皇軍実態集 体罰・私的制裁(4)

皇軍実態集 体罰・私的制裁(1)
皇軍実態集 体罰・私的制裁(2)
皇軍実態集 体罰・私的制裁(3)
の続き

 自分は元の第三十一連隊であった北部第十六部隊第二中隊第五班に配属された。中隊長は金野中尉であった。新兵教育は翌日からであった。起床ラッパと同時に一日の軍隊生活が始まり、消灯ラッパで一日の生活が終わるのであった。鳴り響く起床ラッパ。起床、寝具の整頓、班員の整列、点呼を受ける。点呼の際、声が低いと何回でもやり直しを受ける。
 点呼が終了すると共に乾布摩擦があった。十二月になると本土の北限、青森の寒さは想像以上の寒さとなる。その中での乾布摩擦は身に堪えるが終わると汗ばむ。意気軒昻、兵舎の部屋に帰ると寝具等の整理、整頓、悪いものは、全部木銃でひっくり返されている。驚いた。整理、整頓は教えるものではなく、覚えるものであることを知った。特に毛布は耳を揃え真四角に畳んで上げなくてはならなかった。(p436)熊谷

 昭和十八年十月一日(第十三期・前期)、美保空には一、二〇七人が入隊した(土浦空など合わせ全国で一〇、八八九人が入隊)。美保航空隊司令は『月月火水木金金』の作詞者・高橋俊策中佐である。
 「将校練習生」なる名のもとに、待ち受けていたものは厳しい海軍精神教育だった。吊床訓練、駈け足、ビンタ、バッター罰直が続いた夜、ハンモックの中で、ここへ送り出した父の顔が浮かんだ。親父を睨みながらいつの間にか眠ってしまう夜があった。(p500・501)矢部

その兵舎が第三百六部隊でありました。久留米の兵舎と違い、酷寒零下三、四〇度に耐え得るような構造であるのが目についた。・・・
 そのころは満州の内務班の方は物凄く気合いが入っており、毎晩ビンタを張られておりました。私は事務所勤務でお蔭様で逃れました。(p92)岸川

 私は昭和十九年一月に佐世保海兵団主計科に入団しました。海軍部隊の主計科は庶務、経理を掌る主計科事務室と、衣糧を掌る被服倉庫と烹炊所に分かれていますが、新兵はすべて烹炊作業です。
 入団して間もなく新兵教育のため、鹿児島県の出水海軍航空隊主計科に転属しました。・・・
 烹炊については、魚肉のさばき方、野菜の切り方等基本的なことをたたき込まれました。また夕暮れ近くになると次第に憂うつになってきます。それは毎日の吊床(ハンモック)訓練です。吊床は寝気持は満点ですが、その吊り下ろしには艦隊勤務を基本に、敏捷な動作が要求されていました。たしか、吊りに四〇秒、下ろしに一分程度だったかと思いますが、毎日一時間ぐらいの訓練には泣かされました。吊り下ろしの早い者から整列で、遅い者は毎日、例の海軍精神注入棒でなぐられ方です。(p108・109)村上

 私は昭和十六年徴集の現役兵として、昭和十七年二月一日篠山連隊へ集合して十日後に出発しました。その時、第六十八師団第五十七旅団第六十一大隊第三中隊より初年兵受領として軍曹が来てました。・・・初日一日だけお前ら内地から来たのだとお客様扱いされ、やれやれと思って寝た。翌日の起床のラッパで途端に大雷です。初年兵モタモタするな、支那風の厳しさを教えたると。何をするのも早駆けでやれと点呼の時からバンバンとビンタが飛んでくる有様です。整列が遅いと早駆け営庭五周と朝の一瞬にして全員度肝を抜かれました。(p187・189)嵯峨http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/01onketsu/O_01_187_1.pdf

 私は大正四年生まれで、昭和十年徴収で、第一乙種だったが、支那事変が始まると直ぐ、十二年八月に召集になりました。十一師団の歩兵は、丸亀・松山・徳島・高知ですが、司令部と特科隊(騎・砲・工・輜重など)は全部善通寺です。・・・
 当時の編成は、現役兵と召集を併せての部隊で、直接の教育訓練等は、主として現役下士官があたり、内務班でも激しい粗暴な私的制裁が横行していました。
 兵の態度が悪い、行動も鈍い、服装が、掃除が、整理整頓が、銃剣の手入れが悪い等々、ことごとに、なぐる、ける、竹刀や棒で打つなど、日常茶飯のことでありました。(p286・287)平井
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/01onketsu/O_01_286_1.pdf

 大正十年十月十二日生まれですから、昭和十六年徴集で、十七年の十二月に本籍地の富山の第三十五連隊留守隊へ入営しまして、一週間後に舞鶴出帆で仏領印度支那(ベトナム)のサイゴンに上陸、第二十一師団(討兵団)歩兵第三十五連隊に入りました。
私は廐当番をして、寝ていた時に放馬(馬が廐舎から逃げ出す)したので、編上靴でなぐられて顔が穴だらけになった。そのため一選抜の上等兵になれなかった。(p337)稲積
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/02onketsu/O_02_337_1.pdf

 私は帝国海軍軍人として、昭和十六年五月一日横須賀第一海兵団へ志願、入隊しました。・・・昭和十六年五月一日、海兵団入隊後、四か月間を、横須賀で新兵教育で過ごし、九月より支那方面艦隊(上海にいた)へ配属され、特設砲艦「第一〇雲海丸」に乗船、支那方面沿岸、杭州湾の舟山列島の警備につきました。・・・
 回顧して軍隊にいた間のつらくて悲しいことは、やはり第一にお説教、制裁です。私は一番多くやられたのは一週間に三十あまりです。
 「気合いがたるんでる」との理由で、精神修養棒と称する野球のバット状の棒で尻を思い切りたたかれます。それも上級者から順次に下級へと来て、一等からまた二等からというわけで階級がかわる人からそのつどやられました。もうたまりません。
 洗濯はたいたい夜の十時ごろからで、室内へ干しておくとよくぬすまれます。上級者のものをぬすまれるとまたやられる。海軍の善行章は三年無事に勤めあげるごとに一本あたえられる。昔の職人の年期のようなものです。最初の三年の間は各種の作業をする間上級者の指導監督が一つ一つあります。
 三年へて善行章がつくと監督なしで仕事が出来ます。私は善行章一本でした。しかもつぎつぎと新兵があとから入隊してくれば楽になれるけれど、私の場合はあとからくる新兵がおらぬので終始なぐられ放しで、ぎゃくになぐったことがない。
 つらかった、つらかった。あまりつらいので自殺をはかったことが二回もあった。その第一回目は砲艦の新兵時代、風呂場で首つりを考えたが、親のことを考え、一期早い古兵にはげまされて無事にすんだ。第二回目は工機学校へはいり二等兵となり、休暇で自宅へ帰り食べすぎ、帰校後下痢がつづいてかくりされた。そのため教育ぎ、帰校後下痢がつづいてかくりされた。そのため教育は受けられず受験もかなわず、「隊へ帰れ」といわれていくらあやまっても許してくれない。もうたいへんつらくていっそ死んでやろうと思いつめたことがある。代表的な思い出としてのこっている。
 そのほかにも艦内の勤務でのしんくは、古い人ばかりで自分より下の新兵がいない。年中いつもどこでも監視がつづいて、少しものんびりできないこと。食事等も汁かけ飯(小さい食器の飯を、大きい食器の汁の中へ移してかきまぜて、急いでかきこむ)を中腰の姿勢で早く早くと食べる状態である。うえの人が茶がなくて、パンパンと湯のみをはたこうものならそく罰である。あるいはぶれいこうと称して酒をのませよわせて、あとで甲板洗いやら各種の仕事を命ぜられる。苦しいことこのうえない。それも何回かやって要領がわかったから、あとでは楽になった。(p402.・404・405)大山
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/02onketsu/O_02_402_1.pdf

「駆逐艦薄雲に乗艦を命ず」昭和十七年五月二十日、横須賀田浦海軍水雷学校の卒業式のことであった。・・・艦内の空気はますます悪くなる。人の心もいらだって「罰直」も多くなる。たださえ自分の体を維持するだけのところへ、そのうえの「罰直制裁」はまことに地獄の餓鬼道のようでした。(p227)佐久間
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/02onketsu/O_02_225_1.pdf

 私は昭和十六年一月十日、帝国海軍の一員として呉海兵団に入団しました。わずか四か月間の教育ではありましたが、それはきびしい訓練でした。教育をおえて三等水兵となり、一等巡洋艦の「古鷹」に乗り組みました。
 私は高角砲左方位盤の伝令として勤務しました。艦内勤務は非常にきびしく、すこしでも動作にたるみが来ると、総員制裁として甲板整列で直心棒の洗礼も受けました。(p216)松田
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/02onketsu/O_02_216_1.pdf

 昭和十六年兵の現役兵として満州第二九八部隊(戦車十連隊)に入隊が決まり、・・・幹部候補生の座がねをつけてからは、周囲の目が今までと違いすこしでも不注意なことがあれば下士官室へ呼ばれ大目玉です。ビンタの制裁もたびたびありました。・・・一番脳裏に残っていることは正月の三日、朝の点呼の集合が遅いとの理由で上半身裸で、気温零下二十度、雪の降るなかを二時間かけ足をさせられたことです。腕は血の気がなくなり、臘のような白い色にかわり感覚はありません。かわいたタオルで摩擦するとやがて感覚はありません。かわいたタオルで摩擦するとやがてには現わせません。しかしこれをやらなければ凍傷になり、最悪の場合腕を切断するようなことになります。(p208)鈴木
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/02onketsu/O_02_208_1.pdf

 私は吉林省敦化の部隊に現地入隊した。「酷寒零下三十度」と実にきびしい寒さであった。こんな寒さのなかで初年兵の訓練は言語に絶するきびしいものであった。訓練ばかりではない。内務班における言語・行動・一挙一動・すべてが古年兵の目のなかにあった。常往座臥の間、ビンタの恐怖にさらされていた。これも国のためと思い耐えて来たのである。ビンタが国のためになるわけはないのだが、無理やりに自分にそういい聞かせていた。
 私は前述したように現役志願兵として軍隊にはいったのであってどんな苦しみも耐えるのが当然でなくてはならないはずだったが、やはり人の子、なま身である以上、たたかれて痛くない者はない。かわのスリッパで力まかせになぐられたのである。初年兵は一人残らず顔がイビツになったといえばおおげさ過ぎるように思われるが、それはまぎれもない事実であった。(p205)寺西
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/02onketsu/O_02_205_1.pdf

 満州第五百十四部隊派遣法別拉陣地第二中隊斎藤隊であった。
 各班に配属され一日はゆっくり休むことが出来たが、翌日からはきびしい軍隊生活が始まった。観測、通信、砲手、馭者と配分され、小生は通信であった。
 日ならずして二、三年兵の怒号が各班でおきた。気がゆるんでいるというビンタの私的制裁である。
二年兵の戦友を一人受け持ち先輩のすべての面倒をみた。順番のことで初年兵の役目であった。枕等よごれていると金魚の絵と水がほしいと赤いチョークで書かれ、洗濯せよとの意味であった。百メートルもはなれたくぼ地の水のたまりで氷を割っての洗濯、そとは零下三十度の寒さ、耳も手もちぎれる寒さであった。(p200)末木
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/02onketsu/O_02_200_1.pdf

 満二十歳、甲種合格、北支派遣百十師団百十連隊に現地入隊した。・・・
 訓練は三八式歩兵銃に五発の実弾をこめ、背中に九十発、両方の腰の帯革に六十発の実弾、それに二発の手榴弾、背嚢は三十キロあります。足のずりこむいばらの生えた大陸の曠野の戦闘訓練は、実に地獄以上でした。夜は銃、軍靴、衣服の手入れ不十分と古兵に指摘され、なぐられる。頬へピンタ、さらに蹴られる者等続出、いつそこの兵長を殺して自分も死のうかとなんども思いました。軍靴の手入れがすむと、翌日きまって古兵が講堂に六尺机を一メートル間隔に並べてうぐいすの谷渡り「ホホゥケキョ」といってとばせました。
 銃の手入れが悪いものは、三八式歩兵銃に着剣して「捧げ銃」をさせて膝をなかばまげと号令します。そして「三八式歩兵銃殿、自分は大行山脈の風にふかれてモサーットしていて、あなたの手入れをおこたりました。許してください」と十遍、五十遍といわないともとにしてくれません。衣服の洗濯が悪かった十人は、昼の休みの時間に全員丸裸にさせられ、南洋の土人のおどりをさせられました。このときは週番士官が通りかかって兵長はしかられました。
 士官は兵長に、歩兵操典の兵営生活の一項の暗唱を命じましたが、忘れた兵長は答えられませんでした。その後その兵長はこうたいさせられて、どこかの戦場で戦死しました。(p121・122)河原
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/02onketsu/O_02_121_1.pdf

 昭和十八年三月からの現役兵時代は、旧制高専卒で幹部候補生を志願したため、内務班ではとくに古年兵の私的せいさいの対象とされた。
 ある夜点呼のあと、初年兵全体への「みせしめだ」と称し、革のうわばきによって顔面を七十数回にわたっておう打されるというせいさいを受け、あごがはずれた。しかし、医務室ではあごをつるのみのしょちで、練兵休はあたえられず終日演習に参加させられた。もちろん食事はぬきであった。(p113)江崎
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/02onketsu/O_02_113_1.pdf

 昭和十七年十月一日、現役兵(甲種合格)として入営することがきまった。・・・駅からは役場の兵事係が山口の歩兵第四十二連隊(当時西部第四部隊といっていた)へ引率してくれた。私は正面の兵舎の七中隊へはいった。
 二等兵の教育は、どの隊も皆同じだ。毎日がビンタの連続であった。考えてみると人殺し業の教育だからこの方法が戦争要員養成には一番簡単だったとも思われる。兵舎には南京虫が多く、はじめは大変なやまされた。私の初年兵教育は軽機関銃だった。したがって、私には軽機と小銃の保管と手入れがあったため、ビンタの原因がしばしばおこった。親にもなぐられ経験がないのに、毎日、気あいを入れてやると古兵が舎前、舎後に集めて、ビンタをとった。山口の冬は寒かった。(p91・92)小川http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/02onketsu/O_02_091_1.pdf

徴兵検査では第一乙種で、十七年一月十日大竹海兵団入団です。・・・
 海軍の訓練は特に厳しかった。バッタという樫の棒、一メートル位の太い木刀というか鍬の柄のようなもので「軍人精神直入棒」と墨で書かれた棒で尻を叩く、というより殴るのです。殴られぬ日もあったが、大体平均的に殴られる日が多かった。他の班で音がすると「うちもやるか」と古兵がいって始める。これは個人のミスばかりでなく、班で一人でもあれば団体の共同責任で制裁をされるわけです。(p421)吉岡
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/03onketsu/O_03_421_1.pdf

 ある日、総員整列でバッター(軍人精神注入棒)で尻を三回殴られたことがありました。海軍に入って始めてのバッターであり、その時は褌一枚でした。整列した順に殴られるのだが、自分のところまで来る間は気持ちが悪いが、いよいよ自分だ。駈足で教官の前に行き敬礼をして、上半身を四十五度に傾けて尻を出す。最初の一発で尻に火が着いたような痛さだった。三発殴られて敬礼して「有難うございました」と礼を言って席に帰る。全員終ってひと文句いわれて解散後すぐ寝床に入ったが痛くて寝つかれなかった。(p408)中江
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/03onketsu/O_03_406_1.pdf

 私は大正十四年一月十九日生れ、甲種飛行予科練習生の第十期生です。・・・
訓練は文字通りの「月月火水木金金」でした。前ささえ(腕立て伏せ)、ビンタ、軍人精神注入棒(樫の木刀の太めなもの)で、それが折れるぐらい殴られる。「総員制裁十本」とか十五本とかで、尻が最初ははれ、黒くなり、蛸になる。それに耐えられなくなって、鉄道線路で手をとばした人もあった。飛行機に乗って「しもうた」では遅いから訓練も厳しく、体で覚えさせるためか、分隊長も黙認していた。(p401・402)重政
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/03onketsu/O_03_401_1.pdf

 翌十五年二月十日、徳島歩兵第四十三連隊に現役入隊しました。・・・目的地虎林第七百十二部隊に到着し、中隊長は張間中尉、小隊長は砲井少尉です。・・・基本訓練、各個演習、戦闘訓練はとくに厳しく、古参兵の中には支那事変や対ソ連とのノモンハン事変に参戦した猛者もいて、よくビンタ(殴る)を取られました。(p390・391)松田
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/03onketsu/O_03_390_1.pdf

 私は、同時に昭和十七年十二月、現役兵として入隊し、第百十六師団(嵐兵団)第百二十連隊での教育訓練・戦闘・転属・捕虜・復員までのことを忘れることが出来ません。・・・
 初年兵は一・二班に各二十名。いよいよ兵舎での初年兵教育が始まった。起床六時、消燈二十一時までの日課で、其の間初年兵は一分と休む時間はない。起床と同時に厩(ウマヤ)に走り馬の寝藁を出して馬の手入れ、水飼い、飼い付けで約一時間。其の後朝食前のリンチ、初年兵は馬より価値が無いと上等兵は言う。馬は兵器、兵隊は消耗品である。
 日課は、朝、馬の手入れ、四十一年式山砲の手入れ、三十八年式歩兵銃の手入れ、兵舎外の清掃、訓練学課、食前・食後・消燈前のリンチ、夜は不寝番と全く寝る時間が少ない。その上四六時中空腹である。夕食時は毎日の如く飯を前に飾って正座でリンチである。点呼五分前位にまたリンチである。やっと食事にありつく、喰う時間は一分位。
 点呼後やれやれと思っているところへ上等兵が、舎後(兵舎の後)の整列を呼び掛ける。就寝前で服は着ていない、襦袢袴下(シャツとズボン下)一枚で震えながらリンチをうける。三月とはいえ雪がちらつき非常に寒い、訳のわからぬ事を言って消燈までリンチである。滅私奉公の覚悟で入隊したが、余りのリンチで消燈後初年兵一同は毛布をかぶって男泣きに泣く。
 日本帝国の軍人精神を育てるためとはいうが、半分は上等兵の私的感情での行き過ぎで心身共に疲労困憊である。
 五月、一期の検閲も終え、ここではじめて二等兵として認められ各班に配属されるが、此処でも初年兵は生意気だと、またリンチである。(p346・348)稲井田
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/03onketsu/O_03_346_1.pdf

 私は、昭和十六年九月二十日、臨時召集令状により、京都府伏見区深草中部第三十七部隊に応召。擲弾筒班の所属でした。これが軍隊の飯を喰った初日で、どの様な苦労が待ちうけているか、またどのような裏があるか、何の予備知識もないまま連隊区司令部の赤紙令状の命令通り消耗品の一員として入隊しました。
 この日から年令に関係なく、あとからの入隊者がなければ召集解除の日まで初年兵として服務し、一日でも在隊日数の多い者が先輩となり幅を利かすという特異の社会に身を置きました。
 入隊すると理由の如何を問わず命令は絶対服従の社会で、生命のある限りこの目的達成のためには毎晩のビンタは日毎に有効でした。従って同年兵が命令違反と思われる過ちをした時は、内務班が別でも同年兵の共同責任との理由で大変なビンタを受けた、当時の苦労は今日に至るも忘れたことはありません。若し妻子が見ていたならばなさけなくて生きる気持ちも失せる思いで耐えねばならず、之が生きる男の世界かと思いました。
 従って自由な時間といえば、くさい便所にいる間しかなく、初めはどうにもならぬ思いでしたが、これしか方法がなければ辛抱して雑用は便所にいる時間を利用したものでした。内務班内におれば班長の分も古兵の分もせねばならず、自分のことは何も出来ず、午後八時の点呼後のビンタが待っているため、このようにして難を免れた次第でした。(p245・246)秋田
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/03onketsu/O_03_245_1.pdf

皇軍実態集 行動様式

以下に挙げる行動様式は、日本軍発祥かどうかは分からないが、従軍手記によく出て来るものである。そしてその内の幾つかは、現代でもよく見られるものだろう。

挨拶第一(敬礼)
あちらもこちらも身の回りは全部が上級者ですから、上級者に対しては敬礼をしなければなりません。内務班の中は家族と同様なので敬礼の省略を許されていますが、兵舎の外に出たときは全く困りました。片手だけでは足りなくて両手で左右を見て敬礼しなければならないほどでした。欠礼をしようものなら「コラッ!そこの初年兵待てッ!」ハッと気付いて敬礼してももう遅い「何中隊の何班の者だ。官姓名を名乗れ」とくる。「第一中隊第二班陸軍二等兵河村廣康であります」「ウン、貴様の中隊では上級者に敬礼せんでもよいと教育されているんか」「違います」「そうか教えられているんか、そんならなぜ敬礼せん」などといじめられます。用を足して班に戻ると、初年兵係上等兵が「河村!ちょっと来いッ!」と睨みつけて呼び付けます。もう既に先程の欠礼の通報がきているのです。そこでまたこってりと油を絞られます。(p79)河村

 三歩以上は「駆け足」、上級者(どっち向いても皆上級者)には敬礼しなければなりません。初年兵はどこを向いても上級者ばかりですから敬礼の手が上りっぱなしです。(p415)上原

それから野砲・小銃・帯剣・軍靴の手入れをします。手入れ中にもし古参兵の一等兵が通ると、手入れを止めて起立、拳手の敬礼をします。何度会ってもしなければなりません。(p232)猪俣

 日曜の外出には上装被服着用、徒手帯剣、巻脚絆、水筒携行、八時舎前に整列。週番下士官の検査を受け出発。鳥取市内にて喫茶店、映画、市内ぶらぶら。何時でも上官に出会えば敬礼、欠礼すれば大変、初年兵は外出しても敬礼演習のようなり。暑くてもホック、ボタン一つはずすこと許されず、汗だくだく早々帰って洗濯。(p160)岩本
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/04onketsu/O_04_157_1.pdf

軍旗歩哨に立哨中一歩遅かった捧げ銃、無念や要注意の一声が連隊中の回報に載り、中隊の名誉を汚したと苦汁の難に落涙した。(p34)山下

またいずれを見ても上官ばかりで、班内を一歩出れば敬礼づくめで、目まぐるしい日課である。(p116)竹内

私が初めて興安嶺で見たソ連軍の兵隊は、敬礼もせずに将校に近づき煙草の火を借りて「シバシイーバ(有難う)」と言って去って行った。(p82)清田

 ある日昼食を終わって休んでいると、S地区司令官の「将校おらぬか」という怒声が聞こえる。ちょうど居合わせたY将校が挨拶に出た。敬礼が…と何か怒っているようである。その時、何時もの定期便が来た。マナゴックの爆撃のためである。途端、彼が叫んだ。「動くな見つかるぞ」私は噴き出したくなった。この薄暗い密林の中で空飛ぶ飛行機に人の動くのが見えるものか。また怒声がする。「誰だ大声で話をする奴は。聞こえるぞ」。ますますおかしい、空飛ぶ飛行機にこの林の中の人声が聞こえるものか。少々頭がおかしいようである。この指揮官の下で生死を共にするのか。真に張り合いのない次第である。(p115)松井http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/04onketsu/O_04_097_1.pdf

大声第一
内務班から一歩外へ出る時は、必ず大きな声で「小林二等兵!厠(便所)へ行って来ます!」と叫ぶ。帰って来た時も「同じく帰って来ました!」と叫ぶのです。すべて大きな声で復令、復唱することです。(p202)小林

自分は声が大きくて子供の頃から両親に「もう少し小さな声で話せ」と言われる位の大声でした。これが軍隊では幸いしました。班内から一歩外に出る時は必ず「茶木二等兵、厠へ行って来ます」また入室の時は「茶木二等兵、入浴より戻りました」と大きな声で発表します。声が小さいと古年兵から「今なにか虫の声がしていた、今一度官姓名を名乗れ」と再度申告させられました。(p254)茶本

 宮崎県、高鍋陸軍飛行場大隊、西部第一〇一部隊で初年兵教育が行われました。自分は軍隊のことは何一つ知りませんから、一から十まですべて勉強でした。まず、一番に大きな声を出すことでした。これは人一倍大声でしたから完了で、二番目に行動の迅速が要求されました。そして軍人勅論の暗記暗唱・次に戦陣訓・典範令・操典等々の記憶の外に、日常勤務の規則、喇叭音にいたるまで、朝の起床から夜の消灯喇叭まで、初年兵はちょっとの休みもなく、頭と体を酷使して、はじめて一人前の兵隊になるのだと実感しました。昔々、村の古老が兵隊に行って来たら二人前だ」と言われたが事実でした。(p329)大久保http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/08onketsu/O_08_328_1.pdf

「河村二等兵!厠に行って参ります」。意地の悪い古参兵が「聞こえんぞー」「河村二等兵!厠にいって参ります」「声が小さいッ!どこへ行く!」「河村二等兵!……」三、四回大声で叫ぶようにすると「よーし」。(p84)河村
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/16onketsu/O_16_082_1.pdf

