まず焼却例を一つ
帳簿(証憑書)焼却(棄却)処理報告書
昭和二十一年二月三日 第百十師団砲兵隊長
第百十師団長殿
左記の通り焼却せしに付現認証相添へ報告及候也

左記
書類名称 出納期間 数量 摘要
兵器受払配当簿 昭和一九、二〇年の分 一冊 保存年限「十年」
第三類兵器受払簿 昭和一九、二〇年の分 一冊 保存年限「五年」
演習用弾薬受払簿 昭和一九、二〇年の分 一冊 
兵器諸証票綴 昭和一九、二〇年の分 一九冊 補給、返納、受入、払出とす、
兵器細目名称表 三冊
発来翰綴 昭和一九、二〇年の分 一冊
諸規定綴 一冊
兵器に関する書計画綴 昭和一九、二〇年の分 一冊
工塲〔ママ〕記録 昭和一九、二〇年の分 一冊
兵器刷〔ママ〕式に関する書類 昭和一九、二〇年の分 一冊
兵器(弾薬)受授簿 昭和一九、二〇年の分 五冊
弾薬受授簿 昭和一九、二〇年の分 三冊
右証明す
昭和二十一年弐月拾日

焼却書類現認証
一、焼却書類名称並数量
書類名称 出納期間 数量 摘要
兵器受払配当簿 昭和一九、二〇年の分 一冊 保存年限「十年」
第三類兵器受払簿 昭和一九、二〇年の分 一冊 保存年限「五年」
兵器諸証票綴 昭和一九、二〇年の分 四冊 補給、返納、受入、払出各「一」
兵器細目名称表 三冊
発来翰綴 昭和一九、二〇年の分 一冊
諸規定綴 一冊
兵器に関する書計画綴 昭和一九、二〇年の分 一冊
工場記録 昭和一九、二〇年の分 一冊
演習用弾薬受払簿 昭和一九、二〇年の分 一冊 保存年限「十年」
兵器刷〔ママ〕式に関する書類 昭和一九、二〇年の分 一冊
兵器(弾薬)受授簿 昭和一九、二〇年の分 五冊

二、焼却年月日、昭和二十年八月十八日
三、場所 河南省洛陽県洛陽西宮
四、立会者 陸軍中尉 イワブチ忠正
五、焼却事由 昭和二十年八月十五日詔書を拝し事態の急変を知る、時に周囲の状況は悪化し且急速なる後方機動等を予期せらるゝ折、上司より重要書類の処分を命ぜられたるを以て綿密なる検査を実施すると共に立会者陸軍中尉岩淵忠正監視の下に焼却せり
右事実と相違なきことを証明す。
昭和二十一年二月二日
第百十師団砲兵隊長 佐賀勝郎

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「昭和21.2 兵器関係書類焼却報告書綴 第110師団」
焼却については、たとえば以下のような通達があったようだ。これ以外にも下の方の資料には8月15日時点での通達などの話が出ている。

「昭和20.8.18 帝国陸軍復員要領(軍令陸甲第116号) 陸軍大臣」

用済後焼却
陸機密第三六九号
帝国陸軍復員要領細則規定の件達  
                  関係陸軍部隊
帝国陸軍復員要領細則左の通定む 
昭和二十年八月十八日 
                陸軍大臣 稔彦王

帝国陸軍復員要領細則
第十八条 
復員部隊の保管し又は貸与を受けある機秘密書類は其の要度に応じ復員完結迄に逐次之を処理するものとす
第十九条
戦時名簿、考科表等は死没者にして留守業務処理の終了せざるものを除き焼却するものとし兵籍、文官名簿は悉皆之を本籍地連隊区司令部に於て確実に保管し置くものとす之が為現に部隊に保管しある兵籍、文官名簿は速に之を本籍地連隊区司令部に送付するものとす。
功績名簿は死没者及生存者中殊勲功績を有するものは焼却することなく速に従来通り進達し其の他に在りては焼却するものとす。 

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焼却1焼却2焼却3

第十九条はよいとして、第十八条で機秘密書類の「処理」が意味するものは何だろうか。ちなみに次のような文書がある。
「秘」印
陸密第二七〇六号 昭和拾九年七月八日
不要陸軍秘密書類の返納に関する件陸軍一般へ通牒
昭和十九年六月三十日 陸軍省副官 菅井斌磨

陸軍部内に於て調製し部内に配布せる陸軍秘密書類の返納に関しては陸軍秘密書類取扱規則第二十四条の規定に拘はらず自今左記要領(暗号書にありては別に参謀総長の定むるところに拠る)
に拠り取扱ふことに定められたるに付依命通牒す。
追って本規定は時局柄送達途中の保安、送達機関の緩和、事務簡捷等の為真に止むを得ざる措置にして之が実施に方りては慎重確実を期すると共に一面資源愛護の為成るべく焼却することなく、碾砕機等により再生利用せられ度。又取扱規則第二十四条第一項但書に関する規定は従前通に付為念申添ふ。

左記
一、改正又は廃止の為不用と為りたる書類にして調製者に於て特に回収を必要とするもの以外は調製者より当該書類の配布先部隊の所管長官(軍司令官、師団長及之に準ずるもの並に之と同等以上の権を有する長官を謂ふ以下同じ)に対し所要の通報を為し通報を受けたる長官は之を回収の上将校監視の下に焼却処分を為すものとす。但調製者の要求ありたる場合に限り当該しょるうの表紙及特に指定する内容の某一葉を調製者に返納するものとす。何れの場合に於ても取扱規則様式第五の返納(焼却)目録(焼却監視将校の職官氏名を付記するものとす)二通を添付するものとす。
二、改正又は廃止にあらざる書類にして保管者に於て不用と認むるも任意に処分し得ざるものは所管長官に報告し所管長官は調製者と協議の上第一号に依り措置するものとす
三、隔地の隷下保管者に配布の書類にして之が返納の為輸送途中の保安確実を期し難き場合は所管長官に於て当該沿革部隊の最寄所管長官に対し所要の協議を為し保管部隊長をして該書類を提出せしめ其の処分を委託することを得。此の場合委託を受けたる所管長官は第一号に拠り措置す。但調製者の要求に依り表紙を残置せるものに在りては表紙の適宜の位置に左記の通証明し内容の指定某一葉と共に之を保管部隊長に交付するものとす。
(左記略)
四、所管長官は前号の如く処分を委託する部隊なく保管部隊に於て第一号の措置を為さしむる必要ある場合は陸軍大臣(暗号書にありては参謀総長の定むる所に拠る)の認可を受け措置するものとす。
五、本規定は朝鮮内部隊相互、台湾内部隊相互及内地(千島、小笠原、南西諸島を除く)部隊相互間には適用せざるものとす。

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陸密綴昭和19年
手続きを踏めば機密書類を焼却してよいという指示が既に昭和19年の段階で出ていたわけである。そしてその後さらに、以下の二つの通達が出ている。一〇三八号通達では第五項の適用地域制限を撤廃し、四七二一号ではもう事前の認可無しに焼却してよい、事後報告で可としている。

「秘」印 昭和廿年四月六日
陸密第一〇三八号 内地(北海道、沖縄、台湾を除き朝鮮を含む)(甲)
陸軍秘密書類の返納焼却に関する件陸軍一般へ通牒
昭和二十年三月二十三日 陸軍省副官 美山要蔵 参謀本部総務課長 柴田芳三

首題の件に関し昭和十九年六月三十日陸密第二七〇六号(不用陸軍秘密書類の返納に関する件)並に昭和十九年十一月四日陸密第四七二一号(陸軍秘密書類の処理に関する件)本文末尾の適用地域制限に関する件は自今撤廃し内外地を問はず適用する如く定められたるに付依命通牒す。
追て陸密第四七二一号通牒は関係部隊に限り配布しあるに付参考の為其の写を添付す

「秘」印
陸密第四七二一号 「写」印
陸軍秘密書類の処理に関する件通牒
昭和十九年十一月四日 陸軍省副官 菅井斌磨 参謀本部総務課長 柴田芳三

戦況の逼迫に伴ひ機密書類の為機動等を拘束せらるる部隊ある由なるも陸軍秘密書類の処理に就ては陸軍秘密書類取扱規則に拠るの外特に戦況の推移を予察し昭和十九年六月三十日付陸密第二七〇六号(暗号書にありては昭和十八年九月二十七日付大本営陸軍部参密第七十二号書第六〇〇)通牒の趣旨を活用事前に処理せられ度。真に已むを得ざる場合に於ては陸密第二七〇六号第二号調製者との協議及同第四号(参密第七十二号第六〇〇第四号)陸軍大臣(参謀総長)の認可は之を俟たず処理することを得。但し此の場合は第一号、第三号所定の外其顛末を付記報告せられ度。前項の処理報告は電報を以て代ふることを得。尚陸密第二七〇六号は同号第五号の規定に拘らず第五方面軍及第十方面軍作戦地域全般に適用する如く定められたるに依命通牒す。

通牒先 関東軍、支那派遣軍、南方軍、第十方面軍、香港占領地総督部、第五方面軍、第百九師団
参照
「大本営陸軍部参密第七十二号第六〇〇は「昭和二〇年三月二十二日付大本営陸軍部参密第二号第一六一」に改正せらる。

