戦前日本が敵視した自由主義・個人主義・民主主義(途中)



満州日日新聞 1937.10.15 (昭和12)
関税改正に付満洲工業会が請願
満洲国を専ら消費市場視する内地側の陳情を反撃

満洲国第三次関税改正を前にして日満貿易業者をはじめ各種商工団体より建議請願するもの多数あるも、その多くは複関税或は三段関税と称し主として製品の対満輸出に対する満洲国輸入税の低下を要望するものであるに鑑み、満洲工業会では満洲国内産業企業の開発振興の見地から日本内地の経済団体の関税改正請願要旨である満洲国を単なる貿易市場とする見地に全面的に反対の立場をとり、同時に満洲国従来の関税制度政策は建国以外のものを踏襲し建国後の経済実相と適合せざるものなりとし左記要旨に亘って関税改正促進につき十三日の役員会決議に基き再び日満関係当局に請願することとなった

第一、満洲国を原料供給国とし、日本を製品供給国とする観念は従来の個人主義的自由主義的国家観念の遺物に他ならず、依って斯る旧観念より来る関税制度政策の改善には絶対に耳を籍すべきものにあらず、飽迄も全体主義的、統制的国家建設の新観念に基き関税改正を促進せらるべきはいうまでもない、殊に現下の戦時体制下における満洲国内物資現地調弁の実情は明かに国内生産機関の拡充に付実物教訓を与えられたるものにして深く現状に稽え将来万違算なきを期せられたきこと
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読売新聞 1940.6.25 (昭和15)
打てば響く農村
捨てよ都会の個人主義 
堀切さん精動行脚報告

堀切さん「都会生活は農村ほど単純ではない、家と家はくつついていても住む人の心は遠く離れている、この距離を征服するにはいまのような個人主義的な生活をある一つの生活単位へ纏めあげなければならない、隣り組などはこのために一役もっているんですがね」
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中外商業新報 1940.10.15 (昭和15)
英米依存より脱却
新貿易体系確立へ
日本貿易報国連盟具体案を提示

日本貿易報国連盟では十四日理事会を開き左の貿易新体制に対する要望案を可決、大蔵、商工、農林、拓務、外務、逓信、海軍、陸軍の各省並に企画院、興亜院、大政翼賛会本部宛申請することとなった、右要望は三国同盟成立を期として英米依存を脱却した新貿易体系確立を目標としている、要望案全文左の通り

・・・而して本連盟は右の如くして整備確立さるべき貿易新体制機構に対し全幅の期待を以て之が至急実現を要望するが、更にその場合当面喫繁の基本要件として次の各項を挙示し新体制立案に際して参考案として提案する

五、国家中枢機関との連繁 新体制下に於ける今後の貿易は個人主義自由主義時代と異り、輸出入部門を一貫して凡て聖戦完遂、国防国家経済確立の為めの対外的積極活動部面として奉仕すべきものなるを要し、之が為めには物動計画、生産力拡充計画其他の国家経済諸計画と睨み合わす必要上常に之を管掌する国家中枢機関との直接緊密なる連繁を保持すべきを要す
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満州日日新聞 1941.8.28 (昭和16)
南方の宝庫を語る (1〜3)
仏印

南進論が日本に叫ばれて久しい"宝庫南洋"それは日本の問題であり、世界の問題である、民主主義国家群の久しきにわたる強圧と搾取に目を閉じてきた南洋はいま新世紀の脚光を浴びて新しく浮び上った、枢軸勢力と民主主義国家群の大規模な二大勢力の注視の中に、豊穣な土地と底知れぬ資源を蔵して、南方共栄圏の宝庫は黙々と碧波を招いている、
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大阪朝日新聞 1939.5.27-1939.6.3 (昭和14)
白熱的軍拡下の世界経済 (1〜5・完)

(1) 英国の再軍備が全世界に波及 列強の対立深刻化す
一九三七年二月十六日の夜、イギリス政府は国防に関する白書を出して、その後五ヶ年間に軍事費十五億ポンド(内四億ポンドは公債による)‐約二百五十七億円‐の厖大な国防計画を発表し、イギリス国民は勿論的世界を一□せしめた。この記憶すべき日をもって、世界主要諸国の再武装はこれまでの日独伊およびソ連のいわゆる全体主義諸国より英米仏の民主主義ブロックに波及し、軍拡競争はようやく全面的となり、世界的な規模にまで拡大されたのである。
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日本工業新聞 1940.6.18 (昭和15)
強力なるドイツ戦争経済
独逸参謀本部附陸軍大佐 ウイルヘルム・ベッカー

"一九一八年の勝利"に酔い慣れた民主主義諸国の罪悪と怠慢に対する反動として推進し来ったドイツ経済の現在における優越性は、右の事実が歴史において正しいことを示すものである、ドイツ経済の進路は、云わば世界経済の危機が迫るにつれて民主主義的な如何なる方法によっても救治しえられず、経済秩序の調整力が欠如したことを歴史において顕示されたとき内在的に方向づけられたものと考えられる、
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大阪毎日新聞 1942.1.29 (昭和17)
英と水魚の間柄
牢固たる勢力
その処理こそ最大問題
マレーの華僑

殊に英国が支那事変五ケ年間飽くなき援蒋に狂奔した理由も実は全南洋における両者の利害の一致とその結果によって成立した緊密なる相互扶助関係に原因しているのである、米英の蒋介石援助は単なる干渉主義から出発しているのではなくて実は援蒋即ち自己の利益擁護である実情がマレーに来て明白に理解される、この見地に立てば支那事変の完遂も南亜資源圏における民主主義国家群の結束打破から着手されねばならないとの結論も成立するのである
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東京日日新聞 1941.6.15 (昭和16)
石油獲得に血闘続く
世界石油資源の現況を衝く

次に昨年度に於けるアメリカの対外輸出額を一昨年のそれと比較してみると総額に於け六千三百七十四万一千バーレルの減少になっている、即ちイギリス、フランス、蘭領西印度、イタリー、ブラジル等への輸出は何れも減少し僅にカナダ、オーストラリア、中華民国への輸出が増大しているのみで、所謂民主主義国への石油による援助は積極的に行われていない、これはアメリカの輸送力に制限があるためである、
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日本工業新聞 1942.1.24 (昭和17)
ドイツの鉱物資源は意外に豊富
米鉱山局、率直に認む

・・・かくて枢軸国は鋼鉄を民主主義国よりも豊富に軍需目的に使用している
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大阪朝日新聞 1942.4.15 (昭和17)
甦る!東洋人の自覚
新方針に共感、続々開校
比島の新教育
マニラにて 林田特派員

教科書の問題
わが軍の作戦の急進展により従来の学校の建物はほとんど完全な形で残っている、教職員はじめ学生や生徒もこれまた大部分が学校の周辺に踏みとどまっている、教員にはこの教育根本方針を呑込ませれば即日からでも新教育の教員となし得る、残るところは教科書であるがこれは早急に新しいものを造るわけにはゆかぬので、さしあたり専門家より成る「教科書審査委員会」においてこの根本方針に反する部分を削除するが、その方針は
一、米英の民主主義自由主義を鼓吹するもの
二、反日ないし反アジア的言論と感情
三、米英の歴史
四、英語勉学用の副読本
なお削除部分の多いものは廃本とする
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「厳秘」印
第二部 敵性国家の調査と対策
第一項 敵性国家の根本研究と調査
並びに第二項 敵性民族の根本弱点と罪悪史の暴露

其一 英米の研究
一、近代世界形成の中心的勢力をなし、世界植民地侵略とそ(?)の唯物主義的搾取を実行せる、英米世界制覇の歴史的真相を闡明する研究
二、米英の経済的金権独裁をもって全世界を制圧し、そ(?)のユダヤ的経済力との不二一体の本質を分析し、金本位による利己的自由主義経済の根本批判をなす
三、米英の文化的謀略は、宗教、科学、教育、芸術、文学、技術、医療等のあらゆる部面において、すべてを自らの利己的虚偽をもって世界の心理と正義を歪曲し、秩序を英米的の個人主義民主主義による文化をもって、一切の文化的教養をして、人間を救ひなき頽廃と植民地的人間に変貌せしめたるものなるを明確にす。

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レファレンスコード C14010459000
件名標題(日本語) 第2部 敵性国家の調査と対策
階層 防衛省防衛研究所>陸軍一般史料>中央>軍事行政>情報>宣伝戦根本方策大綱 宣伝戦研究所の関与・実施せんとする要綱 昭和18年12月 高嶋少将史料

防諜の話
一、一般向

一、防諜とは何か
・・・一体諸君は今日の支那事変を日支間の単なる武力戦争と考へて居られるであらうが、それは非常な誤りである。此の事変は、日支相互に相争はしめ、東洋に於ける指導者日本を崩壊せしめて、将来永遠に東洋を制覇し搾取せんとする自由主義列国の、武力を以てせざる恐るべき秘密戦なので、・・・

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レファレンスコード C14010441600
件名標題(日本語) 防諜の話/1.一般向
階層 防衛省防衛研究所>陸軍一般史料>中央>軍事行政>情報>防諜講演資料 昭和16.4

極秘
会企第七三号
臨時国防思想普及に関する件通牒
昭和十年六月三日 帝国在郷軍人会本部総務理事赤井春海
連合支部長殿(満州及北支那を除く)

近時一般に非常時に対する国民の決意漸く弛解せんとする嫌あるのみならず一時屏息したるやに見えたる皮相なる平和論及誤れる自由主義は漸く其勢力を挽回し軍費と一般国費との関係等に基く反軍的思想亦台頭し其勢決して侮り難きもの有之・・・

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レファレンスコード C01004089200
件名標題(日本語) 臨時国防思想普及に関する件
階層 防衛省防衛研究所>陸軍省大日記>密大日記>昭和10年>密受大日記 第3号 7冊の内 昭和10年