私は、軍隊へ入る前、撫順の会社にいる時、軍隊経験のある一年志願の将校である先輩から、機関銃の名称や部品の名を教わったり、分解、組立てまでも教わり覚えていたし、軍隊では大きな声を出すことが大事だ、とも教わっていたので、中隊長は、私が幹部候補生になるので注目していてくれたのだろうと思う。(p229)安井

教育が始まりますと父親から聞いた軍隊の厳しさが身にしみてきました。「すべて大きな声ではっきりと」を主眼の教育でしたので、東北弁で大声で答えると間違って受け取られ、ビンタのお見舞を受ける事もしばしばでした。(p20)佐藤

何をするのも大声で「やります」「行ってきます」「帰りました」と叫ぶのである。(p87)前田

ただ私は大声で下士官室に出入りするので、下士官の間では好評だったようです。(p439)石橋

さあ翌日より「関東軍」特有の内務班教育が始まった。「起床が遅い」「声が小さい」「動作がにぶい」「飯の盛りつけ動作が悪い」「銃の手入れ不備」「整頓がなってない」などと、次から次へと気の休むひまもない。(p76)山田

点呼の際、声が低いと何回でもやり直しを受ける。(p436)熊谷

内務班の出入時は「どこに何しにゆく」と大きな声で申告、報告が実行されました。(p22)堺

第一に大声を出すこと、そして早飯と早糞だ。などなどで少しの時間的余裕もない、現地での初年兵教育でした。(p174)小川

何日いかなる時も水兵さんは「大声」で言葉を発すべしでした。(p553)久保

暗記第一
自分達も日常教練の外に、特に軍人勅諭の暗記が第一で、歩兵操典、作戦要務令ほか典範令集から日常勤務守則、例えば不寝番・各当番勤務・厳格な衛兵勤務等々の守則を全部丸暗記しました。現在の頭脳では到底出来得ないことでした。(p254)茶本
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/15onketsu/O_15_251_1.pdf

古参兵の意地の悪いのがちょっと来い」と呼び付け「不動の姿勢の要領を言ってみよ」「ハイッ」と典範令に書いてあることを言うのですが、なかなかきちんと言えません。そこで、ああでもない、こうでもないといじめられることになります。軍隊では、実行できても典範令に書かれている通り暗唱できなければ駄目なんです。(p77)河村

 教練の後は久留米と同じく軍歌の練習で大変でした。初めて歌う軍隊歌は「露営の唄」「愛馬行進曲」「日本陸軍」「戦陣訓の唄」「麦と兵隊」他にまだありましたが、今でも哀愁のある「綏芬河小唄」は忘れられません。最初古参兵殿が歌って、直ぐ後を歌わせられ、何回も何回も繰り返して、大声で歌わんとこれまた気合を入れられ、覚えが悪いとカッポでした。(p22)堺
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/18onketsu/O_18_018_1.pdf

 入隊後、馬に次いでの思い出は、軍隊手帳に記されている「軍人勅諭」です。入隊すると一週間以内に暗記せよとのことでした。私は夜の消灯後、便所で軍隊手帳を持って努力したので、三日で成功し、班長さんにほめられました。(p317)川上
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/06onketsu/O_06_315_1.pdf

 入隊早々、週番士官が私に「軍人勅論を言うてみい」と言うので、私は入隊前に勉強していたので、直ぐにつまらずにスラスラと答えました。週番士官は喜んで班長に対して、「今度の補充兵は優秀である」と申されました。(p348)篠原
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/04onketsu/O_04_347_1.pdf

親父から入団前に軍人勅諭を覚えるよう言われましたが、海軍は五カ条の御誓文をたまに言わせられた程度で、陸軍とは全く違いました。(p494)梶本

 覚えていて良かったことは、軍人勅論の暗唱だ。中隊長の精神訓練には「忠誠・礼儀の項、暗唱できる者あるか」と必ず質問がある。それを指名され、班名・氏名を大きな声で言って、暗唱出来れば、班長も全部いるし、以後の学科は、一応及第である。(p65・66)岡

教育の内容の第一は、覚えなくてはならないということです。「軍人に賜った勅語」「五箇条の御誓文」などで、便所でも暗記をするという状況で、頭の悪い人も良い人もいますが、絶対覚えなくてはならないということでした。(p287)安藤

軍隊へ入り先ず覚えなければならぬのは「軍人に賜りたる勅諭」である。これは必ず暗唱しなければならなかった。軍隊には教育資材がある。教範・教典などの書籍がある。(p225)青山
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/10onketsu/O_10_225_1.pdf

 入営し、まず覚えなければならないのは上官、特に直属上官の名前であります。即ち連隊長、中隊長であり、更に大切なのが連隊長の方針であります。・・・
 連隊長の方針は、「忠―君に対し二心なきこと」「節―節制が正しく其の操を守る」「吾々軍人は名が命である」「軍人勅諭を覚えることは、軍務に精励することである」具体的には一、軍人精神ノ鍛錬二、団結の鞏固 三、必中ノ信念(砲兵は特に) 四、実戦的訓練 五、馬匹車輛ノ愛護 六、正シク強ク朗ラカニ」であったと記憶します。(p233)谷川
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/07onketsu/O_07_231_1.pdf

 学科は軍人勅諭と戦陣訓。広島当時一年余、朝の青年学校を経験しただけなので学科で頑張らねばと、以前より勉強していたので大いに助かった。入隊間もなく「勅諭と戦陣訓言える者は手を挙げよ」と言われ、躊躇せず手を上げたが、自分一人だったので鳥肌が立った。(p61)大原
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/04onketsu/O_04_057_1.pdf

 三カ月の検閲が終わると近衛本来の教育である。守則の教育です。大宮御所七〜八カ所、宮城に十四カ所ほど、それぞれ勤務の守則が違う。この違う守則は全部暗記し動作も修得しなければならない。どこへ立哨戒してもよいように教育を受けねばならない。・・・
 いろいろなことを想定して全部教育を受ける。どこの守則を、どこの守則は、と問われる。覚えられない人もあったが、だんだんに覚えた。(p385)小林
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/07onketsu/O_07_384_1.pdf


五分前行動
 昭和十七年五月一日、入団祝もそこそこに鹿島駅にて多数の見送り人の歓呼の声に送られて、佐世保第二海兵団相の浦分団に無事入団しました。第二十四分隊第八教班に配属されましたが、知った者は一人もいません。そして志願兵ばかりですから十七、十八歳の若者揃いでした。
 私達は兵科でしたので、寝るも起きるも、すべて「総員起床五分前」のラッパの合図で釣床降ろし、釣床納め等です。数回一番後にでもなったら平手打ちを食らうのです。(p100)山上
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/18onketsu/O_18_099_1.pdf 

・・・昭和十四年六月海軍を志願し佐世保海兵団に入りました。
 海軍の一員となるや「早朝総員起こし五分前」に始まり起床以後、食事から休憩就寝に至るまで総て「五分前精神の涵養」でしたし(p368)櫨元
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/09onketsu/O_09_368_1.pdf

 いまでもフッと「ドンガメ」乗りのころを思い出すが、「急速潜航ベーント開け」「急速浮上メーンタンクブロー」、活気のある総員配置についた行動号令。人港用意、前部ハッチ開け、何事にも「五分前」精神は風化なく、今も懐かしい教訓である。(p142)
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/01onketsu/O_01_138_1.pdf

連帯責任
 翌年一月十日に呉海兵団に入団せよと通知がきました。私は海で泳いだことがないのに、海軍とは大変なことになったと思いました。・・・陸軍との差異は海軍には軍人精神打ち込み棒というものがあり、ちょうど野球のバットを大きくしたような木製の棒で、一人の失敗は全員の責任だと言って、連帯責任を負わされることでした。そのような事故、失敗者、守務違反者が出た時は全員の尻が精神打ち込み棒の洗礼を受けました。三打罰・五打罰といって力いっぱい叩かれました。(p341・342)片桐
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/10onketsu/O_10_340_1.pdf

 私は、昭和十七年志願兵として、九月一日、大竹海兵団(呉海兵団は満杯のため)に入団した。・・・少しでも過失があれば、連帯責任で、樫の棒(バット)で臀を古参兵に叩かれる。従って初年兵の我々の臀にはいつも紫色の「あざ」が消えることがない。(p389)池田
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/11onketsu/O_11_388_1.pdf

 昭和十七年六月十二日、教育召集令状が届けられ西部第五三部隊へ入隊したら、無線通信隊だった。・・・
 内務班に帰れば古兵から「お前達は昼間楽をしているから」と叩かれる。自分では納得出来ない、連帯責任だと叩かれる。しかし、可愛想に思ってくれる古兵もいて、内緒で菓子を食わせてくれた時は、本当に嬉しく今でも忘れられません。きつくされた兵隊、優しくしてくれた兵隊、ともに忘れられない。・・・他の者との連帯責任で、食事当番に間違ったら古兵ばかりでなく班長にもやられる。(p211・212)橋川

下級者が上級者の、後輩が先輩の世話
それから古年兵の銃剣の手入れ、軍靴の手入れと、これこそ初年兵の泣き場のひとときでした。特に北満の赤土は軍靴にくっついて離れず、これこそ初年兵の大きな苦労の種でした。(p21)堺

 十一月三十日、ルンガ沖海戦(夜戦)切り込み、艦砲射撃(ガ島輸送の駆逐艦八隻と敵有力部隊と交戦し、そのとき揚陸は不成功)のたたかいだったが、新兵は夜眠くても眠られぬし、うえの人の洗濯もしなければならない。(p407)渡辺http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/02onketsu/O_02_406_1.pdf

上級者の兵器及び被服の手入れ、洗濯などが全部完了した後で、自分の武具や被服の手入れです。(p205)小林

起床ラッパで起こされて営庭で点呼、天突き体操、厩舎へ突撃、軍馬の手入れ、寝藁の取替え等、目の回る忙しさ。総てが終わると、我々の朝食であり、この食事もだれよりも早く終わらせて、先輩の食器洗いや掃除などを済ませて演習という日課の連続でありました。(p42)小林

そして、新しい新兵が入ってくるまでの約一年間は、新兵は自分の戦友となった古兵の衣服の洗濯、軍靴の手入れ、銃剣の手入れ、食事の用意など一切の面倒をみることになるのです。ですから、古兵は本当に軍隊用語の「神様」で、新兵はただ古兵となる日を思いつつ一年間、じっと辛抱するのです。(p262)柏木

大別山作戦も終わり、昭和十八年一月十六日、本隊が帰って来たその日より毎日忙しい初年兵時代が始まりました。古兵の衣服の洗濯、食事の準備、後片付けと本来の任務以外に初年兵特有の仕事が山積し、それはそれは忙しい毎日で嫌になってしまいました。とても私には軍隊は向かないと思いました。(p28)吉田
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/13onketsu/O_13_027_1.pdf

昭和十八年一月十六日、大別山作戦より帰隊した戦友の衣服の洗濯、食事の世話、後片付けの繰り返しであった。・・・寒い間の江北作戦も終われば、三十一日に応山本部に帰着、馬の手入れ。翌日は古参兵の被服の洗濯、その夜は衛兵。体の弱い兵は皆病院行きです。(p66)吉田 http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/07onketsu/O_07_065_1.pd

 初年兵教育が終わり、十月に一等兵に進級しました。こうなればしめたものです。星一つの差は天と地の差です。テレビでよく見る入牢者の差別のようなものです。食事は上げ膳、据え膳、洗濯はいつの間にか初年兵がしていてくれる。一般世間とは全く異なった世界です。今考えると、いい習慣とは思いませんがね。(p260)西畑
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/06onketsu/O_06_260_1.pdf

 また、つらいことといえば、内務班(指揮班)のことでした。内務班はそれぞれの中隊の中枢でした。その業務については、古参兵は一切手を出しませんので、初年兵の私たちが三人程度で、兵器、軍靴の手入れ、班内の清掃、食事の世話、水汲みなどをし、とくに水汲みは、数百メートル隔てた井戸まで醤油ダルに釣り手を付け、それを天秤棒の前後に吊して、毎日五、六回汲みました。(p52)都築

大きなスコールがくるときは手あきの全員に洗濯用意の号令があり、新兵はとくに上官の身のまわり品からさきに洗濯にかかり、その後自分の物を洗う。大変なことであった。スコールのあと、上甲板の水取り清掃は毎日であった。艦隊生活の毎日は、この世の地獄のように思われた。(p224)鶴見

二年兵の戦友を一人受け持ち先輩のすべての面倒をみた。順番のことで初年兵の役目であった。(p200)末木
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/02onketsu/O_02_200_1.pdf

 内務班での教育も精神教育を通り越した初年兵泣かせの所でもありました。古年兵の洗濯や食事の世話なども義務付けられていました。(p199・200)
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/06onketsu/O_06_199_1.pdf

班付下士官が班長の他に十人もいて、飯上げの時は何回も下士官室を往復せねばならず、腰を下ろしてゆっくり飯を食う暇がなく、ようやく食べられる時には残りの食事も少なくなっていて、空腹を抱えて演習整列に駆け出すことは常時でした。(p439)石橋

そして教育演習や討伐から帰隊すると、初年兵は、われ先にと班長や助手の脚絆を解き、小銃、軍靴の手入れをしてやるものです。班長や助手はまるで神様扱いで楽でよろしかったでしょうが、初年兵にとっては大変な仕事でした。そして班内に戻れば、古参兵の銃の手入れから洗濯物を、そして自分の物と、まったく手が廻らぬ超多忙でありました。その為自分の銃の手入れや点検、被服の手入れなどには落ち度が出て来ることもあります。(p210)和田

教育が済めばまた内務班の勤務が続く。先輩殿の衣服を洗濯し、干し、演習から帰り、取りに行けば洗濯物は無い。盗られたのだ。それを上官殿に訴えると「馬鹿もん、ボサッとしとるけん盗られるのだ」と反ってどなりつけられる。(p200・201)小宮

演習が済むと、古参兵の靴四・五足を磨く。それが終われば洗濯だが、手が凍傷で痛い。今でもまだその跡が残っている。(p137)有門
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/08onketsu/O_08_137_1.pdf

 要領を本分とすべしの連中が大勢いて、班長、古兵と演習から帰ると、巻脚絆取りから、洗濯物まで先を競ってやったが、秋葉班長だけは何故か自身でやるか、私のみにやらせた。少しは他の者にも頼めば良いのにと思ったこともあったが、教育がそろそろ終わりに近い頃、班長はポツリと言われた。「日置お前は感心だ、誠意があって良い。他の者は員数で駄目だ。濯ぎが悪くって石鹸が残っておって靴下はぬるづく、下着は臭い、衿など特に残っておるでなあ」と。(p94)日置
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/05onketsu/O_05_087_1.pdf

初年兵は飯上げ、兵器の手入れ、古兵の身の廻りの世話などで大変である。生水を飲み下痢が続き、皆困り、入院兵も出る始末である。私は水を飲まず、煮沸湯を飲み、何とか倒れずにすんだ。戦闘教練には毎日気合が入り、厳しさが増し、毎日のごとくビンタがとぶ。兵隊と背嚢は叩けば叩くほど良くなると言い、教育された。(p87)小林http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/03onketsu/O_03_086_1.pdf

 入営したとき、軍隊とは、なんといっていいか言葉に言いつくせないところだと思った。「古参兵、戦友の面倒をみるように」と言われた。一班に二十二人、真中にオンドルがある部屋だった。片側に十一人か、そのなかに、神様などという一等兵(二〜三人しかいないが)がいて、班長の言うことも聞かぬ、いわゆる万年一等兵で、進級されない、その人たちが一番恐かった。(p420)渡辺

演習から帰ると班長、助手の巻脚半を取ってやり、靴下または下着の洗濯などをしてやらねばならない。へまをすれば全員の責任とされ、たちまち回りビンタである。責任を他人になすりつけたりすると青竹でたたかれ、その丸い竹も割れるほどたたかれたものだ。軍隊生活の中で忘れられないのが、この内務班のしごきであった。今思えば人間扱いではなく動物扱いの仕ぐさであった。(p103・104)大竹

教育、演習、討伐から帰隊すると、われわれ初年兵はわれ先にと奪い合って班長、助手の小銃を貰い、帯皮を貰い、巻脚絆を解き、軍衣袴のほこりを払い、「御苦労様でした。お疲れでしょう」と言っては班内へ帰って貰います。この模様は全国一律の麗しい情景であった。
 ところが班長や助手は楽でよろしいが、初年兵はもう大変である。上級者の兵器、被服の手入、食事、洗濯と自分のことまでは手が廻らぬ超多忙を極める。そのため時として兵器、被服の手入れなどに落ち度が出てくることもある。私が一度小銃の手入れに不都合がありました。(p282)加藤
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/05onketsu/O_05_280_1.pdf

 初年兵教育の一端を記すと、班長吉田陸軍伍長、起床号令と共に跳ね起き、服装を整え、寒風吹き荒む丘の上の広場に我れ先にと整列、この時の順番が後日の昇進に関わる。山脈の峰がようやく白み始めるころ祖国の空に向かって遥拝、点呼が終わると同時に班内へ帰る。早速、各自分の分担にて下士官室及び班内の掃除、飯上げには炊事場より食事を運ぶ。班長古年兵の分は何事にも優先し、洗面する間は無い。飯に汁をぶっ掛けて一気に食べる。(p250)

 夕刻、兵舎に戻ればさらにてんてんこ舞い、その忙しさは体験者のみ知るところ。一日中黄塵を被り、兵器、被服はもとより、顔から口の中まで砂でジャキジャキである。兵器、被服の手入、洗濯、飯上げ、さらに班長、古年兵の分も初年兵がやらなければならぬ。身体がいくらあっても足りない。(p251)岩崎

早く食事が終わったものが班長の膳を下げに行く。私は三度に一度は下げに行った。早く班長に顔を知ってもらうためだ。
 夕方になれば軍靴の手入れだ。これも班長、古年兵分と一人で三足ぐらい磨いた
。夜間の不寝番には三日に一度は立たされた。一日中休む暇とてない。休めるのは日曜日であるが、これも班長、古年兵の下着や私のものを洗濯して盗難防止のため乾くまで番をする。しかも操典を勉強しながらである。(p266)小椋

 軍隊にはこうした替え歌が沢山ありました。新兵と言えば入隊して一年間は家の事や兄弟の事など思い出す暇もないほど忙しく、初頭に書いたように、早飯、早糞、早駈けでなければとてもついて行くことはできなかったのです。これが、当時の軍隊の本当の姿であります。いかにして要領良く一日の業務をやり遂げるか、また如何にして勉強の時間をとるか、これは、人それぞれの考え方により異なりますが、とにかく、洗濯をする暇の無いほど忙しかったのです。
 これはあくまで初年兵に限ったことであり、二年兵や三年兵には当てはまらない。二年兵はモサと言って新しく入隊してくる新兵が、今までやっていたことを全てやってくれることになり、従って二年兵はすることがなくなり、唯モサーとしている事から、このモサと言う言葉が生まれたと聞いています。所謂二年兵になると神様のようになって、ただ箸を持って飯を食べるだけになってしまうのであり、後の事は全部新兵が女房役となって、下着まで洗濯をしてくれるので、戦友となった二年兵は、こうした事から神様と呼ばれるようになったのである。
 従って、古兵になると兵器から下着に至るまで新兵がやり、そのためにやることが無くなり、ただボサーッとしているしかないのである。こうした事はあくまで兵舎内に居る時だけで、演習や戦闘に出た場合は二年兵も三年兵もなく、あくまでも指揮官の指示に従って行動をしなくてはならない。かと言って軍隊は運隊とよく聞くが、そんなに旨い訳には行かない。忙しい中からもやはり暇を見て勉強をしなければ進級は難しいのであり、また上司からも認めて貰えない。(p571・572)堂前

 軍隊というところは、一日の生活合図がラッパである。起床ラッパから一日が始まり、食事、訓練、また演習、内務班に帰れば古参兵の世話、洗濯、靴磨き、銃の手入れ、食事の用意、食後の後片付け等、休む暇もなく立ち働かなげればならない。(p271)越智

各自毎日実施する事項
一 個人に貸与されている兵器の手入れ
二 襟、靴下の取り替え洗濯、編上靴及び営内靴の手入れ
以上の事は下士官の物も皆で手分けして行い、決して下士官に行わせてはならない(p246)阿部

早飯、早糞、早走り
 三歩以上は「駆け足」、上級者(どっち向いても皆上級者)には敬礼しなければなりません。初年兵はどこを向いても上級者ばかりですから敬礼の手が上りっぱなしです。(p415)上原

 従軍中の思い出は、まず、内地のことです。善通寺の輜重兵連隊では馬がいます。朝起床すると、食事の前に厩舎へ行き、両手いっぱいに藁を抱えて舎外へ出して天日に干して乾燥します。藁には昨日の馬糞の新しいのや、牝馬の出した血の交じった月のものの出しものやら、小便類と排泄物一切があります。手も服も汚れてきます。馬体の手入れもします。上等兵が「何をトロトロしているか! 早く飯を食って演習の支度をせんか!」と怒鳴ります。
 急いで水で手を洗い、服を掃除します。ところが時として水道が故障で水が出ないことがあります。哀れなこと、馬糞や汚物のついたままの汚れた手で、とにかく飯を食います。普通の食事ではなくて、ただもうがむしゃらに口の中へ押し込んでは飲み込む、一秒でも早く。口いっぱいに飯をホウ張って足には巻脚絆を巻き、軍装をしてできるだけ早く整列する。すべて三歩以上駆け足だ
 新兵はとにかく用事が多く忙しく競争である。整列も後尾の方になるとまた別の制裁がある。以上のような日常生活に男の魂が負けて脱走兵が出る。新兵を除く全連隊の人員総動員で探す。他の中隊の者に見付け出されない内に、脱走兵の出た中隊で発見しようと懸命である。捕らえるともう、まともに見ていられないくらいの制裁で、その上、営倉入り。この悲しい経歴は一生涯ついて回る。(p372)野田
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/08onketsu/O_08_371_1.pdf

 我々の任務は負傷者の収容、治療。・・・その間食事はおろか、煙草一本も吸えない。歩いていてはもどかしい、三歩以上は駆け足、止血している間に死亡する者もいる。(p356)森田
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/06onketsu/O_06_354_1.pdf

訓練は熾烈を極めた。然も凛冽の酷寒である。そして食缶洗いや洗濯の水の苦労は大変なものである。煙草一本吸う時間さえない、二個以上は整頓、三歩以上は駈足だ。(p46)須藤
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/04onketsu/O_04_045_1.pdf

早食い・早糞・早走り」は初年兵の必須条件だ。演習中の食事ときたら、有りっ丈のものを飯盒にぶち込んで、フォークでガァーッと口中へ押し込む。噛んでいたら暇がかかるし、早く腹がへる。これも戦闘間における給食の訓練である。初年兵は忙しい。たまに書く葉書一枚も消灯後便所へ行くふりをして、暗い電灯のなるべく近くを選んで、立ったままの走り書きである。(p243)畠嶋

翌十日朝、西部第八十四部隊の営庭は新入隊者の群で埋っていた。・・・ 第六中隊第五内務班は、歩兵・衛生兵の初年兵が約二十人、古兵は兵長殿はじめ二十五人位、合計四十五人程であった。朝礼、点呼、銃剣術、朝食、食缶返納、掃除、銃剣手入れ、通修整列、つまり、早飯、早糞、早走り、他の者より一秒でも早い者が勝ちである。朝食当番が飯・汁をつぎ終わり、週番上等兵殿が「よし」と合図がなければ食器に手をふれられないし、盛付けの多いのを注目している。 そのすきに、雑巾七枚のうち一枚を素早く軍衣の下にかくしおき、合図と同時に飯に汁をかけ一気に呑み込んだ。直ちに廊下を駈け足で雑巾がけ、折り返している時、二番手が五班を出発している。私は、五班到着と同時に「よーし、中島交替せよ」の掛け声で、ドロドロの雑巾を次の戦友に渡す。ホウキかバケツ、塵取り、何でも握っている者はよいが、手ぶらな者は古兵殿よりビンタが飛ぶ。 銃剣術の間、稽古も、木銃は充分あるが防具が七組だけで、防具取りの争奪戦はすさまじい。半分防具を付けていると、古兵より直突き一本でひっくり返され、起き上がれない程痛い目に会う。 ちょっとでよいから足りない防具を貸してもらい、型の訓練をしなければならない。ゆっくり着ていると、一人も居なくなり整列点呼が始まっている。このような行動により、機敏で、困苦に耐える兵隊が仕上がっていく。軍隊へ入った殆どの者が体験するのである。(p564・565)(p567)中島 http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/14onketsu/O_14_559_1.pdf

