、こんな場合に案外呪ひたくなるものだ。玉露製のいゝ茶で、渇いた喉を湿ほして、女の部屋の見学に出掛けた、一方に脚の高いベッドを置いて、一方に抽出しつきの鏡台が寄せかけてある。鏡台の横には衣装箪笥やトランクのやうなものが整然とあって、中央には小さい卓子と椅子が三四脚もバア式に陣取ってゐる。これも総てが西洋式で、日本臭い処は、とてつもない柱かくしの豊後簾が窓の横にぶら下ってゐる位のものだ。一行はそれぞれに椅子を占め、椅子のない人はベッドに腰かけたりした。何だか罪のない花やかな話が口々にとりかはされた。これが醜業婦たるヒロインの城塞であることも胴忘れして、バアの一卓を占領した茶話会のやうな気分が、この室に漂ったのだ。案内に立った人は、女達は昼間は琴や三味線を習ふのだ、といふことを手始めに、内地の公娼のやうな拘束のない生活ぶりをかいつまんで話した。御覧んなさい、彼等の肉体の発達を、腕でも何でもぶくぶくしてゐるでせうとも言った。彼等が月月本国へ送金する額は、驚く許りです、この家に七人女がゐますが、それが月々三千円を下らないのですからとも言った。このガルヂニヤには日本人を客にしない家がある、といふことから、醜業婦としての女の心理や習慣や、果ては民族的な人種論にまで議論の花が咲いた。日本人を客にすれば、同民族の情愛が濃くなる、其の為めかかへ主が迷惑しなければならない、といふのは醜業婦を知らない浅い管見だ、醜業婦はそんなものぢゃない、自己の職業に対する心理は、自己の趣味性になずむ人間の弱点と、キッカリ区別がついてゐる、それは男性には出来ない女性的特徴だ、けれども民族的な愛は、単に異性に対する愛とは違ふ、民族的愛の為めに、異性的愛が何等か圧迫をうけるといふやうな場合は、外国人にあっては甚だ稀れだ、そこになると日本人の愛はより強く民族性愛に制肘されてゐると言ってもいゝ、つまり日本人位民族的に排他の観念に富んでゐる者はないといふことになるのだ、それはこれらの醜業婦が、外国人の客を一個の弗入れの物質として取扱ってゐる習慣にも現はれてゐるといふのだった。
 民族的な心理や習慣は余りに問題が大き過ぎる。私は始めに想像するともなく考へてゐた醜業婦の生活が、暗い閉ぢ込められた、炭酸ガスの停滞した中にうごめいてゐる冷たさと堅さを感ずるものでなくて、却って明るい押ッ開いた、柔かな暖か味のあるものにしか思はれない、其の矛盾を、あちらこちらと帰納しては考へて見ねばならなかった。彼等は光明をのみ見て生きてゐる、自己の運命に何の危惧をも感じてゐない、とまではどうか、生きてゐるやうであり、感じてゐないらしいのかも知れないが、其のやうにらしく見えることすらが、既に私には意外な事実なのだ。彼等の安心立命が確立してゐるとはどうしても想像されない、それとも無自覚な彼等をさういふ境涯に導く制度とか習慣とかに、どんないゝものがあるのか、私はそこに大きな疑問を挟まねばならない。
 私達が尚ほ他の二三軒の醜業婦の家を見て廻ってゐるうちに、かういふ巷の空気は次第にそれらしくざわついたものになって来た。さうして私達の気分も、いつか観光の外客が、日本の公娼制度を素見する為めに、吉原の遊廓を訪問してまはるやうな、たゞの好奇心に過ぎなくなってゐるのを見出した。其夜三井物産の合宿所のマニラ臭い蚊帳の中に横はりながら、私は始めて見た日本の娘子軍の実際、それに纏はる彼等の心理、そんなことが絶間なく頭の中を往来した。さうして彼等が其の運命に安じてゐる疑問を繰り返した。
 香港の●仔街といふのは、馬尼刺のカルヂニヤの更に規模の大きいものである。が、日本の醜業婦は、馬尼刺に比して遙かに経済的であるとのことだった。私は馬尼刺で抱いた疑問に、尚ほ何等かのヒントを得られるかも知れない希望を持って、一度は其の暗い階下を上下せねばならなかった。
 日本の勢力の波及の稀薄な植民地では、何処でもさうであるが、畳を敷いた日本間と言っても、もと煉瓦建ての西洋間作り、若くは支那作りに或程度の加工をしたものだ。座敷を出た廊下は土足で往来せねばならない、自然座敷の敷居の外には下駄や靴やがゴッタに脱ぎ放してあるやうな光景は、一向に珍らしくない。亜米利加製のブリキの盆に日本の盃を載せて、支那箸で物を食ふやうな食膳の雑居的雰囲気も、日本の外を知らない漫遊客を驚かすに足るものだ。殊にペストの予防の為めに、室内に天井を張らせない香港では、それがどれ程手のかゝった贅沢な日本間であっても、一度頭上を仰げ・・・
 海外出稼の醜業婦は、日本の恥辱である、といふ正人君子の説を強ちに排斥するのではない。醜業婦の存在の可否は、単なる風教上の問題ではない。徹底的に
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/960908/55

戦前日本人の海外売春(1)

関連エントリ
戦前の日本・植民地朝鮮の公娼関連統計
http://blog.livedoor.jp/ekesete1/archives/43673210.html
従軍慰安婦資料集(3)戦前公娼制の実態
http://blog.livedoor.jp/ekesete1/archives/47775519.html


北海タイムス 1921.5.7-1921.5.16(大正10)
薩哈嗹(サハリン)感想記 (一〜三・五〜九・完)  
特派員 鈴木敏三

本年四月十日現在亜港(アレクサンドロフスク・サハリンスキー港)所在人口を挙ぐれば(軍人軍属除く) 邦人一、九六六露人一三、八七朝鮮人六〇四支那人一八六合計四、一四三 にして其後解氷航海安全季に入りて邦人の渡航と相俟ち所在邦人は益々逓増しつつある事予想に難くない、之等の邦人は主として吾軍占領後の経営に要する各般 設備の為入込みし労働者及其労働者並に一般在住民、物資供給を目的とする所謂雑貨商と其関係者大部分にして何れも刹那的掻っ浚い主義、商略を持す者に満ち苟くも相当の調査と用意を有する薩哈嗹富源開発を主眼とする実業家に乏しい尚吾西比利亜(シベリア)撤兵と同時に多斉方面より標泊せる所謂天草女の一団を主とする賤業婦百三二名(中露人五)も包含されているが右表に於て露人、固定に対し邦人の激増は着目すべき現象である
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中外商業新報 1927.4.11(昭和2)
長江沿岸に於ける在留邦人の分布
今回の引揚が如何に打撃か
亜細亜局の調査

なお海外発展には附もののような芸娼妓酌婦等の如き賤業婦も御多聞に洩れず此処では可成り兆梁を擅にし、三百二十九人という数字を示しているが、以上の総ての数字は言うまでもなく領事館に申告されたもののみに依る算定であるから、成都の奥、西蔵(チベット)との国境近くにある遠隔地には多少申告洩れの者があるものと思われる、
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神戸又新日報 1913.12.8-1913.12.9(大正2)
日満連絡貨物 (一・二)
明年一月一日開始
[日露貨物連絡輸送問題 (其六)]

此等輸出品は果して露人の使用するか或は日本人の使用するものなるやと吟味すれば其多数は邦人の使用に属するらしく然かも邦人賤業婦の多数に由りて消費せられしものの如し
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大阪毎日新聞 1924.5.7-1924.5.13(大正13)
高率関税で阻害された対仏領印度貿易 (一〜六)
総督の来朝で条約改訂迫る

戦争前に於て仏領印度支那に在留した本邦人は約三百名あったがその大半は賤業婦を以て占め、商業に従事するもの少なく経済上の勢力としては我国は実に微々として振わなかった。
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大阪毎日新聞 1912.12.13-1912.12.16(大正1)
吉林瞥見 (上・中・下)
在奉天 鬼仏堂

在留日本人
吉林は北緯四十三度四十七分東経百二十六度五十三分、緯度は北海道旭川と同じきため気候も似たり、夏季は酷暑なきも十一月より三月に至る冬季は寒気甚しく、最低摂氏零下四十二度に至る、然も風景母国に似かよいて邦人も亦住心地よきところとす、現今住民二百三十六名、常に三百に達せず交通の便開けて既に料理屋魚屋の長春より視察に至るあり、旅館亦増設の計画ありという、明春に至らば急速に増加を見んかという、住民の大半は婦女子にして、婦女子の多くは支那人相手の売笑婦なるに至りては先進国の顔色なし、近頃日清雑種児生るるもの多し国性爺鄭成功を学んで起たんとするものありや否や
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満州日日新聞 1916.1.29-1916.2.19(大正5)
山東経営大観 (一〜十五)
天南生 (一)

戦後の青島は如何なる状態なるか山東の経営は如何に日本人の手に行われつつあるか、・・・
一、市街の整理風紀の維持如何
旧独逸市街は一戸平均家賃七十円、最高二百五十円前後の堂々たる家屋のみにして、大鮑島の支那式家屋も猶お三十円を下らざれば、我薄資者の一戸を数戸に仕切りて雑然と店舗を開き、若くは支那家屋にても陋隘のものを借受け雑居の有様不快の感を懐かざるを得ず、殊に遊廓青楼同然の酒楼旧独逸市街にも散居し、脂粉の売笑婦闊歩し居る事は、風紀上慨すべき事なりとす、吉村青島軍政署長は英断を以て青島第三区に彼等の位置を指定し、建物会社と交渉して移転すべき家屋を建築せしめんとす、為めに幾多の廃業者を出すも、余は賛成に吝ならざるなり。 要するに我日本人の発展には斯くの如き好ましからざる裏面も亦少なからず、余は独り軍当局のみならず、青島人士が真摯奮励此等の情弊害毒を一掃せん事を切望す。
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報知新聞 1934.9.6-1934.9.12(昭和9)
風雲の満露国境
大黒河にて 松山特派員記

大黒河にいる日本人の大多数は工事関係者である、勿論県庁にも県参事以下の日経官吏もいれば税関の日系官吏もある、この外国境警察隊の日系巡査や、外務省巡査もいるが、それ等の数はいうに足りないが、六百人の中にいわゆる娘子軍が百名以上もいるから大したものである 東京会館などという洒落れたカフェーもあれば、菊屋、角屋などという料理屋もある、宿屋も三軒程あって何れも日本人の経営である、面白いことには宿屋には芸妓もいれば酌婦も抱えている、宿屋と料理屋とカフェー、食堂、待合とが同居しているのだから便利なこともあり、便利でないこともあるというもの 物価の高いのは交通不便の関係から止むを得ないとしても、日本人の商人が暴利過ぎるという話をちょいちょい聞かされた、・・・

当地には慰安機関としては何も持たない、従ってその日の活動に疲れた連中はカフェーや料理やへ行く、だからその方面は相当発展していること申すまでもない、百余人の日本娘に朝鮮娘も二三十人もいるようだが、芸妓などは前日から予約しておかないと間に合わぬというのだから東京あたりでお茶を挽いている姐御とはちょいと違うようだ、この娘子軍あるがために、遠く故国を去って国境の第一線でトーチカからのぞいている機関銃の前でも、死なば諸共の大勇猛心で活動が出来るというものだ、娘子軍こそは大陸進出の先駆者であり、勇敢なる紅子群である 彼女等は内地から直接送られて来たものもあるが、チチハル、新京、大連あたりから更に大陸を泳いで来た者が多い 大黒河は大都会だよ と聞かされてハルビンから薄暗い三等室に送り込まれて十二日間溯上して上陸する、出発する時に彼女等が抱え主からもらう金は大概三百円以下である、彼女等は佐賀弁で気焔をあげる 妾達はここまで来た以上戦争を見て帰ります、日本の兵隊さんと共に最後まで踏止まります、兵隊さんが更に進出すれば妾達も一緒に行きます、妾達これでもレッキとした大和撫子なんですもの、祖国意識は内地にいる同輩より強いんですよ 記者は彼女等のけなげな態度に胸を打たれてしまった
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東京朝日新聞 1924.4.5(大正13)
国際貸借の話 (上・下)
国際財話

第五は移民送金である。たとえば亜米利加への出稼ぎに行って国元へなす送金又は生きながらの地獄そのままの生活をなす売笑婦が異国から国元への送金の如き、何れも日本からは相手国に対する受取勘定となるものである
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大阪朝日新聞 1919.7.6(大正8)
浦潮支那人の排日傾向
浦潮 中山貞雄

浦潮(ウラジオストク)在留支那人は従来積極的に排日の行動を執った事は無かった、只過去に於て一度支那人の日本娘子軍に対する非買同盟が行われた事があったが其原因は日本娼妓の或る不法行為に原因したとか云う話であった。


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台湾新聞 1919.2.10-1919.2.13(大正8)
西濠洲の潜水業 (一〜四)
新嘉坡通信

最近西濠洲(オーストラリア)ブルームから百余名の邦人が国帰りの為当地へ寄港した白人の濠洲と言われ黄金の雨降る濠洲と称えられつつある裏面に如何に邦人が活動しつつ有るか・・・
潜夫生活の裏面と云うと如何にも大事件がひそんで居る様だが事実は只海上生活をして居る人々として女にあこがれ金廻りの良い濠洲では更に大賭博が行われるに過ぎない勿論白人の濠洲として一切の有色人種の侵入をふせぎつつ有れば男に対する女の比が到底新嘉坡の様な平衡に近い物じゃないとは言う迄も無くブルームに在住する所謂娘子軍は総数十四五名然も此の十四五名中最も若いと云われるのが四十歳以上古いのになると六十歳を越えるのが六七人居ると云うんだから金の為にふくれ切って居る彼等の精神が寧ろ気の毒になって来るんだ 女郎料理屋の繁昌期はブルームに於ける是等の下等娯楽場も繁昌するのは彼の地がブルームタイムの二三月を陸上で送るからである二月を皮切りに十一月迄ためた金が十二月の休業期に入ると全く出漁が無くなって今迄の海上無趣味生活は下宿屋の仰臥となるんだ此処で古人が言った事は間違いなく「小人閑居して不善をなす」を実現する第一に突撃する所は女郎屋次が賭博場料理屋の順であるが何と言っても千人に近い荒くれ男に十四五人の女では到底需要に応じ切れないで少しでも申込みを遅れ様者なれば縦令三千ドルが五千の金を積んでも女は見向きもしないのだ
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神戸又新日報 1920.4.4-1920.4.21(大正9)
欧航記 (一〜十)
三月十日新嘉坡着前日熱田丸にて 本多一太郎