昭和十二年十二月
英国大使との会談録
初対面の挨拶畢はるや否や「ク」大使(※クレーギー駐日大使)は先づ十一月下旬刊行中央公論特別号に寄せたる余の「国際日本の地位」と題する論文の英訳を前に置き此論文に述ぶるところの貴公使の意見には大いに申分あり第一英国を以て人民戦線の一員と為さるヽところ英国程「ボルシェビキ」を嫌ふ国は無かる可く人民戦線等に関はり合ふ可き可能性は絶対に之無しと述べたるを以て英国政府が現に自覚的に人民戦線に加はりたりと言ふには非ず只だ思想的に所謂「デモクラシー」諸国と共産「ロシア」とは結局に於て同一平面に立つものなりとの趣旨にして即ち両者とも其世界観に於ては所謂唯物史観を基調とするものにして此哲学的基礎に立脚する限り英米仏等に於ても大勢は日に日に左傾するの外無く現に英国並に米国に於ても労働大衆の勢力は逐年増大し両国輿論の今次日支事変に関する態度を見るも左に行く程反日気分の旺盛なるに徴するも明なり、之に反し独伊等は唯物史観の「マルクシズム」と絶対に相容れざる政治哲学を採用し且つ個人主義的階級闘争的観念を根絶せんとしつつあるものにして此点日本建国の原理に接近しつつありと言ふべく余が日本を以て所謂「ファッショ」の本家本元なりと主張せるは此の意味なりと説示したるに、「ク」大使は「デモクラシー」の長所を縷述し所謂全体主義とは中世紀の独裁主義に過ぎずとて独伊の政治機構を口を極めて罵り日本は決して独伊と同一範疇に属するものに非ずして寧ろ英国に近き政治思想を有するものなりと述べたるを以て、日本の国体は一般に国民全体が一の大家族を為すと言はれ之を譬ふれば 天皇は一本の大樹の根幹にして人民は枝葉の如き関係にありもとより個人存在の意義を没却するものにあらざるも必要の際には個人は全体の為に常に甘んじて己を犠牲にすること恰も樹木の枝葉が夫々特殊の機能を果しつつも全体の為に必要あれば常に犠牲に供せらるべきものなると等しく、日本の将兵が戦地に於て戦史する場合「天皇陛下万歳」と唱ふることは欧米人には諒解に苦しむ可きも之は個人が全体の為には常に喜んで自己を滅却することにして即ち戦死将兵は最後の瞬間に於て根幹たる 天皇に帰一すると云ふ思想なり此思想と「デモクラシー」諸国に於ける如く個人は云はば小木が何れも個々に独自の根を大地に張るに等しく個人と全体とが対等に地位に立つと為す哲学と根本に於て相異し居り独伊の全体主義体制は此意味に於て日本の国体原理に著しく接近しつつありと云ふなりと述べたるに、「ク」大使は日本人の愛国心の旺盛なることは充分承知し居るも英国人も其点にて日本人に譲らざることは過般の世界大戦にて充分証明されたるが政治哲学の問題は別として外交の問題に移り度くそもそも日本国民は何故に昨今の如く英国を敵視するにや真に諒解に苦しむところなり・・・

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レファレンスコード B02030014400
件名標題(日本語) 7.白鳥公使提出「英国大使トノ会談録」 昭和十二年十二月
階層 外務省外交史料館>戦前期外務省記録>A門 政治、外交>1類 帝国外交>0項>0目>帝国ノ対外政策関係一件(対支、対満政策ヲ除ク) 第二巻

憲兵要務(高等警察)教程

(一)政治的自由主義
政治的自由主義とは、人間生活に於て国家社会よりも、個人を重視し、個人の自由を最大限度に要求せんとする思想であって、此の政治上の自由主義に基く政治を民衆政治、又は議会中心の政治と謂ひ、又之を「デモクラシー」といふ語を以て呼んで居る。
普通選挙に依り、広く国民の参政権を認むる制度も亦此の主義の現はれである。
而して、政治上の自由思想は、仏人モンテスキュー、が国政の三権分立の下に於てのみ、政治的自由ありと唱へてから世界各国を風靡し、有ゆる立憲国に於ては、所謂三権分立の制を採用し、各独立機関をして、相互権力の濫用を戒め、国政の運用を完全ならしめるに至ったのである。
然しながら、本来「デモクラシー」と自由と平等とを骨子として民主政治を要求する政治思想であるから、我が国の如く三千年来、炳易としてとしてでなく、国家統治の大権が、天皇に存する国家に於ては、断じて許すことの出来ない思想である
又茲に注意しなければならないのは、我国に於ても屡々用ひられる政党政治議会政治と謂ふ言葉である。
政党政治とは、議会に多数を占める政党が常に議案の決議に対する大勢を支配する関係から議会に絶対多数を有する政党より大臣を任命し、内閣を組織すれば国政運用に便であると謂ふ理由に依て、最大多数の政党の党首が常に内閣総理大臣となって内閣を組織し、政治の衝に当らなければならないと謂ひ、政権が常に盥廻敵に政党の手にあるを謂ふのである、然し、政党人が常に口にするが如く、之を以て憲政(立憲政治)の常道であると謂ふは我が帝国憲法の下に於ては大なる誤である、何故かといふに、内閣総理大臣以下大臣の任命は 天皇の大憲(?)に属し、濫りに私議すべきものではないからである。
次に、議会政治とは、議会中心主義政治を意味し、国家の政治は悉く議会に於ける議決に依て行はるべきものであるとの意味である、乍併、帝国議会は憲法上 天皇の翼賛機関であって 天皇中心主義の下に国政は運用せらるべきものであるから、我が国に於ては純然たる議会は存在し得ないのである。従て、憲法の規定に基いて行はれる、所謂、立憲政治と議会政治とは其の意義に於て、大なる差異あることを知らねばならない。

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レファレンスコード A06030040600
国立公文書館>返還文書>返還文書(旧内務省等関係)>返還文書1>憲兵要務(高等警察)教程

公私生活を刷新し戦時態勢化するの基本方策
(昭・一四・七・四 国民精神総動員委員会決定)

・・・今や我国の情勢は個人主義的自由主義的生活態度の弊風を粛正して益々国民的、奉公的生活態度を強化すべき時である。・・・

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レファレンスコード A15060379300
国立公文書館>内閣>内閣総理大臣官房総務課資料>国民精神総動員

昭和十六年三月
官界新体制確立要綱に就て
大政翼賛会企画局制度部

はしがき
・・・特に政治、社会制度に於ける旧来の自由主義的要素の払拭に努力しつヽある制度部は、

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レファレンスコード A15060303500

軍政要員及一般在留邦人の指導及訓練計画
其一 軍政要員
第一 方針
軍政の本質を確認し滅私奉公精神に徹せる戦時戦場に於ける服務規律を厳守すると共に業者及現地住民に対する率先垂範力を向上す
第二 要領
一 訓練要目
1 統帥に根源せる戦、政統合一体化の具現
2 戦時戦場に即応せる官吏服務要領の実践
3 積極敢為性及責任観念の向上
4 自由主義個人主義観念の払拭
5 反省力及垂範力の陶冶
・・・

其二 一般在留邦人の指導及訓練
第一 方針
公私を通じ滅私奉公の実践に勉むると共に自由主義個人主義等米英的思想を払拭せしむ
・・・

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レファレンスコード C14060661600
件名標題(日本語) 軍政要員及一般在留邦人の指導及訓練計画
階層 防衛省防衛研究所>陸軍一般史料>南西>軍政>馬来各州(市)長官会議関係 関係書類綴 昭和19.3

大阪毎日新聞 1936.5.7(昭和11)
"積極性を蔵しつつ漸次庶政を一新"
陸軍把持の革新的傾向 陸相答弁で明白

寺内陸相はさき(三月六日)に広田内閣入閣に際し声明を発し 新内閣は自由主義的色彩を帯び現状維持または消極政策により妥協退嬰を事とするごときものであってはならない と積極的強力国策の遂行を強調しさらに 積極政策により国政を一新することは全軍一致の要望 と言明して入閣に際しての所信を披瀝し、自来現内閣は右陸相の声明が指示するごとき方向に従って驀進せんとする気勢を示し来たったため現時局に対して陸軍の抱懐する革新意見は各方面から深甚の注目を払われて来たが、果然六日の衆議院本会議で政友会の浜田国松氏は寺内陸相に対し前記陸相入閣に際しての声明を引証して 自由主義排撃と統制主義徹底の範囲 現状維持否定と現状破壊の程度範囲 国政一新の断行の方法とその程度 の三項目にわたり寺内陸相の見解を質しこれが答弁を求めた、これに対し寺内陸相は 自由主義の排撃は国体観念を明徴ならしめ全体主義によって政治経済にわたる庶政の一新を要望したものなること 現状維持の否認は破壊を意味したものでなく、積極進歩を意味したものである と明確に答弁し
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新愛知 1921.1.3-1921.1.10(大正10)
西北の風を妨げ (一〜七)
ボルシェヴィズムに対する批判
陸軍中将 山梨半造

二、結論
個人主義に在っては個人がなければ社会もなく国家もないと云うけれども、其は畢竟楯の一面を見たに過ぎないのである。如何にも個人がなければ社会はないに相違ないが、同時に社会を離れて個人は存在せんのである。社会は一の有機体で個人は其の細胞の如き関係であるから細胞が在ってこそ有機体は存在するのであるが細胞は又有機体を脱離すれば死滅の外はない。随って個人を主とし社会や国家を従とすると云うことは間違って居る。 要するに個人の絶対的自由は許すべきものでない。又それは可能のことでもない。是に於て私は断言する。所謂個人主義には大なる欠陥があるから一部の真理はあるにしても全体として受入れることは絶対にできないのであると。
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満州日日新聞 1939.5.28-1939.5.29(昭和14)
進むべき日満の一本道 (上・下)
満洲国参議 大橋忠一

日本は今後内は唯物的個人主義デモクラシー文化より離れて全体的物心一如の日本主義に立ちかえり、外は独伊と結んで支那事変の徹底的解決に乗り出すであろう・・・日本の現状維持主義者の間には欧洲紛争に介入することを避け小悧巧に立ち廻らんことを主張する者があるが、是は彼等の功利的心理と日本の自由主義個人主義的機構を現状の儘維持せんとする願望より出たる思想であって断じて賛成することは出来ない・・・例えば差し詰め日本は個人主義唯物思想のデモクラシー文化より解放せられ、教育の如きも根本から改めて質実剛健にして道義的、犠牲的、戦闘的な日本青年を作らなければならない、天皇の御親任あらせ給い国民の心服する強力単一指導者の下に法規よりも人を中心とした弾力的重点的の新日本機構を作らねばならない
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日本工業新聞 1942.9.1-1942.9.7(昭和17)
炭鉱に於ける労務問題の一考察 (一〜三・完)
燃料局炭業課事務官 佐久洋

時代は遷り変り嘗ては世界の思想界を風靡した自由主義思想も今は蛇蝎の如く扱われては居るが自由主義の残した功績は之を認めざるを得ない、
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京城日報 1941.9.16-1941.9.17(昭和16)
金融人の立場は果して旧体制か (上)/金融人は果して旧体制か (下)
漢城銀行頭取 野田新吾氏

 兎に角高度国防国家建設を目指して、政治経済は固より、あらゆる国内の諸制度の刷新が要請され全産業機関が公益優先の根本精神に基いて、国家目的達成の一線に動員され再編成されている今日、独り金融業者は旧態依然として自由主義的観念を脱却し得ず、貸出等に付て必要以上の警戒をしているものであるかの如く見られているのである
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日本工業新聞 1942.5.20-1942.5.23(昭和17)
大東亜建設と科学技術者の覚悟 (1〜4)
技術院第四部長 笹森巽