 隊内生活では、騎兵隊は起床、消灯時刻とも他の兵科より三十分ほど早くて遅い。馬を連れているからである。朝夕の点呼が終わると直ぐ厩へ走る。世話する馬も自分独りの馬だけでない。古兵、上等兵、班長、教官、隊長の馬と一人で数匹の馬をもつ。忙しいことこの上ない。三歩以上は常に駆け足である。朝一番に水をやる。次に餌、寝藁出し、馬体の手入れ、馬糧の受け取り等々。いつも駆け足だ。(p244)金子
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/07onketsu/O_07_243_1.pdf

居住区(兵舎)内でも三歩以上あるく時は駆足で行かねば何が飛んで来るかわからない。とにかく厳格です。これに耐えきらずに脱走した者も何人かいた。
 上等兵以上は雨具をもって整列の号令が出ると、また逃亡かと不思議におもった。(p408)中江
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/03onketsu/O_03_406_1.pdf

昭和十九年六月二日、私は高知市朝の西部第三十四部隊第二中隊第三班へ入隊を余儀なくされ、以来終戦、復員まで私は軍隊の消耗品となった。・・・ 入隊翌日から、六時起床に始まり、班内掃除、点呼、飯上げ等で、我々初年兵は「早駆け」で少しでもモタモタすると二・三年の古兵殿より過分なる手厚いおもてなしをたくさん頂いた。私は当時二十一・二歳だったので幾分は良いものの、三十余歳の戦友は大変な苦労だった。(p65・66)大西 http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/12onketsu/O_12_065_1.pdf

 私は昭和十六年徴集の現役兵として、昭和十七年二月一日篠山連隊へ集合して十日後に出発しました。その時、第六十八師団第五十七旅団第六十一大隊第三中隊より初年兵受領として軍曹が来てました。・・・初日一日だけお前ら内地から来たのだとお客様扱いされ、やれやれと思って寝た。翌日の起床のラッパで途端に大雷です。初年兵モタモタするな、支那風の厳しさを教えたると。何をするのも早駆けでやれと点呼の時からバンバンとビンタが飛んでくる有様です。整列が遅いと早駆け営庭五周と朝の一瞬にして全員度肝を抜かれました。(p187・189)嵯峨http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/01onketsu/O_01_187_1.pdf

数日後、役所から通知があり、「昭和十六年一月十日、近衛歩兵第一連隊に入隊すべし」でした。・・・

内務班・初年兵教育・第五カ条
第一 早めし・早がけ・早ぐそ
第二 軍隊は「メンコの数」食事の事で、長年勤務した者が一番偉い
第三 要領を旨とすべし、員数の確保
第四 地方弁不使用。大声の軍隊語で話する
第五 兵器、衣服は陛下からの預かり物だ。兵隊は一銭五厘(ハガキ一枚)の消耗品だと心得よ
 右の五ヶ条は、初年兵の最大厳守事項でした。(p506・507)吉田

第一に大声を出すこと、そして早飯と早糞だ。などなどで少しの時間的余裕もない、現地での初年兵教育でした。(p174)小川


盗みの横行、盗られたら盗り返せ
教育が済めばまた内務班の勤務が続く。先輩殿の衣服を洗濯し、干し、演習から帰り、取りに行けば洗濯物は無い。盗られたのだ。それを上官殿に訴えると「馬鹿もん、ボサッとしとるけん盗られるのだ」と反ってどなりつけられる。娑婆では人の物を盗った者が悪いのに、ここでは盗られた者がどなられる、困ったところだ。員数をつけるため自分も盗って来なければならない。員数員数の厳しきところである。(p200・201)小宮

 鏡第十三師団山砲兵第十九連隊の初年兵現地教育が始まった。アンペラの壁で土間の板の上で勉強し、カンテラの明かりで、朝鮮兵と共に、月月火水木金金の叩き込みの連日である。支給品は員数と言って、無くすれば戦友のものを盗んでも合わせなくてはならない。無二の親友でもあり泥棒同志でもあった。(p93)佐藤
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/06onketsu/O_06_092_1.pdf

 馬一頭に四人で、前足後足と責任を持って爪を切り、足合わせの金鉄を焼いて叩いて加工し、出来上がったら班長の検査を受けなければ部屋には戻れないし、食事も喰えず、次の馬を曳いて来てまた仕事にかからねばならない。釘は金靴の内側に二本、外側に三本、計五本で取り付けねばならない。中には釘を打って取り付けているうち右に左にと曲がり使用不能になると隣の相手の釘を盗んで来なければ自分の任務が果たせない。まるで泥棒の集まりのような職場でした
 軍隊と言うところは、支給された物品の員数観念が徹底していて、常に数だけは整えて置かなければならないと教育をされた。だから数が足りなくなったら、よその隊に行って盗んで来ても数を揃えると言うのである。
でも班長の身の廻りのことは誰もやらず、ひたすら自分の事で精いっぱいでした。
 釘が足りなくなるとやはり班長殿(浅見軍曹)にお願いすると「もし敵が目の前に来たら見て見ぬ振りをしてしまうのか」と、罰として真っ赤に焼けた蹄鉄を火箸で挾み、装蹄場を三回、熱をさまさず廻って来いとの事。夏の熱い時に上半身丸裸なので汗が流れ、そこに火花が飛んで軽い火傷、風呂に入っても体をこすることができない。(p233・234)小笠原


早く食事が終わったものが班長の膳を下げに行く。私は三度に一度は下げに行った。早く班長に顔を知ってもらうためだ。
 夕方になれば軍靴の手入れだ。これも班長、古年兵分と一人で三足ぐらい磨いた。夜間の不寝番には三日に一度は立たされた。一日中休む暇とてない。休めるのは日曜日であるが、これも班長、古年兵の下着や私のものを洗濯して盗難防止のため乾くまで番をする。しかも操典を勉強しながらである。(p266)小椋

 洗濯はたいたい夜の十時ごろからで、室内へ干しておくとよくぬすまれます。上級者のものをぬすまれるとまた(制裁を)やられる。
洗濯物をよくぬすまれたり、ぎゃくにぬすみかえしたりしましたが、海軍ではぬすんだ者をドロボーといい、ぬすまれた方をベラボーといったりしました。(p404・405)大山
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/02onketsu/O_02_402_1.pdf

前述の衣類のほか、丸首で後にボタン一つの下シャツと袴下、靴下などが支給され、これら身に付ける支給品には、すべて分隊名、兵籍番号、氏名などを墨字で書き入れておく。でも洗濯後、なぜかよく支給品が紛失するから不思議で、我々は員数確保が大変である。(p557)榊原
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/13onketsu/O_13_554_1.pdf

入隊前日の夕刻、二年先輩の吉田さんと私のために、松永坑長をはじめ六十人余の人々が、仕事の疲れも見せず、出征祝賀の酒宴を盛大に催して下さいました。
この席での話題は主として新兵時代の心得の指導でした。
一 軍人は要領を本分とすべし
二 発声は大きな声で
三 支給品は盗まれたら盗み返せ
と軍隊のOBは経験談を話してくれました。(p483)竹下

その外に洗濯物を盗まれるという苦労もありました。自分の物以外に古兵の物、班長の物いろいろです。靴下一枚無くなっても大変。周知のことながら、員数合わせは恐ろしいこと。
 盗まれたら盗み返せとは言いますが、皆盗まれぬよう警戒しているし、もし見つかればただでは済みません。あれやこれやの難関を乗り越え、悪条件を克服して行かねば。とにかく洗濯物では毎日必死の綱渡りの気分です。(p353・354)清水

営内生活で一番苦労したのは支給品の員数合わせである。軍靴がいつの間にか紛失していたのには本当に参った。これもビンタをもらって班長指導で解決。(p76)

 私は銃の手入れ器具の一つを手入れ終了後紛失したことがある。誰かが一緒に自分の袋の中に入れていると思ったけれど、その事の詮議はなく紛失したことを間抜けだと厳しく叱るのである。一度支給した物は二度とは支給しない、自分で工面して来いという。盗んで来いと言わんばかりである。・・・ある日入浴場で略帽を盗まれてしまった。上等兵の叱言を思い出し、早速工面して帰って来た。悪い事をしたと思いながら。兵器の手入れ器具は、後で班内の一人が二つ持っているからと言って渡してくれた。(p141)上津原
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/12onketsu/O_12_137_1.pdf

そのような厳しい十三日間の班内生活の中で頭に残っているのは掻っ払いが多いことです。夕刻に入浴に行くのですが、私の隣に寝ていた人も、二日目の晩に編上靴を盗まれてしまった。代わりがないかというと、自分の足に合わない靴が残っている。それを上官に話しますと、次の日にどこからか貰ってきてくれたと、こういう泥棒のやり取りです。こういう生活が甲府に入隊した十三日間でした。(p286)安藤

死の間際に天皇陛下万歳
(実際には天皇陛下万歳と言った者はいない、という主張が歴史修正主義者から出ているようなので、ここではあえてその事例だけ挙げる)
・・・三、四機のグラマンが飛び交い赤い曳光弾を発射し、盛んにこの器材小屋を目標に打ち込む搭乗者の顔がはっきり見えました。
 柄の無いスコップの取り合いをして自分の身辺に置く、頭や背中を負傷する者が増えて「天皇陛下万歳」の最後の声も聞こえます。「この攻撃がいつ終わるかと時間がとても長く感じられました。(p391・392)堀池・ミンダナオ

と私の腹の下からしぼり出すような声で「天皇陛下万歳」といっているようです。ハッとして下を見たか見ないかさだかではありませんが、一瞬のこと小塚上等兵の臀部は砲弾のため左半分ズボンごともぎ取られておりました。それでもうめき声で「天皇陛下万歳」を唱えています。「お母ちゃんとかおやじ…」とかの言葉はないのでしょうか、その当時としては当然の言葉かも知れません。私もこのような時期がきた時、いわなければと心の隅でチラッと思ったものです。が今体験文を書きながらあふれる涙をどうすることもできません。(p191)渡辺
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/04onketsu/O_04_185_1.pdf

その時、前方で「天皇陛下万歳」の声がした。しかし、その姿を確認することができなかったのです。私達の応射と手榴弾戦の中にあったからでした。・・・
 応援に来てくれた隊が、突撃をして敵を撃退してくれたのです。四囲には敵の死体や、不発手榴弾や、兵器なども散乱していました。私はすぐ前の陣地に走りました。そこに新村分隊長が倒れていたので「新村班長」と言って抱き起こしたけれど、既に名誉の戦死をとげておりました。先程のとげておりました。先程の最後の声だったわけです。
※よく「天皇陛下万歳」と唱えた人はいない「お母さん」だった。というけれども、新村班長をはじめ、何人かの人の「万歳」は現実に聞いていたし、実際に唱えた人が九死に一生を得て生還した実例は、我が部隊ではありました。(p380・381)大島
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/03onketsu/O_03_378_1.pdf

分隊長は私しの身体に覆い重なってきましたので分隊長と呼んだが返事がありません。やられたなと感じた瞬間、突然、上半身を起し両手を挙げて「天皇陛下万歳」と二回叫んで再び私の上に倒れてきました。私は悔しくて涙が流れ声も出ません。
 こうして何時間ぐらい経ったのか、私もぼんやり意識が戻り、途切れ途切れに思い出せるようになって周りも薄暗く、人影も分からなくなりました。そして何だか身体の上が重いのでよく見ると。分隊長が私の上で息途絶えていました。(p377)高橋・マレー半島

その戦闘で初めて「天皇陛下万歳」を三回唱えて、庄内の難波上等兵が戦死した。この耳ではっきり聞いた。(p277)小山田
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/04onketsu/O_04_275_1.pdf

まちまち生死をさまよう兵士、マラリアの熱病、水、水をくれの連呼、あの声、いまだに忘れ得ぬ。力尽き、「お母さん、お母さん!」、最期の声は「天皇陛下万歳!」と、かすり、やむ。嗚呼、軍人の哀れさよ、まぶたが涙で浸みる、死して護国の楯となる。(p356)福島・中国

中隊に二人しかいない衛生兵も走ってきて応急の手当てをしたが、その甲斐もなく、「お母さん、お母さん」と幾度か叫び、最後に苦しい息の下から「天皇陛下万歳」と叫んで壮烈な戦死を遂げたと、後になって聞いた。(p173)安達・バターン

私は星上等兵を抱きかかえ、「星しっかりしろ、頑張れよ」と勇気付ける以外はなかったのです。星は私に抱かれ悲痛な力のない声で「天皇陛下万歳!」としっかりした口唱〔ママ〕で二回絶叫し、三回目の「天皇陛下万歳!」はかすかな声と共に壮烈な戦死を遂げられたのでした。(p56)加藤・中国

指揮班の松尾上等兵が胸部貫通銃創。中隊長に抱かれて「やられてすみません……だんだん見えなくなりました……もう何も見えません」と虫の息。最後に声をふりしぼって「天皇陛下万歳!」と唱えて息絶えた。感激されてか中隊長は「よし、金鶏勲章だ」と大声で叫ばれた。(p308)川島・中国

このようにして私は無事帰ることができたのですが、上海から乗船した人が、帰る途中、船の上で「天皇陛下万歳」と叫んで海に飛び込んだ人がいました。軍人

薬莢など紛失厳禁
私は特に真面目にやっていたので認められていたようであったが、一期の検閲の時、薬莢を演習場に落としてしまった。その時、中隊長も一緒になって捜してくれた。本来なら、相当強く制裁されるのだが・・・(p137)和田

五月十日に久留米第一陸軍予備士官学校へ入学しました・・・演習で薬莢一つ亡失しても、広い演習場を這いずり廻されました。(p371)河村
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/05onketsu/O_05_370_1.pdf

いく日かたったある日、忘れもしない事故が発生した。二月中旬のころだったと思う。同僚の者が訓練中に三八式歩兵銃の一発の薬きょうを紛失したのだ。これを探すため一列横隊に並んで、薬きょうを雪の中へ足で踏んだものと判断して、雪を掻き分けながら探し続けたが見つけられなかった。時はもう夕方に入っており、手指は冷え切って真赤になり感覚はなくなりそうな状態だった。私は初めての苦い経験であり、なんと軍隊とはあんな小さな消耗品一つでも大事にしなければならないということをつくずく思いしらされた。(p57・58)平野

空砲の小銃弾十五発ずつを支給され、「これから夜間演習をする。終了後、空の薬やっ莢きようは必ず返納するため紛失しないように」と言われ、近くの演習場まで月明かりの雪原を行軍する。ゾクゾクして寒さで体が震え伏せたり、走ったり、匍ほ匐ふくしたり、その間に空砲を撃つ。東の空が白みがかったころ演習は終わり帰隊する。寒さと教練にくたくたに疲れた。空薬莢を返納したが、初年兵の一人が「十四発分返納が一発足りない」と、班長が怒り、古参兵はうんざりした顔をする。どうなるかと思った。他の班は解散となり、第二班はそのまま演習場に引返しました。朝食抜きです。一列横隊に並んで演習場の雪を両手でかき分けながら午前中探しましたが出てきません。寒さと睡眠不足と空腹、それに疲れが重なりフラフラになって隊に戻りました。やっと昼飯にありつけると思っていましたら、「班長以下全員食事なし」さすが午後の教練はなかったが、初年兵の自分たちは班の仕事や使役に駆り出されて、休むことができなかった。たった一発の空薬莢のためとはいえ、軍律は厳しかった。(p76・77)河村

擲弾筒で思い出すのは部品のリング(転輪)を落して、夕暮まで全員で捜すことを命ぜられたことであった。広い練兵場の中で、夕暮まで捜したが見付けることはできなかった。私はこれに懲りて面会にまた父に頼んでリングを作ってもらい、それからは常に予備を持つとともに、リングを二つずつ全部の擲弾筒についたことを思い出す。(p397)田上

軽機関銃の部品が紛失して、演習場を一列になって這って探させられた経験がありました。これも教育の一つの方法だったのです。(p241)手塚
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/07onketsu/O_07_239_1.pdf

新兵は古兵のお古
 入営した姫路の部隊は、第十師団歩兵第三十九連隊の留守部隊で、本隊は既に満州へ進駐していました。(p307)
 季節は二月。厳寒です。入営する時に着ていた私物の被服一式を脱いで、小包便で留守宅へ送り返す。新しい越中褌一つとなり、その上へ官物のジバン、コシタ、靴下を着用し、さらに軍衣(うわぎ)、軍袴(ズボン)を着る。すべて官給品であるが、新兵に与えられるものは古兵の着古した程度の悪いもの。乞食に近いもので、これでキッパリと娑婆と縁を切り、軍隊という別世界の人となった覚悟を否応無く自覚させられました。(p308)松本

 内地で受領した新品の被服は全部脱がされ、古いよれよれの物と取り替えられ、編上靴もピカピカの新品は取り上げられ、代わりに支給されたのは皮のザラザラの靴の中に釘が出ている古い靴でした。そこで毎日釘を叩いて、ひっこめて演習に参加していましたが、二週間位たつと左足の平と腿が腫れて痛くなり、大隊本部の医務室へ二週間の入室となって、漸く痛みもとれ退室して中隊へ帰りました。
 早速、班長から「気合が抜けている」とビンタの嵐でした。(p234)菅野

 衣服は下着まで全部お古。何人もの先輩が着たもので、袖の長いのもあれば、ズボンの短いのもあり、靴も大きさがピッタリなんていうことはあり得ない。自分の体に衣類を合わせて着るのではなく、衣類に自分の体を合わせるという。(p464)森

 福岡連隊での十日間ほどは、朝晩の点呼以外大した訓練もなかったが、私に困ったことが起きた。入隊のとき古い軍服と革の軍靴を支給されたが、兵営内の履は縄緒の下駄であった。(p138)上津原
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/12onketsu/O_12_137_1.pdf

私達、初年兵は、正月、部隊が帰って来た一月五日に正式に入隊しました。
 本隊が帰って来た時、その服装はボロボロでした。我々初年兵は支給されていた服を脱いで、ボロボロ服と交代、服も長靴も返納させられました。今度支給されたのは古い服で、修理したのや、血痕のあるものもありました。(p354)福島

 その日のうちに着ていた私物は全部脱ぎ、支給品と着替えて兵隊らしくなった。しかし、支給された軍服はよくもこれまで耐えられたと思われる明治時代の製品であった。この詰襟の服は毎日の演習による破れがひどく、夜になると針と糸を出しては慣れぬ手つきで繕わなくてはならなかった。そのうえ驚いたのは、初年兵には営内靴がなく、便所に行くのも裸足であった。便所から戻ると入口の水を入れた箱の中で足を洗い、横にある筵で足を拭くとそのまま毛布の中に入って寝ていた。(p396)田上


小銃(の菊の紋章)は命より大事
(関連 皇軍実態集 兵は消耗品、武器や馬の方が大事
 昭和二十年六月八日、陸軍部隊五百人ぐらいを乗船させて移動中、バンガ海で島陰に隠れていたイギリスの潜水艦が発射した魚雷が、右舷脇に四発命中し、船が横揺れしたと思った瞬間、火薬庫が爆発し、見る見る中に沈み始めました。さあ大変「救命具を海に投げ込め」「海へ飛び込め」の大騒ぎとなりました。
 ざぶんざぶんと海に飛び込む者、「退艦!退艦!」と呼ぶ者、その退艦の声に陸軍の兵隊達も銃を持ったまま海へ飛び込む。海軍の水兵達も次々と飛び込む。先に海に投げ込んだ救命具や救命筒に捕まり泳ぐ。・・・
 陸軍の兵隊たちは銃を握り、片手で器具に掴まり泳いでいるので、目に付いた兵隊には「銃を捨てなさい!自分が死ぬぞ!」と叫び、銃を捨てさせました。菊の紋章が付いている歩兵銃をしっかり持っている兵隊さんに頭が下がりました。(p423・424)佐藤

 早速、各連隊から敵潜水艦から発射される魚雷監視の見張りが交替でつくことになりました。我が中隊からは古年兵が指名され、初年兵は退避訓練が始まりました。驚いたことには、完全軍装で船底から縄梯子で船上に出ることでした。銃の扱いになれていない初年兵には重く、その上、安定もしない梯子を登るのだから大変でした。銃は菊のご紋章がついている兵器ですから、我々人間の命より大切な悲しい時代でした。毎日島影一つ見えない洋上を走行する船の中で厳しい訓練は続けられました。(p485)竹下

完全武装のまま飛び込む。何時間経ったのか、東の空も白々として来た。二十数人沈黙のままだ。海にただ浮いているだけ、助かるか死か、頭の中は何も浮かばない。夏とはいえ海の中では身体中が冷え切って感触もなくなる。ちょうど太陽が赤々と輝きを見せた頃、戦友の一人が船がこちらへ向かって来ると知らせた。もうこうなれば敵も味方も無い、ただ助かりたいという気持ちが先で、銃身に日の丸の旗をくくり必死に振った。幸い海軍の掃海艇であった。「ありがとう、ありがとう」と言うのだが声にならない。(p127・128)米重

 今回の撤収は軍人軍属だけ、兵器その他一切の持ち込みは禁止されていたので、陸軍の兵隊は本艦に乗り移る直前、持っていた三八式歩兵銃を両手で捧げ、拝むようにして海中に投棄する
 この光景を艦橋で見ていた艦長から、三八式歩兵銃だけは持ち込みを許すと命令が出た。この時は陸軍の兵隊とともに、目頭に涙を浮かべたものであった。(p428・429)掛下

昭和二十年九月中旬、米軍特使による停戦の通達があり「ホッと一息付きました」とこれが偽らざる心境でした。正式の終戦命令が発令され陣地を後に下山しました。米兵がニコニコと笑顔で迎えてくれるのが不思議なようでした。ただ命より大切に扱った「天皇陛下」から与えられし銃火器は米軍に子供の玩具のごとく取り扱われ足蹴りにされた時は、腹が立ち顔色が変わったと思いました。(p518・519)村田

 本隊追及の行動は依然として続く、八月二十日武昌付近で武装解除された。丸腰、無防備の状況で敵中の生活が始まった。各自所有の三八式又は九九式歩兵銃は、金物や銃剣などで完全に菊の御紋章を削り取らねばならぬ。妻や子供を銃後に残してきて、大陸の赤土に埋もれた戦友、兵器として命より大切な菊を削った。徴収した民家に住むとすぐに「宮城」の貼紙をして、目覚めには礼拝して毎日を励んできたのだ。(p96)佐藤http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/06onketsu/O_06_092_1.pdf

  二、価値観の倒錯
 中支藤部隊の当陽における師団通信隊の候補生教育は熾烈さの重なりであったが、いつしか一応の前線指揮者の卵として態様もやや整いつつあった。野外演習のある日、先任として豊川教官に命令受領のため「○○候補生、命令受領にまいりました」と直立不動で待機の瞬間、馬上の教官が手綱の操作を誤り、突如として馬がいななきと共に馬蹄を宙に上げて蹴りかかって来た。そのままの姿勢で居続けていたとしたら肋骨か顎の骨を粉砕して重傷はまぬがれぬところ。本能的にとっさの気転で手に持った銃で、ハッシと蹴りかかって来る馬蹄を、受け止めて難をのがれることをえたのだ。血の色を失った教官は、やおら馬から降り立つと「おそれ多くも、陛下から賜った銃を盾にして身を防いだ、その不届きは万死に値する」と豪語して抜刀の上白刀をかざして切り降ろさんとした
 部隊全員が息を飲み注視する中で、鉄誅を加えるというのだ。一瞬の後、教官の手が思い止まったので事なくしてすんだものだが、このことだけは戦時の真っ只中とはいえ、命に対する条理の倒錯に際限のない噴怒を今もって禁じ得ない。(p70)土網
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/07onketsu/O_07_069_1.pdf

 昭和十九年二月、第一海上護衛隊司令官の作戦指揮下に入りました。月日は忘れましたがバシー海峡で南方行きの船団護送中に、ある輸送船が雷撃され沈没したので救助に行きました。このバシー海峡は鮫が多いので有名な海で、早く救い上げないと鮫にやられてしまうので、浮かんでいる兵隊に向かって「銃が邪魔で助けにくいから放せ!」と怒鳴ったら、その兵隊が「この銃は自分の魂だから放せません」「お前はどこの兵隊だ」「自分は関東軍であります」と叫んで銃を差し上げて、とうとう終わりまで銃を抱いたままでした。幸いその兵隊は助かりましたが、陸軍の教育に感心させられました。(p496)梶本

