植民地朝鮮の農政の実態(途中)

久間(ひさま)健一「朝鮮農政の課題」昭和18年12月25日初版発行

巻末の著者略歴が二つ並んでいる

著者略歴
大正十二年 水原高等農林学校農学科卒業
同年 江原道農事試験場勤務
大正十五年 水原高等農林学校助教授
昭和五年 朝鮮総督府道小作官補
昭和八年 朝鮮総督府道小作官

著者略歴
宇都宮高等農林学校卒業
同校助教授を経
現在、朝鮮総督府小作官
京畿道庁農政課長
久間健一著者略歴 - コピー



以下抜粋
「第一篇 朝鮮農政の展望」
第一章 農業機構の基底を流れるもの
一、はしがき
二 権力的なもの(p6~13)
 朝鮮農業に関する官庁的指導が、組織的に開始せられたのは併合以来のことであるが、それは当初より極めて権力的であった。朝鮮総督府を始め、道、郡、面と系統的官庁に配置せられた、数多の農業指導者の活動は、国権主義的意識に極めて旺盛な人々を以てせられたが故に、農民に対する指導は恐ろしく権力的であった。次に掲ぐる繁野秀介氏の談話は、その間の消息を物語って遺憾なしである。2)

「其の当時の我々技術者は、銃及びビストルを携帯して……尤も比の銃器は官給品であります……指導奨励に従事したのであります。何故銃器を携帯したかと申しますと、其の当時は暴徒の横行が盛んで有りまして、何時暴徒の襲撃を受けるか判らないからでありました。(中略)少し遠距離になりますと頗る危険でありますから、昼は終日指導に従事し、夜は農民を集めて講話を致し、就寝する時は里長の宅か、又は酒幕で銃を抱へて壁に寄り掛った儘、転寝をして暴徒の襲撃を警戒し乍ら宿泊したのであります。」

 優良品種の普及を初め、耕種技術の改善、肥料の増施、堆肥の造成等々の凡百の農産増殖的な指導の数々は、知識と資力なき農民に直ちに強制せしめられた。之等の農産技術的な指導の凡ては、民度を顧慮する暇もなく、個々の経済を吟味する余裕もなく、官庁的画一性を以て、統一的計画の下に遂行せられたのである。
 例へば、之等の権力的な農事指導の最も集中せられた米作農業について考へてみる。今日に於てこそ、朝鮮を旅する人々の眼には、水利組合地区内は固より、相当奥地に至るまで、優良品種が普及し、改良苗代が作られ、正条植が徹底し、稗抜きが励行せられて、朝鮮稲作の躍進的発展に、驚異の眼を見張るであらうが、その発展の裏には、官憲の驚くべき強行軍的な農業指導の歴史が織り込まれてゐるのである。指導者の正しい指示に従はざる苗代は踏み破られ、正条植に応じないものは、苗を抜きすてられて再植を命じられる。稗抜きは幾回となく統一的な計画の下に、農民を動員して強行せられる。これらの所調「官の指導」に従はざるものは、警察の説論を受け、或は時に強制力を以てしても強行せしめられる。栽培品種に就ても同様一定の奨励品種が定められ、之が年次的普及更新の計画が立てられると、最下級の行政単位たる面に至るまで、年攻計画が系統的に整然と確立せられて、定められた品種以外の栽培は禁止せられ、農民の意欲に闘せす強力的に実行せしめられる。更にまた、収穫期に就ても適期刈取が喧かましく強行され、刈取れば乾燥に就て、乾燥すれば調製に就て、脱穀機の使用や筵蓆使用が強制せられる。稲の脱穀調整に筵を敷かないものは、道令を以て科料に処すとい簡単な法令を以て之が実行を強要し、違反者を処罰した事例は米作地帯の各道が既に経験せる所である。3)之を要するに、苗代に下種すべき種子から脱穀に至るまで、微細なる生産過程の隅々までも、指導の触手は浸み渡って、専ら強行的に実施せしめられたのである。この意味に於て、今日まで斯る強行的な指導を、執拗に絶間なく繰返して来た、技術指導者の努力は大いに評価されねばならない。今日朝鮮の米作農業が躍進的発展を遂げ、商品債値高き米が滔々として内地に送られ、ために内鮮米作農業対立の危機を産むに至ったのは、他の理由もあるが、斯る強力的な増産的開発が執拗に繰返された永年の努力の結果でもある。
 まことに朝鮮の米作農業の開発は、それが膨張する内地人口に対する食糧供給といふ、国防経済的自給政策の必要のために、何よりも先づ開始さるべきものであったが故に、しかも指導の対象たる農民は、技術に於て、資力に於て、何物をも有せざりしが故にこそ、最も極端な権力的指導が加へられたのである。しかも斯る権力的開発は日本人的な性急さを以て行はれたが故に、農民の理解といふことなどは願慮せられなかったし、顧みる暇もなかったのである。農民は唯官庁的指導の命するまゝに、配給された種子を、教へられた苗代に播き、与へられた田植縄によって正条植を行ひ、定められた日に肥料を施し、除草を行ひ、命ぜられた日に稗を抜き、刈取を行ひ、示された方法に従って乾燥調製を行ふのみであった。そこには唯監観と命令のみがあった。若しありとするも農民の創意の如きは全然存在しなかったのである。
 人々は、今日朝鮮に於ける米作農業に対する、官庁的指導の体系を子細に吟味せられるがよい。それは凡て農民に対する権力的な強制に終始して居る。それはまた、食種の国防経済的自給政策を貫徹するために、必要欠くべからざる槓杆であり、それ自身の必然的要請でもある。而して斯る権力的な官庁的指導は、大正九年産米増殖計画の実施せらるゝに及んで、益々拍車をかけられたことは云ふまでもない。
 権力的な農業開発は啻に米作農業のみではない。他の一例を棉作に就て見る。朝鮮で棉の奨励を始めたのは明治三十九年頃であるが、この新来の作物を農民に栽培させることは容易でなかった。之がため当時は憲兵や巡査までを動員して、強制的に栽培せしめたのであった。のみならず棉を栽培しない農家にして、麦や大豆を作ってみるものは、強制的に、大豆や麦を足で踏み倒してしまったことも一切〔ママ「再」の誤字か〕ではなかった。そして最後には、官憲の意を体して棉を作るものには奨励金を交付した位であった。4)その最も極端な場合は、笞刑を以て綿花栽培を強制した次の一文によって、如何にその開発が強力的であったかが知られるであらう。5)

「全南珍島は古来難治の地方でありまして、とても陸地棉栽培など承知しませんので、(中略)郡庁に郡守を訪ねて御願致し、栽培者を物色して呼び出し、必ず播種するやう厳重に申渡して貰ったのです。虜が頑固で中々応じない。そこで郡守は之に笞刑を命じ、始めは軽く打たせてをりましたが、依然として承諾しないので、段々と強く打たせ二十回臀部を打たせ大分局部が赤く腫れ上った頃になりますと、愈々兜を脱いで播種することを承諾しました。(後略)」(千葉喜千彌氏談)

 今日でも棉作奨励に於ける斯る強制は、その態容こそ異れ依然として存在する。所請「棉花増産計画」は道、郡、面、と系統的に樹立せられ、部落に於ては適地選定の名の下に、個々の農家の耕作地に、棉の裁境面積と氏名を記せる棒杙(原文「木」偏に「戈」)が半強制的に立てられ、一たび下種せられるや、摘心、摘芽、施肥、除草、等々の裁培技術の細部に亘って濃厚な強制的指導が加へられ、そこには農民の自主的行動の影は殆んど見出されないのである。それは恰も南部アメリカの棉栽培地方に於けるクロッパー(Corpper)〔綴りママ〕のそれにも類するものである。
 斯くして生産された棉花は、販売市場に強制せしめられる。官憲は栽培面積と作柄によって、収穫量を予定し、販売すべき数量を定め、と云ふよりも予め定められたる年次計画に随って、予定販売数量の実現に並々ならぬ努力が払はれ、目的の貫徹に懸命の活動が行はれる。そこには時に管轄を異にする両官庁の間に販売棉花の争奪に就て争を醸し出すことさへある。そして勢の赴く処、予定販売数量実現のため、指導者は栽培農家の家屋を点検して、隠匿せる棉花の捜索を強行することさへもある。
 更にまた、棉作に於ける権力的強制に関連して注意すべきは、繰綿器の使用禁止収納である。自給を抑制し棉花を販買市場に強制動員せしむるためには、このことは必要欠くべからざることであった。当局は種々なる手段を以て農民の繰綿器の使用を禁止した。こゝに農民の自然経済に対する強力的な破壊作用の一断面が見られる。
 朝鮮の棉作、就中、外来的な陸地棉は、農民にとっては未知の作物であり、之が栽培は経験せざることであった。しかも自給経済に慣れた農民経済にとっては、棉花の如き販売作物の経済上に於ける地位を理解することは困難であった。茲に辛うじて自然経済的な孤城を守る農民経済に対する、外来的な貨幣経済の侵入が展開せられる。すべてのものは理解を必要としなかった。否そんな間どろかしいことは、日本人的性格の許す所ではなかった。そこに必要であったものは唯強制のみであった。今日の棉花増産の結果は一に此の強制によると云ふも過言ではない
 朝鮮に於ける棉花増産計書は、昭和三年を以て第二期計画を終ったが、昭和八年に至り、新規に棉花増産計画が樹立せられ、最近の国際情勢に鑑み本邦棉花の自給を図るため、棉花増産は益々拍車をかけられつゝある。「南棉北羊」の宇垣スローガンの喧伝これである。斯くて朝鮮に於ける綿花栽培は益々農民への強制を強めて行くのみか、最近に於ける国防経済的自給政策の強化は、益々棉花の強力的増産へと加速度を増しつゝある。 
 人々は朝鮮総督府の統計表に現はれた、棉花の作付反別及び収穫高の始政以来の発展程度を注意深く見なければならない。それは、農業生産体系に於ける資本主義的分化の編成替であり、自然経済の解体による商品経済への転化である。朝鮮の農民経済の斯る解体転化は、啻に棉花のみならず米、繭等の販売作物の強制的増産政策の結果にもよるものであるが、斯る権力的な官庁的農産開発の触撃が、農民経済の貨幣経済化の一線と併行する所に、権力的開発の持つ反面の意義を見出し得るのである。
 以上、米作及び棉作の代表的事例に就て、朝鮮農業の強力的開発の如何なるものかを述べた。それは云はば「監視と命令」によって行はれた開発であり、自発的なものの全く認められない外来的強制である。随って、農民自らの観点に立って考へるときは、凡ての経済活動は、彼等の創造を許されないし、(又その力もないが)だと云って、停滞的な父祖伝来の旧法を踏襲することも許されなかった。そこには監視と命令とによって強制せしめられた近代的開発の軌道があるのみである。この軌道に従ふものは、善良な農民であり、進歩的な農民であった。言葉を換へて云へば、農民が曾つて有した経済的自動性は一挙にして破壊せられ、新たに与へらるゝを余儀なくされたものは、外在的な強制による他動的な経済活動の軌道であった。この急激な経済活動の変革は、彼等自らに、之に順応する知識も資力もなかりしため、そこに恐ろしき撹乱が巻き起されたのである。朝鮮農民の膨大な貧農暦への顛落は、斯る経済活動の他律的強制的変革による撹乱に、打克ち得ざりし一の現はれでもある。
 まことに、朝鮮農業の近代的開発は、祖国日本の国権主義的意識の下に、権力的に行はれたのであった。しからば、斯る権力的な開発は何れの方向を採ったか? それは取りも直さず、近代的農産開発であり、自給自足経済から商品経済への強力的な編成への方向を執ったのである。農民経済の貨幣経済化こそは、植民政策の第一の定石であり、これを通じてのみ初めて近代的農業務展の可能性が約束せられるのである。随つて朝鮮農業の基底には、極めて国権的背景の濃厚なる資本制的なものが、流れつゝあることは、吾々の容易に想像し得るところである。
 朝鮮農業に於ける権力的な官庁的触撃の如何なるものかは、以上によって知られ得るであらう。然し午ら、斯る編撃は、本質的には企業者的な編撃と解することによってのみ、真の意義を求め得られるのである。開発途上に於て官庁の演じた企業者的役割こそは、権力的な触撃の奥深くに秘められた核心である。吾々は斯る権力的そして企業者的な官庁的触撃の典型的なものを、組織ある国家資本の動員によって遂行せられた、彼の所謂「産米増殖計画」に見るのである。
 権力的な官庁的触撃は、それ自らが企業者的触撃であるのみならず地主、資本家の行ふ企業的触撃との間に、本質的な共通点を求め得られるのである。きればこそ地主、資本家による所謂「農事経営」の開発的触撃は、それ自らに於て官庁的な強力を以て行はれた許りでなく、多くの場合官庁の権力的触撃と提携することによって、より多くの企業利潤を獲得したのである。言葉を換へて云へば、官庁は時に地主、資本家に代って企業者的役割を権力的に行ひ、地主、資本家は時に官庁に代って、または官庁的権力の背景の下に、強力的な触撃を農民に加へることによって、企業者としての利益を確保したのである。朝鮮農業の基底を流れる権力的なものは、かくて資本制的なものと緊密な結合関係にあることが知られる。7)然らば、資本制的なものとは如何なるものか?

