東京裁判・A級戦犯

太平洋戦争 陸軍の本音が出過ぎた資料

関連
大本営政府連絡会議に見る"アジア解放"の嘘
山下奉文に見る”アジア解放”の嘘

日本軍が連戦連勝の頃何を考えていたか、その本音がよくわかる資料
占領地軍政施行に関する基礎要綱

一、南方占領地域は総て之を版図とし帝国の世界政策遂行の前進基地たらしむるを理想とす。

二、南方経略の中道に在りては一時左の如き段階あるを予期す。
(1)「ビルマ」の独立
政略的に成るべく独立形態を取らしむるも内面的に左の制約を設く
イ、国防上並に軍事上帝国指導権の確保
ロ、帝国所要国防費の分担
ハ、帝国民に対する経済資源交通開発の優先自由の確約
2、泰国(※タイ)の独立保全
現状の如く当分全面的独立を保証し駐兵を行ふことなし。
但し経済資源交通開発、提携に関しては一層密接不可分を確約せしむるも顧問等を入るゝことなし
3 仏領印度支那(※ベトナム・ラオス・カンボジア)の処理当分の間現状を保持するも軍事上の実力を把握するに足る駐兵を行ひ且経済資源等の開発に関しては最も積極的に提携を強要し其の実力を把握するに努む
4,比島(※フィリピン)、馬来(※マレー)、旧蘭印領(※インドネシア)
独立又は之を示唆する如き制度は一切之を排撃し永久版図とす

三、政治組織及運用
(以下省略)

アジア歴史資料センターhttps://www.jacar.go.jp/
レファレンスコードC14060097900(1~4画像目)
防衛省防衛研究所 陸軍一般史料 南方軍各方面作戦計画等綴 昭和17年
ytytyt

南方圏教育に関する基本方針(案)

方針
一、占領地に行ふ文化教育施策は常に帝国を中心とする八紘一宇の皇謨を具現する為諸民族をして之を実証体験し各民族固有文化をして日本文化に融合せしめ以て南方諸地域をして真に帝国の版図たらしむるを目標とす

アジア歴史資料センターhttps://www.jacar.go.jp/
レファレンスコードC14060098000(1・2画像目)
防衛省防衛研究所 陸軍一般史料 南方軍各方面作戦計画等綴 昭和17年
ccccc


大本営政府連絡会議に見る"アジア解放"の嘘

関連
山下奉文に見る”アジア解放”の嘘
太平洋戦争 陸軍の本音が出過ぎた資料

三月十四日 自一〇、〇〇 至一二、〇〇 第九五回連絡会議

議題
一、研究問題第七「占領諸地域の帰属及統治機構」(未完)
議事
一、原案に就き山本東亜局長より説明(別冊を除く)あり
其の際左の如き捕足的説明あり
(略)
二、本問題に関する大東亜建設審議委員会の空気に就き鈴木企画院総裁及武藤軍務局長より左の如き紹介あり
(A)一般的空気と認むべきもの
(1)占領地の帰属其の他の決定は国防上の要求に最も重きを置きて決定するを要す
(2)占領地処理は躊躇又は遠慮を要せず、明快率直徹底的に断行すべし
(3)政治的、民族的、経済的に複雑なる地方に対し直接繁累に携はるは不利なり、成るべく従来の機構を活用するを可とす
(4)右に反し人口稀薄にして未開の処女地は帝国に於て強力に把握すべし
但し戦争遂行中の現情に於ては統治の容易にして而も開発に手数を要せざる地域を把握するを要す
(5)占領地域に関しては濠洲又は「ニュージーランド」を包含せよとか西は「インダス」河迄、東は「パナマ」迄占領せよとかの説あり
(6)今回掌握下に入りたる各民族は大体に於て独立の経験無きを以て独立せしむる必要は絶対的ならず
(7)蘭印は従来一組織内に在りしを以て今後も一組織として取扱ふを可とす、然らざれば帝国の手に依り凡ての組織を改編するの必要を生ずべく満洲等の経験に依るも此れは一考を要す
(8)統帥事項に触るることとなるも飛び石に利用せらるる諸島嶼は必ず我が手に収むるを要す

(B)個人的意見と認むべきもの
(1)占領地の帰属其の他の決定には先ず以て八紘一宇の理念を基礎とし細部に入るの要あり、方針を忘れて直接具体的問題に入るは不可なり
(2)占領地処理は戦争遂行に有利ならしむるを以て第一義とすべし、四、五十年の将来又必ず大戦争を惹起すべし
(3)占領諸地域に対しては軍○と外交とのみを十分把握し其他は細部に干渉すべからず
(4)大東亜建設は日満支を中心として実施すべし南方の如き遠距離の地域に重点を持て行くは不可なり、南方のみに夢中になるべからず、帝国と南方との距離は英米間の距離よりも大なり(某海軍将官)
(5)徒らに領土を拡張するのみが能にあらず、占領地域の各民族が喜んで働く様に指導するの要あり、然らざれば将来戦に於て却て指導下民族の反●を受くるに至るべし
(6)まごまごすると独逸人支那人等に良い所を全部取らるる虞あり、今より之を警戒して所要の方策を講ずるの要あり
(7)占領地域を余りに細分するは統治の複雑ならしむるを以て少数の区画に区分するを要す
「註」 以上極秘扱とすること