予ては我娘子軍が当地そ其根拠地としてシャム、安南ジャワスマトラを始めとし馬来(マライ)半島の虎伏す山奥、鰐棲む南洋諸島の果に至る迄殆ど秋風の枯草を吹くが如くに跳梁横行せし事も今は過去の事実に属し近年漸く滅亡の機に達し彼南(ペナン)に於ては既に数ヶ月以前全部廃滅し、馬尼拉(マニラ)亦然り新嘉坡(シンガポール)に於ても近く二ヶ月の後には滅亡し終らんとす元来彼等は我民族の海外発展の先駆として称せられたる事もあれども続いて其地に我正業起って漸次其勢力を増加するや彼等は反比例に勢を失い滅亡するを常とせり即ち或意味に於て彼等の滅亡は我商権の確立する事ともなり候
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中央新聞 1915.4.6-1915.4.10(大正4)
邦人の海外発展 (一〜五)

本邦婦人の第一の活動舞台は新嘉坡(シンガポール)で男子が二千二百六十八人に対し女は二千八百九十八人程いる。之に亜ぐのが浦潮斯徳(ウラジオストク)で男子千九百三十三人に対し女子は二千十二人いる。此外在留婦人が男子より遥かに多い土地は哈爾賓(ハルピン)で在留婦人千四百三十七次が香港の七百八十六芝罘の四百九十印度カルカッタの三百五十六孟買(ムンバイ)の百五十六仏領柴棍(サイゴン)の百三十等である。唯だ恥しいのは是等の在留婦人の約半数が所謂娘子軍であると云うことである
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満州日日新聞 1922.3.8(大正11)
山東の将来と邦人
軍隊や官衙の力を頼み過ぎる

山東や満洲や西伯利(シベリア)への移植民は兔角軍隊や官衙の力を頼み過ぎる傾きがある。最前線に立つものは、例の娘子軍、質屋、売薬商、洗濯業者 高利貸の徒で、軍隊が道を開いて奥れるのを待って、始めて資本家、事業家、其他のものが後に続いて出かけ、中には軍隊の御用だけを目的に出懸けるものもあり、随って火事泥を働らくものもあり、そうして只貪り取る事ばかり考えて居るという有様では、日本国民の海外発展なるものに余り誇り得べき所はないのである。
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神戸又新日報 1932.11.12-1932.11.19(昭和7)
世界の宝庫ブラジル
行け一家挙って
佐藤新吉氏談

今日海外に在る女性にも男性に劣らぬ勇敢さと円満なる性質を発揮してよく男性の事業を援け蔭ながら国家民族の発展に貢献している事実は決して少くないのである、然るに一方又吾国の体□を汚しつつある娘子軍も少くないのであるからこの際婦人の猛者によって海外事情を極め以て我国の婦人が男子と伴って海外に進出し人類の平和と幸福の増進に又優秀なる民族の繁栄の招来に努められる様に一大覚醒を三千万の婦人に渇望するものである(おわり)
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満州日日新聞 1936.6.23-1936.7.2(昭和11)
開拓地を行く
佐野特派員

その夜我々はチャムスの市について一番古くから知っている町の或る有力者を招き晩くまで町の種々相について聞いたが彼は"此の町で邦人が一番先に進出して来たのは何んと言っても料理店経営者で今では日本人の料理屋が七軒、カフェーが二十八軒もあり、芸酌婦が八十名、カフェーの女給が百名その他二十名、合計二百名の娘子軍が第一線に活動する男達の背後を慰めていること"などを特異の現象のように語った、
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満州日報 1934.4.21-1934.4.29(昭和9)
秘境三千里を行く (1〜7・完)
(西藤特派員発)

開魯県はもと東西札魯特旗と阿魯科爾沁旗に属する沙草の地であったが・・・在住の日本人は満洲国官吏、満鉄社員、駐屯軍を除けば十数名で雑貨商一、旅館兼料理業一である日本人の生活物資は多くは通遼から運ぶので飲食物も満鉄沿線と殆ど変らない、興安省南部の日本娘子軍の第一線は且っては林西にまで進められていたそうであるが現在では開魯を第一線としており此処から奥地へは一人も入っていない、開魯唯一の日本料亭幾代には六人の日本人酌婦がいるがその中の二人は昨年七月に熱河省から沙漠を越えて林西に巣を構えて稼業中二千の部下を擁する兇暴無比の大匪首呉芳山に襲撃されモーセル銃を両手で突き付けられながら 馬鹿野郎つ!ピストルが怖くて奥地の稼業が出来るかってんだ見損うと承知しないよ とばかり小気味の好い啖呵をきって流石の頭目呉芳山をして遂に引金を引かせなかったという秋田県生れの凄い姐御がいる 電灯のない開魯の街の冷たい土家屋のアンペラに座って二分芯のランプに照らされて聴く沙漠の蔭に咲く大和撫子の思出話はその一つ一つが血て彩られた恋と闘争の冒険小説である
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満州日日新聞 1917.5.23(大正6)
出生率増加
在満邦人十万五千人

男百に対する女の割合は領事館管内の長春一一八、三遼陽一一四、七を筆頭に奉天領事館管内の七七、七を最少とし州外にありては四平街九五五開原九四、五なるは娘子軍の比較的多数を占むる為めなるべく其他州内外共大□八五乃至八六の処にあり
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京城日報 1917.3.31(大正6)
満洲人口分布
唯遺憾とする所は南満洲に於ける邦人の男女比例は男百に対し女八十七を示すに拘らず北満にありては女百に対し男四十を示し北満に於ける邦人発展の原動力が所謂娘子軍に在る事なりとす
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日蘭通商と日本船 (上・中・下)
バタビヤ三井支店長 菊地泰(寄)

日蘭貿易の現状に就ては、総督府あたりに大分通が居られるので、廻らぬ筆を以って説明するにも当らないが、欧洲大戦前日本から爪哇への輸入額と戦時昨年又は一昨年のそれとを比較して見ると、約八倍に膨張して居る事丈を概念して置く蘭領印度在留邦人約二千人で、其内には旧来の娘子軍も含まれて居るのだが、近年の渡航邦人は余程高等な階級に増加を見つつある事は何よりも嬉しい、
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台湾日日新報(新聞) 1918.5.5-1918.5.9(大正7)
台湾と南方発展 (一〜四)
於拓殖講演会 折田台湾総督府副官講演

今日我民族此方面に活動せるもの未だ寥たる状態に在りて而も国辱を念とせざる娘子軍の横行や粗製濫造の商品を輸出して我貿易上の不信用を顧慮せざる奸商や或は浮浪無頼の邦人が一等国民を楯として各処に蛮行を演じて恥とせざるに比較して洵に慨歎に堪ぬ次第であります
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東京朝日新聞 1942.1.24-1942.2.1(昭和17)
シンガポール座談会 (1〜8)

本社
シ港と日本との歴史的関係等についてお願いいたします
千田氏
古い関係は判りませんが、しかし現実の関係は娘子軍です、恐らく明治九年代に行っています、全盛時代には五百人も居ったのです
飯塚氏
いや、その五六倍もおったよ、私らがみるところによると日本の政府には、南へ行って適するか、南へ行く日本人をどうするかという方針は、なかったろうと思う、だから古い歴史は別として最近三十年位のところを見ますと流れ流れて偶然定住したという簡単なことでやはり華僑の行き方の一部と似ていると思う 明治四十年頃に三五公司が渡った、前に台湾で仕事をやり、対岸の厦門で仕事をやった関係から、南洋のゴムに目をつけたのです、その頃ゴムは一ポンドで三十二、三セントというのが二ドル何十セント、三ドルというような時代ですから、そこで三公司を与してはじめたのがゴム園であった、ゴム園さえ作ると、とに角企業の形になる、ゴムは失敗がないからわれもわれもと行った、そういう意味で日本が進出したのだろうと思う
千田氏
それは日本の資本および企業の進出だ、最初は娘子軍が元です、マレー半島に二千おった時代があった、これは九州の天草の女が娘子軍として出て行ったのです、娘子軍が行くと着物が欲しいから呉服屋が出来、百貨店ができる、病気に罹るからお医者さんが来、世話焼きが出来る、土地を買うため通弁が出来る、明治四十年には三井物産しかなかった 三井の支店がはじめて出来たのは明治二十年位じゃないかと思う、そうしているうちに今のようにゴム五園が開けた、約二億近くの資本がいった、日本人が南洋の経済上に地歩を占めたのは、この前の世界大戦で、その時に内田商事が来る三菱が来るー台湾銀行だけはその前にありました、明治三十年代でしょうーさらに鈴木が来る、あらゆる貿易商が来た、世界大戦を区切りとして、驚異的に日本人の商売上の勢力が増して、今度は第三国との貿易をやり出した、
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満州日報 1934.11.25(昭和9)
首都大新京水の源 浄月潭工事進む
昼夜兼行完成を急ぐ貯水池 生れる新京の一名勝

偉いもんですぜ、誰を相手にするかこの工事の忙がしい時は日本の娘子軍の群が裾をひっからげ満州狗と喧嘩をしながら店を出していましたがね、大の男も顔負けの形でさあ、つい此間まで居りやしたが商売にならんと見えて街の方に帰っちまいましたよ
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満州日日新聞 1916.6.9-1916.6.23(大正5)
貔子窩瞥見録 (一〜九)
津上蒼洋

旅館と料理店 同地の旅館は常盤及一山の二軒あり。一山旅館は殆ど其体を為さざるも常盤旅館は土地柄相当に第一流なり。大連方面其他よりの旅客は悉く同旅館に集り、又時々居留有志の会合等に使用せらる。料理店は周防屋、薩州軒、喜楽、田浦屋の四軒あり。之に収容する娘子軍は芸妓三名、酌婦十五六名あり。何れも小岡子の第二流以下にして敢て問題とならざるも貔子窩に於ける彼等はアレでも別嬪にてヤンヤと珍宝がらるるは流石に女ならでは夜の明けぬ国民なり。彼等に就て『如斯片田舎に稼業をなし面白きことありや』と問えば客種悪しく娼業繁昌せざるまでも経費の掛らぬ為め結局収入多く却って身体は気楽なりと答う。お客こそ好い面の皮なり。夫れ然り而して前記の如き劣嬪多き中に周防屋に梅吉、喜楽に小円なる二美人?あり滞在中余等一行の為めに旅館に傭われて朝夕給仕の任に当る。聞く処に依れば之ぞ貔子窩に於ける一流の美人にて旅館より選抜されらるものなりと。茲に特に一言の提灯をブラ下げ置くもの也(完)
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台湾日日新報(新聞) 1929.6.16-1929.6.27(昭和4)
南洋で有望な産業諸々相 日本の投資一億余
志摩生

世界大戦以前の南洋は、真珠採収が非常な盛況を呈したものだ所謂海底に瓊璃を探ぐるもので、裸一貫の海国男児が彼の骨格逞ましい真黒な身体を、一日海中に浸けると何十金という大金が其衣嚢へ転がり入る。ここが日本男児である。其勇敢なる、其大胆なるには外人も眼を円くして驚いたものだ一時はドボやロンボックや、アルマエラの辺りをかけて数千の真珠漁り邦人が群集したものだ、而して一日の報償を懐ろにして塒に戻る彼等は直ぐ其足で異った或方面を漁りに廻るそこで娘子軍も殖えて行く、彼女等は其繊腕に襟をかけて明日とも知らぬ命の持主の海の人々を操縦するそれはそれは盛なものであったのだ


それが一九一四年の世界大戦となって、さる贅沢品の輸出はばったり止まることとなり、図らずも出来た昨日の日本町も、今日は本来の絶海の孤島となって了った。漁夫等も逃げて帰れば娘子軍も逃げて帰る。其娘軍の中には随分尤物もあったようだ。私が爪哇の××邦人旅館で見た千代ちゃんというのも其一人であったが一寸ここ台湾辺では見られない優品であった。アノ声で盛んに蜥蜴‐否海蛇を喰ったのだろう。
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大阪時事新報 1931.5.26-1931.6.26(昭和6)
アフリカ踏破の旅
荘司茂樹

遠く二十年の昔、既にこのアフリカの小島に日本人が根を下していた、例の天草の娘子軍だった、現存している四人の彼女等の話を案内人に聞かされた余は、日本人の面汚しと罵る前に、二昔以前に暗黒の此地へ、はるばる印度洋を越えて遠征しなければならなかった彼女等を思い返し、寄る年波を異郷に送り返して、故国に憧れる哀話を、偲んでは暗然とせざるを得なかった。
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大阪朝日新聞 1914.2.18(大正3)
青島と日本人

五六年前迄は青島に於ける日本人の勢力全く娘子軍に帰し彼等を中心として雑貨店あり裁縫店あり写真店あり菓子店ありと云う有様なりしが青島の発展と共に日本人の発展も著るしく今や我同胞の経営せる会社銀行の支店多数設置せられしより中心勢力は漸く娘子軍を離れ茲に真面目なる日本人発展の一新時期を画したり而して最近に於ける日本人の来往者を見るに従前とは全く流入の傾向を異にせり即ち娘子軍全盛時代は其の本場たる天草島原より上海経由し来る順序にて所謂上海より北進し来りしが今日に至りては専ら大連より南進し来るもの多く芸妓、実業家、雑貨屋、呉服屋、職人又は無職業者と云わず総て然り従って我同胞の使用する日本商品も亦大連を仲継として南進し来る趨勢を示したり然れども神戸より社外船によりて日本人及び日用品の来ることは従来と異ることなし
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報知新聞 1940.11.23(昭和15)
英領ボルネオを見る (上・下)
タワオにて 佐々木特派員発

日本人のボルネオ入植の由来は約四十年前にシンガポール、香港方面に居た日本人娘子軍が渡来したのに始まり、その後日本人の入植するもの漸次増加し、椰子、ゴム、マニラ麻等の栽培、その他水田、漁業に従事する者が次第に多くなって来た、
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東京朝日新聞 1924.6.17-1924.6.18(大正13)
国際商品としての護謨の話 (上・下)
国際財話

而も本邦人が南洋の護謨(ゴム)栽培事業に着手したのは、一九〇七年頃のことであって、当時は所謂娘子軍並に之に寄生した不逞漢の跋扈した時代であった
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大阪朝日新聞 1933.12.2-1933.12.7(昭和8)
スマトラ (1〜5) 南洋を描く
本社特派員 伊藤昇

大正元年だった。北都丸、旅順丸、万里丸の三船が集って南洋郵船組が出来、三月に一隻電気もない怪しげな船で香港、シンガポール、バタビア、スラバヤと一ケ月もかかって通った。『日本船が入るげな!』と娘子軍達が日の丸の小旗片手に港に集ったのはそのころだった

・・・そこでメダンの邦人発展史をのぞくと、日清、日露、世界大戦の三つの戦争が発展の段階を作っている。ブラワン港もなく、メダンの町も草原だった時に支那人ジヤンクでラブワンに渡って来たのは勇敢な娘子軍だった。まず南洋渡航としては早い部分、その娘子軍が蓄えた金を戦争のたびに献金したり故郷から身内の男を招いて次第に発展の基礎を作ったわけで、日露戦争当時からここに雑貨店を出している人々も数軒未だに続けている。
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満州日報 1932.7.25-1932.7.29(昭和7)
満洲国の手に帰した呼海鉄道を往く
ハルビンにて 神蔵特派員発