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陸密綴昭和20年
これで陸機密第三六九号通達の機秘密書類「処理」の意味は大体想像がつくのではないか。
次の2資料は、これら通達に基づくかどうかは知らないが終戦前の焼却例と思われるものである。
序言
本戦史資料は連合軍総司令部よりの指示事項に準拠し第二十八軍司令部に於て残存者の記憶を総合整理せるものなり。
第二十八軍は一九四五年五月以降蘭貢西北方地区に於て完全なる包囲下に陥り之を突破して新任務に就くに方り作戦に関係ある地図及個人の日誌等をも含む公私文書の一切を焼却せり。加之作戦当初よりの幕僚にして現存せるもの僅少なるを以て収集せる資料に遺漏或は過誤なきを保し難し。
一九四六年十一月三日
緬甸国「マンダレー」旧王城内に於て
第二十八軍司令部

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第三十七軍残務整理状況 昭和二一、六、二六 第三十七軍

一、残務整理の現況と業務進捗に就て
当軍に於て実施すべき整理部隊は四十個部隊なり。其の中タラカン島守備に任ぜし独立歩兵第四五五大隊ラブアン島守備に任じありたる歩兵第三七一大体ブルネイ邀撃戦斗に於ける独立歩兵第三六六大隊の全滅に近き部隊を初めとし其の他邀撃作戦及転進作戦等に依り人事書類其の他復員の為調製すべき関係書類等焼却せし部隊其の大部にして現に生死不明者一二六一名を数ふる現況を以て整理に相当の困難を予想せられあり。

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「外地各軍残務整理者会同綴 第1号 昭和21.6」

以下その他の焼却資料
「軍事極秘」印
スマトラ憲作命第二六号
第二十五軍憲兵隊命令 二〇、八、二一 ブキチンギ

経理関係細部指示
一 現金出納簿を除く一切の書類を焼却

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メダン憲兵分隊命令綴 昭和20.8.14~20.9.12

書類焼却証明書
一、焼却書類名称並に数量
左記
区分 戦用
名称 出納期間 部数 摘要
獣医資材器械簿 自昭和十九年十二月一日 至昭和二十年八月十八日

獣医資材薬物消耗品受払簿 同右 一
装蹄剔毛器械簿 同右 一
装蹄剔毛器械受払簿 同右 一
獣医資材証憑綴 同右 一

二、焼却年月日 昭和二十年八月十八日
三、場所 中華民国河南省洛陽県西宮
四、立会人 陸軍少尉片岡重俊 陸軍少尉徳重政信
五、焼却の理由 昭和二十年八月十五日停戦の詔書を拝し事態の急変を知り諸情況を考察すると共に師団の電話指示並将校会報に於て示達さるゝに及び前記立会人監視の下に焼却せり

右事実と相違なきことを証明す
昭和二十年十月一日
第百十師団工兵隊長 陸軍大尉池上文男

昭和廿年十二月拾五
右証明す
第百十師団長 木村経広

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「昭和20.8.15 書類焼却証明書 第110師団工兵隊」

昭和二十年六月策定
支那派遣軍対米作戦計画大綱
昭和二十一年五月七日再調製
支那派遣軍総司令部


一、昭和二十年八月十五日終戦と共に関係資料一切を焼却せしを以て原計画と相違しある点あるべし

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次官宛 発信者 支那派遣軍総参謀長(南京)
総参一電第一一六号

中国側より左記訓令に接(?)せるも当方に於ては終戦直後(?)全部焼却し資料皆無に付東京に資料あらば送付相煩はし度返

左記
直ちに中華民国二十六年七月七日より三十四年八月十日に至る間の中日歴次の会戦に関する日本軍の作戦計画の原案を整理し当部宛提出すべし(終)

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一九四六年四月二十四日付
G―二 参謀副長発終連宛
「東南『アジヤ』地区の情報に関する件」回答
一九四六年七月三十一日 
第一復員局

一九四六年四月二十四日付G―二参謀副長発終連宛「東南『アジヤ』地区の情報に関する件」参考資料を終戦時焼却せる為皆無にして多少なりとも関係せる主任者に連絡し今日迄努力して蒐集せる所別冊の如く其の内容断片的にして時に回答●●●るものある等貴方の十分なる満足を得られざるべしと思料するも事情右の如くなるに付諒承相成度

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日本高射砲威力情報に関する回答提出の件
昭和二十一年●月二日 史実部 安田中佐
渉外課完倉少佐殿

復連報第八六〇号に係る首題の件別冊の通提出致すべきに付二月五日迄に米海軍技術部に送付相煩し度し 尚関係資料焼却せられたる為細部の回答不能なる旨申添へられ度し

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「連合国軍調査関係綴(高射関係資料)昭和20年」

終連報甲第一三六号 昭二一、三、七 渉外課
日本に於ける米国映画一覧表の件
GHQ発終連報宛
三、日本に於ける全米国映画の完全なる新一覧表を出来る限り速かに提出され度
本件に関して日本政府の全機関、各省或は部局及び全映画配給機(以下判読不能)


文書所在地等の件報告
昭和二十一年四月七日 旧教育総監部残務整理部長
文書課長殿
昭和二十年十二月三十日一復第一七〇号に依る未報告の分左記の通報告す
左記
機甲本部 終戦時全部焼却せり

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連合軍司令部の質問に対する回答文書綴(教育) 16/26 昭20.8.15~21.6.10

沖縄作戦に関する質疑に関する件回答
昭和二十年十二月二十二日
第一復員省


資料の大部焼却の為大本営主任幕僚の記憶断片的記録及作戦参加者の陳述を基礎とせり。史実不備又は若干の差異等なきを保せず。

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レファレンスコードC15010011900(2枚目)


状況報告
南方軍復員部
昭和二十一年六月二十四日

一、残務整理の現況
(一)一般状況
A 各部隊の状況
(イ)復員留守業務規定は未だ南方各部隊には到達しておらず従って各地区に依り若干の差あるも概ね陸亜普第一四三五号留守業務規程及南方軍復員規程等に拠り業務を進めて居る。然しながら左の理由により意の如く業務進捗して居らぬ実情である。
1、各種の関係上終戦後所有しありたる必要書類も乗船前焼却したこと
2、戦況及終戦の混乱時に大部の書類を焼却せること
3、自活のため全努力を傾注するを要すること
4、充分なる事務機関の存在を許可せられざること
5、消耗品の欠乏
6、労務に従事しある兵力相当大にして部隊長必ずしも部下を掌握指揮して居らぬこと
7、内地の真相が正しく伝はらず留守業務の重要性に関する認識十分ならざること
8、軍隊区分部隊多きこと

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レファレンスコードC15011031200(2枚目)
「外地各軍残務整理者会同綴 第1号 昭和21.6」

昭和二十年八月二十八日
                    第五八七設営隊長
大阪警備府司令長官殿

軍需品の処理の件報告
首題の件別冊の通有之候
(別冊添)
(終)

内務長主管
品名   称呼  数量   引渡先
上陸札  個   八〇〇  焼却

航海長主管
品名   称呼  数量   引渡先  理由
手旗甲  組   八五          焼却

主計長主管 艦営需品の部
品名             数量
海事諸例則         一  焼却処分
海軍会計法規類集    一  焼却処分
艦営需品燃料取扱例規 一  焼却処分
●●制規            一  焼却処分

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レファレンスコードC08011467000(3・39枚目)
軍需品処理目録 大阪警備府 (①-引渡目録-543)

昭和二十一年四月一日
仝年四月三十日
衛生史編纂資料
漢口 
第六方面軍軍医部

第百五十八兵站病院衛生関係書類検査所見
入院患者名簿に就て
一、終戦前の入院患者名簿を焼却しあるは不可なり


第百八十三兵站病院衛生関係書類検査所見
入院患者名簿同いろは名簿に就て
一、一部焼却(失)せられあるは不可なり


第百八十二兵站病院復員衛生関係書類検査所見
入院患者名簿に就て
1、沙洋鎮開設間及湘潭、板塘舗開設間のものの焼失)しあるは不可なり


第百四十兵站病院復員衛生関係書類検査所見
一 入院患者名簿に就て
編成以来開設せし病院患者療養所等の本簿を一切焼却せしは不可なり。四月十五日第百五十八兵站病院より引継後の本簿は概ね正確に調製しあるも左記の点訂正加除し置くを要す


病院の事務処理に関する件 昭二一、二、二八 統集団軍医部
一、現在患者を明瞭ならしむるを要す
理由、
(二)第六方面軍管内の病院部隊にして直接作戦に参加せしものは転進間書類の整備を行ふ能はず、又不慮の災害にて書類の亡失焼失せるもの亦多々あり、其の上終戦に際しては重要書類を焼却せる部隊あり 之が為再調査を〔ママ〕再発行を要すべき入院患者恩典関係書類の多々あるは予想に難からざるも復員を整斉たらしむる為に速かに此の方面の機構(例へば事務関係人員の増強)を完備するを要す。

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レファレンスコード
C08011467000(1枚目)
C13120605300(1・5枚目)
C13120605600(1枚目)
C13120605800(1枚目)
C13120606000(1・2枚目)
大東亜戦争陸軍衛生史編纂資料 昭和21.4

簿表及証憑書類処分保証書 独立歩兵第五十三大隊

簿表名称 冊数
受払簿 六

同上証憑書名 冊数 
証憑書類 九
費薬日計表綴 三
処方箋綴 六

同上記帖期間 
自昭和十八年七月十日 至昭和二十年八月十四日

取扱主任者官氏名
陸軍軍医大尉明石靖●
 
右戦用品の出納確実なる事を保証す、
尚終戦時部隊点検の上確実に出納整理せられたるを確認したる後昭和二十年八月十四日命により(桜副電第265号)之を焼却せしめたる事を証明す
昭和二十年八月十五日
独立歩兵第五十三大隊長 陸軍大尉 衛藤勇

