【安倍】「国難突破」戦前の用例



国民新聞 1934.1.24 (昭和9)
政党・軍部手を携え難局打開に精進
政党の大同団結をも叫ぶ
床次氏の熱弁(演説要旨)

二十三日衆議院本会議における床次竹二郎氏の質問演説は左の如くである・・・議会政治の布かれたる当初に於ては尚お藩閥の余力があり、官僚の勢力がありましたに拘らず、能く挙国一致の実を挙げ、日清、日露両戦役の国難突破は申すまでもなく、あらゆる方面に亙って国勢の躍進に貢献致し議会政治を通じて朝野官民心を一にし、以て明治の聖代を築き上げたのであると信じます、
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京城日報 1934.9.12-1934.9.16 (昭和9)
朝鮮の将来 (一)
中等学校長会に臨み 宇垣総督の大講演 京城帝国大学講堂にて

而して朝鮮其の者は帝国内に於て過刻来述べ来りたる如く、内地よりも色々と尚恵まれたる特徴を有して居りますから、夫れを仔細に指摘教示して其の長所、天恵を十分に発揮して、帝国の非常時打開の先駆となり、国難突破の前衛たるべき覚悟を以て暹往すべき様、指導せしめて居る所であります、
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日本工業新聞 1941.10.2 (昭和16)
鉄・銅の特別回収へ
国民の自発的協力要請
商相“戦時物資動員の日”の放送

一日の興亜奉公日は「戦時物資動員の日」として鉄銅の特別回収に全国の家庭をあげて協力する日であるが、この日午後八時半の常会の時間に左近司商相は隣組長となってAKから十五分間鉄、銅回収の重要性を強調して隣組の自発的協力を懇請した、演説要旨左の通り

・・・今日わが国の戦時体制に物資の活用がいかに重大であり、各家庭から出されるものを国家に提供することが国難突破の上に如何に大きな効果をもたらすものであるかを御認識になるならばそれ以上は何も強制がましいことを申す必要は全くないと信ずる
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大阪毎日新聞 1942.12.8 (昭和17)
畏し、聖上の御日常
『配給米』に近い御食事
昨今、暖もとらせられず
将兵、民草と休戚を分たせ給う

毎月一日の御旬祭には陛下ただ御一方、しかも御束帯姿にて親しく賢所大前に額かせられ、大御心をこめさせ給い皇国存亡にある国難突破をひたすら御祈念につとめさせ給う御有様を拝し側近奉仕者一同は恐懼感泣している
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大阪毎日新聞 1941.12.9 (昭和16)
米艦十隻を轟沈破 飛行機多数撃墜
ハワイ空襲の大戦果

皇祖皇宗の大御前に宣戦布告を御親告 国運隆昌も御祈念
畏くも天皇陛下には八日東亜の禍乱を助長し、その非望を逞しゅうせんとする米英両国に宣戦布告の大詔を渙発し給い帝国不動の大方針を宣示あらせられたが、九日午前十時特に宮中賢所、皇霊殿、神殿に皇室祭祀令により臨時大祭を執り行わせられ皇祖皇宗の大御前に宣戦布告を御親告あらせ給い併せて国難突破の御祈念あらせられる旨八日仰せ出された、
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大阪朝日新聞 1941.1.23 (昭和16)
空前の国難到来を予想 一億一心、
突破前進せん 近衛首相の施政演説

帝国の所信を貫徹するは前途なお遼遠というべく幾多の障碍に遭遇することあるべきを予期するの要あるは固より、未曾有の国難突破をも覚悟せねばならぬ時期の到来をも予想せらるるのでありましてこの際全国民の一段の発憤努力を切望する次第であります
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大阪毎日新聞 1943.1.29 (昭和18)
物的戦力の大拡充へ 耐乏、
貯蓄を増強 大東亜の金融圏は確立
蔵相演説

乏しきに堪え、質実と簡素なる生活に安住ししかも溌刺たる意気をもって勇躍国難を突破し国運の興隆に挺進することこそ神ながらいや栄えゆくわが国民生活の真の姿であると申さねばならぬ、
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大阪毎日新聞 1941.5.29 (昭和16)
帝国海軍、不動の待機
平出大佐、必勝の決意を闡明

皇国三千年の歴史をさらに発展せしめ、大和民族万代の運命を開拓する気魄をもってこの未曾有の国難突破の進軍を明朗に勇ましくつづくべきであると信ずる
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取扱注意(新聞其の他の発表を禁ず) 

軍政監訓示
敵の反攻は周知の如く執拗苛烈を極め、世界戦局は愈々決戦の段階に入りて深刻なる様相を示しつゝあり、而も敵が常に豊富なる物質力と圧倒的空軍勢力とを以て必死の猛反攻を継続せる態度は真に侮るべからざるものあり。
之に対し帝国は今や国家の総力を最高度に結集し以て有史以来の国難突破と偉業達成とに必勝必成を期して邁進しつゝあり。・・・

アジア歴史資料センター https://www.jacar.archives.go.jp
レファレンスコード C14060799100
件名標題(日本語) 軍政監訓示 馬来軍政監 昭和18年10月14日

綱領
四 国民義勇戦闘隊員は神勅を畏み勅諭、勅語を奉体して軍人精神を養ひ軍紀に服し燃ゆるが如き闘魂を培ひて国難を突破するの気魄を振起すべし

アジア歴史資料センター https://www.jacar.archives.go.jp
レファレンスコード C13070690600
件名標題(日本語) 国民義勇戦闘隊教令/綱領

昭和九・一〇・一〇
国防の本義と其の強化の提唱 
陸軍省新聞班

五、国民の覚悟
皇国は今や駸々乎たる躍進を遂げつゝある、一方列強の重圧は刻々と加重しつゝある。
此の有史以来の国難―併しそれは皇国が永遠に繁栄するか否かの光栄ある国家的試練である―を突破し光輝ある三千年の歴史に、一段の光彩を添ふることは、昭和聖代に生を稟けた国民の責務であり、喜悦である。・・・

アジア歴史資料センター https://www.jacar.archives.go.jp
レファレンスコード C14060863100
          C14060863700

大日本国防婦人会の会旗制定に就きて 
昭和十一年三月三日 大日本国防婦人会総本部

・・・今や一日の偸安も許さず一致団結以て此国難を突破せざるべからざる非常時に直面するに至れり。

アジア歴史資料センター https://www.jacar.archives.go.jp
レファレンスコード C14020153800

東條文規「図書館の近代 私論・図書館はこうして大きくなった」

朝鮮総督府図書館
職域奉公
(昭和18年11月1日 第2次改定)

使命
訓育
3.国難突破標語(毎朝斉唱)
 今や決戦時なり
 智力精力の限りを絞れ
 不可能を可能として
 必勝を期すべし
(p111)



慶応義塾百年史中巻(後)

昭和二十年にはいると・・・また同日発せられた文部省訓令第二号によると、学徒隊編制の意義は「若き学徒の総力を茲に結集して国難突破に一路邁進」させようとするもので、(p984・985)

下村效「日本中世の法と経済」八木書店

吾々は霊位の御導きと御加護によって国難突破に邁進しなければならないと考へるのであります。・・・
 昭和十六年十一月二日 
 関係六ケ町村教職員代表 佐川町国民学校長 楠島正彦
(p288)

埼玉県近現代史主要年表(明治元年~平成28年)

20年(1945) 3月・11月 県会で国難突破決議案を可決、戦時町村合併進む。
https://www.pref.saitama.lg.jp/a0301/saitama-profile/documents/5-01b.pdf

坂上康博、高岡裕之「幻の東京オリンピックとその時代 戦時期のスポーツ・都市・身体」青弓社

 日本は満州国の承認を廻って国際世論と対立し・・・状況が生まれていたのである。それが武道の隆盛へとリンクしていく状況は、「日本精神の涵養は武道に如くものなし。日本精神旺盛ならば国難突破決して難きにあらず」という武徳会会長の鈴木壮六の訓示や、(p249)

フィリピンの反日感情(2)戦後編


フィリピンの反日感情(1)戦中編 の続き

- 衆 - 予算委員会 -  
昭和25年02月03日
○吉田国務大臣(吉田茂)
お話のうちでもつてパキスタン、インド関係は対日感情は悪くないことは事実でありますが、相当悪い国もあります。たとえばマレーなどは日本の船を寄せてくれないかという話をしましたところが、日本の船を寄せた場合にはクリーが働かない、まだ対日感情は決してよくなつておらないから、もう少し待たなければならぬという当局者の話もあります。シヤムはよいそうであります。けれどもインドネシアは私は相当悪いのじやないかと思います。フィリピンが悪いそうです、仏印もあまりよくないように開いております。

- 衆 - 大蔵委員会 -  
昭和25年12月08日
○川島委員(川島金次)
さらにもう一、二点お伺いしておきたいのですが、これも私最近まわつて来て非常に痛感しておることなんです。・・・アジア地域ことにフイリピンですが、このフィリピンにおける対日感情というものは、われわれの感じて参りましたところでは今日でも非常に險悪であります。・・・依然として戰争以来の対日感情が非常に険悪をきわめておつて、日本人が行きましても、夜分などマニラの市街は見物などができないというようなほどに悪い。・・・これはフイリピンだけでなくして、ここにも非常に重要な市場として掲げておりますところのインドネシア、インド支那、こういう方面にもフイリピンと同じように、対日感情の芳ばしからざる面が相当あるわけであります。

○池田国務大臣(池田勇人)
 川島君の言われるようなことを私は他の人からも聞いたのであります。太平洋戰争中にわれわれの同胞の犯した罪に対しまして非常に憎悪の念を持ち、それがだんだんよくなりつつはありますが、まだわれわれの想像以上に憎悪の念が残つておるということを聞いておるのであります。政府といたしましてはできるだけそういう気持が早く消えることに努力をいたしておるのでありますが、これはやはり日本国民が、ほんとうに日本国民は平和を望む国民であるということを、事実をもつて示すよりほかにないと思います。国民感情をよくするということは非常にむずかしい問題でございまするが、貿易振興その他から申しましても非常に重要な問題でございますので、政府としてどういうふうにしたらいいかということは、お互いの頭の中で考えておることであります。

- 参 - 外務委員会 - 
昭和26年02月15日
○国務大臣(吉田茂君)
・・・濠洲その他については、先ほど申した通りでありまするが、お話の通りにフイリピンは甚だ厄介だと思います。というのは、あそこにおつた日本の軍隊その他の行動に、いろいろその土地の人の恨みを買うようなひどいこともあつたようです。この間佐藤議長がフィリピンにフリーメーソンの関係で行かれるというときにも、治安状態がどうであるか、その懸念に関して行くことをやめられたというようなことも聞いておるのでありますが、又あの土地を通過した人から言つて見ても、市中の散歩もできないというようなことでかなり日本に対する空気は今なお険悪だろうというふうに聞いております。又タイ、フイリピン関係の人から、その他いろいろなことを聞いておりますが、併しこれも日本が悪いことばかりしておるのではない、いいこともしておりますし、それから又駐屯しておつた軍隊その他の行動も、直接に国民にいい感じを与えておる部落と言いますか、地方もあるらしいのでございまして、一概に悪いとは言えないようですが、少くともマニラの状態、空気は甚だ悪くて、今なお危険な空気もあるというようなことは、これは事実であろうと思います。そこでこの関係を元の関係に直すのには相当の時間がかかるのみならず、我々として更に努めなければならんと思いますが、仕合せに村田省蔵君などというような人は友人も持ち、又いい関係も作つておるようでありますから、こういう人の講和後においての努力によつて、フィリピンとの間の関係がよく行くことに相当努むべきであり、努めなければいけないと思います。併しそれにしても、なお相当時間がかかると思います。マニラが一番憂慮すべき関係にあるように思われます。

- 参 - 法務委員会戦争犯罪人に… -  
昭和26年12月12日
○参考人(吉村又三郎君)
・・・現在のフイリピンの現状をちよつと参考までに申しますと、私の知る限りにおいて、最近二世のアメリカ人がフィリピンの酒場で、勿論二世ですから英語で喋つていたのでしよう。ところが途中で日本語になつたら間もなく殺されてしまつた。だから日本人だとすればとにかく遮二無二やつつけてしまうというくらいの空気が非常に強い。それから曾つて私と相当親しく連絡しておりましたフィリピンの某氏のごときは、あなたにフイリピンに来てもらいたいのだけれども、遺憾ながらあなたが日本人であるから生命の安全の保障はできない状態であるから、ここ数年待つてもらいたいということを言つておる。まあこういうふうな状態にあるのでありまして、・・・

 - 衆 - 法務委員会 -  
昭和27年02月14日
○黒田参考人(黒田重徳)
私黒田であります。本席でいろいろな戰犯にすることを述べさせていただくことは、私のたいへん仕合せに感ずる次第でございます。私は開戰戰当時は東京にある陸軍の教育総監部の本部長をしておりました。翌年の七月にシンガポールが落ちたあとに南方総軍の寺内さんの総参謀長になつて、その幕僚長で参りました。それから十八年の五月にフィリピンの軍司令官に参りまして、十九年の九月に交代、十月に内地に帰りまして、十二月に陸軍をしりぞきました。終戰後九月に米軍に監禁されまして、四七年十月にフィリピンに連れて行かれまして、裁判を受けて、四九年の七月に終身刑を受けてただいままでおりました。昨年の十月二十三日に大統領の特赦をもらつて帰つた次第でございます。
・・・比国人の対日感情というものは、なかなかまだ納まりそうにはないと思います。しかしこれはやはり時日が来なければなかなか簡單に行かぬのではないかと思います。

 - 参 - 厚生委員会 - 
昭和27年02月14日
○証人(赤津勇一君)
 私は昭和十九年に比島に参りまして、昨年の四月に帰つて参りました。・・・
 抑留邦人の状況ということになつておりますが、私一人でおつたのでほかのことは全然知りません。ただ向うの人が私に対して与えてくれた取扱のとについてちよつと申上げますと、大変親切であります。・・・ただ一般住民から大分反感を買つていたので、成るたけ外には出ないようにということで、キヤンプの中で自由に往来しておりました。ときどきマニラに行きますと、マニラの住民は相当に感情が悪いようでありました。

- 衆 - 海外同胞引揚及び遺家族… -
昭和27年03月12日
○神保参考人(神保信彦)
 私先般フイリピンに参りましたが、日本人として個人として、初めて行つたような関係であります。そこで今日の議題にありますフィリピン在留日本人の状況をお話します前に、御理解になる前提としましてフィリピンの情勢を簡單に申し上げたいと思います。 
 私が行きました目的は、ロハス元大統領夫人並びにキリノ大統領の招請で、お墓参りということと、それともう一つは、ロハス氏の物語りを書くので、資料編纂というのが目的でありまして、その間に皆さんとお会いして旧情をあたためるという人道的な目的であつたのであります。ところが御承知のようにフイリピンに入国するということは、今非常にむつかしいのであります。これはあとで説明申し上げますが、何といいますか、一種の鎖国政策のようなものではないかと思うのです。それで嚴密な委員会がありまして、資格を吟味いたしまして、やはりなかなか入れないようです。そうして閣議で決定するようです。そういう関係ですから、よくフイリピンの情勢がわからずにわれわれおつたのですが、行くようになりまして、一月の中ころにルパング島に日本兵が四、五名残つておるということが確認されたわけです。それからミンドロ島、ミンダナオ島及びルソン島にも残つておるという情報がだんだんと私の心によみがえりまして、残留日本人の様子を調べて来たわけであります。 
 フィリピンに行きまして気のつきますことが二つあります。それはフィリピンの対日感情が予想以上に悪いということです。これは端的に言つていいか悪いかわかりませんが、実際に悪いです。われわれは非常に甘く考えまして、政治家のある程度の政策上の問題だろうと思いましたが、実際に悪いです。たとえばパーティをやつたり、あるいはレストランなんかに行きましてボーイや何か、日本人だとわかれば必ず言います。私のおやじが殺されたの、兄弟が殺されたの、家が焼かれた。これは戦争中日本人がやつた。日本人ジヤツプジャツプと今でも言います。それからたとえば自動車に乗つて、日本人だとわかれば、運転手が言いますし、宴会などで女、ばあさんは、まだなかなか敵愾心が残つております。この民族感情が、このように熾烈にずつと根強くありますので、フィリピンの政治家としましても、この民族感情の上に外交、政治をとらざるを得ないのだろうと思います。・・・私は政治の問題はよくわかりませんが、そこでこれはどうしても対日感情が悪いということを前提に置いて、海外同胞引揚げといういろいろの政策も、交渉も進めて行かねばならぬと思います。 
 それからフィリピンで気つきますことは、たとえばマニラの町のまん中にフオート・サンチャゴという要塞があります。昔スペイン時代の要塞です。そこなどにガイド、歩哨が案内してくれますが、そうするとやはり日本が占領当時――終戦のときだと思いますが、昭和二十年ごろ、憲兵隊に留置した者を拷問をやつた部屋とか、虐殺をやつた部屋をそのまま歴然と残しておぐのです。そうして五百メートルぐらいの広い牢屋ですが、穴が掘つてありまして、ここでつるし上げて、日本人がフイリピン人を殺してそうしてここへ死骸を積んでここに埋めた。そのお墓はここなんだとよく説明します。そうしてやはり昔の残虐的なところを日本人に理解させようとするわけです。また半面に、山の中におつたゲリラも、これもやはりフィリピンでは抗日の英雄というようなぐあいになつておりますので、やはり初めは抗日的な政策をとつたのだろうと思います。その薬があまりきき過ぎて、現在のようになつたのではないかと思います。そこで日比の関係が、われわれが考えるように、いくさが終つてお互いに理解の手を差延べておるという状況でないということを前提にして研究されることを希望いたします。
 ・・・そこで大体五百名の日本人をどうするかという問題ですが、出発前に私のところにも、いろいろ手紙なり、慰問品、医療品のようなもの、それから投降するものを託されまして、荷物になりましたので船で送つておいたのですが、そうしてモーンテンルパとか、そういうところに届けるものは届け終つてしまつたのです。たとえば、私の夫がレイテ島でなくなつたから、レイテ島に行つて手紙を埋めてくれとか、あるいは北部ルソンで戦死しておるから、そこにある土を持つて来てくれとか、あるいはミンダナオのどこでなくなつたはずであるから、その死骸を探して来てくれとか、それから室中から紙をまいてくれ、水をまいてくれ、そういうことを依頼されるのですが、これはまことに情においては切々たるもので、人間のとうとい感情でありますが、これは冒頭に申し上げましたように、フィリピンの対日感情と、治安の状況をまだ御理解にならぬからだろうと思います。大体においてマニラの町も、日本人であるということがわかつたならばめんどうです。いわんや、そこから外に出るということは、日本人としてはきわめて危険で、だれも行つた者はない。いわんやレイテ島、北部ルソン島なんかの古職場にはとても行けません。それからまた日本人の無名戰士の墓というものもありません。山下、本間さんのお墓も掘られて内地に運ばれておるという話です。曹洞宗の管長さんからも、日本の仏教徒のために、経文のりつぱなのを届けられて、これをマニラの町に埋めて、そうして四十七万の英霊のかわりにマニラの土を持つて来てくれという話もありましたが、それをいろいろ外務省やマニラの市長と相談してみますと、やはり感情としては、まるで受付けないのです。まだそういうことをやるほどに日比の空気が溶け合つておりません。もしそういうことを作為的にやつた場合には、フィリピン人は墓を掘り返したり、墓地をこわしたりするという危険があるから、それはしばらく時期を待つてくれというのであります。

○神保参考人
 賠償の問題に対するフイリピン人の感じは、政府の自由党と在野のナシヨナリスタ党を通じて、やはりともに強硬だと思いました。これは民族感情として強く出るのだろうと思います。それでだんだん交渉した結果八十億というような数字は世界の情勢に合わないのだということは、民衆もその後だんだんわかりかけて来たのだろうと思います。そこで今交渉を進行中でないかと思います。

- 参 - 外務委員会 -  
昭和32年02月19日
○国務大臣(岸信介君)
・・・今回新聞に出ております、参議院議員の小西英雄君が団長となって十数名の者がいわゆる親善使節、親善使節と申しますけれども、これは言うまでもなく政府の別に公的な親善使節ではなしに、民間的なものでありましてこれはマニラの副市長ロセス氏の招聘に基いて、経費の全額を向うで保証するという形で招待によって渡航がなされたものでありますが、そのうちに一人元憲兵であった柳瀬氏が加わっておりましてこれが向うで新聞に取り上げられ、その他のことで問題を起したわけであります。御承知のように今日の旅券の発給する場合におきまして申請書には軍歴を書くということの何がございませんので、柳瀬氏も軍歴のことは一つも書いてありませんで、従って外務省がこの旅券を出すときには、柳瀬氏がそういう元憲兵であったという事実は実は知らなかったわけなのであります。しかしこの一行が向うへ参りまして、柳瀬氏が憲兵であったということが新聞に掲げられ、また一部に取り上げられまして、相当に問題が起った。もっとも柳瀬氏は今の上院議長のロドリゲス氏とは特別の関係が個人的にある人であります。いろいろこれらの人々が仲介に立って柳瀬氏を日本へ早く帰したらよかろうということで、柳瀬君は一行よりも先に帰って参りました。それから最近に小西参議院議員も帰って参りまして、当時の事情を私は小西議員からも聞いたわけでありますが、日本の新聞に報ぜられたほど現地では大きく取り上げられたわけではなかったようであります。しかし戦争の当時の日本憲兵に対するフィリピンの大衆の国民感情というものは、まだ全然拭い去られたというわけではございませんので、このことが国民の大衆の一部に当時の忌まわしい記憶を呼び起したりして、せっかく日比の間の感情がそういうふうに好転していっている際に、こういうたとえ小さいことであっても起ったということは私遺憾であると思います。


Ⅱ桑港編
8 7日午前 第6回全体会議
 シリア・サウジアラビヤ・ヴェネズエラ・ウルグァイ、ホンデュラス・ニカラガ・カナダ・インドネシア・フィリピン・ルクセンブルグ・イラン・ペルー・ブラジル・グァテマラ14国代表の意見開陳が行なわれた。なべて条約案を支持した。・・・
 フィリピン代表は、抽象的な原則論に走らず平和の具体的な困難な問題と取りくまねばならぬ。フィリピンは日本の占領から言語に絶する損害をうけた。が、フィリピンはあわれみを求めるのでなく Justice を求める。フィリピンの対日態度は感情に影響されるところないとは申さぬが objective な態度をとるよう努力してきた。フィリピンの戦後の対日政策は、(1)日本が将来フィリピンその他の諸国に対して脅威とならないこと、(2)日本がフィリピンその他の国に公正な賠償を支払うこと、(3)民主的・非軍国主義的日本と平和維持のため協力することの三つである。この政策からみてフィリピン政府は条約がある点では公正にして必要をつくしていないことを指摘せざるをえない。戦争状態の終了だけを目的とするならこれでよいかもしれないが日本のような大人口をよううし長い歴史と伝統をもち産業・軍事の潜在力をもつ国と平和条約を結ぶのは重大な政治的行動である。フィリピン政府は日本の民主化を継続―日本の民主化が完成したとは信じられない、次代の日本人に期待をかけなければならない―するため日本を援助する措置が講じられるよう希望した。条約にはそういう規定が設けられていないが、日本が自由世界との接触を拡大してその民主的制度を発展させるよう希望する。日本の再軍備にたい制限を設けない条約は平和条約として唯一の例外であろう。また、憲法で軍備を放棄した日本に自己防衛のため軍備をもたせようとしているのは歴史のアイロニーである。現情勢のもとでは已むをえないが、そうでなければフィリピンは断じてこれを認めないであろう。条約は日本とフィリピンがともに参加する集団的安全保障取極めを予想しているので、フィリピンの懸念は安心させられる。最近結ばれた米比相互防衛条約は日本からの攻撃にたいし共同行動にでることを規定している。この二つがあるので、条約の安全保障に関する規程を受諾する。フィリピンは条約第14条(a)の賠償条項に満足しない。同条が連合国に与えている利益は大国だけが享受できるもので日本の占領から損害を受けた小国―賠償請求国―はなんの利益もえない性質のものである。条約は小国の請求権については寛大な条約であり大国の請求権については懲罰的条約と評してよからおう。故意による損害の賠償の原則は個人間におけると同よう国家間においても放棄するわけにはいかない。フィリピンは懲罰的賠償を請求しない。しかし、日本の賠償を役務に限定することには賛成できない。日本の経済は逐年伸張しつつある。賠償を役務賠償に限ると往時のように他のアジア諸国は経済的に日本に従属せざるをえなくなる恐れがある。フィリピンは第14条(a)に規定された以外の方法による賠償の交渉を行う権利を留保する。条約はフィリピンにとって完全に受諾しうるものではないが会議招請国の支援と日本の協力とによって条約の欠陥を軽少に合理的な補足措置によって条約規定をより衡平・正義に適うものたらしめるよう希望する。アジアは、今、自由と集団的安全保障にむかって動きつつある。日本はアジアの覇主たらんと志してアジアと世界の自由の意思の前についえた。日本がこの条約の提供する機会を利用して自由の道を歩むならば、その野望をすててアジアおよび世界で成就さるべき事業に加担するならば、この条約に盛られた希望は達成されることになるとのべ「日本国民にフィリピン国民に代ってこう申あげたい。あなたがたはわたくしどもに重大な損害を与えられた。言葉でそれを償うことはできないしあなたがたのもっておられる金や富をもってしてもこれを償うことはできない。しかし運命はわたくしどもに隣人としていっしょに生きねばならない、また隣人として平和に生きねばならないと命じた。アジアには天の下に人類は同胞という諺がある。しかし同胞とは心の問題であって開花するにはまず心が清純でなければならない。相互の間に憎悪のきばが永遠に追放されるよう希望するが、それがためにはわれわれが許しと友情の手をさしのべる前にあなたがたから精神的悔悟と再生の証拠を示してもらわねばならない」と結んだ(注)
(注)ロムロ代表の演説はその内容といいその態度といいフィリピンの対日怨恨と不信の深さをまざまざ感じさせるもので会議を通じ日本人に一番深刻な痛味を感じさしたものであった

日本外交文書デジタルアーカイブ 平和条約の締結に関する調書 第4冊
http://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/archives/sk-4.html

付録39
9月4日総理・ロムロ比代表会談録
昭和26年9月4日
松井秘書官

 吉田総理大臣よりまず「今次戦争中においてフィリピンに対して与えた被害はまことに遺憾であり、日本政府としてはできるだけフィリピンのクレームを満足させたいと考えている。ただ日本経済は連合国の援助によってようやく復興の途上にあるがなお前途は長く賠償問題は容易ではない。しかし日本としては条約第14条の義務は忠実にこれを履行する用意がある。」と述べたところ、ロムロ外相は「実はフィリピンにおいては賠償問題は非常にやかましい問題となっている、国民も今次条約の賠償条項はきわめて不満足である。反対党は遂に平和条約の全権団に全権を送ることを拒否するに至った。昨日の入電によればマニラ市において『条約反対』『米英のかいらいとなるな』『国民的名誉と自尊心をすみやかに回復すべし』等のポスターを立ててパレードが行われた旨の情報が入っている。自分は此の平和条約は調印すべしとの議論をしているが自分の立場の困難なことは御推察に難くないであろう。正直に申し上げれば、自分は戦争中、マックアーサー元帥とともにバターン、コレギドールを経て米国に逃れた。マニラの私宅は焼失し、家族は苦難の道を歩んだ、その自分が国民の意思に反してこの条約を支持せんとしているのである。自分の立場は解してくれるであろう。貴大臣も日本国民の声を代表しておられるであろう。私もフィリピン国民の声を代表せざるを得ない。そこでおたずね致し度いのはいつワシントンに出発せられるか、ワシントンに出発される前に米国を交えず直接に会見し、賠償支払の意思のある旨の確約を得たい。」と述べた。吉田総理大臣は「自分は条約調印後、直ちに日本に帰りたい。しかし条約第14条に基く会談は直ちに、又どこの場所においても開始する用意がある。東京でも良い。貴国においてでも良い。」と答えた。
 続いてロムロ外相は「ダレス特使との会談も全部賠償の問題についてであった。マッカーサー元帥も日本人は賠償を支払う意思がある。日比間に必ず満足の行くような双務協定ができることを信ずる旨の発言があった。どうか日本政府の誠意を示し直ちに階段を開始するようにしてほしい。」と述べた。
(備考)この会談はインドネシアの場合に比しロムロ代表の発言きわめてアグレシーヴであり賠償に対する関心の度合の強烈さを痛感した。しかし条約の調印をする意思は明瞭にしていたことは特筆するに値しよう。

日本外交文書デジタルアーカイブ 平和条約の締結に関する調書 第4冊
http://www.mofa.go.jp/mofaj/annai/honsho/shiryo/archives/sk-4.html

以下は佐々木靖「コルディリェラの日系人」(帝京大学短期大学紀要第32号 2012年)より
https://appsv.main.teikyo-u.ac.jp/tosho/tandai32-02.pdf

アルツーロ・ハギオ(萩尾行利)のケース6
 ユキトシは、熊本県出身の父と北ダバオ出身の母により1926年にダバオ州で生まれた。・・・やがて米比軍の捕虜になり日本人強制収用所に入れられ、敗戦を迎える。収容所では日比混血児であることからあまり警戒心を持たれなかったようで、9月のある日、米兵の目を盗んで脱走した。2か月間ジャングルに潜伏したのち自宅に帰ろうとする途中、親しいフィリピン人に出会った。この友人は、ユキトシの2人の弟がゲリラに射殺され、母もそれがショックで翌日亡くなったことを告げ、今自宅に帰ったら弟たちと同じように殺されると教えてくれた。悲しみとともに身の危険を悟ったユキトシはダバオ湾に浮かぶサマル島に逃げた。この島で彼は日系人であることを隠し、タオスグ族の漁師の家で養子のような形で家業を手伝った。この漁師の夫妻には子どもがなかった。この時に用いた名前が「アルツーロ・ハギオ」である。ここで土着のサマル族の女性と結婚した。やがて可愛がってくれた漁師夫妻が亡くなり、8年後の1953年に妻をともないダバオに戻った。しかし故郷には帰ることができず、隣町に住むことにした。ハギオ夫妻は4人の子どもを持ったが、子どもには母方の姓を名乗らせることにした。日本や日本人とまったく無縁の生活を送っていたアルツールがその後日本人と接触するのは1970年代になってからである。(p15・16)

サルバシオン・モレノ(川上美保子)のケース7
 ビサヤ諸島パナイ島のイロイロ市に住むサルバシオン・モレノは、日本人の両親を持つ残留孤児である。・・・美保子と妹は地元のビダル・モレノという農夫に拾われた。ビダルは「サルバシオン」という名を美保子に与え、2人を養子にした。名前は変えていてもサルバシオンが日本人孤児であることは知れ渡っており、地元の小学校に進学後、「お前はフィリピン人じゃない」「日本に帰れ」「ハポン(日本人)、ハポン」と罵声を浴びせられたが、耐えた。別のフィリピン人農夫に拾われた兄は、この罵声に我慢がならず、小学校を2年で中退した。兄と美保子は拾われた後に再会した。初めは、日本名で呼び合っていたが、周囲の反日感情に出会うなかで、フィリピン名のニックネームで呼び合うようになったという。妹は14歳で病死した。美保子はその後、大学に進学し卒業している。(p16・17)

北ルソンの日系人
ジャニー・ダビット(長岡良男)のケース9
 ヨシオの父は福岡県出身の「ベンゲット移民」10であった。・・・キアンガンで防空壕に隠れ住んでいたとき、ゲリラ2人がこの防空壕に入ってきた。家族は全員がイロカノ語を話せたのでいったんそのゲリラは立ち去った。しかし翌朝、その防空壕目がけて砲弾が飛んできた。父と姉妹4人は直撃弾を浴びて即死、母も3日後に死亡した。生後8か月だった末の妹は無傷だったが、やがて栄養失調状態で死亡した。同行の家族7人、つまり全員を一度に失ったのである。自身も大けがをした14歳のヨシオは、負傷した右足を引きずりながら逃げた。途中でゲリラに遭遇したが、イロカノ語とタガログ語で日系人であることを隠し通した。ヨシオは母親の姓を使い、ジャニー・ダビットと名乗ることで一命を取り留め、バヨンボンで米軍病院に運ばれた。その後2年間闘病生活を送った。退院後は生きるためにできることは何でもやったという。靴磨き、ホテルのボーイ、大工の見習い。やがて車の免許を取りジープニーの運転手になったジャニーは1960年に結婚したが、妻にも自分の日本人名はおろか日系人であることすら明かさなかった。ゲリラに「ジャニー・ダビット」と名乗ってからは日本語を口にすること、日系人であることを封じてきたのである。ジャニーが妻に自らの名を「ヨシオ・ナガオカ」と名乗り、日系人であることを明かしたのはシスター海野に出会った翌年の1973年になってからである。戦前、進学のため日本に帰っていた長兄から手紙が届いたのである。兄が親からもらった名前で生きていることが分かったのを機に、ジャニーはヨシオ・ナガオカに戻った。(p18・19)

ジュリエッタ・ロカノ(東地初子)のケース11
 ハツコの父は和歌山出身である。母はフィリピン人で、1941年4月に生まれた。・・・
 終戦後、家に帰ってくると壁は破壊され、土地は没収され、他の場所に移動せざるをえなかった。ハツコの悲劇はここから始まる。次兄が現地召集され模範的な通訳として憲兵隊に仕えていたのである。次兄は、46年2月に戦犯として山下大将とともにラグナ州・ロスバニョスで処刑された。ハツコは日本人の子どもで、悪名高い「ケンペイタイ」の妹であったのである。
 周囲からは、「兄が憲兵隊で人殺しをした。お前は、その妹だ!」と罵られ、「学校では同級生と遊んでもらえず、家に帰っても周囲の大人からも、人殺しの妹だ、と軽蔑され、敵視されました。一緒に遊んでくれる友達は、誰もいませんでした。いつも目立たないように片隅でおびえながら小さくなっている」といったいじめを受ける。いじめは小学校時代が特にひどく、母方の姓を名乗り、別の場所に引っ越さざるを得なかった。(p19・20)

シスター海野12
・・・マニラで活動していたシスターは1972年に静養のため避暑地バギオへ向かう。偶然にこの地に日本人の子孫がいることを知ったシスターは、彼らを探し出すことを心に決めバギオやその周辺のあちこちを歩き回ったのであるが、日系人を知る者はほとんどいなかった。最初の日系人に出会うまでに3か月を要したという。日系人たちはその姿を隠していたのである。しかしながら、シスターの献身的な働きによって、翌73年に28人の日系2世がバギオで終戦後初めて集まった。(p21)

カタリナ・プーカイ(大久保さだえ)のケース13
 サダエの父は1894年に広島県に生まれた。・・・地元生まれの母は子どもたちに「いじめられても逃げたりしないで。まっすぐに歩きなさい」と教えた。終戦時に15歳であったサダエは「オオクボ」の姓を使い続けていたが、そのために誹謗の対象になった。周囲からは軽蔑の意味をこめて「ハポン(日本人)!ハポン!」といじめられた。「家に石が投げ込まれたりしたこともあります。ドアや窓を閉めたまま、外へも行かずじっと家の中に隠れたりもしました。妹もただ黙って泣いていました」(p22)

ハマダ兄弟のケース14
 北ルソン・バギオのハマダ兄弟は成功した兄弟である。鹿児島出身の父親はベンゲット・ロードの工事に従事し、工事終了後もバギオに残った。製材所で働いていた1912年に労災事故に遭い32歳で死亡した。この時バギオのイバロイ族の母親のもとに残されたのが1歳の長男オセオと生後1か月の二男シナイである。当然のことながら、父親の記憶もないし日本語を習ったこともない。戦争が始まっても、日本語ができなかったため日本軍に徴用されることはなかった。兄弟はフィリピンの公立学校で教育を受けたため、自分はフィリピン人であると考え、対日協力の意思はなかったという。しかし戦後、日系人であるという理由でマニラのモンテンルパ強制収容所に6か月間収容された。その後バギオに戻って来るのであるが、「当時もし日本語ができていたら、今ごろ首はなかっただろう」と言う。

