ツイッターで教えてもらった記事だが、2002年の韓国「京郷新聞」記事では、強姦という話は出て来ず、恋愛の子としている。
記事原文はハングルで、それをウェブ翻訳したものを以下掲げる。
また合わせて、日本軍・日本民間人の類似例も紹介する。

京郷新聞 初めて品に抱いた「父の月」
2002.09.17 16:33

ベトナム戦争、韓国軍のベトナム派兵。終戦後、数十年の歳月が流れ、少なくとも私たちにはまだ「進行形」である。まだ続いている後世社(史家)の交錯した評価のためだけではない。そのイデオロギー的論争を遥かにずらしていくもう一つの「戦争のテーマ」が破片のように残っているからである。ライタイハン。私たちは、過去の年にそれらを「闇のコーナー」に追い込んだまま振動の生活の中で頑張って目をつぶってきたか知らない。そんな無関心と冷遇の中でも、それらのほとんどは否定(父情)を欠場し屈せず生きてきた。「父の故郷」を誇りに思っているライタイハン。彼らのために暖かい関心と配慮は、私たちの世代に要求される最低限の道理であり、責務ではないか。この間親子訴訟を通じて韓国国籍を取得したしたライタイハン青年の生活を照明してみる。

#ときめくお盆
イナムソプさん(30・ベトナム人・レ・ビンタンレン)は、最近、仕事が手につかない。「小さな父の贈り物は、どちらが良い」「伯父宅にはまたどのような贈り物をしてい?」。お盆が近づくにつれ、家族に会うときめきに彼夜も眠れまでのさばっている。数年前までは、この地のお盆はただ「他人の国の祝日」であった。市場の楽しさも、尾を結ぶ帰省の途も行き場のない彼には悲しげな風景に過ぎなかった。しかし、今彼にも家族ができた。大韓民国国籍を取得して初めて迎える節句。「ライタイハン」(韓国、ベトナム混血)南摂氏は、7月親生子認知請求訴訟で勝訴判決を受けて韓国国籍を取得した。オーストラリアに住んでいる父は、今回の祝日に韓国に来ないというニュースを伝えてきたが、一度に生じた小さな父、伯父、従兄弟など数多くの家族のそばでお盆を過ごすことができるということだけでも、彼に感謝し、また感謝した。

しかし一方では、胸が息苦しい。この間訪れた弟分の友人ギムインリェ(28・女)・インジン(25)さん兄妹を考えると、なんだか申し訳ない気持ちがしたりする。父を見つけようと、3ヶ月前に韓国に訪れ、一部屋に住んで、ソウル往十里縫製工場で働く人々。しかし、父の家族は、彼らの存在を拒否した。父に会う期待に膨らんあっインジン氏は胸にあざがメトヒョトか数日前、肺がん末期宣告を受けて酸素呼吸器に頼ったまま死を目前にしている。非情な父の故郷。南摂氏やはり父の家族に認められるまで、病気の歳月を耐えなければならたのでインジン氏の痛みはすぐに彼の痛みである。彼にも往時は確かに胸が痛む日々だった。

#ベトナム、その病気の思い出
父はベトナム戦に参戦したが、自動車会社でしばらく働いていた。毎朝新聞を配達してくれた母と恋に落ちた父は韓国に家族を置いて母と第2結婚をした。それが1969年。戦争の中でも愛は実を結んだ。子供が生まれて父は韓国にいる息子と同じドルリムジャ「干渉」を使って「イナムソプ」という名前をつけた。75年戦争が終わって数多くの韓国人と一緒に父親も韓国に戻った。母と息子に残ったのは写真一枚だけ。父の手紙は五回を越すことができず切れてしまった