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「昭和20.8~9 軍需品処理調書」

海上挺進基地第三大隊戦斗概要
渡嘉敷島
昭和二十二年三月二十五日
第三十二軍残務整理部

記述者
海上挺進基地第三大隊整備中隊長
陸軍大尉 木林明


一、記述者は終始渡嘉敷島に在りし為本島転出せる部隊の状況は詳細知らず。
二、記録は全部焼却せる為月日其の他誤あるも計られず

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レファレンスコードC11110211100(2枚目)
第32軍第11船舶団 船舶部隊史実資料(1)

昭和二十二年五月起稿
第三十三特別根拠地隊戦闘情況(自昭和十九年八月五日至昭和二十年八月三十一日
第三十三特別根拠地隊参謀 海軍大佐 志柿謙吉

一、終戦後既に二ヶ年を経過し剰へ敗戦の苦闘と疫癘に悩まされたるを以て記憶朦朧として定かならざる所あり
加之作戦記録等重要資料は或は戦禍を蒙り或は終戦時焼却せるを以て頼るべきものもなし・・・

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病院歴史
第百八十二兵站病院

病院歴史
昭和十九年湘桂作戦後広西省柳洲に病院を開設し昭和二十年五月三十日病院を閉鎖軍命に依り六月十七日柳洲出発漢口に向ひ反転途中八月十七日湖南省長沙県長沙市に於て停戦に依り地区警備司令官の命に依り隊属貨物宰領隊長は自隊隊属貨物中書類全部を焼却せり依て同書類に梱包しありたる病院歴史同衛星録並に其の他准拠すべき書類全部を同様焼失せるを以て全般に亘り不明事項多く各自の記憶を辿り概略を記述せんとす

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病院歴史 昭和19~20.5

昭和十三、六、一六~二〇、八、一五
第百四師団戦史資料
104D司令部

戦史資料調査報告
昭和二十一年四月十七日
第百四師団司令部

註 
本戦史資料調査報告は終戦に伴ひ資料を焼却せる為歴戦者の記憶を辿りつつ輸送船内に於て作製せるものにして殊に旧年次に属する作戦に関しては詳細正確を期し難き点多く又数的資料無きを遺憾とす。

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第104師団戦戦史資料 昭和13年6月16日~20年8月15日

鎮西兵站第三一号
軍需品、軍需工業等の処理に関する件達
昭和二十年八月十八日 鎮西集団軍司令官
軍需品、軍需工業等の処理に関し別紙の通定む

鎮西兵站第三〇号
部隊装備及集積軍需品処理改正に関する件通牒
昭和二十年八月三十日 鎮西集団参謀長
    殿
鎮西兵站第二十一号別冊の如く中改正せられたるに付依命通牒す。

一 経理関係書類の処理
2 経理関係簿表書類の焼却は出納官吏物品会計官吏、戦用品保管者等●して責任免責に必要以外のものとし且つ軍機秘密漏洩防止と併せ酌量し各級経理部長等に於て定むるものとす。既に焼却済のものに対しては免責上必要の範囲に調製し置くものとす。

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レファレンスコード
C15010820300
C15010820400
C15010821400(1枚目)
軍需品.軍需工業の処理に関する書類綴 2分冊の1 昭和20.8

戦史資料調書
昭和二十一年一月十五日調製
花蓮港陸軍病院

凡例
一、本冊は昭和二十一年一月四日台参復第一号に基き調製せる戦史資料なり。
二、昭和二十年八月九日蘇連の日本に対する宣戦の布告を知り当院の命運旦夕に迫りたるを覚悟し一切の環境を整理し全員玉砕一歩前の準備を完整し患者及之に要する最少限度の衛生材料糧秣、被服等を至短時間内に中央山脈に輸送する如く準備す、数日後終戦となり上司の命に依り大部分の書類を焼却。依而当院に拠るべき一切の書類を有せず。終戦迄の諸報告は総て上司に提出済に付戦史資料は第十方面軍及陸軍省の書類に拠らざるべからざるも復員に伴ひ命に依り記憶を辿り調製せるに付大綱に誤りなきも細部に至りては確度乙程度とす。

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レファレンスコードC11110397400(2枚目)
台湾方面関係部隊戦史資料 昭和19年~20年8月

私は敗戦と同時に、第六方面軍渉外弁事処武昌班に配属を命ぜられ、岳州から帰ってきた逵中尉とともに即日赴任した。留守中兵站司令部では軍の命令によって陣中日誌その他命令綴など焼却してしまったので、慰安関係の参考綴やスクラップブック、調査資料集なども、その時焼却されてしまった。
(山田清吉「武漢兵站」p288)

  こうしたなかで迎えた終戦だった。一部にはホッとした者もあったろう。しかし彼らに比べ多少でも情報の入手にめぐまれていた私たち憲兵でさえ、このうろたえようだったのだから、情報にとぼしい兵隊たちは寝耳に水のことで大変なショックであった。
  やがて重要書類が庭へ持ち出されて焼却された。この数カ月にわたる郴県分隊の記録はあとかたもなく灰となり、あとに残ったのはただいい知れぬむなしさだけであった。書類を焼いた煙が天空へ消えたとき、ようやく敗戦の実感がわいてきた。それとともにたとえようもないくやしさがこみあげるのを覚えた。
 (井上源吉「戦地憲兵 中国派遣憲兵の10年間」p276) 

大急ぎで本部に出頭し、ここで初めて終戦を知り、天皇陛下の勅語のことも聞いた。本部は重要書類の焼却その他の整理で大混雑、私は高級主計に面会し、今後の処置を受ける。・・・私は南京に一泊し、翌朝滁県に帰隊する。現地人は生気を取り戻したのか何となく元気がよい。彼等の読んでいる中国の新聞を見ると、日本の敗戦が克明に大書されている。帰隊と共に、私達も身辺の整理と書類の焼却をする。日本軍が連合軍に無条件降伏したという情報が徹底されるまでには、総軍の所在地であっても三日ぐらいかかった。
(森利「モリトシの兵隊物語-一兵士の哀歓-」p380」

吉田裕「現代歴史学と戦争責任」青木書店1997年
V敗戦前後における公文書の焼却と隠匿

○・・・鈴木貫太郎内閣の蔵相であった広瀬豊作が、「私もご承知のとおり終戦直後、資料は焼いてしまえという方針に従って焼きました。これはわれわれが閣議で決めたことですから、われわれの共同責任のわけです(3)」と回想しているし、元陸軍法務中将の大山文雄が、法務省の調査に対して、「書類の湮滅は政府の命令に基いてなされた(4)」と回答しているのも、・・・(p127・128)

○この閣議決定〔ポツダム宣言の受諾〕が行われた頃、陸軍中央官衙の位置する市ヶ谷台上においては機密書類の焼却が開始されていた。終戦の聖断直後、参謀本部総務課長及び陸軍省高級副官から全陸軍部隊に対し、機密書類焼却の依命通牒が発せられ、市ヶ谷台上における焚書の黒煙は八月十四日午後から十六日まで続いた(5)。(p128)

○一九四五年八月十八日、武蔵野警察署長は、東京連隊区司令官よりの通牒に基づき、管下各町村長に、「召集、徴兵、点呼関係書類ハ一切速ニ焼却ス」ることを文書をもって指示している(7)。(p129)

○衆議院の場合、直ちにこれを拒否したとはいえ、八月十七日に陸軍省軍務局からすべての秘密会の速記録を焼却するよう要請があったし(8)、新聞社の場合でも、「軍部から戦争に関する記録写真をすべて焼却すべしという圧力が新聞社に加えられた。連合軍捕りょが連行されていたり、B29が高射砲弾を受けて墜落していたりする写真が主として処分対象となったが、軍部としては何かの写真によって軍の幹部に禍いが及ぶのを恐れたのだろう(9)」と指摘されている。(p129)

○内務省については、敗戦当時、官房文書課事務官であった大山正が、「内務省の文書を全部焼くようにという命令が出まして、後になってどういう人にどういう迷惑がかかるか分からないから、選択なしに全部燃やせということで、内務省の裏庭で、三日三晩、炎々と夜空を焦がして燃やしました(12)」と回想している。(p129)

○四四年七月に情報局次長を退任した村田五郎は、「政府は、われわれのような以前官吏を勤めたものに対しても、各自がその在官当時から所持していた重要書類はそれを全部焼却してくれという電話をかけて来るのでした。(中略)そんなわけで、私も当時自分が所持していた重要書類はそれを一つも残さず焼却をしたような次第です(13)」としている。(p129・130)

○外務省の場合は、四五年八月七日決裁の「外務省文書処理方針及臨時外務省文書委員会ノ設置二関スル件」に基づき、「極秘記録」の非常焼却」が開始されている(14)。・・・臼井勝美・吉村道男・細谷千博の座談会「外交史料館の二十年と将来(15)によれば、焼却の優先順位は、「中国関係」、「ソ連関係」、「枢軸関係」の順であったという。(p130)

○大蔵省に関しては、関連文献に乏しいが、「大蔵当局も米軍進駐直前大量の機密文書をみずから焼却している(16)」とされている。(p130)

○「軍学協同」の先端を切った東京帝国大学航空研究所の場合でも、八月十五日以降、重要書類の焼却や機材の破壊が始まっている。富塚清は、これについて、「連中は処刑されるのがこわくて、証拠物件を消すことに汲々としているのだそうな(17)」と辛辣な批判を加えているが、・・・(p130) 