2)朝鮮農会報(第九卷、第十一号)始政二十五周年記念、農事回顧座談会号、四〇―四一頁
3)前揭書、二〇頁
4)前掲書、九、二〇、三六頁
5)前掲書、四四―四五頁
6)朝鮮總督府、朝鮮の農業(昭和九年)、七一頁
7)矢内原忠雄、帝国主義下の台湾、七〇頁

(以上「二 権力的なもの」全文抜粋)

 外来の企業的地主は、明治三十年代の未だ韓国の国情騒然たる時代に於て勇敢なる進軍を開始した。当時生命の危険を冒して土地の買収に従事せる内地人地主は、主として土地経営の有望なる南鮮に集中せられ、年と共に次第に北上したのであった。吾々は当時全南にあって土地の買収に従事せる兵頭一雄氏の経験談を掲げて、以て国権意識に燃えたる内地資本進出の状況の一端を説明せしめたい。9)

「当時この全南に開拓のため来て居った内地人農場の空気は、今の満州の武装移民を思ひ出すのであります。私共が土地の買収に出ますには、腰にピストルと望遠鏡を下げまして、而して二里三里の田舎に出掛けて農場としての有望なる土地がどこにあるかを探しに行くのですが、その時にはどこの山で内地人が殺されたとか、人質に日本人が何人も拉致されたとか、必ず耳にしたものであります。」(兵頭一雄氏談)(p14)

 朝鮮農業に於ける資本制的支配の最も顕著なるものは、外来の企業的地主経済の小作農民に封する資本支配これである。上層から注入された多額の資本が、最下層に於て、毛細管的接触を、農民経済に作用しつゝ、再び利潤を内包し、上層へ復帰上昇して行く過程こそ、まさに吾々の注目を必
要とする所である。
 今慈に、企業的地主の農民支配を考へる。地主は先づ所属小作人に対して、極めて地主主義的な精細厳重なる耕作方法を強制する。彼等は先づ農民に対して栽培すべき品種を指定する。この品種の指定は初論販売市場に於ける有利性によって決定せられる。こゝに農民の生産過程に於ける資本の支配の第一歩が始まる。品種の指定が行はれるや、一切の栽培技術は間断なく秩序的に命令せられ監視せられ、その埒外に一歩たりとも出づるを許されない。農民は唯労働者の如く柔順でなければならない。定められた時期に植付をし、定められた時に草を取り処方箋の如くに肥料を施す。許されたる部分は資本の利益に闘係なき、極めて軽微な監視と命令に値せぬ些事に限られるのみである。
 施用すべき肥料の種類も用量も、使用すべき農具も、凡て地主によって決定配給せられ、之に従はざるものは不良小作人の烙印を打たれて放逐せられる。地主はこれらの生産技術を凡て小作人に代って決定し配給する。これがために、多額の低利資金が官庁によって地主経済に幹旋供給せられる。曰く、肥料資金、曰く、農其資金……。
 作物が成熟期に達すると、収穫の時期が制限せられ、地主は単独に小作料を決定通告する。打租制の如き場合には、刈取、脱殻に一々監視人が付けられる。愈々収納となれば、小作人の運搬せる小作籾は、乾燥、調製、容量、重量、包装の細部に互って厳重な検査が行はれ、それに合格せるもののみが受領せられる。若し品質にして不良なれば、契約によって再選を命ぜられ、或は逆に補償金を取られる場合すらある。斯くして品種の統一せられた、規格の整一なる籾の大量が、地主の倉庫に積み上げられ、地主自身の手によって製玄されるか、或は時期を見て精米業者と大量に取引せられる。
 然し乍ら、地主の収得する籾は単に小作料籾のみではない。小作料籾の納入告知書にはこれに付随してもろもろの前貸資本の請求が行はれる。曰く肥料代、曰く農具代、曰く貸付金、曰く農糧籾、曰く種子代、と、……これらのものは出来秋に於て換算せられ、すべて籾を以て余す所なく回収せられる。随つて農民は、全収穫籾の七割乃至八割を地主の倉庫に納入するを余儀なくされる。斯くて流通過程の起点に於て、すでに資本は自らの支配を迅速周到に完了するのである。
 小作農民に対する斯る資本支配は、単に自らの属する地主の資本のみに限らない。地主とすべてを決済し、幸ひ剰余籾を存するも、それは地主以外の資本によって更に支配せられる。農村に於ける商業資本、高利貸資本の支配これである。斯る資本の支配を受けざるとしても、食糧不足のために零細なる剰余籾は換価せられて、市場に流出して行く。朝鮮米の著しき内地移出は、まさに斯る強力な資本支配の結果であり、農民から云へば、これこそ正に「飢餓移出」の現はれでもある。それは決して三餐に飽き尚剰す所を移出するのではない。斯くして農民経済の隅々にまで、毛細管的に浸透せる資本の触手は容赦もなく生産過程と云はず、流通過程と云はず、全面的に支配し、農産物を商品市場へと強制動員して行くのである。
 斯る農業に於ける資本制的機構は、何れの植民地農業に於ても見受けられる所である。それは資本主義と非資本主義との接触に於ける当然の結果であり、それが常に収奪的傾向を帯ぶることも亦当然である。而してその収奪性は、農民の経済が貨幣経済を距たること遠き程、顕著にあらはれることも亦絮説するまでもない。10)
 朝鮮農業は曾つて、主として南鮮を対象とせられた米作農業を中軸として、極めて資本制的な開発が弾力的に行はれて来たのであるが、今や斯る経済機構の変動は、次第に西北鮮へと拡大し、全鮮を席巻せんとしつゝある。所請「北鮮開拓」の経済的意義も亦斯る観点よりして把握せらるべきであらう。
 朝鮮農業の基底を流れてゐる、資本制的なものの実相は右の如くである。朝鮮農民の近代経済生活に於ける、深刻な困窮も亦茲に胚胎する。これは協力的にその生産機構を、資本制的に触撃変革せしめられ、しかも自らをこれらの新しい生産体制へ適応せしむることも、ましてや自らをこれらの資本支配から共同防衛することもなし得なかった朝鮮農民にとっては、不可避的な運命とも云ふべきものであらう。(p17~p20)

8)東畑精一、日本農業の展開過程、八二頁
9)朝鮮農会報、前掲書、四二頁
10)矢内原忠雄、植民及植民政策、二一四頁

 昭和九年の農業統計に依れば、、朝鮮農民三百一万戸中、小作農民は二百二十八万戸、即ち全農家戸数の七五%強を占めてゐる。之等の圧倒的多数の農民は、夫々地主との間に一定の小作関係の下に、農業経営を営んで居る。斯る膨大な農民層の土地離脱は、遠く李朝時代の土地制度の紊乱に胚胎するとは云へ、之を著しく促進したものは極めて資本制的な近代的農業開発の必然的結果である。とまれ七五%の小作人は、貸付地主の土地を耕作してゐるのではあるが、之等の地主小作人間の関係は、地主によってその内容傾向に著しき差異が見られる。
 朝鮮の地主を大きく分けて二つの型に分ける。一は企業的地主であり、他は封建的地主とも呼ばるべきものである。前者は主として内地から渡来した営利的な土地投資家であって、前述せる如く、官庁的開発と提携して朝鮮農業の近代的開発に貢献した「先駆者」であり、極めて営利衝動に充満せる地主である。東洋拓殖株式会社を初めとし、全鮮各地に散在せる所調「農場」「土地会社」等は凡てこのタイプである
 これらの近代的地主の小作関係は前述せる如く、極めて資本制的であって、地主と小作人との間には、封建的な従属関係は左程濃厚ではない。そこに現はれた小作条件は、極めて精細厳重で著しく階級的であつて、営利德動に充満せるものである。
 後者は所請在来型地主とも云ふべきものであって、李朝の両班貴族を淵源的主流とする土地所有者群である。(p22・23)

 この極めて原始的な、技術の低劣な、而もその故に発展なき静態的な旧来の農業に、改良増殖といふ技術的変革を巻き起さんとすることは、それ自体まことに至難なことであった。動かざるもの、動き得ざるものを動かさんとするには、到底内務的なものを期待することは出来ない。随って、これを他動的に動かすより以外に方法はなかった。この動かす力こそ指導に必然的に加へられた強制である。言葉を換へて云へば、農民に封する強制的指導である。これが当時に於ける指導精神に内在せる一つの重要なる特徴であったことは云ふまでもない。一例を当時の棉作奨励に闘する、松井房次郎氏の回顧談に採れば次の如くである。7)

「僕が全北に居る時橘君が濃霧課長だったが、その時棉の奨励をやったところが面白い。農家に対して、お前の家は来年棉を作るかいくら作るかと云ふので、その作り攻第で金を貸してやったものです。さうしてその年行って見ると棉は一つも作って居ない、皆麦を作って居るからその変を全部踏み倒して終った。随分強行軍をやったものです。」

 斯くの如く、当時の農民指導者のイデオロギーには、一種の国権的意識が強く、随ってその指導上に強制が著しかつたことは、国情騒然たるこの時代としては、治安の不充分なる点と相俟って、止むを得なかったことと考へられる。当時の事情の一端として、明治四十二年頃の棉作指導の状況を示せば 8)