戦争で廃墟になってしまった都市で、母は「生春巻き」を作って生計を立てていった。もしかしたら夫に連絡が来るかたい理事は思いもしなかった母。南摂氏が結構マルグィを聞き取る年齢になると、母親は息子に口が磨耗よう話した。「あなたの父は韓国人だ。勇敢で暖かい方になった。いつかは必ず会えるだろう。それまで「韓国の父親の息子」であることを忘れてはならない」

父に捨てられたライタイハン。薄情だった。しかし一方では見掘った。しみる懐かしさ。父を是非一度会って確認したかった。父親が息子を捨てなかったことを... 。

#韓国土地、父と再会
南摂氏は高校卒業後、ライタイハン職業学校に入学した。ここで勉強をよくすれば、韓国に行くことができるという話を聞いてた。1年に4人を選抜する試験に彼堂々と合格した。老いぼれた白黒写真を大切に持って93年に初めて韓国の地を踏んだ。飛行機の窓の外に見た空。父の国の空はなぜそれほど目がいただけるよう、青いか、理由分からない涙が襟をぬらした。

すぐにでも父を見つけることができるようなと思います。1週間後に、ベトナムに戻っていたが、彼はその信仰を捨てなかった。1年後再び訪れた韓国。3年の間に、京畿道安山の工場で働き、週末には、父を探してさまよった。たった持っているという30年前のアドレス一つ。人を探すには幼ないことだった。歳月は空しく過ぎ去った。体と心が疲れた。「今待たやめよう、見つからもやめよう」。

しかし、彼にも「奇跡」は、訪ねてきた。研修期間が終わって、ベトナムに戻る準備をしていたある日、父が探している電話一本を受けた。その南摂氏は一人で長い間泣いた。「もうなった、できてい... '。父が母と息子を忘れていなかっただけでも、胸がいっぱいになった。1週間後、オーストラリアに移民行った父が南摂氏を探して韓国に来た。空港からの初めての出会い。そっくりの姿。何も聞かなかった。何も言わなかった。ただ包含泣き始め、すすり泣きは通常号泣に変わった。

#イナムソプ、韓国の息子で
母は父の消息を聞いて子供のように喜びを隠せなかった。気が抜けた人のように泣いて笑うを繰り返す母。しかし、父と電話通話をヘボゲトかという言葉には、間違いなくドリジルだった。父は南摂氏を息子に認めたいとした。親生子認知請求訴訟をして認められれば、父の戸籍に名前を上げ、韓国国籍も得ることができた。一生そのように望んだ「根」を見つけることができると言うの南摂氏は勇気を出し、最終的には実を結んだ。

水原で産業研修生として働く南摂氏は最近、工場の前のチョンマルに横になって月を眺めてみたりする。お盆の日、家族に会っドランドラン話に花を咲かせることを想像したら笑顔が口元に節浸し出てくる。「お父さん、お母さんに手紙も遣わなくちゃ... '。彼は月を見て、別の願い事を見る。インジン・インリェ姉妹を考え、そして父を探している多くのライタイハンが自分のように幸せになることを願って... 。その間月は一日が違うヅングレていた。
- [取材手帳】韓国系混血児多くは2万人... 父を見つける植物の生命もガンネ -

ベトナム戦争が終わって残された韓国系混血児は小さくは3,000人、多くの2万人と推算される。正確な数字さえカウントされない程度に、徹底し無関心の中で生きてきた彼ら。経済的苦痛や社会的冷遇にも雑草のように生き残ったライタイハンは現在30を眺める年齢になった。これら色あせた写真、30年前にアドレスを唯一の希望で、父を探して韓国に来ている。ほとんどソウル往十里縫製工場、京畿道安山機械工場などで労働者として働き、「父を見いだす」という一念一つ苦しい生活に耐えている。しかし、実際には、父を見つけるのは容易ではないうえに、下痢、父を訪れたとしても、親生子に認められる場合は稀である。一日も父の息子で住んたいライタイハンたち。私たちは、彼らにしてくれることができることは何なのか。民族最大の祝日である秋夕を迎え一度胸深く考えてみよう。
http://news.khan.co.kr/kh_news/khan_art_view.html?art_id=200209171633241