○・・・戦後、防衛庁防衛研修所戦史室に勤務した元陸軍少佐の森松俊夫が、戦史室への旧軍関係文書の受け入れに関連して次のような事実を指摘している。

  特筆されることは、戦争指導関係書類たとえば『大本営政府連絡会議議事録』『重要国策決定綴』『御前会議議事録』など、極めて重要な史料が入手されたことである。これは次のような経緯があった。
  終戦時、軍務課庶務将校中根吾一少尉が高級課員山田成利大佐の許可を得て、都下青梅沿線の自宅に搬出し、ドラム缶につめて地下に隠匿した。ついで原四郎中佐が保管を継承して都下某所に隠匿し、米軍の発見を免れるため表紙を改装した。服部卓四郎大佐は、占領時代の終了を待って本格的な戦争史の編纂を意図し、堀場一雄、原四郎、橋本正勝の3氏が分割保管するよう処置した。
  これらの書類は、記述の『大東亜戦争全史』の史料となり日の目を見たが、その後は服部氏の主宰する「史実研究所」で保管され、昭和35年に一括して戦史室に移管され、全面的に活用された(18)。

  国家の公的な記録を、もはや一私人にすぎない旧軍人グループが占領終了後も長期にわたって。いわば「私物化」してきた訳である。

  また、天皇の陸軍に対する最高統帥命令である「大陸命」およびこれに基づいて参謀総長が発する指示=「大陸指」に関しても同様の隠匿が行われた。これについて、現在、防衛庁防衛研究所戦史部が保管している「大陸命」「大陸指」の原本に付せられた「経歴票」には、次のように記されている。

  昭和二十年八月十四日大東亜戦争終戦に方り陸軍一般に保管書類焼却の指令が出されたが、第二課〔参謀本部作戦課〕においては本大陸命(指)綴のみは焼却せず、庶務将校椎名典義中尉が都内某所に隠匿し、第一復員省(局)史実調査部(資料整理部)編成に伴い、占領米軍の公私に亘る一般資料追求の監視を避けて部長宮崎周一中将が自宅に保管した。〔中略〕昭和二十一年十二月宮崎中将退職に伴い後任部長服部卓四郎大佐が保管を継承し、同大佐は占領時代終了を待って正統戦争史の本格的編纂にあたるためこれを自宅に保管した。同大佐の「大東亜戦争全史」の著述にあたりてはこれが利用された。

  ここでも、「大陸命、大陸指」綴が戦史室に移管されたのは一九六〇年のことだった。

  さらに、海軍に関しても事態はほぼ同様である。「大陸命」に相当する海軍の統帥命令は「大海令」だが、これについては富岡定俊(敗戦時の軍令部作戦部長)が「終戦に際し、大海令の原本を軍令部第一部長として保管しており、焼くように命令があった。これは天皇の戦争責任、戦犯問題を恐れたからであった。(中略)私もこれを焼こうと考えたが、戦死者の遺族が困るだろうと思って焼かずに隠した。戦争に赴いたのはすべて天皇の命令であるという証拠がないと遺族は迷うであろう(19)」と回想している。

  この「大海令」は、第二復員大臣官房史実調査部でひそかに保管されていたが、その後の状況は次のとおりである。

  〔東京裁判の〕開廷を前に、連合軍側による証拠書類の押収が厳しさをまし、当然のように史実調査部へも捜査の目はむけられた。かねてよりこのことのあるのを予想し、とくに天皇の戦争責任にたいする証拠書類となるおそれのある「大海令」を、富岡〔定俊〕部長は部下の十川潔氏(元海上自衛隊幕僚長・死去)に命じ、いずこかへ隠させた。そして、連合軍の追及にたいし、富岡部長は「書類は焼却した」とつっぱねた。〔中略〕
  一方、富岡部長の密命によって「大海令」を秘匿した十川氏は、その場所をだれにも知らせず、自分の身に万一のことがおきたときは開封するようにと、一通の封筒を富岡氏にわたした(20)。

  この「大海令」が史実調査部の事実上の後身である財団法人・史料調査会の手で、復刻という形で航海されたのは、実に一九七八年のことだった(21)。


○敗戦時、内務省地方局の事務官であった奥野誠亮は、内務省中央の焼却命令を伝達するために、原文兵衛・小林与三次・三輪良雄とともに各地方庁をまわっているが、その狙いを、「〔八月〕十五日以後は、いつ米軍が上陸してくるかもしれないので、その際にそういう文書をみられてもまづ〔ママ〕いから、一部は文書に記載しておくがその他は口頭連絡にしようということで、〔中略〕地域を分担して出かけたのです(28)」と説明している。(p136)

○四七年一月九日の東京裁判の法廷に提出された第一復員局文書課長・美山要蔵の「証明書」(法廷証二〇〇〇番)にも、「本官は茲に昭和二十年八月十四日陸軍大臣の命令に依り高級副官の名を以て全陸軍部隊に対し『各部隊の保有する機密書類は速やかに焼却』すべき旨を指令されたことを証明する。右は在京部隊に対しては電話に依り其の他に対しては電報を以て伝達された此の電報及原稿は共に焼却された(29)」とあり、・・・(p136)


(3)大蔵省大臣官房調査企画課編『聞書戦時財政金融史』大蔵財務協会、一九七八年、一四〇~一四一ページ。
(4)北博昭『東京裁判 大山文雄関係資料』富士出版、一九八七年、二〇一ページ。
(5)服部卓四郎「大東亜戦争全史〔復刻版〕原書房、一九六五年、九五八ページ。なお、最近、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地内で、焼却処分に付されたものの焼け残りの形で土中に埋められていた機密文書類が大量に発見されている(『産経新聞』一九九六年七月一三日付)。
(7)東村山町役場「動員に関する発来翰 自昭和一六年四月至昭和二十年九月」(東村山市史編さん室所蔵)。ただし、地域によっては、焼却命令が電話によって伝達された事例もある(黒田俊雄編『村と戦争―兵事係の証言』桂書房、一九八八年、九〇~九一ページ)。後述するように、電話による伝達は、焼却を命じた証拠書類を残さないための措置だろう。 
(8)大木操『大木日記』朝日新聞社、一九六九年、三四〇ページ。同『激動の衆議院秘話』第一法規出版、一九八〇年、三九五~三九六ページ。なお、最近になって、この秘密会の記録がようやく公開された。衆議院事務局編『帝国議会衆議院秘密会議事速記録集』全二巻(衆栄会、一九九六年)がそれである。
(9)日本新聞協会『新聞カメラマンの証言』日本新聞協会、一九八六年、一四ページ。 
(12)大霞会編『続 内務省外史』地方財務協会、一九八七年、三〇七~三〇八ページ。
(13)内政史研究会『村田五郎氏談話速記録5」一九八二年、一五一~一五二ページ。
(14)外務省百年史編纂委員会編『外務省の百年(下)』原書房、一九六九年、一二九五~一二九七ページ。
(15)『外交史料館報』五号(一九九二年)所収。
(16)昭和大蔵省外史刊行会編『昭和大蔵省外史(下)』財経詳報社、一九六八年、二一ページ。
(17)富塚清『ある科学者の戦中日記』中公新書、一九七六年、一八〇ページ 
(18)原四郎追悼録編纂刊行委員会『原四郎追悼録』非売品、一九九三年、二四ページ。
(19)史料調査会編『太平洋戦争と富岡定俊』軍事研究社、一九七一年、三二八ページ。
(20)『丸』特別調査班「さまよえる〝戦史のルーツ〟数奇の戦後史」(『丸』一九七八年六月号)。
(21)史料調査会編『大海令』(毎日新聞社、一九七八年)がそれである。
(28)自治大学校資料編集室作成『山崎内務大臣時代を語る座談会』一九六〇年、三ページ。
(29)「極東国際軍事裁判速記録」第一四八号、四ページ。 
(p138~141)

広瀬貞三「佐渡鉱山と朝鮮人労働者(1939~1945)」

(終戦後)朝鮮人を抱えた企業の反応は早かった。45名の朝鮮人がいた中央電気田口工場では、8月17日に臨時役員会を招集し、①軍事占領されたとき、軍部との関係を隠匿するため軍部との往復文書は全部焼却する、➁「半島応徴士」の取扱いは田口在住の朝鮮人「青山仙太郎」に依頼するなどの実施を決定した。(80)