6天野洋一『ダバオ国クオの末裔たち:フィリピン日系棄民』1990、風媒社及び大野俊『ハポン:フィリピン日系人の長い戦後』1991、第三書館(pp.12-27)
7大野俊『ハポン』(pp.122-130)
9大野俊『ハポン』(pp.75-78)及び鴨野守『バギオの虹:シスター海野とフィリピン日系人の100年』2003、アートヴィレッジ(pp.51-58)11鴨野守『バギオの虹』(pp.58-68)
12大野俊『ハポン』(pp.78-87)、鴨野守『バギオの虹』(第3章)及び“MEMORIAL:TheJapaneseintheConstructionofKennonRoad”1983,PublicationCommitteeFilipinoJapaneseFriendshipAssociationofNorthernLuzon(pp.58-60)
13鴨野守『バギオの虹』(pp.86-90)
14大野俊『ハポン』(pp.215-222)及び“MEMORIAL”(pp.22-25)

東京財団研究報告書 2005-6
「フィリピン日系人の法的・社会的地位向上に向けた 政策のあり方に関する研究」より抜粋

終戦後、投降した日本軍人は米軍の収容所に収容された。8月15日の敗戦後の投降者はルソン島6100人ミンダナオ・ビサヤ地区5万2,910人、計11万4,010人といわれる24)。山下奉文大将とマッカーサーの間で交わされた停戦協定文中で、一般邦人は軍人軍属と同様に取り扱われることが明記され、一般邦人も軍人と前後して米軍の収容所に収容された。収容所はフィリピン全土に19箇所(ルソン島17、ミンダナオ島1、レイテ島1)あった。最大規模は、ラグナ湖周辺のカンルバン収容所(最大収容人員5万人)、次いでミンダナオのダリアオン収容所(同4万人)、レイテ島のタクロバン収容所(3万人)であった。このほか仮収容所が全国に34箇所(ルソン島18、ミンダナオ島8、ビサヤ諸島8)あった。収容所では1000人以上の日本人が死亡したと伝えられる。収容所における処遇の基準は次の通りであった。24)①日本人移民および日本人を両親とする子どもたちは全員強制送還②フィリピン人を母とする15歳以上の男子は父親とともに強制送還③フィリピン人を母とする15歳以上の女子は日本に行くこともフィリピンに残ることも選択可④フィリピン人を母とする15歳未満の子は全員フィリピンに残る(日本人父が連れて帰る場合は別)(p31)

戦後、日本人の財産はフィリピン政府に没収された。残留した2世は、フィリピン人の日本人に対する憎悪を一身に受け、迫害、差別の対象となった。天野洋一『ダバオ国の末裔たちフィリピン日系棄民』(風媒社、1990年)には、「お前、日本人だろう、日本人のくせになぜ日本に帰らない。ここはお前なんかのいるところではない」と銃でこづかれた、あるいは惨敗兵(略奪を業とする元抗日ゲリラ)に襲われ、「合いの子」であることをひたすら訴えて命拾いしたなどの残留2世の体験談が紹介されている。年頃の混血2世女性は、フィリピン人や中国人と結婚することで迫害をまぬがれ、生活手段を得た。夫を失った1世の妻の多くが、生活のため、フィリピン人男性と再婚した。2世は、日本人父の姓を、母の姓または母の再婚相手(継父)の姓にかえ、ファーストネームもフィリピン名(多くは洗礼名)にかえて育てられた。戦中生まれで日本人父の記憶のない2世の場合、父親が日本人であることを知らずに、継父を本当の父と思って大きくなったケースもあった。継父については「よくしてくれた」というケースと、「いじめられた」いうケースがほぼ半々であった。後者は「継父は自分と他の子(母親と継父との間に生まれた弟妹)とを区別し、自分だけにつらくあたった/学校に行かせてもらえなかった」などである。学校に通うことができた2世は、級友から「ハポンハポン」「ハポンパタイ」(ハポンは日本人、パタイは死ねの意)など、いじめられたり、からかわれたりした経験を持つ者が多い。(p32・33)

8)フクダハツエ―1944年(昭和19年)生まれダバオ在住
・・・私は1944年に生まれましたが、その後すぐに、父はいなくなってしまいました。戦争が終わった頃です。父はいなくなる前に、自分はもうフィリピンにいられなくなった、と母に言い、私を一緒に連れて行くと言ったそうです。母はそれに賛成しましたが、祖母が反対しました。その後、父は再度私を連れて行こうとしましたが、祖母の反対で連れて行けなかったそうです。近所には私のほかに日本人の子はいませんでした。「ハポン、ハポン」と皆に呼ばれ、私は意味がわからず、そのたびに泣いていました。私は、母の最初の夫の姓を使っていました。日本人の姓を使うのは、当時危険だったからだそうです。私が8歳のとき、近所の人が日本人の子はどれかと聞き、母は、私がそうだと言いました。そのとき初めて私は自分が日本人の子であることを認識しました。(p41・42)

10)トウゲエミコ―1934年(昭和9年)生まれマニラ在住
日本軍が降伏したと聞き、私たちは山から降りました。両親ともに亡くした私たち4人はそれぞれ別々に、私たちをかわいそうに思った近所の人にひきとられました。私はデグスマンという夫婦にひきとられ、すぐにルソン島北のヌエバエシハに行きました。異母姉も一緒でした。その夫妻が「フィリピン人は日本人に対して怒っているので日本人の姓は使わないほうがいい。そうすればあなたの目はあまりつりあがっていないのでわからない」というので私はFernandesという姓を使うことにしました。(p43・44)

13)ハマカワヒコイチ―1942年(昭和17年)生まれリサール州在住
・・・私はイロイロ市では爆撃の音を聞いたことを覚えています。私たち家族は父とわかれた後、イロイロ市から、母の実家のあるミヤグアオのアグダム村に行き、戦争が終わるまでそこにいて、戦後もそこに住み着きました。そこには母方の親戚全員がいました。私はミヤグアオのフィリピン小学校にあがりました。学校では日本名は使っていなかったので、学校にあがる前に母が私たちをカトリックの洗礼を受けさせたのだと思います。私は近所の子どもや学校の他の子どもたちから「日本人の子だ」といわれてからかわれました。私は泣きました。(p48)

14)フジカワニカノール―1927年(昭和2年)生まれダバオ在住
・・・私は戦後もフジカワという姓をずっと使ってきました。危険だから変えたほうがいい、と言われましたが、変えませんでした。私の子供の出生証明書の父の氏名欄はニカノールフジカワです(p49・50)

船尾修「フィリピン残留日本人」 より抜粋

長岡理三さんを父に持つ2世の良男さんは山中での逃避行の際、両親と乳飲み子を含む妹5人を相次いで亡くした。埋葬もできず遺体をそのままにして逃げたのが一生の悔いと いう。戦後は日本人に対する迫害から身を守るためにダビッド・ジャニーという母方のフィリピン名に名前を変えて生き延びた。 バギオ(ベンゲット州)ルソン島 /2010(p8)

高血圧で寝たきりのエメテリア・ファビアン・ゴンザレスさんは戦前の1934年生まれであるが、残留日本人2世ではなく3世である。祖父は大工をしていた神奈川県出身の加藤関蔵でバギオ大聖堂の建設にも携わったという。エメテリアさんの叔父は戦後になってから、日本人の子孫だという理由で殺害された。 ラ・トリニダッド(ベンゲット州)ルソン島 /2010(p10)

1936年生まれの2世ゲルマン・オオウチ・ベルンさんはこれま で一度も日本語を使ったことがない。福島県出身の父オオウチ・ イクオは家の中でも日本語は話さなかったからだ。そのせいか あまり日本人だという自覚はない。戦後は反日感情がすさまじ く、日本人であることがバレたら命の保証はなかったので、自分 の祖先は中国人だと偽って暮らしていた。 ナガ(南カマリネ州)ルソン島 /2014(p12)

永井均「フィリピンと東京裁判―代表検事の検察活動を中心として―」
(史苑第57巻第2号 1997年3月)

・・・(1945年)一一月一七日にフィリピン弁護士会全国評議会議長のアントニオ・アラネタがハリー・トルーマン米大統領に以下の書き出しで始まる書簡を送付したのである。
 フィリピン国民は、日本国天皇ならびにその共犯者の多くが戦争犯罪人として裁判および処罰に付されることから依然として免れていることにつき、重大な関心をもってこれを見まもっています。フィリピン国民は、山下泰文一味だけでなく、日本の侵略行動にかかわった他のすべての指導者を処罰しなければならないと考えています。これを行なわないならば、これらの犯罪者は、引きつづき極東の平和、ひいては世界の平和にとって脅威となるでしょう。
 このようにアラネタは日本の戦争指導者の処罰に対する国内の関心の高さと処罰の必要性を訴えた。とりわけ裕仁天皇については、その裁可によって戦争が遂行されたことを大日本帝国憲法の各条文を引用しながら例証し、「たとえ政府の最高位者としての天皇の地位を根拠とするにせよ、免罪の嘆願をだすことを約束するわけにはいきません」として、地位を理由とする免訴を拒否した。(p44・45)

(東京裁判の検事である)ペドロ・ロペスは一九〇六年一月一八日にセブ市に生れた。(p47)
一九四六年二月末、ロペスはUP記者に対して、東京での検察活動に加わること、来週にもワシントン経由で同地に向かう予定であることを打ち明け、さらに次の如く心境を披瀝した。
 日本の戦争犯罪人を起訴する検事の一人に自分が指名されたことは、フィリピンの被害が認知された証拠である。・・・私はたいへん怒りを感じている。とういうのも、フィリピンで日本人が罪のない一般市民に対しておこなった恐ろしい犯罪の数々を個人的に目撃したからである。(p49)

ところで、ロペス自身はこの(天皇訴追)問題についてどのような見解を有していたのだろうか。ここでは『マニラ・タイムズ』の記事に着目したい。・・・記事は『ロペス検事はマッカーサー元帥に対し、天皇を起訴するための証拠は十分揃っていると伝えたことを公表した」と紹介している。ここから、ロペスが―時期については不明であるが―マッカーサーに天皇を被告リストに加えるよう働きかけていたこと、そしてその試みが挫折したことが確認できる。(p52)

判決当時、フィリピンの国民は東京裁判をどのように見て居ただろうか。判決に関するニュースは新聞各紙によってフィリピン国民にももたらされた。『マニラ・タイムズ』は一一月一三日付記事のように判決内容と量刑、そして日本人の反応を淡々と報じる新聞がある一方で、突っ込んだ論評を加える報道もあった。
 たとえば『マニラ・クロニクル』一三日付の社説は東京裁判が「商社の裁き」であるという東条の主張に同意しながらも、「勝者は米国でもロシアでも中国でもない。勝者は自由であり、正義であり、人類である」と付け加え、裁判の正当性を主張した。また一二日付「マニラ・ブレティン』は社説で次のように主張していた。
 東条は彼が犯した罪は戦争に負けたことだけにあると考えている、そして彼はそのために後悔しているのだ、しかし日本人は彼と同じような考え方をしているのだろうか、戦争を計画し実行することは真に極刑に値するということが裁判の背後にある思想だということが人々の心に印象づけられるにはまだ徹底を欠くうらみがある。
 一三日付『イヴニング・クロニクル』の社説は以下のようなものである。
 ヒトラー、ムッソリーニが死に東条が処刑されても他のものが彼らに代ってその地位にすわらないとの保障にはならない。侵略戦争を行う能力は一国の指導者にあるよりもその国の国民性と彼らが住む環境の中に発見されるものだ。
 一五日付『バゴン・ブハイ』紙でも、日本は本質的に軍国主義的な国家であり、将来、再び小国、あるいは弱小国を犠牲にして拡張をはかるだろうとの危惧が表明されている。
 この他、判決よりも厳罰を要求し、あるいは裁判に内在する矛盾点を指摘する報道も見受けられた。フィリピン代表のデルフィン・ハラニーニャ判事は判決とは別に「同意意見書 Concurring Opinion」を作成、裁判所に提出し、一部の被告らの量刑が「余りに寛大すぎる」と判決を批判していたが、この意見書は『マニラ・クロニクル』紙のコラムニスト、オラシオ・ボロメオによって取り上げられるところとなった。ボロメオはハラニーニャの見解に賛意を表するとともに、すべての被告は「二度」絞首刑に処せられるべきだと強硬に主張した。さらに続けて、裁判は「表向きの頭首のために開かれたちゃちな替え玉裁判」であり、裕仁天皇も被告リストに加えられるべきだった、との不満も述べた(一一月一三日付)。(p59・60)

いまや執行は時間の問題となった。こうした状況下、広田弘毅と土肥原賢二の二人の死刑囚を含む七人の被告の弁護人は、二九日に画集国連邦最高裁判所に訴願を提出した。この動きに対してフィリピンでは、三〇日の『イヴニング・クロニクル』社説が「土肥原・広田の両戦犯は即刻処刑すべきである」と論じたように、即座に反対論が出た。さらに一二月六日に連邦最高裁が訴願を受理すると、マニラ市内の各紙は一斉にこれに反発した。反論の口火を切ったのはほかならぬロペス検事であった。翌日の『マニラ・タイムズ』はいち早くロペス検事の見解を報じている。ロペスは「国際法廷は一国の裁判所によって再審されるべきものではない」と不快感を隠さなかった。他の各紙もロペス同様、連邦最高裁の判断に疑問を呈した。
 一二月二〇日に連邦最高裁が弁護団の訴願を却下すると、フィリピンの各紙は「さぁ彼らを絞首刑にせよ」(『マニラ・ブレティン』一二月二二日)、「いまこそ彼らは死ななければならない」(『マニラ・クロニクル』一二月二二日)など死刑執行を促す見解を表明した。(p60・61)

そして裁判を終えたいま、ロペスは改めて次のように振り返るのである。
 東条、武藤、そして日本のすべての戦争犯罪人をたとえ一千回絞首刑に処したとしても、死亡した我が国民はもはや生き返らないし、無惨に捩じれてしまった生活は真っすぐにならない、徹底的に破壊された家屋さえも元通りになりはしないのである。・・・彼らの犯した過ちは決して取り消されることはない。・・・だが、もし東京裁判が打ち立てた歴史的な先例が、将来、戦争仕掛人の動機を躊躇さえる要因になれば、我々が参加したすべての時間は意味を持つことになるだろう。
 ロペスは、判決は寛大であり、「すべての被告らは極刑に処されるべきだった」とさえ考えていた。(p61)
https://rikkyo.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=1427&file_id=18&file_no=1

 山岳地帯を通り抜けて平坦部にかかると、現地人の姿が見え出しました。何か大声で叫んでいます。四、五十人の多人数です。近づくにつれて群衆から石が飛んできましたが、軍使は一切の抵抗をするなとの注意を繰り返しました。
 ある地点に来て武装解除の指示をうけ、その後は手を頭に乗せて黙々と歩くだけで、もちろん何の抵抗もできません。いや、そんな気力すら失っていたのでしょう。投石や罵倒を浴びせる現地人の気持ちも分かりますが、戦争に負け、多くの戦友を失い、しかも捕虜となっている我が身が無性に情けなく涙がこぼれました。(p141)http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/14onketsu/O_14_136_1.pdf

 収容所に向かう途中では、現地人が我々に「日本のバカヤロー!」と石を投げるのです。私はマラリアの熱が出ている中で歩いているのですが、少しずつ隊列から後退し、ビリになって石を余計投げられたという訳です。(p123・124)
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/13onketsu/O_13_120_1.pdf

第二回の捜索隊に捕まりました時、アメリカ兵が六人、日本人捕虜二人(説得役)、フィリピン兵が十人ぐらい、道案内の原住民が数人の編成の捜索隊でした。・・・途中山の中を警備兵は威嚇射撃をしながら下山しますので、不思議に思っておりましたところ、威嚇射撃の目的は、私達敗残兵を狙撃する者から守るためだと聞いて有難く思いました。収容所に連行され、九月下旬頃と思いますが武装解除されました。そしてもう逃げ回る心配もなくなった、 原住民の家に食料品の盗みにも行かずにすむと「ほっ」としました。(p625・626)

 昭和二十一年十一月、復員が出来るとのことで、月末にマニラ港に送られました。汽車(無蓋車)が市内を通過中に徐行した時、ゴミや残飯を投げ入れられましたが、その時は護衛兵が拳銃を向けるとこの嫌がらせは止まりました。(p474・475)
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/17onketsu/O_17_471_1.pdf

 放送に従うために全陣地を整理してバニオ街に集結し、武装解除され、指揮官に指示を受け、マニラに行くためトロッコを大きくしたような屋根のない車に乗せられ駅を出発しました。途中で住民の反抗により石、木材等を投げつけられて大変危険でした。時間が経過してマニラに到着、下車して比島軍の引率で徒歩で現地に到着しました。(p122)
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/16onketsu/O_16_118_1.pdf

「山を下りてからは無蓋車でマニラに運ばれました。戦争中の日本軍は、フィリピン人をかなり痛めつけたんですが、その仕返しが、戦争に敗れて捕虜となり収容所に運ばれるわたしたちにも向けられましてねえ。汽車が街の中にさしかかると、『日本ドロボウ、日本ドロボウ』と叫びながら、大きな石を汽車めがけて投げつけるんです。それに当たって死ぬ人は、敗戦のショックも重なって発狂する人もおりました。汽車を停めると住民に襲われるおそれがあるので走りっぱなしです。水は飲めないし、便所がないので排泄は貨車の隅のほうでしました。四隅に憲兵が立って見ているけど、仕方がない。
(広田和子「証言記録 従軍慰安婦・看護婦」p215・216)

 昭和二十年十一月、「ダバオに向いて行進せよ」とのことで、トラックに乗ったときもありましたが、徒歩行進では、現住民の「襲撃」が要注意でした。今も忘れぬ罵倒の声「裕仁パタイ」「山下パタイ」と天皇陛下や山下奉文大将の首切りの真似をします。そして各人に対しては「泥棒!」の罵声を女子や子供までが叫んでいました。(p283)
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/19onketsu/O_19_279_1.pdf

 昭和二十年九月二十五日、ルソン島北部のアバリに上陸しました。そして仮収容所に向かって行軍中、原住民から「バカヤロウ」「ドロボー」と罵られ、さらに石なども投げ込まれ、敗戦者の惨めさと日本軍のルソン島での行動が思い浮びました。(p472)
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/18onketsu/O_18_463_1.pdf
 
昭和二十一年十二月、待望の帰国ニュース。万歳。無蓋車でマニラの港へ行進中、現地人の心ない人が我々に石を投げ「馬鹿野郎! 馬鹿野郎!」とののしっていました。すべて隠忍自重。堪え難きを堪えて無事佐世保港へ帰国、上陸復員しました。(p312)
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/13onketsu/O_13_307_1.pdf

植民地朝鮮の実情を記した当時の資料(3)

植民地朝鮮の実情を記した当時の資料(1)
植民地朝鮮の実情を記した当時の資料(2)
の続き
朝鮮関連では「京城日報」がよく出てくるが、これは朝鮮総督府の機関紙である。
なお朝鮮は植民地ではない、という主張については過去エントリ日韓併合は植民地支配ではなかった、というウソ参照


時事新報 1920.11.3-1920.11.16 (大正9) 
朝鮮を如何にする乎 (一〜十) 
独立運動の経路=民心悪化の情勢=我朝野の態度 
京城特派員 長野直彦 (一) 

妄動予想 
独立運動の勃発以来正に二十個月を経たり当初我朝野は此妄動が此も永引き此も時局を紛糾せしむるに至るべしと想像したりしか、之を隠謀好きの朝鮮人が愚しき事を企てたりとて嗤笑せし人々は不逞の徒が日ならずして独立の不可能事たるを覚り妄動を止むるならんとは思わざりしか、縦し然らずとも事を重大視せざりしは事実ならん当時政府は聊か狼狽の体なりしも夫れは斯る事変の発生は申す迄も無く国家の不祥事なるが故に刻下に之を鎮撫せざるべからずと為し又鎮撫し得るものと為したる対策が寧ろ狼狽の余に出でたるやに、見受けられたるものあり、尤も中には此種の運動一たび勃発したる上は終熄の時期を予想し能わずと云う者もありしが其等は多く外国他民族の独立運動を引例し類推したるものにして朝鮮の事情、朝鮮人の思想、朝鮮に於ける独立運動の真相を査覈して得たる結論にあらず 軽視す 而して説者の真意は独立運動が急に終熄せずとも何程の事やあらんというに在りたり是等の外種々の観測行われたれとも要するに甚だ事を軽視せり、然れども昨年九月斎藤総督等着任の際一老兇が総務の暗殺を企て爆弾を投じてより事態日を追うて陰悪に赴き本年初春の頃より不逞団は種々兇暴なる手段を弄して民心の悪化を図り終に最近に至りては西北国境附近恰も恐怖時代を現出したるの観あり即ち曩に我朝野が事を軽視したるの過誤を立証せるものと謂うべし今日に及びては其の意外の成行きに驚きつつも尚お『多寡が朝鮮人の蠢動に過ぎず』とて前途を楽観し真摯に朝鮮の時局を研究する者甚だ少きは実に国家百年の憂患を醸成しつつあるを識らざるに由るか・・・

三) 独立運動の真相(二) 
潜在的感情 
「・・・試みに農夫にまれ又労働者にまれ其衷心を披瀝せしめよ一人として総督政治に悦服せるはあるまじ彼等は自ら識らざるにもせよ朝鮮の独立は一千五百万民の一度せる要求たるを察知し得べし独立運動は此要求を満たさんが為めに起したるものなり少数の浅慮者が米国の声援を恃み或は西伯利満洲等に於ける五六十万の移住鮮人を背景として各自の不満を遣り野心を満たさんが為めに起したるものにあらず」とは最初より陰謀に参画せしか然らずとも何等かの関係を有したりと思わるる一青年の談なり是れ恐らくは語を飾るものにあらず彼等の確信なり当時の状態に於て最も深刻に屈辱を感じたる者が先ず奮起したるものと解すべし 

官僚政治
(ロ)果して然らば人民は何故に総督政治に悦服せざりしか総督政治に何故に民心は擢る能わざりしかというに夫れは前述せし如く我国人特有の官僚的?政治思想を以て庶政を行いたると内地人の朝鮮人に対する優越感が頗る熾烈にして極めて露骨に表現されたるが為めなりと断ぜんとす・・・加之内地人の優越感は官民の別無く朝鮮人との接触に於て無遠慮に迸出して彼等の屈辱感を刺激し不逞団の所謂山野に磅●たる不平の気を●醸せしめたり

(六) 独立運動経過(二) 
運動第二期 
斉藤総督、水野政務総監等着任の際一老兇が爆弾を以て総督暗殺を企て総督は幸に其難を免かれたれども多数の死傷者を出し内地人は憤慨し朝鮮人は迷惑気に見えたり内地人の憤慨したるは其兇暴を悪みしが為めにて朝鮮人の迷惑気に見えたるは幾許か独立運動に対して期待する処あり凶暴なる手段を弄するは事に益無きのみならず或は政府が高圧政策を執るに至る無きやを恐れたるに由らざらんや。之れは独立運動の筋書き以外の出来事なりしこと後に判明したるが此事有りしより物情頓に騒然たり是れより本年三四月頃迄を吾人は第二期と呼ぶことにせん民族自決の主張に対して国際連盟会議は一顧だに与えず米国の後援も頼むに足らざるを覚りて陰謀団が失望したる時期なり而して朝鮮内に於ては不良青年輩が思い思いに徒党を組み各地に出没し文書又は口頭にて盛んに煽動を試み軍資金調達の為めと称しては強盗脅喝取財等を行い人心を悪化せしめたる時期なり実否は固より知る由もあらざれども貴族富豪仲不逞漢に強請され出金したる者ありとも聞えたるが韓国時代と異なり文明政治の有り難きは独立運動に多少の関係を有すとも生命には別条無きことを知り彼等が従来の態度に幾分緩みを生ぜし観ありたり中流知識階級の態度は依然として変る処無く下層社会は独立運動なるものを稍々解するに至れり是れ軈て人心の悪化を語るものなり 制度改廃 此間総督府に於ては憲兵警察制度撤廃の後を承けて警察機関の拡充を急施し不逞の行動に対しては峻厳なる取締りを加うると同時に所謂文化政治即ち時勢の要求に応じ民意の暢達を図る趣旨の下に連りに制度の改廃を行い或は運用方法を釐革せしが而かも乖離も去らんとする民心を如何ともする能わざりしなり四五月の交間島方面に於ける無朝鮮人団が露国過激派より供給を受けしと思き武器を携え豆満江を渉りて成鏡北道に侵入せんとし警備警察隊は軍隊の援助を得て之を撃譲したるが引続き警戒しつつある中吉林、奉天両省管内に於ける不逞鮮人は集団を成さず五々五々鴨線江を渡りて平安北道に潜入し殺人(主として巡査面長等公職を帯ぶる者を狙えるが如きも中には金銭の強請に応ぜざるが為めに殺傷されたる者あり)強盗等兇暴の限りを尽し人心を畏怖せしめ某々群の如きは郡内の各面(内地の町村に相当す)面長以下吏員全部逃避して一時其事務を廃止したるあり道庁の所在地たる義州に於てすら内地人官吏は単身外出の危険を感じたる有様にて局限的にて且軽度ながら拾も恐怖時代の現出をすら想到ぜしむべき状態なりしのみならす一派の不逞団は爆弾を密かに上海より輸入し総督以下大官の暗殺総督府其他大建築物の破壊を企てたるあり此陰謀は幸いに警務当局に於て未然に之を探知し犯人を逮捕し爆弾を押収して事無きを得たるも他の一派は平安南道警察部、平安北道警察署、同新義州停車場等に爆弾を投じ何等被害は無かりし由なるも人心を刺戟せしこと一通りにあらず斯くて本年の夏季を過ぎたり此期間を第三期と呼ぶこととせん 

 (七) 独立運動経過(三) 
職業的排日 
若し満洲西伯利方面に於ける不逞鮮人即ち職業的排日鮮人—疇昔は排韓鮮人とも称し得べかりき—が独立運動の総勘定を為すべき地位若くは成行きにあらば其勦滅は可なり厄介なりとは云え朝鮮統治上左程憂慮するにも及ばざるべきも吾人の所見を以てすれば最後の解決は朝鮮内の郷土に定住せる良民を相手とせざるべからず其良民たるや独立運動に加担せるに非ず又現在不穏の行動を為しつつあるにもあらず然れども彼等は独立運動勃発前は総督政治に対する不満、内地人に対する不快を感ずることの少からぬながら、大多数は之を如何とも致し方無き運命と諦め居たりしに独立運動起りて一年半を経過せし間に彼等は如何にして其不満を医し其不快を消し得べきかを考うるに至れり本年春頃迄は極めて平穏無事なりし地方に於てすら昨今農民が通学の児童を途に要して「倭奴の言語を学習する為め通学して何の益する処ありや」と嘲罵するより学童は通学を憚り学校当局をして困惑せしめつつあるが如き事例少からず以て民心悪化の状を察するに足るべく随って独立運動の総勘定は容易に行われ難きを知るべし殊に満洲西伯利の各地に流寓せる不頼鮮人の行動即ち平安北道地方を騒がしつつあること、豆満江沿岸に於ける武力侵入計画乃至琿春事件も独立運動の本筋にはあらず彼等の行動に依りて政府を手古摺らせ民心を動揺せしめ得べしとは考え居るならんも独立を遂げ得べき方法とは思わざるのみならず陰諜団中にても多少思慮ある者は内心彼等の行動が此上進展することを寧ろ憂懼しつつあるにあらざるか 鮮人残忍性 一朝鮮人は「満洲在留の朝鮮人は尚且可なり西伯利に放浪せる徒輩に至りては彼等が過激派化せると否とを問わず実に朝鮮人とは思われざる残忍性を備え居るを以て万一彼等が国境内に侵入することあらんか誰れよりも朝鮮人に取りて最も恐るべき禍なり」と語れるが之は一般朝鮮人の代表的意見と見るを得べし実際独立運動は今や国境方面の騒擾を背景として陰諜団が最後の手段として其のプログラムに記せりと伝えらるる「社会的反抗」に向って歩武を進めつついるが如し社会的反抗とは内地人に対する反抗なり延いて朝鮮統治を困難ならしめんとするもなり彼等は先ず内地品不買朝鮮品不売を提唱し京畿道の一部黄海通及び平安南北二□に於ては或は種々の名称を附したる団体を組織し規約を設け或は個々思い思いに之を実行しつつあり最近黄海道に旅行したる者の談に依れば朝鮮人中官公吏以外巻煙草を用いる者無く例の煙管の竿を短くして携帯し居り又衣類は朝鮮産の木綿を用いることに申合せ居る由にて内地産金巾木綿等を着用せるは十人に二三人に過ぎず夫れすら多くは他処より入込み居たる者なりしと云う西鮮地方は人心の悪化特に甚しく斯くの事は別段驚くに及ばざる程なるも吾人は二週間前慶尚南道の某郡内に於いて内地人と一切取引を為さざるべく決議した部落ありと云う報道に接したり漸次他地方に及ぶの虞なしとせず、 対内反感 尤も朝鮮人が内地人との取引を拒絶することは自ら生活の根柢を破懐するに等しく日ならずして其無諜の挙たるを覚るに至るべきも彼等の内地人に対する反感は決して消滅せず同様反抗的計画は次ぎ次ぎに手を代え品を代えて現われ来るのみならず内地人に対する反抗心は凡て優者に対する反抗心を誘発すべき傾向の既に顕著なるものあり・・・

 (九) 対策(二) 
・・・(ハ)今春普通学校入学生の多かりしこと近来各学校生徒の休学少きこと等を理由として学生の思想改まれりと称するは各学校の内地人教師が教壇に立ちたる時の感想と一致せざるの事実を否認するの勇気ありや

(十) 対策三  
・・・(ロ)政府は総督府財政独立計画が総督誠意の民心を失いたる主因とは認ざるか独立運動の勃発したる当時「総督府財政独立」なる事が朝鮮人をして朝鮮の独立可能を覚らしめ民心に悪影響を与えたりとの説ありしが或は斯くことの有りしやも知れざれども夫れは独立という語が時に取っての辞柄を供されし程のことならんと思う然るに財政独立計画其事の急激なる促進は可也無理を強行せり併合以来産業は発達せり物資輸送の便開け物価も大勢上年次昂騰し□うるに都鄙を通じて金融機関も備わり総じて経済状態の改善経済力の増進は著しと雖も税率の引上げと頻々たる新税の設定と租税以外の公課金の増加等によりて人民が負担額の増加程度は負担力の増進程度を超えたるは事実なり乃ち無埋を強行せるものなり・・・

三、国民の態度に対する疑問 
(イ)内地に於ては朝鮮の事情を知り得べき便宜を有する人にして尚全鮮各地兇暴なる不逞漢の出没し内地人に危害を加え殆んど旅行も出来ざるものの如く想像する者多しと聞く果して然るか朝鮮の事情を知り得べき便宜を有する人士中には之を知らざるべからざるが多き筈なるに何故に之を知ることを努めざるか之を知るの要無しとするか是れ疑問の一・・・
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東京朝日新聞 1920.11.16 (大正9)

朝鮮統治の根本義

鮮人の内地人に対する思想は、昨春暴動の勃発せし以来、一般に悪化せりと伝えらる。是に於てか近来朝鮮統治に関する論議行われ、不逞鮮人の盲動は文化政策の結果なるを以て、宜しく威力を以て之に臨み、寸毫も仮借する所なかるべしと説く者あり。・・・
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大阪時事新報 1920.12.3-1920.12.18(大正9)
朝鮮の治安回復 (一〜十一)
朝鮮視察を了りて 小川生

(十) 民心悪化とは何ぞや
悪化か善化か
然るに記者が京城に行った時、在住日本人の多数から朝鮮人は文化政策を謳歌して居る所か、却て反対して居る其証拠は彼等が日に増し悪化しつつあるに見 [欠] 化ではなく只日本人に対して理屈を云う様になったとか電車の中で座席を譲らなくなったとか云う意味の悪化であると云う事が解った□して見れば朝鮮人の所謂悪化とは世界の大勢に伴れて個人の権威の上に目醒めたのであって何も朝鮮人に限った事ではない、東京でも同様の悪化は沢山ある、否東京こそ本元で京城などは其出先きに過ぎぬ、而して此の意味の悪化ならば寧ろ賀すべき事である、蓋し日本の同胞となった一千三百万の人間が何時までも小供の様に何等の自覚もなく何等の向上もなく卑屈一点張りで終る様な事では日本帝国将来の上に悲しむべき事であるが之に反して彼等が斯くも自覚し向上したと云う事は我帝国に取り大なる強みであるからだ其れを日本人が悪化したと云えば彼等の向上を抑え様とするのは誤って居る。殊に文化政策を標榜する総督府が一旦発行を許した朝鮮諺文新聞が少しく階級打破、自由平等を叫び若くは内鮮人差別撤廃を主張したからと云て直に発行禁止を命ずるなどは余りに了見狭少なるを示すもので記者の断じて与せざる所である 

不平の数々
其証拠は朝鮮の知識階級に属する連中が今尚総督政治に対して無限の不平を抱いて居る事実に見て明かである、現に記者は京城に於て色々な階級の人に会ったが何れも皆総督政治に対し無限の不平を漏して居た。今其代表的のものを摘記して見ると彼等は斯う云う事を云って居る、曰く 
 日本は朝鮮の土地が取りたいのであって朝鮮民は何うなろうと一向御考えはない、現に是迄は勿論今でも朝鮮人に対しては少しも人間らしい取扱いをして下さらないではないか、此の間も私(某侯爵の所へ訪ねて来た某郡守が途中で一巡査に誰何されてマサカ自分の事ではあるまいと思って通り過ぎようとするといきなり某巡査に蹴飛され大怪我をして某病院に入院した事実がある、こんな所を見ると日本は朝鮮の土地丈けが欲しいのであって人民は欲しくないのではありますまいか、若しそうだとすれば日本は早く三百万の内地移民を朝鮮に入れて確固たる植民地を造られた方がよかろうと(某侯爵談) 
又曰く 
 内地人は動ともすれば鮮人をヨボヨボと云い、又総督府は一向吾々の自由を認めて呉れない、否其れ所か重要な地位にもつけて呉れない、現に総督府の役人名簿をご覧なさい 

[図表あり 省略] 

 右表の如く朝鮮人の地位は内地人に比し未だ甚だ低いではありませんか、之を彼の米国が比律賓に自治を認めハリソンの総督時代から上下両院は固より総督府の役人迄全部比律賓人を用い米人を一人も用いない事実や又英国が同国内閣内に印度省を設け其次官に印度人を用い、或はトランスパールの叛将ゼネラル ポータを南亜連邦の首相とし或はトランスパール出身のゼネラル スマツツを講和委員として講和会議に出席せしめた事実等に対照せば雲泥の差があります、こんな事では何うして吾々は日本に信服する事が出来ましょう、現に併合当時は吾々は日本留学を以て得意とし先を争うて之を学び且つ日本に留学し中には日本婦人と結婚したものもあった位です、其れが今日では何うです日本語を以て和奴の語となし斯かる語を学んで何んになるものかと云う思想を懐く様になったではありませんか、之れは全く総督府が吾々に自由と地位とを与えないからで、こんな事では吾々はワシントンを真似る訳ではないが「自由を与えざれば死を与えよ」と云いたくなるのです(某留学生談)と 
又曰く 
 文化政治と云うも其れは名ばかりで税は高し手続きは面倒だし到底吾々は感服せない、殊に朝鮮人の唯一の楽みは濁酒と煙草とである、其れに総督府が高い税を課けるなどは甚だ以てその意を得ない、寧ろ地租を増して此等の貧民税は廃した方が可いと(某実業家談) 
又曰く 
 内地の人は朝鮮に対し一視同仁の内地延長主義を以て臨むべしと主張して居るが総督府の官吏は依然朝鮮を以て植民地となして居る観がある、勿論斉藤総督は就任以来憲兵制度の廃止、会社令の撤廃、言論の自由解放、自治制令の発布等を決行し此主義の実現に努めて居らるる様だが其実未だ植民地風が去って居ない様である、若し真に内地延長主義を採るの雅量があるならば何故朝鮮に内地府県制度と同一の制度を布かれないのか又何故帝国議会に参与するの権利を与えて下さらないのか又何故言論集会出版の自由も内地人に許与されたると同一のものを解放して下さらないのか是等の事を考えて見ると吾々は未だ日本を信用する事が出来ないのですと(某政客談) 