 我々二十二名の二個分隊員は、私の指揮のもと一ノ谷から十三ノ谷までの山中へ入ったのですが、昼は敵の攻撃や空襲が激しいので薮の中にかくれ、夜行動するのでした。しかし、夜間山中を歩くので、兵隊の体が保てない。止むなく機関銃を分解して捨てようと、六分隊長に相談しましたが、彼は「陛下から預かった兵器は捨てぬ」という。私は「貴方は兵隊の苦労が分からぬのか」と反論し、「自分は自分で責任を取るから」と言って分解し、川の中ヘバラバラにして捨て、「貴方は持って行きなさい」といいました。
 第六分隊では二日間くらい機関銃を持って歩いていましたが、その後、「ああ言って悪かった」と言い、第六分隊の重機関銃も捨てました。そのとき、私は肚を決めていて、兵器を捨てたのだから、もし中隊と合流できたとき、銃殺刑になるのは確実と思っていました。我々は一ノ谷から直ちに十三ノ谷へは危険で行けないので、東側を抜けて山中に入りました。一カ月後に十三ノ谷で中隊長に追い着くことができました。私は兵器を破棄したので罰を受けると思って、拳銃を帯革に差していて、万一の時は中隊長と差し違えようとも思っていました。ところが中隊長から、二個分隊を置いて先行したことを自分から詫びられました。(p183)丸山

階級より在籍年数
 昭和十八年二月一日付で、一選抜の上等兵に進級しました。初年兵にとっては名誉なことですが、先輩や古参兵(中には札付きの万年古参兵もいる)をさしおいての進級はなかなか大変なものです。軍隊は「めんこの数」といって、階級より年数の多い方が幅をきかせる社会であるからです。そのような苦しみも味わいながら、我慢をしながら、訓練、勤務、討伐と日々を送っていました。(p258)山口

 一年が過ぎた。上等兵に進級した。この時ほど何よりも嬉しく思ったことはなかった。本部付として対外的には他部隊の兵や下士官と接触の機会を持つ私の立場としては、無理からぬ事と思っていただきたい。しかし上等兵の星も対外的、外出時には格好良いが、自分の部隊内にあっては古兵には全然通用しないものと、しみじみと味わされたものである。(p118)竹内

同年十二月一日付で西部第五十一部隊、姫路第十師団野砲兵連隊・第四中隊四班(中隊長片山中尉)に入隊。一〇センチ榴弾砲の挽馬部隊であっ
た。
「初年兵の心得五カ条」
第一 早めし、早がけ、早ぐそ
第二 要領を旨とすべし、員数の確保
第三 地方弁を使うな、そして大きな声
第四 軍馬は兵器、陛下からの預かりもの。兵隊は一銭五厘(ハガキ一枚)の消耗品だ。
第五 軍隊は、メンコの数(食事の事)
右五カ条を旨とすべし、だった。(p473・474)柏井

 軍隊は階級がものを言うところですが、同じ中隊内、同じ班内ですとこれが通らないところです。「軍隊は飯の数」とも言われています。上等兵が一等兵に文句を言われたり、将校が下士官に叱られたり、私的制裁を受けたりしていたことは常識になっていました。「やい、伍長殿と奉っていればいい気になりやがって大きな面をするな。貴様、何年メンコ飯を食ってきたというんだ」と、任官ホヤホヤの若い伍長に一発かませるという光景はよく見かけました。(p79・80)河村

 入営したとき、軍隊とは、なんといっていいか言葉に言いつくせないところだと思った。「古参兵、戦友の面倒をみるように」と言われた。一班に二十二人、真中にオンドルがある部屋だった。片側に十一人か、そのなかに、神様などという一等兵(二〜三人しかいないが)がいて、班長の言うことも聞かぬ、いわゆる万年一等兵で、進級されない、その人たちが一番恐かった。(p420)渡辺

 我々の隊は、あの有名なノモンハンの生き残りの隊だと聞かされ驚いた。我々の知る限りでは「ソ連軍と戦い壊滅された」筈で、星二つの四年兵、五年兵が数人おり上等兵や兵長より威張っている。「メンコ」の数がもの言うところが軍隊だなと思う。(p17)高橋

分隊の中に柴田上等兵と言う十三年兵がいて、位が上の村中伍長分隊長を「オイ村中、オイ村中」と呼び捨てにしているのには驚いた。(p305)

 私達初年兵も古参兵も皆、あの暑い桂林の被服のままで、柴田古参兵が主計少尉を呼んで「冬の衣類を兵站を廻って貰って来い」と叱りつけていました。ところが全部他の隊に取られて破れた外套とかで我々小隊を乞食部隊とののしられました。それでも汚い駄馬の荷台用に使った毛布を何枚か着せあって寒さをしのいだ。
 柴田十三年上等兵は物凄い見幕で文句を言っていた。軍隊と言う所は十三年以上の年数の兵隊は階級を物ともせず、命令的に物を言っても罰せられない所だと不思議に思いました。(p306・307)石田

南京の下士候隊卒業の新品伍長の週番下士官殿にとっつかまり、いまにもピンタの一歩手前、命の綱と頼む兵長さんが現われ、週番の伍長に「わしが連れて行った。お前文句あるか」で終わりました。階級は下でも年次が古い、軍隊とは不思議なところです。(p276)村上

 内務は階級よりも食事の飯の数がものを言う。三年兵が神様か、二年兵の兵長より三年兵の一等兵が幅をきかせるところ。勤務は階級、内務は飯の数それが当然とし存在するところである。下士官志願の任官者より古年兵が内務では顔が広い。(p263)信濃http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/19onketsu/O_19_259_1.pdf

 ここでは日曜日は休日である。自分は同じ部落から召集で入隊している鈴木五郎さんという人を探しに行った。第三中隊の内務班に入って行ったら窓際のベッドの上にいて「おお、よく来たな、こちらへ来い」と言って若い上等兵に「俺と同じ郷里から来た者だ。お前、酒係に行って饅頭を買って来い」と言い付けたのだ。鈴木さんは予備役でまだ一等兵であったが、軍隊というところは、兵のうちは、階級よりも一日でも早く入隊した者が上位だと言う。このようなことも初めて知った。(p100)大竹
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/12onketsu/O_12_096_1.pdf

軍隊は階級ではなく、メンコ(食事の数、年数)の数です。(p241)手塚
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/07onketsu/O_07_239_1.pdf

行軍しながら眠る
 昭和十七年五月作戦開始。杭州を起点として正面の敵である顧祝同指揮の中国軍を金華、蘭谿で約二個師を壊滅しましたが、ちょうど中支では雨季に入り雨の降らぬ日は五十日間のうち僅か九日間でした。したがって道路は水没し、一歩誤れば水死の危険がつきまとっていました。とくに夜間行軍の連続では歩きながら眠る訳ですから、うっかりすると道だと思って水たまりの中へ入り込んで、転んだら最後、誰も助けてくれません。「○○はいないか、どうした」という者もいないのです。疲労困憊の極みになると自分を守るだけで精いっぱいなのです。それに加えて雨のため補給は絶無、栄養失調と豪雨と炎暑とで倒れる者も多かったのです。(p264)田中

 広西省の仏印に近い辺境は日中は四〇度に近い猛暑であるが、夜間になるとさすがに気温も下がり冷気さえ感ずる涼しさである。昼間は休憩の度ごとの軍馬の水飼も、夜間はほとんど必要がなくなる。
 それとともに急に眠気が催してくる。歩きながら眠るということは平常は想像もできないことであるが、疲れきった状態の中では歩きながら眠ることができるのである。その場合の絶対の要件は、何かに掴まって歩くことである。それには馬である。馬のどこかに掴まって歩くことである。馬具の一端か、時には尻尾の一本であることもある。前方から行軍が止まる。馬も止まる。が眠りながら歩いている兵は馬の尻にぶつかって、ハッと目を覚ます。暗闇の中で苦笑しながらまた眠っている。(p82・83)井上

 昼は行軍、戦闘、夜は平均二〜三時間しか眠れない。靴下へ詰めた米は古兵のから使用するから新兵の装具はいつまでも軽くならない。砲手も馭兵も睡眠不足になやまされた。行軍中、行進が止まると、決まって前の馬の尻に頭をぶっつけて止まる。一歩、一歩足を運んでいる感覚はなくて、無意識に機械的に足を動かしているのですよ。
 或る時など、行軍で止まっていると付近の景色がだんだんと変わり、富士山が見え(私は毎日富士山を見て育ってきた)、故郷の兄や母の顔が見えた。なんでここにいるのかなと思ったら、「前進しているぞ、何をしているか」大声にハッとしたら、二〇人ぐらい前からみな止まっている。私も大声で前へ逓伝した。皆立ったまま居眠りをしていたのです。ですから、行軍中に敵と出くわさないか、なと期待する。戦闘が始まれば伏せられるからです。・・・なりふりかまわないで、一寸した時間でも腰を下ろして眠り、歩きながらも眠れるようになる。禁じられてはいるが、みな馬の尾をつかんで行軍するようになりました。(p239・240)小林

残飯あさり
初年兵の腹は乞食腹といって喰っても喰っても腹が空いてたまらないものですが……。飯盒の蓋に八分目しか飯がないのには参りましたね。仕方ないから早く食べて古兵や下士官のところへ行って「食器洗いに参りました」ということにして残飯にありつく有様でした。古兵に意地悪いのがいて、わざと残飯に水をかけておくのです。現地の生水は赤痢のもとですから生水は絶対の飲めません。恨めしげに水が引くのを待って上の方をさらって食べたことを思い出します。なぜ飯が小量なのかは後日判明しました。一期の検閲後、古兵と食糧受領の使役に出たのですが、船で運ばれてきた米袋を食糧庫にはこび込む時に古兵が、竹筒を米袋に突き刺して持参した乾パンの空袋に「ザー」と詰め込むではありませんか。古兵はその米を売って自分等の飲み喰いに使っていたのでした。(p426)長谷川

しかし訓練は一般兵の倍も三倍も厳しく、その訓練に加えて学習、精神教育、相次ぐ試験などで全く多忙だった。最も苦労したのは食糧で、若い兵隊にとって腹ぺコが一番辛い。動作の鈍い者は常に可哀想だ。恥ずかしい話だが班長の残飯や魚の骨等は初年兵にとっては歓迎された御馳走だった。(p219)山下

 初年兵には空腹はつきもの。いつもごろごろと雷のように腹が鳴る。飯上缶を洗いに行くのも役得の一つ。古兵が残す残飯が目当てである。洗い場まで行く間にきれいになっている。パンの耳なんかは食べ残ったらポケットの中へ遮二無二押し込んで持ち帰り、便所へ入って食ってしまうという案配である。
 ある時、炊事場裏の箱の中に残飯が盛り上がっているのを見つけ、手づかみでやっているところを週番兵に見つかり、強かにビンタを取られた。曰く「皇軍の体面を汚す」と。空腹に耐えるのも訓練の一つである。(p242・243)畠嶋

初年兵は演習や運動で腹がすく。与えられた給与だけでは足りないので古兵の残飯を頂く事もあった。(p263)信濃

 起床から消灯まで軍人勅諭、戦陣訓、歩兵操典の教育、それに教練、飯上げ、洗濯など班内の業務に走りながらの行動です。腹が空き古兵の残飯で助かりました。(p388)菅原

 部隊はこれまで少数の現役兵の部隊だったのですが、いわゆる「関特演」で大勢の召集兵が入ってきたわけです。そのため、準備も不十分だったのか半年ぐらいは食事も充分でなくて、戦友の中には厩使役に行って馬の主食の豆粕を割って食べ、日夕点呼の時、口から豆粕が飛び出して週番下士官に見つかり「馬の上まえをはねた」とビンタを受けることもありました。
 また、下士官の残飯などを奪い合う風景もしばしば見受けられました。そんな状態だったから、休日には必ず外出して、一週間分の不足をと、腹一杯食べて満足することもしばしばありましたが、日が経つにつれてそんなこともだんだんとなくなりました。(p285)相原

 現地入隊は同時に、戦闘訓練の猛練習が日夜続きます。百姓そだちで大麦飯を十分食ってそだった初年兵は、金の茶碗一杯の盛飯は、食後すぐ腹がすきますが、それ以外に一粒のおやつとてあたえられず、空腹をしのぎ古兵の残した残飯を犬畜生同様にあさり、我慢の連続でありました。夜、炊事のこげ飯や黒砂糖の固まりをぬすむ等、ずいぶん飢えには苦労しました。(p121・122)河原

 本日より大日本帝国軍人として張り切る。朝の起床ラッパで始まり、九時の消灯ラッパまで初年兵は忙しい。軍人勅諭、戦陣訓、歩兵操典、教練、飯上げ、洗濯と目が廻る。走り行動で気合が入る。よく腹が空き、古兵の残飯を手づかみで食すことなどがあった。(p87)小林

 一期の検閲までの三カ月間は例の通り昼夜を問わぬ猛訓練の連続でした。初年兵の腹は乞食腹といっていくら食べても食べるそばから腹が空いて、残飯を漁り、見つかってビンタを頂戴するパターンはどこでも同様でした。(p402)和田

 食事は各班ごとに決めてあり、当番も順番に回ってきました。上司の分は沢山盛りっけなくてはなりません。少ないときは「今日の当番は誰だ」と怒鳴られるので、皆食事当番になったら上司の分を多く盛り、自分の分は少なくなるのですが仕方がありません。寝ても覚めても「食いたい、食いたい」の一念でした。そのためか誰も彼もがだんだんと身体が弱ってしまい、ある者は残飯の中の物を拾って食べていたと聞きました。(p360)松島


日韓併合は植民地支配ではない、という嘘(3)

日韓併合は植民地支配ではない、という嘘(1)
日韓併合は植民地支配ではない、という嘘(2)
の続き

東京朝日新聞 1933.3.23 (昭和8) 
鮮米五十万石買上 
尚落勢続けば更に内地米買換

改正米穀法により政府は出回り期における植民地米就中の季節的内地市場殺到を防止しその流入の月別平均円滑化を計り内地米価の維持を行うべく
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大阪朝日新聞 1933.9.7 (昭和8)
植民地米の統制
米穀法の補強プラン
農相の態度注目さる
現在農林当局で考究されているプランは左の如きものである
・・・
一、植民地の生産統制ー朝鮮の増産計画を縮小し棉花を代作せしめ、台湾の水利計画を縮小し甘藷および甘蔗の代作を奨励すhttp://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00741881&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1&LANG=JA

神戸又新日報 1933.9.9 (昭和8) 
生産統制に均等論を主張す 
内外米の差別待遇は不可 
拓務首脳部の意見

従来の植民地殊に台の増殖計画を打切り、生産統制を行うことともなれば
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大阪朝日新聞 1933.9.10 (昭和8) 
外地米のみの統制は無意義 
今井田朝鮮政務総監言明 

植民地の生産統制問題は漸次具体化の傾向にあるに鑑み上京中の今井田朝鮮総督府政務総監は来週早々後藤農相を訪問してこれに対する農林省の方針を聴取するとともに朝鮮総督府としてはあくまで内地米と同一歩調をとる方針である旨を強調して農相の考慮を求め今後の対策につき種々協議することとなったが、
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大阪毎日新聞 1933.9.11(昭和8)
暴露せられた農業組織の矛盾
豊作飢饉の惧れに
効果危ぶまれる諸対策

豊作飢饉の言葉は昭和五年以来ここに再び繰り返えされることになった、そこで農林省自体さえ米価対策に生産の統制を持ち出した、すなわち内地における土地改良計画ならびに技術改良による品質改善などの補助奨励施設を全然打ち切り、積極的施設を明年度より見合わす方針だといいまた植民地米のためには鮮米増産計画を打ち切り、朝鮮では水田を棉に、台湾では甘藷、砂糖に転向させると発表した
 
大阪朝日新聞 1933.9.14 (昭和8) 
減段と併行して籾の貯蔵を奨励 
二大米穀非常時対策 
農林省で発表 

臨時米穀作付段別制限法の公布 
一、昭和九年度産米の需給を推算し来年度過剰米を目標に内地及び植民地を通じ六百万石を減産せしむることとし、台湾米は九年二期作及び十年一期作、内地及び朝鮮は九年産米につき減段せしむ
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国民新聞 1933.10.25 (昭和8) 
籾の貯蔵倉庫を六百五十設置 
府県一ヶ所案を変更

植民地の籾貯蔵 
対農林交渉方針決定す 
拓務省では曩に四相会議に於ける明年度一千万石の籾貯蔵案に基き植民地米貯蔵に関し、二十三日正午から拓務省に会議を開いた結果 
一、朝鮮の三百万石籾貯蔵は施設如何によっては実現可能なるも現在朝鮮の既設倉庫は九十万石の貯蔵能力を有し目下之等の倉庫は使用中であるから更に倉庫の新設を必要とする、
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大阪朝日新聞 1934.1.5 (昭和9) 
昭和八年度の国際収支 
貿易外収入は好調 
正金頭取 児玉謙次

もっともバランスにおいて前年の入超二千三百万円に比し、昨年は四千九百万円に上り、これに台湾、朝鮮の入超三千万円を加うれば、内地、植民地入超尻合計七千九百万円となり一昨年の六千七百万円に比すれば千二百万円の増加である
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大阪朝日新聞 1934.1.24 (昭和9) 
植民地米の統制 
議会で大波乱惹起の形勢 
拓相窮地に立つか

内地米価の割高のため生産費の低廉な植民地米殊に朝鮮はますます採算有利となって内地へ流入甚だしく
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中外商業新報 1934.2.8 (昭和9) 
共同管理法により植民地米を統制 
拓務首脳会議原案決定 

拓務省では対内的利害の調整を失わずして如何に植民地の米穀統制を実行するかに関し過般来全的努力を傾注し、これが具体案を考究しつつあり、五日右に関する本省並に朝鮮、台湾両総督府首脳部の連合協議を行うところあったが、
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台湾日日新報(新聞) 1934.3.7 (昭和9) 
帝国議会と台鮮等の利害 
外地の代表があって欲しい 

台湾や朝鮮等の外地の代表者が帝国議会に一人も議席を持っていないという事は、今日までも度々不便とされ不都合と考えられて来た。・・・かくの如くでは充分植民地の実情を天下に識らしめる事も不可能だし、特別会計予算の修正削除等に当っても現地の実情に適応せざる結果をも生ずる場合なしとしない。故に参政権という様な大ぎょうなものでなしに兎に角外地の実情や利害につき必要に応じて発言し得る植民地代表を議会へ送るの途を開きたい。
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満州日報 1934.3.20 (昭和9)
外地米案の帰趨に就て

現に昨年農林省が発表した減段案の如き、内地農業者の立場を主として起草されただけ、後者に取っては必ずしも苦痛でないが、朝鮮若くは台湾の如き植民地に於ては甚だ困る。元来が在来耕作物を廃止してまで米作を奨励され、その収穫物を内地市場に提供して生活に資した関係にある。

大阪朝日新聞 1934.4.12(昭和9)
本年の金買上量五千八百貫見当
全部納入に決定した六社の見込高


船主、造船側の船質改善案 改善協会に附議
船質改善案の延長如何はわが海運界の興廃に多大の関係あるものとして注意を払われているが過般船主協会対造船協会の連合委員会において決定した具体案は来る十八日の改善協会委員会を経て発表されるはずである、右の原案は大体左の如きものとなっている

一、新造船は総トン数四千トン以上とすること(船主協会案では逓信大臣の許可を得ば四千トン以下も可能となっているがこの附帯条項は削除、また造船協会案では当初一千トンまで認めたが四千トンに譲歩)
二、新造資格船は大連、台湾、朝鮮などの植民地籍船にも及ぼすこと(現行は内地籍船のみ)

報知新聞 1934.5.24 (昭和9) 
植民銀行の本領

我国の朝鮮銀行及び台湾銀行は右の主張に反して本店を植民地において居る
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国民新聞 1934.6.5-1934.11.3 (昭和9) 
電力界の功罪史 
動力国策と電気の必要性 
駒村

今日あらゆる商品が海上又は航空輸送によって国際的に流動交換をなし得る時代に、電気のみは各国相互間はおろか本州と朝鮮、台湾、樺太等植民地間とすら設備の共用、電力の融通、共にこれをなし得るの途がついて居らない
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大阪朝日新聞 1934.10.9-1934.10.12 (昭和9) 
統制法とこの頃の米界 
儘ならぬ相場の動き

今春の議会で政府の強硬な移入調節案に対して両総督府殊に朝鮮側は植民地農民の死活問題であると真向から反対して結局骨抜きの暫定案に落ついたものだ
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京城日報 1934.12.25(昭和9)
小運送の総合統制
自動車は統制準備工作時代
特記すべき朝鮮認識普及

植民地、原料国として朝鮮、宇垣総督の積極開発計画と満洲国の現出、オウターキー経済時代現出によってその包蔵する諸資源の開発機運を俄に進めてきたが、
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大阪時事新報 1935.2.23 (昭和10)
日銀の台鮮発行権回収は不可
長銭短銭

高橋蔵相は二十二日の赤字公債委員会で銀の発行権を将来日銀に回収する旨宣明しているが、これは余程考え物だと思う、・・・植民地の発行権を内地の中央銀行に回収統一して見たところで、証券制度としては安全な策かは知らぬが、植民地の開発とは別個の問題である。
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大阪朝日新聞 1935.2.24 (昭和10)
兌換券発行統一
日銀の統制力を拡大強化
きょうの話題

若し銀行券発行権が台、両銀行より日銀に回収されることになれば、従来兌換券発行による貸付を主な利潤の源泉としていた両行にとっては非常な傷手となるわけで、両行を植民地における普通銀行として存続せしむるためには、政府がこれに対し低利資金を融通するとか何とか代償を考慮する必要があるわけである
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大阪朝日新聞 1935.4.28(昭和10)
銀狂騰の旋風!
毎日のように正札の書きかえ素人迄が一かどの思惑屋気取
巷に描く種々相

ところが受入銀地金の内容は、従来は内地の地金屋さんが大声あげて全国から買い集めた各種の銀製装飾品とか台湾、朝鮮、南洋諸島など植民地方面の各種銀製装身具が大部分を占めていたが引き続く“銀高”の声に煽られてもうこれらの製品も国内では出尽したものかこのごろでは殆ど跡を絶ち袁世凱、孫文らの肖像の入った支那の大洋銀貨や光緒元贅の小洋銀貨が全体の九割も占めこれじゃ支那政府が銀流出に冷汗をかくのも無理はないといわれている

台湾日日新報(新聞) 1935.10.17 (昭和10)
台米の改善躍進を更に将来へ期待す
恵まれたる台湾と農業者
米穀会副会頭 法学博士 渡辺鉄蔵氏(談)

同じ植民地でも朝鮮はまだ一本立ちが出来ない、国庫から年々補助して来た、台湾は糖業政策が早く確立したので財政の独立を早めたとは云え天恵に加うるに官憲の指導は宜しきを得且つ官民の協力を以てし諸産業の躍進発展は洵に目覚しく今日記念博が展示するような盛況を招来し今更の如く燦然として光彩を放つ産業台湾の姿に驚く次第である
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大阪毎日新聞 1935.10.31 (昭和10)
強化拡充と自治権附与要望
洋灰連答申提出

植民地にも統制法を適用すること、朝鮮のごときは政治的には多少事情を異にするも経済的には何等内地との差異を認めず適用は当然である▲罰則を加重すること
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神戸新聞 1938.4.27(昭和13)
朝鮮と朝鮮人
わが綜合経済ブロックの一環内鮮一如徹底化へ

由来朝鮮は日満間に介在して日満鮮ブロック結成に重大な役割をもっているのであって、面積二十二万七百六十九方粁、帝国総面積(六十七万七千五百十四方粁)の三割三分、植民地面積の七四・八%を占め、人口二千二百八十九万九千人(昭和十年度)人口密度方粁百四人となっている。

大阪毎日新聞 1938.7.1(昭和13)
皮革使用制限は当然の帰結
原皮主要輸入先は支那

植民地からの移入は朝鮮が主で台湾は少量だがどちらもほとんど問題にならず内地需要の約六分、これでは焼け石に水の類である、しかも需要は年々増加の傾向にあり、供給はそれに伴わないので当然、原料皮の輸入が逐年増加することになる 

754 十八日から植民地にも適用 : 改正関税法と輸入従量税を : 但し朝鮮粟を除く

皇軍と右翼の結びつき

自衛隊と右翼(思想)の親密さが話題だが、旧日本軍も右翼ととても仲が良かった。あるいは軍人自身が右翼だった。

神戸新聞 1932.7.16 (昭和7)
軍部を中堅とする大ファッショ陣成る
愈よ国民指導の立場を獲得すべく近く綱領を発表、具体運動へ

世界的に捲き起ったファッショの嵐は我国においても対外硬化、農村問題、政党腐敗、財閥の不正行為、テロリズム等の問題を引っくるめて物凄く展開されて来たので既成右翼団体は素より全右翼大衆に呼びかける新ファッショ団体が右翼無産陣営中からさえ展開されるに至った、然るにこれが決定的中堅勢力をなしていると認められるいわゆる『軍部』方面においては却って鳴を鎮めている状態であったがその実この方面における潜行運動は驚くべき進展を見たものの如く、遂に表面化し尖端的にファッショの旗印を掲げて国民の指導的立場を獲得すべく愈よ運動を起すことに決定し実際の陣容を完成するに至った、この全日本大衆に呼びかける軍部方面の大ファッショ運動の出発こそ政界、財界、思想界に一大センセーションを捲き起すであろう