[補註]
(80)中央電気工業株式会社「四十年史」編纂委員会編『中央電気工業四十年史』(同社、1975年)68頁。 

軍の焼却命令メモ発見 徴兵日誌にはさまれ 鳥取
2007年07月06日08時41分

  敗戦の際、旧日本軍が全国の自治体に出した徴兵関係書類の焼却命令を記録したメモが、鳥取市の鳥取県立公文書館で確認された。燃やされなかった同県日野郡二部村(にぶそん)(現・西伯郡伯耆(ほうき)町)の「兵事動員ニ関スル日誌」の1945(昭和20)年8月15日の項にはさまっていた。研究者によると、軍の焼却命令を伝える文書が残っているのは極めて珍しく、軍部による指示の具体的内容を知る貴重な資料という。
  メモは、はがき大の紙にインクの手書きで、「連隊区司令部ヨリノ通知」として、「現在入営並(ならび)ニ応召者ノ名簿丈(だ)ケヲ残シ其他(そのた)ノ兵事関係書類ヲ全部至急焼去スル事」などと書かれていた。末尾に赤字で「二部駐在所 津島巡査」とあり、当時、村の駐在所に勤務していた津島亀吉巡査(故人)が軍部からの命令を書き取り、村役場に渡したものとみられる。
  敗戦によって不要になった召集令状の回収・焼却なども指示されており、その内容は日誌にも転記されていた。日誌の翌16日午前の項には、「関係一切ノ焼去ヲ実施ス」との記述があり、命令通り焼却が行われたとみられる。
  防衛省防衛研究所戦史部の柴田武彦・主任研究官によると、敗戦時の軍内部の焼却命令は、痕跡を残さないよう、ひそかに出され、命令を伝える文書自体が焼却の対象だったという。軍から自治体に対する命令も同様の扱いだったとみられる。
  メモがはさまっていた日誌は、37年7月22日から45年11月24日まで、村民の出征先や戦死場所など、召集にかかわる出来事を564丁(丁は表裏2面のとじこみ)にわたって記録している。柴田氏は「村は日誌を残すべき名簿類に含むと判断したのではないか」と推測。その日誌にはさまっていたことで、メモが偶然、残ったとみる。
  二部村の人口は当時、2千数百人。約400人が出征し、48人が戦死した。日誌には、37年10、11月、記録上、最初の戦死者2人が出た時、知事が弔問に訪れ、約800人が参列する村葬が行われたことや、敗戦直前の45年6月13日、「未(いま)ダ兵籍編入ノ年令ニ至ラザル者」に令状が届くなど、動員システムに混乱があったことなどが書かれている。
  焼却命令のメモだけでなく、当時の召集の実態を記録した資料の発見もまれで、県立公文書館の伊藤康・総括専門員は「召集令状が役場に届いてから本人に通知されるまでの過程が分刻みで書かれるなど、村が戦争に巻き込まれていく様子が目に浮かぶようだ」と話している。
  旧二部村は合併により、溝口町を経て05年から伯耆町となった。溝口町当時の00年10月の鳥取県西部地震で役場の庁舎が被害を受け、過去の公文書の散逸を懸念した片山善博知事(当時)が公文書館での保管を指示。資料を整理中、偶然メモが見つかったという。
http://www.asahi.com/culture/news_culture/OSK200707050134.html

敗戦直後、機密書類の焼却指示 宮内省、日時と場所指定
2013年8月23日19時2分
写真:旧宮内省が機密書類の焼却を指示した1945年8月18日付文書。22日までに焼くよう指示している

  【佐藤純】敗戦直後、当時の宮内省が機密書類の焼却を省内に指示した文書が、宮内庁の宮内公文書館に残っていた。朝日新聞記者が閲覧して見つけ、承諾を得て撮影した。陸海軍が戦争犯罪の追及を恐れて機密書類を焼いたことは知られているが、政府機関の中枢が焼却を指示した公文書が見つかるのは極めて珍しい。
  1945年8月18日付の「機密書類ノ焼却ノ件」と題する文書で、宮内省の大臣官房から省内の各部局長あてに出された。「侍従職 昭和二十年重要雑録」という簿冊にとじられていた。
  各部局が保管する文書類や、陸海軍などから同省に送られてきた文書類のうち、「機密ニ属シ破棄相当ト認ムベキモノ」を「原簿ト共ニ之ノ際全部焼却スルコト」と指示し、8月18~22日の午前9時~午後3時に「宮城内 三重櫓(やぐら)下(自動車課前 蓮池寄 石垣下)」で焼くよう指定している。
http://megalodon.jp/2013-0823-1919-40/www.asahi.com/national/update/0823/TKY201308230081.html

終戦前後における參謀本部と地理学者との交流、および陸地測量部から地理調査所への改組について(渡辺正氏資料をもとに)
金窪 敏知(元国土地理院)

Ⅴ 終戦に伴う書類(地図を含む)の焼却について
  ポツダム宣言の受諾、そして終戦に伴い、昭和 20 年 8 月 15 日付で「陸軍秘密書類其 ノ他重要ト認ムル書類(原簿共)」の焼却命令が参謀総長名で発せられました(渡辺氏 資料 6)。ここでいう「其ノ他重要ト認ムル書類」には地図、兵要地誌を含んでおります。続いて 8 月 19 日付で「作戦用地図処理 要領」の通牒が発せられ、細部にわたる指 示が行われました(渡辺氏資料 8)。指示の内容はおおむね次のようです。
(1)參謀本部においては、内邦地形図のうち軍事極秘である 2 万、1 万、5 千分 1 図、および滿洲、「ソ」領、関東州の 10 万、5 万、2 万 5 千、5 千分 1の軍事極秘以上の地図ならびに各地域の兵要地誌図は焼却する。また、内邦地形図のうち軍事極秘(戦地に在りては極秘)および軍事秘密(戦地に在 りては極秘)である 5 万、2 万 5 千分 1図は一部残置し焼却する。
(2)部隊、官衙、学校においては、參謀本部に準じるほか、三角点成果表および 2 万分 1 以上の実測図(築城・射撃のための測図を含む)は焼却する。
(3)陸地測量部においては、原図、初刷、三角点成果表は成るべく保管する。原版はそのまま残置するが、ただし軍事極秘である 2 万、1 万、5 千分 1 のものは焼却または破壊する。印刷機、資材等は残置する。ただし一部のレンズは保管する。資材のうち所要のものは職員に貸与支給する。
(4)民間印刷会社においては、印刷した 5万分 1 地形図および 20 万分 1 帝国図は印刷会社に貸与する。用紙、薬品、亜鉛版等は陸測主任者と経理上の協議(例えば印刷費を該資材によって現品払いをするような)の上印刷会社に交付する。

  原図原版等処理区分表によれば、樺太、朝鮮、台湾、滿洲、シベリヤ、支那、南方に関する原図、原版は焼却、初刷(印刷図の第 1 号)は秘匿、また、地図(印刷図)はシベリヤ、支那、南方に関するものを焼却、となっています
  以上のような指示に従って、直接作戦に関係する軍事極秘の大縮尺図等は焼却されましたが、指示対象外の地図類はこの限りでありませんでした。ただし、最初の 8 月 15日付の命令に従って焼却されてしまったものもかなりあったと思われます。
http://www.let.osaka-u.ac.jp/geography/gaihouzu/newsletter2/pdf/n2_s3_1.pdf

■重要書類の焼却命令
  日本政府と軍はポツダム宣言の受諾を決定した後、ただちに、関係省庁や軍のすべての機関に対して、重要書類の焼却を通達していました。陸軍では8月15日付で参謀総長名の「陸軍秘密書類焼却ニ関スル件」が通達され、陸地測量部においては玉音放送終了後、疎開先の波田国民学校や梓国民学校の校庭に防空壕用に掘った穴の中で地図類を次々を燃やしていきました。

■突然の焼却作業変更命令
  地図類が燃やされていくのを目の当たりにした渡邊参謀は、「日本の復興のため将来必要となる地図まで焼却することはない」と考え、「陸地測量部処理要綱案の具申とともに、「地図の保存」を進言しまSKた。8月19日、焼却の命令変更となる「情勢の転変に伴ふ作戦用地図処理要綱の件通牒」が出され、残すものは残すということになりました。本土決戦用の地図(マルタ作業地図)など優先的に燃やされたためほとんど残らなかったものもありますが、陸地測量部にあった少なくない測量成果や地図類といった貴重な資料が失われることは避けられました。

これのことか
昭和弐拾年●●拾五日
宛名 第二総軍司令官其他へ
件名 陸軍秘密書類焼却に関する件

アジア歴史資料センターhttp://www.jacar.go.jp
レファレンスコードC15010958100(4枚目)
「陸密(電)陸機密(電)番号簿 昭和20年」

 ロシア(ソ連)の参戦も耳にしましたが、この頃、終戦の前日、1年生は金剛山の麓の小学校やお寺に疎開し、私は教室が4つしかない小さな小学校で一晩を過ごしました。翌日、重大放送があるというので急ぎ帰校し、全校の職員・生徒が正装してラジオの前に整列しました。 雲の上の人、と思っていた初めて耳にする天皇の声──雑音が多く、殆ど聞きとれませんでしたが、「敵は残虐なる爆弾を使用し……」とか「耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍び……」あたりだけは耳に残りました。 放送のあと校長閣下は「こういう時局であるから各自は戦意を高揚し、一層奮励努力するように」というような短いスピーチをされましたから、校長も放送内容を聞きとれなかったのだと思います。しかし3時間くらい経って、どうも戦争は終わったらしいという噂が生徒の間に流れました。そしてその晩から書類の焼却が始まり、それは延々と何十時間も続きました
http://www.geocities.jp/shougen60/shougen-list/m-S6-rensai5.html

『市史研究よこはま』創刊号
   横浜市史編集室/編集・発行
   1987年3月
http://www.city.yokohama.lg.jp/somu/org/gyosei/sisi/city-history

■「座談会・終戦前後の混乱期を顧みる」
年月日 昭和59年6月22日
場所 横浜開港資料館
出席者
船引守一 元横浜市助役
大下寿一 元横浜市助役
彦由亀一 元横浜市教育長
菊谷勇夫 元横浜市助役
(司会)西池伸弥 横浜開港資料館副館長

終戦を迎える
◎市役所を老松の仮庁舎へ
◎地下足袋持って農協もうで
◎終戦の前夜に終戦を知る
◎終戦への対応を協議
公文書焼却は手当たり次第
◎終戦後、職員は自然復帰
◎倉庫開放は応急措置
http://www.city.yokohama.lg.jp/somu/org/gyosei/sisi/city-history/cityhistory1.html

質問 (Question) 兵事関係の書類の焼却命令が戦後、陸軍それから海軍と、全国の1万521市町村の兵事係にくだったが、埼玉県はどのような対応をしたのか。また、この焼却命令に関する詳しい資料があれば、あわせて紹介してほしい。