東京日日新聞 1920.12.9-1920.12.19(大正9)
朝鮮半島雑記 (一縲恚)
松岡正男
 
(二)
半島国民の不平
誓え騒擾は半島国民の天牲なりとは云え、それが為に彼等の不平に耳を貸さぬは乱暴に非ざれば、怯儒か、然らざれば愚なる業である。 
 私は先ず直接に彼等から聴いた不平の数々を列記すれば大凡そ左の通りである。 

一、参政権絶無なり 
二、租税は高きに失す 
三、行政上の諸手続は煩雑を極む 
四、内鮮人の差別を撤廃せよ 
五、民意の暢達を計るべし 
六、教育の普々並に改善 
七、同共埋葬は旧慣に反す 
八、道路夫役及用地奇附の強制 
以上の不平に就て詳細に研究すれば、誤解から導かれたものもあり、又実際無理がないと認むべきものもある。而して新総督就任以来無理からぬと思わ るる大部分は制度の改正を敢行した。

(三)
吾輩は今回の旅行に於て多数の知識階級の朝鮮紳士に遭った。彼等の中には伊藤公暗殺事件に連坐して、二十六箇月間旅順の鉄窓に繋がれた、生粋の排 日者も居る、乃ち試みに彼等に「朝鮮の独立を欲するや」と問えば、彼等の多数は「然り」と答える。「然らば独立は可能性を有するや」と反問すれば、其大多 数は「否」と答える。「外らば貴公等の望む所は何なりや」と促せば日鮮人間に於ける差別待遇の撤廃なり」と答える。是は真実の朝鮮同胞の希望である。

(七)
半島の教育
・・・併し乍ら朝鮮に於ける教育には根本に於て困難なる一つの問題がある。それは畏れ多い事であるが教育 勅語を如何に奉戴すべきかと云うことである。総督府学務局では大体故重野文学博士の解釈を基礎として内地同様に之を奉戴する事に決めて居る。然るに私は本 問題に就きて、教育当路者や自ら教育の衝に当る人々の意見を尋ねて彼等の多くは教育勅語の御趣旨、御精神を伝うるよりは、寧ろ其奉戴の形式に就て、迷うて 居るものの多い事を認めた。私は彼等が一日も早く斯る形式の桎梏より脱離して勅語を捧読するよりは、寧ろ其趣旨の存する所を理解せしむるに努むべきであろ うと思う。而して直後の趣旨を半島国民に宣伝し、理解せしむるには勅語を捧読する事が決して絶対の必要事ではない許りでなく、時に之を捧読せざるの利益あ る場合もなきにしもあらざるを悟了せねばならぬ。

京城日報 1920.12.25-1920.12.30(大正9)
朝鮮現下の治安 (一〜五)
警備機関の活動と不穏分子の剿滅

(三)
宗教類似団体以外にある各種団体は参政権の獲得、社会の改善、教育の発展、育英事業、儒学の振興、労働者の救済、婦女子の覚醒、商事の発展等を標榜せるが其の多くは穏健質実の目的を有するものは皆無と云うも可ならんか殊に警備力の充実と不穏企画の検覈とに依り独立運動漸次不能となるや不逞輩は青年会又は基督教伝道隊等を組織し若くは学術講演会等文化運動の美名の下に巧みに隠語又は反語を用い排日独立思想を宣伝せんと企画せしも苟くも併合の大精神に背反し統治の方針に悖り独立を主張すと認むる結社に於ては解散を命じ、不穏の後援は悉く之を禁止すると共に一面弊害なきものに対しては斯道誘掖に努め以て当局は結社及言論に対する方針を明示せり

東京朝日新聞 1920.11.16 (大正9)

朝鮮統治の根本義

鮮人の内地人に対する思想は、昨春暴動の勃発せし以来、一般に悪化せりと伝えらる。是に於てか近来朝鮮統治に関する論議行われ、不逞鮮人の盲動は文化政策の結果なるを以て、宜しく威力を以て之に臨み、寸毫も仮借する所なかるべしと説く者あり。・・・
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10102726&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1&LANG=JA


大阪時事新報 1920.12.3-1920.12.18(大正9)
朝鮮の治安回復 (一〜十一)
朝鮮視察を了りて 小川生

(十) 民心悪化とは何ぞや
悪化か善化か
然るに記者が京城に行った時、在住日本人の多数から朝鮮人は文化政策を謳歌して居る所か、却て反対して居る其証拠は彼等が日に増し悪化しつつあるに見 [欠] 化ではなく只日本人に対して理屈を云う様になったとか電車の中で座席を譲らなくなったとか云う意味の悪化であると云う事が解った□して見れば朝鮮人の所謂悪化とは世界の大勢に伴れて個人の権威の上に目醒めたのであって何も朝鮮人に限った事ではない、東京でも同様の悪化は沢山ある、否東京こそ本元で京城などは其出先きに過ぎぬ、而して此の意味の悪化ならば寧ろ賀すべき事である、蓋し日本の同胞となった一千三百万の人間が何時までも小供の様に何等の自覚もなく何等の向上もなく卑屈一点張りで終る様な事では日本帝国将来の上に悲しむべき事であるが之に反して彼等が斯くも自覚し向上したと云う事は我帝国に取り大なる強みであるからだ其れを日本人が悪化したと云えば彼等の向上を抑え様とするのは誤って居る。殊に文化政策を標榜する総督府が一旦発行を許した朝鮮諺文新聞が少しく階級打破、自由平等を叫び若くは内鮮人差別撤廃を主張したからと云て直に発行禁止を命ずるなどは余りに了見狭少なるを示すもので記者の断じて与せざる所である 

不平の数々
其証拠は朝鮮の知識階級に属する連中が今尚総督政治に対して無限の不平を抱いて居る事実に見て明かである、現に記者は京城に於て色々な階級の人に会ったが何れも皆総督政治に対し無限の不平を漏して居た。今其代表的のものを摘記して見ると彼等は斯う云う事を云って居る、曰く 
 日本は朝鮮の土地が取りたいのであって朝鮮民は何うなろうと一向御考えはない、現に是迄は勿論今でも朝鮮人に対しては少しも人間らしい取扱いをして下さらないではないか、此の間も私(某侯爵の所へ訪ねて来た某郡守が途中で一巡査に誰何されてマサカ自分の事ではあるまいと思って通り過ぎようとするといきなり某巡査に蹴飛され大怪我をして某病院に入院した事実がある、こんな所を見ると日本は朝鮮の土地丈けが欲しいのであって人民は欲しくないのではありますまいか、若しそうだとすれば日本は早く三百万の内地移民を朝鮮に入れて確固たる植民地を造られた方がよかろうと(某侯爵談) 
又曰く 
 内地人は動ともすれば鮮人をヨボヨボと云い、又総督府は一向吾々の自由を認めて呉れない、否其れ所か重要な地位にもつけて呉れない、現に総督府の役人名簿をご覧なさい 

[図表あり 省略] 

 右表の如く朝鮮人の地位は内地人に比し未だ甚だ低いではありませんか、之を彼の米国が比律賓に自治を認めハリソンの総督時代から上下両院は固より総督府の役人迄全部比律賓人を用い米人を一人も用いない事実や又英国が同国内閣内に印度省を設け其次官に印度人を用い、或はトランスパールの叛将ゼネラル ポータを南亜連邦の首相とし或はトランスパール出身のゼネラル スマツツを講和委員として講和会議に出席せしめた事実等に対照せば雲泥の差があります、こんな事では何うして吾々は日本に信服する事が出来ましょう、現に併合当時は吾々は日本留学を以て得意とし先を争うて之を学び且つ日本に留学し中には日本婦人と結婚したものもあった位です、其れが今日では何うです日本語を以て和奴の語となし斯かる語を学んで何んになるものかと云う思想を懐く様になったではありませんか、之れは全く総督府が吾々に自由と地位とを与えないからで、こんな事では吾々はワシントンを真似る訳ではないが「自由を与えざれば死を与えよ」と云いたくなるのです(某留学生談)と 
又曰く 
 文化政治と云うも其れは名ばかりで税は高し手続きは面倒だし到底吾々は感服せない、殊に朝鮮人の唯一の楽みは濁酒と煙草とである、其れに総督府が高い税を課けるなどは甚だ以てその意を得ない、寧ろ地租を増して此等の貧民税は廃した方が可いと(某実業家談) 
又曰く 
 内地の人は朝鮮に対し一視同仁の内地延長主義を以て臨むべしと主張して居るが総督府の官吏は依然朝鮮を以て植民地となして居る観がある、勿論斉藤総督は就任以来憲兵制度の廃止、会社令の撤廃、言論の自由解放、自治制令の発布等を決行し此主義の実現に努めて居らるる様だが其実未だ植民地風が去って居ない様である、若し真に内地延長主義を採るの雅量があるならば何故朝鮮に内地府県制度と同一の制度を布かれないのか又何故帝国議会に参与するの権利を与えて下さらないのか又何故言論集会出版の自由も内地人に許与されたると同一のものを解放して下さらないのか是等の事を考えて見ると吾々は未だ日本を信用する事が出来ないのですと(某政客談) 

東京日日新聞 1920.12.9-1920.12.19(大正9)
朝鮮半島雑記 (一縲恚)
松岡正男
 
(二)
半島国民の不平
誓え騒擾は半島国民の天牲なりとは云え、それが為に彼等の不平に耳を貸さぬは乱暴に非ざれば、怯儒か、然らざれば愚なる業である。 
 私は先ず直接に彼等から聴いた不平の数々を列記すれば大凡そ左の通りである。 

一、参政権絶無なり 
二、租税は高きに失す 
三、行政上の諸手続は煩雑を極む 
四、内鮮人の差別を撤廃せよ 
五、民意の暢達を計るべし 
六、教育の普々並に改善 
七、同共埋葬は旧慣に反す 
八、道路夫役及用地奇附の強制 
以上の不平に就て詳細に研究すれば、誤解から導かれたものもあり、又実際無理がないと認むべきものもある。而して新総督就任以来無理からぬと思わ るる大部分は制度の改正を敢行した。

(三)
吾輩は今回の旅行に於て多数の知識階級の朝鮮紳士に遭った。彼等の中には伊藤公暗殺事件に連坐して、二十六箇月間旅順の鉄窓に繋がれた、生粋の排 日者も居る、乃ち試みに彼等に「朝鮮の独立を欲するや」と問えば、彼等の多数は「然り」と答える。「然らば独立は可能性を有するや」と反問すれば、其大多 数は「否」と答える。「外らば貴公等の望む所は何なりや」と促せば日鮮人間に於ける差別待遇の撤廃なり」と答える。是は真実の朝鮮同胞の希望である。

(七)
半島の教育
・・・併し乍ら朝鮮に於ける教育には根本に於て困難なる一つの問題がある。それは畏れ多い事であるが教育 勅語を如何に奉戴すべきかと云うことである。総督府学務局では大体故重野文学博士の解釈を基礎として内地同様に之を奉戴する事に決めて居る。然るに私は本 問題に就きて、教育当路者や自ら教育の衝に当る人々の意見を尋ねて彼等の多くは教育勅語の御趣旨、御精神を伝うるよりは、寧ろ其奉戴の形式に就て、迷うて 居るものの多い事を認めた。私は彼等が一日も早く斯る形式の桎梏より脱離して勅語を捧読するよりは、寧ろ其趣旨の存する所を理解せしむるに努むべきであろ うと思う。而して直後の趣旨を半島国民に宣伝し、理解せしむるには勅語を捧読する事が決して絶対の必要事ではない許りでなく、時に之を捧読せざるの利益あ る場合もなきにしもあらざるを悟了せねばならぬ。

京城日報 1920.12.25-1920.12.30(大正9)
朝鮮現下の治安 (一〜五)
警備機関の活動と不穏分子の剿滅

(三)
宗教類似団体以外にある各種団体は参政権の獲得、社会の改善、教育の発展、育英事業、儒学の振興、労働者の救済、婦女子の覚醒、商事の発展等を標榜せるが其の多くは穏健質実の目的を有するものは皆無と云うも可ならんか殊に警備力の充実と不穏企画の検覈とに依り独立運動漸次不能となるや不逞輩は青年会又は基督教伝道隊等を組織し若くは学術講演会等文化運動の美名の下に巧みに隠語又は反語を用い排日独立思想を宣伝せんと企画せしも苟くも併合の大精神に背反し統治の方針に悖り独立を主張すと認むる結社に於ては解散を命じ、不穏の後援は悉く之を禁止すると共に一面弊害なきものに対しては斯道誘掖に努め以て当局は結社及言論に対する方針を明示せり

国民新聞 1922.8.29-1922.9.23(大正11)
朝鮮の労働者 (一~十五)
鈴木文治
 
(一) 町から野へ
・・・七月の十二日に東京を発し、八月の二十日に東京に戻った。此間往復の船車に費した数日を除いては、全部朝鮮に暮したのである。或時は大洪水を冒して、舟に乗って朝鮮小作人部落を訪問した。或時は巻脚袢をつけ、災天百二十度の酷暑を凌いで農場の視察に出かけた。或は汽車の便に、或は自動車の便によって、町から野良へと視察の旅をつづけた。かくて咸鏡北道の一道を除いては、大抵の道に足跡を印した。勿論、一通りの視察旅行である。観察の範囲も狭く、且つ浅い。夫れでも私としては、一応朝鮮に対する理解を得たとの感なきを得ない。 
・・・私は右の見聞に基き、大体工、鉱、農の区別に従って、朝鮮の労働者に就いて述べて行こうと思う。

(二) 工業労働者
・・・従って朝鮮には工場法のような規定もなければ、労働争議らしいものも従来は殆んどなかった。此点のみを以て見れば、朝鮮に労働問題なしというは、現状を道破したる至言である。凡そ労働問題の発生には、二個の条件が必要であると言われる。一は労働の悲惨なる状態の存在、二は労働者の自覚、即ちこれである。知らず、朝鮮の労働者の労働状態は、果して天国の夫れの如くであるか、はた又朝鮮の労働者はいつまでも無自覚にして止むであろうか。 
私の視察の範囲では、労働状態は頗る区々であった。例えば労働時間に点に就ても、短きは八時間より、長きは十三時間に及ぶものがある。労働賃銀も区々であるが、概して内地人三円乃至三円五十銭位(役付職工は夫れ以上)、朝鮮人支那人は大抵、最低八十銭より一円二三十銭に至る。(少年労働者は勿論夫れ以下)、支那人朝鮮人と雖も熟練者は内地人と同様なものがある。内地人の比較的高級なのは、技術的に秀れて居るのと、内地より呼び寄せたという点にあるらしい。生活程度の高いのも勿論一因である。 

(三) 能率と勤怠
・・・朝鮮の労働者には年齢の制度というものがない。そこで事業の種類によっては、随分頑是ないような少年少女も成年男女の間に立ち交って働いて居る。労働時間の制限のない上に、年齢の制度もない少年少女の無制限使用は、其弊決して少くはあるまいと思われる。加うるに朝鮮の工業労働者に取りて、重大なる苦痛の一つは、作業中の負傷、疾病並に不具、老衰、失業等の場合に対する保障の殆んど全く欠けていることである。会社によっては多少の規定の存するところもある。併し夫れすら労働者の立場を十分尊重した者というよりは、むしろ会社の恩恵的施設に属する者である。

(四) 鉱山労働者
・・・けれども私は丁度最近平安北道の雲山金鉱を実査したる一友人に就、精確なる実況を聞くを得た。・・・今日は会社組織となし、東洋合同鉱泉会社と称している。従って幹部は悉く米人であって、事務員に一人、雇員に一人、日本人を使用するの外、労働者は悉く朝鮮人支那人である。・・・労働時間は朝六時より夕六時まで十二時間で、採鉱関係の仕事は昼夜二交代、五日目に交代する。休憩時間は一時間あるが、休日は絶対にない。尤も係員の米人は勝手な日に休むそうな。宿舎は各自豚小屋然たるものを構えて住んでいるが、便所、水道等の設備がないというから、その衛生状態は大抵想像される。好景気の際は採鉱奨励の意味であろう、共同賞与というものを出したが、今は中止した。但し山火事等の場合、消防に尽力したものには特別賞与を出すという 

(六) 屋外労働者
・・・夏の朝鮮に行く人は、誰でも町に、村に、辻々に、路上に、何千何万と堆く積まれた黄色に熟した真瓜売る人々を見るであろう。又その前には大人も子供も群をなして集まり、手に手に真瓜を煩張っているのを見るであろう。私は最初これらの真瓜は全く間食の為だと解した。そして朝鮮人は馬鹿に真瓜を喰うものだと驚いた。併しよく聞けば、彼等の真瓜を喰うのは、決して間食などと贅沢沙汰ではない、食料にするのだ、飯の代りだと聞いて、再び更に驚いたのである。 
真瓜の代価は一個二銭位である、一寸甘味のある味のいいものだ、併し我々にはこれを飯の代りに食わうとは思われぬが、『チゲ』さん達は之を一個又は二個を以て食料とし、甚しきは日に三度、夏中を通して之許りを常食としているものがあるという。そこで昔は夏真瓜の出る頃になると、米の値段が下ったという嘘のような話もある。 

(十三) 土喰う農民
朝鮮の小作料は地方によって一様でないが、半々に収穫物の叩き分をする所が多いようだ。然るに奇怪なるは、長年の習慣として、土地改良の諸費用、肥料代等は勿論、甚だしきは実に地租を小作人に負担せしめて居る所が今尚多いことである。とこの世界に小作人が地租を負担するところがあろう!真に驚くの外はない。是に於て小作人は実に骨までもシャブリ取られるという有様である。故に小作人の大部分の生活は、文字通りの亦貧洗うが如しである。汽車の中よりも眺められる、鉄道沿線到るところに、水田の間に点在している藁ぶきの低い小さい豚小屋のような家が、小作人の生を託する所である。下には石ころを集め、泥で塗り固めた温突を作り、その上に細い曲った杭を立て、周囲を泥で塗り、屋根に藁を重ねたのが、千数百万の農民の『家』なのである。時価にして百円乃至二百円で出来るという。窓や出入口は小さく、室内は薄暗い。板敷の床というものはなくて、泥の温突の上にアンペラを敷いて坐臥する。紙を張ってあるのは上等の方である。布団というものもない、夏も冬も著のみ著のままゴロ寝をするのである。尤も温突の焚口は同時に炊事場になっているので、夏も火を焚く関係上、暑くて室内には眠れない。そこで夏は家族悉く藁むしろやアンペラを敷いて屋外の地べたの上に寝る。枕は木の角枕である、中には石を枕にするものもある。湯には年中入ることなく、夏は時々小川に入って水浴を試みる。米産地の農民の外は滅多に米を食せず。粟、稗、高梁の類を常食とする。 
それもこれ等の食料が喰い続けられればよいが、大抵収穫季より春までで尽きて終う。都会地に近いところでは野菜を作ったり、日傭に出たりして喰いつなぎをするが、そういう便りのない片田舎になると、その生活の悲惨なる、正に想像以上である。 
彼等は先ず野に出で山に出でて木の実を拾う、草の葉をむしる。そして粟や稗と交ぜて粥のように煮て喰う。朝鮮には不思議といろいろな薬草がある、これ等はいはば彼等の状剤となるわけである。松葉の青みや、松の甘皮などは好個の食料となるのである。然もその混食用の穀物も尽きて終えば、遂には土を取って喰うのである。 
土を喰うといえば如何にも嘘らしいが、実に嘘のような話である。私は裡里の田舎の朝鮮小作人の持って来たものを見、且つ研究資料としてその一塊を携え帰った。指に摘めばサラサラとして丁度メリケン粉のような粘土である。茶褐色をしていて、内地の安いビスケットに混ぜるという粘土に似ている。それは医学上格別害にならないが、又滋養分もないものだという。これを草根木皮と共にゴタ煮にして、腹の中へと詰込むのである。彼等は正しく平時よりして飢饉の生活を送りつつありというべきである。 
種子は地主の方から借りる習慣になっているが、それは大抵喰って終う。そしていよいよ播種の時になって騒ぎ出す。又肥料を貸せばその肥料にする豆粕を食うという話である。彼等としては背に腹はかえられぬのだ、若し秋の収穫まで米や粟を地主から借入るる時は、秋はこれを二倍にして返さねばならぬ。誅求、搾収は正に極点に達している。農村の改良も何もあったものではない。 
   
京城日報 1923.1.1(大正12)
農家経済の現状及び其の向上に就て
殖局産長 西村保吉

・・・以上の三項目は現在朝鮮農業の進歩を阻害するの病根であって朝鮮の農民を以て之の内地農民に比すれば其一戸当耕地面積は内地の平均約一町歩に比し朝鮮は平均約一町六反歩にして其耕作面積の多大なるに拘らず其収益は却て甚だ少く単に主作物たる米のみに就て見るも大正九年に於て内地の一旦当り収穫高が二石二升一合なるに比し朝鮮の一反当り収穫高は僅に九斗五升五合即ち内地の半数にも足らない状況である亦以て朝鮮農家の収入が如何に貧弱であるかを知るべきでないか以上は朝鮮の農家の経済が微々として振わざる主なる原因であって是等の原因からして朝鮮農民の地主の一部階級を除くの外は一般に薄弱微力であって啻に余財なきのみならず大多数の小農は少からざる負債をも有し日常生活に苦しんで居る状態である 
即ち毎年収穫を了りたる後一定の小作料を支払い其残余の半産物を自家用として保留し得る余裕ある者は極めて少く米の如きは概ね直に売却して金銭に換え負債の償却、納税、日用品の購買其他□□の雑費に充て実際の食料代□□を以て之を充たすの状況であって中には負債を償却する余裕さえもない者が少くないのである殊に甚だしきに至りては青田売買と称して立毛の□にて之を売却し若くば担保に供する者さえもある位である農家経済の向上を図る方法は之を□論せ□□々の事項を挙ぐることを得べきも要は主業副業の発達を図りて農家の収入を増加すると共に一面消費を節約するより外には仕方がない即ち・・・
 
京城日報 1923.6.7-1923.6.17(大正12) 
朝鮮の治安に就て (一〜六、八〜十) 
五月十四日全国新聞記者大会に於て 
警務局長 丸山鶴吉

(六) 要するに朝鮮は全然平穏無事なりとは私は申しませぬけれども、段々落著いて居ることは事実であります。其落著は如何なる処に落著いたかということを少しく説明したいと思います。今迄講和会議の力に依って独立しようとか、国際連盟の力に依って独立しようとか、又亜米利加の同情があったので、亜米利加の力に依って朝鮮の独立を齎そうとか、そう云うことを考えて種々の運動を継続して見たけれども、此等の希望は総て駄目であった、殊に亜米利加の議員団は比津賓の独立問題を研究した者であるから、定めし朝鮮にも非常の同情を有って、朝鮮独立の為めにも相当な理解と援助をするであろうと期待して多少の動揺を感じたが、朝鮮人の歓迎会にも臨まないし、又一切の政治問題を避けると云う口実の下に鮮人を回避したので、非常に失望落胆したのであります。結局亜米利加頼るべからず、講和会議、国際連盟頼るべからず、要するに、他力に依る独立運動は是れ一場の夢であったと云うことを、朝鮮全道の人々が考え始めたのであります、結局朝鮮人が独立を欲するならば自分の力に依って之を遂行するより外にないと云う自覚が漸次拡まって、今や何人がどう言っても、朝鮮上下を挙げて居る思潮であろうと思います。自分の力に依らざるべからざる自覚を得て、さて自からを顧みる時に、一部の人は進んで居るかも知れませぬ、或る種の階級は富を有って居るかも知らぬけれども、千七百万の人間を平均すれば其文化の程度其経済力に於て、今直ぐ独立すると言って見た所が到底独立を支持することの出来ないことに気附くのであります。今日本が手を引いて、直ぐ独立国を維持して行くことが出来るか、出来ないかと云うことを聞いて見たならば、総ての人が否と云う返事をするより外はないのであります。大部分の人々が此の観念を持って居ることは動かない事実であります(拍手)。直ちに独立が不可能とすれば何に依って自分等の要望を満たすのか、結局朝鮮人が奮闘努力して文化の向上に努力せねばならぬ、産業を発達せしめて朝鮮人の富を増殖せなければならぬと云う考になることは当然の径路であります。其処で産業開発、文化促進と云うことが近頃朝鮮人の頭を支配する思潮となって来たのであります。・・・

(八) 最近に至って、朝鮮を視察された方が内地で色々御報告になって居るパンフレットも拝見致しますし、演説の筆記も拝見致しますが、朝鮮の前途に就ては誠に堪えないと云う悲観的な観察が多いのを見るのであります。それで茲に詳さに私の信ずる現状を披瀝して置くことが必要であると思います。御承知の通り段々文化が進んで参りますれば必ず民族的自覚が起って参りますることは何れの民族の例を以てしても明かなことであります。殊に欧洲戦争と云う思想界の大鉄槌を受けて以来、各地の諸民族が到る所で紛糾せる問題を惹起して居ることは御承知の通りでありまして、独り朝鮮が此の圏外に出ることはできないのであります。朝鮮人が漸次に民族的自覚心を起すと云うことは当然のことであります。殊に新総督政治になって以来言論の自由も相当程度に認められ、朝鮮人の方で諺文の新聞を経営されて、各地に此の新聞が配布されるのでありますから、今迄嘗て知らなかったことが全鮮の朝鮮人の頭に這入って来る訳であります。忌憚なく申せば朝鮮人諸君の御やりになって居る新聞が本当に公正を保ち、虚心坦懐に所懐を披瀝して真に朝鮮民族の将来を憂えて居るかどうかと云うことを疑問に致しますけれども、一種の意見抱負を有って新聞を経営されて居て、それが津々浦々迄廻って来るから、段々に民族的自覚を煽るようになって来ることは勿論のとであります。それであるから実力養成を標榜して各種の社会団体が雨後の筍の如く起り、或は青年会と称し、或は矯風会と称し各種の会合の起って来ることは皆文化促進の為め一つの現われでありますが、内容に至っては一つの民族精神の刺戟機関となる場合が多いのであります。又教育を尊重して行かなければならぬと云う場合に於ても朝鮮の人達が教育を批判する時には、常に朝鮮人の為の教育を主張されるのであります。今度教育令が改正されて殆んど内地と同一の教育制度となり、内地との連絡は完全になり、此改革位教育上の大改革はないと信ずるのでありますが、鮮人諸君は何故根本的に朝鮮語を以て教育しないか、難しい日本語を以て教育するのは、生徒の能率を害し教育の効果を減殺するものである是は要するに教育を国策に利用するものであると批難攻撃をして偉大なる教育界の大進歩に対しては寸毫も推賞しようとはせないのであります。唯朝鮮人本位という一点を以て立派なる教育令の全体の価値を没却する如くプロパカンダされたのであります。それ或折角の教育令改正も朝鮮人の多くの人には美しいもので、大なる革新であるが如きは到底伝わらないのであります。かく教育に対しても民族的自覚が進むに従って、朝鮮人本位の教育でなければならぬと云う議論が一般に伝わったのであります。官立大学が出来ると云うことになりますれば、全道を挙げて熱狂的に民立大学既成準備会と云うものが出来て活動を開始するのが現状であります。併しながら完全なる大学を推持して行くには中々容易なる資力、容易なる財力で出来るものではありませぬが、一千万円の金を民間から募集して私立大学を造ると云うので、全道挙って有識階級の人々が騒いで居るのであります。勿論是は文化の発展上喜ぶべき現象でありますけれ共それを為すより猶一般民衆として為すべき他の施設か沢山残って居る様に思うのであります。官立大学が出来んとするから反抗的に民立大学を建設せんとするのであると見る外はありません、又先年朝鮮の経済政策を樹立する為に、専門家、実業家を集めて朝鮮産業調査会が催された際にも、朝鮮に於て其方面を研究すると称して出来た経済会、維民会等の会合から同会に建議されたのでありますが、朝鮮の産業は宜しく朝鮮人本位の産業でなければならぬ、朝鮮人の産業を発達させるには日本人の産業に対して制限を加えなければならぬ、内鮮人を同一の基礎に置くときは朝鮮人が圧迫されるから、日本人の産業を制限し朝鮮人の企業を助成せねばならぬと云うことが終始一貫した議論でありました。そうして日本の資力の移入と云うことに対して反旗を翻えしたのであります。又消費を節約して生活を安定する方法として、土産を奨励する為めと称して物産奨励会、土産愛用会等の会合が出来たのであります。名は美しいものであって表面から攻撃することは出来ないが、その衷心を割って見れば土産奨励は裏面に日貨排斥の思想を懐いで居るであります。斯の如く近頃総ての方面に於て日本を排除すると云う気分が稍々濃厚に現われて居るのであります
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10102781&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1

大阪朝日新聞 1924.11.22-1924.12.7(大正13)
朝鮮見たまま (一~十四)
 
(十一) 東拓移民に集まる怨嗟 悲痛なる鮮人の叫びを聞け
以上数回に亘って挙示した耕地改良拡張上の障碍は、いずれも制度及び組織上の欠陥であるが、更に大なるものは経済上の障碍である。経済上の障碍とは他なし、工事のお金がままならぬこととだ。地獄の沙汰も金次第で解決が出来る世の中だから、朝鮮の耕地改良拡張も金さえあれば少しぐらい制度や組織上に障碍があっても、何とかこれを突破して事業を押進められないこともなかろうと思われるが、その先立つ金が不如意では手も足も出ない。 

だから、本論も朝鮮に於ける現在の事業資金融通状況と、今後の資金を如何にして何処から求むべきかを延ぶれば終局を見るのであるが、東拓へ向いた筆序に同社の朝鮮に於ける事業と、朝野の評判をチョッピリ紹介して置くことにしよう。 

朝鮮に於ける農業の改良進歩を促すには、内地の精農を移住せしめて、進歩せる農法を目の当り鮮人に示すに如くはない。東拓は実にこの使命を果すべく政府の絶大なる庇護の下に設立されたものである。然るに創立以来十有六年、政商に対する不良貸や、大政党に対する選挙費の御用達などは精々勉強したようだが、肝腎の使命の方はカラお留守で、今日までに東拓の手で移住した内地人は一万人に過ぎない。本年の七八月頃も東拓は各府県で朝鮮移住者を募集したが応募者は予定数の半分にも充たぬ不成績に終った。 

東拓は移住者の募集に少からぬ費用をかけているばかりでなく、移住した者には五町歩の既墾地を与え―尤もこれは二十五年賦で売るのであるが―更に農業資金を貸付けるやら、その他いろいろの便宜を与え、政府からはその移住旅費まで給しているのである。然るに募集成績は叙上の如く、而して移住者は政府の庇護を受けて大地主となりながら、尚現状に慊らずして五町歩の耕地を七町歩に増加せんことを要求し、鋤鍬などは手にすることも忘れ、俄然として鮮人に臨みつつあるため、農業の改良進歩に稗益するどころか、徒らに鮮人の呪いの的となっている。 

一鮮人は東拓の移民に対して斯く語った。「東拓は進歩せる農法を鮮人に教えるという理由の下に内地人を移住せしめ、之に五町歩ずつの土地を与えているが、その土地は我々の祖先から耕作し来った既墾地である、鮮人地主の所有耕作地は多く一町歩内外だから、内地陣が一戸移住すれば鮮人五戸が流浪しなければならぬ結果となる。荒蕪地に移住者を迎えるならば兎にも角、先祖代々の既耕地に内地人を入れて鮮民を路頭に迷わしむるの要何れにかある。我々鮮人は内地の進歩せる農法を眺めながら飢えねばならぬのであるか」と。 

何と悲痛な叫びではないか。「これは実際大に考えねばならぬことである」とて西村前拓殖局長は辞職前にどんなことを言っていた。「朝鮮に内地人を移住せしめることは必要であるが、東拓が半官半民の会社であるために、鮮人は政府が東拓の手を通じて内地人を移住せしめ、鮮人を放逐するのだと言っている。だから東拓を純然たる民間会社とし、自由移民にしないと政府はあらぬ誤解を受け。徒らに鮮民の怨府となるに至るであろう。」と。(狩野生) 

第50回帝国議会
貴族院予算委員第六分科会議事速記録第四号 大正14年3月10日 ※1925年

○政府委員(下岡忠治君)
・・・内地人の移住の有様でありますが、現在は確か三十八万人ほどと思ひます、近年余り殖えない、遅々として進まぬとでも申しますか、一時のやうには殖えませぬ、併し多少づゝは先づ殖えて行く見込があるのであります、併し余り之を人為的に無理に移住せしむると云ふことも考物で、朝鮮人が非常にそれを嫌ふ、例へば東拓会社が朝鮮人の怨の的になって居るが、其怨の的になって居る一つの理由は、東拓が内地から百姓を伴れて来て、我々の土地を奪って占領してしまふと云ふことは甚だ怪しからぬ、と云ふやうな点が東拓に対する怨の本になって居るやうなので、人為的に内地人を向うに移住せしむると云ふことは、彼等に取っては非常にまあ脅威とでも申しますか、之を好まぬやうな訳であるから、余りに特別な取扱を以て内地人を移住せしむると云ふやうなことは考へ物であらうと思ひまするが、(p7)

出席者左の如し
政府委員 朝鮮総督府政務総監 下岡忠治君(p8)
http://teikokugikai-i.ndl.go.jp/SENTAKU/kizokuin/050/0184/main.html
(左蘭から大正14年3月10日第4号を選択)

吉野作造「公人の常識」大正十四年十二月十九日発行 ※1925年

朝鮮の農民
  朝鮮に二十年も居て農業を経営してゐる友人の手紙の中にこんなことが書いてある。
「朝鮮の農民は年々貧乏になりまさるのみです。
「総督府では朝鮮全道にわたり一郡村も洩さず金融組合と申す高利貸機関を設けてくれました。之はもともと農業資金を与へて貧困なる農民を救済するといふ趣旨のものでせうが金利は驚くべし抵当貸付に在て日歩四銭五厘延滞利子五銭八厘、また信用貸付に在ては五銭八厘、延滞日歩六銭五厘といふ高率です。金を借りるには一口拾円以上の出資をして組合員にならなければなりませんから、本当の貧乏人は実の所絶対に寄り付けません。貸付金額は普通五十円乃至二百円程度ですが、抵当貸付には一人、信用貸付には二人の連帯保証人がいります。猶借りる時に色々の名義で若干の手数料も取られます。さて愈弁済期が来ますと組合の役員は田舎に出掛けて居催促をやります。返せる見込は無論ありません。そこで田畑は勿論のこと、家屋から耕牛まで取り上げられます。組合の役員は自分の成績さへあがればいゝので、組合員が困らうが困るまいが頓着がありません。組合の決算期に近づくと、いつも私共の眼に映ずる事一から十まで不快でないものはありません。
「地方庁の技術員即ち農業技手は田舎を巡回して盛に金肥の奨励をして居ります。農民には固より之を買入るゝ丈の資金がありませんが、技手等は商人と結託して肥料の前貸をさせます。そして殆んど強制的に之れを使用せしめてゐます。肥料代金には月に三分の利子を徴するのが普通ですが、之が秋の収穫期になると有無を云はせず取られます。農民に残る所極めて少いことは御話の外す。
「斯んな風で朝鮮農民はとても浮ぶ瀬がありません。彼等が年と共に貧困に陥るのは単に彼等の無智なるが為ばかりではありません。内地の人々にも能くこの事を考へて頂きたいと思ひます。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/982101/71