田中大将を中心に全国的に活動網
神戸にも支部設立準備進行
軍部首脳部も承認済

軍部関係方面から国民大衆に提唱せんとするファッショの陣容を見るに総帥としてその運動の中心をなすものに予備陸軍大将田中国重氏を推し、予後備佐官級の陸海軍首脳数十名を網羅してその左右に配置し、総本部を東京に置き大阪京都、神戸、名古屋、横浜、福岡広島、金沢、仙台、小樽の十ヶ所に大支部を設け更に他の主要都市に小支部を、町村には各班を配することになっている、右のうち東京の総本部はもちろん神戸その他の四ヶ所にも目下潜行的に設立準備を急いでいる、これら支部の組織は実に堅実を極めその附近における軍部関係者中で前途有為な府県市会議員を支部員とし、その他における在郷軍人団の中堅をこれに配して統一的に活動を行う仕組みである
田中国重大将はこの挙国的非常時に臨み時局匡救のため当然投げかけられるであろう世間の毀挙褒貶の責を一身に負う覚悟をもって毅然としてファッショ運動の旗印を以て全国民に呼びかける決意の下にすでに軍部首脳部の諒解を求むべく先般来両三回の交渉の結果軍部首脳部においては在郷軍人を中心とする愛国運動の熱意を承認するに至ったのでこの運動に着手したものである(写真は田中大将) [写真あり 省略]

三大綱領 議会政治を否認せず=既成政党打破=農民労働者救出 既に実行期に入る
この数日来その首脳部と指導部は荒木陸相、小磯次官と頻繁に往来して運動は既に実行の範囲に入り今日まで潜行的だったのが近く本格的に宣言綱領等の発表を見るはずでその三大綱領は左の如くである
一、議会を否認せず
一、既成政党打破
一、農民労働者の救出
右によると議会政治を否認するものではないが党弊百出の既成政党に対してはあくまで打破をもって進む方針であるから既成政党内はこれによって動揺を来し在郷軍人たるものはもとよりであるが可なりの脱党者を見るであろうと観測されている、またその綱領である農民労働者の生活救済はそのファッショ運動が在郷の将兵をもって根強く建設されることを物語るものでこの運動の大衆性に大きな期待がかけられている

石原産業社長も有力なる支持者
既成政党に大動揺か
この新運動が新日本の大衆に如何に反映するかは今後の進展に俟たねばならぬが予後備軍人らの共鳴はもちろんこれが新武士道精神によるので右翼思想団体を初め既成政党中の右翼派の参加は確実と見られ、既成政党の大動揺を免れざるものの如く運動にとって最も肝腎とされている財界方面においても海外にあって皇軍の庇護に感泣している在外事業家を初め内地の財的有力家にしてこの運動を援助するもの少からず神戸市海外通に本社を有つ石原産業海運株式会社社長石原広一郎氏の如きはその一人で氏は既に田中大将らとともに幹部の一人として陸軍首脳部と折衝を重ねあくまで之を援助するといわれている(写真石原広一郎氏) [写真あり 省略]

本部としては何等関知せず
帝国在郷軍人会 佐藤忍氏談
帝国在郷軍人会本部主軍佐藤忍氏は語る 在郷軍人がファッショ運動を起しているというようなことについては本部としては何等関知せずまた在郷軍人会の有志間に憂国の至情迸るところ世相不安一掃のため何等かの相談をしているかどうかと云うことも言明の限りでない、しかしこれだけは云える、在郷軍人はつねに国家社会の中堅をもって任じ国難に一身を挺するだけの覚悟と決心を十二分に有している、又一部の間には既成政党との関係をいかにも清算するかの如く考えているが要するに在郷軍人は出でては国家の干城であり、入りては忠良なる臣民として国家の御役にたつことを寸時も忘却しておらないことを断言する
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神戸新聞 1936.9.6 (昭和11)
現役軍人を中心に右翼大合同計画
注目される橋本大佐の活躍
建川中将らも支持す

去る二日社会大衆党が、条件附門戸開放を声明して以来、多年分裂抗争を続けて来たわが国の農民戦線も、社大系の全国農民組合を中心として全国的大合同を図り所謂人民戦線を強化して反ファッショ勢力の糾合を図りつつあるが、これに対抗して退役軍人による右翼の大合同が企図せられ、人民戦線に対する国民戦線の結成が急速に進展せんとする形勢にあることは注目に値する
右の国民戦線強化運動は八月の陸軍定期異動において待命となった前三島野戦重砲兵第二連隊長橋本欣五郎大佐が中心となって活躍し同大佐等は最近内務次官湯沢三千男氏及び社大党の亀井、麻生両氏を始め在郷軍人会方面の主要人物と屡々会見してこれが実現を企図しつつあり、橋本大佐と同時に待命となった前第二師団長建川美次中将等も右の運動を支援して居る模様である
この国民戦線の強化運動は労農協会及び全国農民組合等による人民戦線に対抗するを目的とせるは勿論であるが、従来五・一五および二・二六の両事件に於て現役軍人が国家改造運動の中枢として活動せることが独り軍秩を紊すのみならず、却って当初の目的に反するが如き結果となるに鑑み、合同せる右翼の大勢力を以て国家革新の実を挙げようと言うのがその主眼である 然し乍ら右運動の成果については成否二様の観察が下されて居り、成功すべしと見る方面に於ては、資金関係の整備と、中心人物たる橋本大佐が、三月事件並に十月事件の幕僚ファッショの中枢として大勢力を糾合し得た力量を挙げて居り、これに反してその成功を疑う方面に於ては、現在退役軍人を中心とする右翼団体には明倫会あり、皇道会あり、三六倶楽部があり、その他荒木大将、秦中将の一派があってその派別的対立は退役後極めて猛烈なものがあるのでこれ等の諸勢力を民間の右翼団体と共に合同せしむるとの困難さを挙げて居る
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報知新聞 1936.9.24 (昭和11)
昭和維新を目標に青年学生を糾合
全国で五十名を検挙

二十二日早暁を期して行った右翼の一斉大検挙は東京では神兵隊の獄外被告三十名、大アジア青年連盟、帝大七生社等より学生、青年等十数名、大阪で七名、茨城、群馬、長野、山梨の各県で各一名宛合計五十余名に上る全国的検挙で、中心の警視庁では特高第二課の係主任警部八名で直に取調べを開始したが、一斉大検挙の動因たる神兵隊獄外被告を中心とした前田虎雄、安田鉄之助中佐、影山正治、鈴木善一の諸氏が神兵隊蹶起の意志を継続し、あくまで昭和維新断行を目標に多数の青年、学生を非合法的に糾合したことに端を発していた、影山正治氏は麹町区飯田町に修養国体青年道場『維新寮』を設置、毎月五の日に二十数名の青年を集めて五の日会の催しをなし、その模様は厳粛のうちに神前礼拝と神兵隊の軍律綱領を朗読、次で神兵隊の幹部である安田中佐、鈴木善一の諸氏を講師に『生命奉還論』の訓話を聞くという物々しさ、ここに集まる青年学徒は二・二六事件で処刑された山口元大尉の主宰していたアジア青年連盟の青年と拓大、明大、中大等の学生で組織している大アジア学生連盟の学生で、一方日本橋浜町の神兵隊の寄宿舎には鈴木善一氏を中心に地方の青年を糾合していた、ここでは神兵隊検挙の行われた昭和七年八月十一日を記念して十一日会を組織し、毎月十一日集合してここでも昭和維新断行の『生命奉還論』論を論議していた、この二ヶ所へ集合する青年学徒のメンバーは、本年八月明徳会で開催した千葉県勝浦町の林間講習会に臨み、ここでも『生命奉還論』の訓話をきき二・二六事件処刑者の慰霊祭を行うなど当時から既に今回検挙の危機をはらんでいた、なお地方の検挙は既報の通り大阪の七名と茨城小池銀次郎(神兵隊被告)群馬未詳、長野吉川澄(神兵隊被告)山梨橋爪宗治(神兵隊被告)の十名であるが、この中修成寮の主宰者で元新日本国民同盟の水島完之氏を原宿署に留置したが老人で健康上釈放される筈http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10064724&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1&LANG=JA

件名
日本国粋大衆党首笹川良一氏に伊国陸軍大臣宛「メッセーヂ」托送の件
(大臣、次官等の押印有)

陸軍大臣より伊太利国陸軍大臣宛(軍務課経由)
書翰を以て啓上致候
日本国粋大衆党首笹川良一氏貴国訪問に際し同氏に托し本官の閣下に対する深甚なる敬意を表するを光栄の至に存候
笹川氏の本親善飛行は貴国訪問を目的とするものにして日本民間企ての嚆矢なることを特に強調致候
茲に本官は日伊両国並日伊両国陸軍の友好関係の益々緊密ならんことを希念し重ねて閣下に対し衷心より敬意を表し奉候
敬具
昭和十四年十二月二十三日
日本帝国陸軍大臣
陸軍大将 畑俊六
伊太利国陸軍大臣
ベニト、ムッソリーニ閣下
昭和十余年十二月二十一日(「野口」印)

アジア歴史資料センターhttp://www.jacar.go.jp
レファレンスコード C01001776100

盾津陸軍飛行場敷地及建物無償使用許可に関する件伺
昭和十五年九月十六日 大阪師団経理部長 桂巽
陸軍大臣 東条英機殿

昭和十三年二月七日陸普第六五七号指令に基き首題の敷地及建物を国粋義勇飛行隊長笹川良一に無償使用許可しある所本年九月三十日を以て期間満了引続き向ふ三年六ケ月間使用方願出ありたるに付前回同一条件を臥し許可し差支なきや指示相成度
 追て本件に関しては留守師団長に於ても同意に付申添ふ

アジア歴史資料センターhttp://www.jacar.go.jp
レファレンスコード C01002327600

※盾津飛行場について
1933年(昭和8年)に国粋大衆党(笹川良一総裁)の組織する「国粋義勇飛行隊」によって[1]民間人搭乗員養成用の「(財団法人)大阪防空飛行場」(発起人:笹川良一、藤本忠兵衛)として建設開始。1934年(昭和9年)2月に起工、9月に完成。同時に陸軍省・陸軍に寄贈され大阪陸軍飛行場として開業。盾津飛行場と呼ばれた[2]。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%BE%E6%B4%A5%E9%A3%9B%E8%A1%8C%E5%A0%B4


皇道挺身隊兵営宿泊状況に関する件報告
昭和拾年五月拾九日 第八師団長中村孝太郎
陸軍大臣林銑十郎殿
首題の件に関し憲兵隊より左記要旨の通報に接し師団に於て調査せし事項並処置別紙の通報告す

左記
一、管内右翼分子に依り結成せられたる皇道挺身隊は「石川観農社青年修養会」名義を以て兵営宿泊を計画し四月二十六日正午より二十八日迄二泊三日間歩兵第十七連隊に宿泊せり
二、此間軍事教練の外皇道挺身隊員の座談会を催したるが座談会中矯激なる言動ありて注意を要すべきものあり

別紙
皇道挺身隊歩兵第十七連隊兵営宿泊に冠する件報告
一、皇道挺身隊に就て
皇道挺身隊は「石川観農社青年修養会」の別名にして川原挺進隊の名称より本団体名を採りしものの如く其趣意書並守則付録第一、第二の如し
該団隊体は結成後日尚浅く其真状を観察すること能はざるも会員営内宿泊時の一般状態より観察せば善良真摯にして尚思想的団体と認め得ざるものあり
二、兵営宿泊の状況
付録第三の計画に基き石川観農社(秋田県の篤農家たりし故石川力之助の設立せる農事研究を主とせるもの)を中心として各地方代表青年を集め兵営宿泊を実施せんとし出願せしを以て連隊に於ては之を許可し将校二名、下士官、兵若干名を指導官として任命せり。而して四月二十六日午前十一時半幹部以下百十三名秋田駅前に集合し入隊したるが其大部は青年団、青訓服を著用したるも中には四十歳に過(?)ぎ農民、地方農会義手在郷軍人等を含有し何れも熱心に指導に従ひ四月二十八日正午過解散退営せり。
訓練事項は行事予定の如く第一日夜は乃木将軍の映画を視覧せしめ第二日午後の講演は友部国民高等学校長加藤完治の日本農民道に関する講演を連隊将校以下と共に聴講し又第二日夜は下士官集会所に於て座談会を開催せり。
兵営内に於ては毎朝勅諭奉読、遥拝、楠公の壁文暗誦等を真面目に実施して精神修養に努め又指導に従ひ軍事教練を熱心に実施し其効果相当大なるものありたるが如し。
三、座談会の状況に就て
座談会は県下各地方より集合し未だ相互一面識もなきもの多きを以て兵営宿泊の機会を利用し会員相互に意志の疎通を図り且指導を目的とし許可を得て富永中佐監督の下に実施せり。従ひて懇談は講話を主とし指導的に実施し併せて各自の意見を述べしめたるに席上稍々矯激なる意見を発表せしものありしも富永中佐は団員の心底を洞察する好機なりと認め某程度迄之を吐露せしめたる後之が誤れるを正し皇軍の本義を説示し之を指導せり。
座談会席上配布せる書類左の如し
書名  部数  作成者
核心(昭九、一一号)  一  核心社
皇道挺身隊守則  一  鈴木真洲雄
熟(解説書)  一  鈴木真洲雄
皇道挺身隊趣意書  一  鈴木真洲雄
連絡委員表  一  鈴木真洲雄
●●  一
改造対内案  一  不明
日本産業等の非常監察  一  富永良男
創生  一  創生会本部
大亜細亜青年  一  大亜細亜日本青年同盟
四、 地方に及ぼしたる反響に就て
1、会員の兵営宿泊に関し富永中佐は県知事、経済部長等を訪問し連絡せるに知事、部長等は会の精神及兵営宿泊に依る軍隊の指導誘掖と会員修養に関し賛意を表し経済部長は第二日午後の講演者加藤完治を兵営に伴ひ来り県農民の更生の為本団体の発展を冀望する旨述ぶるありたり。
然れ共県特高課等は本団体を右翼団体として密に内査を進めあるが如し。
2、地方民心に対しては好影響を与へたるものの如く爾後団員其他のものより兵営宿泊に関し幾多の感謝状を連隊に送り来れり。又各地に漸次修養団体として結成せられんとする趨勢に在るものの如し。
五、処置
1、此種地方団体の営内宿泊並営内に於ける会合の際の指導に関しては将来特に注意を周到ならしむ
2、旅団長並連隊長の報告に依れば富永中佐は思想的に注意を要すべきものを認めざるも将来思想上の容疑ある団体及人物との交渉等に関しては特に慎重ならしむる如く注意す。

付録第一、
皇道挺身隊趣意書
満洲事変以後の国際関係はまさしく非常時の雲行を見せてゐる。だが翻って国内を見れば生民は憔悴し菜色あり政党政治の信頼地を払ひ思想混沌として帰する所を知らない。
不幸にして此のまゝ外難至らばその結果や恐るべきである。今日の状態は恰も尊王倒幕、廃藩置県を断行し外難を突破せる明治維新の前●にも似まさしく歴史的瞬間を包蔵せり。
我等は此の危機に際し一刻の猶予なく内昭和維新を断行し国内を整備するにあらずんば外難に当ること能はずと信ずるものなり。
それ故に我等は真剣なる研究によりて日本更生の正道を発見しこれを唱道せざるべからず。
されども天下の大事は先づ己より始め己より治めよ。
我等同志の団結同行を画策し我等の住む町だけでも村だけでも正しく歩ましめんとす。
この主旨に従って自ら相集りたるもの即ち皇道挺身隊なり。
付録第二
皇道挺身隊員守則
(以下略)

アジア歴史資料センターhttp://www.jacar.go.jp
レファレンスコード C01004088800
 

戦前日本のユダヤ観




朝参密第六八五号
京城に於ける「フリーメーソン」状況に関する件
昭和十一年九月二十二日 朝鮮軍参謀長 佐枝義重
陸軍次官梅津美治郎殿

首題の件に関し朝鮮憲兵隊にて調査せる所別冊の如くなるも彼等目下に於ける活動状況に鑑み当分の内陰に充分なる警防査察の措置を●ずると共に右を端緒とし広く内鮮満に亘り更に深刻大規模なる調査を開始し以て有事の際に対する彼等秘密結社の陰謀企図を偵知し十分なる証拠を把握し将来適当なりと思惟せらるる時期に於て一網打尽的弾圧に出で得る様準備せんとす。憲兵に対しては其旨内示し置けり
右報告す

アジア歴史資料センター https://www.jacar.archives.go.jp
レファレンスコード C01004387800

満州日日新聞 1917.1.24-1917.3.1 (大正6) 
講和と対露貿易 (一〜十七) 
哈爾賓特派員 
南東

肛門芸当の密輸
だが大きな声ではいえないけれど実際はこの禁制品も猶太人と朝鮮人によりあ主として密輸出されて居るのだ、黄金板を巧みに脊広の裏に縫い附けたり砂金をばチョッキの脊中に匿したりするようなのは猶太人には常套手段で珍らしくは無い、金の小さな棒をば蝋で包装し恰も小さな蝋燭の如く仕拵え考えたりな処もあろうに肛門の中に押し込んで出て来たという朝鮮人もあるのだ、
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大阪朝日新聞 1917.1.30-1917.2.14 (大正6) 
露国の大陸的帝国主義 (一〜十二) 
君府領有問題 太田生

(但し猶太人に関しては、露国は特に法律を以て、その居住区域を限定して居るが、是は猶太民族の先天的民族性として、到底融和す可らざる性質を持って居るからである)。
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東京朝日新聞 1919.3.28-1919.4.22 (大正8)
露国潰裂の真相 (一〜二十五)
露国中将イ・トルマチョフ (一)

本日の紙上より掲載する「露国潰裂の真相」の筆者イ・トルマチョフ将軍は、露国の崩壊と共に避難し来りて、目下我国に滞在する露国の愛国者であるが、・・・

新に国事犯者
是に反して今まで皇帝に忠義を守って居った悉くの帝政主義者は、皆新しき国事犯者とせられ、其多くは今度の革命の際に殺害せられ、或は残酷なる迫害を受け、枢要な位置にあった官吏は何れも捕縛投獄せられて非常な虐待を受けた、露都には労兵会の主唱にて特別調査委員なる者が設けられ、帝政時代の高官の往時に於ける所為を調査した、此委員会は此高官を裁判に附する程の証拠を発見するを得ずして、只此人々に関しての世間の風説などを集めたに過ぎなかった、而して特別調査委員会の補助機関となったものは、自由勝手に判検事の権を掌握した或者共の団体であった、彼等は敢て法律に依らずに勝手に捜索、拘留、拷問を執行した、此機関の重なる主動者となった者は猶太人にて、彼等は今露西亜人に対する宿年の怨を消遣さんために純露西亜人を苦めんと欲して、政権を其掌中に掌握せんとした者共である
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大阪朝日新聞 1919.4.19-1919.4.29 (大正8) 
露国革命の回顧 (一〜一〇) 
露国 イ・トルマチョフ

露都には労兵会の主唱にて特別調査委員なる者が設けられ、帝政時代の高官の往時に於ける所為を調査した此委員会は此高官を裁判に附する程の証拠を発見するを得ずして、唯此人々に関しての世間の風説などを集めたに過ぎなかった、而して特別調査委員会の補助機関となったものは、自由勝手に判検事の権を掌握した或者共の団体であった、彼等は敢て法律に依らずに勝手に捜索、拘留、拷問を執行した、此機関の重なる主動者となった者は猶太人にて、彼等は今露西亜人に対する宿年の怨を晴らさんために純露西亜人を苦めんと欲して、政権を其掌中に掌握せんとした者共である
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報知新聞 1928.4.28 (昭和3)
ソヴィエト露国と日本の労働運動

労農ロシアのヴォルシュビッキの遣方は丁度漁夫が餌を撒いて、いろいろな魚を集め一網打尽に捕獲し生簀に飼いおき今頃はボチボチ引上げて大きいのは二枚におろし小魚やアラはフライか煮込みにしてスラブ族でない猶太族の赤鬼達が舌鼓を打ってむさぼり食っているような状態である。・・・ソヴィエト露国の最高執政官以下、カミッサール(地方代表委員)等□要なる地位は、極少数のスラブ族の外殆ど猶太人に依て占有され彼等が掠奪したる帝政時代の国有財産及びブルジョワ階級の財宝を私用に供し豪奢なる王侯の生活を営んでいるに比べ、革命勃発頭初よりお先棒となり第一線に働いた労働者、農民等は一寸考えると今頃は財産を平等に分けて貰って何不自由なく呑気な境遇に在るかの如くに日本のカブレ者やナマケ者は信じているかも知れないが事実は非常なる懸隔がある。・・・労農露国空前の大革命に功労ありし多くのスラブ族の労働者、兵卒、農民等の中より抜擢されて枢要の地位を与えられた者も無いではなかったが、彼の猶太人又は猶太系の露人に比しては九牛の一毛というも敢て誇張でない。
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時事新報 1932.3.10-1932.3.13 (昭和7) 
惑星ユダヤ人の動き金権の世界支配人 
文明批評 
安江仙弘 

世界のあらゆる革命にユダヤ人の関係しないものはない。また"Unseen Empire of Finance"‐見えざる金融帝国‐としてのユダヤ人の世界的活躍は夙に世人の駭目する所である。その人口一千五百四十六万人、世界に散在し、日本にも一千人内外は安住するそうであるが、いまや有力国家の政治、外交の裏面にも、その活動の手は延びつつある。本稿の筆者は、曽て『世界革命を暴く』を著わしたユダヤ人研究の権威である。 

「世界の富は汝のものなり」と、猶太聖典が猶太人に教えて居る通り猶太人と金は附きものである。 昔から世界商業の中心は猶太人と共に移動したと云われて居る即ちそれは猶太人が西班牙で、圧迫なしに自由な生活をして居った時代には、西班牙は世界金融界の中心であったが、十五世記の末葉、西班牙が猶太人を逐放するに及び同国は財政上の覇権を失い、遂に之を回復する事が出来なかった。
欧洲の経済史を研究するものは何故に商業の中心点が、西班牙から伊太利、和蘭、英国、独逸と逐次に北方の国々に移ったかと云う疑問を持つが、此の疑問は猶太人が南方から遂われて北方へ逃げたことを語るのである。ユダヤ人の移動即ち商業中心移動に外ならないのだ

即ち事実に於て猶太人が他に移動せねばならなくなった時には金融上の世界中心点が移動する時である。巴里、伯林、フランクフルト、ハンブルグに於ては、猶太人は株式取引所に絶大の勢力を振った。有名な英蘭銀行は和蘭から移住した猶太人の意見と援助とによって設立されたものであり世界の金融を支配した倫敦の取引所は其の死活の鍵は全然猶太人に握られて居る所で、紐育の取引所も亦其の内部には猶太人が莫大の勢力を振って居ると云う事である。
そもそも株式取引所と云うのは、猶太人によって発明されたもので、株式会社なるものも亦猶太人によって創始されたものである尚お公債証書、為替、小切手、デパートメントストーア等は皆猶太人の財的才能の発明である。それはさて置き先年私が土耳其に行った時、土耳其人は『金持の猶太人は世界大戦の始まる前、未だ土耳其人が戦争に就て何も知らない中に、其の全財産を皆金貨に換え、仏蘭西に移動してしまった』といって憤慨して居た。
近くは、昨日迄世界の黄金国であった英国の金庫が、近頃がらあきになり、金本位停止に迄至ったが、それでは此の英国の金貨は何処へ行ったのであろうかと、一方を眺むれば、今仏蘭西の国庫には七百億フランの金貨がうなって居ると云う。
世界大戦に因って疲弊その極に達し僅か数年前まで非常な財政難で苦しんだ此の仏蘭西が、茲数年の間に、斯くまで富力を増大したのは猶太人が英国や独逸に見切りをつけて仏蘭西に移動した結果である。
彼等の移動と同時に倫敦や伯林の金貨が吐き出されて、仏蘭西に集まったものであると云うから金権猶太人は其の国の繁栄と黄金高とを計るバロメーターに相違あるまい。現に世界の富の半以上は猶太人の所有にかかり、世界商業利得の二分の一は日々猶太人の懐に入って行くとは、既に数年前大猶太新聞たるハースト系新聞に発表された事がある

昔から猶太人は国際的金融業者として知られて居る。殊に十九世紀の頃は、欧洲諸国の帝王は、猶太人に相談なしには戦争は出来なかった。
日本に於ても日露戦争の時、遼陽会戦以後の戦闘は、米国猶太富豪ヤコブ シッフが五億の外債を一手に引き受けたことによって継続されたことは皆人の知る所である。
それで欧洲諸国の政府が金の入用な場合先ず猶太人に相談した、其の相談を受けた猶太人は自分の手元で其の金の出来ない時には、財界の中心地又は他国の首府にある一味猶太人と連絡し直に金を融通した。
又甲政府が乙政府に負債を支払おうとする場合には、猶太人は昔から易々として之を引き受け、彼等が一片の証書を送附することに依って、全負債は直に乙首府の銀行で支払われた。斯くて今日に於ては猶太一族による銀行組織は、網の目の様に地球表面に張り渡さるるに至った。