ところが今日までこれら東亜の諸民族を上手に支配していた米英らは、いわゆる自由主義個人主義をもって本領としているのであるが、彼らはそれをもって誠に巧に東亜の諸民族をコントロールしていた、それを日本が偉大なる武力によって駆逐し、そのあとへもし実に山出しのお粗末な自由主義、個人主義というものをもって置きかえたのでは恐らく東亜圏は共栄どころか逆に崩壊してしまうに違いない、したがってどうしてもこの大東亜戦争完遂、共栄圏確立の根本となるものは民族精神の昂揚ということでなければならぬと私は信ずる
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読売新聞 1941.6.21(昭和16)
綜合インフレ対策
新内閣財経政策の中心課題
急所を押さえよ
経済の破衡是正が急務
経済特輯

国策研究会調査部長 郷司浩平
インフレそのものは通貨現象ではあるが、その対策は単に者と購買力との破衡是正というような自由主義的対症療法のみに終ってはならない。それでは高度国防国家建設の積極的要請を充たす解決とはならぬ。今日のインフレ対策は国策の建設的立場から綜合的に且つ緩急序列に従って選択的に行われることが必要だ。
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満州日日新聞 1942.9.4-1942.9.8(昭和17)
協和会の理念と科学技術 (上・中・下)
総務庁参事官 半田敏治

英米の自由主義、功利主義を以てしては真の世界平和は招来されない。況んや現在の如く彼等が横暴を極めて新興勢力の台頭を抑圧する如き非人道的世界政策をとる限り、必ずや世界には遠からず再び大戦乱の勃発を見るであろう。又ソ聯の如き唯物主義、共産主義に立脚せる階級闘争を手段とする世界革命も遂に世界に真の平和を□し得ないことは、ロシア革命の経過に徴するも明らかである。真に世界永遠の平和を確立せんがためには道義による外なく、道義の支配する世界が実現した時始めて真の平和は招来せらるるのである。道義の支配する世界とは、仮令、如何に弱者の声と雖も正しいことは常に正しいこととして通用せしむるような明朗な世界である。 而して斯の如き世界を実現する資格と実力とを有するものは実に我が大日本帝国を措いては外にない。日本肇国の大理想を実現して八紘を宇と為すのは正に今日にある。
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大阪朝日新聞 1940.2.23-1940.2.24(昭和15)
長期戦と我が経済力 (上・下)
陸軍省整備局 加藤長少佐

かくの如き誤解に本づく心配のあまり士気阻喪し、諸事すべて消極退嬰的となれば、多大の犠牲を払って今日までに獲得した戦果を十分に利用することが出来ずして事変解決を遅滞せしむるのみならず、国内の反戦自由主義者並に敵国側の乗するところとなり、国家のため測り知るべからざる弊害を生ずることになる、由々しき大問題といわねばならない
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大阪毎日新聞 1943.1.24(昭和18)
皇国勤労精神に就て
ささげまつる勤労 労働商品視理念を一掃せよ
大日本産報企画局長 三輪寿壮

自由主義的経済思想の労働観は物質的欲望を追求する人間の労働であり、即ち自己の欲望を満すため必要な貨幣価値を得んがための、即ち賃金を得んがための労働であるとされた。これは当然資本の利害と対立するものである。資本も労働も、それ自身の利益を追求しながらしかも両者が結合するゆえんのものは、かくすることによって生産が行われ、分配がなされたからである。もしその間の均衡が破れるならばそこに労働争議が起らざるを得ない。こうした労働観は外来的なものであるばかりでなく、我が国体に照らし、我が国民性に徴して、絶対にうけ容れられないものであることはいうをまたないところである。
 産業報国運動はこの誤った産業観、労働観に代わるに皇国勤労観の確立を旗じるしとして起された運動である。この古き労働観を一擲し皇国民の天皇にささげまつるはたらきとしての勤労即ち皇国に対する皇国民の奉仕活動としての勤労精神を打ちたつることを第一の使命として巻起された国民運動である。日本国民の国民としてのあり方が奉仕であり、万人ひとしく天皇に帰一し奉り、分を尽くして天業を翼賛し奉るところに日本国民の真の姿があるのであって従って勤労という国民の経済活動が奉仕活動であるということは自明の理であるばかりでなく、三千年来の我が国民的信念に外ならないのである。かかる勤労であればこそそれは皇国民の名誉でもありまたそれが心からなる喜びでもあり得るわけである。 自由主義的経済思想のみならず、マルクス主義の影響をすら受けて曇らされ濁らされた我が国民の労働観、勤労観をここに曇りなく濁りなき姿においてまさしく打建てこの皇国勤労精神を指導理念として、新しき勤労組織をつくり上げ、その組織を通じて、勤労精神の具現としての実践活動を展開して行こうとするのが産業報国運動である。
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読売新聞 1940.11.14(昭和15)
新秩序は着々具現
三国同盟と明日の世界
白鳥敏夫

新秩序の性格
しからば日独伊三国が取りあえず各自の分野において、しかして終局的には地球の全面にわたって実現せんとする新秩序は如何なるものか、現在の段階においてこの質問に明確なる回答を与えることは困難であるが、三国が均しく個人主義、デモクラシーの思想を揚棄し、全体主義的世界観をもって人類の社会を律すべき根本原理となせる以上、彼れらの指導によって造り出されんとする新秩序の性格はほぼ明瞭であるべき筈だ。 思うに遠くギリシアの昔より最近代に至るまでの西洋の文明は、形式においては種々の変遷を経たが、その基調をなすものは一貫して個人主義的宇宙観であった。プロシアの勃興とともに、ドイツ民族によっていろいろの分野にわたって試みられたるクルツール運動は、この西洋文明い対してはじめて反旗を翻したるものであるが、当時のドイツはいまだその国家及び社会の機構においても、一般の国民思想においても自由主義、個人主義を脱却し得なかったため、第一次ヨーロッパ戦争においてはついに敗北を招き、ドイツ・クルツールの語はいたずらに敵側嘲笑の的となった。しかしながら、この一時挫折したるクルツール・カムプが、人類史上必然の動向を指示するものであったことは、その後の進展によって証明されつつある。イタリアのファッショ革命によって烽火が上げられ、ドイツのナチス革命において最高峰に達せんとする全体主義運動は今や燎原の火の如く拡がり、明日の世界がこの新しき宇宙観をもって一色に塗り潰さるべきことは殆んど疑うの余地なきに至った。

「日本」への復帰
元来全体主義の運動は、西洋においては数千年の古に溯り、古代ゼルマン、古代ラテンの純朴にして雄健なる人間本能への復帰を意味するものと自分は解するのであるが、日本においてもドイツ、イタリアの革命運動と時を同じうして同様の復古運動が起った。ただここでは独伊におけるが如くレボルーションの名に価する程の抜本的変革を必要としない。なんとなれば日本においては肇国以来、国体は万古不易の基礎の上に打樹てられおり、君氏一体の醇乎として醇なる全体主義は日本民族不抜の信仰となっているからである。その日本においても、しかしながら、過去半世紀にわたって自由主義文明の害悪は古来の伝統を蝕ばみ、内政においても外交においても積弊堪え難きものあるに至って遂に一九三一年の満洲事変となりここに健全なる民族本能は爆発して、外は英米仏等民主々義の諸国が人類に強制し来れる不当なる現状に対して挑戦し、内に在っては一切の外来思想を再検討して、日本的なるものへの復帰が強く叫ばれるに至った。日本のこの革新運動は支那事変に及んでいよいよその旗幟を鮮明にし、標語としても古典的なる「八紘一宇」の表現が用いられ、東亜新秩序の建設が事変の最終目的として国民全部の固き信念となったのである。かくの如く過去十年にわたる極東の紛乱は大和民族の復古的革新運動と呼ぶことが出来るのであって、その運動に対する主たる障●は旧秩序に恋々たる民主諸国の策動である。従ってアジアの戦乱は本質においてはこれら民主々義諸国の代表する世界観と、開闢以来連綿として日本民族によって護られ、培われ来りたる皇道精神との衝突であると見ることが出来る。ヨーロッパにおける現前の戦争も根本においてはイデオロギーの相剋であり、文明(チビリザチオン)と文化(クルツール)との衝突であるがゆえに、その意味において東西の戦争はその本質を同じうするといわれるのである。 東西の戦争をかくの如く観じ、いわゆる新秩序運動とは畢竟するところ個人主義的世界観を止揚して人間の本来性に還らんとする思想的、文化的の運動であると見るのでなければ、日独伊三国の協力によって成就せらるべき明日の世界秩序を正しく理解することは出来ない。

思想の大飛躍
かくて新しき世界が現出せんがためにはまず第一に大なる思想の飛躍が遂げられなければならぬ。数千年来人類を支配したる心の習慣が打破されなければならぬ。切の事物は再評価を必要とし、神と人間の本質に関する再吟味が要請される。多くのドグマと偏見とは一掃されるであろう。個人の自由平等といい、天賦の人権といい、国家の絶対主権とか民衆の自決権というが如きものも、従来と異った角度からこれを眺めなければならぬ。およそ過去において、この世をば生きる甲斐あらしむるものとして高く評価せられて来たいろいろの物が、新しき世界においてはその価値を失うであろう。けだし今日に至るまで世界の旧勢力が特に尊重し来ったところのものこそ、地上の不正義、不合理、暴虐、搾取、その他万悪の根源をなすことが指摘されねばならぬからである。 日独伊三国同盟の生れたる理由並びにその負わされたる使命はかくして頗る明瞭である。
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併合前から朝鮮半島では米を食べていた


佐田白茅「朝鮮聞見録」1875年 ※明治8年

○籾一丸を上田に蒔けば、籾三十九内外の出来穂あり、白米にして日本升五斗内外

○右年貢上納一丸蒔に付、白米一丸と定め、半は米にて取立、半は銭にて、時の相場にして納む、・・・
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/766888/53

商務局「明治十六年十月 商況月報」1884年3月25日発行

釜山港輸出重要品

16年10月 345石
15年10月  40石
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/803099/15

万国形勢総覧 明治18年

朝鮮王国(p74~)
農商況(p77~)
輸出品の主たる者は人参、獣皮、米、豆菽、生糸なり。
国土は山岳多く耕地の割合は甚大ならず。主要の稼穡は米、黍、豆、及び麻等なり。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/761529/42

永田健助「万国商業地誌」1889年 ※明治22年

朝鮮
土地は特に豊饒と云ふべからず。加ふるに耕種法頗る拙劣を極む。
其農産物は菽麦、米、煙草及び木綿と為す。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/803539/74

伴山三郎「近世万国地誌」1889年 ※明治22年

朝鮮
土地沃饒にして耕作開け産物は米麦綿燕菁等を生じ又人参を産し・・・
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/761055/20

前橋孝義「万国地理」1889年 ※明治22年

○朝鮮(p30~)
土地は概ね豊饒にして耕耨その宜しきを得産物の重もなる者には米、粟、菽、麦及び人参等あり
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/904054/38

内閣統計局「海外各国国勢要覧」1890年 ※明治23年

朝鮮(王国)(p21~)
○農業 国中山岳多く耕植に適すべき所少なし。沿海豊饒の地に産する者は米、黍、麻、煙草及び諸種の菓実なりとす。

○貿易 1887年
輸出
米 90(千弗)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/805770/17