三、山本東亜局長の原案説明に関し未だ「別冊」統治機構問題の説明に入らざる内に左の如き論議沸騰す
「註」 外務省が説明用として準備せる帰属別地図に帝国領土は赤、独立予定地域は黄を以て色別を●しあり、「ジャバ」のみの独立が強く関心を惹きたるものの如し
(以下判読困難)

「大蔵大臣」
独立は時間●●●●●●●にするの要あり、比島の如きは間も無く独立せしめて可なるやも知れざるも「ジャバ」の如きは「ズーッ」と永く軍政を行ふを要すべし、従て主権は先づ日本に取り適当の時機に独立を与ふれば可なり
独立させると言ふも実際は独立出来ざるやも知れず
「企画院総裁」
軍政は「ズーッ」と永く施行せざるべからず、過早に蘭印に独立を約したりなどして増長我儘させてはならぬ(大蔵大臣強く同意)
独立せしむと言ふも実質的独立には非ずして相当の干渉を受くる独立ならずや、何れにせよ今より独立と決定するは過早なり
「山本局長」
高度の自治より独立に進むと言ふことも考慮し得べきも何れ独立せしむるものならば今の内に決定して置くを可とす

以上にて大体の空気は「ジャバ」のみ何故独立せしむるや、実質的に掌握して独立せしめては却て文句が起るべしとの意見強く会議を支配す

「総理」
統帥関係事項なるも海軍は根拠地設定の為何れ位の地域を確実に把握するを必要と認められありや
「軍令部次長」
先づ以て日本海を中心とし其の周辺は国防の中心たらざるべからず
次で小笠原諸島より南洋委任統治領を経て「ビスマルク」諸島に亘る線及昭南港並に「スラバヤ」を中心とする海域を確保するを要し「ニューギニヤ」東部「サラモア」付近を確保すれば濠州を制圧し得べし
対英国防の為には「ジャバ」「スマトラ」を以て第一線とし之に「アンダマン」を加へて確保するを要するも「ジャバ」「スマトラ」西南岸には良好なる基地なし、結局湘南港「スラバヤ」及「サラモア」を確保するの外なし
対英作戦の為には南支那海と「ジャバ」海とを確保すれば先づ大丈夫なり
東方に対しては小笠原諸島と「ニューギニヤ」間に若干の心配あり
此等の見地より南方占領地域は全部帝国領土とすること可能ならば申分無きも局地によりては政治的民族的各種の事情あり、其処に研究を要する問題あるべし
「総理」
然らば「ジャバ」も皆我が手に収めざるべからず何故「ジャバ」のみを残したるや
「武藤局長」
どうも全部取らねばならぬと思ふも何と無く蘭印は独立せしめざるべからず、然るに「スマトラ」は取らねばならぬ、「ボルネオ」は取らねばならぬと漸次逐ひ詰めて行けば結局「ジャバ」のみ残らざるを得ず、斯る経緯にて「ジャバ」のみ独立せしむることとなれる次第なり

斯くて依然「ジャバ」独立は今より決定してかかるの要なしとの空気となり最後には海軍大臣より『ジャバ」を独立せしめて如何なる利益ありやを研究せる者なりや』との詰問的意見もあり
「其処迄行かんでもよかろう」との仲裁もあり

四、結局本件は更に研究を要すとして未決の儘別冊の検討にも入らず散会となる

アジア歴史資料センターhttp://www.jacar.go.jp
レファレンスコードC12120259500
大本営政府連絡会議議事録 其3 昭和17年1月10日~18年1月30日

「国家機密」印 20部の内第11号 「決定」印
占領地帰属腹案 昭和一八、一、一四 大本営政府連絡会議決定

一、占領地の帰属に関しては左の基準に依り之を定む
(イ)大東亜防衛の為帝国に於て確保するを必要とする要衝並に人口稀薄なる地域及独立の能力乏しき地域にして帝国領土と為すを適当と認むる地域は之を帝国領土とし其の統治方式は当該各地域の伝統民度其の他諸般の事情を勘案して之を定む
(ロ)従来の政治的経緯等に鑑み之を独立せしむることを許容するを大東亜戦争遂行並に大東亜建設上得策と認むる地域は之を独立せしむ
(ハ)独立及領土編入の時期に付ては諸般の情勢を考慮し之を決定す

二、右に基き差当り帰属腹案を決定すること別紙第一の如く其の条件を概ね別紙第二の如く予定す
三、情勢の推移に依りては本腹案を変更することあり

別紙第一
 地域     将来の帰属備考
一、緬甸独立国「シャン」諸州「カレンニ」州に付ては別紙第二中一、の(二)参照
二、比律賓 独立国 「ミンダナオ」に付ては別紙第二中二、の(二)参照
三、其他追って定む 
備考
泰国の失地恢復に付ては昭和十七、五、九決定『「タイ」軍の「ビルマ」進撃に伴ふ対泰措置に関する件』に依る