▲…北満を支配するもの…▲
〇団幹部及び実戦の勇士から懇切な説明を受けて充分状況を聴いた吾々は二十一日朝帰途についた、連日の雨はまだ小止みなく降り続いている、比較的高地である海倫附近は夏とはいいながら夏服では寒い位である、娯楽機関のないこの奥地に駐屯する兵士の無聊さを気の毒に思った、然し皇軍の威力に依って沿線は全く安定したので勇敢な女軍は続々入り込み綏化、呼蘭、海倫には数日前からそれぞれ十数名の娘子軍が近く営業開始の準備中だという、綏化には文化の魁けたるカフェーさえも開店され環境とは馬鹿にかけ離れた「酒は涙か」のレコードが旅行者を喫驚させた、
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満州日日新聞 1936.8.10(昭和11)
事変直前に比べて五十八倍の膨張
”北進日本”の豪華図絵展開 近代都市建設に邁進

斉々哈爾はもと八旗駐坊のため建設された都市である関係上、住民の五割は満州旗人、二割は回教徒によって占めていたが、民国三年に墾戸招待所を設け移民の入植を奨励した結果、漢人が雪崩打って押寄せ、遂に実勢力において主客転倒するに至った、漢人は山東、山西、河北三省の出身者が大部分を占めている、明治三十八年に商埠地として開放せられ、四十一年に日本領事館、大正十一年に満鉄公所の開設を見た結果、事変直前には内地人百二十三名、朝鮮人三百九十名を数えていたが、東北政権四天王の一人、万福麟の圧政をうけて日本人の存在は実に寥々且惨澹たるものであった、斯くして満州事変を迎え、昭和六年十一月十九日、多門師団の精鋭は馬占山軍を江橋に撃破し、懸軍長駆斉々哈爾に入城した、多門師団の吹奏する進軍喇叭を合図に、娘子軍、御用商人たちが第二陣として進軍して来た、これを契機に斉々哈爾(チチハル)は大都市建設の黎明を迎えたのである
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大阪毎日新聞 1940.9.16-1940.9.18(昭和15)
現地邦人に仏印を聞く (上・下)

一九二四、五年ごろ初めて海防に日本領事館が開設され中村修(すでに故人)という人が初代領事としてやって来ましたが ・・・この中村さんが来てから例の娘子軍が跋扈することは国家の体面上面白くないとフランス人と正式に結婚したもの以外他に正業のないものは全部送還することになりました、大戦が終ると三井、三菱とも河内の店を引揚げましたが海防ではホンゲイの石炭、サイゴンではゴムと米と玉蜀黍の取引があったので三井だけはそのまま店を存置して今日に及んでいます
末松氏
娘子軍弾圧がはじまると海防(ハイフォン)、河内(ハノイ)におった邦人たちも次第に地方へ入って農園で働くとか、独立して雑貨店を開くとかめいめい新生面を求めて分散してしまったのです、つまり仏印邦人の一大転換期が来たわけです、
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大阪朝日新聞 1933.10.17(昭和8)
珊瑚礁望む桟橋に山なす『お国の産物』!
椰子林の邦人小学校
第二世も算盤稽古
ボルネオ、セレベスの記

ここの日本人会長で三十年も内地に帰らないという門教丸氏の言葉によれば、サンダカンの日本人は全部失敗したことになる、西にシンガポール、東にサンダカンと娘子軍の陣営として知られたこの地に、日本人がどっと押かけたのは大正七、八年の好況時代だった、
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大阪毎日新聞 1919.5.8(大正8)
南洋講演
大阪商品陳列所にて東郷、木村両氏

大阪商品陳列所にては七日午後七時より事務館に於て実業家教育者の為に南洋の風俗習慣貿易事業等に関する講演会を開催し貴族院議員東郷男、木村新嘉坡陳列館長の講演ありたり木村氏は語る
新嘉坡は南洋方面の中心市場であって陳列所事業の前途にも面白味があるが今日の処マレー群島蘭領印度の事情位を知り得るだけである故に近く他の方面にも人を派出する考えである而して南洋方面の真相を知らない当時は土人の購買力が非常に低いものであると想像して居たが実際は之に反し購買力も高く又上等の品物を望むので一驚した而して戦前迄彼地の輸入は英蘭独商品多く日本品の如き皆無と云う有様で唯醜業をこととする日本娘子軍が跋扈して居たに過ぎぬ然るに戦争開始と共に蘭独品の輸入杜絶した為め俄に日本品の需要増加し最近に於ては戦前の約十倍となり三億円に達したけれど尚全貿易額より見れば一割である
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台湾日日新報(新聞) 1928.6.4-1928.6.10(昭和3)
日本人と蘭領印度の農業鉱業
南洋倉庫専務取締役 半田治三郎氏

欧洲戦争以来日本と東印度との関係は密接になって貿易関係に就ても明治六年頃は僅かに三百万円位であったのが現在は一億数千万円に上り約三十倍の尨大なる増加を示している、ところが貿易関係は異数な膨張であるが日本人の在住民の数からいうと、明治時代の三千六百人が現在は四千人であって殆んど数字の上に於て増加を見ない、尤も内容から云えば発展の著しいものがある明治六年ごろの三千六百人の三分の二は所謂帝国海外発展の急先鋒であった娘子軍とそれに附随した連中で占めていたが、現在ではそれぞれ真面目な商業なり農業に精進している方であって娘子軍の団体は僅にスマトラの一隅に巣喰っている位である、
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福岡日日新聞 1917.8.3(大正6)
日露為替断絶
長崎市場の影響
[露国の為替禁止 (九)]

露国が留貨幣の流出を防ぎ国内の財政整理の為曩に外国為替禁止令発布以来在浦塩本邦銀行は勿論是まで同国と取引ありし銀行の被れる影響は甚大にして同国との為替関係は全然杜絶され従って取引も全く行うを得ず自然的無取引の状態に陥りたり長崎市は従来露国との関係深く個人又は銀行取引共相当の金額を有せし事なれど今は同国との直取引は皆無にて僅に例の娘子軍が便船毎に若干宛送金し来る位なりしが是れ又右の禁止令の為一時は浦塩(ウラジオストク)より哈爾賓(ハルピン)へ廻送し更に当市取引銀行へ送付したる事なれど哈爾賓も露国の勢力圏内にある事とて最早其方法を執る能わず全く本邦との金融は杜絶の有様なれば十八銀行及横浜正金長崎支店の如き既に為替関係を休止し居れり
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大阪朝日新聞 1915.5.4(大正4)
南洋と行商
在新嘉坡 柳田生

如上の始末なので少し資本のある者は七十乃至百円の薬を仕入れて近くは半島スマトラ遠くはボルネ、オセレベス方面に島から島へ村から村へ部落から部落へとさすらうのであるそうして四箇月か半歳か廻り廻って幾多の困苦を経た後五六十円の貯金が出来れば上々吉々少しいきそこなって病気になったり売行が悪かったりすれば所持品を売払って命からがら新嘉坡に逃げ帰って来る者もあるそして其間の困難が一通りでない重い荷を担いで暑い道をてくてくと歩くは勿論夜は汚い土人家屋に丸木を並べた床の上に腰や背骨の痛いのを我慢して南京虫と蚊軍の絶間なき猛襲を受けながら冷たい否暑苦しい夢をむすばねばならぬ時によると日暮れて道を失い曠茫たる荒野に凄い程冴え渡る月影を踏んで猛獣怪鳥の叫びを聞きながら部落を探し廻ると云う嘘の様な事実もある無論一寸した村には必ず同胞娘子軍の居城があって三四年前迄は懐しい日本人と云うので到る処歓待してくれ数日の苦闘を慰するに十分であったそうだが何が扨無教育無頼の徒の事とて直に娘さんを騙し込んでドロンを極め恩を仇で返す事が度重なるので近頃は薬屋と言えば鼻もひっかけぬ女将が多いとの事だ
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台湾日日新報(新聞) 1928.8.7-1928.8.21(昭和3)
最近の南洋事情
華南銀行副総理 有田勉三郎氏談

日本の海外発展の道程は皆様良く御承知の通りであって、甚だ憚り多い事でありますが、所謂娘子軍が常に先駆を為してこれに続いて売薬其他の行商人が行き其跡から雑貨商が日本商品の販路開拓に任じ、最後に一流大手筋の会社商店が店舗を開設する順序となっている、
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神戸新聞 1934.8.14-1934.8.19(昭和9) “日本海時代”の花形 (1・3)
本社延吉特派員 村瀬要治郎

(1) 東満洲の国際都市『図們』の発展 一躍世界注視の交通要衝に
(3) 酷寒零下の唄は当らぬ 内地よりも凌ぎよい図們
以上のうち三万余市民の一日の汗と油の労働に桃色の慰安を提供する花柳界及びカフェー界の娘子軍の内訳は女給が内地人一七一名、鮮人八一名、芸妓内地人四九名、鮮人八名、娼妓内地人二四名、鮮人七〇名、満人四七名合計四五〇名の日、鮮、満の娘達が鎬を削って物凄い嫖客の争奪戦を繰りひろげている
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台湾日日新報(新聞) 1935.10.22-1935.10.24(昭和10)
タワオに殖産組合設立
北ボルネオ邦人が団結
同組合理事 田中伊平

此処に日本人が発展したそもそもの元は、矢張娘子軍にありますが、今から二十年程前に、久原の護謨園(今の日産)と三菱の椰子園が時を同しうして創設されてから、本格的な発展の道程に入ったものと思われます、
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大阪毎日新聞 1933.10.18(昭和8)
三十余年ぶり大阪に来てモダン女浦島は驚く
担う誉れは、サラワク王国の蔵相夫人パネル仲子さん歌舞伎座へ

仲子さんの白百合のような姿は南島の椰子の葉かげに娘子軍のみを見なれた英国人たちにどんなに美しく映ったことか!!俄然、当時サラワク汽船会社支配人だったエドワード・パネル氏から求婚されて正式に結婚、いまはすでにドリイ(一七)というお嬢さんとチャーレス(一五)という息子をもち、この二児は王様のお気に入って寵愛をうけ南海の王国に親日の雰囲気をつくりだしつつ新らしき躍進日本の新精神を南十字星座の下の王国に生かしている
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時事新報 1913.7.4(大正2)
南洋地方の遺利
農業は労少くして利多し
錫椰子等確実の事業あり
(森林商店大嶋支配人談)

南洋ポルチオ島サラワク州は英領に非ず純然たる独立国にして・・・日本人の現に移住せる者約五十名を算し其半数は所謂娘子軍なれども
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満州日報 1934.12.23(昭和9)
新興大黒河は伸び旅舎の一夜に十円札が飛ぶ
交通地獄から救われる
黒河にて 豊村特派員稿

日本人が七百に垂んとするに驚異の眼を以て市街を一瞥すれば、何と御料理、カフェーなどの看板のオンパレートだ、ジャズが、嬌声が街路に洩れてくる、シベリア出兵当時も在留邦人四百の過半が娘子軍であったといわれ、今また眼のあたり此の情景を見るに及んで、その大胆にして健気な意気に敬服すると共に幾多の哀話と情史が描く醜い明暗双曲線に面をそむけたい。
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東京日日新聞 1913.8.6-1913.9.26(大正2)
樺太島 (一〜三十二)
旭東生

娘子軍は開拓の先駆となるので此方面は樺太も頗る盛んなようだがシカシ現住本邦人約三万五千の内約二万は男子で女は頗る不足して居るそうな、本邦人既に然り露人や其他の異人種では女子の不足に閉口して居るのでこれがために人種の滅亡を招くことになる。
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報知新聞 1936.10.28-1936.11.11(昭和11)
ダパオ踏査記(西原特派員)

当時ダバオには日本の娘子軍が九十名からも居て、一時間のショート・タイムの歓栄が六ペソから七ペソという一日の労賃よりも遥かに高価で‐しかもこれが朝から夜にかけて押すな押すなの盛況であったそうな・・・かくの如く渡航者の考え方が大いに違って来た、従って目下栽培者のふところは皆ホクホクものではあるがその割合に金を使わないので町の景気は出ない、それに渡航者としても外務省の方針として娘子軍の進出は体面上面白くないという理由から全部送還し、目下ダバオでは全然その影をひそめてしまった事も町の景気を少からず殺いでいるようだ、
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報知新聞 1933.8.10-1933.8.19(昭和8)
日満の新動脈を廻って (A〜I)

鮮満行旅客激増鮮海丸は三二〇〇トンの貨客船、定員一等十二名、二等二十七名、三等二百二名に対して船客は私を加えて五十一名、ついでに職業別に見ると無職十四、学生八、商人八、料理業六、建築業六などさすがに東北、北海道の人が多い、今年の一月から七月までの新潟経由による満鮮向旅客は四百三十二名、昨年にくらべてザッと七倍、満鮮の新興気分がうかがわれる、婦人客も多い、以前は芸妓、酌婦などの娘子軍に限られたが、昨今は家族の呼び寄せが多くなったそうだ、
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大阪毎日新聞 1912.7.21-1912.8.19(明治45)
京元線の踏査 (一〜十三) 皐天生

三防は元山を距る十五里渓谷の僻地なるが此附近工事の根拠地として既に工事関係者入込みつつあれば請負者労働者目的の商人娘子軍等早や入り来りて約五十人の内地人あり朝鮮家屋は悉く機敏なる内地人の買収する所となり不廉なる家賃を貪り憲兵出張所長の奥村某其の発頭人なりと元山の内地人中貸家の建築に着手せるものあり此地より漸く元山の勢力範囲となる
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台湾日日新報(新聞) 1926.7.20-1926.7.24(大正15)
日本と東印度との関係由来と現状 (一〜五)

(二) 日清日露戦役後国威発揚貿易大に進展 南洋倉庫専務 半田治三郎氏談
然し多少ながらも日本と東印度の貿易は続けられ明治二十九年の日清戦争後日本の強国である事が世界的に認められ明治三十年九月に新たに和蘭と結ばれた通商航海条約によって邦人は欧洲人と同一な待遇を受ける事になったその以前は支那人やアラビヤ人と同様の取扱を受けていた我練習艦隊の東印度に寄港したのも同年であってそれ以来我貿易の統計表にも東印度欄が設けられたが貿易は勿論微々たるものであった当時在留邦人の大部分は例の娘子軍と之に相手する小売商人で直接貿易なる者は皆無であった
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中外商業新報 1922.5.15(大正11)
満州の例に倣う南洋領事会議
(外務省通商局発表)

第二、在南洋邦人保護取締に関する問題で教育施設、病院施設、日本人会、醜業婦問題其他本邦人取締に関する諸問題の研究
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中外商業新報 1923.6.24-1923.6.28(大正12)
予をして率直に露国の立場を語らしめよ (一〜五)
アドルフ・ヨッフェ