回答 (Answer)
●埼玉県の対応について
・『文書館紀要 第8号』 埼玉県立文書館/編集 埼玉県立文書館 1995
p92~99
①昭和19年3月に県の行政文書が供出・廃棄されたことを示す庶務部の資料
②終戦直後における勤労動員関係文書の焼却の様子を記す県職員の手記
③酒類販売会社から役場あてに出された、戦時中の軍関係資料の廃棄依頼文書 が紹介されている。
●焼却命令に関する記述があった資料(いずれも記述は部分的)
・『望郷 姫路広畑俘虜収容所通譯日記』 柳谷 郁子/著 鳥影社 2011.12
p151 敗戦の際、軍部が全国の自治体に出した徴兵関係書類ほかの焼却命令を記録したメモが鳥取県立公文書館で確認されたとの記述あり。
・『「地圖」が語る日本の歴史』 菊地 正浩/著 暁印書館 2007.4
p25 「日本政府と陸・海軍はポツダム宣言受諾決定直後、直ちに、各関係省庁、軍部全ての機関に対して、重要書類の焼却を通達していった。~」とある。 p33 焼却を命じる通達本文の掲載あり。
http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000104736

アジア太平洋戦争期における 陸軍工員の人事記録 ――工員名簿,工員手帳,共済組合員原票,留守名簿の制度的概略と 戦後の残存状況
近藤 貴明

アジア太平洋戦争において,国民皆兵制度を導入していた日本の陸軍は,国民の大量動員を計 画・実施したが,このことは同時に,陸軍に膨大な量の人事記録を作成・保管する事務的作業を求 める結果となった。陸軍の人事記録の代表的なものとして,陸軍軍人の戸籍に相当する陸軍兵籍や 動員部隊が作成した戦時名簿などが挙げられるが,終戦あるいは火災などによる焼失が原因で,こ れらの人事記録の全国的な保管率は約70パーセントであるといわれている(1)。

(1) 群馬県県民生活部世話課編『群馬県復員援護史』群馬県,1974年,757頁,富山県厚生部社会福祉課編『富 山県終戦処理史』富山県,1975年,776頁。終戦時,軍の命令により陸軍兵籍の大半を焼却した県としては, 大分県,宮崎県,戦後の庁舎火災により陸軍兵籍を焼失した県としては,秋田県,宮城県,島根県の例がある。 島根県健康福祉部高齢者福祉課「こんにちは島根県です」『恩給』第210号,1996年5月,26頁,宮崎県福祉生 活部高齢者・援護課「こんにちは宮崎県です」『恩給』第219号,1997年11月,26頁,大分県福祉保健部高齢 者福祉課「こんにちは大分県です」『恩給』第236号,2000年9月,27頁,宮城県保健福祉部社会福祉課「こん にちは宮城県です」『恩給』第245号,2002年3月,24頁,秋田県健康福祉部福祉政策課「こんにちは秋田県で す」『恩給』第257号,2004年3月,22頁。
http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/oz/638/638-03.pdf

その受領書は終戦時ゴム林の中にて、横浜正金銀行支店長立会いの下、軍票(日本軍が発行した占領地用通貨)其の他軍関係の重要書類とともに焼却処分にした。戦後の賠償発生を恐れて、軍に関係したものはすべて焼却したのだ。この時に、自分の軍隊手帳や写真なども一緒に焼却してしまった。
http://www.toshima.ne.jp/~torasima/senso13.html

 Q:井形さんは特高警察官として終戦の8月15日を迎えますよね、何をしてたんですか。 特高課にあるね、書類はね、全部焼けと。

Q:特高の書類を。
うん、これがね。

Q:上司から。
いやこれはね、日本全国の役所いうもんはね、戦争に関係あるものは全部焼けいうような、東京の内務省警保局からみな出た、役所に関係あるね、戦争に関係あるものはどこの役所もみな焼いた。みな持ち出して。

Q:井形さんは特高に関する資料を。
とにかく特高課の部屋にある全部書類、全部戦争に関係あるいうて、もう全部焼けっちゅう。

Q:処分している時の映像と言うか、記憶は今でもはっきり覚えていますか。
覚えていますよ。あの、手配書がね、手配書いうのは文書にしてあるのと、書いてある文書を写真に撮ったものを指名手配しているわけ、こういうものを投書したり、相手方に送ったりしたから、これを書いたね、本人を逮捕せよと言う指名手配書の代わりに写真に撮ったものを。

Q:反戦だとか、天皇制批判だとかの、投書や手紙の写真を。
そうそう、写真みな。

Q:目にしたんですね、それを見た時はどんな気持ちだったんですか
いやせやからね、指名手配である、写真に撮ったものをね、そういうもんがあるということを聞いてたけどやね、実物を見たんは初めてですよ。だからそれを見た時と言うのは、あのこんなこと何年か前に外勤巡査の時も報告しとったなあと、ね、陰ながら東条の批判したっていうのは、こと聞いてても、実物は知らんわけですわ。こんなもんでね、殺された人間もあるんだと思ったらね、これはもう大事にせないかんと。

Q:それを目にした時、井形さんはどうしようと思ったんですか。
残さないかん。

Q:残さなければいけない。
後世に残さないかんしやな、ひょっとしたら持ち帰ることによって分かって発覚したらね、もちろんね、いわゆる免職になりますわな、くび。

Q:上司の命令に背いて。焼けと言われたものですよね。
そうですよ、上司の命令に反してる、上司の命令に反しもしてるし、文書なんかをね、警察の関係の書類を持ち出す言うのは犯罪ですわな、そりゃ怖いですよ。

Q:それでも持ち帰ったのは。
こういうね、命をかけてやっていることに、やっぱり僕はね、後世に残さなかったら日本にレジスタンスがなかったんじゃないかなと、いうことになるんじゃないかなと、思ったですからね。

Q:それをどうやって、どのくらい持ち帰ったんですか。
かなりありましたよ。件数にしたら300~500点くらいあったと思う、公然と持ち帰られんからね、それは。

Q:隠れてこっそりと。
うん。
http://cgi2.nhk.or.jp/shogenarchives/shogen/movie.cgi?das_id=D0001160003_00000

軍関係文書の焼却指示書が現存

  終戦直後に国が警察を通じて市町村に軍事関係の文書の焼却を命じた文書が、福山市の福山城博物館に現存している。広島県瀬戸村(現福山市)が保管していた1945年8月30日付の公文書。このほか同県有磨(ありま)村(同)が翌46年、連合国軍総司令部(GHQ)の求めに応じて作成した廃棄公文書のリストも残っている。国が軍事機密を含む戦時中の記録を消し去ろうとしたことを裏付ける資料として専門家も注目している。
http://www.chugoku-np.co.jp/local/news/article.php?comment_id=178389&comment_sub_id=0&category_id=112
 
犬山高校のあゆみ 終戦直後の犬山高校のこと

学徒動員、勤労奉仕ばかりで、ほとんど勉強どころか、学生生活を送ることのできなかった犬山高女生も終戦を迎え、 少しずつ学校に戻ってきました。何人かは学校に戻ることもなく、行方もわかりませんが、昭和20年8月20日、各所に動員 されていた生徒、勤労奉仕に出かけていた生徒、上級生も下級生も、さつまいも畑と化した運動場のある学校に集まり、 講堂で、中村二郎校長の話を聞きました。 戦後の犬山高女の始まりです。

この戦後すぐの混乱について、加藤由治先生はこう記しています。

県から次々に指令が来る。動員中止、工場より引き上げ、休業に入る、動員関係書類の焼却処分、女学校は閉鎖できる手配をせよ、とか、ヒステリックな電話連絡がある。熱湯で手を洗うが如く成すべき方法がない。 軍事関係の記事はすべて抹消すべしとて、図書室備品の書籍を墨で真黒に消したり、疑われ易い書類の一切は中庭で焼却を二日も三日もした。 多分九月二十日と記憶しているが、残暑きびしい日、附設課程専攻科の卒業式があった。物資不足の時とて、画用紙に卒業証書を謄写印刷して授与されたはず。夢多かるべき青春時代も戦争によって踏みにじられ、前途灰色の社会へ巣立ったのである。巣立ちゆく者に幸あれと祈りつつも惜別の情も複雑きわまるものがあった。更に希望者は半か年不如意ながら学窓に在って翌二十一年三月卒業した。 一学級九十名以上にもなったが、だんだん縁故をたよって安息の地へと離れていき減少していった。昭和二十一年四月高女最終入学式となる。 混乱不安の裡にも復興の兆となる。
http://www.inuyama-h.aichi-c.ed.jp/ayumi/index96.htm

-役場の兵事資料を持ち 帰った兵事係- 西邑 仁平さん (明治37年生まれ 長浜市)

西邑さんは、大正11年18歳で役場に 入り、昭和5年から終戦まで兵事係を勤め、軍司令部から届く召集令状(赤紙)の伝達や戦死公報の通達のほか、入隊先への慰問や銃後活動の事務なども行って いました。
昭和 20年8月15日、終戦と同時に、大本営から、兵事に関ずる重要書類は虎姫警察署へ持参せよとの命令が下り、その他の書類についても焼却せよとの命令が下 りました。 その 命を受けて、西邑さんは「お国のためにと、戦争に行かれた方の苦労や功績が無駄になってしまう」と思い、資料の大半を、夜中たった一人でリヤカーに積んで 持ち帰りました。
「燃 やしてしもたら、終いになる。隠しちゃれ、思うたんや。こういう事があったということをね。後の者のために残しておこうと思たんや。進駐軍に知れたらアカ ンと思て、誰にも言わなんだ。嫁にも内緒やった。そらぁ、怖かったけど、今、思うとね、残しておいて、良かったんや。」 西邑さんが保管していた資料は、動員日誌や徴兵検 査の書類など約九百点にも上ります。
http://www.pref.shiga.lg.jp/heiwa/tenji/jyugo_taiken8.html