京城日報 1928.8.16-1928.8.17(昭和3)
朝鮮人更生の途
=我が道の新施設=
慶尚南道参与官 李範益
 
朝鮮人の生活状態は依然として旧態を脱せざるのみならずその内容を査覈するときは困窘の度日に増し月に加え殊に全人口の七割強を占める細農民の生活は実に悲惨を極め正視するに忍びざるものあり然しながら朝鮮人の経済状態貧弱にして生活程度低劣なるはこれ祖先伝来の遺物にして近来の新事実にあらず否その生活様式は一般に向上進歩せりというべしただ他に比較しまだはその数において増加しその内容において困窮しあるのみなり、

大阪毎日新聞 1928.8.21-1928.8.28(昭和3)
朝鮮米の宝庫
全州平野を見る

西村生
知事の話を聴いて自動車を全州平野に馳せる。アカシヤの並木かげ涼しき通路は坦々として沃野の真中を貫く。一行は外山大阪府農林技師、杉本本社裏里通信部主任本山富民協会朝鮮出張所主任の人々である。外山技師はただ曠々漢々たる平野のつづく限りが稲田なることに驚くのみである。杉本氏は説明を加えて 
この道路の敷地も表向きは寄附だが実際は道路に占領してしまったものだ。ここに敷かれた割石は賦役で村民が割って敷いたものだが石を割るときに知事のあたま、知事のあたまといって割ったのだそうだ 
という、渡辺知事に尋ねることをつい忘れてしまったが、それじゃ知事の頭がいくつあっても足りっこはあるまい 

だが、朝鮮の道路改良も産米計画も、全くこの道路のように、左様に簡単に実行できるのだ、それは朝鮮の奨励なるものは直ちに命令となって下僚役人から農民に強制されるからである。悪いといえば悪いかもしれないが、とにかく徹底している。正条植がよく行われていると感心するとある役人は立どころに「正条植をやらないところは皆抜いて終うからだ」と応じた、そのくらい仕事に熱心な役人がおることと、またそのくらい強制的に奨励されて黙っている朝鮮人がおることによって、朝鮮の農業はグングン発達して来たのである。だから朝鮮の農業は命令的に発達して来たものだともいえるそれだけまた弊害もある。かつて某道では十ヶ年計画で棉作の奨励をやり、毎年少なからぬ費用を投じたのであった。十年目に見事統計は予定数量に達したが、実際市場に取引されたものは十年間に十分の一になっておったそうだ。役人がテーブルの上で数字を計画通りに製造しておったのである 

神戸新聞 1931.6.19(昭和6)
新総督の手腕に俟つ治鮮上の諸懸案
政治的、国際的に解決を急ぐ
産業、文化各般の要求

一、教育問題
 教育問題は池上総監時代に一面一校主義の実現に努めたが富裕の地方には行き亘っているが財政貧弱の地方には学校未設立のもの多く教育は行詰りの状態にありまた教員についても当局は内地人教員を主としているが内地人は俸給高く経費の都合上朝鮮人教員を多く採用すべしとの問題もある統治上多大の利害関係ある問題だけにこれを如何に解決するかは注目されている、また朝鮮においても内地と同様小学校卒業者の上級学校に進むに当り中学校を主とし実業学校を蔑視する弊習があるから実業学校の増設を奨励すべしといわれている、これは産業政治上朝鮮人の技術習得者を必要とする現状に鑑み軽視し難い 

大阪毎日新聞 1932.2.13(昭和7)
外地統治の一進歩
日刊新聞許可と立候補

最近外地関係において、二つの注意すべき出来事を見る。その一は、台湾党則府が土着民すなわち台湾本島人に、日刊新聞発行権を許可したことであり、その二は、東京および大阪において、朝鮮人が衆議院議員選挙場裏に打って出たことである。・・・
  台湾人が自己の手になる新聞を有せんとする希望は、決して今日にはじまったことではない。かれ等は大正八年朝鮮人に日刊新聞の発行権が許与されて以来、熱心に同様の特権獲得運動に従事したが、島内においては到底望みなきを知るや、大正九年東京において「台湾青年」なる月刊雑誌を発行し、昭和二年漸くその発行所を台北に移転することを得、「台湾新民報」と改題して、半月刊より旬刊に、旬刊より週刊と漸を逐うて進み、遂に今回当局の諒解によって、多年の宿望を達することを得たのである。・・・台湾当局は台湾人に日刊新聞の発行権を許可すると同時に、また内地で発行する新聞に対しても、島内における号外発行権を認めた。これも当然のこととはいいながら、当局の新聞に対する理解の進歩を示すものというべきである。然るに早くすでに土着民の新聞発行権を承認した朝鮮総督府が、今なおこの点につき逡巡決するところなきは、吾等の諒解する能わざるところである。

京城日報 1932.6.14(昭和7)
全鮮農家の七割借金で四苦八苦
哀れ生活費の赤字

朝鮮農村に於ける農業資金としての負債額につき本府当局が小作慣行調査に附随して調べたところによると昭和五年末の現在は次の如くである 
各種銀行貸出一億七千三百七十三万四千円 
東拓貸出八千二百六万七千円 
金組その他貸出二億八千四百八十二万六千円 
計五億四千六十二万七千円 
地主 土地購入資金、農業資金、土改資金、保証債務、浪費、商工業投資、投機、教育費冠婚葬祭費 
小作 大部分生活費、冠婚葬祭費、農業資金 
この他に個人賃借も相当莫大なる額に上る見込みで全鮮農家の七十パーセントが借金に悩まされて居るが当局者の談によると一戸当り先ず二百円見当の負債を背負っている模様である、なお右借金は地主に於ては大体抵当債務、小作に於ては信用貸でその種類は次の如くである 

国民新聞 1933.1.28(昭和8)
全鮮の司法官結束 宇垣総督を排撃す
一大廓清運動を開始

独裁政治に阻まれる司法部の威信 速やかに本省の直属とせよと議会を目指して運動 
  裏面に潜在せる理由としては?その影響するところを恐れて厳秘とされているが、朝鮮の司法部は地方法院、覆審及び高等法院の三部制となっていて、しかも司法の権限は総督の独裁政治下にあるだけに総督の自由意思によって左右され得るものである、これが為め仮令重大な事件或は犯人についても断然法の処分を免れぬものであっても、最後の裁断に至って総督の意思により往々握り潰しにされる事があり、又内地に於て過般来問題となり涜職事件をじや起して、遂に幾多起訴収監された鉄道省の談合事件の如きも、朝鮮に於ては法律に処断すべき条文がない為め官公吏の如きは公々然として醜行為を行っているので検事局では官制の欠陥に何れも切歯しているものの手の下しようなき有様などその一例に過ぎぬものであり又新時代に適応した思想方面の取締り施設に関する新規事業の予算を提出せんとしても前記の如き冷淡な態度よりして貫徹せず遂に宇垣総督不信任の声となり、更に神聖なるべき司法部の威信をより良く発揚する為めこの際裁判所法を改正して司法大臣の直属とし、根本的に改革せよと云う重大なる要求を拓務、司法両省に向って提出せんとするもので、中野氏は全鮮判検事の決議と意思とを代表して議会開期中を機会に密かに上京し、先ず倉富枢府議長、貴族院議員法学博士鵜沢総明氏等を初め政界要人等の間に賛同を求め小山法相、永井拓相等の間に実際運動が着々として行われつつあるもので過日朝鮮より司法官代表者が密かに上京し在京司法官及び法曹団との間に諒解が行われた模様で、朝鮮及び内地相呼応して猛烈なる運動が愈々展開される雰囲気となった

中外商業新報 1933.1.31-1933.2.4(昭和8)
満洲国成立後に於ける朝鮮
法学博士 蜷川新

・・・然るに事情はここに一変した、朝鮮人のための天地は日本の努力によって広き満洲に拓けたのである、これ迄朝鮮人は朝鮮を以て日本の西北端であるとなし、いわば辺境にあるの心情をもっていた。日本内地に対する独立運動の如きも、日本からの冷遇と、辺境にあるという二つの誤解より出発しているものが多かったのである、然るに満洲国の成立により、ここに日本内地人、朝鮮人の進出の地が見出されることになれば、朝鮮は最早、辺境の地ではない、それどころではなく、朝鮮の地は朝鮮人を含めた日本民族の移動、活動の大中心地となったといわなければらないな。 
 これ等のことが朝鮮人の思想、精神に良好なる影響を与えたことは否むことの出来ない事実であるこれは予の親しく目撃せるところであるが、今より三四年前までの朝鮮人の気持の中には、現状に対する不満と、呪咀と、悲観とが明かに観取されていたのである、しかるに今日の朝鮮にはかかる悲観的気持と、思想的危懼は一掃されているのを見ることが出来る、これは即ち朝鮮に思想的又物資的に輝ける希望の齎らされたことの反映である、これは甚だ喜ぶべきことであるが、それと同時に、この朝鮮に齎らされた一好転機を利用助長しないならば再び元の朝鮮、暗い憂鬱なる朝鮮に復帰しないとも限らないのである、・・・

昭和九年一月十日於総督府 ※1934年
宇垣総督口演要旨(各道農村振興指導主任者打合会席上)
朝鮮総督府

○農村窮乏の実情
  始政以来各般の施設は年を逐ふて面目を革めつつあることは、統治の大局より見て争ひなき所でありますが、飜て仔細に之を見直すときは、尚未だ刷新改善を要するものが少くないのであります。就中最も窮乏を訴へつつある現下の農村に付て之を見まするならば、其の約八割は小作階級に属する細農を以て占めて居ります此等は過去多年の秕政の結果、搾取、誅求に苦しめられて来たのでありまして既に其の心境は著しく荒み、所謂酔生夢死奮発心も感激性も消磨し希望も理想も意気もなく、其の日暮しの悪習に惰し、自ら意識して其の生活に改善工夫をすると謂ふやうなこともなく、全く時代後れの環境に甘んじ年々歳々食糧の不足を訴へ、高利の負債は逐年増嵩するのみならず、収穫時期には債鬼殺到して、彼等全年の努力も或は借入食糧の返済となり、或は負債利子の償還に充て余す所なく、春窮即ち端境期に於ては食糧不足し、山野に草根木皮を漁り辛ふじて一家の糊口を淩ぐが如き惨目なる状態であって、此等は年の豊凶に依り素より一様ではありませんが、其の概数は農家総戸数の四割八分約百二十万戸に及ぶ年も在ったのであります。換言すれば朝鮮の農民中には過去に追はれ、現在に苦みて、将来を楽むなどは思ひも及ばざるものが多いと申さねばならぬ

○農村窮乏の恢復困難なりし原因
  始政以来此の窮乏を恢復することが容易に出来ざりし原因が奈辺にあるかと申しますれば、一言にして盡せば、農村の大衆が一般に無自覚であると謂ふことに落付くのであります、更に之を具体的に申しまするならば、一般農民が農村の特色、農業の本質、農村人の理想信念人生観と謂ふやうな、農村生活の基調となるべき大切な事柄に付ての理解が極めて乏しかったからであります、之は独り農村人のみの罪に課すべきものでなく、広く政治、経済、学術等に携はる者の認識の欠如も斯くせしめた一半の責を負ふべきであって、其の窮乏打開の途も亦自ら此等両方面の覚醒に俟って之を解決するの必要があるのであります、此の点は御互も深く反省して見る必要が大にあると思ひます。
  話が少し横途に入りましたが元に帰って、此等農民の無自覚は如何なる点に顕れ、如何なる点に禍するに至ったかに付、少しく考察を加へて見るならば、先づ第一に自家の立直し、即ち生活、営農に或種の必要を意識して之が改善工夫を為すことがない為に、各種作物に尚幾多増収の余地を残したまま、余剰労力は利用消化の途を講ずることなく捨てたまま、孰れも之を放任して顧みない、其の結果は食糧の不足も補ふことも出来ず、負債の償還は素より利子さへ碌々払へないのである。更に経済的打算の観念に疎い結果として、必要の前には前後の事情も弁へず、極めて無頓着に高利の債務を新に作りて益々其の重圧に苦しみ、自己の立場に不相応なる文化生活の風潮に煽られて自給自足の経済観念を弛めたる結果は、交換経済、貨幣経済が不自然の状態に迄農村に喰ひ込んで来て、農村社会組織の特色は驚くべき勢を以て破壊に導かれつつあったのであります、朝鮮の農村は大様以上の如きに原因を胚胎して積年の疲弊に更に一段の拍車を加ふるが如き、状態に至ったのであります。

○農村救済の必要
  斯る窮乏の中に多数の農民が不安なる生活を続けて居るから、春窮期には食を山野の草根木皮に求むるが如きことにもなるのであらうが、如何に之が旧来の陋習であり、自他共に怪まざる伝統的農村の姿でありしとは申しながら、誠に気毒千万、実に一視同仁にまします陛下の赤子を永く此の状態に置くことは忍びないのであります、此の多数の恵まれざる農民の存在は、正しく朝鮮統治の一大憂患であって其の生活の安定と向上とを放任しては朝鮮の開発は断じて望み得ないのでありまして、之が対策は統治上最先最急の要諦であり、且其の根幹を成すものと信ずるのであります、始政以来二十有五年、其の間歴代の統治者が、此等大衆の生活に同情し、苦心して過去幾多の施設を重ね来れるは寔に其の着想に敬服の外ないのでありまして、私が着任以来特にこの点を重視し従来の施設に更に一歩を進め、之を強調しつつある所以も、亦此の意味に外ならないのであります、殊に最近異常の豊作と農産物価の低落とに因り、一層の施設対策を要するものがあり、更に連盟脱退後に於ける帝国内外の情勢と朝鮮の経済的、地理的特種事情とは、本施設に格段の重大性を加へ且急速度を以て其の実施を要するに至った次第であります。
・・・

アジア歴史資料センターhttp://www.jacar.go.jp
レファレンスコードC13021421300

時事新報 1934.1.18(昭和9)
農奴解放を唱えつつ何故弾圧を加う?
朝鮮小作令制定に絡む不可解な当局の態度

朝鮮総督府に於ては朝鮮全土に小作令を布き、以て朝鮮に於ける農村経営の合理化並びに農村振興の資に供せんとて目下拓務省を始め法制局方面とで折衝中であると云われている、朝鮮小作令の趣旨は政府に於て曩に内地に制定せんとした小作法案を骨子とし、これに朝鮮特有の慣習を考慮して立案されたるものにして、朝鮮総督府はこの小作令を以て「朝鮮の農奴を解放するものなり」との殉情的感情に自ら興奮を感じていると伝えられている、然るにも拘らず朝鮮総督府は一たび朝鮮農民がこの法令に対して賛否の声を挙ぐるや之に対して断乎として弾圧を加え、小作令に対する言論、出版の一切は禁止し、集会をも禁止するの強圧手段を執りつつあるは何故であろうか、吾々の頗る不可解とする所であって、人心の不安動揺を却って激化せしむるに役立てばとて百害あって一利なき次第である、故に本社は茲に朝鮮小作令の骨子並に農村事情を報道すると共に小作令に対する賛否の意見を掲載し内地人が朝鮮小作令に対する是非の批評を為すの資とし進んでは朝鮮統治の立場より検覈するの要あるを感ずる次第である

京城日報 1934.6.28(昭和9)
総督府の自主解除果然、好評嘖々!
農林省の横槍を他処にして米価も徐々に安定

朝鮮総督府において全鮮的要望と特殊的な鮮米事情に鑑みて実施を発表した長期貯蔵籾六十万石解除問題は、飽迄目前の米穀有掠れに頬冠り態度で静観にあった農林省にとって寝耳に水の大衝動をあたえ、朝刊既報の如く農林省では朝鮮総督府の解除を遺憾とする旨の態度に出で、俄然内鮮米界にこの喰い違いは一大センセーションを捲き起しているが、一般朝鮮財界及び貯蔵者は総督府のこの英断的な解除を早天に慈雨の如く歓迎し、かつ金融筋その他でも解除実施に好評さくさくたるものがある、即ち 

一、鮮内の米穀事情は例の外米統制を繞り極端に出越せるため、飯米飢餓は特に深刻を極め、四月以降より満洲への代用食輸入、蓬莱移入をもって充てる状態で、この解除実施はこの極端化せる飯米飢餓解消の役割を果たす 
二、長期籾貯蔵は周知の通り朝鮮の特殊的な□積が行れて居り、梅雨、□実期をむかえてその懸念あり、積替えの技術的困難(混保を行い得ず、特別保管のため)等から実際問題としても解除の必要があった 
三、一部解除は、これがため産繭安で春窮から夏窮と連続する鮮内農村に丸貸と時価差収入で弾力をあたえ、購買力を助長する 
四、更に籾貯蔵は内地と異り朝鮮にとっては連続的実施の必要あり、この点解除条件に適合に際し解除実施は、貯蔵者金融筋ともに好感をあたえ明年度実施上にも好響がある 

しかして前日籾解除のニュースを移して衝動的に悪化した米価も、解除内容の徹底とともに漸次落付き、本日の市況は前日太引に比し朝取十二丁高、釜山十三丁高と夫々前日の人気下げを訂正し来っている 

京城日報 1934.8.9(昭和9)
米と朝鮮
高田米穀顧問の調査報告

過般来鮮、約一ヶ月に亘り、朝鮮の米穀事情を調査して帰東した米穀顧問高田耘平氏は、七日、農相官邸に開かれた米穀顧問会議に於て、氏が調査の結果を報告したその梗概は、本紙八日の朝刊に記載せる通り、昨年来、立替り入代り米穀事情調査のためとて、朝鮮を訪れた人々のそれに比し、幾分立優っているようであるし、殊にその結論に於て特色が認められるので、ここに簡単に論評を試みることにする、尤も氏の調査も他の調査班や、視察者同様、不徹底の憾みはあるように見える、ただ他と異るところは、結論を、朝鮮海峡の彼方に於て準備し、これが引証のために、種々の材料を、朝鮮に物色するの□みに倣わなかったことである。 

氏は『朝鮮農民の生活は、全くお話にならない、その大半は大麦や粟を常食としている』といい、春窮期には麦も粟も食尽し、草根木皮に露命を継ぐもの百二十万戸六百万人に達す、と驚き、一、而もこれ等の農民が、小学児童の月謝七十銭を納め二、併合当時、米一人当り消費量は七斗二升一合であったものが、最近では、四斗八合に激減している、自分は、朝鮮の農家を実地に視察するまでは実に不思議に思っていたが、あの状態では、朝鮮農民は、到底米を食うわけに行かない、と嘆じ、而して、ただ徒らに朝鮮米の内地移入を問題にするのは、朝鮮農村の実情を知らないもののいうことである、と悟り、『朝鮮の農民を如何にして救うべきかが先決問題で、それが自ら朝鮮米問題の解決ともなる』と断じている、即ち朝鮮の実情を直視し、そこから結論を抽出している、然し実情を真情を直視しながら、その由来と、動向と、更にその内臓、裏面に対する洞察に於て、多くの及ばざる点がある、総じて『今一息』の憾みがある。 

氏の観察に従えば、併合以来二十五年、朝鮮総督は、総督府は、一体何をしていたか、ということくらいのものだが、氏といえども、既往二十余年間に於ける産業の発達、民度の向上が、如何に目醒ましきものであったかを、よもや見落し、聞漏らしはしなかったであろうと思う、先ずこうした事実を具わなくては、氏の報告は、嘘ではないが、真を伝え得ないことになる、何故ならば、春窮は近年に始まったことでなく、内地でも端境期の農村は、随分平年でも、生活に苦しむ時期なのである、況じて朝鮮の農村である、文字通りの春窮は、晩春の交から、夏日の暑気と同じく、間違いなく、襲来するけれども、併合前と、今日では、多大の相異がある、その程度をいえば、疇昔、春窮期に於て、草根木皮に露命を維ぐのは全鮮を通じて、細農一般の恒例であったものが、現今では、早魃、水害、或は特産物の不作など、諸多の原因による、或地方における或階級或村落に於ける或家族の上に起る特例的な事象になっている。 

尚お上記一、二の事項に就ては特に一言するの必要を感ずる、一初等学校の月謝七十銭は、朝鮮の場合、頗る重き負担のようであるが、各校々舎は、原則として官の建設に係り、教職員の俸給は、官給であり、未だ義務教育の制度を採用するに至らないので、月謝はいわば負担し得るものが、負担するという立前におかれてある、さすれば改善の余地はあるにしても、非難の理由はない筈、併合当時、米一人当消費量七斗二升一合であったものが、最近四斗八合に激減した、という、ただこれだけを指摘したのでは、如何にも民度衰退の左券を挙げたようで、甚だ面白くない、鮮内雑穀の増産著しきのみならじ、巨額の満洲粟を輸入し農村では米よりも雑穀を以て主食物としているのである、だから米の消費率は、これは民力の衰退を意味するものではない、但し安価な雑穀を食い高価な米を売るの必要なる、悉くは已むを得ざる事情の厳存を否認することは出来ない、だから氏が鮮米の内地移入に関し、『朝鮮の農村民を如何にして救うか、ということが先決問題であり、それが自ら朝鮮米問題の解決ともなる』とする氏の見解はその妥当性に於て、従来発表されたる雑多の鮮米対策を圧して特色を示すものである。 

京城日報 1934.9.12-1934.9.16(昭和9)
朝鮮の将来 (一)
中等学校長会に臨み 宇垣総督の大講演 京城帝国大学講堂にて
地方振興、自力更生 ※宇垣一成

先刻は話が一寸地方振興自力更生のことに触れましたから、少しく話題をその方に進めます、即ち今日疲弊萎靡の極にある半島を蘇生せしむるには、何んと申しても総人口の約八割を占むる農村の建直しと云うことが最も先決問題であると考えまして、現在の統治に於て最大の力をこめ、大車輪になって遣り居るのが此建直しの作業であります、今日内地でも農村問題のやかましく白熱化し居る折柄朝鮮の夫れの一端を御紹介申上げるも敢て徒爾ならずと存じます、併合以来各般の施設は年を逐うて面目を改めつつあることは統治の大局より見て争いなき事実でありますが、飜て仔細に之れを見直す時は、尚未だ刷新改善を要するものが少くないのである。就中朝鮮実力の核心をなし、而も最も窮乏を訴えつつある現下の農村に付き之を見ますならば、其の約八割は、小作階級に属する細農を以て占めて居るのである、此等は李朝中葉以降搾取、誅求に苦しめられて来たので既に其の心境は著しく荒み意気は甚だしく衰え、所謂酔生夢死、奮発心も感激心も工夫力も消磨し、全く其の日暮しの悪習に堕し、自ら意識し、発奮して其生活を改善工夫するとか、向上発展を図るとか謂う様なことは乏しく全く貧窮の環境に陥り、年々歳々食糧の不足を訴え、高利の負債は逐年増高するのみならず、収穫時期には債鬼殺到して、彼等全年の努力の結晶物も或は借入食糧の返済となり、或は負債利子の償還に充てて余す所なく、春窮即ち端境期に於ては食糧が不足し、山野に草根木皮を漁りて、辛うじて湖口を凌ぐとか、袖乞となりて他家の門前に立ち、僅かに露命を繋ぐが如き誠にみじめなる状態であって約言すれば朝鮮の農民中には過去に追われ、現在に苦しみ、将来を楽しむなどは全く思いも及ばざると云う状態のものが頗る多いのであります、併合以降此の窮乏を回復することが容易に出来ずして、最近に至りし原因が那辺にありしかと申しますれば、一言にして尽せば、農村の大衆が一般に無自覚であると謂うことに落着くのであります 
 更に之を具体的に申しますならば、一般農民の特色、農業の本質、農村人の理想信念所謂人生観と謂う様な、農村生活の基調となるべき大切な事柄に付ての理解が極めて乏しかったのであります、之は独り農民のみの罪に帰すべきものでなく、長い間の因習及び政治経済学術等に携わる者の此の点に関する矯正努力の欠如も斯くせしめたる一半の責を負うべきである、従て今後に於ける窮乏打開の途も亦自ら此等両方面の覚醒に俟って之を解決すべく、今や正に其の方途に進みつつある所であります 
更に此等農民の無自覚は如何なる点に触れ、如何なる点に禍するに至ったかに付、考察するならば先ず第一に自家の建直し、即ち生活営農に或る種の必要を意識して之が改善工夫を為すころが無い為めに各種農作物に尚幾多増収の余地を残したままに、又余剰労力は利用消化の途を講ずることなく捨てたままに申す様に、孰れも之を放任して顧みない、其の帰結は食糧の不足も補うことも出来ず、負債の償還は素より利子さえも碌々払えないのが普通である、更に経済とか打算とかの観念に疎い結果として必要の前には前後の事情も弁えず、極めて無頓着に高利の債務を新に作りて益々其の重圧に苦しみ、又自己の実力に不相応なる文化生活の風潮に煽られて、自給自足の経済観念を弛めたる隙に乗じて、交換経済、貨幣経済の風潮が不自然の状態に迄農村に喰い込み来たって、農村の社会組織の特色は破壊に導かれ、斯くして朝鮮の農村は積年の疲弊に更に一段の拍車を加うるが如き惨状に立ち至ったのである 
 斯る窮乏の中に多数の農民が不安なる生活を続けているから、春窮期には食を他家の門前に、或は山野の草根木皮に求むるが如き事になる、昨日到城廊、帰来涙満巾、遍身綺羅者不是養蚕人とか米作人非米食者との古入の言葉も偲ばれて、如何に夫が旧来よりの陋習、仕来りであり、自他共に怪まざる伝統的農村の姿でありしとは申しながら誠に気の毒で、実に一視同仁にまします、陛下の赤子を永く此の状態に置くことは忍びない、相済まざることである、而して此の多数の恵まれざる農民の存在は、正しく朝鮮統治の一大憂患であって、其の生活の安定と向上とを放任しては朝鮮の開発も進歩も、繁栄も断じて望み得ないのでありまして、之が対策を講ずることが実に統治上最先最急の要諦であり且其の根幹をなすものであると考えまして、就任の翌年即ち昭和七年の初春以来、夫れに大いに努力を傾注して来った所であります 
然らば如何にして此の窮状を匡救打開すべきか、如何にして其の運動を強化すべきかの方策につき案ずるに、凡そ二つの方策がある、即ち其の一つは土木砂防工事等の□銀撒布に依る救済施設がこれであり、他の一つは所謂自力に依る農業経営の改善、農家経済の建直しである、前者は素より必要であり、現に実行も致しては居るが、其の効果は一時的に農村に活を入れるようなもので、恰も重病人に対するカンフル注射と同様で、時を経て更に又第二、第三の注射を要するものであります、斯の如きことは政府の財政の見地からしても永続せしむべき性質のものではない、畢竟するに、真に農村を救い、農民を根強く起ち上らしむる唯一無二の根本方策は、後者の所謂自力更生の運動で、即ち現に最大の力を傾注して実行中の農村振興運動より他に求むべき方法はないと信じて居ります、而して此の運動は第一に農村今日の窮乏の因を成している点に遡って其の方策を建てねばならぬ、之には先ず農村の特色と農業の本質と、農民の理想信念所謂人生観の三つの重点に立ち帰って農民は勿論、農村の指導に当る一切の関係者を挙げて之れを自覚せしめねばならぬことであります、この自覚を促進する方法として昭和七年春以来盛んに精神作興、民風改善の教化施設に力を用いたのである、之を基調として更に生活の改良、営農の改善、余剰労力の利用等の経済施設に及ぼして農村の更正を実現しつつある所であります 
此の自力更生運動は民衆が比較的今尚素朴、簡易生活になれて居り農法は原始的にして、改善の余地大に存し居る関係上着手後日尚浅きにも拘らず、一般の自覚と、あらゆつ公私機関、有識者の協力一致せる努力と、全鮮総動員的の奮闘によりまして、着々と効果を挙げつつある所にして、五年八年の後には朝鮮農村の面目は一新し実力は充実し、農民の生活は安定より更に其の向上の域にまでも進みて裕に母国の進運に寄与貢献し得るの見込みが確立しかけて居る所であります 
而して尚当局としては此の運動を強化し、促進し、且効果的ならしむる為めに、農村中堅人物の養成に格段なる努力を払い、高利の借金を低利債に借換えしむべく便宜を図り、地税を引下げて農村負拠の軽減を行い、低利資金を融通して自作農の創設に資し、小作法(農地令)を制定して地主小作人間の協調により農事の改良、小農の生活安定を図る等色々と此の運動の大成に資すべき施設を致して居る所であります、斯くして農民が自覚し、農村が振興し、地方が楽園化せんとする結果として、田舎の人々が禄々に仕事も無いのに都会地に集中し来らんとする、忌むべき傾向も漸次薄らぎつつある様であります、此の運動に関する目覚しき、溌刺たる趨勢は恐らく今の処では母国に誇り得る朝鮮特色の一つであると申上げ得るのであります尚都会地の更正運動も地方振興と相呼応して今春来着手している処であります 

京城日報 1934.12.27(昭和9)
過剰非常時下の米穀界
鮮米擁護運動の苦験

鮮米の三四年の苦験は正しく歴史的事実であった、と同時に強化しゆく米穀政策下の朝鮮はその統制おいて銘記さるべき自主的統制を発揮し他動的ならざる朝鮮独自の対策を施行した点に、おいても記録さるべきであった、まず全鮮を一度は亢奮のルツボの真只中に投入した米穀統制の試錬を回顧すれば本年初頭に展開され来った米穀過剰非常時の展開八年度の端境持越が理想持越の三倍余一千七百万石突破予想と米統法が公定米価買上の激増によって遂に破綻にひんする……との新事態は過剰対策として鮮米の法制的移入管理問題を内地において熾烈化せしめ、これは帝農、政党のみならず、六十五議会において農林省もまたこれに追随の形勢を示した、朝鮮経済の生命線、鮮米に切迫せるこの事態は鮮内の官民識者の与論を沸騰し、鮮米擁護期成会の決然奮起となり二月七日まず松井、三井等の鮮米擁護統制絶対反対を中央に徹底せしめる陳情運動となり、引続き東上運動員五十余名を送り全鮮各地において暸原の火の如く統制反対運動を烽起せしめたこの全鮮をうって一丸とする猛運動と拓務及び朝鮮総督府の猛運動は遂に奏功し、六十五議会では外地米統制は 

一、臨時外地米統制法 
二、米穀特別会計資金の拡充 

但し来るべき米穀年度までに根本解決を計るべしとの附議決議を付せられて鮮米の危機は一応経過したのであった、その後米穀対策が強調されつつ斉藤内閣は岡田内閣に代った、夏期を迎えて稀有の変調天候は北陸の水害をトップに九州旱害、朝鮮水災、東北冷害、関西風水害の連続的の現出は飯米飢饉の現出となり、九年米米作は俄然一大記録的凶作を見越されるに至った、この状勢の下に、斉藤内閣の公約たる米穀根本対策のために十月初頭米穀対策調査会が招集された、同会には農林省を始め政党、有識者の夫々試案の提出をみ、政党、官界、民間の権威をあつめて対策を附議したが、依然最終解決を見出すに至らす現在に及んでいるが、常に鮮米の差別待遇説を生じ勝ちで、これに対し米調会の調査委員有賀賀光豊氏及び総督府関係では効果的な反対運動を継続したのである、この米調会帰着点は未だに逆睹を許さぬものの、鮮内官民が白熱的に一致団結し、鮮米統制論に抗した事に、ながくながく銘記さるべき事実であった 
しかしてこの一面、好むと好まざるに拘らず、米穀政策は一歩一歩強化を示し、九米年度には米穀法第四条による季節調節買上げ及び、籾の長期貯蔵三百万石が施行を見たのである 
鮮米買上げは、米穀統制の第四条により、公定米価買入の補強工作として十二月初頭より四回に亘り、通計百三十四万石余を買上げ、鮮内の浮動米を一掃したこれと併行的に朝鮮総督府では低資二千九百万円をもって籾の三百万石長期増蔵を施行し、両者共に殺到的要望で大成績をおさめたが、これは内地の公定米価により政府へ米穀吸収と相俟ち、本年五月末より政府は一千五百万の手持米を擁し乍ら目縄自縛的な飯米飢饉を惹起し特に春窮期の朝鮮の飯米不足は極度に達したこの対策として本府では六月末敢然籾自主解除を断行したこれは朝鮮の特殊的事情に立脚し鮮内から好評嘖々たるものがあったが内地特に農林省ではその抜打的態度に対する批難を生じて問題化したものの結局内地の六百万石貯蔵もこれに追随し断然朝鮮は面目を見せた、この長期増蔵は八月及び九月と三回に亘って解除をみ鮮内の籾放売慣習並に金融化に大きい貢献をあげつつ貯蔵差益七百万円余を農村に潤した 
九米年対策内鮮凶作によって、過剰米穀の事情は解消しきたったが、米価の急奔騰と内地凶作のため移出調節が考慮せられ、十一月末の米穀委員会では外地米の百三十五万石買上方什を決定したが、年内に実施をみず、籾の鮮内貯蔵も長期を行わず短期のみ十二月より玄米二十万石、籾三十四万石に対して施行せられたのみだが、自治調節問題がこの前途に横り依然多難を予期せられている 
この米穀統制の波及は鮮米の移出動向に反射的に現出し、本年初の買上げ、籾貯蔵は二月上期まで順調の月別移出を示したが、その後統制問題は見越移出を激増せしめ内地の飯米不足も作用し総移出が九百四十九万九千石と記録的大量を示したのみならず移出月別もまた変調を示した、五年平均の季節指数及び前年及び本年を対比すれば次の通り 

大阪朝日新聞 1935.6.11-1935.6.29(昭和10)
朝鮮の経済
特派員 広岡知男
 
人口の急増加に伴わぬ産業 内地、満洲へ溢れ出る因
 ・・・しかしながら、翻って産業の伸張と人口増加が相伴っているかどうかをみると、総人口の七七・五%(昭和八年末現在)を占めている農林牧畜業者が、大正十三年より昭和八年にいたる十年間に百二十六万一千人(全増加の約半分)殖えているに対し、農牧産品価額は世界的な農産物価低落のため十二億八千五百万円から九億二千万円に減少し、林産物価額も同様な傾向を示しているのである。もっとも農産物収穫高は耕地面積の拡大と耕作技術の進歩とによって漸増してはいる。しかし父祖伝来の重い負債をおい、冠婚葬祭を□る弊風に縛られている多くの下層農民達にとっては、価格の下落は最も手ひどい打撃に違いない。 
 この窮状こそ農家の男女をして満洲へ、内地へ、都市へと流動せしめている原動力である。貧農階級の子弟達は、旱害と水害と風害に脅かされねばならない農耕を捨てて直接現金を握ることの出来る労働生活に走る。斎藤総督時代に創始された窮民救済土木事業は、もともと農家経済を霑すことが目的であったのだが、農村を離れて労働者に転身するものが続出したため、地方庁が財源難に苦しみつつある今日、総督府は失業問題ひいては内地渡航問題の激化をおそれてなお打切り得ない現状にあるこの事実は前記の傾向を反映するものに外ならず、朝鮮農村が労働者群に吸収しうべき過剰人口を、豊富に包容していることを物語っているものではあるまいか。 