日本守備隊休戦条約を無視す
(ハ)尼港駐在日本守備隊よりも遥に優勢なりしパルチザンは、市街を占領したる為め日本守備隊は尼港要塞に隠れざるを得ざりき、パルチザン再三再四軍使を遣わし、日本軍と談判を遂げんとしたるに日本軍は此の軍使を殺害したり 去れど遂に「バルチザン」と日本守備隊との交渉成るに至り、休戦協約書を作り之が交換を行えり、該協約書に由りて日本守備隊は、其閉ぢ籠りし要塞より出づるの権利を得たり休戦条約を結びし後パルチザン等は其不規律の為か、或は余り日本軍に信用を置き過ぎたる為か、更に自ら警備する所無かりき。此機に乗じ要塞を出でたる日本守備隊は休戦条約を無視し、パルチザン襲撃を開始せり、此襲撃には尼港(ニコラエフスク)に在りし非戦闘員等も加わり窓口よりパルチザンを射撃したり(醜業婦の如きも之に加わりたりと云う)惨憺たる激戦の後パルチザンは勝利を得た、彼等は憤慨の余り尼港の日本部落を侵撃し、家屋を掠奪し、日本民を虐殺せり
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大阪毎日新聞 1924.9.27(大正13) 日
露交渉は至難な状態に在る
東京の訓電の早きを望むとカラハン氏嘆じて語る

浦塩(ウラジオストク)居留民
日露交渉の解決を切望 日本軍撤退後に於ける浦塩在留邦人は絶えず移動して居るため的確な調査が出来ず果して何人在住して居るか不明であったが二十六日朝敦賀入港の嘉義丸で帰来した船客の談によると今度日本居留民会が調査した九月一日現在の浦塩在留邦人は戸数二百十八戸、男三百九十二名、女二百六十五名、合計六百五十七人で職業別にすれば商人が一番多く四十九人、之に次ぎ漁業者九人、各種職人九人、会社銀行員及び通訳各七人でその他は大同小異で職業は理髪、製靴、時計、洗濯、完公吏、運送業、料理業、新聞通信員、裁縫師等で特殊のものでは医師二名、歯科医一名、僧侶一名である、又在住の女は殆ど家族であるがその中に看護婦三人、産婆一人の外芸妓三人、遊芸師匠二人、仲居十人と更に以前のようなことはないが世界の何処にでも跋扈して居る醜業婦が三十人程居ることは注目すべきことである、次に在留民が非常に遺憾に思って居るのは無職者が二十二人程あることで更に行方不明者が男七人、女七人計十四人と在監者が二人あることである、
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大阪毎日新聞 1919.2.22-1919.2.28(大正8)
講和問題 (一〜六) 及び国際連盟問題
法学博士 千賀鶴太郎

是は北米合衆国を始め濠洲及び加奈陀に直接関係を有する事であって、従来彼等が東洋人種に対して行いつつある行動は断じて之を改めしめねばならぬ、彼等は弁じて曰く日本人は衣食住の点に於て我等と相違の点が多い、故に平等の待遇を与うることは出来ぬと、又曰く日本人は労働組合に加入せず又醜業婦を輸入し来ること多しと、其他種々の口実を設けて現に邦人排斥に努むるのであるが而も此等は全然遁辞に過ぎないのである、何となれば斯る事柄は彼地の法律上の規定により警察の力を以て十分に強制し得る性質のものであって、日本人を排斥する正当の理由とはなり得ないからである、
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時事新報 1915.6.19-1915.7.27(大正4)
日本対支那 (一〜二十九)
安岡生

醜業婦
殊に支那人の我を軽蔑する原因として指摘すべきものは例の醜業婦なり固より倚門売笑は何れの国にも之あり若しも之を理由として其国民を軽蔑するとせば世界を通じて軽蔑す可からざるの国民あるなし否な最も多く醜業婦を出すの国は却て世界第一流の文明国を以て自ら任ずる欧洲諸国なりとすれば我国より他国に出稼する醜業婦多しとて我国民は深く之を苦痛とするを要せざる可し然れども眼界狭き支那人は其西洋より来れる者割合に少くして我国より来れる者余りに多きを視て其多寡の差を生じたる原因が一は距離の遠近、往来の難易に存し、一は西洋の醜業婦が日本醜業婦と競争し難き事情に存するを知らずして直に日本を目するに醜業婦の特産国を以てし日本人は貧乏なるに加えて淫猥無恥なる国民為りと誤想するものの如し而して支那に於ける西洋醜業婦は我国に於けると同じく身の程をも顧みずして高く自ら標置し主として西洋人を嫖客と為し容易く支那人を迎えざるに反し日本醜業婦の多くは千客万来、相手を択ばざるのみか(芸妓は例外なり)土地によりては日本人の為めに唾棄せられて支那人のみを嫖客とする者なきに非ず此輩は醜業婦中の最劣等なるものにして其醜状惨状観るに忍びざるものあり之を理由としての支那人の悪評に対しては我国人も恐らくば弁解の辞なかるべし
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大阪毎日新聞 1916.7.18-1916.7.19(大正5)
第二松花江まで (上・下)
[日露協約の締結 其三十三]
陶頼昭にて 鬼仏堂

沿線中嘱目せられて居るは窰門にて支那人の間には張家湾として知られて居る停車場の附近を窰門と名付けて、それより軌条を隔てて数町、張家湾の部落あり逸早くこの地に着眼せしは支那人にして、既に基礎も出来て居る、露国側最近の調査によれば支那人一千十二名、露人三百四十五名にして、営業数の如きも昨年は七十五と称せられしを、本年に至っては一躍百二十九の多きに至った位で、目下彼等支那人等は東清鉄道に向け附属地内の土地租借を請願しつつあるもの二百二十一件に達して王某の如き一個人の名義にて穀物、塩、石炭等の集散場及び汕房建設の名目にて土地の貸下を願出でたる位にて、東清鉄道会社にても近々広大なる地区を設定して一般希望者に対し永久貸下げをなさんと計画中の由である支那人や露国人の発展に対しては、邦人の勢力は未だ論ずるに足らざるは申す迄もない汽車の中から見るとこの村の中程に日光に照されて見ゆるトタン屋根の数棟あり、之即ち日本人の集団である、七十歳に近き某翁がこの部落の邦人中の顔利であると聞いた、此処は二三年前から邦人の数が殖えて来たので、戸数は二十五戸その内の四戸が料理業で、二十名は例の醜業婦である
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大阪朝日新聞 1919.1.24-1919.2.2(大正8)
露人に交わる道 (一・二・[三〜十])
鈴木於莵平

(一)
西伯利は我隣境にして、其距るや僅に一衣帯水のみ、而も彼我貿易の振わざる実に慨嘆に堪えないのである。抑も西伯利(シベリア)に於る日露両国民の接触は端を明治十年頃に発し九州島原辺の漁夫労働者醜業婦連の移住に始まり、追々他職業者の渡航を誘致するに至りて浦潮市街漸く邦人の営業者を見るに至ったのである。
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大阪朝日新聞 1918.2.22-1918.2.24(大正7)
山東民政問題 (上・中・下)
上海特派員 美土路昌一

人種別の偉観
翻って今試みに大正六年八月一日守備軍調査の青島人口職業別を一見するに、日本人総計一万五千八百三人中不生産的なる家族(八、八四二)を除除きて、他の重なる人員を挙ぐれば、残り六千九百六十一人中、特種婦=芸妓、酌婦、仲居(七六七)、軍人将校(三二七)、文官(七八零)、官衙傭人(七三五)、労働者(七五四)、料理職(一〇七)、貿易仲買(二八八)、雑貨商(二四二)、古物商(一〇四)、請負業(一五四)等は其重なるものである。青島占領せられて既に約四歳、今や此●爾猫額に均しき七里四方の租借地は官吏と醜業婦とを以て半を充たしつつある。又偉観なりと云うべし。
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大阪朝日新聞 1919.12.9(大正8)
朝鮮動揺の誘因
斉藤総督談

斉藤朝鮮総督は過般来の朝鮮騒擾事件に関し所感並に統治方針に就き左の如く語れり(京城電報) 朝鮮騒擾の裏面に基督教宣教師の宣伝あることは明かなる事実で、その最も悪性なるは京城セプランス医学校のスコフィルドという男で、私は朝鮮に着任前東京で会った、水野総監も会って居るが極めて猛烈な意見を吐き、その思想は常に朝鮮人を扶けて日本政府に反抗せしめようと図り、私に対しても日本政府は、芸娼妓の如き醜業婦を以て朝鮮の植民政策として居るが、その実況は実に酸鼻の光景を呈して居る、その方面の救済はどうするなどと云い、
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神戸新聞 1912.10.22-1912.10.23(大正1)
比律賓の独立運動 (上・下)

台湾島が我が領有に帰してから、邦人のこの地に渡るもの非常に多く、此の為めに米国は日本移民制限法を設けた位であった。現今は二千人内外もあるが多くは、労働者或は醜業婦、資力ある事業家は極めて少数である。
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満州日日新聞 1917.6.29-1917.6.30(大正6)
新領土と布教 (上・下)
文学博士 村上専精氏談

醜業婦が先駆
惟うに植民事業の如きは之を外国の事例に徴するときは先ず宗教家の献身的活躍に俟つものが多いのであるが我邦の新領土に対する遣り方は此反対であって内地に於てさえ余り感心の出来ない人々殊に最も厭うべき処の醜業婦の如きが神聖なる国の発展の先駆を努めるに至っては到底此の事業の成績不良たるを免れないも道理である新領土の風儀を乱し道徳を破壊するが如きものが先ず移住して然る後徳育智育を司る教育家が之に追従するようでは真の同化ということは得て望むべからずであるという事を断言して憚らない
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神戸新聞 1919.10.16(大正8)
婦人労働問題
社会経済組織の改善

彼の海外に殆ど到らぬ隈なきまで分布せられつつ我国辱を忌憚なく曝露しつつある醜業婦問題の如きも婦人労働問題に□連を有するものというべし、海外に醜業婦の絶えざる所以のものは畢竟現今の社会制度及経済組織の欠陥が偶々此方面に曝露されたるに過ぎざるものと見るを得べし、最も天草島原女の如き、殆ど歴史的習慣的伝統的に海外出稼の醜業婦をなす土地もあれど、是とてその歴史的習慣的伝統的の因由に溯って研究すれば、天草の地が宗教的に早くより海外と交通し、外国人に接触するにおいて甚だき異常を感ぜざる結果、終に惰性を生ずるに至り、惰性の赴く所国辱的観念の刺戟を弱からしめたるに過ざる事を観取し得べく、畢竟生活の真実に発せるものというを得べし、如何となれば元来天草の地たる天然の資源頗る貧弱にして正義を得るに難く、自然女子の如き何等資本を要せずして生活をなし且金を儲け得る海外醜業婦を選ぶに至れるものというべく、その歴史的伝統的に弱められたる道徳観に依りて吾人が感ずるほど彼等は此醜業婦の選定を罪悪なりと思惟せざるに因る。
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神戸又新日報 1920.4.4-1920.4.21(大正9)
欧航記 (一〜十)
三月十日新嘉坡(シンガポール)着前日熱田丸にて 本多一太郎

小生前遊当時には邦人の当地に在留するもの約二千其多くは御承知の通り醜業婦及其嬪夫並に彼等に附随せる職業に従事するものにして真に正業に携わるものは十指を屈するに足らず唯僅に領事館及三井物産会社の支店ありしのみにて郵船会社も代理店をして事務を取扱わしめつつありし時代なり其後星霜を経る事茲に十年領事館は総領事館となり三井支店の外に郵船会社も亦支店に進み、大阪商船も山下汽船も三菱も鈴木も皆□うて支店を開設し我商権の発展に伴い金融機関の必要生ずるや正金銀行、台湾銀行亦支店を開き加うるにゴム栽培事業の隆霑として起りたるに見て我内地資本家にして此地に人を派し投資するもの激増し目下在留同胞五千に垂んとして其勢い真に旭日昇天の概有之候
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満州日日新聞 1918.1.1(大正7)
対支経済策と支那の現状
法学博士 田中穂積

海外に居る人は常に此心を以て本国と其国との疎隔を軟らげる様に心がけねばならぬ殊に支那に於ける日本人は最も此に注意すべき筈なるに一向其事なく多くは戦勝者の戦敗者に対する態度を革めず然も海外にある日本人の多くは醜業婦ならざれば無頼の徒にして其品性の下劣にして素行の修まらざる支那人の顰蹙する所である、
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大阪毎日新聞 1920.1.3-1920.1.8(大正9) 予算問答 

高木氏
外務省は在外日本国民に対して如何なる程度まで調査し居れるや呂運亨問題も此事実調査によりて邦人たるか否か決定せらるるなり又新嘉坡(シンガポール)に於ける醜業婦二千人を帰還せしめたる理由如何
埴原次官
在外人の調査に関しては領事裁判権を有する土地に於ては之を調査せるも其他の土地においては別に調査機関を設けず又醜業婦送還に就ては田中通商局長説明すべし 田中通商局長
醜業婦全部を送還したるにあらず又原因は同市当局の要求並に在留邦人の意嚮本人の意思などによるものにして圧迫して帰還せしめたるものにあらず 高木氏
醜業婦送還の主唱者は山崎領事なりというが一官吏の意思によって軽々に帰国を命ずるは実に軽率の行為たり次に商務官の設置に関し登用人物の種類及び資格試験如何何故之を外務省所管とし農商務所管とせざりしや
田中局長
商務官登用は従来官吏登用の例外として専ら人材採用の意思あり又外務省管轄としたるも腕を揮うに差支を生ぜしむるが如き事万なからしむる事を期す
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福岡日日新聞 1918.3.3(大正7)
新嘉坡(シンガポール)と邦人

蘭船オヒール号にて新嘉坡より長崎に上陸し二月二十八日神戸に向える青木二郎氏の談に曰く 新嘉坡に於ける邦人の発展は目覚しきものあり一時醜業婦の貯金を以て□を造り各種事業の資金に融通し居たるものが最近にては三井三菱久原鈴木正金台銀の各大商店櫛比して活発なる営業を試み近く大阪商船は南洋南米航路を開き山下汽船も又た南洋に飛躍する由にて其の発展も確かに外人の目を惹くに足る
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国民新聞 1912.7.12-1912.7.14(明治45)
太平洋岸に於ける日本人 (一〜三)
(意外の発展也)
六月二十八日 志賀重昂 (一)