日本の類似例
衆議院・海外同胞引揚に関する特別委員会 1951年3月20日

○菊池委員
そのアナタハン島という島は小さな島で、私も一ぺん行つたことがございますが、まだほかに、たとえばヤツプの離れ島、パラオの離れ島というようなところにはたくさんの同胞があるはずです。そして日本人の残した混血児が大分あるわけですが、強制的に引揚げたというのは日本政府の命令で引揚げたわけでありましようか。今日アメリカが占領しておるのですから、アメリカの方で、引揚げなくてもよろしい、そこに住んでおつてもよろしいということであつたならば、向うに住んでおつてもいいわけでしようが、その辺の関係はどういうふうになつておるのでしようか。南洋には離れ島がたくさんあつて、日本政府の手の届かないところがたくさんある。南洋支庁のあつたところはパラオであつたはずですが、パラオの本島はごく小さくて、それよりも十倍も大きい離れ島が散らばつておるのですが、そういうところの連中はどういうふうになつておるものやら、日本政府の方に到達した情報があるならば御報告願いたい。
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/010/1208/01003201208007a.html

衆議院予算委員会第二分科会 1957年3月29日

○海野三朗君
私が一昨年ビルマに参りまして、向うのミョウマ・スクールの校長に会っていろいろ話を聞いたんですが、日本の軍人の落し種が約三万人ビルマにおるんです。学校に行ったときにその学校の生徒たちが私の所にわんさと寄ってきまして手を出すから、校長にその意味を聞いた、そうしたところが、日本のじいちゃん握手をしてくれと言う、その顔つきを見ると日本の子供です。そこで非常によう似ていますねと言ったら、いやこれは日本の兵隊さんの子供であると言われたんだが、一体どれくらいビルマにおるかと言ったところが、約三万人おりますと、ミョウマ・スクールの校長さんが私にそう言った。それは十三、四才になっておる、この三万人の子供たちは、必ず将来とも日本に父を探しにやってくるということは想像にかたくないんです。そういう場合に対する、つまり外務当局のお考えはどうなんすか。

○政府委員(中川融君)
日本軍が戦争中に滞在しておりました各国におきまして、いわゆる落し種と申しますか、現地人との間に混血児が相当におるいうことは想像にかたくないのでありまして、御指摘のビルマの例も三万人という数が果して正確であるかどうか、これはわかりませんが、相当の数の混血児がおるのではないかと思います。カンボジア等におきましても、混血児がおることは現地調査に行った人が現に見てきておるのであります。インドネシアにおきましてもこれは相当数の混血児がおる、フィリピンまたしかりであります。これらの混血児の現在の待遇と申しますか、あるいは環境はどうかということになりますと、父親はほとんど皆あるいは戦死、あるいは内地に帰って来ておるということで、母親だけで育てられている。あるいは母親もいなくてみなしごになっているというケースが相当あるのでありまして、いかにも気の毒な状況であります。予算が許すならば、われわれもこういう現地における混血児に対して救済の手を差し伸べたいと思うのでございますが、ただいままではそこまで行っておりませんし、また調査も十分行き届いていないのであります。しかしこれらの混血児は、おおむねその性質は非常に優秀であるというのがやはり衆目の見るところでございます。今後相当これらの混血児の人々が、いろいろな方面に結局発展して活躍するのではないかということも期待するのでございます。もしこれらの人々が内地に来て、父親を探したいという事態が相当発生するというようなことでありまするならば、われわれは在外邦人救恤の一環といたしまして、何とかまた考慮してみたい。これは御承知の通り中国からは、現地で中国人と結婚した婦人の一時帰国ということにつきましてもある程度の補助をいたしておるのでありまするから、何かそれに準じたようなことを将来考えてみたらと考えております。