江田島本校の終戦処理では,重要資料を如何にして守るかが問題になって,何度も教官会議が開かれた。その結果,大講堂2階と教育参考館に展示してあった御下賜品,戦死した先輩が残した遺品,軍の機密に属する文書などは大部分焼却処分することとなり,生徒たちは3日問にわたって練兵場で焼却作業を行ったが,燃えあがる炎を囲んで両眼から涙を流しながら軍歌を合唱し続けた。東郷元帥の遺影その他の貴重品は宮島の厳島神社や大三島の大山祗神社に奉納して,国外に持ち去られることを防ぎ,赤煉瓦造りの門柱に嵌めてあった青銅製の「海軍兵学校」の門標は江田島本浦の八幡神社に預けた。
http://www.naniwa-navy.com/kaihei-haisen-haikou1.html

一方、府立総合資料館(京都市左京区)には、終戦前後に処分された府の行政文書リストが残る。徴集名簿、支那事変功績調書綴、思想要注意人名簿。廃棄文書は9千点を超える。失われなければ国家総動員体制下の京都の姿に迫れただろう。
http://kyoto-np.co.jp/info/special/postwar70/index.html

残された戦時機密資料(平成24年1月)

暮れも押し迫った12月17日、大町市文化会館で一本のドキュメンタリー映画の上映会が行われました。映画の名は「大本営最後の指令〜残された戦時機密資料が語るもの〜」。題名が示すように、太平洋戦争の終戦直後に出された一通の指令文書が発端となっています。 昭和20年8月18日に大本営から全国に出された命令は、全国の市町村役場で行われていた徴兵事務などすべての戦時中の軍事に関する書類をいっさい処分せよというものでした。ですからこうした文書類は今どこにも残っているはずはないのですが、平成20年4月、現在大町市となっている旧社村の旧家の土蔵から兵事資料が発見されたのです。戦時中ずっと社村役場で兵事係として事務に当たっていた大日向正門さんは、終戦直後、こうした秘密書類一式を廃棄せずに自宅に持ち帰り、蔵の奥に固く仕舞い置いたのです。平成18年に91歳で世を去った正門さんの一周忌が終わったあと、家族が蔵に入って奥の箪笥を開けたところ、大量の資料が出てきたのです。・・・
正門さんが、終戦時に、軍の命令に背いてまで、記録を残そうとした気持は、今となってはわかりませんが、指令書の文言には、まるで「逃げ」を打つかのように、「特ニ保存アルモノハ所轄官庁ニ打合ノ上隠匿スル等適宜ノ措置(特に必要なものであれば管轄の役所と打合せて隠匿するなど適宜処理)」をしてもよい旨の記載があり、きっとこの部分を広く解釈して資料を焼却処分しないで残したのではないかと思われます。
http://www.city.omachi.nagano.jp/00001000/00001100/00001110/00001871.html

1945年(昭和20年)8月15日、日本は連合国に対して無条件降伏した。私のいた航空隊でも、正午に重大放送があるとのことで、隊で整列させられ、「玉音放送」を聞いた。しかし、陸軍のなかの反乱軍が妨害電波を発していたために、途切れ途切れでよく聞こえなかった。終戦、日本は負けたと知ると、言い知れぬ脱力感に襲われ、これからどうなるか考えようにも、まったく予想ができなかった。やがて海軍省などから慰撫書が届き、海軍軍人は悉く武装解除、日本海軍は解体することとなった。軍艦旗は降下奉焼され、連日書類は焼却された。終戦の翌日、三重空では香良洲浜で予備学生(森崎湊少尉候補生)が割腹自殺したという。ただ、東京で終戦直前に近衛師団、横浜警備隊などの反乱軍が、森近衛師団長を殺害し、首相官邸などを襲撃したようなことは首都圏以外では起こらなかったし、終戦直後もさほど大きな混乱はなかったと思う。
http://www.shimousa.net/techou/techou_kaigunkouku.html

八月一五日、総督府の臨時雇いであった長田かな子は、ソ連軍が京城にやってくるのは時間の問題と思った。「どうやったら痛くなく死ねるだろうと重苦しい思いが、頭を離れなかった」。部屋でボーっとしていると、職員が来て、「燃やして燃やして」とセッカチにいう。気がつくと、庁舎の各階の窓からポンポンと書類を投げおろし、油をかけて焼却していた(長田、一一六)。※引用ここまで

参考文献
長田かな子「四五年八月十五日」『季刊三千里』一九八二年秋号。 

(高崎宗司「植民地朝鮮の日本人」岩波新書p197) 

  昭和十八年十二月、東京の海軍経理学校に入学、 改めて特修兵として養成された。この経理学校は昭和十九年五月に卒業、今度は上海特別陸戦隊へ赴任となった。
  上海特別陸戦隊は約三千人の部隊で、蘇州派遣隊など多くの派遣隊も所属し、中には航空隊もあった。仕事は各部隊の要請、請求によって、軍需部へ請求する業務であり、毎日カバンを持って軍需部へ通う日々であった。
  昭和二十年八月十五日の終戦の放送は、全員が中央広場に整列して聞き、それからは毎日書類の焼却を行った。(p384)
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/19onketsu/O_19_383_1.pdf

  隊長が演壇に立って「これから断腸の思いで皆に伝える、我が日本帝国は無条件降伏した旨連絡が入った。このことはデマではない、恐れ多くも天皇陛下が玉音放送され、その録音が流さて来たから間違いない、皆も残念だろうが気を沈めて今後の指示に従うよう。以上」と悔やし涙を浮かべながら隊長室へ戻られました。
  このことを聞いた隊員全員は、ただ呆然としてその場に座り込みました。無言の座り込みが十五分ぐらいたったころ週番士官が出て来て「これから内務班に行って兵器を除く私物(日の丸、千人針の胴巻、写真、手帳、メモ等一切)を持参するよう」との命令があり、早速、私物を持参し整列しますと、再度週番士官が出て来て「これから証拠隠滅を理由に持ってきた全私物を焼却処分するから協力せよ。中には日本国の武運長久、諸君の無事帰還などを願っての国旗、胴巻、お守り等あるだろうが、上部からの命令であるから従うように」と士官自ら自分の私物に油を掛け、マッチで火を点け、これに習い次々と全員投げ込み焼却しました。  
  しかし私は軍隊手帳だけは焼かずに隠し持って復員、現在も大事に保管しております。  (p166・167)
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/19onketsu/O_19_161_1.pdf

二十日過ぎに軍命令が出て、我々は飛行作業を行う飛行機のプロペラをすべての飛行機からはずすことになった。これで本当に戦争は終わったのだと自分に言い聞かせたのであった。二、三日は飛行場に行って飛行機のプロペラはずしの手伝いをしたり、燃料を飛行機から抜いたりしていた。 ・・・昼間の作業が終わり兵舎に戻ると、上から我々の所持品で飛行日誌、考課表、写真などを兵舎の裏で焼くようにとの指示が出て、皆が次々に燃える火に書類を投じた。私は飛行日誌の一部を破いてアルバムとともに衣嚢の底に隠しておいた。
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/19onketsu/O_19_125_1.pdf

今まで不眠不休で暗号の解読に頑張って来たが、日本の無条件降伏を聞いて気力喪失、全くやる気が無くなってしまった。・・・   
  暗号班全員が小高い台地で 「暗号書」 「乱数表」 「極秘書類」を大量に焼却していた夕暮れ、衛兵小隊が「暗号班何をやっとる。師団長以下全員引き揚げるぞ」と言って来た。しかし極秘の書類や暗号書を半分焼却のままで放って帰るわけにも行かず、結局暗号班のみ残留することになった。(p40・41) 
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/19onketsu/O_19_029_1.pdf

  自動車で品物受領に行く。何だか今日は住民が変だ品物が値上りしている。不思議に思っていると病院より迎えに来て直ぐ帰れという。病院に帰ったら前の外科病院で「わっ」泣き叫ぶ声が高い。日本は戦争に負けたとのこと、明日は手足のなくなったダルマ病人は皆殺し、兵隊は去勢し、日本魂を何とかするとか、何だか分からないデマで大騒ぎとなり、重要書類等は全部焼き払う始末である。南方軍の元気な者は最後の一兵まで戦うのだと言う。(p341・342)
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/18onketsu/O_18_332_1.pdf

  八月十五日の終戦は、誰からともなく聞き、二十日ごろに知りました。八月二十五日、復員の指令が出て、十月四日に武装解除となりましたが、その前に機密書類等は焼却処分したり、三八式歩兵銃の菊の御紋などはヤスリで消してから提出しました。(p199)
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/18onketsu/O_18_195_1.pdf

九月に入って中国軍が進駐して来ました。武装解除と言うことでしたので、機密書類や軍隊手帳等を焼いたり、三八式歩兵銃の菊の御紋章をヤスリで潰したりしてから武装解除となりました。(p194)
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/18onketsu/O_18_192_1.pdf

  ジャングルの生活も馴れて来たころ住民の様子がおかしい。後で聞いたのだがニューデリーから の放送で日本に原爆が投下されたこと、沖縄が米 軍に占領されたことなどを知ったのだった。
  八月十二日、連隊本部から帰還命令があった。 急遽ハノイへ帰還する。八月十四日、命令により連隊本部の書類の焼却作業をする。何か非常時に なったような緊張感が周囲から感じられる。翌八 月十五日、全員連隊本部の広場に集合、数百人の 将兵が整列して待つこと三十分、ラジオから天皇 陛下の終戦の勅令の放送が聞こえて来たが六千キ ロも離れているためか聞こえ難かった。日本は連 合軍に無条件降伏をしたと聞かされた時、どうし ても信じられず夢を見ているように茫然として何 もする気がしなかった。(p175・176)
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/17onketsu/O_17_166_1.pdf
 