ユダヤ人の財界に把持する勢力は単に金融方面許りではなく、世界のめぼしい有らゆる事業に及んで居る。 例えば宝石類の取引は殆ど猶太人の独占である、殊にダイヤモンドは其の発掘より加工販売に至る迄全然猶太人の経営である。又有名なアラスカの大金鉱は勿論米国の領土ではあるが、事実は米国のものではなく猶太人に関するものだとさえいわれて居る。金鉱といえば今まで一番猶太人を圧迫したといわれる露国の大金鉱の持主は大抵猶太人であった。
又沿海州やジャライノールの炭鉱は今哈爾賓で第一の富豪スケデルスキーという猶太人の経営であった。

世界の大資本国弗の亜米利加に於ける猶太金権の勢力はいうまでもないことであるが、米国の今日の富力は世界大戦の結果であって其の戦争成金の七十三パーセントは猶太人の占むる所であることから考えても、其の米国財界に於ける勢力は窺われるのである。
其の活動方面は銀行、金貨、公債債券業、宝石類、デパート等は申すに及ばず我々日本人に直接関係ある活動写真工業、新聞通信、運送業、製糖業、煙草工業毛皮、棉花取引、穀物取引等は全然猶太人の独占業である。又缶詰業の五割余も既に其の掌中に帰し、特に農産物の取引には驚くべき怪腕を振って居る。
現在亜米利加の農家は猶太人仲買には悲鳴をあげて居るが、如何とも致し方ない現況である。猶太仲買人が農民間に介在して、其の利益を独占し問題を起した例は波蘭にもある。波蘭は初め西暦一三三三年カジミル大帝が大いにユダヤ人を歓迎入国せしむることによって、波蘭の商業を隆盛ならしめんとした所に発するが、猶太人は商業方面のみならず、之と共に農産物の方面に逐次勢力を伸長し、遂には波蘭の農産物の利益は挙げて猶太人の手に帰して了った。
之が為め波蘭の一部保守党は猶太人排斥の必要を認め、農民間に特別のコーペラティーフを作り対猶太ボイコットを為し、猶太仲買人の農産物の利益独占防止に努めた程であった。

さて翻って極東に於て一昨年来支那の銀が大暴落を来し、我が国でも満鉄あたりが非常の傷手を負い、財界の大問題であった。この時、銀専門家の研究によると、此の銀の暴落は周期的自然現象でなく人為的であり、而してこの人為的大作用は紐育猶太人の画策であるとのことであった。紐育といえば亜米利加猶太人の中心で、猶太人は約二百万、彼等自ら新エルサレムと称し、猶太金権の大根拠地である。
欧洲諸国の猶太金権の勢力は大は英仏より小は巴爾幹の小国に至る迄、其の富の大部は猶太人の手中にあると見て支障はないであろう。而して其の活動方面は米国と大同小異である。独逸は米国と反対に世界大戦の敗戦国であるが、此の戦争で独逸猶太人の富力は戦前に倍加し、独逸全財産の七十五パーセントを占むるに至ったという。
又同じく敗戦国土耳其は、世界で最も貧乏な猶太人を収容して居ると称せられて居るが、それでも土耳其人と猶太人一人との資本の割合は一に対し一、〇〇〇の割合で、君府商業の中心地スタンブールの市場は僅に四人の猶太人資本で動いて居る。

昔から地獄の沙汰も金次第というが、金は力の凡てでなくとも、大半の力である。斯くて事毎にある点までは金が物をいう。猶太金権の勢力が各国の政治、外交其の他有らゆる方面に如何に作用しつつあるか、恐らく想像以上であろう。従ってこの作用が我が日東帝国に大影響なしと何人が断言し得よう。

欧米の猶太金権に就いては以上に依って、其の概念は得らるることと思う。序であるから東洋方面の猶太金権に就て少しく述べて見よう。
支那貿易の中心で国際都市たる上海は、目下日支の戦場と化しその為め国際連盟や米国は、支那の暴虐を棚に上げて、日本にのみ文句を付けた。而してこの国際市場は今迄政治的にも経済的にも英国の延長であるかの如く思惟されて居った。 即ち上海の土地家屋の殆ど大部は英国人の所有であり、工部局も市参事会も英国の勢力下にあり、勿論貿易高も列強中第一位を占めて居る。併し之は皮相の観察である。之を仔細に観察する時は、それはアングロサクソンならぬ猶太人であることに驚くであろう。(つづく) 

上海に於けるユダヤ人の権力を第一に語るものは、共同租界の行政長官たる工部局長が、猶太人フェッセンデン氏である一事である。更に又数億の富を擁し上海の有らゆる方面に絶大の勢力を有する大富豪は、一番から五番迄ハードン、カドウリ、エヅラ、サスン、ジョセッフ等の猶太人である。
彼の南京路の大通りの大部分はハードン氏一人の所有であるのだ。尚お米国、独逸、波蘭、露西亜等に国籍を有する上海猶太人の各方面の勢力は実に偉大なるものがある。内面的に斯く観察すれば上海は英国の延長と考えるより『猶太人の上海』といった方が適当であろう
又彼等はこの上海を中心に漢口に天津に不動の根拠を据て居ることは見遁すべからざることである。上海セントジョンス大学教授ナイト博士は嘆じて『今や支那に於ける英国は共産党よりも寧ろ如何にして支那より猶太勢力を排除せんかが問題なり』と叫んだ。支那に於ける猶太金権の勢力は此の一言で尽きるではあるまいか。今や満蒙の権益は漸く我が手に帰せんとして居るが、此の満蒙を初め北支一帯から産出する毛皮類、羊毛、カシミヤ其の他革類の輸出は満洲、哈爾賓、天津等の猶太人の手に依って行われて居るのである。

今日迄支那本土に於ける経済的外国勢力は、英国に次いでは日本であるが、外国勢力の主力は猶太勢力である以上、日本が支那から駆逐された時、其の経済的勢力は自ら猶太人の掌中に収めらるるは当然だ。
然るに一方現下の満蒙及上海問題がジュネーヴに於て非常な難局に立ち、特に国際連盟の対日本の立役者がレーヂング卿、現外相サイモン、連盟事務総長ドラモンド等の猶太人であり、且つ又在支の活動者は彼のライヒマン博士、フエッセンデン、ランプソン等の猶太人であることに想到し、而して「猶太人の同胞は英国人にあらず猶太人なり」ということを考えたならば感想果して如何
目下上海事件に就て、英国人は支那に対する日本軍の徹底的膺懲を切望し、又一方英国サイモン外相を初め連盟側が、支那の暴虐を差し置き日本に対してのみ、横車を押しつつある奇現象に就て人々は或る一種の感想を起さずには居られまいと思う

序に革命について一言して置くことは今日の必要事であろう。革命に就ては猶太人は二千年来の研究者であり又実行者である。
事実に於て仏蘭西大革命を初めとし、世界大戦後の欧洲諸国の革命と云う革命に、猶太人の参加しないものがあったか?露国の革命に続いて独逸大帝国の崩壊、洪牙利の革命、土耳其の青年土耳其党の革命にさえ、猶太人の活動目醒しきものがある。
露西亜革命は実に猶太人の御蔭で成功したのだ。トロキー、ジュノウィエフ、ヨッフェは、何れもユダヤ人で、ロシアの共産党の緻密な組織は皆是等の猶太人が作ってやったのだ。日本人には勿論革命は罪悪だが、猶太人には罪悪でない、寧ろ彼等の使命であるのだ。猶太民族の中からマルクスが生れラサールが生じ、リーブクネヒトが出で、ベラクンがとび出すのも無理はない。

今の所謂共産主義は猶太族の産物だ、露西亜の産物ではない。露国の革命以前既に一八八〇年代猶太人が故国パレスタインに帰還し始むると同時にユデヤの地バレスタインにはエンハロードとか、ダガニヤとか十数個の共産村が生れ、此等の村々では現に理想的共産を実施して居る。而して真の共産を実行し得るは宗教民族たる猶太人以外には絶対に出来まい。特に自己の義務を忘れて権利許りを主張し、節制を排して自由のみを求め、而も放縦を以て自由と心得て居るような人々には共産生活は三日と出来ないであろう。
今や世界に分散する猶太民族は挙げて猶太国の建設に努力し、現にカナンの地にはシオン団の本部があって、国際連盟公認の下に着着建国の基礎を固めて居る。而してこの革命児猶太民族中、自己の国家に対し革命をなさんとした馬鹿者は一名もなく、又現猶太国パレスタインには、赤露の破壊主義者の一名も居ない事を銘記せねばならない。 近時我が国に於て革命を志す人達よ。同じく猶太人に倣うなら、世界の金権の方を願いたいものである。
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時事新報 1936.6.25 (昭和11)
フリーメーソンへの挑戦
世界最大秘密結社の非常時
横浜で仮面脱ぐ?
県当局遂に上京し重大なる打合せ [写真あり 省略]

【横浜電話】 フランス革命、ロシヤ革命、欧洲大戦其他幾多の重大な世界的事件の背後に暗躍し、国際連盟の日支交渉にも潜在的勢力を振ったといわれる怪奇の団体—世界最大秘密結社「フリーメーソン」の存在に対し我が警察当局は従来何等手をふれなかったが国際関係急迫し非常時を叫ばれている折柄此種団体の活動については十分なる研究考慮の下に適正善処するの必要を認めた神奈川県外事課では横浜に多数外人結社員の居住往来する関係から秘密裏に内定を進めた所意外なる事実が続々現われるに至ったが、フリーメーソンに対しては明治三十年外務省が手を触れぬ公約を結んだといわれ、団体が団体だけに核心にふれるには慎重に事を運ぶ必要があるので鈴木欧米係長等は数日前内務省警保局及警視庁外事課を訪い、フリーメーソン今後の取扱いについて重要な打合せを為し連絡をとって帰県した従来取締りの対象とならなかった同結社に対し断乎たる態度に出れば其奇怪なる全貌と組織は世界の驚異となって現れるであろう 外務当局語る 右について外務省情報部佐藤第一課長は語る『フリーメーソンの本部は米国に在る、結社員は大部分がユダヤのもので日本人でも在外居留民には加盟しているものもあるらしいが、その数は判然せぬ、国際的な結社であるだけにその動向は注目に価するが、帝国の国是に反する様な事実があれば遠慮無く摘発する方針だ、最近憲兵隊その他からフリーメーソンの実体、動向等に関する照会が増加している、神奈川県外事課で手を付けると云う話は未だ聞いていない』
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大阪毎日新聞 1938.2.17 (昭和13)
電力国家管理案の法制上の疑義に就て憲法の精神に反せざるや
電力国家管理案の再批判 慎重を要する私産の収用

逓相の誤算は猶太人の好餌
一億五千万円の唯奉公
もう一つは、本案の強行に因って五大電力会社の外債が信託証書違反の事実を以て期限の利益を失わしめられて元利金回収の手段に出られるとすると、外債の償還金額は額面に依るから現在の市価との差額を唯損することになる。例えば紐育相場(二月二日)東電六分利社債五十四弗1/4のものを利に敏い紐育市場人が額面百弗償還を目指して、どんどん買付けて来るとする、仮に額面償還を余儀なくされるとなると額面の四割六分を為替相場で換算した額丈け唯損することになって之が少くとも一億五千万円になる。之は原料を輸入する資金でもなければ軍需資材を買入れる資金でもない、唯で、無償で国の乏しい財布から猶大人に呉れてやることになるのである。斯う云う危険な結果を憂うることは独り経済人に限ったことではないのである。支那事変の相手は支那ではなく、其背後に在る者、英、ソの二国、就中イギリスであり、イギリスの権益を代表する猶太財閥の手が強力に働いていることは今日の常識であるが彼等が世界的に反日運動を有効に普及しつつあるのは日々の新聞で明かである、彼等が国際的に如何なる暗躍を為すかは想像に余りある所である。逓相が自己の考え丈けで、之丈けの手段を以て備えれば外国債権者も安心して差支ない筈だとの意味で自信を持って居られるならば、之は大きな誤算になろうも図られぬことであるのみでなく、其自信ある手段が見当外れであっては之をしも冒険と云わずして何と云おうか。英米殊に英国に対しては外交上愛想を尽かした我々ではなかったか。其猶太財閥の道徳的支援を経済問題に対して、利害の直接問題に対して、期待して居るのが電力問題解決の逓相の真意なることを委員会速記録の事実に依って知った我々は呆然たらざるを得ないのである。
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読売新聞 1938.11.23-1938.11.25 (昭和13)
事変とユダヤ人問題 (上・中・下)
宇都宮希洋
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大阪時事新報 1939.12.24-1939.12.28 (昭和14) 
支那事変と欧州戦を繞る日米の関係 (1〜4) 
条約・中立法・東洋策・軍備拡張 
桑港本社特置員 川島伊佐美

米国民がなぜ斯く反日になったかというに第一は事変勃発当初以来の英国の大規模のシステマチック反日宣伝工作それから支那の間断なき哀訴的と日本呪詛的の対日悪宣伝と、大部分英国系から糸を曳き居る新聞通信の反日報道の頻発や、ドイツに深怨を有する米国政界財界に重勢力を有し殆んど米国経済界のキーを握っていると云われる猶太民族が「坊主が憎けりゃ袈裟迄憎い」という日本憎悪感の深刻化や更に在支英国系の資本家及び猶太人系資本家等の反日暗躍も加わり、その上ソ連より糸を曳き居る米国内の赤化分子の不断の反日排日運動等が相重なって今日の米国の全般的反日となりこの反日センチメントが竟に今回の日米条約廃棄を作ったものであろう
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大阪毎日新聞 1940.10.1 (昭和15) 
英国と結合"神の選民"と自任 
世界制覇を策する猶太族 

"皇軍仏印に進駐の交渉が開始されたのは六月下旬であったにもかかわらず、仏印当局が言を左右にして解決が三ヶ月近くのびた裏面には仏印為替管理局長として財政権を握っているユダヤ人ガネーの魔手が動いていた、ということが本社特派員の報道によって明かにされた、上海の反日勢力の大御所がユダヤ財閥サッスーンであることも知らぬ人はあるまい、こうなるといままで比較的日本には縁のうすいように思われがちであったユダヤ人問題というものがなかなかゆるがせにはできないことになる、こんどの欧洲戦争も一皮むいてみるとそこには色々の意味でユダヤ人の力が作用している、ナチスの対英標語であるところの"ユダヤ的金□者"という言葉をかりるまでもなく英国とユダヤ人というものが 不可分に結合していることは周知の事実だが、こういう点でローマ・テヴェレ紙の主筆で、民族問題に造詣のふかいテレジオ・インテルランディ氏が今年五月べルリンの雑誌「べルリン・ローマ・東京」に書いている「二つの神の選民」と題する論文は頗る興味深いものがある、以下その要旨を訳出してみよう ギリシャ語で英国を意味するBritanikeという言葉は元来ヘブライ語のBarat-anakからきたものである、バラトは島アナクは池を意味し"池の島"の語意、ギリシャの詩人ヘロドトスはKassi,Teriden(池中のもの)というほかの言葉でいまの英本国を呼んでいたことからみてもブリタニケがバラト=アナクの転化であることは間違いない、さてこのことは英国人がイスラエル民族の後裔であり英国人の祖先がアブラハムであることを裏書きするものだ、しかもこれは決して反英態度をとっているものが故意にでっちあげたことではなく一つは聖書によって、一つは実際の歴史によって証拠だてられるところなのだ。 ちょっと前、ロンドンで発行されている英猶雑誌「ナショナル・メッセージ」にこんな注目すべき文章がのっていた"英国民すなわちイスラエル人だという説をつくりごとだといってしまうのはわけのないことだが、アングロ・サクソン民族は全人類を救済する使命を委ねられた神の選民である事実は容易に否定できない、神の選民の任務は最高の理想にむかって献身的に責任を遂行することにあるのだ"ところでこのアングロ・サクソン族の世界(米国を含む)における英猶宣伝機関であるこの雑誌のいうところによるとアングロ・サクソンの"サクソン"は元来アイサクの子という意味であり、したがってアングロ・サクソン族はイスラエル人の先祖アブラハムの後裔ということになる 旧約聖書によるとアブラハムは妻サライに子がないため、その許しを得て奴隷の女ハガルと契り、その間にできたのがアラビヤ人の先祖イシマエルということになっている、サライはその後になってアブラハムの子を産んだが、これがアイサク、イスラエル諸種族の□祖となった、イスラエル種族は多種多族にわかれるがそのうちの一種族は欧洲をあちらこちらと放浪してあるいたあげく、いまの英国におちついた、アイサクの子すなわちアイサクソン—Isacson—で英国の王位はすなわちダヴィデの王位である、イシアエルの後裔であるアラビヤ人もそしてアイサクの他の妾ケトラとの間に出来た一種族ブラマン(インド)人も当然英国人に屈従すべきものであり、英国こそは全世界に散在するイスラエル人の結合体でなければならぬ、そして今度の戦争はイスラエル人の世界支配を確立すべきエホバの意思に基づくものである、というのが英国でもひろく支持されている説である アレンビー将軍がイスラチルの名において聖地パレスチナを占領したのも、ローレンスがアラビヤ人をしてダヴィデの王位(英国王)に奉仕せしめたのも、英国ではひろく認められているところだ、ところでアブラハムの血か数百年の長い間に如何なる径路をとって英国に流れこんだかについては上に引用したナショナル・メッセージ紙所載の系図を見て貰いたい(別図) ところで英人を神の選民として世界制覇の使命を帯びているとなす思想はこうした聖書の伝説をさぐるよりももっと現実的な問題として英国民のユダヤ化という事実を見るならばもっと明瞭にわかるだろう、モーゼス・マーガリヤスの著「英国におけるユダヤ人の歴史」を読むといかにユダヤ人が英国のユダヤ化に努力してきたかがよく分る、たとえば十三世紀にニューカッスル、ダービー、サザンプトンその他の諸都市はユダヤ人の居住を拒むことを公証されていたが、現在は ユダヤ人が自由に出入できないというよらな土地は猫の額ほどもない、そのころユダヤ人の権利、職業を制限する法律があったが、いまでは逆にユダヤ人が英人にイスラエル人代議士を□舉する権利を与えるような法律をだしたところで誰も怪しむものはないであろう、ユダヤ人解放後英国で最も著名になった二人のユダヤ人がある 一人はネーサン・ロスチャイルド、一人はべンジャミン・ディスレーリ、前者は東インド会社が□りだした八十万ポンドの金を買って、それによって英国の首を締める首輪の最初の一□を□た男、後者はヴィクトリヤ女王の寵愛を利用して英猶を合体せしめた男だ、ヴィクトリヤ女王の治世時代、アイサク=ライオン・ゴールドスミッド、ネーサン・メーヤー、ヘンリー・ド・ウォームス、シドニー・スターンなど多数のユダヤ人が華族に列せられた、今日ユダヤ人が英国で如何なる権力と財産をもっているか知りたい人はThe Jewish Year Bookを見るがいい、ただし今日のユダヤ人にはAbrahamをBrahms,Braham,BrayamにSamuelをSams,Sammy,SammelにBernardをBarnett,をBurnett,Bennet,Benにというように変えているからなかなか名前だけでは分らない 概算して約百年前英国に住むユダヤ人は約八千人(ロンドンに六千人)であったが今世紀の初頭英本土に少くも十六万 海外領土に十万と□せられた、英国人はしかもこのユダヤ化をむしろ誇りとして英猶合体の世界制覇に向わんとしたのである、ところがいまやこの神の選民たちの運命が漸くぐらついて来たのであって、いまでは予言者といえども「英人の将来は洋々たるものがある」などとはいい得ないであろう 
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日本工業新聞 1940.6.22 (昭和15) 
中南米への市場転換 
安売は絶対に慎しめ 
大阪市緊急貿易対策討議

それはヒトラが色々の機会に云っている通り欧洲の平和を乱すのはロンドンを中心とする金権主義の猶太人で、これを攻撃しプロトクラシー少数□□者を破壊し欧洲改造を行うのが独伊最後の目標であると見られるからである
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報知新聞 1941.6.23-1941.6.29 (昭和16)
アメリカの地底政府 (1〜6・完)

与論が白聖館を支配し、与論が政治的権機力に先駆するとまでいわれた与論の国アメリカ—その民主主義の牙城アメリカが今や一億三千万国民の与論を、"頬かぶり"して参戦の無限軌道を猪突驀進しようとしている、国民がストップと手を挙げているのに運転手ルーズヴェルトは赤信号を無視して遮二無二参戦の交叉点を渡ろうとしているのだ、冷静な与論を踏みにじってまでアメリカは何故"参戦"の危い橋を渡ろうとするのか、アメリカの実思を歪め、アメリカの与論を去勢するものは誰か?この疑問符をあぶり出しにかけると『参戦を煽るものユダヤ地底政府』という文字が大きく浮び上って来る、ニューヨークがジューヨークと呼ばれ、ニューディールがジューディールと皮肉られ、ニュースペーパーがジュースペーパーといわれるくらいジュー即ちユダヤ勢力が浸潤し、ユダヤの資金力によって金しばりにされているアメリカである、米の参戦近しが喧伝される今、ここにアメリカの参戦をあおる"ユダヤ地底政府"を白日下に暴き、参戦の鐘は論がために鳴るかを解剖して見よう

(1) 黄金の力ぞ偉大 
大統領選挙の裏を覗けばユダヤ財閥の大芝居 
ナポレオン一世がかってユダヤの恐るべき悪について述べた言葉のなかにユダヤは地球上癩病よりも恐ろしく他民族の体に附着せる寄生虫である という警句があるが、現代のアメリカはさしづめ政界といわず、財界といわず、言論、文化機関とあらゆるものをユダヤの寄生虫によってむしばまれた異常体質、異常国家である、下はギャングから上は大統領に至るまでユダヤの恩のかからないものはないといわれる位ユダヤ黄金力によってあやつられ、踊らされるドンキホーテ・アメリカ、その恐るべきユダヤ黄金王朝の威力を最も端的に示した卑近な例は昨秋の大統領選挙であった、ウイルキーか、ルーズヴェルトの三選かと世紀の話題を賑わした大統領選挙も、種を明かせばユダヤ地底政府が書御し—ユダヤ財閥が演出した国際的"からくり芝居"であったのだ 世界の金の三分の二以上を自己の懐におさめ、左団扇で凉しい顔をきめこんでいたユダヤ国際金融資本にとって今次大戦—ヒトラーの金本位打倒戦は恐るべき現状打破の□槌だ、ヒトラリズムを呪咀し、ナチスの覆滅を企図したユダヤは、アメリカの参戦によってドイツを叩きつぶし世界にみなぎる反ユダヤ思想を撲滅して国際金融資本を死守せんとした しかし一億三千万のアメリカ国民を馬車馬のように参戦街道へ駆りたてることは容易な業ではないそこで書卸されたのが一九四〇年の大統領選挙戦の"からくり芝居"であった、ユダヤ財閥の秘蔵っ子ウイルキーをさくらにこれも同じくユダヤ黄金力で金縛りにしたルーズヴェルトを花形役者に仕立てて演じられた世紀の"八百長芝居"ウイルキーが当選してもル大統領が三選してもアメリカを参戦へ引きずって行くようにとの手形で、ユダヤ財閥から巨額の選挙運動費が両派にバラまかれたこと勿論である、しかしユダヤの支配力はあらかじめルーズヴェルトの確定票を握っていてル大統領の三選即参戦を目標に、ウイルキーは飽くまでさくら、道化役者として筋書を進行させていたのだ、なぜならウイルキーよりもルーズヴェルトの方が参戦の与論を引ずって行くのにたくましい追力を持っているからである ユダヤ財閥の脚色、演出に成る"大統領選参戦劇"はこうして国際舞台に上演されたのである、しかしこれは楽屋裏のことであって、表面は巧妙にカムフラージュされ、ウイルキーとルーズヴェルトの鎬を削る舌戦、文書戦が展開されて行った ルーズヴェルトが徹頭徹尾援英を強調したのに対しウイルキーは戦争の圏外に止まることが合衆国の義務であると高らかに呼号し米国民及び世界の眼を巧妙にまどわしつつさくらの役割を果した、その間にユダヤの掌握する新聞、ラジオ、映画は盛んに参戦熱をあおりつつルーズヴェルトの三選即参戦へと与論をマス・プロダクションしていたのである、当時の日本あたりでもウイルキーが当選すればアメリカの参戦を阻止することが出来るからとウイルキー優勢?ウイルキー危し!の外電に一喜一憂した人々も少くなかったようだが、これなど笑止の沙汰だ、選挙の結果は筋書通りル大統領の三選となってユダヤ財閥の威力を遺憾なく誇示して終幕となった それから僅か数箇月後の本年一月世界のジャーナリズムを驚倒させる選挙後日談が突発した"ウイルキー仇敵ルーズヴェルトの親書を携えて英国に使す"というニュースである、選挙の際ルーズヴェルトの反対候補として文字通りの鎬を削ったウイルキーが、打倒ルーズヴェルトの舌の根もかわき切らない中に豹変も豹変政敵ルーズヴェルトの軍門に降って対英援助の使者としてロンドンに渡るというのであるから世界中がアッと驚いたのも無理はない、しかしこれもユダヤにとって見れば予定の筋書をプログラム通り取進めたのに過ぎないのであって、米国の識者は初めてウイルキーの正体を知り大統領選挙のからくりを看破したのであるが、時即に遅かったのである ウイルキーの英国訪問の費用は全部ウォール街から支出されたというし、英国での談合もドイツが提唱する新しい経済理念に対する金本位ブロック死守の相談であると伝えられるのは、ユダヤに対する彼の忠実なご用振りを如実に物語っているではないか 