別紙第二
独立の態様及条件
一、緬甸
(一)帝国との関係
(イ)軍事 帝国との間に共同防衛を約せしめ兵力の駐屯、軍事基地使用及設定等を認めしめ特に軍事的結合を鞏固ならしむ
(ロ)外交 緊密提携を約せしむ
(ハ)経済 緊密協力を約せしむ
(二)「シャン」諸州、「カレンニ」州に対しては特別の取扱を為す

二、比律賓
(一)帝国との関係
(イ)軍事 帝国との間に共同防衛を約せしめ兵力の駐屯、軍事基地使用及設定等を認めしむ
(ロ)外交 緊密提携を約せしむ
(ハ)経済 緊密協力を約せしむ
(二)前項の外「ミンダナオ」に付ては更に特別の措置を執ることあり

アジア歴史資料センターhttp://www.jacar.go.jp
レファレンスコードC12120153600(2枚目)

「国家機密」印
弐拾部の内第十二号
第十回御前会議 内閣総理大臣説明 (昭和十八、五、三一)
唯今より開会いたします。
御許しを得たるに依りまして、本日の議事の進行は、私が之に当ります、
(略)

六、其他の占領地域
マライ」「スマトラ」「ジャワ」「ボルネオ」「セレベス」は民度低くして独立の能力乏しく且大東亜防衛の為帝国に於て確保するを必要とする要域でありますので之等は帝国領土と決定し重要資源の供給源として極力之が開発並に民心の把握に努むる所存であります。之等の地域に於ては当分の間依然軍政を継続致しますが原住民の民度に応じ努めて政治に参与せしむる方針でありまして現に政治参与を要望して居りまする「ジャワ」に対しては特に之を認める積りであります。而して本帰属決定は敵側の宣伝の資に供せらるる等の虞がありますので当分の間発表せざることと致しますが原住民の政治参与に関しましては適宜之を発表するを適当と考へて居ります。
「ニューギニヤ」等前述以外の地域の処理に就きましては既に述べましたる所に準じて追て定むることと致します。

アジア歴史資料センターhttp://www.jacar.go.jp
レファレンスコードB02032868200(12枚目)

これはあの「大東亜政略指導大綱」と内容日付が一致
「国家機密」印
参拾部の内第2号
大東亜政略指導大綱
昭和十八年五月二十九日大本営政府連絡会議決定
昭和十八年五月三十一日御前会議決定 同日裁可

一、対満華方策
帝国を中心とする日満華相互間の結合を更に強化す
(略)

二、対泰方針
既定方針に基き相互協力を強化す。特(?)に「マライ」に於ける失地回復、経済協力強化は速に実行す。
「シャン」地方の一部は泰国領に編入するものとし之が実施に関しては「ビルマ」との関係を考慮して決定す
三、対仏印方策
既定方針を強化す

四、対緬方策
昭和十八年三月十日大本営政府連絡会議決定緬甸独立指導要綱に基き施策す

五、対比方策
成るべく速に独立せしむ
独立の時機は概ね本年十月頃と予定し極力諸準備を促進す

六、其他ノ占領地域ニ対スル方策ヲ左ノ通定ム  
但シ(ロ)(ニ)以外ハ当分発表セス  
(イ)「マライ」、「スマトラ」、「ジャワ」、「ボルネオ」、「セレベス」ハ帝国領土ト決定シ重要資源ノ供給源トシテ極力之ガ開発竝ニ民心ノ把握ニ努ム  
(ロ)前号各地域ニ於テハ原住民ノ民度ニ應シ努メテ政治ニ参與セシム  
(ハ)ニューギニア等(イ)以外ノ地域ノ處理ニ関シテハ前二号ニ準シ追テ定ム  
(ニ)前記各地ニ於テハ当分軍政ヲ継續ス 

アジア歴史資料センターhttp://www.jacar.go.jp
レファレンスコードC14060855200
防衛省防衛研究所 陸軍一般史料 基本大綱等文書綴 昭和16.2.15~19.2.2

全文 
https://ja.wikisource.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%9D%B1%E4%BA%9C%E6%94%BF%E7%95%A5%E6%8C%87%E5%B0%8E%E5%A4%A7%E7%B6%B1