「当時の各地棉採種圃の職員は真に生死の巷に身を置いて、之が奨励に当ったものである。即ち指導の為出張する場合は銃(官給品)を持ち望遠鏡を肩にする等、全く武装に身を固め、又少しく遠隔の地の場合は守備兵又は警察官を護衛に付し昼は終日指導に従事し夜は農民を集めて講話をなし、就寝する時は里長又は有力者の宅或は酒幕等にて、銃を枕に靴をはきゲートルを巻きたる儘、暴徒を警戒しつつ、仮睡したと云ふ。明治四十二年一月三日、全羅南道珍島に蜂起した暴徒は、警察署、財務署等に弾丸を浴せ農事経営者の家屋を灰燼に帰し、或は毒手に斃す等基の惨状見るに忍びざるものありたるも、幸に棉採種圃及其の職員は災害を免るゝを得たが、次で三月二十四日、全南霊岩採種圃は数十名より成る暴徒の襲撃する処となり、所員は備品の銃を執って防戦大いに努めたが、衆寡敵せず、途に事務所其の他の物品等悉く焼失せらるゝに至った。唯比の間に在りて五名の職員何れも身を以て逃れ得た事は全く天祐と称するの外は無い。」(p67・68)

7)朝鮮農会報(第九巻、第十一号、九頁)
8)前掲(※日満棉花協会朝鮮支部)、朝鮮の棉花事情(一八六頁)

 昭和の当初頃より、その萌芽を示しつゝあった今次の農業恐慌は、昭和五―六年に至って愈々その深刻の度を深めた。農産物の急激な暴落は、農民の生活を悲惨なものにした。この世界的不況に於て、朝鮮農業は云ひ様のない様々は苦悩に逢着した。そしてそれをどう切抜けるかが最も切質な問題であった。それは言葉を換へて云へば、農業に於ける指導精神の暴風雨時代であった。そして到る処のヂャーナリストは、声を大にして、農民生活の底知れぬ窮乏を伝へて来た。今その一つの描写を掲げる。10)

「農業恐慌のるつぼの中に四苦八苦の農村の呻吟を尋ねて忠面牙山郡温陽面を訪れた。この附近は綿花栽培に適してゐると云ふので特に忠南道庁から棉作指定郡とされてゐる。いはば産米増殖計画による米作単一農業の弊を排し、多角的農耕によって農村の向上をはからうとの試煉台上にある地方である。しかし如何せん米価の惨落を償ふはずの綿花も底なしのつるべ落しとなり、有難い総督府の方針も世界を吹き荒す恐慌の旋風の前にはひとたまりもなくけし飛んで寧ろ棉作に従つた農民は情けが仇の受難に陥ってゐる。かうなつてはさすが純朴な農民達も有利な副業であるから、大いに作れとの郡の奨励なんかに耳をかさばこそ我らはまづ食ふべきものを植ゑねばならないと悲痛な叫びをあげて、どしどし棉作をなげうつて麦、大豆、栗へと転作をなし、本年の如きは綿花耕作地が昨年の牛分に減じてしまった。指導的立場にある当局者は農民が近視眼的だといってゐるが、彼らは表面大びらに口にこそ出してはいはないけれども生か死かの岐路にあってみすみす損するやうな棉作なんかやれるもんか、少しでも自分達の口を潤す麦でも粟でも作ることが先だとの考へを誰もが抱いてゐるのだ。わづかばかりの畑に植ゑた麦でさへ成熟するまでに待ち切れずに、未だ実もかたまらない乳熟期に刈取つて精白しさらにこれを粉にして粥を作つてすゝつてゐる有様だ。それでもまだ麦が出来るやうになれば多少とも潤ふけ れども、四、五月のいはゆる春窮期には、草の芽を摘み、木の根を掘り、木の皮を剥ぎアカシヤの花を取ってヤット生命をつないでゐる。だがら四、五月ごろはだれもだれもが弾力なく膨れあがって栄養不良となり、むさ苦しいオンドルに水ばかり飲んで寝ころんでゐたものである。ある農業指導員から『農民の最も多忙な田植のいまでさへ粟飯でも三度三度戴いてゐるものはほんの僅かでせう』と聞かされて驚いた。」(p76・77)

10)大阪毎日朝鮮版 昭和七年六月二十一日(?)〔ママ〕


 既に述べたる如く、朝鮮農業は就中米作農業に於て、偉大なる発展を遂げたにも拘はらず、農民の穀物消費量は、多くの論者の指摘する如く、漸減の傾向を示してゐるのである。このことは第十九表の示す如くであるが、それは米消費の減少と、之と代替する雑穀の潮増でなくして、両者の潮減である点に特質が見られるのである。即ち当然増すべきものさへもが減少してゐるのであって、これはまさに消費生活の乏しき暗黒面を示すものである。
 しかもこの乏しき消費生活は、勿論地方的にも差異あるが、更に重要なことは、それが季節的に極端なる偏位を示せることである。いま米国消費を米穀年度の前半期と後半期に分けて、米穀統計の示す所に従って分類すれば、第二十表の如く、前牛期に於て総消費量の八〇%を消費し、後半期に於て消費すべき量は、僅かに二〇%にすぎない。このことはまさに後牛期の食糧不足を意味するものであって、これが所請「春窮」である。まことに東畑教授の言を借りるまでもなく、「新緑の春は彼等にとっては正に春ではない」のである。春窮の民は依然として尽きない。華々しき鮮米移出量の激増の背後に、斯くの如き反面を見ることは、忘却すべからざる事柄と云はねばならぬ。憐れむべきシンドレラが大群となって、背後に横はってゐるのであって「農民は乏しきまゝに今日の生命を、明日の運命より重しとして、先づ持てるものより胃袋に入れてゆく」ことが実証せられるのである。
 かくて、春窮は朝鮮農村に於ける一つの恒常的な生活現象であって、唯それが「自然のむら気」即ち農作の豊凶と経済界の変動によって、春窮民の量とその質に変動を来すにすぎないのである。いまこれらの最も凄惨な実相を現はすために、昭和八年の早害の中心地たりし、咸南徳源郡豊上、豊下面地方の、農村の春窮描写の一例を掲げたい。7)

『村落に入ると丁度正午ごろである。道ばたのとある一軒に立寄って見ると、家族五人が力なげに寝そべったまゝ、ムシャムシャと頬張ってゐる。「何か」ときいてみると、稗糠に少量の大豆と、つぶし胡麻を混じたものだといふ。家人は何れも目の周りが紫色にふくれ上り、全身に水腫が浮いてゐる。話す言葉も全く力がなくて、丸で蚊のないてでもゐるやうな弱さだ。亭主らしい四十がらみの男が、物憂げにゐずまゐを直してポツリポツリ語るところによるとかうだ。―
草根木皮のあるうちはまだこんなに衰へはしなかった。それもいつか食ひつくしたので、詮方なく今は稗糠に大豆と胡麻を混ぜた粥や粟糠の粥、米糟などを常食にしてゐるが、それでもまだ上等で、時には大根のひげ根の部分や、葛根のたゝき粕を細かく砕いたもの、玉蜀季の芯の部分を包丁でそいだ粉などを、一所に煮て食って飢ゑを凌いでゐるといふのだ。そのうちに子供が腹痛を訴へて、大声に泣き出した。するとその男はチェッーと舌打ちをしながら、危なっかしい足どりで泣く子を抱へたまゝ戸外に出て行って佇んだ。
怪訝に思って彼の仕草を見てみると、尺あまりの棒の先きで、子供の尻を突いてゐるではないか、やがて子供はその男につれられて戻って来た。男はまた話をつゞけ―
粟糠を食ふと大人はさうでもないが、子供は通じが悪くなり、腹を痛めていつもあの通りに泣くし、米糠も子供は胃腸を痛めて困ると訴へるのであつた。
見、聞いてみる自分の胸はグッと押しつまって、痛いくらゐに圧迫感がのしかゝる。次の部落へ入って見た。道ばたに寝そべってみた痩大がまさに踏まれようとするまで、その位置から離れようとしない。漸くのこと自分達の一、二尺前まで来たころ、痩せ弱った脇腹に助骨の波を打たせて、道ばたまでよろめきながら身を避けたかと思ふと、そこでバタリ足を二本づつ揃へて横なげに身を投出してあへいでゐる。雑穀の屑まで貴い生命の糧とされるので、家畜や家禽の口には容易に渡らない結果、鶏も犬も骨と皮で作った剥製同様痩せ切ってしまふのも道理だ。この両部落からは鼠がとうに姿を消してしまった。多分死に絶えたのでせうと伴れの者が説明した。』
 
 以上の描写は北鮮の畑作地帯で、雑穀生産を中心とする地帯に於ける、いはば極端な典型的な春窮譜であるが、之と反対に、昭和八年の南鮮地方の豊作にあっても、穀価の下落による春窮もまた起り得るのであって、春窮が深刻となるのは凶年に限られたことではないのである。いまその一例として、稲作地帯たる忠南牙山郡温陽面地方の農村春窮描写を掲げると、8)

『わづかばかりの畑に植ゑた麦でさへ、成熟するまで待ち切れずに、未だ実もかたまらない乳熟期に刈取って精白し、さらにこれを粉にして粥を作ってすゝつてゐる有様だ。それでもまだ麦が出来るやうになれば多少とも潤ふけれども、四、五月のいはゆる春窮期には、草の芽を摘み、木の根を掘り、木の皮を剥ぎ、アカシヤの花を取って、ヤッと生命をつないでゐる。だから四五月ごろは、だれもだれもが弾力なく膨れあがって、楽養不良となり、むさ苦しいオンドルに水ばかり飲んで寝ころんでゐたものである。ある農業指導員から「農民の最も多忙な田植のいまでさへ、粟飯でも三度載いてゐるものはほんの僅かでせう」と聞かされて驚いた。
各部落をぐるぐる廻って歩いてゐる郡農会の技手さんの話によると、
「郡内のどの部落も、一年中粟さへをがめぬ者が、約一割は確実にありませう。地主から出来秋には一倍半にして返すと云ふ、話にならない高利で籾を借り、市日に粟にでも代へて、粥でもすゝり乍ら、かすかす春さきを過してゐる者は、三割以上もあります。それもこんな不況になっては、地主も貸したところで、秋になって返済するかどうか疑問だから、一斗の籾だってなかなか貸してくれなくなり、どん底の農民達は増加する一方です。地主がこんな心配するのもまた無理からぬ点があるんです。昨年の秋なんか、出来秋になって、籾を安値でこっそり買って、一夜のうちにどこにも知らさず一家をまとめて逃げてしまったのがぼつぼつありました。この秋なんかもっとふえることでせう。こんな全く形容もできないやうな、みじめなどん底生活をしてゐるのですから、金と云ふものは鐚一文だって、手にしたことのない農家だって、決して少くありませんよ。粗末な壁が到るところ落ちて、サバリが四つ五つころがってゐるほか、何んにもないと云ふ農家はざらにあります。」との話に、記者は聞きしにまさるその貧窮状態に戦慄させられた。』

 人々はこの二つの描写を比較せられるがよい。それはともすれば誇張し易き、ヂャーナリストの記事だとは云へ、若干の真実を吾々に与へるものである。そして咸南のそれは自然経済的な春窮譜であり、忠南のそれは貨幣経済的な春窮譜であり、それはまた両地方の農業経済発展の程度を示すものでもあるが、いづれにしても、その帰結する所は、生理的欲求以下に、消費生活が低劣ならしめられてゐることである。
 吾々は故らに、農民の消費生活の低劣なることに就て、表面的な消費統計を掲げ、或はその消費の季節的差異を統計的に示し、或は曾つてありし豊作飢饉、凶作飢饉に於ける、農民生活の窮乏相を、くどくどしく或は説明し或は引用したが、これらはすべて、それが直ちに肉体的な生命線の間題であり、延いては栄養欠乏の間題であることは云ふまでもないのである。換言すれば、農民は最低限度に必要とする、生理的栄養すらも充分に与へられてゐないことが分るのである。第一図は春窮を栄養的に見たる場合の、標式的な生活形態を端的に示すものであつて、斯る状態にある農民にとつては、労働力の生物学的再生産そのものすらも、困難不可能ならしむるものである。しかもこれらの農民は、昭和五年の調査によれば、第二十一表の示す如く、百二十五万戸に達し、全農民の四八%に及ぶのである。(p446~451)