クラーク「万国地理問答大全」1891年 ※明治24年

第二十七章 朝鮮(p200~)
(11)其重なる物産は何ぞ
米穀煙草人参鉱物等多く此国に産す
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/761696/111

渡辺松茂「万国小地誌 : 試験答案」

○第二章 朝鮮(p13~)
土地豊饒にして米、粟、菽、麦及び人参の類は其産物中重もなるものとす
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/761532/20

矢津昌永「朝鮮西伯利紀行」1894年 ※明治27年

韓人の食物
久しく当地にありし、或る軍医の説に、翰人の食物は日本人の食物よりも、比較的に滋養に富めりと言ふ、或は然らん、今序に韓人の食物を記すべし、朝鮮は米食人にして、米を以て重もなる食物とし、間々大豆、小豆、麦を混するものあり、米は日本の如く丁寧に精げす(尤も田舎)故に米粒に斑点あるを、恰も掃除を怠る、喫烟家の歯の如し、炊き方は頗る軟かなり、・・・」(p33・34) 

中村五六「中等中地理. 万国誌」1896年 明治29年

(二)朝鮮(p13~)
(物産)国中、耕耘未だ洽からずして、不毛の地多し。主なる農産物は、米・粟・菽・麦・人参等にして
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/761388/14


【百人斬り】皇軍軍人の「僕」の用例


百人斬りを否定する歴史修正主義者に、「軍人は僕などとは言わない」という主張があるそうだ。
「(軍隊では)ボク・キミ・アナタ・ワタシ等は絶対に口にできない禁句に等しかった」、「一人称代名詞は原則として使ってはならず・・・使う場合は『自分』であって、他の言葉は使えない」、「軍隊語の二人称代名詞は俗説では貴様だが・・・私自身、将校同士が貴様と言い合った例を知らない」、貴公のはず。山本七平は自身の将校経験から会話文を分析する。軍隊ではこれを叩き込まれ、三カ月もすれば反射的に軍隊語が出てくるという[56]。

^ 288,287頁『私の中の日本軍』山本七平 4カ月ぶりに家に帰ったとき、私が「自分は・・」「自分は・・」というので、家のものがおかしがった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BE%E4%BA%BA%E6%96%AC%E3%82%8A%E7%AB%B6%E4%BA%89#%E4%B8%BB%E3%81%AA%E5%90%A6%E5%AE%9A%E8%AA%AC

以下は、「僕」「私」「君」などの用例
社会記事資料(其の二七)(九―八后)海軍軍事普及部報道班

二、壮絶なる第一回南京爆撃
「功名話ではない、諸君の行った事を銃後の人々に伝ふる事も一の義務と思ふから感想を語って呉れ」と強いて口を割らしたのが本文である。ポツリポツリと各人が語ったのを私の方で纏めたもので文責は勿論筆者にある。
「今迄の内で一番印象深いのは何と云っても第一回の南京の爆撃だ」とT司令は語る。「皆が初陣で・・・それから第一回空襲の時が本隊では最も多数の犠牲を出したんだから、僕としてはどうしても忘れられないね」(1・2枚目)

H隊長はポツリポツリと当時の模様を語る。・・・
私の隊のY隊○機は胡宮飛行場、I隊の○機は大教場飛行場を爆破し・・・私はI隊の一番機に乗ってゐましたが、爆撃を終った時敵戦闘機五機と遭遇し空中戦をやりました。・・・其時私の乗ってゐる一番機にも被弾が多くて偵察員の渡邊兵曹長は機上で戦死し・・・部下一同が沈着に銘々の任務に従事してゐる模様を見て、私は大丈夫敵地突破が出来ると思って決して絶望的な考へは起りませんでした。午後九時半ピッタリと基地に着いた時、私は平素の訓練の賜物と思ってシミジミ部下の信頼性を深めました。(2~4枚目)

司令は此話をジッと聞いてゐたが
「『我れ単機片舷機飛行中速力○○浬』と無電が来てから約七時間何とも云って来ないんだもの、僕はもう君の所の一番機は四番機と同じ運命だと諦めてゐたね、ハハ、、、、、」と寂しく笑った。
当日損害を受けたのは右のI隊とH隊だったがH隊長は語る。
私の隊は支那大陸にとり着いた時は何にも見へぬので、既に他の隊と別れてゐました。・・・と同時に私の所の四番機が敵弾の為火災を起し傾き乍ら次第に・・・別に悲観的な気持にはなりませんでしたけれども成功の割に私の隊丈け犠牲が一番多かったので、・・・
(5・6枚目)

司令は語を次で・・・「犠牲者に対しては誠に同情に堪へないが、何しろ第一回南京爆撃の効果は全く偉大だよ、想像も出来ぬ悪天候を冒して敵の主都を爆破したんだから、支那全土は勿論、全世界を震駭さしてゐるよ。僕なんか東京であの号外を手にした時涙がボロボロ出たね、では第二回の痛快な所を」(7枚目)

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レファレンスコードC11081077700
防衛省防衛研究所>海軍省公文備考>⑩公文備考等>その他>社会記事資料 昭和12

社会記事資料(其の二八)(九―九)海軍軍事普及部報道班

三、溜飲を下げた第二回南京爆撃
(軍官学校と参謀本部とを粉砕)
「八月十九日だった。私はK、T、Hの三ケ○隊を引卒し勇躍して隊を出発しました。・・・」と○○隊長は「モウ爆撃談には興味が湧かぬ」と云ったんだが腰を乗り出した。(1枚目)

・・・「僕は各隊から無線報告を読むと結果がとても素晴らしいし味方の害はチッともないので急いで隊内の皆に知らせてやった」と司令は嬉しそうな顔して語る。横から主計長が、「私は、祝杯の用意をしませうと司令にお勤め〔ママ〕したんです。(3枚目)

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防衛省防衛研究所>海軍省公文備考>⑩公文備考等>その他>社会記事資料 昭和12

社会記事資料(其の二九)(九―一〇)海軍軍事普及部報道班

四、陣営素描(其の一)
「近頃は敵も中々楠流の戦法をやりますよ」とT中尉は語る。・・・「僕は自分の眼を疑った事が一つあった。それは何日だったか爆撃を終っての帰途、スッカリ暗くて何も分らない。・・・(1枚目)
元気な商船学校出身のО中尉が語る。
「敵の戦闘機は集際〔ママ〕よくつけて来ますね、あの真暗の中にいつの間にか直ぐ後からシュッシュッと焼夷弾を撃つんです。尤もコチラの戦闘機を見ると逃げるそうですけど、僕等の此の大きな奴には感心にくっ着いて来る。それでも振り放すと暫くは見えなくなる。随分向ふでも苦心しているでせう。」(2枚目)

「でも君の崑山鉄橋爆破はウマク行ったね、此の写真はО中尉御自慢の写真ですよ」とT大尉が鉄橋の真中に爆弾が命中した写真を見せて呉れた。最後にО隊長が、
私共はモウ無神経になりかけてゐます。尋ねられると今言った様な話も
ありますが、・・・(5枚目)

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防衛省防衛研究所>海軍省公文備考>⑩公文備考等>その他>社会記事資料 昭和12

社会記事資料(其の五五)一〇―八、后 海軍軍事普及部報道班

痛快!巡歴低空偵察行 
    天性の鳥人間間瀬兵曹長
・・・最近同方面基地から帰った航空本部前田中佐は、同兵曹長の快翔振りを次の如く語った。
「間瀬兵曹長は以前から僕は知ってゐるが、全く海軍航空界の勇士だ。・・・(1枚目)

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社会記事資料(其の七四)一一の二后 海軍軍事普及部報道班

支那避難民に灑ぐ武士の涙
一等水兵 神山恒男
私達は共同租界の避難民整理及び便衣隊狩をしてゐました、一日、幾万人といふ避難民が私達の警備してゐる所を通りますが実に悲惨なものです。・・・私達は避難民に対してはやさしくしてやります。各国の外人にも特に優しくしてやりますので上海の外人はとても陸戦隊に好意を持って居ります、或は米国人と思ひますが私達の警備してゐる近くに大きな青物市がありまして其処から持って来てくれたと思ひますが、バナヽを沢山持って来て子供の云ふやうな日本語で「御苦労様さま」と言って置いて行きました。その時は私達は幾度も礼を云ひましたがまた何となく心強く感じました。(4・5枚目)

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社会記事資料(其の一一一)六―四、前 海軍軍事普及部

還らぬ海の荒鷲からの国防献金
韶関空襲の散華奥西二等航空兵曹の遺書
 故海軍二等航空兵曹奥西静夫は本年二月二十一日粤漢線韶関空襲に参加した際、不幸敵弾を受け、愛機諸共肉弾となって敵陣地に突入、壮烈なる戦死を遂げたものであるが、奥西兵曹は予てこの事あるべきを予期して出陣に臨んで両親宛に次のやうな書翰を送った。・・・

出動に際し両親に送れる書翰
警備を終へて去る五日帰還致しましたが、漸く整備も完了致しましたので又愈々明十四日の朝八時○○航空隊を出発して敵地に向ふことと成りました、又暫くの別れですけれど今度は○○基地に居た様な具合に安閑としては居られません
敵地の中に在る飛行機ですからね、弾丸も毎日飛んで来るやうな地ですから相当に危険も伴ふことと思はれます
私達の航空隊の先発隊員は今頃は毎日勇敢な上海爆撃を決行して偉勲を挙げて居ります
今度は私達の番ですよ
大いに此の際平素訓練して来た腕を試しませう
・・・私は一人身ですから何の心配もありません、只々一意専心報国の誠を効す決心、決して御心配下さいますな・・・(1~3枚目)

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社会記事資料(其の一一五)六―一八后 海軍軍事普及部

白○の勇士が語る広中路の激戦
鮮血淋満 伝令に従事した岡崎一水

今岡崎一等水兵は湯の里大分県亀川の別府海軍病院で静かに傷を養ひながら、幸満足に残った左手だけで一週三回の「ミシン」教育を受けてゐるが、さすがに昔は相撲二段の猛者、見るからにガッチリとした体格の持主で、ベッドにドッシリと腰を下ろして、そゞろに激戦の当時を偲びながら大きな眼を輝かして次のやうに語った。
私は八月十五日の晩から明方にかけて潜伏斥候に出て居りましたが、夜明け方二名の敵兵をチラと発見しました。薄闇を通して尚よく凝視ると其の遙か後方に当って白壁の家を背景として敵の大軍がクッキリと浮び上って見えます。それが丁度我が広中路陣地の略真正面でした。
私は直ぐ陣地に帰ってこの事を小隊長に報告しましたが、果して午前五時頃になると、約三千に余る敵兵は・・・
小隊長園畑兵曹長は直に「突撃」と叫んで、自ら陣頭に立って白刃を揮って戦って居られました。私も一人で手榴弾を五、六十発は投げたと思ひます。・・・
私は本部に飛込んで、「園畑小隊全滅」と叫んで報告しますと、中隊長貴志中尉は、何も言はず、いきなり日本刀を引抜いて、「集まれ」と一言怒鳴られたと思ふと其処にゐた七名を引具して直ぐ外へ飛び出して行かれました。あれが私の見た貴志中隊長の最後の姿でありました。・・・
相撲部員が私の外に二人居りました。あの右腕をやられたので、銃の床尾を右小脇に挟み、左手を添へて敵中に飛込んで行って散々格闘した上遂に戦死を遂げた小隊長伝令の兼田兼成一水と、銃が折れたのでこれを繃帯で巻き止めて尚も力闘した揚句戦死した吉原一水の二人がさうです。皆二段でした。兼田はきっと体当りをやったのだらうと思ひます。・・私は幸右手をやられたので「ミシン」をやるには却って好都合です「ミシン」の右の方にある車は手首から先がなくても右腕で結構回せます。・・・(2~5枚目)