○海野三朗君
これはぜひすばらしい熱意を持って外務省がやっていただきたいと思います。あまり遠い将来ではないと思うんですが、これらの子供たちがしかも非常に優秀なんで、私は驚いたんです。正確ではないが約三万人おると言っておりました。しかしどれも成績がいいのであると、こういうお話でありましたから、これに対しましては、外務省は本気に力を入れていただかなければならない、そうすることがやはり日本の発展になるんではないかと思いますから、特に力を入れていただきたいと思います。
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/026/0522/02603290522001a.html

衆議院・決算委員会 1965年4月13日

○吉野説明員(吉野文六)
東南アジアの文化友好協会は、なるほど設立以来日も浅い協会ではありますが、従来相当実績がありまして、たとえば先ほど申し上げましたように、インドネシアのバリ島に対する災害の救済事業で八十万円の医療品の給与を実行しておりますし、それからインドネシア教会に聖書の供与――これは約八百万円相当の聖書を供与したわけであります。それから戦争混血児の日本留学生優先受け入れの寄宿舎建設運動として、今度約二億円目標の運動を起こしており、また文化交流といたしましては、東南アジア諸国留学生等の交流、親睦会を四回にわたって開催しておるとか、東南アジア諸国留学生の寄宿舎や日常生活の援助、その他諸種の事業を非常に意欲的にやっておる協会でありまして、この点につきましては経験も豊かであると考えておる次第であります。
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/048/0106/04804130106022a.html

参議院・本会議 1992年1月30日

○千葉景子
諸外国の人々との信頼関係は、単にアジアだけではありません。例えば、日本占領下のインドネシアで日本兵とオランダ国籍の現地女性との間に生まれた推定八百人もの混血児が今オランダで生活しています。この人々の大半は、父親が日本人ということ以外わかっておりません。既に五十歳近くになったこの人々は、昨年、日系インドネシア系の子孫の会を結成して、日本人の父親捜しに立ち上がりました。人道的な見地から政府はこれを積極的に手助けすべきではないでしょうか。

○国務大臣(宮澤喜一総理大臣)
オランダ国籍のインドネシア女性と日本兵の子供たちの父親捜しというお話がございまして、オランダ政府からの要請がございまして、従来から誠意を持って対応してまいったところでございますけれども、今後とも可能な限り協力をいたさなければならないと思っております。
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/123/0010/12301300010003a.html

「秘録大東亜戦史蘭印編」富士書苑 1953年より

ジャワの日本人 
朝日新聞社企画部次長 河合政
・・・国際結婚組の送還が一段落してから東部をひそかに訪れて、男の安否をたずね日本行を乞う女の数はふえるばかり、日本人と関係があったために、あらゆる衣食の途を絶たれて転がりこんでくる母子、あるいは女、これらを神父であうK軍曹が一カ所に収容して、面倒をみてはいたが、とても手のまわりきるものではない。当時K神父は、〝西部ジャワだけでも日本人の子供が五千人はたしかにいる〟と言っていたものだ。