(2) 買われる献□ 共にユダヤの□く 反猶の旋風に抗□の横顔 
大統領候補ともあろうものがユダヤの走狗を務めるなんてそんな馬鹿気たことがあり得るものでない、とその信憑を疑う人があるならルーズヴェルトとウィルキーの経歴を洗って見るがいい、ウニンテル・ウィルキーはそもそもドイツ系市民である、彼の肉体にわれっきとしたゲルマン民族の血が流れている、しかし彼はウォール街の願問弁護士から身を起しユダヤ金融資本家の庇護を受けてコンモンウェルズ・エンド・サザーン電力会社の社長にまで栄達した、いわばユダヤ財閥の給費生として今日の地位を築いたのである 今度の戦争でもドイツ系市民として当然『欧洲問題不干渉』『参戦反対』を絶対主張すべき立場にありながら、大統領選挙戦に敗れるや仇敵ルーズヴェルトの使者としてイギリスに渡り対英援助の御用を務めているのである、それだけならまだしも、三月五日ロンドンから空路帰国に際し祖国ドイツに対して次の如きメッセージを発表、ナチドイツを非難しているのである 自分は純粋なドイツ人の後裔であり、ゲルマンの血に誇りを感じている、しかし余は侵略と暴君を嫌う、そしてこれは自分ばかりでなくドイツ人の後裔である余の同国人もまた自分の信ずるところに全く同感の意を表している、独系米国人はナチ政府の侵略と力による征服慾を嫌悪し、これを拒否するものであると祖国罵倒の飛箭を放っている、そして米国に帰るやルーズヴェルトと□を並べて援英を煽動し、米国の参戦を強調しているのである 果せるかなユダヤ地底政府はウイルキーのユダヤに対する熱情的な献身振りを多とし"ユダヤに対する功績顕著なり"としてユダヤ歴戦勇士団の本年度メダルを授与したとAP通信は報じている、ルースヴェルトに至ってはよりユダヤ的色彩が濃い、彼がかって一九三五年三月十四日のニューヨーク・タイムスが紙上に述べたところによると 遠き過去において余の先祖はユダヤ人であったらしい、ルーズヴェルト家について余の知っていることはただオランダから渡来したクラエス・マルテンゼン・ヴン・ローゼンヴェルトの後裔だということだけだ と興味ある述懐をしている、またルーズヴェルト家の国籍に関して元ミシガン州知事チェイス・オズボーン氏が一九三四年の春、セントビータスバーグ・タイムズ紙の記者に語ったところによると ルーズヴェルト家の先祖は一六〇二年にスペインから放遂されたロスカンボ家の後胤である 同家はスペインから放遂されてからドイツ、オランダその他諸国に身の安全を求めた、そして家名はローゼンバーグ、ローゼンボーム、ローゼンブラム、ローズヴェルト、ローザンサル等に変更されたのである、そして北部オランダにおけるローモンヴェルト家は結局ルーズヴェルトと呼ばれるようになったが、同時にその初代ルーズヴェルトはユダヤ教の信仰を捨ててキリスト教に転じた、それ以来ルーズヴエルト家は代々キリスト教徒である、ただ四代目のジャコブ・ルーズヴェルトという商店主だけはユダヤ教の信仰を守り通した、このユダヤ人の血統があるのでルーズヴェルト大統領の血液の中には安全を求める強烈な血液がある とルーズヴェルトにユダヤの血が流れていることを立証している —血は争えず ル大統領の性格は多分にユダヤ的だといわれる、彼は伝統と因襲を極端に嫌悪する、これはユダヤの特徴である、伝統と因襲が重んじられる国ではユダヤの存立が許されないからである、ル大統領はまた言行不一致で自己の約束を平然破棄する、これもユダヤ人特有の性格である —血は水よりも濃し ル大統領は世界でも有数のユダヤ保護者である、彼の側近、いわゆるブレーン・トラストはほとんどユダヤの勢力で固めているといわれる位の親猶冢である、だから世界のユダヤ同族は彼をユダヤ民族のチャンピオンとして崇め新時代のモーゼと尊敬している、米国のユダヤ地底政府はル大統領のユダヤに対する抜群の功績に酬いるためゴットハイルメダルを授与したと一九三八年一月十四日付のアメリカン・ヘブリュー誌は伝えている、その表彰事由は ル大統領は一九三七年ユダヤ人と米国人間の親善運動に多大の尽力をし顕著なるサーヴィスをなした、またル大統領が世界的の反猶運動に対し猛烈にして、明快な演説をシカゴ市において行った功労による と記されてあるそうで、これによってもル大統領のユダヤに対する並々ならぬ献身振りが察知出来るのである ユダヤ排□の本陣ドイツでは最近戦争をたきつけるユダヤ英米帝国主義者のことを"第六部隊"とやゆしているが、ユダヤの金権太夫に操られて米国の参戦を煽るル大統領などはさしづめ"第六部隊長"の名称を奉らるべきところであう、ル大統領ばかりでなく白聖館の主は初代大統領ワシントン以来ほとんど大部分がユダヤの支持者で、しかも揃ってユダヤの秘密結社フリーメーソンの結社員であるといわれる 

(3) 重慶政府は"出張所" 戦火の挑発者秘密結社は躍る 笑止や蒋夫妻もその一員 先ず挙げただけでもジャクソン、ボルク、ブカナン、ジョンソン、ガーフィールド、マッキンレイ、セオドル・ルーズヴェルト、タフト、ジェファーソン、モンロー、ハーヂング、ウイルソンと十指にあまる大統領がフリーメーソンの結社員だといわれ、また結社員ならざるものは大統領となる資格がないとまでいわれている、現に反猶的な色彩をもっていたクーリッヂ大統領はその反猶的な言動が祟って怪死を遂げ、いまだにその死因は分らないが、おそらくユダヤの魔の手にかかったものと信じられている、一方第一次戦の大立物ウイルソン大統領はユダヤの伏魔殿ともいうべき国際連盟をつくったのを初めユダヤに貢献したお陰で、ブリンストン大学総長時代の彼の桃色事件はついに新聞種にならずに済んだといわれる、その闇取引の陰には米国軍需委員長で大戦中アメリカの経済界を掌握していたユダヤ人バーナード・バラックの奔走が大いに与かって力があったということで、これによっても歴代大統領の陰に糸を引くユダヤ地底政府の威力が思いやられる、白聖館現在の主ルーズヴェルト大統領も今から三十年前の一千九百十一年十一月二十八日にニューヨークのホーランド・ロッジ第八号結社でフリーメーソンに加盟し、その後一千九百二十九年にはアルバニーで同結社の第三十二級を授けられたということである(フリーメーソン結社の最上級は三十二級である) またル大統領の愛息二人もつい最近フリーメーソン秘密結社に加盟したと伝えられている、ここでちょっとフリーメーソンについて簡単に説明して置こう、元来フリーメーソン結社は非ユダヤ人によって創設され発達したものであるが、ユダヤ民族特有の根強く巧妙な策動によって現在ではフリーメーソン結社の中心勢力は各国共ユダヤ人によって掌握され、ユダヤ人によって指導されている、そして最近ではほとんど彼等の世界革命即ちユダヤ王国建設のための陰謀機関となるに至った、フリーメーソン結社が表面掲げるモットーは人道主義、自由平等、博愛とひどくしかつめらしいものであるが、これは完全な羊頭狗肉であって、同結社の目的とするところは無神論的な世界共和国の建設にある これはそのままユダヤ世界制覇の野望と一致する、ドイツ、イタリアではフリーメーソンはユダヤ地底政府の一翼を形成するものであると喝破してつとに結社を禁止、またポルトガル、スペイン、ルーマニア、ブルガリア、トルコ等の諸国でもこれに習っている、兔に角ユダヤとフリーメーソンとは楯の両面であってユダヤの陰謀とフリーメーソンの策謀とは常に影の形に添う如く連れ添うことを忘れてはならない 第一次世界大戦がユダヤ人によって計画され、ユダヤ人によって遂行されたことはあまりに有名であるが、その第一次大戦を点火した彼のサラエボの一青年こそは実にフリーメーソン結社員であった それでは今次大戦にけるフリーメーソンの役割はどうか、世界をおおう硝煙と鉄火の陰に仕掛けられた時計爆弾、フリーメーソン結社の陰謀のあることを忘れてはならない、ここにおいてアメリカ参戦の性格が初めて明らかにされるのだ、試みに世界の地図を枢軸国と連合国の二色に分けて見るがよい、そしてアメリカの援助のもとに抗戦を続けるイギリスと、重慶政権の元首並に独裁者が誰であるかを想起して貰いたい イギリス皇帝ジョージ六世陛下並に将介石こそはアメリカ大統領ルーズヴェルトと共に実にフリーメーソン結社員なのであるジョージ六世陛下は今から二十二年前の十二月三日にロンドンでフリーメーソンに加盟され、結社番号二千六百十三号を持っておられる、将介石に至っては宋子文、宋美齢などの宋家一門とともに挙げてフリーメーソンの有力なメンバーであり、ユダヤ財閥と結社して軍政権下の人民を絞り上げている ユダヤ国際金融資本にとって重慶政権は彼等の支那出張所であり、将介石は実にジュー介石なのである、一昨年の夏イギリス皇帝がカナダ訪問のお席を以てワシントンに赴かれ、ルーズヴェルトと会見、また最近ルーズヴェルトの子息(前述の通りフリーメーソンに加盟している)が重慶を訪問して大歓迎を受けたことは何を物語るか、フリーメーソン結社には一旦結社に加盟した以上は結社員は互に兄弟の関係を結んで扶け合い、一方の兄弟から援助を乞われた場合は万難を排しても扶け合うという仁義がある とするとル大統領とイギリス皇帝とは兄弟であり、ル大統領と将介石とも兄弟であり、またイギリス皇帝と将介石とも兄弟であるということになる、ル大統領が自国を民主主義国の兵器廠と化してまで狂人じみたイギリス援助、重慶政権援助に狂奔する無軌道的な行動の陰には、フリーメーソンの仁義がル大統領の心理に大きく影響していることを見逃してはならない、アメリカ参戦の鍵はここにもあることを忘れてはならない 

(4) 乱れ飛ぶデマの本拠 
騒ぐ世人尻目に楽屋裏で赤い舌 
燃えさかる大戦の戦火はついに独ソ国境に飛んだきのうまで固く握られていた独ソの握手が、きょうは反撃のアッパーカットとなってベルリンからモスコーの顔面へ飛んでいる、まこと猫眼のようにめまぐるしい世界の情勢である、ひとり北□笑むのはユダヤ国際金融資本であろう さて独ソ交戦に先だって去る十九日ニューヨーク、ロンドンの新聞街を震源地として 独ソ国交断絶ドイツ軍大挙ソ連に進入 というセンセーショナルなニュースが青天の霹靂の如く全世界に撒布され、世界の人々の耳目を□動したことはまだ読者の記憶に生々しいことこと思う、これは間もなく英米側から流布されたデマと判明したが、なんぞはからん、このデマの紙つぶてこそは実にユダヤ地底政府の製造したものである 資金が世界第一の力であるならば出版物は第二の力である とユダヤ人アドルフ・クレミエが述べているようにユダヤは世界の初めニューヨーク・ヘラルド紙、ニューヨーク・ポスト紙、フィラデルフィア・レコード紙、ニューヨーク・ワールド紙と全米要衝の有力紙はほとんどユダヤ資本の傘下にあり、その他数え上げたら際限がなく、アメリカでニュースペーパーがジユースペーパーといわれるのもまことに宜なる哉と思わせるものがあるここで見逃してならないとは新聞事業の投資者並に新聞機構内の支配者がユダヤ人であるばかりでなく、新聞の糧道である広告の八割までがまたユダヤ人企業家によって占められ、殊にアメリカの諸新聞は百貨店の広告をドル箱としている関係上、ユダヤ系百貨店の日刊新聞に及ぼす影響は想像以上に大きいものがあるということだ、ここにそれを立証する一挿話がある ニューヨーク・ヘラルド紙は最後までユダヤ禍と戦い通した新聞として有名である、同紙の社長ジェームス・ペネット氏は敢然としてユダヤの財閥に挑戦し、死に至るまでジユーの軍門に降ることはなかった、彼はかってニューヨーク一流の百貨店を経営するユダヤ人社長から市長立候補についての応援を依頼された、氏はその時この手紙を紙上に公表してその策動を暴き断然拒否したのである、その結果ユダヤ広告主の経済封鎖を喰ってそのための損失は毎年二百五十万マルクといわれるほどの財政的苦痛であったという、しかし彼は非ユダヤ人の広告料を安くし顧客を吸収して死に至るまで経営を維持しユダヤと戦い続けたのであったが、この光栄ある孤立も彼の死後無残に蹂躪されて同紙は間もなくニューヨーク・サン紙と合併、ユダヤ財閥の交渉下におかれることことなった 与論を神聖視し、与論の敵を仇視し与論のためには自己を殺してまで盲従するというアメリカ国民はかくしてユダヤ言論機関によって圧迫、歪曲、捏造された変質与論に踊らされて反日、反ナチを叫びついにはアメリカ参戦の旗手たらんとまでしている 

(5) 仮面剥れた米国映画 
恋愛や文化にも破壊の触角 
天を衝くマンハッタン、炬火を掲げる自由の女神、不夜城タイムス・スクエア、映画の都ハリウッド、そしてGメン、カウボーイ、ギャング—と、映画といえば反射的にこれ等一連のアメリカ影像が脳裏に浮び上ってくるほどアメリカ映画が我が国民殊に若き青年子女の上に及ぼした影響はかって著しいものがあった、事変以来は為替管理の強化でアメリカ映画の輸入も月々数える程に制限されてしまったのでその影響もほとんど目立たなくなってしまったが、一時は若い女性のモードが全くアメリカ映画によって支配され、和製デイトリッヒ、和製ガルボ、和製ヘップバーンをきどった女性が百鬼夜行のように銀座、新宿街頭を闊歩し、日本観光に来たアメリカ人がびっくりしてツーリスト・ビューローに注意の手紙を置いて行くというような笑えぬナンセンスさえ生んだことがあった 振分の髪を短み春草を髪にたくらむ妹をしぞ思う と万葉の女性以来大和撫子が誇り続けて来た丈なす黒髪がすつぽりと切られてスズメの巣のようなパーマネントに変り、眉毛を落して三日月眉毛をかいたりするような風潮が流行したのも全くアメリカ映画のお陰であった、恋愛至上主義、刹那主義、享楽主義、尖端好奇、モダニズム、道徳軽視と人間獣化の恐るべき風潮が若い青年男女の間に燎原の火のように燃えさかったのもアメリカ映画のスクリーンがまき散らした影響であった、このアメリカ映画こそ言論機関と共にユダヤ金融資本が一手に掌握する独占事業なのである、ハリウッドはユダヤのエルサレムであり、ジユーのメッカであり、ウオール街と共にユダヤ地底政府の本丸ともいえるのである、現在アメリカの代表的映画会社でユダヤ人の息のかからないものは一つもない パラマウントはユダヤ人アドルフ・ヅーカーの経営であり、ユニヴァーサルはユダヤ人カール・ラムリの創立にかかり、ラムリ一家が過半数の株券を所有している メトロ・ゴールドウィン・メーヤーはマーカス・リユー、ルイズ・メーヤー、カール・レムールの三ユダヤ人の共同経金の三分の二を自己金庫に納める一方"紙の砲弾""ペンの爆弾"ともいうべき言論機関を着々その傘下に吸収して今や世界の新聞通信事業の七十パセントを一手に掌握して世界の与諭を意のままに虚造、歪曲、捏造している、ロイテル、AP、UP、アヴァスの四大通信社を初め全世界にくもの巣のように張りめぐらされたユダヤの言論機関はユダヤ地底政府の発する捐令のままに反日、反ナチ、反枢軸のデマニュースを毒ガス弾のように全世界に撒布して彼等の国際金融資本を擁護し、世界の新秩序を死守せんとしている 去る十九日の独ソ交戦!のデマも独ソ国境の逼迫感を利用したユダヤ言論機関が世界の与論を煽って一日も早く独ソ開戦を焚きつけんとした作為的虚報であることは一見して分る、試みに二十日付東京各紙夕刊に掲戦された"独ソ衝突"の記事出所を調べて見ると 【ニューヨーク発同盟】ロンドンのロイテル通信社がトルコから入手した情報によると…… 【ロンドン発同盟】ロイテル通信社は十八日NBC放送局アンカラ特派員の報道として…… 【ニューヨーク特電】コロンビア放送会社アンカラ特派員報道…… 【ロンドン特電】ロンドン有力紙デーリー・メールは十九日確実な筋より得たる情報として…… 【ニューヨーク特電】十八日ロンドンより当地に達したAP通信社の確認されざる情報によれば…… 【ニューヨーク発同盟】ロンドンAP通信報道によれば…… とデマの出所は期せずしてユダヤ系の新聞通信社並に放送会社である 先ずロイテル通信社はユダヤ系の勢力下にあることはあまりにも有名で、かって昭和十一年の台湾基隆港における英兵暴行事件の際悪意的反日ニュースを撒布して世界の与論を煽ったのもロイテルの所為である、NBC放送会社はユダヤ人のディヴィッド・サーノフが社長であり、コロンビア放送会社も会長はユダヤ人ウィリアム・ベイリである、またデーリー・メール紙は前大戦の時ドイツが武力戦で勝ちながら宣伝戦のため敗れたとルーデンドルフ元師をして千秋の恨をかこたしめた英国宣伝戦の総参謀格である有名なノースクリップ卿の創立にかかるものでいわずと知れたユダヤ系、更にAP(アソエニテッド・プレス通信社)はアメリカにおいてUPと並び称されるユダヤ資本の大通信社である とデマの製造者を洗って見れば揃いも揃って同じ穴のユダヤである、結局十九日のホットニュースは独ソの国境緊張を察知したユダヤ系言論機関が両国の交戦を拍車せんと捏造したデマでトルコの首府アンカラ駐在のアメリカのNBC、コロンビア両放送会社並にアメリカのAP、イギリスのロイテル両通信社の特派員をして打電せしめた虚報を更にロンドン、ニューヨークのユダヤ系新聞が一斉に尾鰭をつけて報道したもので、ここにも大戦の楽屋裏に戦火の拡大を煽るユダヤ地底政府の恐るべき陰謀がある、大戦以来このようなデマニュースがどれだけ撤布されたことであろう、ユダヤ系の紙鉄砲から日毎夜毎発射される大小さまざまの虚報こそは実に満洲の新秩序を、そして東亜の新秩序を阻止する大きな障碍物である、今や枢軸国を除く全世界の目と目はユダヤ系に着色された情報によって全く色盲にされてしまっている 今春ユーゴスラヴィアが一旦三国同盟に参加しながらクーデターによって反独戦争を起したのも全くユダヤの言論機関に踊らされた結果であるし、蘭印政府が東亜共栄圏参加を頑強に拒んで日本に楯つくのもユダヤ通信機関によって"英国最後の勝利"を吹込まれているからであることを銘記しなければならない、支那事変当初我国で対外宣伝の拙劣さが喧しく小田原評定されたことがあった、満洲、上海両事変以来日本の宣伝は下手で、支那の宣伝は白髪三千丈式で巧みだと定義されたのであったがこれはものの表面を見た定義で如何に日本の宣伝が正義人道を説いても世界の言論機関の七割を握るユダヤ地底政府が支那ユダヤ財閥援護のために親支反日的な報道を行ってはてんで太刀打も出来ないのである、反日ニュースの最も代表的な例は米砲艦バネー号事件の時アメリカのユダヤ系新聞通信が爆撃の真相を伝えず、日本空軍の恐怖のみを書立てて米国民の反日感情を尖鋭化し、今にも日米戦争が起るかと思わせる程の煽動的、作意的宣伝を行ったことである 全然ユダヤの息のかかっていないアメリカ国民主義同盟ニュースの伝える処によると、バネー号事件の時の与論硬化は十億ドルの機密費を持つユダヤ宣伝機関の使そうの結果であるとその陰謀を暴露している、この一例を見てもわかるように今やアメリカの興論はユダヤ言論機関によってユダヤの意のまま飴細工のようにこねくり廻されている、ここでアメリカにおるユダヤ勢力下の新聞通信機関を一瞥して見よう AP、UPの二大通信社がユダヤ資本下にあることは既に述べたが、新聞ではロンドン・タイムスと併称され世界的権威を有するニューヨーク・タイムスを□、コロンビアは同社資本の九十六パセントまでがユダヤ系で、実権はハリー・コーヘンというユダヤ人が握っている、R・K・Oも会長はユダヤ人レオ・スピッツで資本はユダヤ系レーマン兄弟会社の支出、ユーナイテッド・アーチスツ社の大株主もダグラス・フェアバンクス、サム・ゴールドウインといずれもユダヤ人、フォックスも重役会長はジョセフ・スケンクというユダヤ人と数えあげたら際限がない、またトーキーの世界三大会社たるウェスタン・エレクトリック会社、R・C・A会社、トビス会社はいずれもユダヤ人の経営である、映画製作者では現在八十五名のうち五十三名がユダヤ人で、また監督陣ではルビッチ、スタフバーク、グリフィス等、俳優はチヤップリン、ロイド、キートン、シルヴィア・シドニイ、ピックフォード、エデイ・カンター、ポール・ムニ、アンナ・ステン、ジャッキー・クーガンと枚挙にいとまがない、かくてアメリカ産業の第四位を占あるといわれる映画産業を独占したユダヤ地底政府は、これによって巨利を博する一方映画を利用してアメリカの与論をユダヤの意のままに動かしているのである、ユダヤの地底政府はハリウッドに対し毎年九月になると満一箇年間の映画製作仕様書を配布し、各映画会社は大体このスケヂュールに従って製作を行うといわれている、最近あちらで封切られ四箇月続映という大当りを博したチャップリンの"独裁者"などは完全に反ナチ宣伝の意図をもって製作されたものである、筋書は ユダヤ人の床屋が独裁者ヒンケルに似ているというので偶然 政治犯収容所を出て、オストリッチ国に侵入、ヒンケルの替玉となって演壇に立ち自由の宣言を行う という道化役を使ってヒトラー及びナチを風刺したもので、ユダヤ人のチャップリンが例によって自ら原作を書きおろし、監督し、主演したものである、その外最近のアメリカ映画は戦争一色に塗りつぶされ、ユダヤ傘下の新聞、ラジオ、雑誌などと歩調を揃えてアメリカ国民を参戦へ駆立てている、上院孤立派のホイラー議員などは大いに憤慨して『パラマウント会社を初め各映画会社が戦争を煽動する映画を作り、商売に利用するのはアメリカを損うものだ』と抗議書をハリウッドに叩きつけたが、映画会社は一向に反省の色もなく盛んに戦争熱を煽動しているのである、ユダヤはまた映画を三S政策の一翼として利用していることを忘れてはならない、三S政策とはセックス、スクリーン、スポーツによって国際主義を高揚し道徳を破壊し家族制度、社会秩序を攪乱しユダヤ思想への同化を誘導するものである、事変前ユダヤの三S政策は段々として日本に押寄せ青年男女を初め日本の交化層を腐蝕し、まさに日本精神は懐滅に瀕せんとした、アメリカ交化の仮面をかぶった映画は冒頭で述べたように我が純真な青年男女の気風に大きな悪影響を与え、浮華軽佻、侈奢逸楽の都会生活を謳歌せしめるようになった、またセックス即ち歓楽界への影響はバンテージ・ショー、マーカス・ショー等の来□上演を契機にいかがわしいレヴュー、ショーが娯楽街を風靡し、ジャズ音楽、ダンス・ホールの盛況等が人心の□□を招いたのを初めアメリカ判事リンゼーの著作になる『友愛結婚』や某婦人雑誌に掲載され販売禁止になった元仏首相でユダヤ人のレオン・ブルムの論文になる『幸福な結婚』の如きは全世界の処女に結婚前の身を誤らせる如き恐るべき恋愛倫理を撒布して我国の性道徳をも破壊せんと試みた、スポーツの悪影響は我国においては比較的少かったが、それでもスポーツ英雄崇拝の風潮は女学生の外人選手サイン問題となって教育界に大きな暗影を投じたのであった、このようにして事変前ユダヤの文化侵攻、三S政策はまさに我国の醇風美俗を根底から破壊せんとしたのであるが、支那事変の勃発によって幸いにもこの怖るべきユダヤ禍から免れることが出来たのである、春秋の筆法をもってすれば『支那事変日本のユダヤ禍を防ぐ』ということろであるが、我々はむしろ支那事変をもってユダヤ打倒の聖戦たらしめねばならない ロスチャイルドのような千万長者から下はニューヨークのイーストサイドユダヤ人窟に巣喰う一文なしに至るまでユダヤ人の共通した特質は金に対する執着と狡智である、在米那人はユダヤのことを九一と呼んでいる、九に一をたせばジユーになるというのであるが、また一面九一といえば拝金主義者の代名詞を意味するというくらいジユーの吝嗇性をさげすんでいる 