 同じく八月十六日我が広中路陣地園畑小隊の銃隊陣地の右端機銃陣地に在って勇戦奮闘、重傷を負ひ、遂に足関節を切断するに至った海軍一等水兵(当時は二水)田村博(和歌山県那智郡山崎村大字金池)は激戦の模様を次のやうに語った。
「敵は我が陣地の右後方に迂回して後ろから殺到して来ました。あの時は我が陣地の土嚢の所までやって来て、図々しくもこちらの土嚢を台にして外側から機銃や小銃を据へて我が陣地に対して側射を始めた。私はいきなり敵の小銃、機銃を引ったくって、二名宛二回、四人を銃殺しました。どうしたのか剣が見つからなかったからです。矢張り銃剣はどうしても必要だと思ひました。
その時でした。分隊下士の今川正明二等兵曹が突然頭を抱へて「頭が割れた、割れた」と云って地上に昏倒しました。敵の手榴弾が額に中ったのを右手で攫んで投げ返したのです。
盲弾だったのです。敵の手榴弾には非常に盲弾が多かったやうです。若し炸裂したら真箇に今村兵曹の頭は微塵に打砕かれたでせう。その中に私もやられました。もう戦線では水兵も特科兵もありません。・・・(7・8枚目)

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社会記事資料(其の一一六)六―二二、后 海軍軍事普及部

孝感上空に散った櫻井兵曹長の遺書
得猪機の操縦員
 ・・・戦史後遺品整理中次のやうな遺書が発見された。・・・
前略寸暇を割きて認め遺す。
・・・今や私は祖国日本の隆盛と東洋永遠の平和を祈りつゝ愛機と共に敵地に散り行く。・・・
今日迄私を育て上げて下さった御両親の海山の御恩、又妻には結婚以来家計や私への面倒や潔坊の養育の苦心、共に深く深く御礼を申上げます。・・・私は悠久無限の十万億土の彼方から姿はなく声はなくとも常に見守りつゝ事の達成を祈って居ります。

妻嘉代子へ
父なき潔坊にとりて母たる御身は絶対必要な存在であることを忘れて呉れるな。
潔坊には父たる私の血が通って居るから飛行家として適する体格でなければならぬ、必ず軍人飛行家として育てゝ呉れ、それが御身の唯一の責務であり草葉の蔭から私の最も喜ぶ事である。(2~4枚目)

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社会記事資料(其の一二〇)七―八后 海軍軍事普及部

南雄空爆の散華、藤田二等航空兵曹の絶筆
・・・当航空隊からは約○○名の精鋭が特選されて出動する事になったのですが此の名誉ある一員として選ばれた私の喜び何と言って良いか御推察下さいませ。得意の絶頂とは今の私達の心事ではないでせうか。・・・上海の華と散り護国の鬼となってこそ日頃慈み育てられた大君に対しての最大唯一の御奉公であり年来の大望が果せられた時なのです。
御父様 御母様 生を享けてより二十有余年間の言語に絶するお慈しみに対して秋市は只無言で感謝の祈りを捧げて居ります。只残念に思ふのは
二十有余年我儘だったと言ふ以外只一つとして鴻恩に御酬ひする事も出来なかったを唯一の心残りに存じますが幸にも忠孝一本の皇国に生を享けた私ですが御父様 御母様の日頃の御期待に背かない武功を立てる事によって少しでも報恩の志が○くなればどんなにか慰められる事でせう、空閑少佐の言、「吾に遭ひたくば靖国神社に来れ」僕の心境も是に勝るとも劣らう筈はございません、身辺の整理も昨日一昨日ですっかり片付きました今は只出発の命を待つばかりです。今後の行動は発表することも出来ませんし、又詳しい事は私自身にも分りませんが、海軍機の上海方面に活躍するを聞かば私達をお思ひ下さい。私も今日限父もなければ母、兄妹も無い俗界を脱した秋市として大君の為国の為活躍するつもりです。・・・(2・3枚目)

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社会記事資料(其の一二九)九、一〇―后 海軍軍事普及部

衝陽上空の大空中戦詳報
野中大尉感激の手記
機内では傷いた〔ママ〕山崎兵曹が盛に怒号して居る「分隊長敵を三機撃ち落しました、併しもう起てませぬ申訳ありませぬ」、「アヽ羽根田がやられて居ます鈴木兵曹私は構ひませぬ羽根田を介抱して下さい」振り返って見ると・・・(5枚目)

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皇軍実態集 市民を置いて逃げる(途中)

日本軍は皇軍、天皇の軍隊であり、天皇(国体・国家と言い換えてもいいが)を守るのが任務であり、一般人はしばしば見捨てられた。

 昭和二十年八月十五日、日本は無条件降伏をした。京城はこの日もきれいな夏空の朝やけで夜が明けた。私には、いつものように、楽しい一日が始まるはずだった。が、店内のあちらこちらでは従業員の人たちが顔をくもらせ、ひそひそと立ち話をしていた。電話もひっきりなしに鳴っていて、受話器をとった父は深刻な顔付きで応対していた。
 翌十六日になって父は、在留日本人を国民学校の校庭に集めて、日本人として今後とるべき道を協議することになった。しかし、集まった人々の中に憲兵や軍の関係者がいて、「敗戦はデマだ」と叫んで父の話を阻止しようとしたが、父は断固たる態度で、「これは正確な情報である。日本が無条件降伏したからには、憲兵隊も、軍隊も、言論行動を阻止することはできない」と、言いきっていた。・・・
 当時、大阪朝日新聞の支局長だった父のもとには、明確な情報がいろいろと入っていたようだった。集会を阻止しようとした憲兵隊員や軍の関係者は、その日のうちにどこに行ったのかは分からないが姿を消していた。(p460)波多野・朝鮮
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/15hikiage/H_15_458_1.pdf

 八月十二日、早朝出勤する途中で、陸軍官舎の前に補充馬廠の幹部の家族が荷物を背中に背負い、両手にも持って避難するかっこうで集まっているのにぶつかった。私はびっくりして、「どうしたのですか?」と声を掛けると、その人たちは「南に避難するので、これから会寧駅に向かいます」という返事だった。それを聞いて私はびっくり仰天だった。もう事態がそこまで、ひっ迫しているのかと思うと同時に、私たち一般人を置き去りにして逃げるのかという、何ともいえない憤りを覚えたものだった。私は急いで勤務先に行き、別れの挨拶もそこそこに家に戻った。しかし、一般人にはまだ何の指示もなく、その日は不安を高めながら過ぎていった。(p280)三木・朝鮮
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/15hikiage/H_15_279_1.pdf

 翌十日は晴天であった。レンガ建ての満鉄社宅の外壁には機関銃弾が突き刺さっており、家の中は割れたガラスとはがれた天井の漆喰が散乱して、 足の踏み場もない有様であった。駅から港に通じる広い通りは、爆弾で至る所穴が開き、切れた電 線が垂れ下がっていた。街路樹のポプラ並木は、幹が折れて歩道をふさいでいた。気が付くと、昨日あれほど頼もしく応戦していた高射砲や機関砲 が、朝から全く沈黙していた。早朝、情報収集のため司令部へ行った府尹(市長)が帰ってきて「要塞司令部はもぬけの殻、日本軍は夜中にどこかへ撤退したらしい」という衝撃的な事実を知らされた。これを聞いたときの気持ちは、どう表現したらよいのか言葉が見当たらなかった。軍は、家庭から大黒柱の父や兄を軒並み召集しておきながら、ここ一番という大事なときに、「日本国民を護る」という最高の任務を放棄して先に後退したのは何事かと憤ったが、後の祭りとなった。我々は戦場に取り残されたのである。ソ連軍との国境までは、わずか四十キロメートル、戦車なら一時間足らず戦闘機なら数分の距離しかない。街は騒然となった。(p366・367)福地・朝鮮
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/16hikiage/H_16_365_1.pdf

 鏡城を過ぎたころから、道端に座り込んでいる避難民を見るようになりました。ほとんどが女性と子供で、どの顔も汚れ、疲れた表情をしていて憔悴しきっていました。このとき、自動車の警笛と共に軍用トラックが三台、砂煙をあげ近づいてきました。停車したので、道端にいた人たちは車の前や横に集まりました。先頭車両から飛び出した下士官が、大声で「お前たちは今ごろ、何をしているんだ!道端へ寄れ、道を開けろ、命令が分からんのか!」と怒鳴りました。みんなはあとずさりをしていましたが、一人の老人が「兵隊さん、子供たちはもう歩けない。どうか子供だけでも!」と頭を下げんばかりにして頼み込みましたが、その下士官は「黙れ!どけ!」と一喝して、南の方へ走り去りました。老人は車に向かい、「お前たちは本当に日本の軍人か!国民を見殺しにするのか!」と叫びました。でも、私は日本の軍隊を、軍人を、まだ信頼していましたので、これは軍の迂回戦術のためと思い、老人の方をにらみつけるように見つめました。(p251・252)川村・朝鮮
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/16hikiage/H_16_244_1.pdf

 昭和二十年八月九日は、満州に在住している人たち、内地での原爆にさらされていた方々はもとよりのこと、多くの日本人にとって悲しい日でしたが、私たち家族やここ慶興に住んでいた日本人たちにも、忘れられない日となりました。・・・
 夜明けになると、なぜかトラックは私たち民間人を残して、兵隊さんだけを乗せて走り去りました。私たちには信じられないことでした。「なぜ!」遠ざかって行くトラックの荷台が今でも目に焼きついています。子供だった私の幼い心の中でも、兵隊さんは私たちを守ってくれる強い人なのだという気持ちを強く持っていたので、余計に口惜しさでいっぱいでした。後で母から聞いた話では、兵隊から一緒に北方に行こうと誘われたが、祖父や父は多くの同胞を残して我々だけここから出て行くような理不尽なことは、と言って断ったとのことでした。(p312)舩戸・朝鮮http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/18hikiage/H_18_308_1.pdf



皇軍実態集 体罰・私的制裁(4)