フォン・エンディ女史
 ここにフォン・エンディ女史を紹介しなくてはなるまい。
 エンディさんはスマラン市に住んでいた混血女性で、そこで日本人と恋愛した。彼女は氏名は言わないが、その日本人がある商社の代表であり、日本に妻子があることを知っても恋愛せずにはおれなかった紳士だ、といっていた。日本人はすべてこのエンディさんの愛人に感謝しなければならないだろう。
 エンディさんはこの唯一人の人を送り出すとすぐ、すべてを不幸な日本人のためにささげる決心で、ジャカルタに出てきた。
 そして本部に来てその決意を打ち明ける一方、進駐軍当局と交渉して、獄中の戦犯者への差入れから、日本人にすてられた女子供の面倒までみることとなり、特別の証明書を出してもらって、自由にキャンプに出入りして、戦犯関係事務まで手伝った。
 当然彼女に対してはさまざまな迫害や圧迫が加えられたが、裁縫に熟練した彼女は、一日ミシンを踏めば数日間の生活費が出るなどと楽しげにいって車庫を改造した家に十人位の女子供を収容してこの世話をつづける一方、日本のための仕事に全力をあげていた。
 殺風景なキャンプの仕事場に、花を絶やさぬ心づかいも自然だった。
 この婦人の存在がいかに日本をたすけたかは、やがて詳しく伝えられる日が来るにちがいない。彼女はいまなおジャカルタにあって、この仕事をつづけており、昨年は愛知県下にいる一日本人のために、その妻子を連れて日本にくるということまで決心したが、病気のために延期したという。
 国際結婚のために一身を堵して働く彼女は、決して自分を不幸なものとは考えていない。彼女はつねにこの仕事につくすことが、いかに幸福であるかをいうのである。
 しかもその頃のジャカルタは日本人に対する憎悪と呪詛が充満していた。
 戦犯法廷は裁かれる日本人を見ようとするオランダ人や混血人などで満員であった。
 作業隊の出入口や作業場に、険しい目付きの女たちが詰めかけて、日本人の中から憎い相手を見つけ出して、MPに引渡そうとしていたし、千人以上の戦犯者を収容したいるグロドック刑務所の前にも、多くの女性が群がって鬼畜に対する罵しりをつづけていたのである。
 エンディさんはこの群れの中を平然と通って、日本人戦犯者のために仕事に通った。

憂愁の便り
 そのころ、国際結婚組からの音信が届くようになって、新聞にも日本内地の惨状が誇大に掲載されるようになった。
 スラバヤに着いたオランダ船は、早くも日本と日本人にあいそをつかして戻った三人の女たちをおろし、この写真がデカデカと扱われて、センセーションをまき起した。
 エンディさんは苦笑してこれを読んだだけで何も言わなかったが、国際結婚の花嫁たちの音信には深い関心を示していたようだった。
「予期したより日本の災害はひどいけれども、決心して来た以上はどんな苦労でもするつもりです」
「彼の言っていたことは全部ウソでした。ちいさい家に両親だの兄妹だのが多勢いて、たべものもひどくてとてもがまんできそうもない」
「コーヒーも砂糖もない、くだものはカキというものがあるが、ちっともおいしくない。しかしこの熊本というところは、爆撃されなかったので、他よりはいいそうです。砂糖をすこし送って下さい」
 これらの音信はお嫁さんたちが、それぞれ実家や友達に宛てたものではあったが、中間で読む日本人は、すべて終戦三年目を迎えて、祖国の現状をすこしでも知りたい思いで一杯であるだけに、特別の気持だった。
(p33・34)

第二次世界大戦中、インドネシアで日本兵とインドネシア系オランダ人女性の間に生まれた混血の子ども達の思いを追ったドキュメンタリー「子供たちの涙〜日本人の父を探し求めて〜」が8月15日より、渋谷・アップリンクで上映が始まる。

戦後70年、多くの日本人が知らない、未だに癒えることのない戦争の爪痕を追う同ドキュメンタリー。オランダ植民地下にあったインドネシアは、太平洋戦争で日本軍に降伏。その後、終戦まで日本の占領下にある中で、軍人・軍属の日本人男性とインドネシア系オランダ人女性の間にたくさんの混血の子ども達が生まれている。日本の敗戦後、日本人である父親は妻や子どもを残して日本へ引き上げてしまう。残された子どもたちは、母の国であるオランダへと渡るが、反日感情が高く「敵国の子」として蔑まれて差別やいじめを受ける。「自分は何者なのか?」「望まれて生まれてきたのか?」「父は私のことを愛していたのか?」…、ある者は成長とともに日本兵そっくりになっていく自分の姿に複雑な思いを抱える。こうした中で、自分のルーツや真実を知るため、日系二世たちは日本にいる父にひと目会いたいと願う。