謹啓小生義過般来カリフォルニアを巡遊致居候処、同地方に於る日本人の発展否実力は実以て意外千万と申すの外なく、意外、意外、唯「意外」の二字の外に形容すべき好辞無之候 小生は淡白に申上候、当初はカリフォルニア所在の日本人を極めて安買い致居り例に依りて例の如く官庁側(総領事館)と在留民とは喧嘩致居るなるべく、各種の邦字新聞は相互に喧嘩致居るなるべく、日本醜業婦は到る処跋扈致居るなるべく賭博は公開同様なるべく、邦諺の「旅の恥は掻き捨て」は遺憾なく発揮致居ることなるべし抔予想致し、此予想を以て上陸し此予想を以て巡遊致候、然るに官庁側と在流民とは相親睦して公私共に打解け居り偶々総領事庁員の管内を巡回する際には期せずして歓迎会を催し、邦字新聞は邦人の休戚に関する問題に会えば協議に協議を尽し一斉に筆鋒を揃えて紙上に意見を発表する所などは往年に於ける東京の新聞同盟の当時を回想せしめ、日本醜業婦は日本人会と邦字新聞紙との制裁に依りて桑港(サンフランシスコ)に於てすら三軒までに減じ(邦字新聞紙の醜業婦征伐を初めし頃は三十六軒あり)、ロースアンジェルス市(地位及び長足の繁栄に於てカリフォルニアの福岡市)日本人会にては邦人が醜業婦将た賭博業者を発見する毎に米国官憲に警告し、此程も十名の賭博業者あることを警告し依て以て米国官憲は件の十名を市外に放逐し、両来米国官憲の日本人会を視ること重く、日本人は自から風紀を廓清するものなりとて大に信頼を加えたる抔、何れも小生当初の予想と全然反対致居候

・・・フレスノはカリフォルニアの中部に位する市街にて、北の桑港、南のロースアンジェルス市と共に日本人会には各々日本人風紀の廓清に鋭意せし結果、賭博業者将た醜業婦には此のフレスノに投じ来り、フレスノは頃年来日本人風紀の紊乱せること北米太平洋岸第一と称えられ候処、基督教牧師北沢なる人フレスノに来住し同胞の風紀廓清を以て自ら任じ、其の多年の努力に依り賭博業者将た醜業婦を大半駆逐し、日本及び米国官憲共に喜こび居り候処、賭博場に出入し将た醜業婦を妻とせる面々等は北沢に反抗し、復讎の機会を待ち居れる折柄
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京都日出新聞 1915.2.11-1915.2.12(大正4)
海外邦人の分布 (上・下)

芸酌婦即わち所謂醜業婦なるものの世界各地に散在せるものを集むる時は此れ亦八千三人に達せる有様なるが此れが分布如何を見るに関東州の千二百八十一人新嘉坡(シンガポール)の千三百四人其重なるものなり
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時事新報 1915.12.14-1915.12.22(大正4)
大博後の排日如何 (一〜[七])
十一月十九日桑港発 河上清

(一)
博覧会の結果如何
長かりし博覧会の会期も剰ます処僅に二週日とはなりぬ日米親善、排日緩和を第一の目的としたる日本の参同は果して予期の効果を収めたるや否や前触れの大袈裟なりし日本庭園も「来て見れば左ほどでも無し富士の山」の感なき能はず同じく予告の大なりし「ジャパン、ビウテフル」の日本町も「ヂャパン、セームフル」と悪口さるるほど醜悪なるは猶お忍ぶべしとして之が経営の責任ある協賛会社の財政困難にして大博閉会の頃には大破綻を来すべきの虞あり其他日本有数の工業家と称する出品者の中には種々の奸策を弄して脱税を企てたる無恥漢あり移民局に書を送りて都踊一行は多く醜業婦なる事を密告したるものあり其田種々の方面に於て日本人の醜態を現わしたるは吾人の深く遺憾とする処なり
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日本新聞 1913.4.19-1913.5.6(大正2) 加州の日本人 (一〜十二)

(十一) 布市、亜市に於ける発展
葡萄の産地
フレスノ市(布市)は茫漠として海の如きサンオーキン平野の中心、桑港とロスアンゼルスとの中間に当る処で今より八十年前既に其発達の端緒を開いたが十二三年前までは人口尚一万余に過ぎなかった然るに附近一帯の葡萄園の発達すると共に近時急速なる発達を遂げて今や人口三万五千を有するに至り葡萄酒、干葡萄、ブランデー等の製造が非常に盛になった

風紀の紊乱
目下日本人の市内に定住する者は凡そ五百あって尚市の附近に散在する者が略ぼ二千内外あるが毎年葡萄採集の期節になれば数千の日本人が各地から集まって来るから日本人社会の発展も亦大に見る可きものがある併し此地の日本人界に於ては支那賭博が盛に行われて醜業婦の数も亦夥しく物価の高い事は他に比類なく人心の不統一にして風紀の紊乱せる事は各地在留の日本人社会中第一と目せられる
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大阪毎日新聞 1913.6.26-1913.6.27(大正2)
赤道直下の日本村 ([正]・続)
(淀に便乗して)
五月七日ドボー島にて 黒時雨

[(正)]
五月四日モロッコ群島南部の首府アンボンを発しバンダ海を東航すること四百余浬、六日新ギニヤの西南なるアロー群島中のドボーに着く、ドボーは掌大の土地で人口は附近の島嶼を合せて二三千、中で日本人は五百名内外を数え皆ドボーの碇泊地に集まって居る、陸に上りて散策するに邦人軒を列ね雑貨商二戸、醜業者七八戸、飲食店、下宿屋、玉突屋等四十戸位もあり、軍艦淀の入港するや衆狂喜して各軒頭に日章旗を翻し旁午して歓迎に斡旋する程、宛として小日本村の観を呈して居る 本島は元と僻遠の無人郷に過ぎざりしもの、今を去る二十年前西濠洲ブルーム在住の英人クラーク此附近に真珠採取業を創めんため十二隻のダイバー、ボートを携えて渡来したのが開発の嚆矢で、当時クラークに随伴して十四五名の邦人潜水夫が来島した是れ邦人の魁である濠洲就中木曜島に潜水夫たりし邦人は此島の有望なるを伝聞し相率いて渡来するに至り日露戦役の前後より其数を増加し明治三十八年三月には同胞共済の目的を以て同仁会なる邦人共同の団体(当時の在住者二十余名)を設け四十一年一月之を日本人倶楽部と改称し部費として階級男女によりて年額六盾乃至二盾を徴し以て同胞の親和と共済の費に充つることとし、既に一建物を新設して居る、部費の年収千四五百盾、基本金も五六百盾は出来し居り、建設費には約二千五百盾を投じて居る 斯くて今日では約五百の日本人が此一小島に住し其中約四百名は潜水夫であって、此島附近に於て真珠貝採取の特許権を有せるセレベス貿易会社に雇われ採取業に従事し、他の百名は之れにより衣食せる商人乃至醜業者である、夫婦者二十余組、小児十四五名既に学齢に達せる児童数名あり、蘭領印度諸島に於て邦人の最も多く且つ日本村の形を成して居る場所と云えば先ず此地を指さねばならぬ・・・

(続)
彼等の多くは和歌山県人にして斯業に従事する既に二十余年に及ぶものあり、仕事が仕事丈けに人気も荒く酒を被りて殺傷することも少からず、昨春も致死事件あり爾来官憲より一切酒類の売買を禁ぜられたと聞く、現在潜水夫は皆海上に遊弋し陸上に在るもの、其家族及商人を合せて百名に過ぎざるも、五月二十日を過ぐれば彼等は悉く此地に引挙げ贏ち得たる黄金を一擲するので、此を吸収せん為め南洋各地に散在する娘子軍は続々此季節を目懸けて蝟集する、現に三十名許りの醜業婦が集まって居る、前年迄は七八十名も来集せしが禁酒令の下りしと貸倒れ多きを恐れてか来集者漸次減少すとの事である余は不幸にして期に先だちて此地に至り潜水夫陸上生活の状況を目撃することが出来ないが、之を在留者に質し彼等の放浪生活を想像して同情に堪えない、
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帝国新聞 1912.8.14(大正1)
渡米日本人職業

一昨年度に於ける日本人の渡米者は二千百九十八人帰国せる者五千二十四人布哇に渡航せし者千五百二十七人帰国したる者二千三百五十五人にして昨年度は渡米者四千二百八十二人帰国者五千八百六十九人布哇渡航者二千五百五十九人帰国者二千四百六十四人なるが其渡航地に於て就きたる職業は俳優二十七、僧侶二十一、官吏二十八、教師二十四、事務員百九農業家九十五、商人二百九十一、料理店及ホテル主六十八、無職婦人二千四百、理髪人二十二、大工十九、裁縫師十三、労働者二百八人を始めしと其の他なるが右の内四十三年度の渡米非労働者は千八百九十三人にして帰国者二千八百十七人渡布者二百三十五人にして帰国者八百十人而して同年度に於ける労働者は渡米者七百五人帰国者二千二百七人、渡布者千二百九十二人、帰国者千五百四十五人昨四十四年度に於ける非労働者は渡米者三千五百五十人、帰国者二千九百三十八人、渡布者四百十九人、帰国者八百七十五人、労働者は渡米せし七百三十二人、帰還せし者二千九百三十一人、布哇に渡航せし者千七百四十人、帰還せし者千五百八十九人なり尚手職婦人中には醜業婦其大部分を占め居るものと見るべし
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神戸又新日報 1913.4.7-1913.4.11(大正2)
米国の日本人迫害 (一〜五)
[社説]

蓋し米国官憲が近時写真結婚は醜業婦を入国せしむるの弊ありとして之が結婚婦人の上陸に峻酷なる干渉然り殆ど禁止的に近き取締を実施するに至りたるは前記理由に基くものにして又日本人を米国より放逐せんとする政策に外ならず人道に反することの甚だしき此取締法の如きは稀なり
思うに所謂写真結婚に託して醜業婦を輸入する狡猾徒輩のいるは事実にして現に一旦上陸したる後ち事実の発覚して日本に送還されたるものも絶無と謂うを得ず此点に関しては吾輩も甚だ遺憾とする所なり然れども是等不正渡米婦は百中の二三に過ぎず斯る例外の事実を楯として一般結婚婦の入国をも遮ぎらんとするは不理不法の極と謂うべし
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国民新聞 1913.6.1(大正2)
比島に於ける日本人労働者
木尾散人

最近に調査に依れば最も多きは大工にして九百八十三名なり然れども其の多数は一夜大工にして比島にては鋸と鑿を用うれば大工と称せらる故に大工の資格を備えたるは其の約二割に過ぎざるべし次は醜業婦にして六百人内百四十人はマニラに在住し他は多く兵営の置かれたる地方に散在す次は農業労働者にして四百人を数う(次は漁夫にして二百七十二人其の過半数はマニラに在住しマニラの鮮魚は多く日本人の手に依りて供給せらる)此の外雑貨商店員ボーイガラス其他の職工写真師理髪師裁縫師按摩植木職等あり
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神戸又新日報 1916.3.27(大正5)
写真結婚問題
桑港 鷹城生

其後の趨勢
昨年日本より桑港(サンフランシスコ)に到着せる邦人は総数五千四百四十七人にして内 男 三、二〇〇人 女 二、二四七人 となり此の二千人の女子中写真結婚者実に八百二十三人なりしは果して利か弊が一考すべきものあり而して此五千有余人中二十七人は上陸を許可せられざりしものにして其理由は・・・

其排斥理由
さればバーネット氏の如き下院に対し写真結婚禁止といえる条項を移民法案中に加えんとし其理由とし斯の如く簡単に結ばれたる結婚式は直に離れ得るものとし又醜業婦の名を之に藉るものなりと解するに至れるも強に無理ならざるべし
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万朝報 1919.6.7(大正8)
床屋洗濯屋の日本人

海外に於ける邦人中には今日迄商人として成功を収めた者が甚だ少い、従米の貿易は多く外人の手に依りて取扱われ、其後邦人自ら直取引を為すに至りても、海外に大なる商店を有する者は極めて稀であった、三井、大倉等の出張店は海外の主なる都市に必ず設置せられて在る、其他の商店と云えば唯日本品の雑貨商あるのみで、多数の日本人が在住する所には種々の商店もあるが、多くは同胞を顧客とするに過ぎぬ、普通に外人を顧客とする日本人の営業で、最も多く海外に存在して居るものは床屋及び洗濯屋である、米国の各地に於て然り、西比利(シベリア)に於ても同様である、床屋洗濯屋等は敢て賤むべき職業ではないのであるが、其以外の職業に従事する者が甚だ乏しい為に日本人といえば女は悉く醜業婦、男は悉く床屋或は洗濯屋である様に考えられて居る
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大阪朝日新聞 1920.2.11-1920.2.13(大正9)
排日を助長する所以 (上・中・下)
写真結婚禁止に就て 法学博士
末広重雄

然らば、排日派は何故に写真結婚婦人の入国に反対するか。排日派中の有力者の一人たる米国移民総監キヤミネチーが、理由として揚言する所に依れば、
(一)道徳上の理由
写真結婚は其の名の示す如く、写真を以て見合いをなすに止まり、双方相識り相思うのでなく、唯官憲に居出るだけで成立する婚姻であるから、米国国法の精神に反するものである。しかのみならず、写真結婚婦入中、渡米後或は夫と不和を主じ竟に破鏡折簪の悲劇を演じた揚句の果てが、醜業婦に堕落し、米国の淳風良俗を傷くること甚だしいものがある。
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大阪毎日新聞 1916.6.24-1916.6.27(大正5)
南洋に於ける日本品 (一〜三)
バタビヤにて 岩藤生

蘭領印度総体に於ける日本人の数は僅に二千五百に過ぎず而も其半数は醜業婦なるに於て日本商の如何に勢力微弱なるかを察するに足らん
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大阪新報 1918.4.1(大正7)
印度貿易

当地大沢商会の印度視察員の印度より帰来し最近の同地事情を語る所を聞くに左の如し・・・
尚現今に於て邦人の印度に在住する者は孟買(ムンバイ)に三百人、カルカッタに二百人約五百余人と聞きたるが之等の半数は醜業婦の類にて商業に従事する者は僅かに其十分の一に過ぎず
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東京朝日新聞 1915.4.13-1915.4.17(大正4)
欧洲戦乱と我貿易 (一〜五)

因に支那向として如何なる品目が歓迎せらるるやとは従来当業者の等しく頭を悩ましたる問題なるが近来に至り色沢や友禅模様の如何よりも寧ろ強靭を喜ぶの風潮追々判然したれば此方面の発展亦必ずや期して待つべし只東洋、印度行きのものが土人相手にあらずして在留醜業婦目当という一事だけは聊か心細からざるにあらず
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京城日報 1919.4.27-1919.4.29(大正8)
東亜の同人種地帯 (一〜三・□)
東部西伯利朝鮮及満蒙日本各民族の同人種なるを提唱す
不合理なる朝鮮の民族自決運動
東京帝大講師 鳥居竜蔵氏談

最近は哈爾賓(ハルピン)のことも日本人に分って来たが戦前は殆んど知る人とては無かったのである。学者政治家より寧ろ醜業婦の方がよく知っていたようである、
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台湾日日新報(新聞) 1919.9.4-1919.9.6(大正8)
日蘭通商と日本船 (上・中・下)
バタビヤ三井支店長 菊地泰(寄)