皇軍実態集 体罰・私的制裁(1)
皇軍実態集 体罰・私的制裁(2)
皇軍実態集 体罰・私的制裁(3)
の続き

 上海から船で揚子江で蘆山の横を通って南昌へ。そこの工兵第三十四連隊(椿部隊)に転属して、そこで初年兵教育を受けたのです。・・・
―工兵の教育訓練中のようすを話してください。
教育中漕舟行軍があった。四キロ漕ぎあがり、舟を陸へ揚げて、それをかついで部隊にもどる。途中、部隊へ四〜五百メートルぐらいになると、「早がけ」となる。体力ある者は早く進むが、体力無い者は「なみ足」となる。かけられないものね。すると、うしろから心身鍛練棒(樫や青竹)でなぐられる。青竹の方は割れてしまうからよかった。(p356)
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/02onketsu/O_02_355_1.pdf

新京陸軍経理学校時代
・・・また夕食後は就寝まで約二時間の自習が課せられていたが、昼間の訓練の疲れから居眠りをする生徒が多くいた。その際、間髪を入れず区隊長の竹刀による洗礼を受けたが、今にして思えばよくぞかかる試練に耐え得たものと我ながら感心している。(p104)村橋
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/01onketsu/O_01_102_1.pdf

 自分は元の第三十一連隊であった北部第十六部隊第二中隊第五班に配属された。中隊長は金野中尉であった。新兵教育は翌日からであった。起床ラッパと同時に一日の軍隊生活が始まり、消灯ラッパで一日の生活が終わるのであった。鳴り響く起床ラッパ。起床、寝具の整頓、班員の整列、点呼を受ける。点呼の際、声が低いと何回でもやり直しを受ける。
 点呼が終了すると共に乾布摩擦があった。十二月になると本土の北限、青森の寒さは想像以上の寒さとなる。その中での乾布摩擦は身に堪えるが終わると汗ばむ。意気軒昻、兵舎の部屋に帰ると寝具等の整理、整頓、悪いものは、全部木銃でひっくり返されている。驚いた。整理、整頓は教えるものではなく、覚えるものであることを知った。特に毛布は耳を揃え真四角に畳んで上げなくてはならなかった。(p436)熊谷

 昭和十八年十月一日(第十三期・前期)、美保空には一、二〇七人が入隊した(土浦空など合わせ全国で一〇、八八九人が入隊)。美保航空隊司令は『月月火水木金金』の作詞者・高橋俊策中佐である。
 「将校練習生」なる名のもとに、待ち受けていたものは厳しい海軍精神教育だった。吊床訓練、駈け足、ビンタ、バッター罰直が続いた夜、ハンモックの中で、ここへ送り出した父の顔が浮かんだ。親父を睨みながらいつの間にか眠ってしまう夜があった。(p500・501)矢部

その兵舎が第三百六部隊でありました。久留米の兵舎と違い、酷寒零下三、四〇度に耐え得るような構造であるのが目についた。・・・
 そのころは満州の内務班の方は物凄く気合いが入っており、毎晩ビンタを張られておりました。私は事務所勤務でお蔭様で逃れました。(p92)岸川

 私は昭和十九年一月に佐世保海兵団主計科に入団しました。海軍部隊の主計科は庶務、経理を掌る主計科事務室と、衣糧を掌る被服倉庫と烹炊所に分かれていますが、新兵はすべて烹炊作業です。
 入団して間もなく新兵教育のため、鹿児島県の出水海軍航空隊主計科に転属しました。・・・
 烹炊については、魚肉のさばき方、野菜の切り方等基本的なことをたたき込まれました。また夕暮れ近くになると次第に憂うつになってきます。それは毎日の吊床(ハンモック)訓練です。吊床は寝気持は満点ですが、その吊り下ろしには艦隊勤務を基本に、敏捷な動作が要求されていました。たしか、吊りに四〇秒、下ろしに一分程度だったかと思いますが、毎日一時間ぐらいの訓練には泣かされました。吊り下ろしの早い者から整列で、遅い者は毎日、例の海軍精神注入棒でなぐられ方です。(p108・109)村上

 私は昭和十六年徴集の現役兵として、昭和十七年二月一日篠山連隊へ集合して十日後に出発しました。その時、第六十八師団第五十七旅団第六十一大隊第三中隊より初年兵受領として軍曹が来てました。・・・初日一日だけお前ら内地から来たのだとお客様扱いされ、やれやれと思って寝た。翌日の起床のラッパで途端に大雷です。初年兵モタモタするな、支那風の厳しさを教えたると。何をするのも早駆けでやれと点呼の時からバンバンとビンタが飛んでくる有様です。整列が遅いと早駆け営庭五周と朝の一瞬にして全員度肝を抜かれました。(p187・189)嵯峨http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/01onketsu/O_01_187_1.pdf

 私は大正四年生まれで、昭和十年徴収で、第一乙種だったが、支那事変が始まると直ぐ、十二年八月に召集になりました。十一師団の歩兵は、丸亀・松山・徳島・高知ですが、司令部と特科隊(騎・砲・工・輜重など)は全部善通寺です。・・・
 当時の編成は、現役兵と召集を併せての部隊で、直接の教育訓練等は、主として現役下士官があたり、内務班でも激しい粗暴な私的制裁が横行していました。
 兵の態度が悪い、行動も鈍い、服装が、掃除が、整理整頓が、銃剣の手入れが悪い等々、ことごとに、なぐる、ける、竹刀や棒で打つなど、日常茶飯のことでありました。(p286・287)平井
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/01onketsu/O_01_286_1.pdf

 大正十年十月十二日生まれですから、昭和十六年徴集で、十七年の十二月に本籍地の富山の第三十五連隊留守隊へ入営しまして、一週間後に舞鶴出帆で仏領印度支那(ベトナム)のサイゴンに上陸、第二十一師団(討兵団)歩兵第三十五連隊に入りました。
私は廐当番をして、寝ていた時に放馬(馬が廐舎から逃げ出す)したので、編上靴でなぐられて顔が穴だらけになった。そのため一選抜の上等兵になれなかった。(p337)稲積
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/02onketsu/O_02_337_1.pdf

 私は帝国海軍軍人として、昭和十六年五月一日横須賀第一海兵団へ志願、入隊しました。・・・昭和十六年五月一日、海兵団入隊後、四か月間を、横須賀で新兵教育で過ごし、九月より支那方面艦隊(上海にいた)へ配属され、特設砲艦「第一〇雲海丸」に乗船、支那方面沿岸、杭州湾の舟山列島の警備につきました。・・・
 回顧して軍隊にいた間のつらくて悲しいことは、やはり第一にお説教、制裁です。私は一番多くやられたのは一週間に三十あまりです。
 「気合いがたるんでる」との理由で、精神修養棒と称する野球のバット状の棒で尻を思い切りたたかれます。それも上級者から順次に下級へと来て、一等からまた二等からというわけで階級がかわる人からそのつどやられました。もうたまりません。
 洗濯はたいたい夜の十時ごろからで、室内へ干しておくとよくぬすまれます。上級者のものをぬすまれるとまたやられる。海軍の善行章は三年無事に勤めあげるごとに一本あたえられる。昔の職人の年期のようなものです。最初の三年の間は各種の作業をする間上級者の指導監督が一つ一つあります。
 三年へて善行章がつくと監督なしで仕事が出来ます。私は善行章一本でした。しかもつぎつぎと新兵があとから入隊してくれば楽になれるけれど、私の場合はあとからくる新兵がおらぬので終始なぐられ放しで、ぎゃくになぐったことがない。
 つらかった、つらかった。あまりつらいので自殺をはかったことが二回もあった。その第一回目は砲艦の新兵時代、風呂場で首つりを考えたが、親のことを考え、一期早い古兵にはげまされて無事にすんだ。第二回目は工機学校へはいり二等兵となり、休暇で自宅へ帰り食べすぎ、帰校後下痢がつづいてかくりされた。そのため教育ぎ、帰校後下痢がつづいてかくりされた。そのため教育は受けられず受験もかなわず、「隊へ帰れ」といわれていくらあやまっても許してくれない。もうたいへんつらくていっそ死んでやろうと思いつめたことがある。代表的な思い出としてのこっている。
 そのほかにも艦内の勤務でのしんくは、古い人ばかりで自分より下の新兵がいない。年中いつもどこでも監視がつづいて、少しものんびりできないこと。食事等も汁かけ飯(小さい食器の飯を、大きい食器の汁の中へ移してかきまぜて、急いでかきこむ)を中腰の姿勢で早く早くと食べる状態である。うえの人が茶がなくて、パンパンと湯のみをはたこうものならそく罰である。あるいはぶれいこうと称して酒をのませよわせて、あとで甲板洗いやら各種の仕事を命ぜられる。苦しいことこのうえない。それも何回かやって要領がわかったから、あとでは楽になった。(p402.・404・405)大山
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/02onketsu/O_02_402_1.pdf

「駆逐艦薄雲に乗艦を命ず」昭和十七年五月二十日、横須賀田浦海軍水雷学校の卒業式のことであった。・・・艦内の空気はますます悪くなる。人の心もいらだって「罰直」も多くなる。たださえ自分の体を維持するだけのところへ、そのうえの「罰直制裁」はまことに地獄の餓鬼道のようでした。(p227)佐久間
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/02onketsu/O_02_225_1.pdf

 私は昭和十六年一月十日、帝国海軍の一員として呉海兵団に入団しました。わずか四か月間の教育ではありましたが、それはきびしい訓練でした。教育をおえて三等水兵となり、一等巡洋艦の「古鷹」に乗り組みました。
 私は高角砲左方位盤の伝令として勤務しました。艦内勤務は非常にきびしく、すこしでも動作にたるみが来ると、総員制裁として甲板整列で直心棒の洗礼も受けました。(p216)松田
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/02onketsu/O_02_216_1.pdf

 昭和十六年兵の現役兵として満州第二九八部隊(戦車十連隊)に入隊が決まり、・・・幹部候補生の座がねをつけてからは、周囲の目が今までと違いすこしでも不注意なことがあれば下士官室へ呼ばれ大目玉です。ビンタの制裁もたびたびありました。・・・一番脳裏に残っていることは正月の三日、朝の点呼の集合が遅いとの理由で上半身裸で、気温零下二十度、雪の降るなかを二時間かけ足をさせられたことです。腕は血の気がなくなり、臘のような白い色にかわり感覚はありません。かわいたタオルで摩擦するとやがて感覚はありません。かわいたタオルで摩擦するとやがてには現わせません。しかしこれをやらなければ凍傷になり、最悪の場合腕を切断するようなことになります。(p208)鈴木
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/02onketsu/O_02_208_1.pdf