7)大毎 どん底の農村実相を描く(昭和八年六月十七日)
8)大毎 同記事(昭和八年六月二十一日)


皇軍実態集 兵は消耗品、武器や馬の方が大事



内閣情報部「写真週報」351号 1944年12月13日

「御紋章と小銃・・・自己の身命を顧みず小銃を尊重擁護する至高の精神もまたこゝに発するのであって」(p7)
https://www.digital.archives.go.jp/das/image/M2006070616411057931
DN_HkotVwAAcXdE

私達の重機関銃隊には馬が十頭所属しており、雪の中での馬の手入れや飼育は大変な仕事で、古兵からは「貴様達より馬が大切だ」と叱られながらの手入れでした。(p438)野田

S分隊士 学徒出陣で来たB大出身中尉。「飛行機一機作るには七万円もかかる。貴様たちのような者を訓練しなくても一銭五厘でもっと優秀な奴がいくらでも集まる」と一銭五厘の価値も無い奴らだとののしる。兵の命は鳥の毛よりも軽い奴らだとののしる。兵の命は鳥の毛よりも軽かった。(p117)杉浦http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/11onketsu/O_11_113_1.pdf

昭和十六(一九四一)年四月、徴兵検査を受け、甲種合格で、現役兵として、昭和十六年十二月十二日、朝鮮歩兵第七十六連隊に入隊、第一機関銃中隊自動車班に編入されました。同年十二月二十二日、洪儀に着き、直ちに国境の警備に就きました。 昭和十七年一月八日は陸軍記念日に当たり、夜、兵団長閣下の閲兵、訓示がありました。訓示では「君たちは消耗品である。不足すれば一銭五厘のはがきを出せば、いくらでも兵を集められる。日本国は物資が乏しいため兵器と被服を大切に、ことがあれば一週間でウラジオストックを攻撃する」と言明された。(p88・89) 荒明

師団長は訓示の中で「ソ連と始まれば、ウラジオを一週間で陥落させる」「兵隊は消耗品」などと言っていました。(p373)荒明
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/11onketsu/O_11_373_1.pdf

 そして呉軍港に碇泊している輸送船に乗船を完了した。ただちに出航である。客船ではなく貨物船である。設備はお粗末なもので、牛、豚並みである。この輸送船で思ったことは、静岡の第三十四連隊では、「お前達は一銭五厘並みだ、歩兵銃の弾丸は消耗品でもお前達より高価である。一発の弾丸でも貴重だ」と言われたことを思い出し、なるほど荷物並みで人間扱いではない、これが戦争かなと思った。(p114)竹内http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/12onketsu/O_12_108_1.pdf

 私の入隊した部隊は、輓馬の重砲隊であった。班には三十頭近くの馬がいたと記憶している。馬部隊では、馬をとても大切にした。「お前たちは一銭五厘でいくらでも来るが、馬はそういうわけにはいかない」とよく言われたものだ。兵隊は一銭五厘の切手を貼った手紙で集められるが、馬を集めるには沢山のお金がかかる。実際馬部隊では、馬に故障が起これば行動は出来ないのである。(p140)松井
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/11onketsu/O_11_137_1.pdf

そして上官は他の者に向かって「よーし下りろ、みんなようく聞け、お前達はこれから言うことを聞かないとバッターで思う存分打ってやる。一人二人たたき殺しても一銭五厘のハガキ一枚で来ているんだ。言う事を聞かないとたたき殺すぞ」と威嚇した。あとでそのバッターを見ると「海軍精神注入棒」と書かれていた。(p445)渡部
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/15onketsu/O_15_443_1.pdf

 同年十月、神戸軍管区の人は神戸山手小学校において壮丁検査を受ける。私は甲種合格になる。
 同年十二月一日付で西部第五十一部隊、姫路第十師団野砲兵連隊・第四中隊四班(中隊長片山中尉)に入隊。一〇センチ榴弾砲の挽馬部隊であった。
 「初年兵の心得五カ条」
第一 早めし、早がけ、早ぐそ
第二 要領を旨とすべし、員数の確保
第三 地方弁を使うな、そして大きな声
第四 軍馬は兵器、陛下からの預かりもの。兵隊は一銭五厘(ハガキ一枚)の消耗品だ
第五 軍隊は、メンコの数(食事の事)。
右五カ条を旨とすべし、だった。・・・(p473・474)

 軍隊では馬は大切な兵器である。何事にもまずお馬様が優先である。各中隊には専属の厩があり、馬当番がそれぞれ一頭ずつ割り当てられる。生き物であるだけに管理が難しい。特に馬は腸が細く長いので飲食のチェックが大切である。水すい嗽そうと称して、一日に二回以上水飲み場へ連れ出し、一口・二口・三口と喉を鳴らしながら飲むのを確かめ、何回飲んだかを当番下士官に報告、記録して健康の管理をするのである。
 朝は兵科の者より三十分早く起床し、厩でまず馬糞の回収、寝草干し、金櫛による馬体の手入れ、蹄蹉の手入れ、そして飼葉(岩塩を充分いれる)を与える。すべて終了後に、兵隊の朝食になる。何事でも朝飯前の一仕事と云うが軍馬に関しては重労働だった。
 また廊下不寝番ともなれば、徹夜で自隊の馬の管理を二人で担当するのだ。当番士官の巡察があるので怠けることはできない。初年兵を体験して、つくづく人間に生まれたのを情けなく思うのであった。(p474・475)柏井

 私は昭和十八(一九四三)年徴集兵で、甲種合格となり、昭和十八年十二月初旬に久留米の第十八師団(菊)山砲兵第十八連隊に入隊しました。(p410)
 馬を使う部隊では人より馬が尊重されます。たまたま馬の扱いが悪く負傷でもさせたら「貴様ら兵隊は一銭五厘でいくらでも補充できるが、馬様はそんなわけにいかないんだ、この野郎!」と悪口雑言の上、目から火の出るビンタを見舞われました。心の中では「弾は前からだけではないぞ」と憤懣を吐き出したものです。(p411)田中

 馬の取り扱いは古兵から「お前ら兵隊は一銭五厘だが馬は生きた兵器だ」とやかましく言われながら仕込まれました。特に水飼いが大切で朝昼晩と毎日馬が飲んだ水の量を記録して報告せねばなりません。それから消化状態を調べるため、湯気の出る馬糞を絞って水分を抜き、広げて麦が何粒残っているかを調べねばなりません。
 隊の馬は十二歳から十五歳で人間の四倍が馬齢ですから相当老馬でした。しかし人間を見るのは達者で、私ら新兵を馬鹿にして言うことを聞きませんが、古兵下士官を見ると途端におとなしく、言うことを聞くので腹が立ち、上官のいないことを確かめて馬小屋掃除用のほうきで思い切りブン殴ってやりました。(p246)斉藤

 迫撃砲の部隊は軍馬に迫撃砲を分解して乗せて行動するので、軍馬は大事な兵器で、兵隊より大切にされた。その当時は、兵隊は二銭の葉書一枚で召集できるが、馬は高価であった。(p43)村井

当日は秋田第十七部隊第二大隊長笠原中佐宅に一泊(笠原大隊長は戦
死した姉の夫の上官で、夫の生前から親族同様のお付き合いさせていただいていたので、奥様のご好意でお世話になる)しました。
 翌八月一日朝、第十七部隊の門をくぐると衛兵から祝いと激励の言葉を頂き身の締まる思いがしました。・・・
 同日第二大隊行李班に編入されました。・・・
先輩から「馬は銃砲同様兵器である。自身の世話より先ず馬の餌付け、手入れをし馬の健康管理に当るよう」と言われました。(p307)
 とくに前述の通り、馬は輜重隊の貴重な兵器ですので毎日朝夕の世話は欠かせません。要領の悪い者、動作の鈍い者は、自分の洗面、食事も落ち着いて出来ないほどの地獄社会で、私も入隊前は馬とは一切縁が無かったのですが、先輩の親切な指導を受け、何とか先輩並みにこなせるようになりました。(p307・308)山内(松川)
 
 昭和十八(一九四三)年四月十日、熊本市西部第二十一部隊野砲隊に現役入隊しました。第四中隊に編入され、中隊長は北森鶴雄中尉、第一内務班長野田一二三軍曹、寝台列長・塚原敬造兵長でした。(p231)
もし疝痛でも起こしたら当番に当った初年兵は夜も眠らず藁で腹を擦り続けなければなりません。もし一頭の馬を死なせたら、野砲隊に取っては大変なことで、「貴様達はハガキ一枚出せばすぐ補充出来るが、馬は一年間の調教が必要だ」と、古兵より何度か聞かされたことを覚えています。(p233)猪俣

連隊の中の桜が咲き始めた頃、私達は移動を命ぜられました。行く先は北満の満州第一〇八部隊、大村連隊の主力があります石門子の本部と聴きました。(p318)
大隊には約百頭の馬がおりますので馬の手入れも大変でした。厩の中の馬糞の片付け作業、蹄の馬糞のえぐり作業、馬への食糧の与え方、水の与え方、馴れるまでの苦労は大変でした。古年兵からは口を揃えて「馬は大切な兵器だぞ、貴様達は一銭五厘で何ぼでも補充できるが、馬はそうゆう訳にはいかんのだぞ」と叱られました。
 たしかに食べ物、水のやり方で「疝痛」になる恐れがありますので、皆が注意しました。私は石川子に二年近くおりましたが、外出は一回もしませんでした。理由は馬が心配でした。万一馬が「疝痛」にかかったら班全部が心配するからでした。天皇陛下から頂いた大切な兵器を一頭でも死亡させてはならないと言う心配が一日たりとも頭から離れませんでした。(p319)田浦
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/15onketsu/O_15_317_1.pdf

 一期の検閲も終った頃、歩兵第六十九連隊に動員が下り保健隊は解散し原隊に戻った。しかし保健隊にいた者は留守部隊に遺される、とのこと。何の面目あって家郷にまみえんとばかり准尉殿に泣きすがり、ようやく野戦隊に編入され、指揮班要員となる。・・・
 軍隊生活中、失せ物の員数合わせには苦労した。また兵器は歩兵の生命、いや命よりも大切なものとして扱われる。「兵隊は一銭五厘の葉書一枚で集まるが、兵器は天皇陛下よりお預かりしたものである。絶対に損傷してはならない。ましてや紛失するがごときは最大の不忠と心得よ」と。(p242)畠嶋

この時は、野砲に配属になりましたが、馬を大切にするため、「兵隊は一銭五厘、馬は二〇〇円」と言っていたし、「弾は前ばかりではないぞ、後ろからも来るぞ!」などとおどかしたので、野砲の将校は、配属されている我々に対し、あまりやかましく言わなくなりました。我々が逆におどかしたのは、自分の身を守るために言ったのですが、効果があったわけです。(p266)松崎http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/12onketsu/O_12_264_1.pdf