山下奉文に見る”アジア解放”の嘘

関連
大本営政府連絡会議に見る"アジア解放"の嘘
太平洋戦争 陸軍の本音が出過ぎた資料

山下奉文は、マレー半島を「帝国の領土」、マレー人を「大日本帝国の臣民」と考えていた。
訓示
懸軍長躯「ジョホール」を制して新嘉坡攻略作戦を開始するや僅かに一週日にして難攻不落を誇りし堅塁を抜き英国東亜の侵略の根拠を覆滅し世界歴史を転換すべき成果を収めたるもの偏に御稜威の下各兵団の勇戦奮闘によるものと謂ふべく予は将兵の絶大なる労苦に対し深く之を多とし衷心満足する所なり
今や第一期の作戦を終り戈を転じて直ちに新作戦に邁進せんとするに方り改めて所懐を開陳し諸子の厳粛なる実行を要望せんとす
一、軍紀を振粛し皇軍の真姿を顕揚すべし
あたら戦場に勇士にして掠奪暴行に依り軍法に処断せられたる先轍を踏まざることに関しては上下深く戒心を加ふべし
二、馬来は帝国の領土たるべし
将兵一時の過失は経営百年の将来を毒すべきことを銘心し無辜を憐み不逞を制へ良民を戦禍より救ふことに努むると共に苟も敵性分子に対しては其の鑑別を誤らず徹底的に粛正し未然に禍根を芟除すべし
(三~五略) 
昭和十七年二月十五日
第二十五軍司令官 山下奉文

アジア歴史資料センターhttp://www.jacar.go.jp
レファレンスコードC14110585200
歩兵第11連隊第3中隊 陣中日誌 昭和17.1.1~17.5.31
 
大阪朝日新聞 1942.4.29(昭和17)
皇民として更生
歓びの馬来、スマトラ住民

【昭南島特電二十九日発】皇軍精鋭の攻略後日ならずして治安回復したマレー半島及びスマトラ島の在住民はそのマレー人たるとインド人たると、また支那人たるとを問わず山下最高指揮官の天長の佳節における談話にもあるとおりひとしく帝国新附の民として天皇陛下の赤子として皇国の恩沢に浴することになり、かれらの今後の行くべき道はこれで明々白々となり、明朗の色全土に溢れるにいたったのである、元来マレー、スマトラの住民は多種多様の種族より成り、昭南島の如きは人種展覧会をもって稍されていたのであるが、この多種多様な種族が天皇陛下の赤子として更生し、帝国南方の護りとして永く日本民族と協力邁進するにいたったことはわが有史依頼の盛事であり、ここに大東亜戦争下初の天長節の佳き日にこのことを見たるは極めて意義深いものがある 

楽土建設へ 山下最高指揮官謹話

【昭南特電二十九日発】天長の佳節にあたり山下マレー方面最高指揮官は昭南島において次のごとき談話を発表した 
戦火の余燼ようやくおさまり建設の曙光燦然と輝かんとする今日、マレーの陣中において畏くも天長の佳節を迎うるは誠に感激の極みにして、とくにこのたび新たに大日本帝国の臣民となれるマレーの住民とともに聖寿の万歳を寿ぎ奉り得るにいたれるはこの意識極めて深遠重大にして、本職のまた衷心より欣快に堪えざるところなり 
つらつら顧るに大日本帝国の国体は真に尊厳にして万邦に冠たり、すなわち国を肇むること悠遠無窮、万世一系の天皇は天祖の神勅を体し現神として帝国を統治し給うに宏大無辺の御仁慈を示し給い、一億の臣民また赤誠をもって一天万乗の大君に仕え、ここにおいて義は君臣にして倩は父子の美わしき国体の精華を発揮し、弥栄えてその窮まるところを知らず、しかして帝国の理想とするところは万民をして各その生に安んぜしめ万邦をして各そのところを得しむるに存し、その道義的にして公明正大なるは世界にまた例を見ず顧るに十八世紀以来西洋文明の興隆はいたづらに物質に偏重して道義を忘れ弱肉強食飽くところを知らず、米英蘭の貪欲なる魔手は東洋を蚕食搾取して腹を肥やしために東洋の秩序は乱れて同胞は塗炭の苦しみに呻吟せり、ここにおいて帝国は破邪顕正の剣をとりて起ち、さきに支那を英米の魔手より救い、ついで師を南洋に進めて米英蘭の勢力を駆逐一掃し、いまや東亜の天地に新しき秩序は生れ王道楽士の建設また近き将来にあり、然りといえども建設は無為□安を貪りてなるものにあらず、産みのあるところ悩みあるは当然なり 
よろしく民衆は光輝ある帝国の新附の民たるの光栄に感激し、帝国の尊厳なる国体と大東亜戦争の真意を明識し、各その生業に励み日夜努力し、もって一時の苦悩を克服し、敢然として建設の一途に邁進し正義に立脚せる神聖にして永遠なる平和を築き、道義を基とする文化を進めざるべからず、これ天皇陛下の忠良なる臣民たるゆえんなり、今日の佳節にあたり恭しく聖寿の万歳を寿ぎ奉る 
 

 

右翼が意外にもリットン報告書を好む理由

こういうサイトを見ると、意外にも右翼保守が好んでリットン調査団を引き合いに出すことがわかる。
http://kenjya.org/ritton.html
http://jjtaro.cocolog-nifty.com/nippon/2011/02/post-4264.html