  初空襲以後の主な空襲は、九月三十日、B24七十二機、十月三日、B24数機、十月十日、B24百七機、P38十一機、B47十六機、十四日、B24九十八機などであった。昭和十九年に入ると燃料廠を狙って連日連夜の定期便で、私はその様子を詳細に私本戦時日誌として書いていた。それも引揚げの際の持ち物検査で、書類は絶対持ち帰り厳禁で、違反者は戦犯にすると脅かされ、尊いその資料も焼いてしまった。今にして思えば残念であった。(p151)

艇は野母崎港に入り、上陸後、再び男女群島で八月十五日午前まで戦闘配置についた。十二時、重要な放送があると言われたが、雑音にて全然聞き取れなかった。
  しかし、通信の方から「日本が負けた」とのこととて、とても残念でたまらなかった。司令部より、直ぐ帰るようにとの信号を受信。佐世保港に帰る。直ちに兵器・弾薬を海に捨て機密書類を焼くようにとの命令があった。私達は、赤本数十冊、極秘書類数冊を焼き捨てた。これで赤本ともお別れだと思い、感無量であった。(p522)
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/14onketsu/O_14_504_1.pdf

昭和二十年八月下旬。書類は全部焼却処分せよと命令あり。重要書類、個人の手紙、写真等、大きな穴を掘り、各人次々と焼却。チョンガー(独身者)は父母の、妻帯者は妻や子供の写真、手紙を郵便貯金通牒も、皆灰にした。敗戦である。(p444)

 終戦と同時に病院の自動車壕や庭で、書類その他、兵隊は写真をはじめ手帳に至るまで一切、占領後の対処のため焼きました。そのため、戦後、兵籍を証明する資料がなく苦労した人々もいたことは事実でありました。(p523)

 終戦となって戦後処理のために、岐阜県加納町の司令部の例の二重金庫の中にあった極秘文書を焼却するために、払暁から日没後まで、八月の炎天下で瀧のごとき汗を流しながら作業しました。結局自宅に帰ったのは九月の末でした。友達がお前は「糞真面目だ」と笑っていました。(p487)

 十七日部隊全員集合して、終戦の聖旨が伝達さる。各種の公用文書は師団命令により焼却する。中国軍の徴発兵器など全部池や川に投棄す。(p4)
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/18onketsu/O_18_001_1.pdf

私は軍隊在職中は司令部勤務であり、また除隊後は現地での買い付け業務等をやっておりましたので、軍に関する写真や、その他の資料も種々持っておりました。しかし蒋介石軍や八路軍等の持物検査の際にすべて焼却処分をしてしまいましたので、当時の事情に関する資料は有りません。(p576)

 昭和二十年六月十五日、「今日の空襲はびっくりしたな、いつもと様子が違ったからな」と語り合いながら同僚数人と庁舎へ入った。ところが庁舎内では異様な空気がみなぎり、皆がY主計大尉を囲んでいる。大尉は「たった今、司令部から通報があり、第四砲台が敵艦三十数隻を沖合に発見した。同時に『千早二号作戦』が発動された」と語った。
 さらに「諸君は直ちに所定の行動に移る。まず書類を今日中に焼却する。諸君の武運を祈る」と。これは大変なことになった。私にも初めての敵上陸作戦対策だ。
 海岸にある小高い防空壕に登り、双眼鏡で眺めると赤道方向に動いているのが良く見える。敵艦が眼前に出現したのである。そのうちに、遥か東方の飛行場辺りにドカンドカンと艦砲射撃が始まった。それこそ腹にずしんずしんと響く、生まれて初めての体験で、身の縮む思いであった。
 私は防空壕を下り、昼食もそこそこ、庁舎前に横一メートル縦二メートル深さ約七〇センチの穴を全員で掘った。こうして書類焼却の準備を終えたが、それからが大変だ。炎天の赤道直下である。帳簿はばらして投げ込むが思うようには燃えない。私は私物の内地より持参した書類も放り込んだ。私本「戦時日誌」も燃やした。(p217・218)

昭和二十年八月十五日に天皇陛下の玉音放送があると言うので、兵隊だけが紀ノ川の堤防の上に集結して天皇陛下の放送を聞き、早速作業は中止して、勤労奉仕団の人達には帰ってもらいました。
 兵隊は隊に帰り、星のついている物や帽子の紋章、軍隊手帳などの焼却をしました。(p197)

 次第にポツダム派の人々は小さくなり、逃げ腰となり、九州のものはほとんど、この地を守るのだと工事を始め、重要書類の焼却、今でも米軍と刺し違える態勢ができた。(p516)

 今まで不眠不休で暗号の解読に頑張って来たが、日本の無条件降伏を聞いて気力喪失、全くやる気が無くなってしまった。・・・私たちは日本の負担が少しでも軽くなるようにと、持っていた軍票を全部焼却した。(p40)
 暗号班全員が小高い台地で「暗号書」 「乱数表」 「極秘書類」を大量に焼却していた夕暮れ、衛兵小隊が「暗号班何をやっとる。師団長以下全員引き揚げるぞ」と言って来た。しかし極秘の書類や暗号書を半分焼却のままで放って帰るわけにも行かず、結局暗号班のみ残留することになった。(p41)

突然、防空壕掘りの中止を命ぜられ兵舎に帰りますと、上官が書類を燃やしており、「何事ですか」と尋ねますと「戦争は終わった負けたよ」と教えられ、へなへなと座り込みました。その日こそ忘れ得ない八月十五日でした。(p426)

 九月一日、艦長より電報が来ました。電文には「キトウセヨ・セカ」潜水艦に帰れと潜水艦艦長からの電報です。一夜だけの帰宅でしたが、すぐ 帰艦しました。残務整理をせよとのことでしたが、約半数は復帰しませんでした。またわずか一夜の間に、軍需物資が多量に紛失していました。残務整理として潜水艦隊勤務者の戦時国債及び乗勤手当の金銭帳簿、航海日誌、機関日誌等の処置や処理について、上級職の指示にて処分しました。また艦内外の主要個所や攻撃用兵器等も総べて隠密 裡に処理しました。(p600・601)
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/17onketsu/O_17_596_1.pdf

この空爆により司令本部の機能が遂行出来なくなり、後方に撤退することになりました。そして制空権を握られているので、スコールの激しい時機を選んで機密書類を急ぎ処分し、五時間後に波止場に集合せよとの命令があるという慌ただしい撤退行動でした。(p622)
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/17onketsu/O_17_617_1.pdf

武装解除の命令が来て、全員で軍隊手帳や部隊の作業日報、会計簿等秘密書類を焼却したり、小銃の菊の御紋章をヤスリで削り取ったりして準備した。(p100)
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/16onketsu/O_16_094_1.pdf

 一方的防戦の続く中、八月十五日終戦の詔勅下る。我々に対し海軍航空隊より徹底抗戦の呼び掛けがあったが、特に我が中隊は、短略的な感情論に組せず、斉藤中隊長の下に団結し、師団命令を尊重する方針を取った。旬日を経ず米軍より師団所有の全機を飛行場に並べ、一週間以内に全機のペラも外せとの命令が来た。
 急遽重要書類(私物を含め)を焼却する。次いで第一線の空中勤務者は、早急に解任、帰郷さすべしの令下る。我々は九月一日付にて解任、除隊なる。小生は九月十五日、宇都宮から東京経由で帰神しました。(p482)
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/15onketsu/O_15_472_1.pdf

終戦前夜からシベリアに向かうまで
 八月十四日の朝が来ました。定刻時間に「オキロヨオキロミナオキロー」の起床ラッパに起こされて、平常どおり補充兵を引率して車庫に着き、もう後はない、明日にも敵はここ近くまで攻めています。せめて小銃の撃ち方をと教え、その日も暮れました。
 夕方の点呼のとき「いよいよ明日、迎撃のため出陣することになった。貴様たち基幹要員は夕食後、将校が携帯する(奉天(瀋陽)及び四平街周辺拡大地図)の作成にかかれ。それが終わり次第身辺の整理をせよ。遺書など書いた者は、班長室に届けよ」と通達されたのです。
 「とうとう来たな」「明日は十万両の棺桶で、ハイさよならか」「俺が戦死したら、彼女が泣くだろうなあ」「まあ、しょうがないぞ。あしたはロ助の戦車を木っ端みじんにしたろうじゃないか」お互い勝手なことを言いながら、地図の作成を終わったのは夜中の十二時を過ぎておりました。
 いろいろ教育を受けた帳面・好きな歌や絵のノート・操典などを燃やして、残った物は寄せ書きされた日章旗と千人針。ここが戦場になると果たして遺書を書いても国には届かないと思ったが、先程までガヤガヤしていた室内も静かになり、みんな真剣な顔をして便せんに向かっている。よし自分もと、便せんを広げました。(p80)http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/14onketsu/O_14_072_1.pdf

 福岡中尉の言葉や師団司令部の模様で敗戦であるという真実性を知ることができた。早速に、機密漏洩維持〔ママ〕のためと、復員に支障があってはと思い、丸秘重要書類その他を焼却するのに二日もかかってしまった。(p48)http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/13onketsu/O_13_038_1.pdf
 
 (1945年)十一月、すべての日本文を焼却せよと厳命が通達されました。捕虜か? 行先は? など流言が乱れ飛び、その焦燥感に戸惑う思いでした。(p117・118)
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/13onketsu/O_13_114_1.pdf