(6) 銭の金にも□ 世界の血□亡者 
私はジユーの母と娘が電車賃をお互に相手に支払わせようとして争っているのを見て不愉快に思ったことがある、母は娘に払えという、娘はおっ母さんは自分で持っているではないか、何故私が払わなければならないのかと衆人環視の中で頭を真赤にしていがみ合っていた この二つの例はよくユダヤの性格を赤裸々に描写していると思う、こうした義理人情もない貨幣への叩頭、金への執着、拝金主義がつもりつもって今日のユダヤ国際金融資本、ユダヤ黄金王朝を築いたのである、現在世界におけるユダヤの財産は推定五千億万円という天文学的数字を数えているが、その中の約三分の二がアメリカ・ユダヤの懐ろに山吹色の光を放っている スポットライトをウオール街に向けて見よう、そこに浮び上ってくる花形役者二人—片や"ドルの王者"モルガン、資産百八十億ドル(邦貨約七百億円)片や"黄金王朝の皇帝ネロ"クーン・ローエブ商会主ヤコブ・シッフ、資産二百五十億ドル(約一千億円)この二人こそはアメリカ・ユダヤ富豪番付を飾る両横綱である 大統領を黄金しばりにし、アメリカ国民をドルの奴隷とするユダヤ黄金王朝の全貌を剔抉するには膨大なスペースを要するのでここにはモルガン、シッフ両ユダヤ巨頭の黄金罪悪史を掲げてユダヤ千万長者の片鱗を描写するにとどめよう アメリカ排猶陣の旗頭自動車王フォードは『第一次大戦最大の利得者、それはユダヤ人だ』と喝破しているが、事実四年半の間ヨーロッパを咬み合せ、敵味方二股かけて軍需品を売込み、戦争を長びかすことによって巨利を拍したのは彼等ユダヤ人であった 数千億ドルの戦費と二千八百万人の流血をすすって豚ように太ったジユー、わけてもアメリカ軍需工場は配当率五百割という驚異的利益率を挙げたが、その儲け頭こそクーン・ローエブ商会のシッフ一党であったのだヤコブ・シッフは近世ユダヤ財閥発祥の地といわれるドイツ、フランクフルトの出身で一八九五年アメリカに渡りローエブの長女と結婚、女婿となったが、生来の経才は忽ちにしてアメリカ経済界を席巻、アメリカ・ユダヤ人の大同団結を図って全米にユダヤ銀行の一大トラストを形成した、そして第一次大戦後の不況と一九二九年の大恐慌を織込んだ一九二三年から三二年の僅か十年間に閉鎖された非ユダヤ系銀行七千五百近くをことごとくその傘下におさめてしまったしかも一九二九年フーヴァー大統領時代の大恐慌もシッフ一党の計画的陰謀であった、インフレ政策を金看板にフーヴァーを当選させたユダヤ財閥は彼等一流のトリックを弄して全米に株式熱を奔騰させ、大戦景気で懐ろの温いアメリカ国民の金をことごとく株式□券に代えさせたことで米の非ユダヤ人銀行を一斉に取付けてしまった かくて彼等が吊上げた株価の差額は奔流のようにユダヤの懐ろに、シッフの金庫に雪崩込んだのである、これが黄金の魔術師ユダヤ財閥の演じたアメリカ経済恐慌の正体である、またシッフについて銘記して置かねばならないことは日露戦争の時彼が日本に財的援助をなしたことである、故高橋是清氏が財務官として国債募集に行った時『日本の勝利を望む』といってポンと二億五千万円の金を借してくれたのは実に彼シッフであった、ところでシッフは本当に日本の勝利を望んでいたかというと、決してそうでなく、ここにもユダヤ一流の狡猾な智計が秘められている それは当時ロシアのロマノフ王朝が猛烈にユダヤ人を排斥していたので、日本を扶けロシアを敗戦に導き革命を起させることが目的であっていわば他人の褌で相撲を取ろうとしたのである、その後一九一七年ロシア革命のときにもシッフは一千二百億ドルをレニン、トロツキー、リトウイノフ等のユダヤ人テロリストに軍資金として提供、ついに宿望の帝政ロシア打倒を達成してしまった さて片や"ドルの王者"モルガンは戦争挑発者として既にあまりにも有名だ、前大戦のときアメリカ参戦の口火を切ったモルガンがまたもやルーズヴェルトを駆立ててアメリカを参戦街道へ追いやろうとしている、参戦反対派のアメリカ上下両院議員が去る三月十一日、ワシントンの上院議員ジョンソン氏私邸に集まって参戦の反対運動展開につき協議を遂げた席上、孤立派の領袖ホイラー上院議員はモルガンとルーズヴェルトの"馴合い"を次の如く暴露している 私は七十憶ドルの数字に少しも驚かない、これはルーズヴェルト政府が欧洲戦争をたきつけるほんの序の口に過ぎないからだ、アメリカの納税者はどえらい権限を大統領に与えてしまったからには一大決心をしなわればなるまい、おそらく納税額が現在の二倍となり、公債発行額の最高限度も現在の六百五十億ドルから一躍一千憶ドルに改正される日の来るのも遠くはあるまい、これはまさにモルガン財閥と国際銀行家達が望んでいるところである ユダヤ金権打倒の選手"ナチス"に対して金融資本擁護の選手"ルーズヴェルト"は今やまさにチャレンヂ・ゲームを挑もうとしている、そのルーズヴェルトのパトロンこそモルガンであり、参戦のゴングを鳴らす影武者こそモルガン財閥である アメリカにこんなジヨークがある ユダヤ人が帽子屋に行って帽子の値段を聞く ジユー『これは大き過ぎる、耳がすつぽり入ってしまうが値段はいくらだね』 帽子屋『四円でごさいます』 ジユー『この方は下度よい、値段はいくらかね』 帽子屋『失張り四円でごさいます』 ジユー『そうか、それじゃ大きい方を貰う』 また舞踊家伊藤道郎氏はその著『アメリカ』の中でユダヤ人気運を次のように書いている 

(完) 参戦へ煽動する毒杯 "自由の女神"も遂に歎く猶太化 
中央協力会議総会の席上石井情報局第三部長が『米国与論の動向』について説明を行った中に 米国の現状はあたかもプールの飛込台と水面の中間にあり、まだ水に濡れてはいないが今更飛込台に戻ることは出来ないという興味ある引例を用いていたが、アメリカを飛込台から参戦のプールへ突き落した者こそユダヤ国際金融資本でありユダヤ地底政府である、アメリカ大陸の地底深く根を張ったユダヤ秘密国家は毒蜘蛛さながらブナイ・ブリス、ケヒラ、フリーメーソン、ミオン団、ユダヤ人同盟、ロータリー倶楽部、救世軍とさまざまの毒糸を張りめぐらして一億三千万のアメリカ国民を参戦の大謀網に追込んでいる ルーズヴェルトの側近には"陰の大統領"といわれるフランクフルター大審院判事を初めモーゲンソー財務長官、イックス内務長官、ローゼンマン判事のユダヤ四天王が傲然と居据わり白聖館をユダヤ地底政府の意のままに動かしている、ル大統領のブレーン・トラスト三十人の中二十九人までがユダヤ人だといわれ、大統領の顧問格バーナード・バルーク、デヴィド・デュビンスキー、ヘンリー・ホーナー、ハーヴァート・レーマン、レオ・ウォルマン等もすべてユダヤ一色、歴代大統領のうちで最もすぐれているといわれるルーズヴェルトの演説はベンジャミン・コーヘンというユダヤ人の下書きになるもので、ニューディール政策も実に彼コーヘンの樹立したもの、反枢軸国の経済戦に来配を揮い日本に対する輸出禁止を画策したのはモーゲンソーであり、大統領の露骨な親英政策は私的交友関係の深いフランクフルターの親英思想が深く影響しているといわれる、兔に角今アメリカで最も声高に参戦の音頭取をやっているのは、何れも皆甲羅の生えたユダヤあるいは親猶政治家ばかりである アメリカは今やまさにジユーナイテッド・ステーツ・オブ・アメリカと改称せねばならない、ヒトラーの弾圧政策に追われたユダヤ避難民はその流氓の主流をアメリカへ向け滔々として流れ込んでいる"自由の女神"を玄関番にするアメリカこそユダヤの理想境であり、ユダヤの楽天地であり、そして永遠のエルサレムであるとばかり怒濤のように雪崩れ入っているのである 欧洲唯一の中立地帯リスボンからクリッパー機で飛んで来る千万長者を初め、ユダヤ救済協会の旅費補助によってシベリア、日本経由でやっとのこと西海岸にたどりつく貧窮の流亡者に至るまでユダヤ避難民の求める新天地は□って星条旗の下である『フランス敗れたり』の著者アンドレ・モーロア、相対性原理で有名なアインシュタインを初め著名のユダヤ人も多数交っているが、最近アメリカにおいてノーベル賞の受賞者が殖えたといわれるのもこれ等ユダヤ系学者の亡命のためである かくて従来ユダヤ最大の保護国であるイギリスの敗色を目の辺りに見たユダヤ人は米国をユダヤ永遠の城砦とすべく碧々準備を進めているのだ、近東の沙漠地帯でしかも猫の額ほどの面積しかない彼等の祖国パレスチナにくらべればアメリカは土地も広く富も豊かだ、そして既に政界、財界、言論界、文化方面とアメリカ各層に亘るユダヤ化の地均しは九分通り完成している、ユダヤの新しき祖国アメリカ、彼等のシオニズム(祖国復興)運動の目標は今やパレスチナからアメリカに書換えられようとしているのだ そもそもアメリカ大陸を発見したコロンブスそのものがユダヤ人である、当時スペイン、ポルトガルを初め全欧にみなぎっていたユダヤ人迫害と追放のはけ口として取上げられたのが未開の南北米大陸であった、コロンブスの新天地探険の状途を援助したものはスペイン王室収税宮サンタンゲルを初め大蔵大臣、出納官等のユダヤ人で彼等がイサベラ女王を動かして王室から三十万円の探険費用を無利于で貸与えることに成功したのだ、全欧ユダヤ人の□望を集めたコロンブスは困苦艱難と闘ってついに新世界を発見した、そして欧洲を追放されたユダヤ人七十万は怒濤のように新天地アメリカへ向け殺到したのだ だからアメリカは開拓建国から現在に至るまでユダヤ人の手によってなされたといっても過言ではない"漂浪ユダヤ人"という語が固有名詞として取扱われているほどさまよい続けた彼等も今こそ安住の地を得ようとしているのである、ここでちょっとアメリカにおけるユダヤ人口の歴史的増加を数字によって示して見よう 一八〇〇年 二、〇〇〇人 一八五〇年 五〇、〇〇〇 一八八〇年 二三〇、〇〇〇 一八九〇年 五〇〇、〇〇〇 一九〇〇年 一、〇〇〇、〇〇〇 一九一〇年 二、二〇〇、〇〇〇 一九二〇年 三、二〇〇、〇〇〇 一九三〇年 四、四〇〇、〇〇〇 一九三三年 四、五〇〇、〇〇〇 と幾何級数的な増加を示している最近は正確な数字がないが恐らく六百万を超えるだろうといわれている、改宗ユダヤ人などを合せれば優に一千万に達するであろう、しかも注意せねばならないことはユダヤ人はどこの国でも決して辺鄙な片田舎に住まず大部分はその国の首府や大都会に住んでいるのでユダヤ人は人口に比して非常に大きな活動力を持っていることである、アメリカでもニューヨークには二百五十万、全市の人口にくらべて約三十パセントのユダヤ人が居住している、ニューヨーク州長官レーマン、ニュヨーク市長ラ・ガルディアは共にユダヤ人である、またユダヤ人は他の種族にくらべて非常に人口増殖率が高く、アメリカでも年一割の増殖率を示しているといわれ、心あるアメリカの識者はアメリカは今にユダヤ人によって乗っ取られてしまうだろうと歎いている、"ユダヤ天国"ともいうべきこのアメリカにあっても民族主義を高唱しアメリカニゼーシヨンを主張する人達によって根強い反猶運動が続けられていることを見逃してはならない 言論機関をユダヤが握っているためその真相はなかなかに伝えられず、また反猶運動もほとんど秘密結社の形で潜行的に進められているが、銀シャツ党、白椿の騎士団、新K・K・K、キリスト戦線、アメリカ・ドイツ団等の有力団体を初め、百以上の反猶団体が『アメリカの建国精神に還ってアメリカ人のアメリカをつくれ、アメリカをジユーの魔手から解放せよ』と叫んでアメリカの支配勢力たるユダヤ系の資本閥、政治力、宣伝力に対して果敢な闘争を続けている、そして彼等反猶十字軍は日本に対し『日米参戦説はユダヤの宣伝で真にアメリカを愛する米国民は日米提携こそ想え、日本と戦う意思はない、日本の支那における行為は米国民にとっても赤化防止の意味からいって大いに援助すべきで、日本こそは米国の第一線として赤と闘う同志だ』と正論を吐いているのである、アメリカにも正義の士はいる、ただユダヤ支配力がそれをおさえて表面に出さないだけだ、我等はアメリカの吉田松陰、高杉晋作がアメリカ建国精神復古の大業を果す日の一日も早からんことを祈っている、その日こそ太平洋がその名のように平和な姿に立還る日なのだ データ作成:2008.5 神戸大学附属図書館
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日本工業新聞 1941.4.13 (昭和16) 
世界経済を侵蝕する猶太財閥 
猶太財閥の魔手は遠からず日本にも

これらの一切合財の舞台監督をしたのがドナルドです、蒋介石の最高顧問をして宋美齢に影の形の如く添うている、彼がこのプランを樹てたといわれていますがこの幣制改革を企てた理由は世界に巣喰っている猶太一派が支那をして日本に立ち打ち向はしめるためにああいう方法をとったという彼等でなければ出来ない理智的な巧妙な深謀術策というか、そういう建前からして支那事変を起さしめるためによったものとさえ結論しているものがあるそれからして翌年の昭和十一年十一月には西安事件というのが起った、これは蒋介石がどうしても起たないので国民党と共産党を合作せしめるためドナルドが仕組んだ事件で、蒋を救援のため宋美齢と共に飛行機で西安に飛んだのがこのドナルドです斯う段々と考えると彼等の連絡網陰謀網というものは実に測り知るべからざるものがあって、西安事件によって支那はやむを得ず日本に楯突くようになったといわれている、そして翌十二年七月七日に逐に蘆溝橋て事変が起り戦線は段々に拡大して八月十二日に上海事変が起ったつまり日本は不拡大方針をとっていたのでこれでは到底物になるまいというので大山大尉殺害事件を起して水に油を注いだのが猶太人英米政治家一派のフリーメーソンであり、その手先というか直接行動機関となったのがブナイブリスである、フリーメーソンは御承知でもありましょうが猶太人が中心となってその世界革命主義に共嗚した各国人が加わっている結社であり、ブナイブリスは猶太人の手を以て結成した直接行動団体であって、フリーメーソンの結社員は世界に四百五十万いてその中アメリカに三百三十万おる、アメリカの大統領は初代のジョージ・ワシントン以下数えて三十四人程あるが、その中フリーメソンに入っているものは二十七人、たとえば一番書頭のジョージ・ワシントンをはじめとして、テオドル・ルーズヴェルトタフト、フヴア、今のフランクリン・ルーズヴェルトも皆そうですアメリカにおいてはフリーメーソンたらずば高位高官になれないとさえいわれている、英国には四十六万いるそうです、それじゃ日本にもフリーメーソンがおるかいないかということになるがおるという人もあるソヴエトにもおる、フランスにもいた、フランスの三色旗は自由、平等、友愛を示しているがフリーメーソンのモットーは矢張り自由、平等友愛であって如何にフランスが彼等の温床となりそのために亡びたということは実に歴史の発転といわれるがその因果関係に興昧深いものがある
一方極東におけるフリーメーソンの活動も実に目覚ましいものであって故孫文も蒋介石も矢張りこの結社員であるとされすべて斯様に幣制改革から西安事件日支事件を画策したのはフリーメーソンと□衣社の合作事業だといっている人がある、これはどの程度まで本当か判らないがそうでないかと肯けるような情勢に昨今はなりつつある
例えば仏領印度における猶太人の結社が今活躍していることは色々なニュースで伝えられていますが昨年十月二十三日ドクー総督は河内にある猶太人の秘密結社に弾圧を加えたためその連中は皆南下して西実に集結して層一層反ドイツ反日本的な策動を続け更にシヨロンという町の支那華僑までこれに合体し十一月中旬には「ドクー総督は西実中心の猶太財閥対する押しが利かず立場困難なるためヴイシーのべタン内閣に辞意を洩したのでその後任としてアルゼリヤ総督のアブリアル提督が擁せられている」云々というデマが飛んだのも彼等の仕業であること明白で、彼等猶太系の連中は西実、シンガポールを中心としてドゴール政権派華僑とスクラムを組んで性懲りなく日本の建設工作を阻害している、・・・
(大阪府立貿易館通商課長青山忠氏談)
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満州日日新聞 1941.12.2 (昭和16)
ユダヤ問題を衝く (一〜十・11)

長谷川 ユダヤ問題に付て私共が最も重点を置かなくてはならないところはユダヤ人の世界征服の野望ということだろうと思う、・・・然し現在においては我々の目前にユダヤ問題は現れており、世界征服即ち国際主義がそのユダヤ問題である、それに対抗するのは国家主義である、もっと具体的にいえば、国際主義というのはユダヤ主義である、国家主義というのは日本主義である日本主義とそれからユダヤ主義の対立が現在のユダヤ問題であると、そういう風に私は見ております、併し彼らは武力を持っておるわけでない、何んに依って世界を征服するかというと金力と宣伝力を以て世界を征服しようとしておる、我々がユダヤ人を防御する上においても、この金力と宣伝力との線に沿うて防御しなければならないのではないかと、そう思うのであります

長谷川 ユダヤ教と日本の神道を考えて見ると、ユダヤ教より日本の神道の方が問題なく上ではないか、神道の方では私共は惟神の道ということを申します、神そのものと同じ、その儘の道を行くことが惟神の道である、これを見てもユダヤ人は神に選ばれた民に過ぎないのであるけれども、我々自身は神様と同じ性質を有っておる、我々が若し前線に行って戦死をしたという時には靖国神社に祀られる、その儘で我々が死んだならば神様である、その外に偉人として神様に祀られた人も沢山ある我々はその儘で神性を備えておるそこが我々のユダヤ人と違うところではないかと思う

出席者(順序不同) 場所 上海・新亜細亜ホラル 
満洲国上海総領事館 今島凡骨氏 同 酒井広治氏 
上海税務専門学校教授 浜野末太郎氏 
満鉄上海事務所嘱託 長谷川泰造氏 
本社 有難ら御座いました、それでユダヤ人が排斥されるということは、その強烈なユダヤ教によって作られた世界征服の野望に燃えていることからユダヤ排斥が起るということがよく分りました、次に浜野さんユダヤの世界征服政策はどんな形をとって現われているか、お願いします
浜野 昔から色々ユダヤ人が採り来った政策を歴史的に申上げると長いものになるが、最近一番人口に膾炙しておるのはユダヤの三S政策であります、これはスクリーン、スポーツ、セックスの三つで、スクリーンはアメリカ映画の九割迄がユダヤ人の資本で、そうして国民性とか或は国民の道徳というようなものを破壊して行く、先程長谷川さんが言われた通り国際主義を以て国家主義に対抗し、国家主義を破壊するのがユダヤの目的の一つであるのです、・・・
ニューヨーク・タイムスに大きく宣伝したのであるが斯ういうようなことは何れもユダヤ人がコントロールしておる通信社に依って出さておるニュースであって、それが今日世界の通信網を掌握し、ユダヤに有利なそうして非ユダヤ人即らゴイ(豚)他国民はユダヤ人からいえばゴイなんで、豚に対しては不利な情報をドンドン出しているというのが現在のユダヤの対ゴイ政策の現れだと思う
長谷川 ・・・一九一二年の九月十五日に発行されたフランスにある「国際秘密結社評論」の中にあるスイス人のフリーメーソンの言葉としてオーストリーの皇太子が殺されると、未だ皇位に上らない前に殺されるということを予言した記事があるのである、これから見てもオーストリー皇太子フェルヂナンド太公を暗殺しようという計画はその以前からあったものであって、しかもこれがユダヤ人によって計画されておる、或はフリーメーソンの関係者に依って計画されておるということは明らかに分るのであります、このフェルヂナンド太公を射殺した下手人はユダヤの青年でブリンチーブといい、これはフランスのフリメーソンの結社であるグラン・トリヤンから武器その他を受けて太公殿下を射殺する当日はやわり同じようにサラエボにあるフリーメーソン結社で御飯を食べて出かけたのであるということである
本社 それでは次に赤化革命、赤化運動と、そしてフリーメーソンとユダヤ人がどんな関係があるか、あるという説と、ないという説と両方あると思いますが 
浜野 それは結局ユダヤ人が、ユダヤ人として、ユダヤ民族として色々な陰謀をやる場合に、ユダヤ人が表面に現れては非常にやりにくい、ユダヤ人が関係した場合に、それをカムフラージユするために一種の別働隊というようなものが出来て来るのが今フリーメーソンで
本社 ところで蒋介石がフリー・メソンだという説があります 
浜野 そういうことを言っておりますね、宋子文も…… 
長谷川 蒋介石がフリー・メーソンだということは私の方にちゃんと証拠があります、
本社 そうなると、フリー・メーソンユダヤの世界攻略の別働隊になって来る、結局蒋介石はユダヤに利用されておるということになり、支那事変を解く鍵もユダヤ問題でなくてはならなくなる
、一体彼等が支那―東洋に乗込んで来たのは何時頃からですか
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10014614&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1&LANG=JA

東京新聞 1943.1.27 (昭和18)
不逞猶太人断乎処断 悪徳買占め、間諜的行為を許さず 比島軍政監部 警告を発す

軍政監部当局談われわれは八紘為宇の大精神のもとに一国民、一民族に対し何等差別感を抱くものでなく、敵国民に対しても極めて公正寛大の処置をとってきたが、一部第三国民就中ユダヤ人(無国籍民と否とを問わず)の間にはこの皇軍の恩恵的処置に狃れて不逞不遜の行動を企図し、曩にそれぞれ処罰されたことは軍政監部当局として甚だ遺憾とする、抑々ユダヤ人は祖国なき世界漂流民族であって、各国に於てもその居住国の居住民たる関係上、他国民以上に居住国の命令□法に忠実であるべきに拘らず、事実は寧ろこれに反し、彼等または彼等の同族かドイツ及びその占領地を追われて東洋に来たことからドイツの現政権に反感を有するのみならず、ドイツと同盟関係にある皇国に対しても同様の態度を持するものが少くない、比島在留ユダヤ人の中には最近彼等一流の潜行的手段により物資の買占め売惜しみによって物価のつり上げを行い民衆を苦しめ、或いは島人並に第三国人の生活窮乏に乗じてこれら婦女子を操り、
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00504054&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1&LANG=JA

台湾日日新報(新聞) 1942.7.21-1942.7.26 (昭和17) 
戦後の物資交流対策 (一〜五・完)

更に日仏印海事協定、日泰攻守同盟の成立は、三国間に残存していた英米の策動による不安定面を一掃し、同時に其の関係も単なる商業的、利己的対立関係ではなく共同戦争を遂行する高度の一体的関係に入り、恐らく戦争目的のための三国資源の共同使用は益々高度化せられ大東亜戦争に要する巨大な戦費負担も夫々の能力に応じて快よく負担されて行くであろう事が予想される、決してそれは眼先の打算でなく根本目的の為めの相互信頼と相互犠牲とが発展するのみであろう。これは素晴しい性格の変化である、猶太的商業理念は霧消して緊張の中に入りつつあるのである
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10047223&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1&LANG=JA

猶太財閥の跳梁跋扈振りを考え合せば、新嘉坡が東洋一の貿易港たる所以も自ら頷かれる、
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104 国際連盟と国際語と日本 (一〜十二)
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