独立歩兵第六十大隊の第三中隊(安徴四河口)に入隊した。そして軽機関銃班に編成され地獄の初年兵教育が始まった。・・・半年か一年先輩の古年兵が「上官の命は天皇陛下の命だ」と言っては、何とか理屈を付けてビンタをくらわせ、「お前らは消耗品だ死んでも一銭五厘(ハガキ代)でいくらでも代わりが来る」と言う。(p31)加藤
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/19onketsu/O_19_029_1.pdf

 入隊して一カ月余りが過ぎ、気力も体力もヘトヘトで、限界である。まだあと二カ月足らずある。体力が持つかと思い、うとうとしておると、カツカツと長靴の音、週番将校の巡察である。銃の点検でカチンと音がする。しまった誰かが銃の装填落しを忘れた
 全員起床、ベット〔ママ〕の前に整列、一八〇センチもあるような将校が仁王立ちになり、「貴様ら、良く聞け。お前達は一銭五厘のはがきで、いくらでも集められる。兵器は国民の税金で造られる大変高価な物である。その兵器を休ませず、お前達だけ休んで良いのか。この馬鹿者。上等兵の初年兵訓練がなっておらん。たるんでおる」と言い捨てて出て行った。それからが大変である。(p133)森川
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/17onketsu/O_17_132_1.pdf

 初年兵の頃、古参兵はよくこんなことを言ったものです。「お前たち兵隊は一銭五厘(郵便葉書の値段)で集められるが、馬は一頭百何十円もするのだ」と、軍隊という所は、人の生命より馬の生命の方が一万倍以上もするのだということで、「価値の高い馬を大切にしろ」と言うことを強調したのでしょう。(p284)山地
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/12onketsu/O_12_280_1.pdf

入隊当日はいろんな手続き等、古兵が優しくしてくれた。軍隊とはこんなものかと思いきや、「お前達は今日から陸軍船舶二等兵である。お前達の身に着けている軍装品は皆、恐れ多くも陛下がお貸しくだされた物である。絶対に粗末にすることは相ならん」と厳しい訓示である。(p126)米重
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/11onketsu/O_11_124_1.pdf

 消灯ラッパが鳴り響いてきます。「シンペイサンハカワイソウダネー マタネテナクノカヨー」「何をいつまでモタモタしているんだ。早く寝ろッ」と怒鳴られる。休む間もなく働き通しのうえ、怒鳴られ叱られ殴られて一日が終わります。
 カチッと音がします。「第二班の初年兵!起きろッ」やっと疲れた体を横にしての寝入りばな、整列した自分たちを不寝番の古参兵が睨みつける。「貴様たちは、よくものうのうと寝られるもんだな。この銃は畏くも天皇陛下から授けられたものである。その銃の撃鉄が起きていた、ということはこの鉄はまだ今まで働いていたんだ。鉄を手入れした貴様たちの全員の責任だ。鉄に、あなたを働かせて自分は寝ていて申し訳ありませんでした、と謝れ」(p78)河村http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/13onketsu/O_13_065_1.pdf

編み上げ靴のことを軍隊では「へんじょうか」といいます。編上靴の手入れで春夏秋はさほどではありませんが、冬は本当に泣かされます。零下三〇度以下にもなる兵舎の外で手入れをしなければなりません。
 ご承知かと思いますが、靴底には滑らないように鉄の鋲が沢山打ち付けてあります。冬ともなりますと鋲と鋲との間に雪と泥が詰まり、それがカンカンに凍ってちっとやそっとではとれません。それを取り除くのに竹を尖らせた「竹へら」で取れというのです。しかし竹へらではとても取れるものではありません。そこでナイフでつついて取り除くのです。そこを見つかりますと、「こらッ!初年兵、貴様たちはこの靴を何だと思っておるのか、畏くも天皇陛下から戴いた大切なものだ。ナイフで革に傷をつけたら天皇陛下に申し訳がたたん。竹へらでやれッ!」というのです。「天皇陛下」と言う者もこの時は不動の姿勢をとらなければなりません。
 息を吹きかけたり、こすり合わせたりして手の感覚を甦らせてやるのです。古参兵がいなくなるとナイフでつついて取りますが時間がかかりますし、多少は革底にも傷が付きます。古参兵たちも初年兵のときはナイフを使ったと思い、恨めしくも思ったものです。
 泥を取ると今度は保革油を塗るのですがこれは手指で塗らなければなりません。油ですから手入れを終わった後にセッケンでよく洗わなければなりませんが、そんな暇はありません。いきおい手はアカギレと霜焼けになります。アカギレのところから血を流しながら寒さに震えて手入れをするのです。(p72・73)河村http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/14onketsu/O_14_072_1.pdf

 消灯ラッパが静かに鳴りひびく。夢の床に就くや、コツコツ週番下士官が巡回しつつ銃の引金点検である。次々と引く。俺は何番目…「よかった」と思う。「カチン」と鳴ると「OO出てこい」で捧げ銃をして「三八式歩兵銃殿、長々と……致しまして申し訳ありません」である。軍隊は馬鹿にならないと勤まらない。(p113・114)持山

すべて天皇陛下よりの御下賜品である、手袋、靴下に至るまで大切に使用せよとの厳しい教育でした。(p202)

 ・・・自分も上官や古兵の銃器を手入れした後に自分の三八式歩兵銃の手入れをして銃架に掛けておきました。突然班長が「ただいまから兵器検査を行う」と抜き打ち検査です。
 その時に自分の銃の床尾板のねじの溝に黄色い泥が入っていました。班長は烈火のごとく怒り「この銃は誰のか」でした。自分が名乗り出ると「馬鹿者」一言いって銃を持って下士官室へ引き返しました。数日前から班長は自分を「いじめ」ていました。西垣少尉(小隊長)は陸軍士官学校出身で、実に立派な陸軍将校です。その彼に私は実に良く可愛がられ「オイ小林ちょっと来てくれ」と何かについて指名されていたのです。それを憎んでの小銃引き上げ事件になったのです。
 班長室へ行って土下座して「天皇陛下より賜りし大切な三八式歩兵銃の手入れが悪く、心よりお詫び申し上げます」といったのですが、班長は知らぬ顔で他方を眺めながら煙草を吹かしていました。私は涙を流しながら一心不乱に、床に頭をつけて「お許し下さい」と一生懸命に懇願しました。
  最後には、どうしてよいか判断を失い、刑法懲罰でも、営倉(ブタ箱)でも軍法会議でもよい。この憎い班長を殺して自分も自決してやろうか、と物騒なことを、瞬間頭に思い描きました。隣の班長の計らいで「今回の不始末は許すが、以後絶対、兵器・武具を大切にせよ」となりました。このことは中隊全員に知れわたり、以後、小銃事件として語られていました。自分はこの苦い体験で「軍隊は運隊だ」ということを確信しました。(p205・206)小林
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/18onketsu/O_18_200_1.pdf

 勇名轟く脇坂部隊の原隊で訓練は猛烈、内務も厳正。「お前らは補充兵、一銭五厘の消耗品じゃ」と、ハッキリ引導を渡され、徹底的にしごかれ錬えぬかれた。(p133)權田
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/11onketsu/O_11_132_1.pdf

 夜の点呼が終わって消灯、床に入れどもおちおち眠れない。週番上等兵が巡視に回ってくる。銃架の銃の引き金を点検する。もし「カチッと」音がすれば、その兵は叩き起され、きつい制裁を受ける。「銃が休んでおらぬのに貴様よくも眠れるか」と。(p251)岩崎

軍人の魂として、自分の体よりも大切にし日夜手入れしてきた武器は、単なる物としてすべて衛兵所の脇に積み重ねられた。(p278)酒井
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/18onketsu/O_18_270_1.pdf

実は、その当時、このことが分かれば確実に死刑にされる菊の御紋章のある銃の木質部を焚いて暖をとり、それで私共は生き延びましたが、それができない多くの戦友達は、この四一〇〇メートルの山頂で凍死してしまいました。(p432)岡田

皇軍実態集 私的制裁(part3)

皇軍実態集 私的制裁(part1)
皇軍実態集 私的制裁(part2)
の続き
 私達の栄光に輝くべき大学の卒業式はまた、戦争への門出でもあった、昭和十七(一九四二)年十月一日、仙台東部第二十二部隊歩兵連隊に陸軍二等兵として入隊。いわゆる初年兵の始まりであり、まさに激動の我が青春の始まりでもあった。(p463)
 毎日の演習のつらさ、規律の厳しさ、汚れた下着を着ていると早速ビンタのお見舞、といって洗濯する時間もなく、揚げ句に上官の下着まで洗濯しなければならない。食事の用意、食後の後始末、掃除、雑用は皆初年兵の肩にかかっている。少しでも手を抜くと「セミの鳴き声」といって柱に登り、自分の鼻をおさえてセミの鳴き声をまねる。あるいは「ウグイスの谷渡り」と称してベッドの下にもぐり、隣のベッドとの間から顔を出し、またもぐって次のベッドとの間から顔を出す。こんな罰則がすぐ適用される。(p464)
・・・そして前橋陸軍予備士官学校入校になったのである。・・・学校での生活を一部取り上げてみると

1、起床ラッパが鳴り、起きて服を着、毛布をシワ一つないようにたたみ、枕を一線に揃え、窓ガラスをど真ん中に開け、靴を履いて校庭に出て全員整列完了まで五分間、校舎の出口に下士官が剣道で使う竹刀を振り上げて待ち構えており、五分を経過した者は竹刀でいきなり頭を殴られる
2、校舎から一歩でも校庭に出たら駆け足、歩いているのが見つかると営倉(学校の留置所)一日の罰。
3、集合時間一分遅れたために一分間の時間の誤差があると戦闘機なら何キロ飛んで行くし、騎兵隊なら何キロ進行する。作戦に大きな誤差が生ずるということで、罰として校庭を三周六キロの全力疾走。
4、敵襲があったと仮定して夜中に突然起こされ、武装して整列するという「非常呼集」と称されることが一晩に十三回。寝る時間全く無し。
5、慶応卒業の男爵の息子ともう一人が、敬礼の仕方を間違えたために、「将校生徒たる者が間違えるとは何事か」と言うことで全員集合。百五十人の前でカシの木刀で尻を十回たたかれ、内出血で陸軍病院に入院してしまった。(p465・466)森
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/11onketsu/O_11_463_1.pdf

私は茨城県友部の筑波海軍航空隊に約百六十人の学生とともに赴任した。(p448)
私を含め一一〇人の者は戦闘機教程に所属が決まり、それぞれの教育練習航空隊に転出していった。私は大分航空隊に行くことになった。
 その晩、集会所に集合させられ、「娑婆っ気を抜いて、海軍精神を入れてやるから有り難いと思え」と海兵を卒業した飛行学生達が理由もなく、一人少なくても十発ぐらい、中には卒倒する者が出るくらいの鉄拳の洗礼を受けた。(p449)加美山
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/11onketsu/O_11_447_1.pdf

 佐世保海兵団に入団し第四十六分隊であり、・・・教育中のバッタ(堅い棒で尻を叩く)を私は一度だけしか食わなかったのですが、団体としてはやられました。(p430・434)近藤
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/11onketsu/O_11_430_1.pdf