 私は吉林省敦化の部隊に現地入隊した。「酷寒零下三十度」と実にきびしい寒さであった。こんな寒さのなかで初年兵の訓練は言語に絶するきびしいものであった。訓練ばかりではない。内務班における言語・行動・一挙一動・すべてが古年兵の目のなかにあった。常往座臥の間、ビンタの恐怖にさらされていた。これも国のためと思い耐えて来たのである。ビンタが国のためになるわけはないのだが、無理やりに自分にそういい聞かせていた。
 私は前述したように現役志願兵として軍隊にはいったのであってどんな苦しみも耐えるのが当然でなくてはならないはずだったが、やはり人の子、なま身である以上、たたかれて痛くない者はない。かわのスリッパで力まかせになぐられたのである。初年兵は一人残らず顔がイビツになったといえばおおげさ過ぎるように思われるが、それはまぎれもない事実であった。(p205)寺西
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/02onketsu/O_02_205_1.pdf

 満州第五百十四部隊派遣法別拉陣地第二中隊斎藤隊であった。
 各班に配属され一日はゆっくり休むことが出来たが、翌日からはきびしい軍隊生活が始まった。観測、通信、砲手、馭者と配分され、小生は通信であった。
 日ならずして二、三年兵の怒号が各班でおきた。気がゆるんでいるというビンタの私的制裁である。
二年兵の戦友を一人受け持ち先輩のすべての面倒をみた。順番のことで初年兵の役目であった。枕等よごれていると金魚の絵と水がほしいと赤いチョークで書かれ、洗濯せよとの意味であった。百メートルもはなれたくぼ地の水のたまりで氷を割っての洗濯、そとは零下三十度の寒さ、耳も手もちぎれる寒さであった。(p200)末木
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/02onketsu/O_02_200_1.pdf

 満二十歳、甲種合格、北支派遣百十師団百十連隊に現地入隊した。・・・
 訓練は三八式歩兵銃に五発の実弾をこめ、背中に九十発、両方の腰の帯革に六十発の実弾、それに二発の手榴弾、背嚢は三十キロあります。足のずりこむいばらの生えた大陸の曠野の戦闘訓練は、実に地獄以上でした。夜は銃、軍靴、衣服の手入れ不十分と古兵に指摘され、なぐられる。頬へピンタ、さらに蹴られる者等続出、いつそこの兵長を殺して自分も死のうかとなんども思いました。軍靴の手入れがすむと、翌日きまって古兵が講堂に六尺机を一メートル間隔に並べてうぐいすの谷渡り「ホホゥケキョ」といってとばせました。
 銃の手入れが悪いものは、三八式歩兵銃に着剣して「捧げ銃」をさせて膝をなかばまげと号令します。そして「三八式歩兵銃殿、自分は大行山脈の風にふかれてモサーットしていて、あなたの手入れをおこたりました。許してください」と十遍、五十遍といわないともとにしてくれません。衣服の洗濯が悪かった十人は、昼の休みの時間に全員丸裸にさせられ、南洋の土人のおどりをさせられました。このときは週番士官が通りかかって兵長はしかられました。
 士官は兵長に、歩兵操典の兵営生活の一項の暗唱を命じましたが、忘れた兵長は答えられませんでした。その後その兵長はこうたいさせられて、どこかの戦場で戦死しました。(p121・122)河原
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/02onketsu/O_02_121_1.pdf

 昭和十八年三月からの現役兵時代は、旧制高専卒で幹部候補生を志願したため、内務班ではとくに古年兵の私的せいさいの対象とされた。
 ある夜点呼のあと、初年兵全体への「みせしめだ」と称し、革のうわばきによって顔面を七十数回にわたっておう打されるというせいさいを受け、あごがはずれた。しかし、医務室ではあごをつるのみのしょちで、練兵休はあたえられず終日演習に参加させられた。もちろん食事はぬきであった。(p113)江崎
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/02onketsu/O_02_113_1.pdf

 昭和十七年十月一日、現役兵(甲種合格)として入営することがきまった。・・・駅からは役場の兵事係が山口の歩兵第四十二連隊(当時西部第四部隊といっていた)へ引率してくれた。私は正面の兵舎の七中隊へはいった。
 二等兵の教育は、どの隊も皆同じだ。毎日がビンタの連続であった。考えてみると人殺し業の教育だからこの方法が戦争要員養成には一番簡単だったとも思われる。兵舎には南京虫が多く、はじめは大変なやまされた。私の初年兵教育は軽機関銃だった。したがって、私には軽機と小銃の保管と手入れがあったため、ビンタの原因がしばしばおこった。親にもなぐられ経験がないのに、毎日、気あいを入れてやると古兵が舎前、舎後に集めて、ビンタをとった。山口の冬は寒かった。(p91・92)小川http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/02onketsu/O_02_091_1.pdf

徴兵検査では第一乙種で、十七年一月十日大竹海兵団入団です。・・・
 海軍の訓練は特に厳しかった。バッタという樫の棒、一メートル位の太い木刀というか鍬の柄のようなもので「軍人精神直入棒」と墨で書かれた棒で尻を叩く、というより殴るのです。殴られぬ日もあったが、大体平均的に殴られる日が多かった。他の班で音がすると「うちもやるか」と古兵がいって始める。これは個人のミスばかりでなく、班で一人でもあれば団体の共同責任で制裁をされるわけです。(p421)吉岡
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/03onketsu/O_03_421_1.pdf

 ある日、総員整列でバッター(軍人精神注入棒)で尻を三回殴られたことがありました。海軍に入って始めてのバッターであり、その時は褌一枚でした。整列した順に殴られるのだが、自分のところまで来る間は気持ちが悪いが、いよいよ自分だ。駈足で教官の前に行き敬礼をして、上半身を四十五度に傾けて尻を出す。最初の一発で尻に火が着いたような痛さだった。三発殴られて敬礼して「有難うございました」と礼を言って席に帰る。全員終ってひと文句いわれて解散後すぐ寝床に入ったが痛くて寝つかれなかった。(p408)中江
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/03onketsu/O_03_406_1.pdf

 私は大正十四年一月十九日生れ、甲種飛行予科練習生の第十期生です。・・・
訓練は文字通りの「月月火水木金金」でした。前ささえ(腕立て伏せ)、ビンタ、軍人精神注入棒(樫の木刀の太めなもの)で、それが折れるぐらい殴られる。「総員制裁十本」とか十五本とかで、尻が最初ははれ、黒くなり、蛸になる。それに耐えられなくなって、鉄道線路で手をとばした人もあった。飛行機に乗って「しもうた」では遅いから訓練も厳しく、体で覚えさせるためか、分隊長も黙認していた。(p401・402)重政
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/03onketsu/O_03_401_1.pdf

 翌十五年二月十日、徳島歩兵第四十三連隊に現役入隊しました。・・・目的地虎林第七百十二部隊に到着し、中隊長は張間中尉、小隊長は砲井少尉です。・・・基本訓練、各個演習、戦闘訓練はとくに厳しく、古参兵の中には支那事変や対ソ連とのノモンハン事変に参戦した猛者もいて、よくビンタ(殴る)を取られました。(p390・391)松田
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/03onketsu/O_03_390_1.pdf

 私は、同時に昭和十七年十二月、現役兵として入隊し、第百十六師団(嵐兵団)第百二十連隊での教育訓練・戦闘・転属・捕虜・復員までのことを忘れることが出来ません。・・・
 初年兵は一・二班に各二十名。いよいよ兵舎での初年兵教育が始まった。起床六時、消燈二十一時までの日課で、其の間初年兵は一分と休む時間はない。起床と同時に厩(ウマヤ)に走り馬の寝藁を出して馬の手入れ、水飼い、飼い付けで約一時間。其の後朝食前のリンチ、初年兵は馬より価値が無いと上等兵は言う。馬は兵器、兵隊は消耗品である。
 日課は、朝、馬の手入れ、四十一年式山砲の手入れ、三十八年式歩兵銃の手入れ、兵舎外の清掃、訓練学課、食前・食後・消燈前のリンチ、夜は不寝番と全く寝る時間が少ない。その上四六時中空腹である。夕食時は毎日の如く飯を前に飾って正座でリンチである。点呼五分前位にまたリンチである。やっと食事にありつく、喰う時間は一分位。
 点呼後やれやれと思っているところへ上等兵が、舎後(兵舎の後)の整列を呼び掛ける。就寝前で服は着ていない、襦袢袴下(シャツとズボン下)一枚で震えながらリンチをうける。三月とはいえ雪がちらつき非常に寒い、訳のわからぬ事を言って消燈までリンチである。滅私奉公の覚悟で入隊したが、余りのリンチで消燈後初年兵一同は毛布をかぶって男泣きに泣く。
 日本帝国の軍人精神を育てるためとはいうが、半分は上等兵の私的感情での行き過ぎで心身共に疲労困憊である。
 五月、一期の検閲も終え、ここではじめて二等兵として認められ各班に配属されるが、此処でも初年兵は生意気だと、またリンチである。(p346・348)稲井田
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/03onketsu/O_03_346_1.pdf

 私は、昭和十六年九月二十日、臨時召集令状により、京都府伏見区深草中部第三十七部隊に応召。擲弾筒班の所属でした。これが軍隊の飯を喰った初日で、どの様な苦労が待ちうけているか、またどのような裏があるか、何の予備知識もないまま連隊区司令部の赤紙令状の命令通り消耗品の一員として入隊しました。
 この日から年令に関係なく、あとからの入隊者がなければ召集解除の日まで初年兵として服務し、一日でも在隊日数の多い者が先輩となり幅を利かすという特異の社会に身を置きました。
 入隊すると理由の如何を問わず命令は絶対服従の社会で、生命のある限りこの目的達成のためには毎晩のビンタは日毎に有効でした。従って同年兵が命令違反と思われる過ちをした時は、内務班が別でも同年兵の共同責任との理由で大変なビンタを受けた、当時の苦労は今日に至るも忘れたことはありません。若し妻子が見ていたならばなさけなくて生きる気持ちも失せる思いで耐えねばならず、之が生きる男の世界かと思いました。
 従って自由な時間といえば、くさい便所にいる間しかなく、初めはどうにもならぬ思いでしたが、これしか方法がなければ辛抱して雑用は便所にいる時間を利用したものでした。内務班内におれば班長の分も古兵の分もせねばならず、自分のことは何も出来ず、午後八時の点呼後のビンタが待っているため、このようにして難を免れた次第でした。(p245・246)秋田
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/03onketsu/O_03_245_1.pdf