蘭領印度在留邦人約二千人で、其内には旧来の娘子軍も含まれて居るのだが
、近年の渡航邦人は余程高等な階級に増加を見つつある事は何よりも嬉しい、我がバタビヤの日本人会なども、一昨年の春は会員八十名に過ぎなかったが現在は二百名に上り而も其内容が会社銀行商店員等の増加に基くものであるから、従来の醜業婦や南洋ゴロの増加とは全く意味か違うのである
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読売新聞 1913.8.11-1913.10.5(大正2)
南洋の大勢
錦城生

緬甸は仏教国なり、蘭貢に、「マンダレー」に、「タイミヨウ」に、到る所壮大なる仏寺あり、皆尖塔形を成し、称して「バゴク」と云う、塔中仏像の立つもの坐するものあれど、多くは●石、黄銅の涅槃像にして、又涅槃の掛物をも吊す、新嘉坡にて販売する蘭貢(ラングーン)の写真中にも、日本醜業婦十数名が、束髪にて珠数を爪繰り乍ら涅槃像に礼拝するの景あるを見る、・・・

(第六)英国政府は外国の国事犯者を保護す、是れ康有為孫逸仙等の新嘉坡に隠匿しし所以とす。(第七)英国政府は支那人の博奕を官許す、支那人は「ヂョホール」に二箇所の賭博場を有し、半島の支那人にて隠密に博奕を行うものなし、又政府は日本の貸座敷に厚し、貸座敷の主人たるは尽く女将にして、決して男子の営業を許さず、而して其の女将を好遇するや、女将を相手として警察或は裁判所に訴えれば、如何に道理のあればとて、必ず敗訴たらざるなし、然れども女将には良人情夫を有するを許さず、若し是あること露顕せんには、直に多額の罰金を科せられて、国外に放逐せらる、猶お英国の官憲は、日本の醜業婦にも親切にして、毎年幾回か召喚し、其の主婦の待遇如何を質し、若し自由廃業を希望すれば、何時にても釈放すべきを諭す。

・・・元来馬来(マライ)半島の日本人は、十中の六まで賤業の婦人にして、今日に於ても猶を千七八百人も存在すべく、其の新嘉坡に於る日本人の男子の数が、女子に超過するに至りしは、昨年以来のことにして、即ち正業者が賤業者に代るの徴候なるが如し、二十年前までの上海と十年前までの香港にても、日本人は大抵洋妾醜業婦の部類に属し、婦人の数の男子より多かりしもの、正業者の入て賤業者に代るに及び、其の比例は漸く顛倒し来り、今や上海の日本人一万人にて香港の日本人は一千人に達し、賤業者は真に参々として其の所在さえ不明なるに至れり、馬来半島の形勢も亦之に似るあらんとす、

・・・独り真正に日本移民を歓迎するもの、唯此の英領北「ボルネオ」あるのみ、北「ボルネオ」会社の倫敦本店は、日本人の農業には如何なる便宜をも借し、日本人の漁業には如何なる権利をも与うべきを決議し、従って「サンダカン」や「ジエセルトン」に渡来する日本人は、其の醜業に関係する男女たるに拘らず、待遇するに淑女紳士の礼を以てするに至る、・・・

「チモール」島と「ニュー、ギニア」島の間に「アロー」島あり 、其の「ドボ」港は真珠採取の本場として、日本人の採取夫千数百名に達す、為に日本の醜業婦も三四百名に至り、其の一人東京にて高等女学校を卒業ししもの、先年書を雑誌「文芸倶楽部」に寄せ、以て天涯万里なる浮川竹の苦辛を訴えしが、筆鋒活動却て楽観の紙上に現われしこと不審なりき。
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京都日出新聞 1916.11.16-1916.11.20(大正5)
蘭領爪哇事情 (一〜五)
京都大学教授市村光恵氏講演

千九百五年の統計に依れば爪哇(ジャワ)に於ける日本人は二千余人に過ぎざるも今は余程増加して居る、殊に例の醜業婦の追々減少して着実なる者の増加しつつあるは喜ぶべき現象なり
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大阪毎日新聞 1916.10.18-1916.12.31(大正5)
蘭領印度 (一〜二十一)
法学博士 市村光恵

(十七) スラカルタ
六時二十三分ジョクジャ駅を出て汽車は北方遥にメラビ噴火山の峻峰を望みながら東北に馳せる、此辺土壌最も肥沃沿道殆ど皆砂糖畠か煙草畠である、八時五十分汽車はソロ(スラカルタの別名)の停車場に着いた、此所も爪哇(ジャワ)の独立国の首都である、停車場から市街迄は少し隔たって居る、馬車に乗ってホテルスリーアに向う、途中看護服の如き白衣を着けた束髪の日本婦人が二人馬車に乗ってスレ違うた、後から聞けば蘭人の洋妾であるとの事だ、一体日本の婦人は羅紗牝としては西洋人の間に非常に評判がよい、善く働いて倹約で貞節であるとは余が屡々白人から聞いた讃辞である、中には日本人の商館に出て来て妾の周旋を頼む者がある相である、而して日本人を妾にして居る白人は大抵日本人贔屓である、スマトラのメダン当りには沢山此種の洋妾が居ると聞いた、日本人は自己の品性を衒うが為に往々醜業婦や洋妾を痛罵する者があるが彼等にも亦存在の理由がある余は寧ろ彼等に同情する
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京城日報 1923.2.13-1923.3.6(大正12)
南北満洲産業状態 (一〜十三)
渡辺農務課長視察談

亦最近出来た産業公司の如きも冷蔵会社の手先となって白音太拉の奥地開魯、林西までも貿易に行って居るが非常な好成績で彼等蒙古人は大に日本人を歓迎して居る、それは何故かと云うに将来なれば先ず開拓地には売薬人が這入り続いて醜業婦が行くと云う状態であったが此の地は前記の如く貿易の為めに行くのであり且其人々は立派な会社の人で相当に外国語学校を卒業したとか其他相当の学力を有する人々が出掛けるので非常に諒解が早いので自然彼等も崇拝すると云った傾向があるため遂に今日の如く歓迎を受ける事となったものらしいのである
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台湾日日新報(新聞) 1916.3.16-1960.3.25(大正5)
浮田領事南洋談 (一〜五)
南洋協会講演

只今蘭領東印度に居ります日本人の総数は昨年六月頃の調べで約三千人ある、此日本人が何時頃から蘭領に来始めたかと云うと今を去ること二三十年前頃から漸く来始めた、それが一番始めでございましょう、其時分に来ましたのは重に醜業婦でございます、醜業婦が即ち日本人の先駆者と云っても誤りがないのであります、次ぎましては売薬行商等でございます、醜業婦、売薬行商と云うものが蘭領東印度に来た初めでありまして、それ等が段々発展致しまして斯く今の蘭領東印度方面に於ける日本人が段々と開らけかけて来たような訳で、現今爪哇に数軒の店がある、其他『スマトラ』方面にも数軒ある、是れ等の店の中には元と行商をして居た人だの又は醜業婦を輸入してやって居った先生等が居るのであります、醜業を廃して商売に移り、行商を止して店を持つ、彼等も醜業が元来の目的ではなくして向上進歩して今の雑貨商や何かになって来たのでありますから、之を従前に比しますれば一人の発展ではございますが、併し只今の南洋と云うものは最早醜業婦時代行商時代と云うものは既に去りまして是から着実なる商人及び其他栽培業者の如き者来りて事業を営むの必要を感ずる時代になって今までの人ばかりに専ら任せて置くことは出来ぬ時代になって居ります 現在蘭領東印度に居ります三千の在留民を島別で申しますと爪哇にちょっと八百人ばかり居ります、『スマトラ』に九百人、『ボルネオ』に三百人、『セレベス』に百二十五人、それから『アロ』と云う所に真珠貝の採取をやって居ります、即ちもぐりであります、其真珠を採取する業に就いて居る者が三百五十人、多い時で四百人ばかり居ります総てで三千人ばかりの人数が居りますが、『スマトラ』に居ります所の九百人と申しますと頭数では決して少くありませぬが、其九百人の中の四五百人と云うものは醜業婦醜業婦は今は少いのでありますが西洋人に附いて居ります所謂洋妾に属する者でありまして、此の部類に属するものは前述三千の中にも大分多数を占めて居ります、其他は売薬行商であるとか、或は洗濯屋も煎餅屋もあると云うような風で、蘭領東印度に居ります和蘭人の外の外国人中日本人が一番多いのでありますが、勢力に於ては何等今の処では認むべきものはないのであります、僅に『スラバヤ』に三井物産会社の出張所がありますとか昨年五月から台湾銀行の出張所が出来ましたと云うような所が大きな所で其他『スラバヤ』『スマラン』『バタビヤ』に二三の雑貨商『スマトラ』に於きましては『メダン』に渋谷商会『バダン』に東洋商会、或は大谷商店と云うようなもの、『マカザ』に稲垣商会とか、川原商会と云うものがありますが要するに只今の所では格別日本人の勢力として認むべき所はない、是から益々発展しなければならぬと云う場合になって居ります、又発展すべき見込も充分あるのであります、斯の如く日本人が蘭領東印度に来初めましたのは明治聖代に於きまして今を去る三十年前後が元でそれも醜業婦や行商に依って開らかれたと云う様な有様でありますが翻って日蘭両国の交通の上から見ますとつつと昔のことはいざ知らず三四百年前に於ける日本人は只今の如き意気地なき状態ではなかったのであります、此事に就きまして序ながら私が爪哇に参って居ります中に僅な書類の中で知り得た所をちょっと御話したいと思います 

神戸又新日報 1913.2.9-1913.5.4(大正2)
爪哇 (一〜七八)
(熱帯の日本)
(燦爛たる黄金時代)
(思出多き旧都)
南洋生

爪哇の都会と港とを日本に対照して見ると、バタヴィアは東京、タンジョン、ブリオク港は横浜、スマラン港に名古屋、スラバヤ港は大阪と神戸を合せたもので、スラバヤは内地商業の中心たると共に亦外国貿易の中心と為って居る、従って人口も爪哇の都市の中では一番多くバタヴィアよりも繁華だ、併し純粋の商業港で首府でない所から都市の設備や町の体裁はバタヴィアには及ばない、商業地だけあって日本人も亦此港に一番多数居住して居る、三井物産の支店もある京都の稲垣合名会社の支店もある、是等が最も有力なもので其他十余軒もあるが主として雑貨店、売薬店、写真屋、理髪店等で爪哇(ジャワ)で曲りなりにも成功する商売は是等に限るのだ、此外に成功する職業は女郎屋だが娼妓の数は百人内外に達し正業の人間よりも醜業婦の方が却て多い、又此スラバヤは爪哇東部の砂糖の集散地と為って居るから台湾の糖業者の往来するものが多く現に予等と前後して台湾の砂糖会社の重役や技師が四五人も出入りして居た、日本の社外船の砂糖積取に来るのは主として此港で日本とは最も密接な関係を持って居る
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東京日日新聞 1915.6.25-1915.6.26(大正4)
満蒙経営論 (上・下)
法学博士 岡松参太郎氏談

又満鉄沿線にも開拓すべき事業あれども之亦振るわず満鉄会社及之に附随する経営を除いたならば醜業婦や雑貨商の徒の入込むに過ぎない
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大阪毎日新聞 1912.8.19-1912.10.3(大正1)
護謨山見物 (一〜十一)
馬来半嶋廻り
黒宋公

セランゴール会社を去りレンガム停車場にて林燈と分れ火車にて独りカランに向う、沿道護謨林蒼々の間を過ぎて薄暮カランに達し丘上のレスト、ハウスに入り、夜街頭を散歩し邦人写真店を過ぎりて邦人旅店川原に憩い主人と語る、主人は「在住十四年カランに於ける邦人の開祖なるも今に於て邦人商賈の来るものなく独り例の娘子軍の軒を連ねて醜骸を馬来(マライ)クロンボの群に曝すあり、之より此コーラ、セランゴール、南スイテンハム港、至る処に醜業婦の在住するあるのみ」と云えり


・・・午後一時イボーに下車し同胞八名に迎えられて金田旅館に入り原田(寅)氏所有の自動車にて郊外十七哩なるトロノ錫鉱会社を見る、・・・夕刻帰舎此地在留同胞三百名に近きも多くは例の娘子軍にして正業者は指を屈するに足らず、護謨の栽培をなせるもの市川、村谷、原田、山田等数名ありと
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東京日日新聞 1913.11.16-1913.11.21(大正2)
見た儘の南洋 (一〜五)
在馬来半島 藤田天民

若し英華交戦して支那人全部引揚とでも出掛けたら(万々なけれど)新嘉坡首め半島の繁昌な諸港は、再び往時の寒村に化するだろう、土着の馬来人は無智な上に回教の信者で蓄財の念が少しもない、其日の衣食を給し得ば足るという者ども、人夫にさえ適せぬ種族、何の事業も経営する能力を有せぬ、日本人はドウかと顧みると、例の醜業婦が先駆となって数十年来在留者追々増殖したけれども、能く運命を開拓した者が果して幾人あるか、