理由は恐らくこうだろう。
リットン調査団時点では、柳条湖事件が日本軍の犯行だとまだ判明しておらずリットン報告書は日中双方の主張を両論併記しており、「日本将校が自衛の為め行動しつつありと信じつつありたるなるべしとの仮説を排除せんとするものには非ず」としている。つまり日本にとっては(事実と異なり)有利な面がある。右翼保守はリットン調査団のそうした時代的限界を利用していると考えられる。


以下調査団報告書より抜粋
第四章 
一九三一年九月十八日当日及其後に於ける満洲に於て発生せる事件の概要

事件突発直前の事態
(省略)

九月十八日夜-十九日
  九月十九日土曜日朝、奉天市民の醒むるや同市日本軍の手中に帰したるたるを発見せり。夜中砲声を聞きたるも之は別に異とするに足らず、日本軍は小銃及機関銃の猛射を含む夜間演習をなし来れることとて右の如きことは其週間連夜のことなりき。九月十八日当夜は大砲の轟き及砲弾の音の為め之を識別し得たる少数のものが恐慌を感じたるは事実なるも市民の大部分は砲声を以て単に日本軍演習の再開に過ぎずとし、恐らく平常よりやや騒々し位に考へたり。
  後述の如く殆ど全満洲の軍事的占領に導きたる運動の第一歩として本事件の頗る重大なるを認め調査団は同夜の事件に付広汎なる調査を遂げたり。日支両軍関係指揮官公式陳述の頗る重要且興味あるは勿論なり。日本側は本事件を最初に目撃せる河本中尉、北大営攻撃に当れる大隊の指揮官島本中佐及城内を占領せる平田大佐により説明せられたり。吾等は又関東軍司令官本庄中将及若干参謀将校の証言を聴取せり。支那側主張は北大営支那軍指揮官王以哲之を説明し之が捕捉として彼の参謀長並に軍事行動中現場にありたる其の他の将校の個人的談話ありたり。吾等は又張学良元帥並其の参謀長栄臻将軍の証言を聴取せり。

日本側の説明
  日本側説明によれば河本注意は兵卒六名を率ゐ九月十八日夜警戒任務を受け奉天北方の南満州鉄道線路に沿ひて防御演習を行ひつつありたり。彼等は奉天の方向に南進しつつありたるが同夜は天晴れたるも暗夜にして視野広からず。彼等が小道が線路を横断せる地点に達せる時やや後方に当りて爆発の大音響を耳にせるを以て方向を転じて走り還りたる処約二百碼行きたる地点にて下り線軌道片方側の一部分が爆破され居るを発見せり。右爆発は二軌道接合点に起れるものにして両軌道の尖端は全く引き離され之が為め線路に三十一吋の間隙を生じたり。爆発点に達するや歩哨隊は線路東側の畠地より砲撃されたるを以て河本中尉は直に部下に対し展開応戦すべきを命じたり。此処に於て約五、六名と覚ぼしき攻撃隊は射撃を止め北方に退却せり。日本歩哨隊は直に追撃を開始したるが約二百碼前進せる処にて約三四百名に達する一層有力なる部隊の為め再び射撃せられたり。河本中尉は此の優勢なる部隊に包囲せらるるの危険あるを認め部下の一名をして約千五百碼北方に於て同様夜間演習中の第三中隊長に報告せしめ同時に他の一名をして(現場付近にある電話筒により)在奉天大隊本部に救援を求めしめたり。
  此の時長春発南下列車の接近しつつあるを聞きたるが列車が破損線路に到達して破壊すべきを恐れ日本歩哨隊は交戦を停止し列車に警告を与へんが為め線路上に音響信号を設置せり。而るに列車は全速力にて進行し来り爆破地点に達するや動揺し一方に傾くを認めたるも回復し停車せずして通過し去りたり。列車は十時半奉天着の筈にて定刻通り到着せるより見れば河本中尉の初めて爆発を聞きたるは十時頃なるべしと同中尉は語りたり。
  次で戦闘再開せられたるが第三中隊を揮ゆる川島大尉は既に爆音を聞きて南下の途中河本中尉の使者と遭遇し之が案内にて現場に向ひ約十時五十分頃到着せり。一方大隊長島本中佐は電話に接するや直に奉天にありたる第一及第四中隊に現場に向ふべきを命じ又一時間半の距離にある撫順駐在の第二中隊に対し出来得る限り速に之に加はるべきを命じたり。右の二中隊は奉天より汽車にて柳條溝に至り次で徒歩にて現場に向ひ夜半過到着せり。
  川島中隊の援助を受けたる河本歩哨隊が繁茂せる高粱の葉蔭に潜む支那軍の射撃を受けつつある際右の二中隊奉天より到達せり。
  島本中佐は其兵力五百に過ぎず而して北大営支那軍一万に及ぶと信じたるに拘はらず彼の吾人に語りたるところによれば彼は「攻撃は最良の防御なり」と信じ直に営舎の攻撃を命じたり。線路、営舎間約二百五十碼の地面は水溜りの為衆団にて横断すること困難なりしが支那軍が右地面を越え撃退されつつある際野田中尉は第三中隊の一個小隊を以て彼等の退路を断つ為めに鉄道に沿ひて進出することを命ぜられたり。日本軍が煌々と点燈しつつありたりと伝へらるる北大営舎に到達するや第三中隊は攻撃を行ひ左翼隅占領に成功せり。右攻撃に対し営内支那軍は頑強に抵抗し激戦数時間に亘れり。第一中隊は右翼を第四中隊は中央部を攻撃す。午前五時、営舎南門は其の直前にある付属家屋内に支那軍の放置せる大砲より二弾に依りて破壊せられ、同六時全兵舎占領せられたるが日本側兵卒死者二名、傷者二十二名を出せり。兵舎建物中には交戦中火災を発したるものありたるが残余は十九日朝日本軍により焼き払はれたり。日本側にては支那兵三百二十名を埋葬せるが負傷者は二十名を発見せるに過ぎずと陳述せり。
  一方他の地点に於ても同様に迅速且徹底的に軍事行動実施せられたり。平田大佐は午後十時四十分頃島本中佐より南満洲鉄道線路支那軍の為め破壊されたるを以て将に敵軍攻撃に向はんとする旨の電話を受けたるが同大差は島本中佐の行動を是認し自ら城内攻撃に当るべきを決意し午後十一時三十分迄に軍隊の集合を完了し攻撃を開始せり。而して何等の抵抗をも受けず時々市街上に戦闘ありたるも主として支那警察隊との間に行はれたるものにて之が為め支那側巡警の間に死者七十五名を生じたり。午前二時十五分市の城壁を乗越し三時四十分迄之を占領せり。午前四時五十分彼は第二師団本部及第十六連隊一部午前三時三十分遼陽を出発せる旨の情報に接したるが右軍隊は午前五時直後到着せり。而して午前六時東部城壁の占領を完了し兵工廠及飛行場は七時半占領せられ、次で東大営を攻撃し午後一時戦闘を見ずして之を占領せり。之等の行動による総死傷数は日本側傷者七名支那側死者三十名なり。
  当日宛も検閲より帰来せる本庄中将は午後十一時頃新聞記者よりの電話にて初めて奉天に起りつつある事件の報道を接受せり。参謀長は奉天特務機関より午後十一時四十六分電話にて攻撃の状況につき仔細の報告を受け次で遼陽、営口、鳳城にある軍隊に対し直に奉天出動を命令せり。艦隊は旅順を出発して営口に赴くことを命ぜられ在朝鮮日本軍司令官は援軍派遣を求められたり。本庄中将は午前三時半旅順を出発し正午奉天に到着せり。