インドネシアに従軍し、戦後は新聞記者をしていた内山馨さんが、日系オランダ人の父親探しの協力をすると名乗り出る。内山さんの元には、父親探しの依頼状が100通以上も寄せられるが、自らのルーツを隠されてきた日系二世たちは、父親に関する情報を持っていない。また、当事者自身の高齢化やプライバシーなど、父親探しは困難を極めるが、なんとか家族を見つけ出していく。(以下略)
https://www.shibuyabunka.com/soft.php?id=11846

プロジェクトイベント・シンポジウムレポート
シンポジウム「戦争の落とし子たち――アジアとヨーロッパの戦後」が開催されました(研究助成プログラム)

このシンポジウムは、2012年度研究助成プログラムの助成対象プロジェクト「戦争をめぐる日蘭関係の解決にむけて――在蘭邦人による「他国史」の内在化と現地のニーズに対応した民間主導の日蘭歴史和解プログラム生成に向けた研究」により企画され、2014年9月20日(土)、オランダ・ユトレヒト市で開催されました。

第二次世界大戦より前、オランダはインドネシアを植民地として、蘭領東インドを形成していました。太平洋戦争に突入すると、植民地軍は日本軍に降伏し、1942年3月から約3年半、この地域は日本の軍政下に置かれることなります。この間、蘭領東インドには約36万人の日本人軍人・軍属が駐屯し、彼らを父とする子どもがたくさん生まれました。1945年8月に日本が敗戦すると、多数の日本人が妻子を残して帰国しましたが、残された若い母と幼い子どもには、その後、インドネシア独立戦争の戦火を生き抜いて、初めて見るオランダに「引き揚げ」た人びとも少なくありませんでした。

助成プロジェクトは、このようなルーツを持つ日系オランダ人の父親探しを支援するため、公文書史料の収集・整備を行ったり、日系人にとどまらず、さらに多様な背景・立場の引揚者のニーズに応えるため、日本軍の捕虜や民間人抑留に関する日本語の公文書や研究文献の目録を作成し、オランダ語/英語のウェブ/紙媒体で提供したりするなど、引揚者への支援と彼らの対日憎悪の転換を通じ、日蘭の歴史和解を推進しようとめざしています。
(中略)
続いて、フィリピンに置き去りとなった日系人の「戦争の落とし子」の支援を行っているNPO法人「フィリピン日系人リーガルサポートセンター(PNLSC)」の活動について報告がありました。
https://www.toyotafound.or.jp/research/2014/event/2014-1222-1519-7.html

参議院・外務委員会 1994年11月1日

○大脇雅子君
日比混血児問題についてお尋ねをいたします。 日本人男性とフィリピン女性の間に生まれ、日本人の父親に見捨てられたジャパニーズ・フィリピーノ・チルドレン、日比混血児に対し、フィリピン政府は十月二十九日、全国一斉の登録事業に乗り出しました。登録の結果は、今後、日比両国政府が本格的な対策に乗り出す基礎として期待されておりますが、日本の動きが非常に鈍いという批判がなされております。あす二日より五日にかけまして日比の議員のシンポジウムが行われまして、私も参加することになっておりますが、その点にかかわってお尋ねをいたしたいと思います。 去る八月二十四日、日比首脳会談でラモス大統領と村山首相間でこの問題をめぐって会話が交わされたと聞いておりますが、具体的にどのような内容の会談であったのでしょうか。

○政府委員(川島裕君)
八月の村山総理の東南アジア諸国訪問の際にフィリピンを訪問いたしまして日比首脳会談を行ったわけでございますが、その際、ラモス大統領から、この日比混血児問題は人権にかかわる問題であり、日比関係をさらに進めていくためにこの問題を解決することは重要であるという発言があったわけでございます。これに対して村山総理からは、この問題は難しい問題であり、人権尊重のため解決できるよう努力していきたい、こういうふうに応答されたと、こういうことでございます。