 私は、昭和十七年志願兵として、九月一日、大竹海兵団(呉海兵団は満杯のため)に入団した。・・・少しでも過失があれば、連帯責任で、樫の棒(バット)で臀を古参兵に叩かれる。従って初年兵の我々の臀にはいつも紫色の「あざ」が消えることがない。(p389)池田
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/11onketsu/O_11_388_1.pdf

・・・昭和十七年九月一日、呉海軍病院第四十九期普通科看護術練習生として入隊することになりました。・・・
 入隊後三ヵ月の教育訓練は兵科の区別はありません、一般水兵の教育訓練で終始します。起床と同時のハンモックの片付け作業は背の低い私は毎日ビリで、罰として便所掃除に回されました。特に辛かったのが毎晩の精神修養棒による制裁です。連帯責任と称して誰か何かあれば、皆で整列して、太さ六センチぐらいの六角形の樫木棒で尻を、腫れ上がり紫色に変色するほど殴られるのです。時にはブッ倒れないように初めから物に結び付けブッ叩き続ける悪質な制裁もあり、上司からは禁止されていたらしいのですが、分隊上等の不在時をねらって制裁行事が毎晩続けられ、新兵達には全く生き地獄の三ヵ月でした。(p385・386)安井
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/11onketsu/O_11_385_1.pdf

 満州国牡丹江省東寧駅下車、初めて踏む大陸の地、満州大平原を軍靴の音も高らかに大城子の満州第二一二部隊(野砲兵第二十四連隊)に入隊したのが十一月二十五日でした。
 満州編
 第八中隊に配属され、内地での石橋忠幸曹長の予言通り石橋登中尉の中隊でした。・・・
 消灯ラッパが鳴ると藁布団の中に入りますが、消灯で廊下の灯りだけで薄暗くなると進級遅れの二等兵が二、三人小声で「初年兵、集合」と。初年兵は素早く食台横に整列、補充兵も一緒です。「貴様等タルンどる。足を踏んばれ」と一メートルぐらいの精神棒で小突きながら二言三言言った途端、帯剱用の革ベルトが頬に空を切ってくる。革スリッパが顔へ……。翌朝は洗面は水で濡らすのみで、朝食は口が腫れて嚙むことが出来ず、味噌汁で流し込むのです。
 関東軍の私的制裁はさすがに凄いものでした。(p366・367)馬場
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/11onketsu/O_11_365_1.pdf

 私は昭和十四年三月二日、大阪に集合、朝鮮の清津に上陸、軍用列車で豆満江の国境を通過、九日琿春に到着、琿春駐屯隊歩兵第八十八連隊第一歩兵砲中隊に入隊しました。・・・
 関東軍名物のビンタは当然猛烈で、軍靴や上靴ビンタの嵐は初年兵を見舞いましたが、私は幸いにも戦友に恵まれ、内務班の先任上等兵が当たりましたので、夜の点呼後古年兵が「初年兵、整列!」と気合をかけると、戦友の先任上等兵が「郡司! これを洗面所で洗ってこい」とわざと私を逃がしてくれたので助かりました。
 洗濯が終わって班内に戻ると、他の初年兵は皆顔を赤くはらしていました。内務班長の小松沢軍曹も私を可愛がってくれ、当番にしてくれたので助かりました。私が初年兵の中で一番助かったと思っています。(p287・288)郡司
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/11onketsu/O_11_287_1.pdf

 前述のとおり、昭和十四年八月、山形連隊へ応召入隊、初年兵教育の基本は「軍人勅諭」を忠実に勉強し訓練に励むことでした。また入隊と同時に「誓文書」を書かされて中隊長に提出しました。班内へ入ると例の私的制裁がありました。初年兵が全員横一列に並ばされて、親にも殴られたことがないのに、数回力まかせに殴られました。この悪い思い出は一生忘れません。一般家庭や社会では行われない蛮行ですが、軍隊という特殊社会では、教育鍛錬の一助として広く実施れていました。(p276・277)寒河江
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/11onketsu/O_11_276_1.pdf

・・・二月二十三日朝鮮羅津に上陸、直ちに貨車に乗せられ、二、三日後、満州東安省虎林に到着、歩兵第七一二部隊に無事入隊をする。・・・
やがて消灯ラッパが鳴ってベッドに入ったかと思うと、教育係に起こされて精神訓話であり、班内の誰か一人がへまなことをすると、班内全員の責任だと言ってビンタが飛んで来る。軍隊という所は絶対に言い訳がきかないところである。その当時は人生の苦しみを一年間で味わったと思った。(p271)越智
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/11onketsu/O_11_270_1.pdf

・・・三月になったというのに満州は寒く、目的地勃利に着いのは三月六日と記憶しています。・・・
 いよいよ、独立守備隊第三十四連隊第一中隊入隊です。初年兵教育は、小銃、軽機関銃、擲弾筒、馬が五頭、乗馬と駄馬で、馬は十五頭ぐらいで飼育の世話をせよとのことです。
 初年兵教育の時、中隊には古参兵で癖が悪く進級しない万年一等兵が数人いて、二年兵からそばへ寄るなと教えてもらい助かりました。初年兵時代は古兵や上級者からビンタ(罰として頬などを叩る)をもらいましたが、私は少ない方でした。特に、鈴木部隊長が大変良い人で、今まであっ「私的制裁を禁止する」とたやかましく言われ、中隊内でのビンタは少なくなってきました。軍隊での初年兵時代の教育訓練は当然厳しいものですが、それより辛いのは内務班での私的制裁です。一期の検閲も終了し、やっと一人前の兵隊になり、満州の気候にも慣れて、二年兵になってから私は自分の体験から、可愛想だから下級者にビンタはとりませんでした。(p233)寺本
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/11onketsu/O_11_231_1.pdf

 翌昭和十五年四月、十五年徴集の初年兵が入隊して来たので、初年兵係を命ぜられ、三ヵ月間の教育を行う。自分達が味わった初年兵当時の苦しい内務班教育、そして演習、特に、誰しもが味わった教育時のビンタは、あのようなつらい思いは、出来るだけやりたくないと思った。しかし、どうしても教育上やむを得ず、二度ビンタをくれたことがあったが、復員後その者達と戦友会等で会った時、心から謝罪の念にかられたものだった。(p224)熊田

私の入隊先は支那の高射砲第十五連隊第五中隊(甲一四〇九部隊梁田隊)、場所は北京とのこと。・・・
 当然ビンタは覚悟していましたが、一般によく言われるシゴキは覚えがありません。五回か、六回くらいしかビンタの覚えがありません。その点助かったと思います。(p165・166)山内
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/11onketsu/O_11_165_1.pdf

 四月十日、徳島歩兵連隊通信中隊に入隊し、軍人勅諭に基づく三ヵ月間の厳しい教育訓練を終了。。一期検閲を受けるため岡山の日本原へ移動しました。
 私は兵隊検査で第一乙種となった時から、「やがては必ず入隊の日が来る。それまでに一日も早く軍人勅諭を丸暗記しなくては」と、在郷軍人会の先輩からの指導もあり、毎日努力を重ね、入隊時には楽に大声ですらすらと朗詠できました。そのためか新兵教育の期間中は模範兵として取り扱われ、いろいろと楽をさせてもらいました。・・・
 また、中隊の小隊長さんの一人が野戦帰りで片足が悪く常に自転車を使用していましたが、私はその自転車も整備点検し、軽やかでピカピカに仕上げて、小隊長の将校さんよりお礼を言われたようなこともあり、対抗ビンタや、きつい苦しい制裁とかは、予め適当な理由で隊から外れて楽をさせて、もらったりしました。(p160・161)
・・・武昌に上陸。鉄路南下。横江橋に駐屯する第四十師団第二三五連隊通信中隊に配属となりました。
ここでは初めの三ヵ月間は主としてモールス信号、五号無線機の操作の教育を受けました。この三ヵ月の間、初年兵三人で消灯後、チャン酎を飲んで深酔いしました。折悪しくその夜「初年兵集合」がかかり、三人は酩酊です。平素より要注意の○○新兵が首謀者と分かり、私もビンタの二〜三発やられましたが、○○君は徹底的にやられ、数日間は班内で臥床の状態でした。半殺しにされました。(p162)池田
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/11onketsu/O_11_160_1.pdf


フィリピンが特攻隊を称賛、の真偽

フィリピンは戦中戦後反日感情が強かったせいか、右翼本右翼サイトでフィリピンへの言及は少ない。ただ最近こういう記事が出て来ている。

「親日」の印象が薄いフィリピンが神風特攻隊を賞賛する理由 2017.11.26 07:00

世界は日本をどう見ているか。ジャーナリストの井上和彦氏は以前紹介した親日国・台湾とは違い、日本に対し決して良い感情を抱いているとは思えぬフィリピンを訪れ、衝撃を受ける。・・・驚くべきことに、フィリピンで神風特別攻撃隊が称賛され、尊敬を集めていたのである。
https://www.news-postseven.com/archives/20171126_629286.html

2017.7.14 13:49
【マーライオンの目】 この夏、特攻隊員の像が立つ「カミカゼ神社」に行ってみては

フィリピン北部ルソン島に「カミカゼ神社」があると聞き訪ねた。マニラから車で3時間。パンパンガ州の高速道に近い幹線道路沿いに、コンクリート製の鳥居を見つけ、目的地だと分かった。旭日旗とフィリピン国旗のモニュメントの前に、特攻隊員の像がすくっと立っていた。
http://www.sankei.com/column/news/170714/clm1707140006-n1.html

この特攻隊碑は以前からたまに紹介されていたものではあるが、そろそろ本格的に右翼の宣伝材料になりつつあるのかもしれない。
ところで、この碑について、海外の新聞記事があったので以下紹介する。

Reading Eagle紙2005年8月14日付の記事全文
〔訳〕
フィリピンのカミカゼ碑は昔の敵についての分裂を反映
日本の降伏から60年、アジア人たちはーいくらかの例外はあるがー日本帝国の侵略と暴力的占領の時代について相反する感情をもつ