山浦瑞洲「一兵卒乃告白」大正元年11月18日発行 ※1912年

殺伐たる武的制裁(p25~)
 少しは愚痴も出でざるを得ず、世人が一口に「軍隊は辛い処だ」と云へど、事実宜なる哉だ。
 入営後既に一ケ月に垂んとす、然し今日迄は古参兵の新兵に対する態度も、幾分お客分扱ひの処ありしに似たり。不案内なることは教へもし、間違ひありても嘲笑されて済む位なりしが、最早今日此頃は古参兵の態度も一変し、「そんなことで新兵の勤が済むか、少しは軍隊の要領を示してやらうか」と云ふ様な調子にて、四囲の物情は頗る殺伐を示し来れり。罷り間違へば鉄拳も飛ぶ。是も非公式的の制裁法、否な軍隊の教育法ならんには、腕力の存する処主権ありで仕方なし。只だ軍隊は軍紀を以て治まる所、一切上官或は古参兵の命令、叱責、制裁には露程の反攻も、遁竄も出来ず、直立不動、眼の球も動かし得ずして、見事に制裁を受くべきは、是れ痛快と云へば痛快なるも、其の制裁を受くる地位の身にありては、聊か感慨骨肉に徹せずんば非らず。
 然れど軍隊なればとて、理由なき蛮風荒ぶ為に、鉄拳の飛ぶに非ず。新兵は新兵たるの心持にて耐任勤励せば、更に其等の心配なきこと無論なり。
 入営早々ビシビシと急劇なる軍隊感化法を行ふは非なりとて、従来の例はあるならん、然れど新兵生活の四ヶ月間に於て、「軍隊は斯の如き処なり」と云ふ観念を吹き込ましむるは、是れ軍人精神を作るに、最も必要の基礎なりとは、兼て某将校の談にも聞けり。さは云へ今日此頃の余等新兵は、何やら只だ殺伐たる空気に囲まれたるが如く感じ、・・・
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/947773/21

古兵となった晩(p105~)
 一年間鬼の如くに思はれたりし古兵は、愈々今朝満期除隊となりて帰り去れり。されど人情と云ふものは妙なものにて、其の新兵当時「頬ッペタ」を遣られて心煮ゆるを覚え恨の焔何時消ゆべくもあらざりし古兵さへ、今朝「永々お世話になったぞよ」と挨拶されたる時は、遉に懐かしさ名残り惜しさの情も起りたりき。http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/947773/62

尾上新兵衛, 鵜崎一畝「陸海軍人生活」1897年

 元より広からぬ処に少からぬ人数を詰め込んだ事であるから、其の窮屈も一方でない、中には容易に這入れないやうな処もあったので、一人の新兵が、「こんな所に這入れるものか、馬鹿々々敷」と呟やいた。
 それと聞いた上等兵の一人は、グルリと向き直って大喝一声「誰だッ?」と睨め廻しながら、チョッと舌打して、「えィ生意気野郎奴出て来い!」と手荒く其男の襟頭を引つかんで、明るい処へ引き出した。これを聞きつけた、吾が大隊区付の上等兵、ごく穏やかな上等兵は、「生意気な奴は、ドシドシぶんなぐれ!」と言い乍ら飛んで来た。
 自分は呆気に取られて見て居ると、三人の上等兵で、思ふ存分打据へて、手帳に名前を扣へた挙句に、漸く許してやった様子、此処で初めて、陸軍はなかなか怖敷わいと思ひ初めた。それは自分許りでなく、全船の新兵は皆かう思ったに違いない。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/843346/9

第四 学科
入営した翌日から、練兵もあれば学科もある。・・・朝の学科はよいが、午後は夜であるから、誠に閉口する、終日の練兵で、充分疲れて居るから、ぢっと坐わって居ると、何時か上瞼と下瞼が仲好く成て来る。すると、
「コリャ貴様は何を今乃公(おれ)が問ふたか云ってみろ。元より乃公は約(つま)らん者だ、貴様のやうな学者と比較者には成らんが、新兵から目を盗まれたとあっては、天皇陛下に対して相済まん。貴様は其処に学科の終るまで立っとれッ!」
と、此の位で済めば上乗だが、大概は横面を三ツ四ツ撲り飛ばされて、揚句に
「銃を持て来い!
銃を持て恐々やって来ると、衆人の正面に立たせて、
「気を付けエ……付けェ剣、捧げェ銃、其処でいーと云ふ迄立て居ろ!
こんな工合(ぐあい)で。随分辛ひ事もあるが、
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/843346/14

 食事がすむと一時間の休憩だ。だが新兵には、却て一番つらい時間だ。なまじ腰を掛ければ横着だとなぐられ、話をすれば生意気だと罵られ、室を出ればずるいと云って、一層こき使はれる。故兵共は火鉢を取りまいて、面白をかしく話して居るのに、新兵はその側へもより付けず、柱にもたれて震えて居るか、食台によりて手紙でも書く。此の二より他に所作はない。
・・・又午後の練兵が始まり、それが三時半に済んで、まづ一日の実科は終となる。 が、此後の時間が、又、新兵に取っては頗る骨だ、故兵の為に、銃の掃除、靴磨、洗濯、小使と遠慮なく使ひまはされて、揚句の果に、褒められでもするとか、ヤレ鈍馬だの、ヤレぼんやりだのと、云ひたい事を云はれて居る。それも黙って聞いて居ればよいが、出様によっては直ぐに、「生意気だぶん擲れ」を喰って、酷い目にあはされるか、左もなければ、官物棚の下に立たされる。官物棚といふのは、高さ胸にも充たない位な棚であるのに、大男が、其下に首を縮めて立て居る苦しさ。
 故兵といはれる者、軍曹と呼ばれる者も、皆一度は経歴した処だから、少しは思ひ遣りがありさうなものなので、彼奴等は順々に苛責めて得意に成て居る。これを「陸軍の申送」といふ。無教育な者が多いのだから、仕方が無いやうなものヽ、実に情ない弊風だ。尤も中には、此位にして漸々一人前に働けるやうに成る、生来の鈍物も少くはないのだ。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/843346/35

 けれども又いやなのは、「左翼集れエ」の号令だ。之は前年兵が、所謂「申送り」なるものを云て聞せるのだ。解り切た事、馬鹿々々しい事を、さも尤もらしく云って聞かせるのを、ハイハイ云って聞いて居る下らなさ加減。―これも新兵の不肖だ。
 例へば、
「今日誰であったか、麺量(めんつを食卓の上に置いて食って居った。あんな事をして見い、己達(おれたち)の新兵の頃には、貴様左の手が無いのかと云って、痺れる程打(ぶ)たれたものだぞ。あんな事があっては、己達の教育の行届かん事になる」
とか、又
「誰か先刻、君だの僕だのと云って居った。故参兵なら兎に角、初年兵の癖に生意気だ。矢張り誰さん何殿を云った方がよい」
などヽ、実にたわいもない事でいびりちらす。まるで意地の悪い姑が、嫁をあつかふ様なものだ。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/843346/37

山田北洲「新兵の生涯」1908年 ※明治41年

厳罰
・・・軍隊に於ける厳罰とは上官の其部下に対する制裁で、俗に之を厳罰と称して居る、以前は随分残忍な厳罰が流行したさうだが、近年は余程其弊を矯めて来た、是れも教育の進歩した結果で大に慶すべき現象である、然れども我輩は此制裁の必要なることを感じて居る、即ち国際法に厳罰なる規定のあるが如く、軍隊に於ても一般軍人の軍紀を引緊むる上に必要欠くべからざる良剤である、故に厳罰を以て一概に蛮風として排斥する訳に行かぬ、茲に我輩が軍隊に於て従来演ぜられた厳罰の如何なるものかを述べて見やう、
 厳罰には共同厳罰と各箇厳罰とがある、是れは我輩の区別した私物で、詰まり中隊若しくは班内の兵に対して同一に科する制裁が共同厳罰で、特定人即ち一人々々に対し下士上等兵の科する制裁が各箇厳罰と云ふのである、而して共同厳罰は数人の罪科が原因となりて全体が厳罰を受くるので、一見甚だ不公平なるが如きも、我輩は此厳罰の大に必要にして且其結果の頗る見るべきものあるを信じて居る、余の新兵時代班長から軍紀が弛緩して居るとの理由で班内の兵全体に対して厳罰を科せられた、蓋し軍隊は凡て共同一致が必要だ、若し此決心が欠如して居れば、外観如何に精鋭を装ふも事に臨むでは烏合の衆と等しいのである、而して共同厳罰は即ち此一致の精神を要請する手段となるので、各兵に於ても互に相警戒する様になる、然るに之に反して各箇厳罰は往々蛮風に流れ易く、又弊害の之に伴ふことがある、今日に於ては中隊長以下の者は仮令将校と雖も部下に対して紊りに厳罰を科することが出来ない、然れども実際に於ては上等兵や古兵共が、新兵教育の一手段として各箇厳罰を科して居る、此厳罰も或程度までは新兵の悪性を懲戒する上に頗る利益がある、殊に新兵時代は未だ固有の性癖を持って居るので、随分軍紀を紊乱する兵も雑って居るから一層厳罰の必要を感じて来るのである、然し此厳罰も適度に施してこそ効果もあれ、若し其度を過すに於ては見るに忍びざる蛮風を演ずるに至るのだ、而して斯る厳罰は多く日夕点呼の際行はれて居る、故に日夕点呼とあれば何れも皆戦々兢々として其喇叭の一瞬でも遅からむことを冀ふ程である、其厳罰の捧銃か膝姿ぐらゐなれば極めて寛大なるところなれども、人に依りては殴打る、蹴る、踏む、甚しきに至りては班内の兵をして廻り打ちの蛮風を演ぜしむることがある、其他私物棚の下に中腰の捧銃等種々なる厳罰がある、中には上等兵や古兵が其威力を利用して無防御の港湾を砲撃することもある、是れは明に国際法の禁ずる所であれば、軍隊に於ても或程度以上の厳罰は之を根絶する様にしたい、思ふに当局者は断然之を禁止したつもりであれども、班内の出来事は一々上長の耳朶に達せざる事情もあり、旁其蛮風の尚今日に存する所以であらう、然れども我輩は或人の如く全然之を廃止せよとの説には反対だ、之に依りて新兵の悪癖を矯正し且軍紀を厳粛ならしむる上に非常なる力を有して居るので、厳罰も亦新兵教育の一手段である、
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/843069/113

軍隊教育研究会「六週間現役兵の教育」1913年 ※大正2年

第六節 六週間現役兵に対する将来の希望
一 軍隊に対する地方の噂は不正当なり。
在郷軍人中軍隊の噂を針小棒大恰も地獄の如く吹聴する者あるを認むるは頗る遺憾とする所なり。嘗て之が調査をなしたるに其噂数十に達せり。例へば
 食物の不足。   四角四面な所。
 古兵の残酷。   水吸がつらい。
 古兵が仕事を命ずる所。 名誉高等監獄。
 規則の八ケ間敷イ所。 ツライ所。
 暇のない所。   寒い所。
 受診すれば成績が悪い。 演習の時倒れる。
 窮屈な所。    口答ひが出来ぬ。
 小供扱にされる。 上官が恐ろしき処。
 外出すれば成績が悪い。 体裁よき監獄。
 支給品の手入が悪しければなぐらるヽ
 新兵が酒保に行けばなぐらるヽ。
 マゴマゴすれば飯は食へぬ。
 昼の悪いことは夜寝てからやられる。
 入隊時は御客様だが十五日も過ぎればつらい。
 欠礼すれば営倉に入れられる所。
 新兵が金を持てば古兵に借りらるヽ。

国民の大学校たる軍隊が果して斯くの如き所か宜しく其真否を質し噂の原因を研究し世人の誤謬を解かれんことを望む。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/941331/16



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