(四) 名物の醜業婦(上)
高い処では喜摩拉椰(ヒマラヤ)の山腹、広い処で西比利(シベリア)の原野、日本醜業婦が到らぬ地はない、けれどもジヤパニース、ムスメの名が世界に轟き、新刊英語字典の中に載せらるるまでに至ったのは、欧亜の通路、世界の公道たる南洋諸港に陣取って黒白の人種、万国の族客を相手に公々然醜業を営むからであろう、彼女等は和漢洋折衷、那処にも類のない一種異様の服装(猿芝居のお姫さま)をなし、筆太に番号を記した楼下に椅子を列べ、英語馬来語打交ぜて行人を呼ぶさま奇異とも醜怪とも形容する□がない、私娼密売なら左ほど目立つまいけれど是はレジスタードと云い、ライセンストと云い、官許の公娼、しかも最も繁華な街□に開業しているのだから堪まらない、一夜五弗ショート、タイムニ弗という相場、支那人が常得意、白皙人にも商えば印度馬来人にも売る、原産地は九州方面、長崎天草が本場、バッテンでなければ幅がきかぬ、近年密航取締□行とあって、補充途絶え、老婆ばかりかと思の外、いずれも妙齢の女子、十五六歳と見ゆる者も少くないとの事、是はチョット不思議なようで不思議にあらずだ、香港行新嘉坡行と云えば、旅行券も必要、其筋の注目も厳しいが、支那行と称すれば、余り六ケしくない、(上海にも漢□にも日本茶館閉鎖以来醜業婦なし)であるから堂々と上海行の切符を買い郵船会社の欧洲行メールに乗込み揚子江の下流か□淞あたりで我敵は本能寺と出掛け、船賃を継続せば那処へでも自由である、現に先頃の郵船にも七八名の女客は確にソレと見えたが果して新嘉坡に着くと忽ち買手が現れ其中の二女一名六七百円に売買調談、四十ばかりの引率婆が十円札百余□帯に□んで帰□したと云う、□品はビーナン、コーラ、□ボー、其他の方面の紹介者に売渡されたであろう、□船諸港の水上署は□□がない、殊に門司警察なんと警部巡査七八名も剣□を緊握しながら、船内限なく捜査を行うが炭庫水槽さては暗□船底に隠れて密航するのは古手な方法、今では最も合法的手段を取り、警察官がノースの尖を掠て平然たるもの此種の密航婦、ではない公航婦も大抵皆欺かれて父母の国を去るので、羅漢相手の辛い勤め、サン泣いて暮すだろう、救済せではと義侠心を動かす日本人士も多いが、其内情に立入るとナンナン、島原五島あたりあらくれ漁夫の女子、年中ふるぼけた紺の筒袖と麦飯で成育した者ども、神経の敏鈍を較べたら、羊豚に勝るだけの程度、羞恥の念など微塵もなく、ドンナ艱難に遭うも無感覚、南洋へは何にしに来たかと問えば憚る所もなく「オンドは○○バ売りに来たダイ」と答えるだから身代金はスッカリ輸出商が着服し、己は六七百円の借金を背負わされても平気な顔、翌日から紅粉を抹し華麗な衣服をきて稼高は叩き分け相応に贅沢も出来る、郷里の姉妹友だちに比すれば、生計の程度、雲泥の相違、彼女等に取って最も得意な境遇、辛い処が有難くて堪まらない、救世軍の救済など入らざるお世話、却て迫害と認られるだろう、流石に英国統治の下にある植民地、自由□業は勝手次第、一たぴ警察署に出で其旨を届けると幾分の借金があっても即時許可され、次の便船で日本へ送還される、駈落も十分な便宜があ□、船の出帆間際に乗込んで仕舞えば、蘭領諸島は勿論香港でも非律賓でも思うままに行かれるであるから寝巻と借金とを楼主へ置土産としてサヨナラを喰わす者も全くないではない、が是は至って少い、到る処開業は出来る、前借も出来る、戸籍だ父母の承諾だ、就業の事由だ、身元の調査だとかいうような面倒もなく、頂天立地、頗る自由であるけれども、彼女等は存外正直で楼主に迷惑をかけるに忍びずという処から、海外漂浪の無頼漢に勧誘されても容易に応じない相な

(五) 名物の醜業婦(下)
また日本ムスメが軒を連ぬる西洋支那の同業者と競争して優勝の地位に立つのは一の特色があるからである、洋娼は概ね皆欧亜の港々を押廻した下等のスレツカラシ、其手腕極て辛辣網にかかった客があれば、法外高価な酒を強ゆる果は懐中に手を差込んで有るだけの貨幣を取上げるポケットを空虚にするまではイツカナ放免せぬ、戸外には骨格の逞しい印度人が請願巡査然と立番して、グズグズいう客は腕力で突き出すポリスに訴えても笑って取合わぬ、支那娼婦は柔和な代りに枕捜しを遣る癖がある、左なくとも信用は置けぬ、日本ムスメは独り此点だけ安心だ、如何に酔払って前後不覚な客でも、よく介抱して携帯品はチャンと保管する、三十弗五十弗入れた財布を投出したまま眠っても、十仙一個も紛失しない、盗む意がないのか、夫れとも盗む術を知らぬのか、おあづけの菓子はカメも喰わぬと一般、習慣性をなしたものであろう、是は日本ムスメの専売として、ドランカードの珍重する所だと聞く、此等幾千のムスメにも自ら現役の年限があって、満期が来ると新陳代謝する、其予備後備は何となるか、ウント貯金して故郷に錦を飾る者は千百の一、十中八九は多少親元へ送金するのが関の山、追々贅沢に慣れ、柄にない三十円五十円の□珍を腰に纏う、何年稼いでも金は残らぬ、其中容貌の人並なのは在留邦人の妻となるラシヤメンは上等の部、多数は支那人馬来人に連添いチャンチャンや褐色児を産む、実に哀れなものである、蘭領諸島の僻□な村落にも日本ムスメは散在し、盛んに稼いでいるので、日本の行商は思わぬ便宜を得る、数年前までは田舎のムスメ或いは楼主(女主人)が邦人を恋しがり、行商を款待するのみか、情夫として養うなどの事実もあった、近頃は呉服化粧品を仕入れて醜業婦あてに行商する者が俄に増加し、競争の結果利益逓減し、今では収支償わぬまでに至ったと云うはなし、先頃瓜哇蘇答羅蘭領一帯の諸島では日本醜業婦の営業を禁止し、去八月末までに廃業せよとの厳命を下した、数千のムスメが職業を失って狼狽したのは勿論、今後日本の雑貨輸出に対する一大打撃であろうと観察する者もある、醜業禁止その動機が那返に在るかは知れぬが、多年免許して居たのを今遽に取消したのであるから、是□日本人排斥の一端を考察せなければならぬ、此事ばかりは体面上抗議もなるまい、常に国権伸張を呼号する論客も外務省当局に迫って、蘭政府の反省を要求せよとは主張しまい、けれども是は蘭政庁の方針を示すもの、何れの方面にも嫌忌と圧迫の意が顕露するのであるから、当局にも其積りで遣って貰わねばならぬ、□□が□らず□□に入った、営業を禁止められたムスメたちは今後ドウなるだろう、既に一部は瓜哇から引揚げて半島に来ったそうだが、新嘉坡でも彼□でも近頃此業メッキリ衰色を呈し、□んど供給が□要の外に溢れる状態であるから、迚も蘭領放逐の同業者を包容□る事はできない蘭領の□で□□□□□は田舎に居る者は其まま留まって私□に□□る事もあるらしい、又此を好機会として土人□□支那人の客筋に□□異種の新家庭を作る者もあろう、男子には職を失ってマゴツキ歩く者もあれど、何にせよ植民地のことで、□女□□を告げているから、苟くも目鼻さえ□全についてあれば、美醜老少どんなものでも□口はある、衣食には困らぬ、であるから今回蘭領官□□退□□れても、スゴスゴ帰国する者はなかろうという、□洋で□業の繁昌する処は濠洲寄りの諸島中にも真珠採取場である、木□島及び其附近の採□場には一年万金を海底から探採するダイヴア□が□を以て□える、乗組員はタッタ七八名、潜水夫の熟練な者は一年二千弗の収入は確なもの其多くは紀州辺の出稼人、命がけの仕事を遣っているのだから、取るだけヒツ使う、日本ムスメも其余沢を蒙って、一ヶ月の□高五六百弗に達する者は珍らしくない、其他の地方は大抵百弗から百五十弗見当、新嘉坡あたりでは一ヶ月百五十弗以上稼いだ者には楼主から懸賞を与える制度□□てているそうだ、全体の数は何人いるか知らぬ□れど、今五千人と仮定し、最低度の稼高一□千弗とすれば、合計五百万弗に上る、此金額がスッカリ内地へ送金されるなら祖国一大都府の市税を免除するに足るだけあるが、彼女等は前後の思慮なく浪費して仕舞い、父母の元へ送るのは十分の一もあるまい、縦令百万弗の貨幣が此途に依って流入するとしても国家経済の上には九牛の一□である、之が為めに帝国の品位に関することは浅からぬ、しかし密航の取締を厳にし、無理に海外醜業婦を撲滅した処で何にもならない、吉原が世界に轟いた日本名物の一である限り、南□諸島の出稼何かある、頑固な政治家、固□な学者が口に筆に世界無比の国体を叫び、徳義万国に□□□と□んでも、□□□□の日本□□の□□を目□し□は□□が□念ながら□□の念を起すまいと思われ□ 
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大阪毎日新聞 1916.7.25-1916.7.30(大正5)
南洋開発の好時機 (一〜六)
岩藤生

欧人移住者蘭領印度全体に於て約七万人と称す而して爪哇にあるもの五万外領にあるもの二万人支那人に至っては七十万を越え其外領にあるもの二十万に達す而して本邦人の蘭領にあるもの僅に三千二百而も其過半は例の醜業婦にして真に産業に従事せるものに至っては僅々千四五百人に過ぎず
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新愛知 1916.8.28-1916.8.30(大正5)
隠されたる南洋の宝庫 (一〜三)
本紙九千号記念講演会に於る久留島武彦氏演

今日南支南洋のマニラ、新嘉坡(シンガポール)、ボルネオ、蘭貢(ラングーン)、セレベス其他へ、天草の女が六千人も往って居る
、之には男が伴って居らぬ、実に思うようにならぬ、それで日本は三百年以前には猛者の国として恐れられて居たが、今は嬉しい優しい懐しい乙女の国として到る処で持囃されて居る、此持囃されて居る婦人は醜業婦、其手から年々五万円乃至二十万円の金を送って来る、之も外資輸入と云えば云えるが、金よりも名誉に関る国の迷惑である、斯る女すら五万円乃至二十万円の金を送る、少し優秀なる人が往ったならば、何百万円と云う金を送る事の出来ぬ筈はない、然らば如何に切込む余地があるか之を極く掻摘んで申上たいと思う
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中外商業新報 1913.7.16(大正2)
売薬南洋に発展す

省資本にて到処成功
売薬の輸出先 本邦売薬の海外輸出は年を遂うて益々盛大に趣むきつつあり重なる輸出先きは支那、印度支那、印度及び南洋諸島並びに布哇、米国等なるが布哇及び米国に輸出するは唯だ在留本邦人に供給するのみなるも其の他は何れも其の国土着の住民を顧客とし最とも輸出額多く将来有望なるは仏領印度支那、サイアム、馬来(マライ)半島を始めジャワ、スマトラ其他の南洋諸島にして之等諸地方に於ける本邦売薬商人の数は精確に之れを知る能わざれども恐らく幾千を以て算す可し

土人に信用
売薬商人は何れも堂々たる風采をなし一見医師の如く一二名の土人を伴いて各地方を行商せるがジャワ島其他未開地各部落の酋長等本邦売薬商人に対しては無料宿泊その他の便宜を与えて頗ぶる歓待し居れり之等商人は簡単なる診察機械を携帯して土人患者の求めに応じ病症を診断して売薬を与う

重要の原因
何故に斯く本邦売薬商人が南洋未開地の到る処に往来せりやというに啻に南洋といわす凡そ海外未開地に於ける本邦人移住の先駆者は婦女子にして之等は大抵醜業に従事する者なるが彼等醜業婦の親方と称する者が多くは雑貨及び売薬商を兼営せる為めにて之等醜業婦との関係上婦人薬及び花柳病薬の売行最も夥しく毒掃丸の如きは盛に輸出さるる由

馬来人と結婚
本邦人の醜業婦中馬来人と結婚して売薬商を営む者なども有り斯く南洋未開地に於ける本邦人活躍の第一着者は売薬商人なるが故に本邦売薬は殆ど至らぬ隈なく土人の間に売れ行きつつあるが近来は利に敏き支配人が贋造の本邦売薬を各地方に行商する外独乙人が本邦品に類似の売薬を製造して盛に支那地方殊に南洋方面に販路を広げつつあれば本邦売薬商人に取っては不意に強敵が現われたる訳にて独乙製の売薬は本邦製よりも優良なれば将来最も恐る可き競争者なる可し
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大阪毎日新聞 1913.9.22-1913.10.2 (大正2)
南洋より (一〜五)
黒時雨 新嘉坡

▲有望なアンボン
南部の首府アンボンは和蘭東印度会社が総督を駐箚せしめた所で、往時は蘭領東印度の政治的中心であったから土人中には白人と雑婚せるもの多く其多数者は基督教に帰依して居る現在の人口は約九千で欧洲人が九百、支那人六百、亜剌比亜(アラビア)人三百、日本人は雑貨商一、旅館二、写真業二、其他醜業婦を合せて五六十名ある
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大阪朝日新聞 1916.4.10(大正5)
台湾の過古現在将来
特派員 瓢斉生

絶海の孤島に向って最初の発展を試みた日本人は八幡船であって、日本人の威力はまだ西班牙人も、葡萄牙人も手だに触れない台湾や南洋諸島にのびていたのを、徳川の鎖国政策に台なしにして了った、漸く今日に至って南へ南への声をきくとは確に矛盾した歴史というべきであろう、当年昂がった武力の焔は、今や醜業婦の横行によって、取返しのつかない不名誉で帳消しにされているのである。
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時事新報 1916.1.15-1916.1.17(大正5)
青島指定地建築問題 (上・下)
在青島 特派員

(上) 一、到る処絃歌湧く
青島に於ける一般人の入市許可さるるや真先に入込める者の多くは利権屋と醜業婦なりき、就中醜業婦と称すべき芸酌婦は一時青島在留邦人一万三四千に対し一千百余名の多きを数えたり、当時軍政当局に於ても戦後多忙の際一時に押掛けたる是等の人々に対し夫々適処に住所又は営業所を構えしむるは到底不可能なりしを以て唯他日機会を見て整理するの方針を取り当時は彼等の希望し指定せる場所に許可を与えたり、左れば独逸時代には大商店軒を並べたる大通りに之等の営業者跋扈し白昼白堊の三層楼より絃歌湧き硝子越しに友禅の舞姿艶めかしきを見ること屡々にして日本人の生活状態を知らざる在留外人及支那人をして異様の感を為さしめたり、単に外人及支那人をして異様の感を懐かしめたるのみならず戦後の秩序日に恢復するに連れ心ある日本人をして顰蹙せしめたり去る五月大谷軍司令官の任に当地に莅むや斯る状態が邦人発展の将来に多大の悪影響あるを思い直に之が整理の方針を立て時の高級参謀山田大佐の献策を容れ之等芸酌婦を置き若くは之に依って営業する総ての者を一定地域内に収容するに決せり 
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時事新報 1918.8.15(大正7)
東露経済近況 各国人の活動
邦人発展好機

東露の同胞
其数約四千五百人に達し其内醜業婦第一位にあり其他写真洗濯理髪時計直し大工等の諸業最も多く貿易商の如き僅か六十に足らず然るに今や我同胞は過激派の圧迫に依り帰国するもの或は浦潮哈爾賓等に集まり目下在留せる邦人は極めて少数にして武市に於ける虐殺浦市に於ける強盗難の如き状態頗る不安なるものあり
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中外商業新報 1918.5.28-1918.6.20(大正7)
最近視察せる南洋経済状態 (一〜二十)
大阪商船近海課長 上谷続氏談

日本人の発展プレートインデアンペニーシュア半島の物資を研究する前にマレーストテースに就て一言せん、新嘉坡を中心としての日本人の発展は大戦開始以来著しきものあり千九百十六年に本邦会社中同地に支店を有せしは三井、台湾銀行、乙峰等に過ぎざりしが其後今春迄に山下汽船、増田屋、鈴木三菱等何れも支店を新設し其活躍目覚しきものあり一昨年租借せる十万噎は開墾され完全なる護謨(ゴム)園となり本邦在住人の多くはゴム栽培に従事し居れり往年同地領事館は本邦醜業婦発展奨励を以て方針とせるかの如き観ありしに近年に至り其方針は一変して真面目なる移民の斡旋奨励に尽瘁しつつあるは喜ぶべき現象というべし、
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台湾日日新報(新聞) 1914.5.12-1914.6.9(大正3)
南洋と台湾 (一〜一八)
株式会社南亜公司常務取締役 井上雅ニ述