知識程度の低い朝鮮の労働者
 工業にとって労働が有利な条件であるためには、労力が容易に得られると同時に、それが安価でなくてはならないが、朝鮮における労働は供給が豊富であるのと労働者の生活程度が低いために今なお低廉である。朝鮮には担軍という、よく支那の苦力に対比される自由労働者の群がいる。担軍は苦力と同じく荷物の運搬が主な仕事で、南鮮地方の波止場人足など大部分これだ。群山の港では担軍達が重そうな米袋を背負って船に積込んでいるところをみたが、朝から晩まで□々として働いても五、六十銭位なものであるという。また、朝鮮人の土工トロ押し、担軍などの並人夫についても、総督府の「道路、港湾、建設諸工事に関する労働者使役状態調査」は、日給四十銭乃至八十銭と報告している。 
 以上は単純な筋肉労働を売る戸外労働者であるが、工場労働者についても同様である。即ち当時十人以上の労働者を使用する鮮内各工場について、総督府学務局が調査作成した統計によると、男子成年工(十六歳以上)の賃銀は、内地人が最高七円四十五銭、最低十銭平均一円八十七銭であるに対し、朝鮮人は最高四円八十銭(精穀業)最低十銭、平均八十五銭で大体朝鮮人は内地人の半分となっている。さらにこれが朝鮮人の幼年工(数え年十六歳未満)や女工となると、また遥に安く、男子幼年工は最高一円、最低十銭、平均三十銭、女子成年工は最高二円五十銭、最低十銭、普通四十六銭、女子幼年工にいたっては最高一円二十銭、最低六銭、普通二十九銭を示している。 
 六銭という全く途方もない日給は、製網工場に働く少女の賃銀である 
 賃銀が安いのみならず、労働時間も内地に比して遥に長い。前記の統計によると、千百九十九工場中就業時間九時間以内のものは六十七即ち総数の五%強に過ぎず、十二時間以上のものが四百九十三即ち四六・九%を占めている。就中、米の収穫期後における精穀業メリヤス製品製造業などの如きは一日の労働時間十五時間以上に達し、しかもその莫大小製造業が昼食時に一時間の休憩を与えている以外は、休憩時間の定めさえないものが多い。 
 現に、平壌の三共洋襪工場(木綿靴下製造)の如きは、歴代総督の視察した模範工場でありながら、普通就業時間は午前六時より牛後八時までであり、繁忙時には午後十二時まで延長することになっていると語っていた 
 なお朝鮮において内地人職工の賃銀が朝鮮人の約二倍に達している理由は、内地人が主として熟練工であるに反し、朝鮮人は概して知識程度の低い未熟練労働者である結果である 
 記者が参観した内地資本系の工場では、内地人は係長や特殊技能者が多かった。殊に屡々見かけたようにそれがやっと二十四五歳位にしかなっていないような青年である場合には、内地から出かけたものの目には何だかチグハグに映ずるのであった。 
 勿論、労賃の高低は労働者の能率と関聯せしめて、これを見なければ無意味である。朝鮮人の労働者としての素質に関しては袤貶とりどりの批評が行われている。先ず欠点としては、知識程度が低いために頭脳を必要とする仕事または緻密な仕事に適せず、また忍耐力薄弱で不平が頗る多いということが一般にいわれている。 
 日本鉱業の鎮南浦の精錬所では責任感の弱い点をあげ、嘗て同所で金鉱石の分析に朝鮮人労働者を使用していたところ、鉱山側に買収されて鉱石の品位を高めるために金粉を試験用の鉱石粉末中に混合して、非常に困った事実を述べていた。また、新義州の王子製紙では、退職金のやっとつくころになると、これをほしさに会社をやめるものが多く、また賃銀につられて諸所を転々し熟練するまで一定の仕事に辛抱するものが少い点を指摘していた。 
 しかし、一般に認めめられている鮮人労働者の長所は、天性手先きが極めて器用であり、どの仕事に対してもこれを厭わずに相当こなして行く点である。平壌の小野田セメントでも、仁川の東洋紡でも操業の最初は内地人職工を混ぜたり、内地へ見学にやったりしたが現在では完全に仕事に習熟してその必要を見ないといっている。殊に前記の欠点は教育の普及と生活の改善によって最近迅速に矯正されつつある。 
 即ち一方において総督府が下層民の生活改善に力を尽しているのと同時に、他方朝鮮人の自覚により近来民間の教育熱が頓に旺盛となり、学校設立、図書館設置などに対する民間の寄附は年々多額に上っている。特に普通教育の発達には驚くべきものがあり、貧弱な藁葺の朝鮮人部落の間に堂々たる西洋建築の普通学校(小学校)が聳えているのに目を瞠る場合が少くない。 
 上述の諸点を総合すれば単純労働では苦力に劣り、頭脳において内地人に劣る朝鮮人労働者の今後進むべき途は、この両者の中間を行くメリヤス、紡績、麻布、製糸セメント、製紙等の軽工業方面であろうと思われる。 

京城日報 1935.10.26(昭和10)
西北鮮六道 冷害・高地帯対策会議
特異地帯に対し最初の根本討議
本府、関係道五十余名の知嚢を集めてきょうから本府に開かる

・・・然るに西北鮮高地帯に昭和六年以降殊に昭和八年、九年及本年と引続き夏期低温過湿であって日照充分でなかったのと農家の之に対応すべき経営法当を得ず、農法亦粗放なる為同地方の主要農作物は伺れも被害を受け著しき凶作を示すに至り元々豊ならざる農民の被った打撃は実に甚大であって、困窮の状態は見るに忍びざるものがあるのには遺憾とするところであります、従て当該地方農民の窮状に一日も之を忽にするを許さざる実情に在りますので直に応急的の善後措置を講ずると共に将来に於る災害の防止及高地帯農民の農業経営並に生活様式の改善等恒久的の対策にも関し慎重なる研究を遂げ成案を得て以て本地帯開拓の使命を全うすると共に農民の安定と其の福利の増進を期せなければならないのであります 

京城日報 1936.1.8-1936.1.9(昭和11)
農村振興運動の強化
進展に寄与することを念とす
農林局長 矢島杉造

翻って地方の現状を観るに輓近経済界の好転に伴う農産諸物価の高騰と昨秋の豊作とは多年疲弊せる農村にも一脈の活況を呈せしめ、所謂農村景気を現出せんとする恵まれたる情勢の下に在って此の点独り農会のみならず邦家の為め同慶に堪えないところであるが、斯の種好調時代には人心動もすれば緊張を欠き節制を失って浮華軽佻に流れ易く、或は廃退的風潮を馴致する等却て禍根を将来に胎した事例も洵に少くないのである、

金振九「国癌切開」昭和十一年四月二十日発行

三、現下両民族間に於ける極端なる感情の尖鋭化
1、警務局と言論界の睨み合ひ
 最近京城のニュースの一端を、紹介して見れば、朝鮮総督府警務局と、朝鮮文新聞雑誌業者との間に、極端なる感情の疎隔があるさうであります。
 これは、今に始まったことではないけれども、昨年の十月以後、殊にこれが、露骨化してゐるさうであります。その原因は十月一日、総督府の主催で、始政二十五周年記念式を、盛大を極めて挙行しましたが、これが記事をば、民間朝鮮文新聞並びに雑誌では、一切に掲載しなかったことに、出発してゐるさうであります。
 これは、公平な立場から論ずれば、言論界の方に、非があるのではないかと思ひます。何となれば、如何に気に食はぬことにせよ、全道を挙げてのお祭騒ぎであるから、百歩譲って、社会相から見た時にも、立派な三面記事の材料ではないでせうか。
「君等は、新領土を得たから、祝賀もお祭騒ぎもするであらうが、我等は国を失った方であるから怨恨こそあれ、祝賀のあらう筈がないぢゃないか」といったような心底であったでせうが、それにしろ、目前に湧き出づる感情とか気分とか、いったような微小なる問題に囚はれて、明日の大局を見透せず、それがため、将来する所の無形、有形の苦痛を如何にせん?。且又両民族間には、何時までも、この不幸と積怨とを継続して行って、百年後に、禍福何れかの結実を、見るのでありませう?
 最近、二三言論界の一流人士に逢ひましたが、開口一番に「朝鮮で我々の仕事は、どうしてもやりきれない。切抜く方法がない」といふ、哀訴の声であります。無論、当局の弾圧を意味するのであります。
 旧臘上京中、丸山鶴吉氏を訪へば、「困ったものだ、朝鮮の諺文新聞は、困ったもんだ」と、繰返して歎声を漏らすのでありました。これは、同一の事実を以て、日本の識者としての訴へであります。
「抑も、朝鮮の言論界は、斉藤総督時代に、吾々の手に依って造り出したものだが、この間、施政記念式に行って見たら、あれだけの事実を故意に一行だも書かない。困ったもんだ。あれだから、朝鮮には、新聞もこれ以上許せない。して見れば、それだけ、朝鮮は文化発展が、遅れるといふことになる。それを書いて、人気が落ちるとか、読者が減るとかのことなら、吾輩は少くとも、それ位は諒解するけれども、今日朝鮮の情勢から見て、そんなことでもないのに、新聞社が率先して、敵意を表しようと務めるから、全く困るものだ」
と、しきりに、悲歎已まざるものがありました。
 しかし、朝鮮のような畸形的社会(僻見、愚痴、仮面、反発の世の中)に於ける、言論機関の人々も、当局と民衆との間に立って、人に言はれない悲哀と苦痛が、あるだらうと察します。十二分同情はしますが、しかしこれが打開策なしに、「なるようになれ、止めろといって来たら、何時でも止めるまでだ」と、自暴自棄に、事を進ませようとするのも、指導階級として、大いに、取るべき道でないと存じます。

2、親日と排日を如何に色別せん
 朝鮮には、親日とか排日とかいふ言葉が、盛んに行はれます。先づ総督府所属官公吏、同名誉職並びに総督府に依って、衣食する者をば、親日派と指し、民間新聞雑誌系統宗教団体、私立学校教員並びに同学生生徒、新文学者、思想団体、青少年会等を、排日派と見做すのが、朝鮮に於ける智識階級の色彩を、大別するものでありませう。
 しかし、朝鮮の思想界ほど、鑑別のつかぬものはありませぬ、総督府所属官公吏だからとて、必ずしも親日派と見るのも浅見であり、一般社会人だからとて、必ずしも、排日派だといふわけでもありませぬ。同じ親日派の中にも、苟くも最高学府を出たる者を、忠良なる日本臣民であり、総督政治に全然心腹したるものだと見るのも早計であります。
 要するに、排日派といっても、少数積極主義者の外は、極めて消極的なる名誉維持と、一種の処世術(排日派と見られると、大衆から尊敬される)に囚はれるのが、大部分であります。之と同様に、親日派と目される官公吏の中にも「俺は、パン問題解決の為め、不本意ながら、総督府の厄介になるまでだ」と、友人或は社会人に逢へば、さういふのであります。上司の命令の通り、器械的執務をするものが、これ亦多数であります。
 試みに、京城市内の官公吏を検討して見れば、直にわかります。朝の八時から、夕方の四時までが、総督府の役人にして忠良なる日本国民であるけれども、退庁後、一旦家庭人となり、社会人となれば、立派な民族主義者であり、社会主義者であり、或は今尚依然として尊周主義者ともなることがあります。これは、万已むを得ませぬ。その家庭制度から、親戚友人の関係から――。祭祀、接待、門閥、族譜(系図)、結婚喪葬其他の家礼、処世、交友等が、悉く旧態そのまゝの環境でありますから――。
 これが、心服政治であり、同化政治であったと、いひ得られるでありませうか。私は朝鮮人にして愛国運動者の一人と自任し、今後進出すべき道も、この精神に由る決心であるから、少しも遠慮せず、忌憚せず、躊躇もせず、他人行儀を執らずに、率直に申述べるのであるから、江湖の諸君子は、この点諒解すれば、幸甚に存じます。

5、徴兵制度実施の着手(p31)
 昨冬、宇垣総督の上京車中談に曰く、「朝鮮に徴兵実施は、義務教育実施後のことだ、言葉も通せず、文字も読めない者に、兵役ができるか」とあります。それは、全く道理であります。又曰く、志願兵位は、出来るかも知れないと――。・・・
 昭和九年度から、朝鮮人中等学校の一部に軍事教練を施行するさうであります。これは確かに宇垣総督の一大英断であります。「朝鮮人に、銃を持たせてはならない。朝鮮人に、鉄砲の打方を教えるのは、危険千万だ」と、思ってびくびくしてゐた人等とは、自ら選を異にする感がします。
http://www.dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1274703/15

京都市社会課「調査報告第四十一号 市内在住朝鮮出身者に関する調査」昭和12年1月30日発行 ※1937年

第三節 朝鮮に於ける農業の状態
 以上の如き小作慣行の下に小作料は農民の上に課せられてゐるのであるが、今これらの方法に依る小作料の生産高に対する割合を見るに、畓に於いては定租、普通四割乃至五割一部、打租は四割五分乃至六割、執租は五割乃至五割五分であり、田に於ては定租三割五分乃至五割、打祖四割九分乃至六割、執四割乃至五割五分となってゐる。
 然しその高額なるものにあっては八割、九割等の驚くべき高率を示してゐるのである。即ち次表の如くである。
(表省略)
 小作料が八割も九割にも上るものがあることは真に驚異すべき点であり、朝鮮農業の特殊的様相を示すものといふべきである
 斯かる高率の小作料の下に於て彼等は幾何の面積の耕地を占有し得るやを見るに
(表省略)
則耕地面積は平均一町五反であり、内地に於ける農家一戸当平均耕地面積に比較すれば比較的好条件の下にあるが如くであるが、上述の小作料の苛酷性は彼等をして極度の窮迫に陥らしめてゐるのである。
 今朝鮮総督府発行の昭和十年「農村窮乏の実情とその原因」七一六―七一七頁を引用すれば
「半島総人口の約八割を占むる農民の生活向上と安定とは、半島施政以来の緊要問題であり歴代総督の深甚なる考慮と最善の努力とを費して来た所である。今これらの農村を通観するに、耕地面積の如き一戸当内地の一町歩余に比し、朝鮮は一町六反歩余である。従って農家の生産と経済とには大に余猶があるべき筈の如く考へらるゝにも拘らず、事実に於ては遙かに内地の農家に及ばざる現状である。これら農民の八割は細農階級であってその多くは資力極めて薄弱且一般の教育に恵まれず自覚に乏しく従って自分に依り栄養各般の改善向上等は出来ぬ。徒らに旧習に捉はれて極めて低級なる生活に甘んじながら、年々歳々食料の不足を訴へ、現金の収支は年五、六十円乃至二百円程度の者最も多く、又一面必要の前には前後の事情を顧るの暇なく、徒らに高利の負債を増嵩し、春収、秋収等一年の努力もこれらの細農者の為めには或は借入食糧の返済となり、或は利子の支払となって余すところがなく、甚しきは所謂春窮期(自二月至四月)に於て食糧不足の結果、野生の草木に依って辛うじて一家の糊口を凌ぐやうな者が頗る多いのである。これらは多く多年被搾取者として虐げられた結果、勤勉、節約、貯蓄の気分は喪失し、向上発展を求むる希望もなければ努力も為さず、全くその日暮しで陋屋の中に酔生夢死して今日に至ったものである。所謂長き歴史と環境とが然らしめたものであって、決して朝鮮民衆の素性ではない」
以て朝鮮農民の如何に苦難の状況におかれたるかを指摘せるものであり、われわれはこれに依ってその状況を具体的に把握し得るのであるが、更に昭和十年版「朝鮮年鑑」に依りその状況を再瞥すれば
「内地に劣らず半島農村の疲弊は甚しく農家、特に小作農の中には生活に窮して折角粒々辛苦の結晶とも云ふべき貴き生産物も年々嵩み行く借金の利払ひ位が関の山で、中には秋の収穫の際、小作料と食糧返済及債金の利払とを済ませば後には籾を打ち落した臺と、籾を掬ひ込みたるバカチのみが残るといふ惨憺たる状態にあるものも決して少くない。故に之等の農民は地主に向って来年の収穫物を引き当にして食糧の前借をなすを常とする。これを食糧と云ってゐる。食糧も高利の利がつき、斯くて農家は食糧と借金とに追はれ、毎年々々これを返済して行くばかり、尚甚しきものになると、自ら食糧を生産しながら自分はこれを食ふことが出来ずして端境期になると全く草根木皮によりて生を保ってゐるものも沢山ある。この窮状を表現するために朝鮮特有の「春窮」とか「麦嶺難越」とかいふ様な言葉が出来るやうになった」
とあり、朝鮮農民の地主的高利貸的搾取に依り惨憺たる生活を営みつゝあるを髣髴せしめるものがある。即ち農地改良策、産米増殖計画等諸政策の下にその生産の年々の発展にも拘らず、その下に如何に農民が惨目なる状態にあるかを推測し得るのである。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1451731/11
 
「極秘」 ※1937年
別冊第二 昭和十二年六月 調製
朝鮮人志願兵制度に関する意見
朝鮮軍司令部

・・・半島民心趣向の善導は現下に於ける重要焦眉の大問題たるを失はず。然るに今静に半島統治の現況と之に対し滔々として隠然底流する朝鮮民族の反撥(原文旁「発」」、自棄的思想の儼存を看取するとき、吾人任を朝鮮の防衛に承くるもの断じて晏如たる能はざるものあり、・・・

尚参考の為
一、朝鮮民族思想変遷概要
二、日蘇開戦に対する朝鮮の観察
三、朝鮮人の経済状態概観
四、朝鮮児童就学状況
を添付す。 
 
三、朝鮮人の経済状態概観
・・・然れども朝鮮総戸数四百一万戸中三百一万戸は農民にして実に全人口の八割を占む。
而も其の農民中自作は二割弱自作兼小作二割強に過ぎずして小作五割、被傭者及火田民等一割にして其の生活状態は一般に貧賤困窮の状態に在り

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レファレンスコードC01004253900(23・47枚目)
昭和12年「密大日記」第2冊


昭和十五年初頭に於ける朝鮮食料資源に関する一般情勢 ※1940年
昭和一五、一、一六
朝鮮軍司令部

判決
一、旱害に伴ふ朝鮮食糧の対策は一応樹立せられたるを以て実施之に伴ふに於ては鮮内の食糧問題は漸次好転すべしと雖も春窮期に於ける食糧不足に対し速に鮮外雑穀を輸移入するは刻下に於ける急務なり。而して其の輸移入せる雑穀を適時適切に鮮内に配給すると共に速に鮮内民間手持米を買上げて米穀の需給を確実ならしむること必要なり。

二、都市に於ける米穀の配給は昨年末の状態より漸次改善せられつつあるも尚円滑を欠くものなしとせず。雑穀の輸移入は今尚充分ならず。然れ共一般に民心緊張し目下の所大なる動揺なし。特に地方農村に於て然りとす。
然りと雖も雑穀の輸移入現状の如く遅々たるに於ては春窮期至り遂に食糧甚しく欠乏するの地方を生ずべきを以て其の推移に付ては特に戒心の要あると共に軍としても亦鮮外雑穀の輸移入に付て積極的に之を助力するの要ありと認む。

三、昭和十五年度軍需動員整備精米八十万石の取得に付ては鮮外雑穀の輸移入予定数量三百万石の外更らに同量八〇万石の雑穀を増加輸移入するの要ありと認めらるるを以て特に各関係当局間の打合等之が処置に付遺憾なからしむるの要あり。

説明
一、に付て
イ、朝鮮食料の対策輸移入の急務等に付ては別冊第一を参照せられ度。特に旱害地方に於ては農家にして収穫皆無のもの多数あるを以て此等の者の食糧の取得は麦の収穫まで鮮外雑穀を以て補填せざるべからず
然るに目下に於ける輸移入の状況は別冊第一の五、六、七にあるが如く対策遅々として進まず若し現状を以て推移せんか二三月の頃局部的には全然食し得ざる者あるに至るべし
又旱害地方に於ては鮮外の雑穀を速に輸移入し僅少なりと雖も収穫せる籾を農民より買上げ都市に対して米穀を供給せざるべからず。然るに現状の如くんば右の買上は至難にして米は農家に於て消費せられ都市の供給亦至難なるに至るべし。

二、に付て
食糧の配給取得特に都市に於ける状況は別冊第二を参照せられ度。農村の情況に付ては一月十三日山之内参謀の実施視察したる所に依れば旱害地方農家の食糧欠乏は意想外にして十数名の家族を搖〔ママ〕しながら僅かに粟等数升を貯へあるは寧ろ良好なる向にして全然貯蔵なき農家も亦少からず。此等の農家は●、「ドングリ」の実桔梗の根、「ヒマシ」の葉等を単独に又は僅かなる粟と交ぜて粥(※原文「米」+「弱」)とし一日二食を常とし時としては一食場合に依りては全然欠食する向もあるは確実なり(別封山之内参謀自ら現地に於て農家より求め来れる代用食参照)。此等の者は旱害対策としての各種労務より得たる僅かなる所得に依り小売商に付雑穀を求めあるも輸移入の雑穀不足の為此等小売商の手持極めて少く現に交通の便必ずしも良好ならざる農村の小売商に於て僅かに五日分を有するに過ぎざるものあるを認めたり。此くの如きを以て満洲方面の雑穀の輸入遅延するに於ては二月乃至三月に至り寒心するべき状況を呈するに至るべし。従て要輸入雑穀の大分は速に春窮期前に鮮内に配給するの要あり。
但し農村に於ける民心は極めて平静にして忍苦しあるは全く時局の結果にして朝鮮人知事某の言に依れば大正十三年の旱害時に於ては既に此の如き程度に至らざるに拘らず農村の倉庫襲撃事件等起りたる由にして今回此の如きことなきは全く時局に基く民心緊張の結果なりと感歎しありたり。
然れども当局としては決して民心の現状を以て楽観すべきにあらざることに深く鑑み今日に於て断乎たる対策を講ずるの要ありと認む。
尚遺家族食糧問題に関しては対策徹底しあるを以て憂ふべき点なきものと信ぜらる。

三に付て
別冊第一参照

四、軍は万一騒擾勃発せる場合には断乎たる対策を取り得る如く準備しあり。


別冊第二
食糧問題に伴ふ治安観察
判決
一、米穀の出廻は漸次促進され頭初の情勢は幾分緩和されたるが如くなるも一部地方特に下層階級に対する配給は依然円滑を欠き物資の不足、物価の高騰と相俟て国民生活を圧迫し大衆の不満相当深刻なるものあるのみならず旱害地住民の動向亦楽観を許さず。
治安に対する顧慮は目下特に憂慮すべき事象なきも端境期の近迫と共に相当警戒を要する情勢にありと認む。
二、当局をして速に雑穀の確保と配給の円滑化を期せしめ以て民心の不安を一掃すると共に旱害罹災民の結氷期間に於ける救済策を講ぜしむるの要ありと認む、
説明
一、食糧取得難に伴ふ治安監察
朝鮮米穀配給調整令の施行、関係各機関の努力等により米穀の出廻は漸次促進されあるも京城地方並南鮮の一部地方に於ける配給は依然円滑ならず特に下層鮮人の米穀取得難は相当深刻にして雑穀の品薄並価格の割高と相俟て之等細民の生活を脅威し不安を生ぜしめ或は米穀業者の店頭に群衆殺到し或は米騒動勃発を流布し或は当局の施策を非難する等騒擾惹起の危険性を包蔵せる事象尠しとせず、
之が具体的事象を挙ぐれば次の如し、

(一)米穀取得に対する特殊事例
○京城府岡崎町 龍山精米所
   〃 孔徳町 兄弟精米所
右店頭には米穀購入者常に殺到しあるが十二月十八日には数百名に達したるを以て所割署に於ては治安上有害なりとし制服警察官数名を派遣し之等群衆を解散せしめたり、

○京城府北米倉町 京一商会
右は十二月十七日江原道より五百叺(原文口偏に「人」)の入荷ありたるを以て道経済警察課に連絡の結果四百叺を府内小売商人に配給し残量百叺を同店に於て翌十八日午前十一時より一人五升以下の制限販売を開始したる所付近の細民蝟集し大混雑を呈したるを以て所割署員十名立合し之が整理に努めたるが購入不能者二百名ありたり、

○京城府西大門地方鮮人経営の各精米業者は籾入手難の為十二月十五日以来販売停止中なりしが十八日に至り某精米所に入荷せるを探知せる付近住民は同精米所門内に殺到販売方を要求せり。之が為同精米所は各門を閉鎖し門内に於て小量宛配給しありたる所殺到せる群衆は外部より各門を破壊侵入し大混乱を呈し警察官の応援により鎮撫し事なきを得たり。

○京城府内某店に於て飯米販売中購入者多数殺到せる為忽ち売切となりたるが此際購入出来ざりし鮮人群衆は購入を急ぎて列を離れ先に割込みたる内地人数名ありたるに対し臨場警察の取締不公平なりとて該警察官を難詰し遂に口論となりたるも大事に至らず解散せり、

○京城府永登浦町 甲敬植商店
右店に於ては十二月下旬に至り一日平均約一千名の飯米購入者殺到し百名内外の購入不能者を出しあり

右の如き事象は鮮人の特性上一歩誤れば直に騒擾化●虞あり治安上偸安を許さず

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昭和15年「密大日記」第9冊

第七期演習処置書 其の一 ※1941年
 
内地の食糧逼迫に伴ふ朝鮮及台湾の措置
一、朝鮮に於ては約二千四百人〔ママ〕の人口中約半数は最低生活者にして食糧の消費規整を強化すべき余地なし、其の他の半数は現在最高程度の生活者と雖も三割の雑穀を混食して其の配給は普通大人一日二合五勺なり
二、台湾に於ては人口約二百五十万にして其の半数は朝鮮の場合に同じく最低生活者にして食糧の消費規整を強化する余地なし、其の他は台湾に於ては雑穀の生産なき(?)を以て南部地方に於て一部甘藷の混食を為さしめつゝあるの外はすべて米食にして、其の配給は内地と仝じく一日普通成人玄米二号五勺、之を精白して二合三勺となる、
三、朝鮮及台湾に於ては従来より消費規整の徹底を図余剰はあげて内地に供出しつゝある現状なる●、内地に於ける食糧事情の一段と逼迫せるに対応し、、朝鮮、台湾に於ても更に規整を強化し、一日一人当二勺ずつを減ずる事とし、其の結果朝鮮に於ては七五万石、台湾に於ては約八万石、合計約八十三万石を内地へ供出することゝす、

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第1回総力戦机上演習経済戦処置書 昭和16年8月

「極秘」印
朝鮮人及台湾人の政治的処遇に関する伊澤枢密顧問官口述要旨
(昭和十九年十一月二十八日)

二、参政権問題
・・・要するに純然たる日本人たることを前提として差別なく取扱ふこととし、唯其の日本精神に徹したる程度に応じて参政権を賦与せんとするものである。之は一面政治的にも意味があり、一度に多数の議員が朝鮮及台湾より選出されるときは、現在の皇民化の段階ではアイルランド問題の二の舞を演ずる虞も考へられるからである。

三、朝鮮及台湾統治に関する所見
余は外地に付ては大学卒業以来関心を持して居り、明治二十八年大学卒業と共に領台直後の台湾に仕官を志願しただが遂に其の志を得られなかった。而して当時台湾の留学生とも数ケ月間寝食を共にして、方法を以てすれば必ず新付の台湾人を悉く陛下の赤子として純乎たる日本精神に徹底せしめ得るものとの確信を得たのである。大正五年寺内総督時代に、余は朝鮮を視察したことがあるが、其の際努めて独立運動者等の民族意識の強い者に会ったのであるが、其の結論として左の如き所見を総督に対して述べた。第一は善意の悪政が存すること、第二は威あれど恩足らざること、第三は行政が煩瑣なることの三点である。第一点は例へば総督は道路の整備を説き交通の便が民政上に及ぼす好影響を語り、殊に洪水に際して部民が自己の家財を省みず道路の防衛に協力せる美談を●えたが、事実は部民は道路の再建に要する夫役の負担の大なるを虞れ家財を失ふを寧ろ軽しとしたに外ならなかったのである。第二点は例へば余はさる汽車旅行中襤褄を纏へる一西洋人に対して到る●に於て朝鮮人が相慕ひ相擁(?)せんばかりの有様を目撃したが、之は引上げの洋人宣教師に対する別離を惜しむ美しい情景であった。併し乍ら内地人に付ては全鮮何れに於ても斯く内鮮人相睦び相和する姿なく、唯見るは相互に白眼視する有様のみであった。第三点は韓国時代に比し内地の役人は何れも清廉潔白にして施政公平なるが、行政は煩瑣画一的にして迷惑多きを訴へたのである。
尚大正六年には台湾を視察し朝鮮に於けると同様に台湾人の真意を探った。台湾人は朝鮮人とは民族性を異にし、漢民族特有の社会的国際的成熟の結果、装うて容易に真意を語らないが、其の漏らす所に依れば台湾に於ける内地人の官吏は朝鮮とは違って貪官汚吏であると云ひ、事実又其のやうに考へられた。又当時台湾人の官吏登用の状況を見るに朝鮮と異りて一人の判任官も存しなかった。台湾は朝鮮より十数年前に領有され統治の効も●るべきに拘らず、事実は右の如き有様で、鮮台の統治方法に相違あり、其の処遇にも著しき差異を存して居た。
右に述べた朝鮮及台湾の状況は余の見る所では今日に於ても同様である。
思ふに右の如き状況では朝鮮人及台湾人は真に満足して皇民化することを得て臨むことが出来ない。参政権の賦与も固より必要であるが各種の事実上の処遇の改善が寧ろ第一である。
右にも触れた官吏の任用の如き又教育上に於ける差別待遇の如き其の他各般の社会上、経済上、行政上の差別待遇を撤廃するに非ざれば真に民心を獲得することは出来ない。

四、台湾統治の実情
尚世間一般は台湾に対しては無関心にして、朝鮮に付ては種々憂慮して居るが台湾は大丈夫と考へて居るやうである。併し乍ら事実は逆で台湾は朝鮮以上に民心が離れて居る。唯朝鮮の如く表面に表れないのみである。・・・

アジア歴史資料センターhttp://www.jacar.go.jp
レファレンスコードB02031288300(12枚目)
本邦内政関係雑纂/植民地関係 第三巻

京城日報 1941.9.23(昭和16)
国民皆労座談会 (一~六)

出席者
朝鮮連盟総長 川岸文三郎氏 
同 総務部長 烏川 喬源氏 
同 宣伝部長 御手洗辰雄氏 
朝鮮軍参謀大佐 山之内二郎氏 
総督府労務課長 林 勝寿氏 
城大教授 森谷 克己氏 
鐘紡京城工場長 片岡 勉氏 
社会思想家 青山覚鐘氏 
(旧名李覚●) 
三千里社長 白山 青樹氏 
(旧名金東●) 
淑明女専教授 豊川淑宰女史 
京城友の会 花山芳子女史 

(二) 妥当な労務の供出 半島で六百万
林労務課長 従来朝鮮で道路の修理そのほかに賦役という制度があったことは御承知の通りでありますがこの賦役と勤労報国隊との根本的な相違は前者は労働の強制でありかつまた賦役に出る人が極めて特定な限られた人、すなわち一部の下層階級の人であったのであります。しかし勤労報国隊の狙いどころはあくまでも自発的、積極的な愛国運動であって民衆から真に盛り上がった愛国精神に基づいて国家的、公共的方面の仕事に労力を提供して戴くのであります。従って勤労運動は単に賦役で狙っておるような単純な肉体的な労働ばかりでなく精神的な労務をも意味するのであって、肉体的精神的なあらゆる自己の技能を通じて国家に奉仕して貰うのであります 
御手洗宣伝部長 どうです皆さん、今のお話が一般民衆に解るだろうか、解らないということになると皆労運動が思想的に相当に悪い結果を生む虞れがあると思います 


八紘一宇・大東亜共栄圏とは



帝国議会貴族院予算委員会議事速記録第八号 昭和15年2月29日

○国務大臣(米内光政君)
八紘一宇の大精神に関しましては、過半本会議に於きまして建部博士に御答へ致した通りでございます、・・・之を対外的に考へまするならば、此の八紘一宇の御精神と云ふものが少しも侵略の意味を持って居りませぬ、徳を以て天下を化する、併しながら是が絶対の平和主義かと云ふとさうでもないと考へるのであります、「兵苟も義なれば戦ふも亦可なり」大理想に反するやうな悪逆のことをやる者があるならばそれは討たなければいかぬ、総て此の御精神に依りまして、今日迄日本と他国との間に於て戦争も致し、又戦争は致しますけれども是は一つの手段でありまして、此の大理想を実現する為に手段として使ったのでありまして、終局の望みと云ふものは世界の平和に寄与しなければいかぬと云ふことで参ったのであります、
http://teikokugikai-i.ndl.go.jp/SENTAKU/kizokuin/075/0080/0750008000810229.html
http://teikokugikai-i.ndl.go.jp/SENTAKU/kizokuin/075/0080/main.html

桑原晋「大東亜新経済と欧州新経済」1942年

第三章 大東亜新秩序建設とヒットラーの「欧羅巴新秩序」との比較
第五節 東亜新秩序経済とヒットラーの欧羅巴新経済秩序
第一項 「八紘一宇」の精神とヒットラーの「闘争」論との根本的差異
 東亜共栄圏は、「八紘一宇」の顕現である。億兆一人として其の処を得ざるなき様しろしめし給ふ大御心は、共栄圏内国家は一国として其の処を得ざるなき様しろしめし給ふ。覇道に非ず、王道に非ず、皇道のみ。日本人の理想であるのみならず、人類の理想でなければならぬ。天皇を中心とした家族的共同体以外に真に日本人の生きる道はない。この道はそのまゝに東亜に推して以て喜を頒たなければならぬ。あやからせねばならぬ。延いては全世界にゆきわたらせる必要がある。そのとき世界は永遠の平和を有ちうるであらう。
 しかるに悲しい哉、輝かしき此の事を理解しえない迷盲の国があまたある。我が日本の真意を体得しうる能力をもたぬ低度の民族が数々ある。それかあらぬか、あられもなき逆宣伝に躍起となれる指導者が諸国にある。或は排日と呼び、侮日と名づける。しかしながら、孰れも我が国を恐れ、怖れ畏るゝところに生ずる虚勢と見るの外はない。大義明〔ママ〕分に則とれる帝国の不動の方針と気魄とに圧迫を感ずるゆゑの焦燥以外の何物でもない。逆説的に言へば、日本の真意と「よさ」とを十二分に知りすぎた上での警戒と見る方が正しいであらう。
 しかしながら、敢へて日本は権力を以て怖れしめず、只管、権威を以て畏れらるゝのみ。欧米は権力の国々である。ヒットラーの「新秩序」も権力による建設である。日本の敢へて採らざる態度である。又、さうなければならぬ。東亜新秩序経済とヒットラーのヨーロッパ新経済秩序との根本的相違は茲に在る。そして又、ヒットラーの「新秩序」は「ドイツのため」の秩序であって、ヨーロッパ全体乃至は征服国全体のための秩序でないことは、上述せる如くである。之に反して、「東亜共栄圏」は単に「日本のため」に非ず、「支那のため」に非ず、「満洲のため」のみにあらず、東亜諸国の文字通りの「共存共栄」の秩序である。如斯、新秩序の理念において本来的意味を異にしてゐる。
 「我が闘争」から生れ出でし「新秩序」は何処までも「力」による建設であり、御稜威日本の建設せむとする「共栄圏」は、云ふまでもなく、「威」によるを本質とし、「大和」を建前とする。「征服、被征服」の言葉を必要とせず、「支配、被支配」の関係のあらう筈もない、共存共栄の実あるのみ。・・・
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1459408/67

高島米峰「同じ方向へ」1937年

三 八紘一宇の思想
 支那の日本を軽侮し、蔑視すること、誠に言語に絶す。曾ては、彼と対等なるを得て、満足したる日本も、今は寧ろ、彼をして、永遠に日本の庇護なくしては、独立の体面を保ち得ざることを痛感せしめ、無限の信頼と絶対の従順とを捧げしめなければならない。これ実に、東洋永遠の繁栄の保証であり、世界恒久の平和の確保となるのであって、やがてそれが日本建国の理想の実現となるのである。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1227702/45