AP通信フィリピン・マバラカットー
 60年経った今でも、それは印象的な光景である。すなわち元米空軍基地の隣に日本軍神風特攻隊パイロットの等身大の像がある。
 フィリピン人や他の東アジアの人々が1945年8月15日の日本の降伏を思い起こす一方で、最初の特攻隊員を記念するこの像は、日本の帝国主義時代の侵略と苛酷な占領にまつわる彼等の葛藤を表しているように見える。
10ヶ月前に像が立って以来、このガラス繊維製の像に抗議する人々もいたが、その他の人々は像に許しの意味を見出している。
 ただそれは円という通貨の力を考慮することでもある。日本人観光客たちはこの飛行場に詰めかけ、第二次大戦博物館を見学し、米海軍の進攻に抵抗するためここから片道切符の任務に飛び立ったパイロットたちを称えている。
 日本は世界第二の経済大国としてこの地域に大きな影響を与えている。日本の対アジア貿易額は合計1兆ドルになる。昨年には中国がアメリカに代り最大の貿易相手国となった。
 日本はフィリピンにとって最大の輸出相手国であり、現在両国は自由貿易協定を交渉中である。
 こういう状況では、60年以上前に起きたことは重要性を失いがちになる。
 「日本人はフィリピン人に対してとても凶暴で、とても敵意を抱いていた。」そう語る歯の無いFaustino Arceo氏68歳は植木職人で、ゴーグルとヘルメットを身に着けた飛行士像の周りの植え込みを手入れしている。
「以前は私は怒っていた、しかし今ではどうにもならない。過去のことだ」
 侵略戦争の矢面に立った中国と韓国では、東京が戦時中の行動を決して十分に償っていないという認識に刺激され反日感情が定期的に爆発する。今年は、日本の学校教科書が戦時中の残虐行為をごまかすものだとして抗議する群衆が街に出た。
 それと同時に多くのアジアの国は、東アジアの主要な米軍基地がある日本を、中国の上昇しつつある軍事力経済力への対抗勢力として見ている。
 ここマバラカットは、フィリピン北部の元クラーク空軍基地に隣接するが、市の観光課係長 Edgar Hilberoはこの像について多くの批判があったと述べ、歴史だけでなく観光狙いの動機に突き動かされて像の建設を決定したことを認めた。
 毎年10月には、数百人の日本人観光客や元兵士、学生や仏教の僧侶がここまで旅行し、カミカゼを称え、花と線香と祈りを捧げる。
 日本は1942年フィリピンを占領し、最初のカミカゼが離陸したのがクラーク飛行場だった。日本の鹿屋航空基地史料館によると、1944年10月から1945年8月の間に、2526人の自殺飛行士によって618隻の連合軍艦艇が損傷または沈没させられた。カミカゼの数を5000とみる歴史家もいる。
 アメリカは1945年フィリピンを奪回し、1年後に完全な独立を与えた、しかし1991年までこの地に基地を置き続けた。クラーク基地はその後商業空港やホテル、ゴルフ場を備えた観光地区に改造された。
 Hilbero係長は、(カミカゼ像だけでなく)真珠湾攻撃の3日後にクラーク基地で墜落したB17爆撃機のColin Kelly Jr.大尉の記念碑を立てるためにも同様に活動していると述べた。日本の戦艦を爆撃したという理由で、Kelly大尉は第二次大戦で最初の米軍人受勲者となった。
 「我々はどちらかに味方しているのではない」Hilberoは述べた「我々は国際的な親善、友情そしてより緊密な関係を促進するために戦争の歴史を利用している・・・誰かを賛美するためではない。カミカゼもそうだ。戦争は悪だが、戦争を戦った人々が悪なのではない、それが我々のメッセージだ。」
 同様のメッセージは日本軍が10万もの中国系住民を殺害したシンガポールに住む95歳のElizabeth Choyからも聞かれた。
 国家的なヒロインとして学校教科書で大きく扱われる彼女は、金銭や食料、薬そしてラジオの部品を約7万5千人の捕虜と民間人が収容されていた抑留所内に密輸する事を助け、日本の秘密警察による200日に渡る投獄と拷問で苦痛を受けた。
 Choyは、現代の日本人に対する悪感情は全く無いと述べた。「彼らは常によく働き野心的で国のために頑張っている。」
 「私が憎むのは日本人でなく戦争そのものだ。」彼女は付け加えた。
 日本が侵略した地域の多くは西側列強により統治されていた。シンガポールとマレー半島は英国人、インドシナ半島はフランス人、フィリピンはアメリカ人、インドネシアはオランダ人。そして東京は侵略行為を解放と表現した。
 しかしシンガポールもやはり戦争を観光に利用しているのだが、ただしその旅行企画はイギリスやオーストラリア、そしてニュージーランドの元兵士や捕虜たちに向けて作られている。
 オーストラリアの農業の町カウラでは、元兵士たちが、1944年8月5日に収容所の有刺鉄線へ自殺的な殺到(脱走)を行なった231人の日本人捕虜の墓を手入れしている。1979年に12エーカーの記念公園が作られ観光施設とった。
 フィリピンのカミカゼ碑推進の裏にいたのは一人の地元の歴史家である。Daniel Dizonは、人生の多くを自殺部隊の調査に費やし彼の自宅に博物館をつくり錆びた銃や銃剣、旧い写真や日本軍の制服を展示した。
 「(フィリピンの)人々は非常に日本人を憎んでいたので、とても苦しいものでした」「日本人について公開するというのは激しい敵意と怒りにさらされたし、誰も話を聞こうとはしなかった」彼は述べた。
 Dizonが15歳の頃、現在ではマバラカットに隣接するアンへレス市はカミカゼパイロットで一杯だった。Dizonは彼らの決意と愛国心に魅了された。
 1970年代の初めにDizonが発見したマバラカットの家は、彼曰く大西瀧治郎中将と側近たちが1944年10月20日に会合を開き、それが最初のカミカゼ部隊23人の誕生につながったという所だ。
 何年もの間、彼は家の所有者たちに対して、これといった特徴も無い平屋の家の塀に小さい標識を付けることを認めてくれるよう説得した。他にほとんど魅力の無い内陸の田舎で金儲けするよい機会をそこに見出した地元のビジネスマンの協力を得て、ようやく所有者たちは彼に折れた。
 日本人観光客が続々とやって来るのを見て、市はDizonに他のカミカゼスポットを見つけ標識を付けるように促した。
 現在75歳になるDizonは、自殺飛行士たちは日本の侵略や虐殺と同一視されるべきではないと信じている。「なぜならカミカゼは自衛で行動したからだ」
 他のフィリピン人はそれほど融和的ではない。
 Rechilda Extremaduraはアジアのいくつかの国で日本軍売春施設で奴隷状態に置かれた数千の女性たちのうち100名以上の女性たちの広報担当である。その女性たちはカミカゼ像について州知事(?)に抗議した、と彼女は述べた。
 「なぜあの戦争を称える記念碑を我々が持たなければならないのか?我々は犠牲になったのだ」彼女は述べた。「私は、日本が彼らの軍隊を称えるのは構わない、しかし私達のような国では別だ。日本人に破壊され略奪された。不適切だ。」
 マニラでは、作家のFrancisco Sionil Joseが広島と長崎の原爆投下を称賛する。
「私の気持ちは変わらない。私は80歳だ。」彼は述べた。「日本軍の占領中にここにいたなら、私がどう思うか理解できるだろう。そしてそれがまさに問題なのだ。つまり多くのフィリピン人はその占領を直に体験しておらず、無関心だったり、寛大だったりする。
 しかし我々はそうではない。我々はそれを生き延びたのだ。」

以下元記事
Philippines kamikaze statue reflects split over old enemy
Sixty years after Japan's surrender, Asians - with Some exceptions-are ambivalent about the imperial era of aggression and brutal occupation.

The Associated Press MAPALACAT, Philippines -
 Even now, 60 year's later, it's an arresting sight: a life-size statue of a Japanese kamikaze pilot next to a former U.S. Air Force base.
 Yet as the Philippines and the rest of east Asia remember the Japanese surrender on Aug.15,1945, the statue commemorating the first suicide pilots seems to sum up their ambivalence toward Japan's imperial era of aggression and brutal occupation.
 Some have protested about the fiberglass statue since it went up 10 months ago, while others see in it an act of forgiveness.
 But it's also a recognition of the power of the yen. Japanese tourists flock to the airfield to See the World War II museum and honor the pilots who took off from here on their one-way missions against the advancing U.S. Nawy.
 Japan, the world's second biggest economy, has a gigantic economic footprint in the region. Trade with other east Asian countries totaled $1 trillion for the year ending in March. Last year China replaced the United States as its biggest trading partner.
 Japan is the biggest buyer of Philippine exports, and the two states are negotiating a freetrade agreement.
 In that context, what happened 60 or more years ago tends to lose relevance.
 "The Japanese were very brutal, very hostile to Filipinos," said toothless Faustino Arceo, 68, the gardener who tends the shrubbery around the statue of the goggled, helmeted flier. "Before, I was angry, But now, I can't do anything. It's the past."
 In China and South Korea, which bore the brunt of wartime aggression, anti-Japanese sentiment erupts periodically, stoked by perceptions that Tokyo has never fully atoned for its wartime conduct. This year the issue that sent protesting crowds into the streets was Japanese school textbooks which they said whitewash atrocities.
 At the same time, many Asian countries look to Japan, home of the main U.S. force in east Asia, to serve as a counterweight to China's rising economic and military might.
 Here in Mabalacat, next to forner Clark Air Base in the northern Philippines, city tourism chief Edgar Hilbero said there was a lot of criticism of the statue, and conceded the decision to put it up was driven by tourism as much as by history.
 Every October, hundreds of Japanese tourists, war veterans, students and Buddhist monks travel here to honor the kamikaze with flowers, incense and prayers.
 Japan captured the Philippines in 1942, and it was from the airfield at Clark that the sirst kamikazes took off. From October 1944 to August 1945, 618 Allied ships were damaged or sunk by 2,526 suicide pilots, according to Japan's Kanoya Air Base History Museum. Some historians put the number of kamikaze at 5,000.
 The Americans recaptured the Philippines in 1945 and gave it full independence a year later, but kept their bases here until 1991. Clark has since been transformed into a tourism Zone, with a commercial airport, hotels and golf courses.
 Hilbero said he is also working on putting up a memorial to U.S. Capt. Colin Kelly Jr., who died when his B-17 bomber crashed at Clark three days after the attack on Pearl Harbor.
 For bombing a Japanese warship, Kelly became the first U.S. serviceman decorated in World War II.
 "We are not taking sides." Hilbero said. "We are using war history to promote good will, friendship and closer relationship between nations ...not to glorify anybody, not even kamikaze. War is evil. It's not the people who fought the war, That is our message." A similar message comes from 95-year-old Elizabeth Choy in Singapore, where Japanese troops killed as many as 100,000 ethnic Chinese.
 A national heroine, she features prominently in school textbooks for her 200-day ordeal of imprisonment and torture by the Japanese secret police for helping to smuggle money, food, medicine and radio parts into the prison that held some 75,000 Allied POWs and civilians.
 Choy said she has no hard feelings toward today's Japanese. "They've always been a very hardworking and ambitious people and they want the best for their nation."
 "What I detest is not the Japanese, but war itself," she added.
 Many of the territories Japan invaded were ruled by Western powers - Singapore and the Malayan peninsula by the British, Indochina by the French, the Philippines by the Americans, Indonesia by the Dutch - and Tokyo presented its invasions as acts of national liberation.
 But Singapore, is also cashing in on war tourism, though its travel packages are tailored for veterans and former POWs from Britain, Australia and New Zealand. In Australia, war veterans in the farming town of Cowra tend the graves of 231 Japanese POWs machine-gunned as they launched a suicidal stampede for their camp's barbed wire fences on Aug. 5, 1944. In 1979 a 12-acre memorial garden opened and has become a tourist attraction. The Filipino behind the kamikaze initiative is a local historian. Daniel Dizon, who spent much of his life studying the suicide squadrons and built a museum in his house with rusty guns, bayonets, old photos and Japanese uniforms.
 "It was very agonizing because people hated Japanese so much," he said, "Anything that you bring about in public regarding the Japanese was met with intense hostility and anger, and nobody wanted to listen," he said.  Dizon was 15 when Angeles city, which now encompasses Mabalacat, was full of kamikaze pilots. He said he was fascinated by their determination and patriotism.
 In the early 1970s, Dizon tracked down what he said was the house in Mabalacat where Japanese Vice Adm. Takijiro Ohnishi and his staff had the meeting on Oct. 20, 1944, that led to the birth of the first 23man kamikaze squad.
 For years, he struggled to persuade the owners to allow him to put up a small marker on the fence around the nondescript, single-story house. They relented only after Dizon enlisted the help of a local businessman, who saw a chance to make money in a landlocked province with few other attractions.
 When it saw Japanese tourists starting to pour in, he said, the city prodded him to find and mark other kamikaze spots.
 Now 75. Dizon believes the suicide pilots should not be equated with Japanese aggression and atrocities, "because the kamikaze acted in self-defense."
 Other Filipinos are less conciliatory.
 Rechilda Extremadura is a spokeswoman for more than 100 women among the thousands enslaved in Japanese military brothels in several Asian countries. She said the women protested to the provincial governor about the kamikaze statue.
 "Why should we have a monument to glorify that war? We were victimized," she said. "It's OK for me for Japan to glorify their troops, but not for a country like us, who were pillaged and destroyed by the Japanese. It's not proper."
 In Manila, writer Francisco Sionil Jose applauds the atomic bombing of Hiroshima and Nagasaki.
 "I haven't changed my feelings, and I am 80 years old," he said. "If you were here during the Japanese Occupation, you would understand how I feel.  And this is precisely the problem - that many Filipino don't have a living experience of that occupation, so they can afford to be very blase, very for giving. "But not those of us. Who lived through it."
https://news.google.com/newspapers?nid=1955&dat=20050814&id=fQkwAAAAIBAJ&sjid=AKMFAAAAIBAJ&pg=1036,5778259