支那側の説明
  支那側の説明によれば日本軍北大営攻撃は何等挑発によるものに非ずして全然奇襲に出でたるものなり。九月十八日夜第七旅全軍約一万北大営にありたり。九月六日張学良元帥より当時の緊張せる状態に於て日本軍との衝突は一切之を避けんが為め特別の注意を為すべき旨の訓令(北平に於て調査団に示されたる電文下の如し。「日本との関係頗る機微なるものあるを以て彼等に接する際には特に慎重なるを要す、如何に彼等に於て挑戦するも吾人は特に隠忍し断じて武力に訴ふることなく以て一切の紛争を避くべし。貴官は秘密且即時全将校に命令を発し右の点に付彼等の注意を喚起すべし」を接受せるを以て兵営城門の衛兵は木小銃を携帯したるのみにて任務に服したり。而して同様の理由に依り兵営周囲土塀内の鉄道線路に導く西門は閉鎖せられ居たり。九月十四、十五、十六、十七日夜日本軍は兵営付近に於て夜間演習を行ひ十八日夜午後七時には文官屯なる一村落にて演習しつつありたり。午後九時将校劉某は通常の型の機関車を有せざる三、四輌の客車よりなる列車が同地に停車せる旨を報告せるが午後十時爆破の大音響あり、之に引続きて銃声を聞きたり。依て直に電話により参謀長より之を兵営南方六七哩鉄道線路近くの私宅にありたる司令官王以哲に報告せるが参謀長が尚電話中日本軍の兵営を攻撃しつつある旨並衛兵二名負傷せる旨の報道あり。十一時頃より兵営南西隅に対する総攻撃開始せられ十一時半日本軍は城壁の隙より侵入し来れり。攻撃開始せらるるや参謀長は消燈を命じ再度王以哲に電話にて報告せる処王は抵抗すべからざる旨を答へたり。十一時半南西及北西方向遠方よりの大砲の音を聞きたるが夜半に至り兵営内に砲弾落下し始めたり。退却中の第六百二十一団軍南門に達するや日本軍が同門を攻撃し居り守備兵撤退中なりしを以て同軍は日本軍の内部に侵入する迄塹壕土塀内に逃避し、然る後南門を経て逃るることを得午前二時頃営舎東方の二台子村落に到着せり。他軍は東門及東門外直近の空舎を経て逃れ遂に三時より四時迄の間に同村落に達するを得たり。
  唯一の抵抗は北東隅建物及夫の南方第二位建物内にありたる第六百二十団の試みたるものなり。同団長は日本軍が午前七時南門より侵入し来るや支那軍は建物より建物へと逃れ日本軍をして空虚なる建物を攻撃せしめたる旨述べ居れり。支那軍主力撤退後日本軍は東方に向ひ東方出口を占領せり。かくして第六百二十団は連絡を絶たれたるを以て自ら戦ひて活路を開くの外なきに至れり。彼等は午前五時に至り突破を始めたるが全然脱出し得たるは午前七時なりき。之営舎ないに起れる唯一の実戦にして死傷の大部分も之が為めなり本団は最後に二台子村落に到着せる部隊なり。
  支那軍は全部集合するや十九日早朝直に同村落出発東陵に向ひ次で同地より吉林近傍の一村落に至りて冬衣の支給を受け又王大佐を派し凞洽将軍より軍隊の吉林入市許可を求めたり。在吉林日本在留民は支那兵の接近に恐れを抱きたるを以て即刻長春四平街及奉天より吉林に援軍派遣せられたるが之が為め支那軍は再び奉天方面に向ふこととなれり。彼等は奉天外十三哩の地点に下車し九隊に分れ、夜間奉天を迂回行軍せり。日本軍の発見を免れんが為め王以哲自ら農民に仮装し市中を乗馬にて通過せり。朝に至り日本軍は彼等存在の報に接し飛行機を発して之を爆撃せるを以て彼等は昼間隠遁するの已むなかりしも夜間は進軍を続行し遂に京奉線の一駅に達し此処にて七列車を命じ之により十月四日山海関に達したり。