小倉鏗爾「日本の全体主義」1938年

 この八紘一宇の大理想を、別の言葉でいへば、天皇様の御稜威(即ち皇威・皇風)、天皇様の御聖徳の感化(即ち皇化)を、全世界に洽からしめ、宣布することであります。又た別の言葉でいへば、天皇様の道(即ち皇道)を世界に宣揚することであります。皇威・皇化を全世界に洽からしめることが、即ち、八紘一宇となるのであります
 一口にいへば、皇道は、八紘一宇の道であるともいへます。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1257167/60

宮崎正義「東亜連盟論」1938年

斯くして王道は、連盟各国家を形成せる自覚ある民衆の理性と良心とに従へる、最高価値への信頼と服従への関係を律する思想であり、我国の内治と外治との対立的観念を総合統一する理念であり、更にまた個人と民族の自由と尊厳とを容認しつゝ、而も新らしい東洋的全体主義を顕現する大東洋社会建設の指導原理である。斯る指導原理の確立と其の実践とは畢竟八紘一宇の大使命の遵奉であり、其顕現に外ならない。而して、斯る八紘一宇の中心に位し給ふは、最高絶対価値としての天皇にあらせられる。王道主義とは、まさに斯る最高絶対価値の流露し給ふ万邦協和精神の発揚であり、その政治的表現に他ならないのである。(p114・115)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1278350/68

藤沢親雄「日本民族の政治哲学」昭和12年8月23日発行 ※1937年

「三月の辛酉の朔丁卯の日令を下して曰く我れ東を征ちしよりこゝに六年になりぬ。以て皇天の威に頼りて凶徒就戮されぬ辺の土末だ清らず、余妖尚梗しといへども中洲の地また風塵無し。誠に皇都を恢廓め」云々と述べ給へる後に於て、更に御言葉を強められて、「上は則ち乾霊の国を授け給ふの徳に答へ、下は則ち皇孫正を養ひ給ふの心を弘めむ。然る後に六合を兼ねて以て都を開き。八紘を掩ひて宇とせむこと亦可からずや」とのたまはせられてゐる。
 此の詔は所謂天業恢弘、即ち世界の精神的総括整理の聖業が、日本民族のまさに遂行すべき一定の進路であることを明らかにせられたものである。而して今日の日本は既にこの雄大なる理想が具体的に現実化せらるる多くの契機によりて恵まれてゐる。満州国の出現しかりである。近時多くの問題によりて曝露せられたる大英帝国の衰兆しかりである。日本の眼ざすものは実に世界に於ける理想と現実とを結ぶべき新たなる天孫降臨に外ならぬ。現在に於けるが如き株式会社的世界機構を打破し、日本精神文化を以て他の諸民族を極めて自然に感化し融合し我が天皇を精神的中心となす全人類大家族的国際社会を現出せしめることが、我等大和民族の理想である。(p498)

 我が国に於ける外交原理は文武一体であるから、皇道の世界光被即ち天業恢弘の為には、武の実力を用ひる場合のあることは神武不殺の意味に於て許容せられねばならぬ。日本の世界的使命遂行によって実現せられるべき国際正義の貫徹擁護に当っては、兵を用ひ武を振ふべき場合あることは之を予想せねばならぬ。・・・日本の戦争は天皇に「まつろはぬ者」を「まつろはす」ことである。即ち天皇の行はせられる絶対創造愛の聖業に反抗し敵愾するものを転向せしめ教化して、天業恢弘を翼賛せしめるのが「まつろはぬ」ものを「まつろはせる」といふ事である。「まつろふ」とは「祭る」「奉る」と同じく信仰に於て一体となり、心から順ふの意である。即ち戦争によって却って真の平和が実現されるのである。・・・日本は文武不岐一体の外交の範を示さねばならぬ。その妙用によって、日本民族を中枢とする権威によって秩序付けられた世界大家族社会を創造せねばならぬ。(p501・502)

・・・即ち神の直接の御延長として絶対的道徳権威を有せらるる万世一系の天皇をいたゞく日本が、現実的に世界の中枢となり、極めて自然に各民族が其の御稜威の下に相親和して、一大家族的国際社会を構成し得る暁に於て、初めて移民問題も、天然資源開発問題も、門戸開放の問題も、機会均等の問題も、人種平等の問題も、軍備縮小の問題も解決せられ、其の結果国際正義を保護する真の世界平和が現出することゝなるであらう。かくて百姓昭明、万邦協和の深き意義を包蔵する昭和日本の世界的使命が如実に達成せらるゝのである。
 以上本章を通じて究明したる如く、皇道の外に真に普遍的なる国際政治原理は存在しない。皇道に比肩するに足る他の現実的な世界指導精神も存在しないと思ふ。且又日本民族を措いて世界絶対平和を実現し得る王者的民族は存在しないと信ずる。・・・我々は近きより遠きに及ぶ政治原理に基き、先づ何よりも支那をして王道国家たらしむるやう補導し、東亜に於ける日満支三邦を皇道に依って一致協和せしめ、此処に三邦の行動国際原理による外交の美を修めるならば、遠き欧米亦之を模して皇道に和順し、八紘一宇万邦協和の世界が次第次第に顕現されることとなるであらう。(p506・507)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1876365/257

金子鷹之助「大東亜経済の推進」1945年

最近の新聞写真によると、昭南神社が建設されたが、あの清流に神橋が架せられ、静な森の中に、石のある庭、簡素幽玄なる木造神殿が造営せられたる風景は、大東亜諸民族の魂の底にある、悠久遠古の生活の記憶を喚び起すに相違ない。而して之は北方諸地方には既に凡ゆる処に建設されたが、南方でも独り昭南島に限らず、すべての処に造営され、諸民族の礼拝の中心とせねばならない
諾冉二神は大東亜の国生み、神生みの祖神であらせられ、天照大神は大東亜に君臨し給ふ、日子の神の祖神であらせらるゝと共に、社会と五穀に光を恵み給ふ大母神であらせられる。我国の神話こそは、欧米の如く科学的合理思想の為に抹殺もされず、又後進諸民族の如く、アニマティズムやアニミズム、や、マジックやタブーや、その他あらゆる呪術教的堕落にも陥らずして、炳乎として数千年を光耀き、幾度びかの国家的・社会的危機を救ひ、今や大東亜に解放と繁栄を齎さんとする、聖化され政治化されたる、社会思想となった。それは哲学でもあり、宗教でもある。
 但しこれを難解高邁なる概念を以て、諸民族に説教することは当分不可能である。先づ日本人が挙って日曜毎に参拝することである。従来の如く七日に一度エホバの神の為に、休息するといふことは無意味である。大東亜の大神にこそ参拝すべきである。諸民族はこれを以て「かゝる大神に帰依すればこそ、日本人は強く且つ情けがあるのだ」と悟るやうになるであらう。そして程なく伴いて来るであらう。又、神前の神楽は、彼等のガムラン舞楽の聖化したものとして、了解して来るであらう。支那ですら治者階級(士大夫)の、概念的政治的倫理たる儒教や西洋思想の翻訳たる三民主義の外に、農民の中に、自然的に発生したる社会道徳たる道教があり、それは福禄寿の神々を祭るのである。
 独り日曜だけでなく、大祭日を設けて参拝を重ねゝばならぬ。又、雨乞ひの龍神祭や豊年祈願の稲荷祭や盆踊りの如きも、諸民族一丸となって、楽しく賑々しくやるべしだ。山車や御輿も一緒になって引いたりもんだりすべきである。彼等の現在の宗教生活が、無害なる限り之に急劇なる禁圧を加ふることは、最も危険であるから、むしろ正しい文化・宗教を高く掲げて、自然に心の通ふやうにした方が良い。
 いふ迄もなく、八紘一宇の家族社会は、文化や思想だけでは建設されず、之と並んで経済的な福祉を与へねばならぬが、此の事は別の機会に屡説したので、茲には省くことゝする。(一七・一〇・一七)

補説一 八紘一宇思想の具現方途
 八紘一宇の思想とは、畏くも皇統を現御神ならびに大御親と仰ぎ奉り、人民はすべて兄弟なり、と考へる家族国家思想であるが、之を大東亜に具体的に表現するには、経済的、社会的、文化的等種々の方途がある。その経済的方途としては、キニーネの施薬、水力発電による治水、灌漑、電気化学(肥料、油脂等)、電気精錬(アルミニューム、鉄、錫)等科学技術や、経済的恩恵によって盟主たるの実を挙ぐべきことは筆者もしばしば他の機会に論じた。
 社会的文化的方途は、先づ神社の造営が第一であらう。過日新聞に昭南神社の写真が出てゐたが、水源から引かれた清流に神橋が架せられ、之を渡れば小高き丘の森林中にいとも清楚、崇厳なる神殿あり、といふ風景が拝せられた。
 この神殿の風景や神殿の構築様式は、特に南方民族の原始宗教内容と相通ずるものがある筈であり彼等は今でこそ印度教や仏教や回教やキリスト教に教化せられてゐても、その古い民族的記憶を潜在意識の奥底より呼び覚まして、われわれと同祖同族の自覚を確立するに相違ない。況んや神前に奏せられる神楽と舞を見て、彼等のガムラン舞楽の荘厳なる発展の極致を発見するであらう―大東亜に於ける舞楽は、神に捧げたものであり、欧米に於けるが如く、人間の享楽の為のものではない。能楽の冴えを見て日本精神を悟るところまでは、仲々時間を要するであらうが、神楽を見て、彼等の芸術と物語を向上せしめることは、容易であらう。
 現地に於ける日本人は、祭日休日の参拝はもとより、私人の冠婚葬祭も一切、この神前に於て行ふべきである。何よりもかゝ神様を信奉すればこそ、日本人は強いのだ―彼等が数百年間、神とも鬼とも恐れて来た米英国人を、一撃の下に彼等の面前に調伏したのだ―といふことを考へて、いつとはなしに彼等も、日本人の後について参拝するやうになるであらう。やがて日本人が強い許りでなく、情があることも、知るやうになるだらう。
 かゝる神社は既に、台湾、満、鮮、蒙、支至る所に造営せられてゐる大陸に於ても、少くとも原住民族は、日本民族及び南方民族と、同祖同族だった筈であるから、やがては太古の記憶を覚醒し、神社参拝を理解し得るに至るであらう。(p133~137)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1065646/85

武政太郎「国民教育の心理」昭和15年12月20日発行 ※1940年

四、八紘一宇、東亜新秩序の理念
  そしてわが国は、なりませる宇宙神たる神の御心によって生れ出で給ひし皇祖天照皇大神の神勅によって肇められたる国であり、その神意によって神武天皇は、天下の民を同胞一家として弥栄えに栄えしめたまはんとて、皇国を建て給うたのである。これこそ八紘一宇の理念である。
  万物をして洽くその恵沢に浴せしめ、各々そのあるべきところに安んじて生を楽まして給はんとの大御心はまた皇祖天照皇大神の大御心であらせられるのである。この皇祖皇宗の神意を吾々国民が奉体して隣国諸民族の上に平和と光栄とをもたらさんとすることが、我が日本民族の一大使命である。満州国において建国神廟を造営され、わが皇祖の神霊を礼拝して一億一心の実を挙げんとされたことも、わが神皇国の発展の結果であると考へられる。蒙疆、北支、中南支援、否、南洋諸民族においても、わが皇祖天照皇大神の徳をたゝへ、真に吾々人間が「ひと」(日徒又は霊徒)であり、「ひこ」(日子又は霊子)であり、「ひめ」(日女又は霊女)であることを会得信奉せんことを祈るものである。これは、今日わが国では、仏教徒、キリスト教徒の間に仏の教といひゴットの教といふも、すべてわが固有の思想たる神ながらの道即ち天照皇大神の道に帰一せざるべからずとして新体制運動が生じてゐることと思想的には一脈相通じてゐるのである。平安鎌倉時代に本地垂迹説の生れたのと同じ気運にあるのである。
  わが国では、天照皇大神は、神霊であらせられると共に祖霊であらせられる。日本人の信仰は、神人一体にある。これは神人を別とするキリスト教思想と全く異るところである。かやうな国民的信仰を盛んにし、外地にこの日の神の道をひろめ、信仰を等しくする運動を起すことは、またわが国民教育における一つの任務であると私は信ずるのである。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1461696/129

井上哲次郎「日本精神の本質」昭和16年7月20日修正増補第一版発行 ※1941年

平和は功利を超越した道義心に由るより外は無い。苟も理性ある人間であるならば、道義に反対することは出来ない筈である。その道義に反対することの出来ない崇高遠大な精神に縁って永久の平和を実現するより外道は無いのである。
  今我が日本の如き道徳を主とする国と英・米の如き利益を主とする国との摩擦・軋轢・闘争を根底より一掃するのには何によるかと云へば、矢張り理想主義・精神主義によるより外は無い。換言すれば、総ての人類を融合調和するに足るような道徳主義を以てするより外は無いであらう。此の精神を以て基調となして我が日本は世界を統一しなければならぬ。世界を統一すると云っても、固よりそれは侵略的の意味ではない。さういふ大事業を成し遂げようといふのには忽ち起って忽ち滅びるやうな国では駄目である。万古を貫いて変らぬところの国体を有する我が日本の如きものでなければ、此の大任を果すことは不可能であることは余り明瞭である。是に於いてか「天壌無窮・八紘一宇」の大理想を掲げて之れが実現を目的として世界的に発展する我が日本の大使命が何うして看過し得られようか。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1212715/220

洪火会文教部編「時局と洪火会を語る」昭和16年1月25日発行 ※1941年

『大東亜共栄圏の指導原理についてお伺ひしたいのでありますが…………』
『要約して言ふと、それは今にも言った通り、肇国の大精神即ち八紘一宇の精神換言すれば皇道主義でなければならぬ。だから大東亜圏結成に当っても力を以てこれを強制すべきでなくて東亜各国各民族が真に心から協同できるやうに日本が指導扶援しなければならぬ。だから、大東亜圏の確立は日本を盟主とする搾取なき大東亜安定圏を意味するものだ』(p6・7)

『新体制と八紘一宇と言ふ標題の下に近来到る処で論議されてゐますが、我々としては、此の際真の新体制と八紘一宇なるものを観念付けることを必要と思ひますが、これについて御話を御願いし将来の心得と致したいのですが……』
『支那事変の経過、激化せる欧州動乱による国際情勢に直面してをる日本としては所謂新体制も真剣に考へなければならないと思ふ。
 過去何十年かに渉って日本の思想界乃至経済機構は英米のデモクラシイ的思想の影響を受けることが少なく無く、その結果真の日本の国家観念からいくらか逸脱した状態を呈し国家精神の萎靡国民思想の混濁を来たし幾多憂ふべき諸相を露呈し続けてゐたが満州事変の勃発によって警鐘は乱打され更らに支那事変の発生によって愈々血みどろの試練に際会するに至った。
 最早や従来のような放縦な弛緩した状態を以て国運を推進することは出来なくなったのである。即ち先づ内に於て自由主義、個人主義、功利主義的思想を除去し真に日本精神に基づく国民思想を復興高揚し士気を振作して一億一体大政翼賛の大義に邁進するの外難局を突破し皇国百年の大計を樹立するの道はないのだ。かゝる意味に於いて革新の声は随所に起り旧体制を打破是正して新体制を組織しなければならないと言ふことは今は最も真剣な国民的要望である。・・・」
『八紘一宇とは現在到る処で唱へられてゐますが多少その内容に関する説明が異なってゐるやうに感ずる場合も尠くないのですが、八紘一宇の真意義は一体どこにあるのでせうか』
『これは元来古事記や日本書紀に明文として示されてゐます。神武天皇の御詔勅の一節に基いて唱道されてゐるものでありまして、その字句の意義は一言に申しますと天下を掩ふて一家にしようと言ふことである。本来我が国は、古来華族制度を以て国家形成の単位とされてをり、皇室を中宗とする大家族主義的形態を以て形成されてをるのであります。神武天皇の大御心は天下万民を以て赤子とみそなはし、父母仁愛の情に基いて、民草を愛撫しこの一事を以て世の根源とせられようとするにあるかと拝察いたします』
『世界には多くの国があり、人種民族も到底列挙しきれぬ位沢山あるのですが、これらの他国他民族多人種に対し八紘一宇と言ふことを普及徹底せしめることが、出来るでせうか。言葉の上ならば兎も角、実際に於いてどうでせうか』
『尤もな質問です。それは一つの重大な問題です。世界を掩ふて一つの家にすると言ってもそれは遠い将来は別問題として、現実の問題としては、先づ不可能なことかと思へます。たゞ一家の如き親しみと誠とを以て、他国他民族に接するの外ないのである。然かし、他国他民族が、日本の正義と理想とを諒解し得ない場合は、なんとも致し方がないのである。誠を尽し、実践に示してこれを諒解せしめるの外はない。元来八紘一宇の意義は同じく神武天皇の御詔勅にある天業を恢弘し天下に光宅せんと言ふ御言葉と関連してこれを拝誦し解釈し奉戴するの外ないのであります。決してデモクラシイ的国際主義的な内容をもつものではありません
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1455098

藤沢親雄「皇道世界経綸の理念」1941年

  八紘一宇はかくて、まつろはぬものをまつろはしめ、世界をして宇宙の中心生命としての天皇に帰一し、その大御心を仰ぎかしこみつかへまつらしむることによりて達成されるのであって、これ肇国の精神である。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1033175/14

徳冨猪一郎「皇国日本の大道」1941年
  八紘一宇は我が皇道を光被するものであって、所謂る内に於ては政治を倫理化し、外に向っては国際を道義化するものである。我等は何を以て国内政治を倫理化するかと云へば、飽くまで皇室中心主義の大旆の下に、総国民が一致戮協し、皇国の為に一切の自我を擲ち去って奉仕することに外ならない。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1267273/140

加藤一夫「八紘一宇史の発足」1942年

  斯くの如く神々しい御心をもって、先づこの御用意をもって、国内を鎮められ、都を開き●も八紘を掩ひて、即ち世界全体を、一宇としよう、可いではないか、と云ふ御法悦を述べられてゐる。
  何と云ふ大きな御理想であるか。啻(?)に日本の君としてではなく、八紘を一宇としようとされる全世界の君である。前にも云ったやうに、今までは、日本の国力、日本の文化、日本の富、はまだ、全世界を神の国として一宇たらしむべき段階には入って居なかった。が、それは必ず来るべきであり、日本の天皇が、その全世界の君となり給ふことは、日本の確信である。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1042308/100

小牧実繁「日本地政学」1942年

  日本では古来、四季の清明とか、四季の巡行が正しいとかいふことが尊まれて来たのであるが、これは決して四季が共に温暖で住み易いといふことを意味したおんではなく、それは全く字義通りに、春はのどかに秋は爽かにといふことだけでなく夏は暑熱甚だしく冬は寒気酷烈であることをも意味してゐたと解釈しなければならないのである。而してこれこそ皇国日本が天地創生の祖神より賜はった大いなるたまはりものであったと考へなければならないのである。
  東京で畳の上に坐ってをりながら一年に一度必ず熱帯の気候を、同様に一年に一度は必ず寒帯の気候を経験させて頂くといふ皇国日本んほど有り難い国は世界の何処にも存在しないのである。何故かと言へば、それは日本民族といふものが南方の経営に対しても、また同時に北方の経営に対しても、往くとして可ならざるなき素質をそなへてゐるといふことを意味するからである。
  独逸の地政学者たちは結局将来の世界を支配するものは南方の熱帯地方、特に彼等が「死の十字路」と呼ぶ、アジアの南方、大東亜海地域の熱帯を支配しなければならないと考へてゐる訳であるが、併し日本民族といふ優秀な、而も気候に対する馴化能力の最も大である民族が存在する限り、ヨーロッパの勢力による南海の制覇といふことは絶対に不可能なのである。南方の、真に正しい意味における経営といふことは、日本民族による以外には、決して実現せられ得ないのである。・・・八紘一宇の大理想は大御稜威のもと、日本民族によってのみ実現せられると確信せられるのである
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1275962/148

山本英輔「天皇帰一の生活」1942年

八紘一宇
人類救済の指導理念
  八紘一宇といふのは、何も武力をもって、世界を征服しようといふのではない。武力をもってしたのでは、一時的に平和になっても、何年かの後には、また平和がこはされる。決して永つゞきがしない。永久の平和は、あらゆるものが、日本天皇の大御心を奉戴して、天皇を中心にまつろひ奉ることによってのみ、招来されるといふのであって、私が八紘一宇連盟を主唱するおは、一はこれによって、国内一億国民に、日本精神をしっかりと把握させ、所謂一億一心となって国難を突破させる。そして、次には、その立派な精神によって、世界人類を救済させようといふに外ならないのである。
  そこで、私は昨年の四月、この八紘一宇連盟の案を、私の友人の英語のうまい人に翻訳して貰ひ、之を外人に見せたところ、非常に穏健なことを書いてあるといふので、はじめて私に会ひたいといって来た。一番先に来たのが、英国大使館の情報部長、それから陸海軍武官、書記等であた。その時、いろいろ議論や意見を闘はした後、私は彼等に向っていった。
(中略)
『私は、世界永遠の平和を招来するために、この主張をやってゐる。今度の戦争で、勝った奴が負けた奴を押へ、またあのベルサイユ条約のやうなことをやったら、何年かの後には、再び戦争を繰り返さなければならない。結局八紘一宇の精神で、世界が融和帰一しなければ、真に世界の平和は来ないのである』と。
『では、国際警察はどうか』
といふから、
『それは、日本の国体に反するからいけない』
『さうすると、一体日本は世界を指導するつもりか』
『いや、自分の研究したところでは、日本精神が一番いゝと思ふからだ、万一あなたの方に、これにまさるいゝ指導精神があるなら出し給へ。ほんとうにいゝものなら、いつでも賛成する」
『ほう、さうすると、結局あなたの考へは、非常に穏健ではないか』
『さうだ、日本の本当の精神は平和である。世界中に日本ほど平和を愛する国民はない。それを、あなた方が誤解して圧迫して来るから、われわれもそれを撥ね返さなければならないのだ。・・・」
  私は、この八紘一宇といふことは、各国が、俺が俺がといってゐる間はできない。もう少し弱るところまで行かなければならない。そして、その時、中心になる日本が、ほんたうにしっかりしてゐなければ、基礎の鞏固なものにすることはできないと思ってゐる。私の主宰する八光会は前述の八紘一宇連盟案の変化したものである。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1033087/66

宮崎県教育会 編「神代の日向」1942年

我国は、神代以来八紘一宇の大理想を以て国是
とし、今日の国運を見るに至ったのでありますが、此の八紘一宇の御精神は忝なくも我が祖国日向に発源したものと思はれます。(p97)

迷へる隣邦の眼をさまし、世界を喰ひ物にせんとする暴虐なる国国をしりぞけて、美しい理想の世界を造ることは神の国日本に与へられた尊き使命であり、光栄ある責任であります。此の重大なる使命は我が国、肇国の大理想に基づくものでありまして、今こそ神武天皇の尊い大御心を世界に実現(あらは)すべき機会が与へられたのであります、(p103)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1057119


石原莞爾「昭和維新宣言」1942年

数十年後に近迫し来れる世界最終戦争により、八紘一宇はいよいよ実現の第一歩に入ることを信ずる我等は、八紘一宇を単なる美しき観念とは考へてゐない。正に我々の眼前に髣髴として望見する気持がするのである。(p8)

結局最終戦争は、道義の最高護持者であらせられる天皇が世界の天皇とならせらるゝか、力によって人類に幸福なる生活を与へようとする欧米の大統領の類が世界の指導者となるかを決定する人類歴史の最も重要なる時期といはねばならない。(p15・16)

既に述べたやうに最終戦争は王道と覇道の決勝戦であって、これによって世界の絶対平和、八紘一宇の第一歩に入ることが出来るのである。(p16)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1272536

今泉定助「御国体の実相」1942年

24八紘一宇
  大国とか強国とか云ふものも若し本当に日本がさう云ふものであると云ふことが分りましたならば、彼等は一体どう進退する。又印度の如き国はどう思ふでありませうか。真に八紘一宇の御境地から足りない所を保護して、世界平和の為に、日本天皇が天業を御施しになるのであると云ふことがハッキリ致しましたならば、小国、弱国が靡いて参りましたならば、大国強国と云ふものはどうなるでありませう。是は何時かは大天皇の統一の下に、世界の平和幸福の高峰に到達する時代が来るものと、私共は日本の古典の上から確信するのであります。さもなければ、日本独り神の天皇を戴くと云ふことは、神に私ありといふことになる。日本の天皇の大使命は、結論と致しまして、私は深く信じて疑はない。将来必ず何百年か何千年の後か固よりわかりませぬけれども、今日以後は割合に早く進んで、世界統一の天津日嗣の使命を御果しになる機会が来るのであらうと考へるのであります。(p40・41)

【問】八紘一宇につき御教示を乞ふ。
【答】八紘一宇なる語は近時漸く世人の注意を惹くに至った如くであるが、その出典は遠く神武天皇の建都即位の大詔にして、八紘は『あめのした』宇は『いへ』であるから、世界一家即ち皇道精神の世界光被を意味することになる。
然るに世は往々にしてこれを武力征服と誤解する者がある。若しそれが自己の功利的世界観より脱し得ぬ欧米人の見解なら兎も角、日本人、しかも識者を以て自ら任ずるものでさへさうあるから、吾人が古典を説き、皇道精神を叫ばざるを得ぬのである。
試みに日本書紀を繙き右の大詔の前後を一読するならば、それが武力征服とは全然異なるものなることが明瞭となるであらう。即ち八紘一宇は神武天皇が天業恢弘の為め東征遊ばされ国内が平定せられたので、建都即位の上、更に進んで全世界をも和気靄然たる一家の如からしめんとの大御心を現はせるものである。しかも此の実現は『鋒刃の威を仮らず、座ながらにして』行はせられることを理想とせられたことは幾多の例証を挙げ得る。
斯くの如く八紘一宇なる語は神武天皇の大詔の中に拝されるのであるが、その根本精神は遠く修理固成の神勅に由来する天皇の御使命と、八神殿、大嘗祭による天皇の御本質の当然の結果にして、それ故にひとり神武天皇のみには止らず御歴代の天皇の大御心でもあるのである。天皇は八神殿、大嘗祭の行事によって生成化育の本源とならせられ、宇宙万有を各あるべき処にあらしめ給ふ。八紘一宇はこの一つの表はれに外ならない。世界の各国家、各民族は斯くして始めて自性を発揮しつゝ全人類の生成発展に貢献し得るのである。天皇は独り日本のみの天皇ではなく、世界の天皇であり、宇宙の天皇であられるとは斯かる意味にて申上げるのである。此の度の事変も、まつろはぬ支那を言向け平和し相提携して、八紘一宇の精神を実現んせんとするにある。国民各自は須らく此の意義を正しく認識し、各々の立場に於て天業翼賛の実を挙ぐると共に、外務省などに於ても徒らに当面の問題のみに捉はるゝことなく、積極的に我が根本精神を闡明して皇道宣布省たるの実を発揮すべきである。(p44~46)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1094651

東亜連盟同志会「昭和維新の指導原理」1944年

 皇国日本の国体は世界の霊妙不思議として悠久の古より厳乎として存在したものであり、万邦にその比を絶する独自唯一の存在である。中外に施して悖らざる天地の公道たる皇道即ち王道は、畏くも歴代祖宗によって厳として御伝持あそばされ、歴世相承けて今日に至った。
  八紘一宇とはこの日本国体が世界大に拡大する姿をいふのである。即ち御稜威の下道義を以て世界が統一せられることであって、換言すれば天皇が世界の天皇と仰がせられ給ふことに外ならない。・・・真に天皇を信仰し、皇運扶翼に全力を捧げるものは、民族、国家の如何を問はず、すべて天皇の赤子であり、我等の同胞である。(p3)

かくの如き昭和維新完成のためには、民族間の新しき道徳の創造を必要とする。恰も明治維新に於て各藩侯に対する忠誠を天皇に対し奉る忠義に復帰せしめた如く、天皇の忠良なる臣民たるために東亜諸民族の大同し得る新しき時代の道徳を確立し、民族闘争より民族協和に飛躍せしめねばならない。(p12・13)

天皇を戴く日本国は連盟の中核的存在とならなければならぬ。・・・
悠久の古より東方道義の道統を御伝持遊ばされた天皇は、世界唯一天成の王者であらせられる。天皇が東亜連盟の盟主として仰がるゝときは、即ち東亜連盟の完成せる日である。東亜諸民族がこの信仰に到達すべき自然の心境を攪乱してゐるのは、日本民族の不当なる優越感であることを猛省し、速かにこの大不忠の行為を改めねばならぬ。 (p16)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1459114/17

下中弥三郎「思想戦の本義」1943年

皇戦は、普通に考へらるゝ戦ではなく皇稜威の世界光被の戦である。・・・皇国にありては、戦争はすべて皇戦である。大義を宇内に布く、これが皇国独自の戦争意義である。ことむけやはす、即ち服ふものは哺み育て、服はざるものは討ち懲らす、斯ういふ戦の原義に基いて為されてゐる戦である。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1436976/4

内閣・内務省・文部省編「国民精神総動員資料.第四輯 日本精神の発揚 八紘一宇の精神」1937年

八紘一宇の精神
  大日本は万世一系の、天皇皇祖の神勅を奉じて永遠に之を統治し給ふ。これが我が万古不易の国体である。この尊厳なる国体を永遠の指標とする我が国民の精神は、時運を貫き隆々と栄えて窮るところがない。併し乍ら我が国と雖も現実世界の裡(うち)に在り、各国家・各民族と共存して居る以上は、独りこの世界史的問題に関係がないといふことはあり得ない。否、我が日本こそ諸国家・諸民族に率先し、万死をも辞せざる不退転の覚悟を以て、世界を闘争と破滅とより救済する為にこの難局に当らねばならぬ。然らば何故に我が国が率先してこの難局に当らねばならぬか。それは宇宙の大生命を国の心とし、之を以て漂へる世界を永遠に修理固成(つくりかため)なして、生成発展せしめる我が天壌無窮の国体が、正に全世界を光被すべき秋(とき)に際会して居るが為である。流転の世界に不易の道を知らしめ、漂へる国家・民族に不動の依拠を与へて、国家・民族を基体とする一大家族世界を肇造(ちゅうぞう)する使命と実力とを有するのは、世界広しと雖も我が日本を措いては他に絶対にないのである。茲(ここ)に我が国体の尊厳と我が国家の不滅との深き根拠がある。されば我が国体と国家とに対する自覚と体認とは、我々国民が現在直面せる支那事変の時艱を克服し、天壌無窮の宏謨を翼賛し奉り、以て世界救済の歴史的使命を果す最深最大の原動力である。
  抑々(そもそも)我が国は他の外国とその根基・成立・精神・歴史等を本質的に異(こと)にして居る。それは、強者が多数の弱者を征服して自ら君主となって打建てた権力国家でもなく、或は又多数の民衆が自己の利益の為に相互に契約し、一人の代表者にその統治権を委任して成立せる約制国家でもない。我が国はかゝる人意の国にあらずして、神命に基き自然の理法に随って生成せられた国であって、彼の北畠親房が「大日本は神国なり」と述べし如く神の国である。今これを我が神代の語事(かたりごと)に徴(ちょう)し見んか、神国の面目躍如たるものがある。天地開闢の神霊、宇宙生成の原力は霊動生成して伊弉諾尊(いざなぎのみこと)・伊弉冉尊(いざなみのみこと)に至り、二尊(にそん)は天神(あまつかみ)諸々(もろもろ)の命(みこと)もちて「この漂へる国を修理固成(つくりかため)」なして国生み神生みの大御業をなし、終に天(あめ)の下(した)の主(きみ)たるべき天照大神を生み給うた。
と道破したのは、独り生成発展の国体の本義、一切万生を育ていつくしみ給ふ皇祖の大御心を体得したのみならず、この皇祖天皇を戴(いただ)く我々国民が、国家の常時と非常時とを問はず、万世不易の国体に対する不動の信念を示したものである。惟(おも)うて茲に至るとき、皇祖の神籌は、天地と共に宏(ひろ)く富嶽と共に高く、三千年の国史を貫いて今日に存する。この宏謨の光被するところ、その国家・民族に廃墜なく、世界の流転の裡にあって而もその奥底に脈々たる不易一貫の道を堅持し、この国体の一貫するところ、この国民精神に萎靡なく時勢の変遷の裡にあって而も昏迷せず、向ふところ常に皇運扶翼の一路があるのみである。この一路こそ我が国をしてこの時艱を踏破して無窮に生成発展せしめ、同時に全世界あらゆる国家をして各々その処を得、その分を竭(つく)さしめ、万邦大和(ばんほうたいわ)、真正なる世界平和を実現せしめる所以である。是実に神武天皇が皇祖の神籌に之を享(う)けて、天(あま)つ日嗣(ひつぎ)の弥嗣々(いやつぎつぎ)に万世に伝へ給へる「八紘(あめのした)を掩(おお)ひて宇(いえ)と為(せ)む」と詔(のり)給うた「八紘一宇」の大精神である。
  「八紘」は「八荒」ともいひ、前者は八方の隅、後者は八方の遠い涯(はて)といふ字義であって、共に「世界の涯」とか「天(あめ)の下」といふ意味である。「一宇」は「一家」といふ字義で、全体として統一と秩序とを有する親和的共同体といふ意味である。従って「八紘一宇」とは、皇化にまつろはぬ一切の禍を払ひ、日本は勿論のこと、各国家・各民族をして夫々その処を得、その志を伸(のば)さしめ、かくして各国家・各民族は自立自存しつゝも、相倚(よ)り相扶(たす)けて、全体として靄然たる一家をなし、以て生成発展してやまないといふ意味に外ならない。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1266412/5

大阪朝日新聞 1942.3.12-1942.3.15(昭和17)
蘭院覆滅の素因 (上・中・下)
石橋五郎

吾人は過去における蘭印為政者の失敗に省みて、蘭領の統治には出来るだけ多くの邦人をここに送って各地方を平等に開拓し、到る所に邦人の集団地を作り、これをまた軍事上の基地となすと共に、土着人に対しては一視同仁の政を布き、土着人をして心より邦人を信頼せしめ、彼等が現在我が外地人の如く日本国民たることを誇りとするようにせねばならぬ。これは我が聖戦の目標たる八紘一宇の大精神にそうものでもある。
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00503599&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1&LANG=JA


 

戦前日本人の海外売春(3)