前陳のドボー島はニューギニヤの南、濠太利の附近に横われる一小島であるが、同島の真珠採取業を経営するものは英国人之に使用する潜水夫は過半日本人で、其数五六百名に及んで居る。其処へ行って見ると宛然小日本村が建設されて居る。無論醜業婦も●を連ねて居るが普通の商舗もある。
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中外商業新報 1924.7.15-1924.7.17(大正13)
露支の真中に置れた日本商品 (上・中・下)
ハルピンにて 清沢生

今はロシア人約十五万五千支那人十八万五千人に対して日本人は約三千人に過ぎず、それも会社員が半分、醜業婦芸者等が六七百人で、残る一千人程が土着の人々、その内で大通りでロシア人を対手に商売しているのは海村という商店一つあるに過ぎない。
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新愛知 1916.8.27-1916.9.3(大正5)
緩急車 浦塩斯徳(ウラジオストク)瞥見 (一〜七)
悠々生

試みに、最近の調査に係る浦塩在留本邦人の職業と、其職業に配分されたる各人口を見よ。蓋し思い半に過ぐるものがあろう。詳言すれば、在留邦人約二千名の内、最も多きものが娼妓であり、之が三百二十三名、之に外国人の妾六十名、芸妓十二名を加うれば、其数三百九十四名即ち総人口の約二割に達するのである。此統計によって見ても、我日本人が浦塩に於て、如何に腰を使うことによって儲けつつあるかを察するに足るではないか。
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東京朝日新聞 1918.11.25-1918.11.26(大正7)
比島より (上・下)
香港にて 孤嘯生

今回突如布達せられたる国民軍陣営(クラウディオのキャムプ)を距る周囲七哩以内の地には遊郭の存立を禁ぜるが如きも亦其発露に外ならず、マニラ市東北に位せるサンパロクのガアデニアは今日迄一画を限り土人日本人等の紅灯を黙許し土人百七十八名と日本醜業婦百四名女将十七名にて盛んに肉の切売を為さしめたるものなるが去る十八日市長ルクバンと市警察部長ホーマンは遂に彼等の退去を命じ全く其自由を拘束する事となれり此の如きは由来民主思想の旺盛なる比島に殆ど稀□の高圧手段と称せられ之れが為め邦人醜業者の騒動困難は殆ど名状すべからざる光景に陥りたるのみに止まらず、此一画を中心とせるマニラ市在留の邦商中頗る密接の経済関係を有するものありて彼等の驚愕又度を失せり、無尽講醜業者各自と女将と貸借関係、家財什器の整理等何等手を染むるの暇なく、郵船香取丸を初めとし東洋汽船コレヤ丸、商船チカゴ丸、エンサン号、シベリヤ丸等マニラより対岸支那並に日本に航海する便船毎に数十名宛退去せしめたり此間或は人身の自由を束縛せりとか若くは此内帰るに家なき憐れむべき遊女十一名を迎え各各妻とも為さんとてハアビアスコルバスに基く訴訟を提起せる物好き抔現れたるも十月二十八日マニラ第一審裁判所に於て移民法に依り追放を命ずる事と解釈せらるるに及んで彼等折角必死の運動も全然水泡に帰し了んぬ、邦人醜業者中退去する事を得ざる実際の事情あるもの病気中のもの無籍日本人抔を合せ約二十名見当尚残留するのみにて這次の一撃は邦人醜業者を一掃し尽くせり相原副領事は奔命に疲れ盛に目を廻す程活動し遊女の怨霊に取附かれ西斑牙迄も悩みたる筐なるに一部邦人中には領事が相当準備の期間を比島官憲の対し保留せざりしは不都合なりとて批難の声を高めつつあり相原副領事に対し誠に気の毒の至りに堪えずマニラ有力の邦人団体たる商工会にては寧ろ傍観的態度を取る外なしと決議したるが兎に角比島政府の果断は推賞に値するものと云わざるべからず土人醜業者全部を比島内の最も女の少き南比タバオに送り夫夫良縁を求めしむべく出航せしめたる手段甚だ周到なりと評せざるべからずダバオ行き土人醜業者に対しては移民法抔何等七面倒の関係あるべきにあらざるを以て法曹界の一問題となり裁判所に出訴し本人等の自由意思を尊重しダバオ行きを決行したりしや宜しく一応法律上の手続を経、当人等の承諾を得ざるべからずとの議論行われ且当市新聞雑誌中には此等醜業者にして果して良縁を得るとするも定めて良母賢妻となり得べきや将来の国民出産の上に如何なる程度迄歓迎すべきや抔皮肉交りに野次れるものなきにあらず予てダバオ日本人会より排斥を蒙りたる南比ダバオ方面の邦人醜業者団も多分此一事業に懲り足元の明るき内に引揚げ夫夫本国帰還の事に落着するに至るべきかと観察せらる。
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台湾日日新報(新聞) 1919.2.5-1919.2.9(大正8)
南洋に於ける企業上の注意 (一〜五)
(先ず自力を養え)
南亜公司専務取締役 井上雅二述

併し人を海外に植えると云うことは吾等の年来の主張である、従来南洋に於ける日本人は醜業婦が主であったが、今日は有力なる資本家や実業家が資本を投ずることになって、醜業婦の影は漸々薄くなり、日本人の地位が漸次高まりつつある、
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福岡日日新聞 1915.4.11-1915.4.15(大正4)
南洋発展策 (一〜五)
農学博士 玉利喜造氏 (一)

鹿児島高等農林学校長玉利喜造氏は十数年来勃々として南洋発展策の研究を続けつつありしが今回日独蘭戦の結果南洋諸島が我軍の手に軍事□占領せらるるや氏は其筋の命を受け本年二月下旬同地に出張し馬来(マライ)半島マーシャル群島、卑南等を親しく踏査し此程帰任せるが其談に曰く 近来南洋々々というて大分南洋熱が昂くなった其発展の途に就ては今後種々講究もし計画もする積である将来南洋に於ける邦人発展の余地夫れも十分ある事を私は信ずる而し其れが実際能く行わるるか否かというのは全く今後渡航して行く人の種類に依ることは勿論である、処で是まで南洋方面に出掛けて行く人は多く醜業婦関係の人或は唯一攫千金を夢みた人のみで懐いて居るのは野心ばかり是に伴う技術或は方法というものは持ってゆかない、で中には非常な堅固な決心の下に渡航する人もないではないが是等の人の決意も最初の程はなかなか堅いが忽ちにして徒食浮浪の悪風に犯されて仕舞う、●し幸に此悪い空気に染まない人は到底是れでは見込がないというので直に帰って仕舞う、這ういう風では到底発展が望めるものではない、随って未だ南洋に於ける邦人の発展としては見るに足るものが尠い、裏面に於ける醜業婦の発展是は著しいものがあるが夫れは別ものとして……
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満州日日新聞 1921.11.5(大正10)
海に陸に驚嘆すべき満州通信事業の発達
過去十五年間に於ける努力の結晶
関東庁逓信局長 杉野耕三郎氏(談)

抑吾関東州の通信事業は明治三十九年九月一日都督府が始政するに際し開始されたものであるが尤も、それ迄は日露間の兵火闌わであって満洲全線には野戦郵便局があった。それは三十七年十月末のことである始めて遼東守備軍が金州に置かれた際、軍事郵便が開始されて間もなく大連に移転したがその頃は軍事のみならず我在留民に対しても通信の便宜を与えて居た然しその頃兵火の巷を冒して敢て彷徨するものもなくそれはホンの数人例の醜業婦どもであった
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台湾日日新報(新聞) 1920.6.27(大正9)
圧迫を受けんとしつつある比律賓(フィリピン)の麻栽培
邦人の栽培者六十四会社
栽培地面積約二万甲歩

タバオには現在約五千人の邦人が居住して居るが、例の醜業婦も隠然勢力を有って居る、彼等は邦人が多数入込むと同時に遠征して来て今ではタバオから一寸離れた処に一団をなして居る、醜業婦が入込まぬ前迄は邦人は何の事業をなすにも非常に尊敬されて居たものだが醜業婦が入込んでからは邦人を侮蔑する様になった、ソレで在留邦人一同協議の上日本人としての体面を保つべく醜業婦追払いを官憲に掛合った、然るに官憲は日本の醜業婦を追払うとタバオの町が寂れるからと云うので追払いもせず放任して居るが、中々繁昌して居る云々 
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大阪毎日新聞 1917.2.15-1917.3.8(大正6)
西部ボルネオ探検 (一〜十三・十五〜二十)
多田 恵一

是は敢てボルネオのみに止まったことではないが、特に邦人が多大の信頼を得つつある未開のボルネオに渡航せんと欲する人々は須らく日本人の品位ということに深く注意せねばならぬ。今日彼の醜業婦の如きは表面蘭領東印度諸島から放逐されて居るから日本人としての価値も一段高くなったのは争うべからざることだが、今尚醜業婦全盛時代の余焔がないとはいえぬ。
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大阪毎日新聞 1913.10.4-1913.10.14(大正2)
英領北ボルネオ (一〜五)
黒時雨

本州の人口は二十万八千(一昨年度統計)土人大部分を占め居るも多くは中部の山奥に棲息して産業と何等の交渉を有しない其の他蘭領各島嶼及スールー群島より転入せし土人約一万一千、馬来半島よりせるもの千六百人、欧米人僅に三百五十五人、何れも官吏会社員である、支那人は約三万中堅の階級を形作り本島の産業界に大なる貢献を為しつつありて実に馬来人の邦と云うよりは寧ろ支那の国たる奇観がある日本人の数は二百四十六人内正業に従事するものはコーコ椰ネ栽培業ニ、売薬商一、雑貨商ニ、麪麭焼一、理髪師七、労働者二十八、従僕四十五、他は醜業婦六十九である
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北海タイムス 1914.11.16-1914.11.18(大正3)
比律賓(フィリピン)事情 (一・二・完)
在麻尼拉(マニラ)市 楚水生

当市に在住する日本人七百名の内半数は醜業婦であると聞いて足下も恐らく一驚を喫することであろう而して此の醜業婦の日本人間に勢力のある事は実に非常なもので日本人は彼等を呼ぶに姉さんなる尊称を以てするこれは尤も一般の在留日本人低級な者の比較的多いのによるのだろうが兎に角此の姉さんの勢力は侮ることが出来ない而して彼等の収入はと云えば一人一ヶ月五百円から八百円迄あると云うことだ嘘の様な話だが事実である 当市のガリテニア街と云うのは実に此の日本人の遊郭で堂々と営業して居る一夜の遊興料一人十五円日本に比較すれば随分高いが相応に繁盛するから面白い彼等の収入は斯く莫大であるから其の贅沢は一通りではない衣装装飾は言う迄もなく仏国の本場から専門の婦人を雇入れて化粧をし一寸外へ出るにも一時間三円の馬車若くは五円の貸自動車を駆り意気揚々たる者である此等の女は何処から来ているかと云うとおもに九州で一度香港、新嘉坡、ボル子ヲ等を経て来た者多く比律賓全島何れの都邑にも此の日本醜業婦を見ない処はないされば外人は日本婦人さえ見れば皆此の醜業婦と見做してしまう日本の威信に関る事今更喋々する迄もない然らば其の他の日本人の状態はと云うに情けない哉あんまり振って居る者はない

(二) 日本人の状況(続)
醜業婦の幅を利かしている事は前に云った通り他の日本人はと云えば・・・
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大阪朝日新聞 1919.2.3(大正8)
我が不評の因
哈爾賓(ハルピン) 牛木生

西伯利(シベリア)に一歩踏み入れた日本人は男も女も醜業婦であれ、洗濯屋であれ、床屋であれ、医者であれ、悉く是れ軍事探偵か間諜か、何れにしても露国を窺い露国を覘うの徒にして種々の迫害を受けた。
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福岡日日新聞 1912.8.28(大正1)
ゼーアの邦人

露領黒竜州唯一の金山所在地たるゼーア(浦塩の北方十五日程)より二十四日帰朝せる本邦人の談に拠れば同地はゼーア川の沿岸にしてブラゴウェーンチェンスク其他への往復は黒竜江川蒸気の便に頼るも露暦十月十日より翌年五月五日までの結氷期間は橇にて通行することを要すゼーア市の現在戸数は千四百戸許りにして金鉱採掘の為め入込める露人、支那人、朝鮮人併せて約千五百人あり、又日本人は百名許りにして内商店を有するもの九戸即ち医師、写真業、時計商、金銀細工職、理髪職、飲食店、貸座敷業各一戸及洗濯業二戸なり、貸座敷に置くべき娼妓の数は十名を限られあるを以て何れも繁昌を極め五百円以上の貯金を有せざるものなく且つ其年齢の均しく三十歳以上なるも奇観とす、外に日本婦人にして馬賊其他支那朝鮮人の配偶者となり、又は醜業婦たるもの約六十名あり需要品は主として哈爾賓より輸入さるるに付驚くべき高価にして即ち精米一布度四円六七十銭、醤油一樽(一斗入)七円といえる時価なり、・・・(敦賀通信二十五日発)
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時事新報 1914.12.5-1915.3.30(大正3)
蘭領南洋 (一〜三十三・三十五・三十七・三十八)

古き日蘭両国人の関係は此処に繹ぬるを止め明治以後我が国人の此の群島に渡来せる以来の事跡を見れば記者は喟然として長大息せざるを得ぬ当初渠等の此処に来れるは決して正業の為めではなかったせ界の劣等種族たる此の群島の土人にすら笑を売る小婦と是等の輔助者たるピンプ(情夫又は親方の義普通兄さんなる尊称を小婦等より受け居れり)とであった売薬行商者の入込めるは日清戦役後である売笑婦ピンプ、売薬行商者是等が土人との接触に於て幾多の醜行悪事の行われたかは絮説するの必要はない
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新愛知 1919.4.13(大正8)
西伯利研究の必要
英米国の西伯利に対する発奮努力を熟慮せよ

西伯利(シベリア)から帰った邦人は斉しく戦前における邦人の西伯利に有せし勢力と、現在のそれとは全く雲泥の差があって、西伯利各地に於ける邦人の発展努力は、真に驚く可きものがあると喜んで居る。然しながら既に米国人が黒竜江上に星章旗を泛べ、幾多の鉱山には着着として工場を建設し、其天然資源に向って、大々的の計画を為し居ると。僅に日本人が出征□隊□駐屯地に、或は雑貨商を営み、或は旅館を経営し、或は売笑婦を働かせつつあるが如き、其経営振□区々末節たるとを比較すれば、真に汗顔に堪えざるものがあるでは無いか。
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