調査団の意見
  以上は所謂九月十八日事件につき両国当事者の調査団に語れるところなり。二者異り矛盾しをるは明なるが之れ其の事情に鑑み別に異とするに足らざるところなり。
  事件直前の緊張状態並興奮を考へ又利害関係者の特に夜間に起れる事件に関する陳述には必ずや相違するところあるべきを認め吾等は極東滞在中事件発生当時又は其直後奉天にありたる代表的外国人に出来得る限り多数会見せるが其の内には事件直後現地を視察し又先づ日本側の正式説明を与へられたる新聞通信員其他の人々あり。利害関係者の陳述と共に斯かる意見を充分に考慮し多数の文書資料を熟読し又接受若くは収蒐せる幾多の証蹟を慎重研究せる結果調査団は左の結論に達したり。
  日支両軍の間に緊張気分の存在したることに付ては疑ふの余地なし、調査団に明白に説明せられたるが如く日本軍が支那軍との間に於ける敵対行為起り得べきことを予想して慎重準備せられたる計画を有し居たるが九月十八日-十九日夜本計画は迅速且正確に実施せられたり。支那軍は一八七頁(文原)に言及せる訓令に基き日本軍に攻撃を加へ又は特に右の時及場所に於て日本人の生命或は財産を危険ならしむるが如き計画を有したるものに非ず。彼等は日本軍に対し連繋ある又は命令を受けたる攻撃を行ひたるものに非ずして日本軍の攻撃及其の後の行動に狼狽せるものなり。九月十八日午後十時より十時半の間に鉄道線路上若くは其付近に於て爆発ありしは疑なきも鉄道に対する損傷は若しありとするも事実長春よりの南行列車の定刻到着を妨げざりしものにて其のみにては軍事行動を正当とするものに非ず。同夜に於ける敍上日本軍の軍事行動は正当なる自衛手段と認むることを得ず。尤も之により調査団は現地に在りたる日本将校が自衛の為め行動しつつありと信じつつありたるなるべしとの仮説を排除せんとするものには非ず。尚爾後の事件につき述べざる可からず。(p79~85)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1445164/45


【資料】東京裁判 起訴状

以下はアジア歴史資料センターhttp://www.jacar.go.jp
レファレンスコードA08071307800(126枚目~)
原文に読点が無いので適宜補った。
起訴状

以下本起訴状の言及せる期間に於て日本の対内対外政策は犯罪的軍閥に依りしはいせられ且指導せられたり。斯る政策は重大なる世界的紛議及び侵略戦争の原因たると共に平和愛好諸国民の利益並に日本国民自身の利益の大なる毀損の原因をなせり。

日本国民の精神は「アジア」否全世界の他の諸民族に対する日本の民族的優越性を主張する有害なる思想に依り組織的に毒せられたり。日本に存したる議会制度は広汎なる侵略の道具として使用せられ且当時「ドイツ」に於て「ヒットラー」及び「ナチ」党に依り「イタリア」に於て「ファシスト」党に依り確立せられたると同様の組織が導入せられたり。日本の経済的及び財政的資源は大部分戦争目的に動員せられ、為めに日本国民の福祉は阻害せらるるに至れり。