○大脇雅子君
現在、日比混血児は何人ぐらいと日本では推定されているんでしょうか。実態調査などをフィリピン政府側が行い始めたところですので、こちらとしてどんな協力ができるとお考えでしょうか。

○大脇雅子君
その日比混血児のいわゆる父親を探す運動とか、養育料の取り立てを行う活動とか、JFC弁護団というのがありまして、全国で現在百四十件ほど各地で弁護士が担当をしているわけです。しかし、認知における血液鑑定の費用が三十万から五十万かかる、向こうから本人たちを呼び寄せるのにさらに渡航費がかかるということでもう経済的に大きな壁にぶつかって、NGOの活動それ自体も経済的に限界に来ているという事情が報告されております。また、フィリピンでは、先ほど言われましたように、母子の生活の困窮とか、あるいは大きくなりつつある子供たちの教育とか父親との交流など、将来にわたって非常に大きな問題が発生するというふうに考えられているわけです。 ただいまNGOを通じて貧困、母子保健の枠組みの中で対応していくというふうに言われましたが、これはそういう意味で財政的な援助ということも考えていらっしゃるということでしょうか。

○大脇雅子君
特に、法的な問題として国際的な重婚だとかあるいは婚外子の発生の問題が起きております。と申しますのは、フィリピンで婚姻を行いながら、こちらの日本法による手続で届け出をしていない、あるいは届け出をしないで故意に日本人女性と再び結婚するというような形で、それが大きな問題として発生してきておりますが、こうした法的問題を検討する実務者会議、日比両国政府の実務者会議の開催が非常に急がれると思うわけですが、これに対してどのようにお考えでしょうか。

○政府委員(川島裕君)
まさに婚姻自体が届け出がないまましたのかしてないのかよくわからないという状況とか、問題があることは承知しております。したがいまして、統計等々もなかなかとれないということがあるわけでございますけれども、日比間でこの問題に関します、そういう法的側面も含めて問題を洗い出すと申しますか、意見交換をする実務者協議を開いて、連絡を保ちながら問題点を洗っていきたいと、こういうふうに考えております。

○国務大臣(河野洋平君)
国際的問題としてはもう極めて恥ずかしい問題でございます。また、そういう日本男性に対して憤りを感じておるわけでございます。モラルの問題からいって全く話にならぬというふうに私は思います。一つ一つのケースにそれぞれいろいろな事情があるんだろうとは思いますけれども、基本的には男性側の責任というものをきちんと問わなけりゃならぬということなのではないかと私は思います。こうしたことが国際的な問題になって政府と政府が話し合わなけりゃならぬというのは、もう本当に情けないという一言に実は尽きるのでございます。

○大脇雅子君
この日比混血児の発生原因として、いわゆるエンターテイナーのビザで入ってくる人たちが今たくさんいまして、それが一九八〇年代の日比混血児問題の発生原因だ、こう言われているわけです。これについて、大体エンターテイナーとして入国した女性の数とその変化、それから多くの場合、その人たちが本当にエンターテイナーとして活動するのではなくてホステスとして勤務しているということはもう周知の事実なんですが、この点について法務省としてはどういう対応をしておられるのでしょうか。
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/131/1110/13111011110002a.html

衆議院・法務委員会 1999年8月3日

○森木参考人(森木和美)
そして、最後の事例としまして、ジャパニーズ・フィリピーノ・チルドレンという、日本とフィリピンの間に、日本人男性が多いのですけれども、フィリピン人女性をほったらかして、そして子供とそのお母さんを退去強制させてしまったという例がたくさんあります。その子供たちの父親探しあるいは父親との結合権、そういう場合に、日本に入ってこれないということは、この子供たちの人権というのはどういうことになるのだろうかというふうに思います。
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/145/0004/14508030004026a.html