戦前日本人の海外売春(1)
戦前日本人の海外売春(2)
の続き

「五大洲探検記2 南洋印度奇観」五大州探検家中村直吉 冒険世界主筆押川春浪編 明治42年1月1日発行 ※1909年

(二)新嘉坡の醜業婦
 日本の醜業婦といへば世界に鳴響いたもので、甲は是を以て日本人の面汚しだといひ、乙は是を以て邦人発展の先駆者であるといふ。其孰れが真理であるかは吾人茲に暫らく措て問はないが、実際彼等醜業婦の現状と見ては、是でも日本帝国に籍を置いてる、日本人の片割れかと殆んど情けなくなるのである。
 是等醜業婦が殆んど世界のあらゆる方面に散在して居るのは、今更改めて言ふまでもないが、新嘉坡は其中でも激烈であるやうだ。吾輩の見る処では、其今日あるは日本の船乗が預って力があるらしい。
 今より数十年前、日本の船乗が此地に漂着して、其殖民地に女性の必要なる所以を看破し、竊かに案を打ち帰来甘言を以て数人の婦女を誘拐し、直ちに渡航して醜業を営ましめて見ると、殖民地の秩序なき人情の常として、恰も大旱の雲霓を望むが如く、押寄せる白郎黒客、夜毎日毎の枕は数知れず、喃々たる私語低唱、後朝の訣別に片言交りの難有う又来ますが解るやうになって、需要忽ち嵩じて供給遽かに不足となり、旨く人情の弱点を捉へた事業が当った本人は大喜び、直ぐ又幾人かを仕入れて、そも突出しの其晩より、宵の縁喜は鼠鳴きの鳴き損なく、吾から求めずとも来る赤髭南京を初めとし、馬来印度こ好色漢を手玉に取って投げても投げても、色様々の情の綾は解けつ結びつ、赤道直下の宵々、待人の畳算用更に要なく、売る枕の数に抱主の弾く算盤玉の音は日を追ふて忙しげなり。
 斯うなると見やう見真似の、我利々々亡者共が、吾も吾もと開始めた悪商売が、抑も今日新嘉坡日本遊郭の盛大をなした基礎となったのである。で、事業夫自身の性質から、固より人間並の血の通ってる輩の、あづかって居る筈もないが、現今新嘉坡日本遊郭の楼主と号する奴等は、多くは内地の喰詰者で、其身元を洗って見ると、裁判官巡査船員等のあがりそれに博徒ゴロ書生等であるやうだ。
 九州が醜業婦唯一の輸出地であることは、三歳の童子でも知ってる有名な事実だが、猶且此地方に出稼の醜業婦も、殆んど其の全部が九州出身で、長崎天草島原辺の者が多いやうである。
 以前は誘拐の口実として種々の甘言を弄したので、無智の婦女はウカと夫に乗って、新嘉坡三界迄地獄の憂目を見に行くやうになったのであるが、茲に吾人の不審に堪へないのは、比較的教育の普及した今日、尚ほ九州地方から悪漢の甘言に乗って、誘拐される婦女の絶へないことである。是は慥に不可思議千万なことで、過去数十年の間、幾多悲惨の涙を以て書れたる罪悪の歴史は、必ず是等悲惨の子を出したる地方の人々に読まれて居るに相違ない。然るに今日猶ほ是等地方から婦女誘拐の跡を絶たぬは、吾人の最も不思議とする処である。誘拐者の口実がさまで千変万化の巧妙を極めて居るとも思はれないとすればどうしても、此地方の婦女は、或程度迄吾から進んで誘拐されるのではあるまいかといふ疑問が起る。而も此疑問が疑問でなくして、多少根底ある事実ではないかと思はれる節もないではない。
 長崎を訪れた人は、稲佐のお栄の邸宅が、稲佐の丘上から全市を下瞰して、十万の甍に有意味の冷笑を浴びせかけて居るのを見たであらう。稲佐のお栄固より新嘉坡の醜業と関係はないが、彼女が西比利亜を横行して、帰来稲佐の丘に斯の如き豪奢を衒ふ所以の者は、慥に長崎付近に婦女誘拐の盛に行はるゝ事実の一面を説明するものではあるまいか!?
 女性は虚栄の最も忠実なる崇拝者である。若し此稲佐のお栄以外に、新嘉坡若くは香港地方で醜業に成功し、宝玉と黄金で其汚れたる臭骸を粉飾し、其土臭い郷土に帰り来り、純潔無垢なる村娘の虚栄心を刺戟したらどうだらうか。氷雪寒き西比利亜も鉄石熔る赤道直下も、眼前の虚栄に心狂ひたる婦女の前に何の恐るゝ処ぞ。
 斯くして九州地方の婦女が、土臭い生活から脱せんとして、恐しい焦熱地獄にと踏込むので、考へ来れば其悲惨なる運命の責任の半ばは、彼等誘拐されたる婦女が当然受けなければならないのである。
 併し中には実際健全なる職業に有付けると思って来たのも少くないので、是等が異境万里の地に於て、其鬼の如き楼主に依って醜業を強らるゝ悲惨の光景は、能く筆舌の尽し得べきことでないのである。
 日本遊郭の楼主を親方といふが、是等の親方が醜業婦を仕入れる方法は、実に都合能く出来て居るのである。新嘉坡には印度人の高利貸が沢山居るが、所謂親方共は是から借金して醜業婦を仕入れる。で、其貸借の方法なるものが極めて簡単で、若し一醜業婦を抵当として提供すれば、高利貸は大喜びで六百円乃至八百円を貸してくれる。而も其抵当たる醜業婦は自分の手元で営業させるのだから少しも差閊ないのみならず、借金の八百円位は忽ちの内に消却し尽し尚ほ優に相当の利益を見ることができるのである。
 醜業婦に対する楼主の待遇は、世人の想像するが如く残忍なものではないが唯楼主は一意借金で自家の醜業婦の体を縛することを力めるので、無暗矢鱈に煽動して無益な贅沢をさせる、而も其贅沢は必ず楼主の仲介に依ってするのだから、彼等醜業婦の負担は日日増すばかりで、目に一丁字なきもの若くは算数の観念のない輩は、楼主の手加減に依って何時までも醜業を営まさせられる。併し中には玉帳やうのものを用意し、収支の道を明らかにしてる連中は、幾年かの後には負債の全部を償却し、経営惨憺たる貯蓄で、身に綺羅を飾り得々然と故郷に帰るといふ順序になるのだ。
 彼等醜業婦の風俗は、浴衣に赤い兵児帯をだらし無く巻きつけ、頭髪は蝶々髷に紅い鹿の子などを掛け、足は紺足袋に突掛けの麻裏といふ拵、夫で以て軒下に椅子を並べ、通り掛りの支那人馬来人及び白人の水夫などを、喋々喃々と呼掛けて居る。迚も正面に見られる光景ではない、吾輩などは是でも正気の沙汰かと疑った位で、世人が是等醜業婦の存在を以て、国辱の大なるものとするのは、強ち無理でないと思った。

茲に小説のやうな事実がある。醜業婦の事を書た序だから書き添えて置かう其当時新嘉坡に中野といふ医者が居た、譚は此人に関してのことなので……。中野君が日本を出発した動機は吾輩勿論精しく知らないが、当事と何とやらさて新嘉坡で開業して見るとどうも旨く行かない、そこで暹羅に渡航した。其時の公使が稲垣満次郎君だ。盤谷府で中野君は公使の尽力で開業したが、其処でも業務は全然失敗に帰し、詮方なくなったので、又も新嘉坡へと逆戻りをした。併し此時は最早再び医者をする勇気も失せ、其隠芸の三味線と舞踏を以て旨く遊郭の楼主に接近し、其お蔭で幇間同様遊郭に出入して居た。
 前に述べた通り、新嘉坡の日本醜業婦なるものは、悉く其前身が九州地方の農夫の娘かさなくば、炭鉱付近の石炭担ぎであるために、遊芸の嗜みのあるものとては殆んど絶無の姿であるから、幸にも中野君の未熟の芸当が、日本遊郭中に非常に持囃され、夫が動機で一個の醜業婦が、深く中野君に恋するに至った。一方中野君と雖も木石でない以上遂に其恋を成立せざるを得ないので、夫からといふもの両個は最も深き相思の間柄となった。
 処が其醜業婦中々の女丈夫で、其貯財の全部と日々の稼高を惜気もなく中野君に提供し、同君をして遺憾なく医業の経営費に充てしめたのである。斯うなれば中野君と雖も一生懸命とならざるを得ないので、疲弊せる勇気を揮ひ起し幇間時代に受けたる愛顧を縁に、遊郭全部を重なる顧客として、鋭意熱心、仆れて後止むの覚悟でやったものだから、瞬く間に好評を博し、其当時既に其愛人を迎へて楽しい家庭を形造って居られた。
 秩序なき殖民地では妙な動機から成功する人がある、此中野君の如きは実に其好模型であるのだ。

(七)瓜哇珍談(p60~)のp64から
 日本の醜業婦が殆んど世界のあらゆる方面に発展しつゝあるは、最早掩ふべからざる事実で、吾輩は曩きに新嘉坡の処で其実状に就て少しばかり語ったが更に転じて瓜哇に入るに及び、其侵略勢力の猛烈なのには一驚を喫せざるを得なかった。ソラバヤ、スマラン、到る処多少の日本人の居ない処はないが、而も其日本人が大抵所謂女郎屋の親方なるものである。新嘉坡では此親方が遊郭内に棲むことができないので、中には親方が其副業として雑貨店などを経営して居る。新嘉坡の雑貨店では音宗商店を除いて、他は大抵是等親方の経営にかゝるものである。
 話が余事に渉ったが、要するに瓜哇でも到る処日本人が居る、而も其日本人の大部分が女郎屋の経営者であるとしたならば、外のことは兎も角、無銭旅行の吾輩としては、どうしても彼等親方達の同情に浴せざるを得ないので、事実又此種の人々は浮世の荒波と戦った人だけに、其心の奥深には実に深い熱実な同情心を有して居る。我輩も旅行中其同情に浴すること決して少くなかったので、現に汽車がバタビヤに着くと、吉坂虎吉といふ人が非常に同情を寄せられてバタビヤ滞在中は同氏の宅に宿泊するの便宜を得たことを感謝しなければならない。

(八)スマトラ島探検(p75~)
 ・・・薄暮パレンバンに錨を投じた。で、此処ではバタビヤの吉阪といふ人から紹介されて、同じく女郎屋の親方林弘君を訪問すると同君は非常に喜ばれて下へも置かぬやうに歓待された。
 思へ!、日本人の内にパレンバンの地名を知ってるもの果して幾人あるだらう。否恐らくあるまい、而も同胞の夢にも知らざるスマトラの一角パレンバンには、例の醜業婦が偉大なる勢力を以て発展しつゝあるのだ。前記林君は遠征娘子軍を率ゐる親方の内でも、中々の勢力家であったのである。
 林君と雖も最初からの親方ではなかったのであるが、途中商業に失敗し止むを得ず女郎屋と宗旨を換えて、現今はパレンバンで大に成功して居る。併し其成功を謳歌すべきか非難すべきかは第二の問題として、同君が一種の奮闘児であったことだけは事実である。厄介になったからいふのではないが、林君の如きは女郎屋に親方として一生を終らせるには惜しい人物である。而も蛮境に醜業を営んで居るもの、是れ人の罪にあらずして境遇の罪である。(p76・77)

(九)彼南に於ける幻燈会(p86~)
 ラングン号は新嘉坡を出港しマラッカ海峡を抜け彼南に入港した。・・・
 彼南(ペナン)には日本人が二百人ばかり居る。併しながら例に依って其大部分は醜業を営むもので、其他料理店旅館などを経営するものもないではないが、茲に一つ珍しい商売が熱帯の彼南に行はれるといふことを耳にした。珍しい商売、然り珍しい商売である。
 此付近一帯、其支那たると印度たると、瓜哇たるとスマトラたるとを問はず日本の醜業婦の居ない処のないことを知ってる人でも、恐らく彼南に玉コロガシの行はれてることまでは、有繋に気が付かなかったであらう。

(十)猛獣の如き婦女誘拐者(p94~)
 午前六時彼南出港の英船スマトラ号に便乗して、スマトラ北部探検の途に上った。此航海は曩きに彼南の幻燈で成功したので、左程苦しまずとも済んだのである。船客は例に依って例の如く、スマトラ、馬来の甲板客で満員、日本人は吾輩とそれに同行者の木村といふ呉服行商人で、此外婦女誘拐業者が一人と、是に誘拐されてスマトラに渡航せんとする婦人三名で、日本人全体としては都合六人であった。
 新嘉坡付近では此婦女誘拐者のことをピンプといって居る。で、此ピンプが多くの婦女を誘拐し、其悲惨なる境遇に泣かしめるさへ既に天誅に値するのであるが、彼等は是を以て足れりとせず、誘拐の途中必ず被誘拐の婦女を辱しめなければ止まない。中にな其毒牙にかゝったのを恥ぢて、自ら無残なる最後を遂げるものもある。併し又女性の身の心弱くも、其残忍なる圧迫に遇って、泣く泣く彼等悪鬼の獣慾的犠牲になるもの、殆んど十中の十であるに至っては、驚かざらんと欲するも豈に得べけんやで、実に吾輩の如きもスマトラ号の甲板に於て、其惨劇を実見した一人であるのだ。
 彼南を出帆してから幸海は平穏であった。其内に日が暮れかゝると、馬来スマトラ共が落日に向って礼拝する。夫が済むと何時とはなしに甲板の上が薄暗くなる、両舷燈檣燈が夢のやうな光りを熱帯の海に投げて、推進機の響きが刻一刻と寂しくなってくる。空は晴れて居るが星光の闇を照す由もなく、甲板客で埋められた上甲板に、僅かに朧気のランターンが二つばかり、暁の夢にも等しき淡き名ばかりの光線を浴びせかけて、夜は漸く深からんとするのであった。
 吾輩は船長の好意で船室を有って居たが、蒸熱つで堪らないので、暫時上甲板で涼まうと思って出てくると、有繋に涼しい風が顔をなでる、欄干に凭れ思ふとしもなく越し方の事を辿れば、万感胸に湧いて征途万里の行末が、何時とはなしに案じられる。
 星が一つ南に流れた。甲板客は男も女も船の上で船を漕いで居る。途端「お止しなさいよ。」と若い婦人の声が聞こえた。無論日本語で…………。
 熱帯の海をスマトラに向って南下する外国船に、夜更けて若き日本婦人の唯事にあるまじき声を聞いては、誰しも好奇の眼を見張るであらうが、吾輩は此時格別珍しいとも何とも思はなかった。といふのは彼南を出るとき誘拐者が其誘拐せる三人の婦人を伴って居た事実を知って居たからである。又一方では如何に悪魔の如き誘拐者と雖も、婦人の強硬なる抵抗に遇っては、有繋にどうすることもできまいと思ったので、格別深い注意も払はなかったのである。併し吾輩の予期は全然外れた。彼等のこと到底常識を以て判断し得べきでない。其又手続に至っては吾輩の口にすべき筋のものでない、あゝ止みなんかな、彼等は終に人間界に籍を置くことのできない輩である。
 翌朝未明、スマトラ号は無事デレに投錨した。
 デレは人口約一千位の市街で、日本人が八九十人居る。雑貨店も三軒ばかりある。人口一千に在留邦人の八九十人は少し多過るが、御多分には洩れない其大部分は例の醜業婦であるのだ。
 デレの雑貨店はかなり繁盛して居る。夫れは一大理由があるので、話を聞いて見ると成程と合点が行く。デレから廿哩ばかり内地に茫漠たる煙草の耕作地がある。其耕主は主として白人である。従って彼等はデレを通過して去来する度毎に、日本雑貨を土産物として購ふことになって居る。と今一つ重大なる理由は、日本婦人が四百人ばかり是等耕主若くは、煙草園に関係ある白人共の妾になって居るので、其日用品は自然デレの日本雑貨店から供給を仰ぐといふ風になって居るためで、さてこそ三軒の雑貨店が相応に繁盛する訳である。
 スマトラの内地に日本婦人が四百人もになって居るとは、恐らく読者には破天荒な事実であらう。而も東印度諸地方に於ける日本婦人の状態は、到底普通の想像力を以て律すべきでない。来て見れば左程にもなし富士の山といふが此方面を旅行して醜業婦の話を聞くと、実に何から何まで驚くことばかりで、来て見れば聞きしに勝ることばかり、緬甸印度も斯くやあるらん、まだ足も踏み入れないのに、既に其乱脈さが思ひやられる。
 煙草耕地に於ける妾の給料は月額三十弗乃至四十弗である。而して此等の妾連は大抵一週一回賜暇を得てデレにやってくる。といふのは要之気保養のためで何しろ煙草の耕地といふのが、漠々千里際涯なき底の境で、而も平常其主人なる白人と相対し、堪へ難い程莫寂しい生活をして居るのであるから、斯くは一週一度の休暇を得てデレに来り、懐しい日本人と相会し他愛もなく遊び暮すのである。で、彼等のデレに来る当面の大目的が気保養であるから、貰貯蓄の給料及び小遣銭は大抵デレで消費い果し、財布の底をはたきながら元の黙阿弥で再び煙草の耕地に帰って行くのである。
 然るに茲に面白い事件が持上るのは、デレに居る日本人の無頼漢が、是等妾共の来遊を待構へ語巧みに欺いて、其飽くなきの獣慾を遂ぐるのみならず、甚だしきに至っては其所持金衣類まで捲きあげる奴があることで、妾共も毛色の変った白人の旦那より、同じ種の日本人の方がいゝと見え、だまされると知りながら、不知不識深みに陥るのだそうで、中には日本人を買ったことが其主人に知れ、大騒動の末解雇される者も少くないといふことである。何と厄介千万ではないか。併し吾輩のデレに行った当時は、何等自覚なき妾共も漸く其馬鹿らしさが解ったとかで、日本人を買って裸体にされる奴が非常に少くなったといふ話であったが、夫でも吾輩の目から見ると意外に感ずる程、其お目出度さ加減が激しいのであった。而も斯の如き果敢い慰藉で辛くも其生命なき境遇に甘んずることができるのであると聞いては、吾人日本人として一掬同情の念を禁ずることができないのである。
 斯の如く煙草耕作地に雇傭されてる妾共が、新陳代謝してデレに滞在するもの、多きは十五六人少くとも七八人はあるので、是がため日本雑貨店若くは料理店は年中賑って居るのである。吾輩の見る処に依ると、彼等は日本料理店の二階で賭博を行るらしい。で、其際に相手の日本無頼漢と醜交を結ぶやうになるのであるやうだ。
 デレは一名メダンともいふ、日本人協会がある。滞在中は柏木亭と云ふ宿屋に止宿したのである。

(十一)林中の冒険
序だから此方面の呉服行商のことを話さう。東印度方面に醜業を営む日本の婦女其数幾百千、是に付随する楼主誘拐者妓夫幾百、是等が是より説くかんとする呉服行商人の常顧客である。(p111)

(十二)馬来半島を経て緬甸に入る(p112~)
・・・スギブセを経て陸路テレンシンに向った。此地方も錫の産出が盛大だ。併し其鉱区は大抵英国人の所有である。
 此方面の日本醜業窟は他の東印度諸地方と異り、入口に目隠しがあって、其中に入ると所謂女郎が張店をして居るのが見える。而も長煙管を構へた処は大に国粋を発揮したもので、真黒な素見の兄イ達をして、吸付煙草で魂を有頂天外に飛ばさしめる計略かと思ふと、吾輩もそゞろに物の哀れを催したのである。(p114・115)

 ニコバル群島アンダマン群島を左舷に見て、五月一日午後一時頃イラワヂ河口を逆航し無事蘭貢(振り仮名ラングン)に入港した。(p117)
 御多分には漏れない日本の醜業婦が、此処にも三四十人は居て、夫が相応に繁盛しつゝあるから妙だ。(p119)

 翌日午後六時頃汽車はマンダレー駅に到着した。停車場を出て日本人の居所を訊くと、例の赤帽が親切に教へて呉れた。日本人居留地といひたいが、どうもさうはいへないから日本人の居所と書いたが、外でもない例の醜業窟なのだマンダレーに来ては其処を訪れるより外に行く処はない。日本人といへば醜業婦及び其抱主ばかりだから詮方がない。
 赤帽に教わった通り来て見ると成程日本人が居る。いふ迄もない婦人だ。路次の突当る木造の二階家を訪れると、年の頃なら卅七八、顔の白粉焼けのした眼瞼が気味悪く黒くなって、生際の薄い婦人が出て来て、是は又意外だといったやうな顔付をして入口に突立った儘、吾輩の顔を穴のあく程凝視て居る。何しろ異様な服装をした風来坊が飛込んだのだから、先方も定めし驚いたであらうが、まづ名乗りをするに如くはないと、名刺を出して無銭世界探検旅行の次第を物語ると、何は兎もあれどうぞ此方へと導かれたのが二階の応接間、丸卓を中にして吾輩と主婦とは相対して座を占めたのである。
 当時日本の無頼漢が多く東印度諸地方に入込み、夕に銅色男子を迎へ、朝に黒色の郎を送る醜業婦が、同胞の慰藉同情なきに泣いて居る矢先を見計ひ、甘い口車に乗せて衣類所持金までも捲上げつゝあったことを聞いて居たので、先づ此種の誤解を避けるために口数を尽して述べ立てると、先方も始めて安心したと見え、
「実は英国政府の命令で、廓内には日本の男子は入れないことになって居りますが、さういふお話で厶いますれば、宜敷う厶います。手前共でお宿を致しますから、どうぞお心置きなく御逗留遊ばしませ。」と早速承諾してくれて、夫からは下へも置かぬ待遇振り、直ぐ一間を吾輩の専用にあてがひ、・・・(p122~124)

(十五)牛糞の如き印度人(p146~)
 カルカッタの日本女郎屋は、香港新嘉坡乃至他の各地に於けるものと、大に趣を異にして居るので、其家屋及営業方法が中々ハイカラであるのみならず各楼主の経営にかゝる日本人倶楽部は、慥かに印度南洋方面に於ける遠征娘子軍中に異彩を放って居る。
 早合点しては困る、女郎屋の主人公に依って組織された倶楽部は、恐らく遊興を強ゆる一種の機関ではあるまいかと、否々決してさうでない。一体日本人で印度視察に来るものゝ不便とする処は其旅館で、多額の旅費を持って遊山三昧の旅行なら格別、カルカッタに来るものゝ多くは、仏教研究とは仏跡調査が主なる目的で、上等の旅館に頑張って贅を尽す訳に行かない。といって下等の旅館には種々なる障害と弊習があって、迚もポット出の日本人には安心して滞在することができない。要之日本人倶楽部は此不自由を救済せんとする目的で建てられたもので、いはば各楼主の暗黒なる他の一面に於ける慈善的光明面で、軽い財布を首に掛けて印度に来たものは、大抵此倶楽部から多大の便宜を得るので、其献身的設備に対して感謝しないものは、未だ一人としてあるまいと思はれる。(p155・156)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/767232/22

酌婦を解せず。
市内松公園内、料理店、松金、抱芸者、梅八、事、西本サキは、今度、内地へ帰り、大阪府下、西成郡勝間村生れ、金沢ノエ(十九)が丁度、遊んで居れば、満州にいっては何うか、酌婦をしても、月に七八十円の収入はあると、例の調子で誘ひ出し、一日入港(の)台中丸にて来連したが、満州の酌婦は内地と違ひ、女郎と一緒と解り、這麼(こんな)恐ろしい所であったら、来るのではなかったと、頻りに悔み居るより、松金の主人も呼出され、相談の末、ノエは一先づ内地へ帰る事となる。(満州日日新聞、大正二年八月二日) ※1913年
(倉橋正直「従軍慰安婦と公娼制度」p122)
 
之と共に北満州の一部と西比利亜(シベリア)に居るものを算すれば、少なくとも五千人に達する。日本の男性が一人も住居していない小村落にも、支那人のとなり、酌婦となって四、五人は住んで居る。一般に料理店と云ふのは娼家を指し、酌婦とは娼妓を指すのである。唯だ慣例上、料理店又は酌婦なる名を冠するに止まり、日本内地に於ける如き料理店又は酌婦ではない。純然たる女郎屋と女郎のことである。」(布川静淵「日本婦人の面よごし―海外に於ける日本醜業婦の近況」、『婦人公論』、三巻二号、一九一八年二月)
(倉橋正直「従軍慰安婦と公娼制度」p126)

藤田四郎「清国視察談」明治35年3月21(?)日発行 ※1902年
(p1に前農商務総務長官 貴族院議員とある)

十五 醜業婦と貿易の関係(p43~)
次に注目すべきことは醜業婦のことである、醜業婦のことに付て私共は外務省に居る時分にも心配したことで当時の政府の方針に依り調べたこともあるが条約改正の前であるから少しでも非難されることは避ける方針であった然るに最早今日あちらに往って見ると醜業婦は誘拐されて往くものは別として自分の自由意志に依って往く所の醜業婦はひどく制限する必要はないと思ふ、日本の貿易は国旗に従ふと云ふ方針を云ふ人もあるが之は嘘である日本の貿易は醜業婦の下に従ふと云ふは実際ではないかと思ふ、先づ以て醜業婦が往って而して後に詰らぬ雑貨が出て往き下等なる日本人が続いて往く夫れから貿易の端緒が出来、領事館が出来、良い商人が往くと云ふ順序が今日亜細亜の貿易の有様である今日我国の醜業婦は多く関西、九州地方から往って居るやうであるが聞く所に依れば今より殆ど二十年前にも随分内地に迄醜業婦が這入り込んだと云ふことである、一例を挙ぐれば揚子江の鎮江の如き数十名の醜業婦が居ったと云ふことである其が今日では一人も居らぬ、其処でどう云ふ訳かと聞いて見ると即ち支那の遊女●が種々の反対運動をやって領事館に訴へる事抔をして遂に皆厳しき命令に依って之を引払はしたのである、而して其貿易如何と云ふて見たならば鎮江は今日互市場であるが其貿易は我国に依って営まれて居るものはないのである、日本人が時々あちらに往くことを聞いて居るが未だ貿易業者が居ると云ふこと迄には至らぬのである若しも醜業婦が数十年前居った儘で之を抑圧しなかったならば今の鎮江の貿易は必ず日本が一大優者となって居ったと思はれるのである、然るに今日では其地を見るに僅に英米等の商人が居るのみである、畢竟之は残念ながら醜業婦を抑圧した結果と断言するを憚らぬのである、私が十数年前印度洋を経て欧洲に往った時分にもシンガポール、コロンボ通りに既に此醜業婦が居ったと云ふことで今では亜非利加、濠洲、其他南洋諸嶋の奥に迄入り込んで居ると云ふことを聞いて居る・・・
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/767012/25
 
矢津昌永「朝鮮西伯利紀行」明治27年1月13日発行 ※1894年

浦盬を出発す
八月十日快晴、朝八十四度(熊本七十六度)。当市第一流の商店なる独逸アルペルス商館に至り、種々買物をなし、又蛮子の市場に於て、物品数点を求め、夫より貿易事務館、に至りて告別す、川邊、鈴木土橋等の諸氏に送られて、支那の赤猪牙舟より東京丸に乗組めり、同船者は小森、加藤、川田の三氏、及び仏人美好(G.Bigot)氏と、共に五名とす、他等の室には。日本人二十二名、支那人凡そ百名、朝鮮人十六名乗組めりと云ふ

醜業婦
艀船に婦人の一連の乗するもの両三艘あり、諦視すれば皆日本婦人にして、即ち所謂醜業婦なり、彼等今顧客を本船に送りしものなり、其粉粧を見るに、束髪にして洋装するものあり、或は大柄縞の日本服に、細帯を締むるものあり、視然耻る色なく、揚々支那語を放ちて、舟を隔てゝ蠻子の舟子等と戯談す、醜躰見るに堪へず、然れども万里の波濤を踏んで、未知の境に入り、言語不通の異物を相手として。彼が財嚢を絞り、跋扈跳梁するに至りては、其勇に驚かざるを得ず、何れの外人も。我醜業婦には常に一目を譲ると云ふ。而して有髯男子は、却て猫額大の内事にのみ汲々して、身自ら洋波を踏んで、富を外邦に覓むるが如きは稀なり「日本男児は、終に女子の勇に若かざるや」とは、当港一般の評なりと聞く
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/766904/60

山浦瑞洲「一兵卒乃告白」大正元年11月18日発行 ※1912年

麗水は南海岸の一小港にして、日本居留民も百余名を算せしが、此の倉村とては極めて山間の僻村にして、日本居留民は僅か五六人に過ぎず。
 さるにても奇なる現象は右五六人内の、一名は順天守備隊御用商人の出張員、一名は料理屋の主人、他は例の醜業婦なること是也兼て聞く『殖民地に醜業婦を送るは是れ植民政策の妙策なるもの也』と、其の言の適否善悪は兎に角、先づ渡韓以来瞥見したる彼の麗水と云ひ、順天と云ひ、又此の山間の倉村と云ひ、彼等醜業婦の跋扈には殆ど一驚を喫せざるを得ず
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/947773/80

藤田敏郎「海外在勤四半世紀の回顧」昭和6年7月21日発行 ※1931年

醜業婦の輸入及裁判事件(p32~)
 明治廿二三年の頃、桑港(サンフランシスコ)に於ける日本無頼の徒は種々の工夫を凝らし、醜業婦の輸入をなせり。米国官憲は数人の探偵を使ひ是が事実を探り、不正者の上陸を阻止し、日本領事館は真正なる渡米婦人は極力保護上陸せしむるも、不正者は米官憲の所為の任すよりも、寧ろ官憲を補助し上陸を拒絶せしめたり。然るに無頼の徒は、地方の悪弁護士と一致し、人身保護律に依り上告をなすを例とす。米合衆国裁判所は之を審理するに、言語習慣其他を異にし不便なれば、屡々領事館に交渉して便宜を借り、遂に裁判毎に、館員も判事の傍らに坐せしめ、種々の解釈進言を求むるに至れり。或時某新聞紙は、日本領事館員は裁判に干与し、恰も立会裁判の如き体裁にて自国醜業婦の上告を拒絶せりと記載したり。其翌日午後余等帰宅せんとせし際、三人の在留者来館、領事代理たる余に面会を求め、大に興奮して曰く、汝は日本の領事にあらずして米国の領事なり、我々日本人に不利益を与ふる者なり。昨日の裁判の如きは、汝の意見にて善良の日本婦人を帰国せしめたり。仍て我等汝の生命を貰はんとす、覚悟せよと、各自隠し持ちたる「ピストル」を出し事将に重大に至らんとするや、隣室より雇外国人「ダニエル、エス、リチャードソン」氏太き洋杖を携へ入来り曰く、領事貴下余に乱暴者の向脚を折り三階より往来に放出することを許せ。余曰く善しと。リ氏将さに最先の無頼漢を打たんと身構へたれば、三人其剣幕に恐れ帽子其他を遺棄し倉皇として逃げ去れり。リ氏は容貌魁偉なる小丈夫なれ共、性温厚篤実、平素人を打つ如き人にあらず。然るに此時は半ば恐喝し、半ば激昂し余を救はんとせしものなり。氏の心情と頓智は感謝に堪へざるなり。
 当時我醜業婦は八十余人ありて、無頼漢の食ひ者となり、市内に半公然醜業を営みしかば、在留者中有志者、市の官憲に迫り営業を禁止せんと請ひしも、独り日本人のみに限り禁止する能はず、宜しく諸君其家々に赴き営業を防〔ママ〕害すべし、余等は見て見ぬ振をなすべしと。於是有志者二三十人、毎夕交替に醜業者の多数住居する街に赴き、盛んに防害を試み、他方幼者逆待防止会と一致し、十六歳以下の醜業婦人の救助に努めたり。

醜業婦の送還(p71~)
 明治廿九、卅年頃新嘉坡(シンガポール)在留日本人は約千人にして、内九百余人は女子にして其九割九分は醜業婦なり、其多くは誘拐されたる者に係る。彼等姓名を偽称するが故に、外務省より取調べ帰国せしむべく命ぜらるゝ毎に多大の困難を感じたり。新嘉坡政庁婦女保護官と協同し、漸く名簿を調製したるも、馬来半島「スマトラ」瓜哇等に至りては、到底之を知るに由なし。偶々被誘拐者を物色し呼出すも容易に実情を吐かざるを常とす。或時小西氏と被誘拐者及主婦を呼出し取調ぶるに、曰く父母の許諾を得て香港に来り、更らに当地に転航したるものなれば誘拐されたるにあらずと主張す。或時余其挙動の不審なるを見たれば、主婦を帰宅せしめ、徐ろに訊問せしに、女泣て誘拐され且可驚虐待に逢ひつゝある実情を告ぐ。盖は主婦の面前にて実情を告ぐれば、後日如何なる憂目に逢はんかと気遣ひ、反対の言辞を云立つるなり。依て再び主婦を呼出し、早速帰国せしむべきを申渡す。主婦は紋切形の如く、千幾百弗を出し抱へたる者なれば、六ケ月の猶予を請ふと歎願す。余之に歎願の謂れなきを告げ、旅費の支出を命じ、次便にて長崎又は神戸に帰らしむることを命ず。新嘉坡の法律に人を誘拐し且醜業を余儀なくする者には大なる刑罰あり、余より之を告発する時は乍ちに罪人となるが故に、彼等之を恐れて承服するなり。斯くして主婦より旅費を支払はしめ、領事館より日本船の船長又は事務長に保護を依頼し、神戸又は長崎の官憲に引渡すなり。中には誘拐者にして全然旅費の貯へなく、又は其出所なきものあり。其場合には船中の食料代として、五弗乃至十弗を私嚢より事務長に交付し送還をなしたり。之は外務省に斯る資金なければなり。其後船舶法制定せられ、領事は日本船船長に対し此類の臣民の為め送還命令を発することとなりたり。
 海峡殖民地総督「サー、チャーレス、ミッチェル」氏婦人(レデー、ミッチェル)は、醜業婦の哀れむべき境遇に同情し、屡々余に可及丈の方法を講じ、新嘉坡港に来ることを制止せんことを以てし、又保護局長「エヴァンス」氏と協議せしめ、十六歳以下の者は随時停業せしめ、余の手より本邦に送還することに尽力せられたり。或時婦人曰日本人の在留者は千人内九割以上は醜業婦人にして、其割合を失し、其多くは英国より来る無邪気なる兵士の誘惑者なり。しかも其夫人は自由意志にあらず、他人より強ひらるゝ醜業者なり。何とか方法を講じ、最少限度迄減少したしと。余の在任中或事情の為め、禁止案採用せられず、唯二年半の間百五六十人を送還せしのみ。而して余が暹羅に転任を命ぜられ出立せし日、彼等一大祝賀会を催ふせしと云へり。
 大正九年余「サンパウロ」赴任の途次同港を通過し、山崎領事より醜業婦退去の顛末を聞き、時勢の進歩、外務省の態度の変化と、在留日本人中多数の紳士出来、同領事に協力し、此大事業を遂行し、今や同港には一人の日本醜業婦無しと云ふ、喜悦に堪へざるなり。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1268579/44

拓務省拓務局「海外拓殖事業調査資料第三十七輯 サラワック王国事情」昭和13年7月発行 ※1938年

第十六章「サラワック」に於ける邦人活動事情
第一節 邦人発展の経緯
 「サラワック」に於ける邦人発展の起源は詳かでないが、他の南洋地方にける〔ママ〕と同様娘子軍の進出を以ってその嚆矢とする。而して邦人活動に一転期を画した日沙商会の創始者たる故依岡省三氏の渡サした当時、在留邦人は約六〇名でこの娘子軍を中心とし、多少商業に従事する者があった模様である。(p195)
 
一八、娘子軍時代
1、明治維新以後の日本人の発展
・・・随って明治維新以来日本人の海外発展が亜米利加海岸の外、至る処婦女子の賤業を先駆とせざるを得ざる一種変態の発展であったことも、怪しむに足らざる事実であった。
 米国海岸は労銀高く日本男子が甘んじて出稼したのであって、敢て婦女子の賤業を先駆に発展する必要はなかったのであるが、然も満州、支那、南洋地方は労銀低廉で劣等生活に甘んずる労働者が多いのであるから、特別の事情なき限り日本人の労働者を必要とせず、随って婦女子の賤業が発展の先駆になったのも是非なき次第であった。蓋し徳川時代の鎖国政策と武士制度の下に数多の人を飼ひ殺し、自営奮闘の尚ぶに足らざるを教へてゐた祟りは、工業の海外に誇るべきものなく、商人といへば御用達類似の狡猾漢のみを作りだし、一旦開国しても海外に貿易する物もなく、勇気もなく却って九州地方の冒険女子が相率ゐて西南に色を売りつゝ発展したのである。人或は日本の婦女子が海外に賎業した事実を国家の醜恥と為し、極めて之を排斥せんとするが、そは海外に於ける日本賎業婦の横流を顕著ならしめた裏面の実情を知らず、日本が此方面に貿易品を有せず、商人の多くが此地方に来ても仕様がなかった為めで、寧ろ当時の日本商工界の無能力、無気力を間接に証明したものとして、それをこそ日本の恥辱といふべきであったのである。一賎業婦を南洋及び其他の海外に出さゞる謹厚の朝鮮が遭逢した運命を思ふ時、個人としても団体としても敢為大胆なる者でなければ到底世界競争に堪へ得ないことを会得せずに居られないのである。
 易の泰の彔に曰く「暴荒憑河」と、暴荒は清濁併呑の意、憑河は冒険の謂である。論語に孔子が憑河暴虎を斥けたのはともすれば蛮勇を振ふ子路に対する一片の投薬に過ぎなかったのである。