イギリスのテレグラフ紙2005年9月5日付記事の抜粋
Tino Arceo氏69歳は像の管理人で、日本占領時代はまだ子どもだったがよく覚えている。「彼らの大部分は本当に無礼で無作法だった。一部の日本人は、美しい女性を見かけると、例え夫や子どもと一緒であってもさらってレイプしようとした。
「私は当時起きたことについて日本人に怒っている、しかし彼らを罰するのは神に委ねている。私に関する限り、これ(像の管理)はただの仕事だ。私は金を稼ぎ生計を立て家族を養うために働いている。」
他の人々はより憂鬱そうである。像が建って以来の数ヶ月で訪問者の大多数は日本人だった。Arceo氏は彼らを「誇らしげで幸せそうだ」と形容するが、しかしあるフィリピン人訪問者は来客帳にこう記した「この碑はフィリピン人元兵士に対する非道と侮辱である。これは建前の意図とは反対に戦争を賛美している。実に不快だ。」

Tino Arceo, 69, its caretaker, was only a child during the occupation but he remembers it well. "The majority of them were really rude and ill-mannered. Some Japanese, when they saw a beautiful-looking girl, tried to snatch her and rape her, even if she was with her husband and children.
"I'm angry with the Japanese for what happened but I leave it up to the Lord to make the punishment for them. As far as I'm concerned this is just a job. I'm working to earn money to make a living to provide for the family."
Others are less sanguine. The vast majority of visitors in the months since the statue was installed have been Japanese. Mr Arceo described them as "proud and happy", but one Filipino visitor wrote in the visitors' book: "This memorial is an outrage and insults the memory of Filipino veterans. It glorifies war, contrary to its stated intentions. It is revolting."
http://www.telegraph.co.uk/news/worldnews/asia/philippines/1497691/Philippines-kamikaze-statue-lures-the-tourists.html

【安倍】「国難突破」戦前の用例



国民新聞 1934.1.24 (昭和9)
政党・軍部手を携え難局打開に精進
政党の大同団結をも叫ぶ
床次氏の熱弁(演説要旨)

二十三日衆議院本会議における床次竹二郎氏の質問演説は左の如くである・・・議会政治の布かれたる当初に於ては尚お藩閥の余力があり、官僚の勢力がありましたに拘らず、能く挙国一致の実を挙げ、日清、日露両戦役の国難突破は申すまでもなく、あらゆる方面に亙って国勢の躍進に貢献致し議会政治を通じて朝野官民心を一にし、以て明治の聖代を築き上げたのであると信じます、
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10121563&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1&LANG=JA

京城日報 1934.9.12-1934.9.16 (昭和9)
朝鮮の将来 (一)
中等学校長会に臨み 宇垣総督の大講演 京城帝国大学講堂にて

而して朝鮮其の者は帝国内に於て過刻来述べ来りたる如く、内地よりも色々と尚恵まれたる特徴を有して居りますから、夫れを仔細に指摘教示して其の長所、天恵を十分に発揮して、帝国の非常時打開の先駆となり、国難突破の前衛たるべき覚悟を以て暹往すべき様、指導せしめて居る所であります、
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=00472705&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1&LANG=JA

日本工業新聞 1941.10.2 (昭和16)
鉄・銅の特別回収へ
国民の自発的協力要請
商相“戦時物資動員の日”の放送

一日の興亜奉公日は「戦時物資動員の日」として鉄銅の特別回収に全国の家庭をあげて協力する日であるが、この日午後八時半の常会の時間に左近司商相は隣組長となってAKから十五分間鉄、銅回収の重要性を強調して隣組の自発的協力を懇請した、演説要旨左の通り

・・・今日わが国の戦時体制に物資の活用がいかに重大であり、各家庭から出されるものを国家に提供することが国難突破の上に如何に大きな効果をもたらすものであるかを御認識になるならばそれ以上は何も強制がましいことを申す必要は全くないと信ずる
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10047058&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1&LANG=JA

大阪毎日新聞 1942.12.8 (昭和17)
畏し、聖上の御日常
『配給米』に近い御食事
昨今、暖もとらせられず
将兵、民草と休戚を分たせ給う

毎月一日の御旬祭には陛下ただ御一方、しかも御束帯姿にて親しく賢所大前に額かせられ、大御心をこめさせ給い皇国存亡にある国難突破をひたすら御祈念につとめさせ給う御有様を拝し側近奉仕者一同は恐懼感泣している
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10106387&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1&LANG=JA

大阪毎日新聞 1941.12.9 (昭和16)
米艦十隻を轟沈破 飛行機多数撃墜
ハワイ空襲の大戦果

皇祖皇宗の大御前に宣戦布告を御親告 国運隆昌も御祈念
畏くも天皇陛下には八日東亜の禍乱を助長し、その非望を逞しゅうせんとする米英両国に宣戦布告の大詔を渙発し給い帝国不動の大方針を宣示あらせられたが、九日午前十時特に宮中賢所、皇霊殿、神殿に皇室祭祀令により臨時大祭を執り行わせられ皇祖皇宗の大御前に宣戦布告を御親告あらせ給い併せて国難突破の御祈念あらせられる旨八日仰せ出された、
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10178087&TYPE=PDF_FILE&POS=1&LANG=JA

大阪朝日新聞 1941.1.23 (昭和16)
空前の国難到来を予想 一億一心、
突破前進せん 近衛首相の施政演説

帝国の所信を貫徹するは前途なお遼遠というべく幾多の障碍に遭遇することあるべきを予期するの要あるは固より、未曾有の国難突破をも覚悟せねばならぬ時期の到来をも予想せらるるのでありましてこの際全国民の一段の発憤努力を切望する次第であります
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10121875&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1&LANG=JA

大阪毎日新聞 1943.1.29 (昭和18)
物的戦力の大拡充へ 耐乏、
貯蓄を増強 大東亜の金融圏は確立
蔵相演説

乏しきに堪え、質実と簡素なる生活に安住ししかも溌刺たる意気をもって勇躍国難を突破し国運の興隆に挺進することこそ神ながらいや栄えゆくわが国民生活の真の姿であると申さねばならぬ、
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10105408&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1&LANG=JA

大阪毎日新聞 1941.5.29 (昭和16)
帝国海軍、不動の待機
平出大佐、必勝の決意を闡明

皇国三千年の歴史をさらに発展せしめ、大和民族万代の運命を開拓する気魄をもってこの未曾有の国難突破の進軍を明朗に勇ましくつづくべきであると信ずる
http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10170055&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1&LANG=JA

取扱注意(新聞其の他の発表を禁ず) 

軍政監訓示
敵の反攻は周知の如く執拗苛烈を極め、世界戦局は愈々決戦の段階に入りて深刻なる様相を示しつゝあり、而も敵が常に豊富なる物質力と圧倒的空軍勢力とを以て必死の猛反攻を継続せる態度は真に侮るべからざるものあり。
之に対し帝国は今や国家の総力を最高度に結集し以て有史以来の国難突破と偉業達成とに必勝必成を期して邁進しつゝあり。・・・

アジア歴史資料センター https://www.jacar.archives.go.jp
レファレンスコード C14060799100
件名標題(日本語) 軍政監訓示 馬来軍政監 昭和18年10月14日

綱領
四 国民義勇戦闘隊員は神勅を畏み勅諭、勅語を奉体して軍人精神を養ひ軍紀に服し燃ゆるが如き闘魂を培ひて国難を突破するの気魄を振起すべし

アジア歴史資料センター https://www.jacar.archives.go.jp
レファレンスコード C13070690600
件名標題(日本語) 国民義勇戦闘隊教令/綱領

昭和九・一〇・一〇
国防の本義と其の強化の提唱 
陸軍省新聞班

五、国民の覚悟
皇国は今や駸々乎たる躍進を遂げつゝある、一方列強の重圧は刻々と加重しつゝある。
此の有史以来の国難―併しそれは皇国が永遠に繁栄するか否かの光栄ある国家的試練である―を突破し光輝ある三千年の歴史に、一段の光彩を添ふることは、昭和聖代に生を稟けた国民の責務であり、喜悦である。・・・

アジア歴史資料センター https://www.jacar.archives.go.jp
レファレンスコード C14060863100
          C14060863700

大日本国防婦人会の会旗制定に就きて 
昭和十一年三月三日 大日本国防婦人会総本部

・・・今や一日の偸安も許さず一致団結以て此国難を突破せざるべからざる非常時に直面するに至れり。

アジア歴史資料センター https://www.jacar.archives.go.jp
レファレンスコード C14020153800

東條文規「図書館の近代 私論・図書館はこうして大きくなった」

朝鮮総督府図書館
職域奉公
(昭和18年11月1日 第2次改定)

使命
訓育
3.国難突破標語(毎朝斉唱)
 今や決戦時なり
 智力精力の限りを絞れ
 不可能を可能として
 必勝を期すべし
(p111)



慶応義塾百年史中巻(後)

昭和二十年にはいると・・・また同日発せられた文部省訓令第二号によると、学徒隊編制の意義は「若き学徒の総力を茲に結集して国難突破に一路邁進」させようとするもので、(p984・985)

下村效「日本中世の法と経済」八木書店

吾々は霊位の御導きと御加護によって国難突破に邁進しなければならないと考へるのであります。・・・
 昭和十六年十一月二日 
 関係六ケ町村教職員代表 佐川町国民学校長 楠島正彦
(p288)

埼玉県近現代史主要年表(明治元年~平成28年)

20年(1945) 3月・11月 県会で国難突破決議案を可決、戦時町村合併進む。
https://www.pref.saitama.lg.jp/a0301/saitama-profile/documents/5-01b.pdf

坂上康博、高岡裕之「幻の東京オリンピックとその時代 戦時期のスポーツ・都市・身体」青弓社

 日本は満州国の承認を廻って国際世論と対立し・・・状況が生まれていたのである。それが武道の隆盛へとリンクしていく状況は、「日本精神の涵養は武道に如くものなし。日本精神旺盛ならば国難突破決して難きにあらず」という武徳会会長の鈴木壮六の訓示や、(p249)
livedoor プロフィール
QRコード
QRコード
  • ライブドアブログ
body { word-wrap: break-word; ... }