2、娘子軍の元祖
 明治の初年、横浜より日本女子を妻とせる一英人の新嘉坡に転勤し来り、幾もなく死去せる者あり、その妻断髪男装して欧羅巴ホテルのボーイとなったが、容色なほ衰へず遂に人に誘はれ陋巷に賎業を始めたのが、実に南洋に於ける日本賎業婦のお祖師様だと伝へられて居るのである。然も需要は必然的に供給を誘ふのである。其類の集る者月に年に漸く多く、男子の之に寄生する者も続出し、爾来これ等の男女は輔車相依って或は馬来半島に、或は蘭領諸島に、或は濠洲方面にその羽翼を伸ばし、隠然として南洋の豪を以て自任する者を出し、高潔好きで然もお祭り騒ぎ癖ある日本人社会から何かと云へば、金銭の相談を是等豪傑仲間に持ち掛けしめるに至ったのである。然し斯くナブられつゝあった賎業婦も一部落を成せば必ずそこに日本雑貨を売る店舗を生み、花街の娘と所謂旦那持ちが競ふて日本雑貨を外人に購買せしむる機縁を作ったのであった。
 明治維新以降の邦人南洋発展史は之を娘子軍時代、護謨事業勃興時代、欧洲大戦の好況時代、戦後の不況時代、満洲事変後為替安時代の五項に分けて記述するのが便利である様に思ふのである。

3、草分と其頃の新嘉坡
 維新前後、尤も古い時代に新嘉坡に来てゐた人と云へば元ローヤルシヤターの母親さんと云ってゐた松田うたさんであったらう。何んでも御維新の三四年前大阪で支那人の細君になり、一所に新嘉坡に来て店を開け仕入れに帰朝中台湾征伐が始まり、便船がなくて帰星を遅らした事があったと云ふ話をしてゐた。サーカスに加って来星其まゝ居残った傳多の婆さんと共に、井上外務卿の署名ある旅券を持って威張ってゐた。俗に神戸新と云ってた淡路島の家老の家に生れたと云ふ稲田新之助爺さんも御維新前外国船に乗ってゐたので既に一度新嘉坡に来た事があるが、其後米国に渡航しマカオから新嘉坡に来て腰を落付けたのは明治十七八年頃だったと云ふから、馬来のお豊婆さんは勿論来てゐたに相違ない。更に現存してる人では米屋の婆さんと云ってる小川しのさん(七八歳)が来たのは明治十年だと云ふから恐らく今居る人では一番古顔なんだらう。小川の婆さんが来た頃はまだ新嘉坡に二階建はなくアタップ葺きでカトンに行くと馬来人ばかりであったそうだ。ビーチ路から花街までずっと湿地でマライ街あたりの丘に支那人の墓場があったのだそうだ。随って邦人娼家の発祥地は所謂花街といった馬来、マラバ、ハイナム街辺りではなかったのである。日本街は後に澁谷銀治の細君になった九番のお安が大道で芭蕉果を売ってゐたからつけられた名だといはれて居る。米屋の婆さんもお安といふのが長崎で支那人の船乗りと馴染になり、自分よりずっと前に来てゐた。其頃廿歳前後で大変別嬪でしたと話してゐた。清水たつ後に十三番の腹ぼての婆さんといってゐたのは、最初米屋の婀媽をしてゐた、異人について来を〔ママ〕のだが其異人が香港で死んだので欧羅巴に行く筈だったが、此処に上陸って仕舞ふたのである。しの婆さんよりは少し遅かったそうだ。兎に角明治十年頃には既にマライ街に二軒の邦人娼家があった。軈てそれが十軒になり五十人も六十人も娘が居る様になったのである
 蔦田歯科医が廿四年に来た頃でさへタンヂョンパカーやカンポンバル方面は皆山で、ラフルスホテル辺マングローブが茂ってゐたさうだ。
 バンダが出来たのは一八九九年で支那人ばかり最初は邦人の娼家はなかった。華民保護局が出来たのは一八八八年で支那苦力が奴隷的に輸入され、殊に売られて来る女が余りに可愛想だと夫等を保護するために出来たのであって、インスペクタ・ピッカリング氏が最初の局長で、誘拐されて来る哀れな日本娘も亦其処で保護されてゐたのである。
 新嘉坡に日本の名誉領事が置かれたのは明治廿一年四月で、今のAPSが居るビルディングの処に事務所を持ってゐた支那人胡施澤氏が開祖だった。そして廿二年一月廿二日中川恒次郎氏領事代理として着任、ソフィヤ路に始めて帝国領事館が開設されたのであった。
 当時女郎屋には二木氏を始め銃後版の澁谷初五郎夫婦など云ふ確りした者もゐたが、店らしい店を開いてゐたのはハイストリートに國井藤兵衛と云ふ人が開けてゐた大和商会位のもので、三井物産が廿四年バッテリ路の今のチャタード銀行のある所に支店を開設したのが、日本貿易業者の南洋に発展する抑々先駆であったのである。・・・

8、日露戦争時代(p143~)
 それから日露戦争の大勝に依って形勢は更に又ガラリと一変した。・・・娘子軍の全盛時代も恐らく其頃が絶頂であったらしく思はれるのである。明治卅九年華民保護局への登録数実に六百二十人に達し、まだその外に登録洩れの所謂モグリが相当ゐたのであるから、花街と女郎屋の繁昌振りの如何に物騒いものであったかゞ創造されるだらうと思ふのだ。

9、其頃の在留邦商
 娘子軍に寄生して南洋の邦人商店が発展したと云ふのは余りに気の毒な様であるが、全く事実であったから仕方がない。・・・其他馬拉加芙蓉、カラン等苟も日本娼妓の部落をなせる処雑貨或は呉服を鬻ぐ者之無きはなく、更に娘等の需要に応ずべく至る所に行商が入込んでゐたのである。

10、娘子軍時代の末路
 然も流石に我世の春と全盛を旺歌してゐた娘子軍時代にも漸く衰調が明かに見えて来た。大正二年暮れ白人娼婦一斉に退去を命ぜられ、夫々尤も近い領事館の所在地まで送還されて、昼をあざむく軒燈に不夜城の栄華を誇ってゐた花街にも時ならざる暴風の襲来を思はすものがあったのである。斯くて愈大飛躍の気運に遭遇した我南洋在留同胞社会は先づ其腐乱した毒血を絞り出して、愈真剣に戦闘準備を整へる為めに突如一種の血清療法を受けねばならぬのであった。それは時の領事藤井實氏の英断と政庁当局の荒療治に依ってゞあった。アンシャマトワンだとかニーサンなぞ云ふ聞きづらひ称乎を半島の山奥、蘭領の島々のはてに至るまで聴かされねばならなんだ当時の有様で、何うして在南邦人は世界大戦と云ふ千載一遇の大舞台に乗り出す事が出来たゞらうか。開国五十年に近き努力を以てして尚且つ婦女子を海外に輸出し、甘んじて賎業に従事せしむる以外殖産工業を以て世界人類の生活を向上せしむることに資すべき何者も無いとすれば、寧ろ日本人の存在は呪ふ可きであったかも知れないのである。然も難きを避けて易きに就くのが人情の常である。まさか可愛い自分の娘を南溟の瘴癘に苦しませ肉を鬻ぎ血の涙を絞らせて唯一身の安逸を貪らんとする程の極悪無道の親も無かったらうが、田舎娘の無智を喰物として比較的同義観念の薄い海外殖民地の不義の享楽にふけらうとするが如き者は少なくなかったのだ。先づ内に之等徒輩を殲滅し努力奮闘自らの汗に依って新天地を開拓して行かふと云ふ元気ある者ばかりにならねば、折角の機運をとらえても真に日本の南洋発展は確実な基礎を築く事は出来なんだのである。況んや全盛を極めて醒むる事を知らない歓楽に酔ふてゐた花街にも裏面の暗闘は絶ゆる事なく、ニ三有力者が新たに手を染め出した護謨栽培事業に投下された資本に対しても怪しむ可き風聞が切りに伝へられ、在留同胞の親睦和衷を標榜して廿年の歴史を有する共済会の内部も腐敗し切って、最早や表面の糊塗ではどうにも遣って行けない処まで形勢は切迫しつゝあったのだった。而して卅五六年頃から既に其落伍者や不平党に依って如何はしい珈琲店等云ふものが営まれ、当時北橋路にあった五六軒のそれ等の店を圧倒し尽さんとした事が動機となり、此処に嬪夫狩りの大活劇が商売がたきの密告猜排に胚胎して突如颶風の如くに所謂密航者の頭上に襲来したのであった。暗闇の恥をさらけ出す事位はものかは降りかゝる火の子は何うしても払はずには居られないと互ひに訴へ、陥入れんとして藤井領事の大英断により大正三年の春から五月頃までに追放された者、海峡殖民地と馬来半島を通じて殆んど百に近かったらう。然も身の程を弁へずに何処へでも出娑張るそれらの男は斯くて一挙に駆逐されて仕舞ふたのであった。そしれラヽんが苅取られてから護謨の若樹がスクスクと延び育った様に、花街方面から如何はしい男が影を消して同時に堅実な在留邦人の発展が真に目覚ましい程の活躍を見せて来たのだった。

11、藤井領事嬪夫追放
 英領の法規は男子の女郎屋経営を禁じて居る。敢て表面のみならず裏面に於ける関係も許さない。然も日本人と云へば昔は直ちに売笑婦を連想せしめ帝国領事をすらアニシャマ・トワンと呼んだ者さへあるのである。随って当時妓楼に男子の寄生を已むを得ずと看過し嬪夫も亦怖るゝ政庁当局の寛大に狎れて終に世上に跳梁跋扈するに至ったのである。然し在留邦人の素質も変り地位向上して政治的にも商業的にも果た栽培事業方面にも目立って発展して来て国違ひから邦人男子の総てが女郎屋のアニシャマと思はるゝ如きは到底忍ぶことの出来ない侮辱であり、甚だしく邦人活動の支障となるものと認められ彼等の一掃が焦眉の急となって来たのである。
 大正三年四月或日の早朝特別命令を帯べる数名の刑事は青天の霹靂的に邦人遊廓を襲撃して嬪夫の頭目四名を捕縛せんとした、内一名は早くも風を喰って逃走せしも三名は逮捕されて監獄にぶち込れて仕舞ふた。彼等は護謨園主、歯科医、雑貨店主と表面を繕ふてゐたが政庁のこの英断に全く手も足を出す事が出来ないのであった。遊廓は上を下への騒動で当の嬪夫はいふ迄もなく多少の関係を妓楼に有する者は蒼くなって倉皇行李を収めて縄目を避け姿を隠して仕舞ふた。有志の奔走となり領事の活動となり遂に政庁当局をして「彼等が確に退去するならば強ひて投獄せずといふことになり一々写真(正面、横、背面の三面撮影)を警察に残して英領土を追放されたのであって其数四十余名に及んだ。
 新嘉坡嬪夫退治の報四方に伝はるや半島各地の恐怖一方ならず、良心のまだ麻痺せざる者は直ちに業態を改め、逃げ足の早き者は何処へか姿を晦まして仕舞ふた。更にこの嬪夫征伐と同時に新嘉坡では以後新に娼妓の鑑札を下付せざる方針を決したのであった。

12、廃娼問題断行
 邦人の護謨栽培事業勃興、欧州大戦開始と南洋の天地にも時代の変調は滔々として押寄せて来つゝあった。如何に女ならでは夜の明けぬ植民地と雖も、財産が出来れば体裁を飾り度くなるのである。大戦好況の絶頂時一夜に千金を蕩尽する遊興子もあったが、既にそれは女郎屋でなくして料理屋の二階で芸者を揚げての散財であった。然も大正八年の暮れ頃から景気逆転の兆候漸次歴然たるものがあったが、よもや急転直下全盛を極めてゐた日本の南洋発展が根底から覆へされ様と誰が果して予感し得たであらうか。戦後愈々堅実なる在留民の発展を期する為めに九年正月、新嘉坡総領事館管下各地の在留民代表は山崎総領事代理より招集されて新嘉坡に集まり、断乎年内に自発的廃娼を実行することを決議したのであった。三十年の歴史と猛烈なる彼等の活躍は到底容易に其絶滅を強ふ可くもあらずと、ツイ数年前までは思はれてゐたのであったが、欧州大戦に依る堅実なる在留同胞の発展は内容の改善と面目の向上を痛感する事一層痛切なるものあり、到底彼等の存在に依って受くる軽侮に甘んじ、為めに着実なる発展がともすれば動揺せしめらるゝ如き事あるを忍ぶ能はざるに至った結果であったに相違ない。各地代表は当時進んで此至難なる事業に当らん事を何れも欣然として決議したのであった。尤も彼南は既に其前年度末廃娼を断行して居り、新嘉坡も亦各地に先達ち同年六月一杯で断然廃娼を決行する事を声明し兎も角も二百有余の公娼を全部撤退せしめたのであったが、支那人の排日貨運動に依って惨憺たる悲境に陥入れられた上、護謨価無前の暴落に逢ふて極度の不景気に襲はれつゝあった半島各地の実情は、断乎たる態度に出でし約束の廃娼を決行するには余りに甚しい惨状を呈してゐたのだった。
 新嘉坡と彼南は開戦と同時に白人娼婦の撤退に連れて一切新規の開業を承認しなかったのであるから、さしも全盛を極めてゐた其醜業区も漸次衰運の顕著なるものあり、殊に在留同胞の財力が充実してゐたから比較的絶滅は容易であったが、何しろ尚千五百に余る娼婦を擁してゐた馬来半島では斯如簡単に一挙解決すると云ふ訳には行かなんだ事情があったのである。娘子軍の全盛を極めてゐた頃は蘭領スマトラのメダン付近等を加へて、当方面一帯に活躍しつゝあった彼等の実数は六千に余り、年優に一千万弗からの稼ぎがあったのであるから其財的勢力侮る可からざるものあり、殊に四十年近い歴史を有して居るのだから経済関係の錯綜せる事実殆んど想像以上であったのである。然も彼等の奮闘は要するに不健全であり、収入の大部分は当然浪費さる可き性質のものであったから、其目覚ましい活躍に顧みて何等残された事業の無かったのみならず、寧ろ莫大な債務を彼等は所謂チッテなる印度人の金貸業者等から負はされてゐたのであって、容易に動かれない内情がそんな処にもあったのであった。だから醜業婦其者の駆逐は単に在留民の態面を修飾すると云ふに止まらず、経済方面にも直接痛痒を感ずることさして深くはなかった筈であったが、間接に其収入を融通して貰ふてゐた方面―殆んど半島在留邦人の大部分が為めに蒙むる影響は実に甚大なものがあったのである。支那人のボヰコット、護謨価の暴落、極端な不景気にかてゝ加へて廃娼の断行と来たのであるから、将に半島在留同胞の多数は全滅の悲況に直面させられてゐたのだった。

廃娼断行代表会の出席者
 大正九年一月四日山崎総領事代理の招請に応じ、廃娼問題を協議すべく新嘉坡に集った各地日本人会代表は廿九名で
 彼南 会長岡庭喜惣治 副会長長田利明 理事荒木竹三
 マラッカ 会長彦坂正義 理事筒井信吉
 ケダ州アロスター 会長田邊吾一
 ペラ州タイピン 会長内田鉄吉 理事佐藤源次郎
 同 一保 会長水上庄太郎 副会長下山均 理事遠藤良助
 同 テラカンソン 代表諸戸末松
 同 チッテワン 代表川原忠吉
 セランゴール州吉隆坡 会長佐竹逸蔵
 同 コーラクベ 支部長長谷川義男
 同 カラン 支部長桑山定省
 ネグリスミラン州芙蓉 副会長朝永誠三 理事山田政記 理事小岩井靖
 同コーラビラ 支部長松永麟五郎
 柔仏バル 会長野村勇 理事明坂安治 理事濱口友彦
 同 バトバハ 会長佐々木亦二 理事安田隆治
 同 モア 代表谷由輔 代表山崎政吉
新嘉坡川は同会長宮下龍蔵、副会長中川菊三、理事大塚伸二郎、古藤秀三、高木復亨、竹内精一、木村増太郎、星崎武夫及び佐藤栽培協会幹事の九名でバトバハの佐々木氏を座長とし四日に亘る論議の結果尤も円満に自発的廃業を決議したものであった。

13、新嘉坡の女郎屋と嬪夫の引揚を送る
 南洋娘子軍なる名を何時の頃誰が称へ出したかを知らないが、二六新報に黒龍会や参謀本部や洲崎の大八幡楼の主人公であった中村伝蔵氏等から材料を貰ふて「南洋娘子軍」なる題目で当方面の娘さんの事を連載してゐたのは明治三十三年秋から三十四年の夏頃までの事であった。当時既に馬来半島からメダン地方にかけて約四千の娘子軍あり、年々五百以上の補充が何うしても必要であると云ふ様な事まで書いたと覚へてゐる、殊に其頃は南海先生の康有為が新嘉坡に抑留されてゐた為に宮崎滔天が態々逢ひに行く、福本日南も亦出掛けると云ふ騒ぎで、私の若い血汐を沸き立たせた事は頗る非常なものであった。遂に孫逸仙の挙兵に参加すべく用意をしてゐたのであったが目的を達しなんだ等が原因で結局今日までブラブラ浪人生活をする事にもなったのだけに、私の方から云ふと随分久しい南洋娘子軍とは馴染であったのである。其後更に長崎の出雲街にゐた侠客丹波屋の親分と懇意になり、益々当方面の詳細な実況を親しく聞く事を得て愈々一度は自分も渡南して見やうと云ふ気になってゐた折りから、妙な事で此処とは特殊な関係を持ってる岩本千綱氏は宇都宮太郎中将や梅屋庄吉氏らと交際する様になって、遂に大正四年の春南洋まで流れて来る事になったのであった。
 然し私の新嘉坡に来た時は既に娘子軍の勢威はとくに盛りを過ぎてゐたのだった。最も前年所謂ピンプ退治があり、醜業関係の男が全部逃出した為に残った女将は勢ひ途方に暮れて居ると云ふ有様で、澁谷や二木等云ふ頭株は死んでゐたし、十三軒からの女郎屋を持ち百人も娘を抱へてゐたと云ふ一保の山田すらもう見る影もない程寂漠に帰してゐたのであった。然し外観から見る景気はまだまだ素晴しいもので、昼を欺くナンバー入りの軒燈輝くカキリマに友仙モスの派手な店晴着の胸を張り、黄い声を振絞って盛んに通りすがりの漂客を呼立てゐたのであって、勿論其時はまだ白人の娼家も軒を列べてゐたし、其繁昌振りは確かに新渡航者の目を驚異せしむるに十分であった。然し事実はもう其頃から花街は既に魂を抜かれた抜殻であったのだ。私に云はすれば藤井領事のピンプ退治其場が既に南洋一帯の娘子軍をまとめて行く事が出来る人間を失ふた結果であったのである。丹波屋が死んでも多田亀が生て居りさえすれば勿論南洋娘子軍は一糸乱れず勢威を失墜する事なくして今暫くは繁昌を続けて行くことが出来たかも知れないのであった。然し時勢をどうする事も出来ないのだ。丹波屋死んで一年もたゝない中に多田亀が西伯利亜で非業の最後を遂げたのは結局運命であったらう。多田が死んではもう丹波屋の後を継ぐべき腕のある者は何処にもゐなかった。喧嘩力の強いのや相当理屈の言へるのならゐない事もなかったらうが、前途が見へて居るのであるから目先きの見へる者は来はしない。随って私は現在残って居る女将や蔭に隠れて居る二三の男を知らぬでもなかったが、心密かに撤廃が何時誰の口から呼ばれるかを待ってゐた、然も其時は思ふたよりも案外早くやって来た、誰の力と云ふよりも私は時勢の力―欧州大戦に影響された日本の南洋発展がこの要求を齎したのだと信じて居る。同時に山崎総領事代理が機運の熟した事を鋭敏に観取して機会を失する事なく、各地代表会議を召集して一気に自廃決議をさせて終ふた果断を心から讃仰せないで居られないのであった。或は其遣り方に就いて異論をはさむ者があったかも知れぬが、大勢には抗す可からず、内輪を云へば苦しい事は各地とも山程有ったに相違ないが、一言半句も代表者会議席上では不賛成を唱へ得る者はなかったのであった。女郎屋の存廃を道徳問題や国家の体面から論ずるのは野暮の骨頂である。現代は何事も先づ資本家の利害関係を基として計算されねばならないのだ。日本が一等国民として堂々土庫に事務所を開設し馬来半島でドシドシ護謨園を経営して居るのに、同胞である女が素足で通ふ国違いの玩弄物となって居るのを其儘に放置して居る事は出来なかったに相違ない。今引揚げて行く女将とそして抱娘に対して私は万斛の同情を持って居る。諸君多年の営業が奪はれ世智辛い日本に帰って行かねばならぬのは全く情ない事であらうが、国家の発展に伴ふ必然的結果であるとあきらめて欲しいと思ふのだ、御国の為めだ諸君はしほしほと追はるゝ者の如くに帰って行く事は無いのである。過剰な国民は何れ何処かに掃き出されねばならないだらうから、例へ南洋一帯が諸君の生存を拒絶しても人間至る処に青山あり、自分がゐた土地が益々同胞の活躍に依って繁昌して行く為めであるから諸君も勇み喜んで引揚げて貰はなければならないだらうと思ふのである(大正九年六月記)

一九、花街の思ひ出
 欧州戦争前には南洋で女郎や旦那持ち(洋妾(振り仮名「ラシャメン」)と云った所謂醜業に従事してゐた日本娘がざっと四千人程もゐたであらう。新嘉坡の花街(マテイ街、マラバ街、ハイナム街)及びバンダだけでも四百以上の娘がゐた。殊にスマトラの煙草耕地として有名なデリー地方には千近い旦那持ちが婉然女護の島の観を呈しつゝ肉に飢えた外人の要求に応じて其貞操を切売し、或は年期をきめて仕切られてゐたのである。其他馬来半島各地は勿論の事、蘭領の島々から蘭頁、盤谷、西頁、トンキン、マニラと殆んど彼等の影を見ない処なく南洋の至る処に日本人の女郎屋町が立派に出来てゐた。そして長崎の丹波屋とか長田亀なぞ云ふ親分に依って統卒され年々五六百人も新しい娘が補充としてロの津や門司の港から香港、新嘉坡へ誘拐されて行きつゝあったのであった。
 香港渡し二百五十弗、新嘉坡渡し三百弗乃至三百五十弗が相場で、旅費雑用一切を差引いて一人頭二百弗近く儲かったと云ふから少くとも十万内外の金が年々誘拐者の懐中に這入った勘定だから、当時彼等の仲間が如何に活躍してゐたかは蓋し想像に難くないだらう、のみならず長崎郵便局が取扱ふ南洋から彼女等が郷里に仕送る金だけでも年額二十万円以上に達してゐたと云ふから其全額に至って必ず更に幾倍したに相違なく、その大部分を送りだしてゐた島原、天草がためにどれ程霑はされてゐたかは中々今頃話しても一寸真実とは思へぬ程であったのだ。
 随って誘拐とは云ふものゝ娘自身も親達も寧ろ進んで南洋へ連れて行って貰ふことを彼等に懇願してゐた程だった。殊に旦那に死別れたとか或は万以上の纏まった手切金を貰ふた彼女等の成功者が光り輝くダイヤやルビーの指輪を五六本も嵌て突然帰って来る様な事実が時にはあったのであるから、其評判は忽ち狭い部落の空気を極度に昂奮させて我れも我れもと南洋行きを若い娘に志願させる様になるのだった。
 勿論可愛い娘を遠い南洋へ身売りさせる彼等の家庭が物質的にも精神的にも恵まれてゐよう筈はなかった。天草の或る村で大胆にも公然娘の旅券下付を警察へ出願した者があった。吃驚して懇々その不心得を説諭させようと態々巡査をやったのだが、余りに惨憺たる其家庭の実情を見ては流石に巡査も同情に耐へず、却って自身南洋行を世話して遣らねばならなんだと言ふ話さへあったのだ。 
 何しろ両親とも病身で思ふ様に働けない上、ヤッと十八になった其娘を頭に七人の弟妹が破れ果てゝ雨露をしのぐことさへ出来ない小屋に飢えと寒さに顫へつゝ辛うして生てると云ふ有様だったのだ。紡績女工等ではとても追着かない内地の女郎屋へ身売したって果して半年支へることが出来たらうか。恥や外聞なぞ云って居られる場合ではなかった。巡査が同情して南洋行の世話をしたと云ふのだから余程惨憺たるものであったに相違ない。然も其娘は間もなく新嘉坡の花街で全盛を唄はれ月々欠かさず七十弗からの仕送りを六年も続け、スグの弟は汽船に乗って運転手の免状を取ったし、其次の弟も電気学校を出て相応の給料を貰ふまでになったのだった。
 然しこんなのは勿論南洋でも珍らしい事で、出稼の娘は寧ろ一時の虚栄心に煽られ浮々誘拐的の口車に乗せられて来たと云ふのが多かった。だから中には相応な家に生れた娘もゐたし、女学校の卒業近くまで行った者さへ間々あった。現に彼南では貴族院議員の妻君だった人が女将をしてゐたし、仮名書の名家として有名な○○氏の姪が馬来○○番のお職で特に海軍の将校連に持囃されてゐたなぞ云ふ話は恐らく今でもまだ忘れてゐない人が居るだらう。
 斯くて新嘉坡を中心として南洋の島々、山の奥まで入込んで素足の馬来るや不潔極まる支那苦力、さては真黒な印度人さへ相手にさせて若い娘に血の涙を絞らせつゝ不義の栄華に耽ってゐた。日本人の女郎屋家業も遂に大正九年の正月、時の総領事代理山崎平吉氏の勇断で新嘉坡に召集された在留民代表者会議の協議に依って、断然自発的に撤廃することに決定した。そして彼南は其前年十二月限り、新嘉坡は其年の六月、馬来半島と英領ボルネオ一帯は同年一杯で兎も角も表面同胞の公娼は全部南洋から影を没して仕舞ふた筈だった。
 猶蘭領では大戦の前年既に公娼は全然禁絶され、其後更に私娼の取締を厳重にし、特に日本婦人の渡航を監視することになってゐたので僅かにメダンやパレンバンやボンテアナ等に昔の名残を辛うじて存する位に過ぎなんだ。然し国家の体面とか人道上から論ずればもとより問題にはならないが、端的幾千と云ふ醜業婦を一時に内地へ追返すと云ふことは到底経済上不可能な事だった。例へ自発的に公娼は廃業させても生るために或は性の必然的要求に余儀なくされて、遂に私娼の跋扈を如何ともする訳には行かなんだ、況んや旦那の名で彼等が国違ひについてる者を今更ら引離して追帰すと云ふことは到底出来ない相談でなければならなんだ。
 
出稼女の草分

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1462610/96

満洲事情案内所編「まんしう事情」昭和11年5月25日発行 ※1936年

先駆者娘子軍
辺陬の地が拓かれるとき、同時に、いや時には前以て地を占領してゐるといふ素早いのは娘子軍。たゞ此等が対象とならないのは農業移住地だけだ。熱河挺身隊が一日一城を陥れる早さで、トラック隊の列が南下した。その後輜重トラックが通る、商人のトラックの荷物の中には生物もゐた、どうもこれは兵隊さんの引力もあらうといふ、将校が思ひやりで黙認するらしい。
 鉄道建設の為に現業本部が出来る。其処は家らしい家は見えないが人の混雑する、バラックの都会が出来る。板張り間口三間くらゐ、奥行これに準ずる何々ホテル。棒杭の上に板を渡した―高い方がテーブル、低い方が椅子といふカフェーなどが出現する。ビール一円は廉い方といふ次第。北満といっても哈爾濱は別として、こんな新開地若くは小さい町の宿は原則として兼業である。要求の然らしむるところなのであらう。何の兼業かは読者の第何感かで分る筈だ。
 斯うした町でも芸者といふものはやはり髪は国粋派である。髪結女なんてゐないが誰かゞ恰好をつけるらしい。道は凸凹でも、土埃が何寸の中でも、夜は街燈一つ無からうが招きに応じて出てゆく、若し夫れが雨が降らうなら、其日とあと二三日はゴム長靴を穿いて、褄をまくって泥を渡りなさる、正に壮観である。随分酔払うがなかなか帰りに泥漬にはならぬといふ。此頃は田舎でも日本人が居るが建国以前は北鉄沿線の小駅の宿など一年の投宿者何人もない、そんな地にも女は朝鮮人が多いが内地人もまた相当居た。これ等は偶に見る日本人には力めて会はせないやうにしてゐた。低級なのを対手だから恥しいだらうと思ふとさうではない、業主の政策の然らしむる所で、女等に郷国をなつかしめさせないといふ深謀遠慮の次第だ。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1268420/74

「五大洲探検記1 南洋印度奇観」五大州探検家中村直吉 冒険世界主筆押川春浪編 明治41年8月28日発行 ※1908年

(廿六)退屈凌ぎに偽医師の助手となる(p258~)
 新嘉坡(シンガポール)に於ける日本の名物は、領事館員の空言壮語と淫売出稼である、由来日本の淫売婦程侵略性の激烈なものはあるまい、彼等は恰かも空気の如きものだ、地球の殆んど総ての部分を満し尽さんとして居る、而して淫売婦の行く所必ず多少の日本人が伴ふから、是を善意に解釈すると彼等は邦人発展の先駆者であるといへるし、是を悪意に解釈すれば日本帝国の体面に泥を塗るものであると言っても差閊はないのだ、若し前段の解釈をする人は、恐らく出稼ぎ淫売婦に一の正業が伴ったことのないといふ重要なる事実を知らない抜作であらう、吾輩は断言する出稼淫売婦は徹頭徹尾国家の体面を汚すものだと、文明の暗黒面には恐るべき罪悪が潜伏して居るものだ、今日世界の各方面に散乱しつつある幾万の淫売婦は、厳重なる人道と法規の網の目をくゞり抜けどうして故国を去ったのであらう、是れ殆んど一種の魔術ではあるまいか、天下唯一人の多田亀吉君を罵るのは酷だ、婦女誘拐を以て正当なる営利の事業であるかの如く、国家の大法を無視して最も大胆に振舞った彼多田亀吉の如きを出したのは、抑も社会に罪があるのだ。
 閑話休題、新嘉坡(シンガポール)とし言へば必ず日本の出稼淫売婦を連想する程有名な処である、吾輩は上陸すると直ぐ土人の人力車に乗って日本人居留地に向はんとした。支那人にしても土人にしても此地方の車夫程無意識なものはあるまい、土地不案内の悲しさ日本人居留地だと言ったつもりなのが、何でも彼でも此処へ曳込めば間違いないと思込んだ俥夫のことだから、軈てガラガラと轅棒を下したのが日本の淫売窟、と見ると二町程両側にヅラリ軒を並べたのが淫売屋で、軒下に廿五六の大年増、蝶々髷に赤の鹿の子を掛け、華美な浴衣を丈長に来て赤いシコギを腰に締めた醜態は何に比べやうものもない、是でも日本人かと思ふと吾輩急に情けなくなってきた。夕に越客を迎へ朝に呉郎を送るといふ文句は、同じながら多少の詩趣を帯びて居るが、呉郎越客どころか白人支那人印度人馬来人何でも御座れの情の切売、夜になると総勢五百人の淫売婦が喃々たる口説に外国人の機嫌気褄を取らねばならぬとは、天下是程殺風景極る悲惨事があらうか!?(p263・265)

(廿八)暹羅(シャム)王維納に墺帝をヘコます(p277~)
 当時在暹の日本人は百人足らずで、職業の種類は公使館員、領事館員、錺職、写真師、画家、医師、理髪職、コーヒー店等で、余り大きい声では言はれないが日本の女郎屋も二軒あった。此女郎屋に有名なやりて婆が居るさうだ、彼女は日本を出てから最う卅年にもなるそうで、最初はおさだまりの甘い舌の上に乗せられて日本を脱出で上海に着くと直ぐ売飛ばされ、其後流れ流れて盤谷府へ来たのであるが、人は呼んで上海婆といって居るそうである。此上海婆の其暗黒面には小説よりも奇なる事実が潜んで居るに相違ない!(p285・286)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/761084 

済軒学人「浦潮斯徳事情」

第十七章 浦潮斯徳以外本邦人の在留する主なる市府(p144~)
第一節 ニコリスク市(沿海州)
在留本邦人は左の如し。
職業    戸数  人口
貸席業   八   男一三  女五〇  計六三
支那人妾  -   -    女一三  計一三
計     九一  男一四四 女一六五 計三〇九

第二節 イマン市(沿海州)
職業    戸数  人口
支那人妾  -   -    女七   計七
計     九   男一四  女一六  計三〇

第三節 ハヾロフスク市(沿海州)
職業    戸数  人口
貸席業   一〇  男一六  女二一一  計二二七
外国人妾  -   -    女三〇   計三〇
計     一二九 男二九八 女四〇四  計七〇二

第四節 ゼーヤ、プリスタニ(黒龍州)
職業    戸数  人口
貸席業   一   男二   女一一   計一三
外国人妾  -   -    女一九   計一九
計     一三  男一二  女五〇   計六二

第四節 ゼーヤ、プリスタニ(黒龍州)
職業    戸数  人口
貸席業   一   男二   女一一   計一三
外国人妾  -   -    女一九   計一九
計     一三  男一二  女五〇   計六二

第五節 ブラゴウエシチエンスク市(黒龍州)
職業    戸数  人口
外国人妾  -   -    女二八   計二八
貸席業   四   男七   女五七   計六四
料理業   三   男六   女三    計九
計     一〇二 男一九二 女二〇〇  計三九二

第六節 チタ市(ザバイカル州)
職業    戸数  人口
私娼妓   -   -    女六    計六
支那人妾  -   -    女一〇   計一〇
計     一〇二 男一九二 女二〇〇  計三九二

第七節 ネルチンスク市(ザバイカル州)
職業    戸数  人口
貸席業   一   男一   女一    計二
娼妓    -   -    女十    計七
外国人妾  -   -    女二    計二
計     四   男四   女一三   計一七

第九節 ウエルフネ、ウージンスク市(ザバイカル州)
職業    戸数  人口
貸席業   一   男二   女一〇   計一二
計     一〇  男一六  女一九   計三五

第十八章 浦潮斯徳在留日本人の状態 
第二節 浦潮在留本邦人の職業、人口及戸数
職業    戸数  人口
料理店   三   男五   女三    計八
貸席業   六二  男三〇  女四五   計七五
芸妓    一二  -    女一二   計一二
娼妓    -   -    女三二三  計三二三
外国人妾  -   -    女六〇   計六〇
 
口入業
八軒
月収 八九十円位
 口入屋の、其看板には、孰づれも皆例に依て男女云々とあるにはあるが、それこそ看板ばかりで、実に釜山の口入屋には、男を取扱ふものは一軒もない。開業以来未だ曾て男を周旋した事はないと云ふものもある。全く女専門だ。例の芸娼妓、仲居、たまに下女、而して、蔭から蔭への日蔭者も無論ある筈。需要口は、釜山にもある筈ではあるが、周旋人は成るべく、遠い土地へ遣りたがる、これには自家の利益上ニ三の理由があって存するのだ。大多数は、馬山、郡山、縣洞、蔚山と云ったやうな、邑落へ遣る。
 人間商売は薄情商売で、挙って碌なものではないが、中にも口入屋ほど非道なものはあるまい。実際罪悪を云へば女郎屋、婬売屋に優るとも劣りはせぬ。随分下等で、不浄で、何んのシャ面下げて、と憎くい。残忍、横着、舌を二枚も三枚も持ち、千枚張りの面の皮を持たなくば出来る商売ぢやないが。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/952070/102









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