被告間に於ける共同謀議は他の侵略国即ち「ナチ・ドイツ」並に「ファシスト・イタリア」の統治者の参加を得て約定せられたり。本共同謀議の主たる目的は侵略国家に依る世界の他の部分の支配と搾取との獲得及び本目的の為め本裁判所条例中に定義せられたるが如き平和に対する罪、戦争犯罪並に人道に対する罪を犯し又は犯すことを奨励するにありたり。斯くて自由の基本原則と人格に対する尊敬を脅威し毀損したり。

該企図の促進並に達成に対し此等被告は其の権力、公職及び個人的声望及び勢力を利用して「アメリカ」合衆国、中華民国、「グレート・ブリテン」・北「アイルランド」連合王国、「ソビエット社会主義共和国連邦、「オーストラリア」連邦、「カナダ」、「フランス」共和国、「オランダ」王国、「ニュージーランド」、「インド」、「フィリッピン」国及び他の平和的諸国家に対し国際法並に神聖なる条約上の誓約、義務及び保証に違反して侵略戦争の計画、準備、開始又は遂行を意図し且つ実行せり。該計画は俘虜、一般収容者及び公海に在る人を殺害、毀傷及び虐待し之等に対し適当なる食糧、収容所、衣服、医療手当又は其の他の適当なる処置を与へず此等を非人道的条件下の強制労役に服せしめ、且恥辱を与へ以て広く承認せられたる戦争の法規慣例の審判を企図し且之を実行せり。又日本の利益の為めに被征服国民の人的及び経済的資源を搾取し公私の財産を掠奪し、都市村落に対し軍事上の必要以上濫りに破壊を加へ、蹂躙せられたる諸国の無力の一般民衆に対し大量殺害、凌辱、掠奪、劫掠、拷問其の他の野蛮なる残虐行為を加へ日本国政府の官吏及び諸機関に対する陸海軍派閥の勢力及び制圧を強めいはゆる翼賛会等を創設し国家主義的膨張政策を教へ戦争宣伝物を播布し新聞及び「ラヂオ」に厳格なる統制を加へ以て日本国民の輿論を動かし以て侵略戦争に対する心理的準備を整へしめ被征服諸国に『傀儡』政権を樹立し武力に依る日本の膨張計画を推進する為め「ドイツ」及び「イタリア」と軍事同盟を締結せり。

故に上記諸国家は一九四五年⦅昭和二十年⦆七月二十六日の「ポツダム」宣言、一九四五年⦅昭和二十年⦆九月二日の降伏文書及び本裁判所条例に従ひ、重大なる戦争犯罪人に対する被疑事実の調査及び之が訴追に付き各自の政府を代表すべく正当に任命せられたる下記署名の代表者に依りて上記の凡ての者を以下列挙の諸点に付き本裁判所条例中に凡て定義せるが如き平和に対する罪、戦争犯罪、人道に対する罪及び以上の罪の共通計画または共同謀議の罪ありとして茲に告訴し此の故に本訴訟に於ける被告とし且其の氏名が夫々記載せられたる後述の訴因に拠り起訴せられたるものとして指名す。




第一類 平和に対する罪
下記諸訴因に付きては平和に対する罪を問ふ。
該罪は茲に記載せられたる者及び其の夫々が極東国際軍事裁判所条例第五条特に第五条(イ)及び(ロ)並に国際法又は其の孰れかの一により個々に責任ありと主張せられ居る行為なり。


訴因第一
全被告は他の諸多の人々と共に⦅昭和三年⦆一月一日より一九四五年⦅昭和二十年⦆九月二日に至る迄の期間に於て一個の共通の計画又は共同謀議の立案又は実行に指導者、教唆者又は共犯者として参画したるものにして斯かる計画の実行に付き本人自身により為されたると他の何人により為されたるとを問はず一切の行為に対し責任を有す

斯かる計画又は共同謀議の目的は日本が東「アジア」並に太平洋及び「インド」洋並びに右地域内及び之に隣接せる凡ての国家及び島嶼に於ける軍事的、政治的及び経済的支配を獲得するに在り。而して其の目的の為め独力を以て、又は同様の目的を有する他の諸国と共同して、若くは右計画乃至共同謀議に誘致又は強制的に加入せしめ得る他の諸国と共同して、其の目的に反対する国又は国々に対し宣戦を布告せる又は布告せざる侵略戦争並に国際法、条約、協定及び誓約に違反する戦争を行ふに在り。

付属書Aの細目、付属書Bの条約条項及び付属書Cの誓約の各全部は本訴因に関係あり。



訴因第二
全被告は他の諸多の人々と共に一九二八年⦅昭和三年⦆一月一日より一九四五年⦅昭和二十年⦆九月二日に至る迄の期間に於て一個の共通の計画又は共同謀議の立案又は実行に指導者、組織者、教唆者又は共犯者として参画したるものにして斯かる計画実行に付き本人自身より為されたると他の何人により為されたるとを問はず一切の行為に対し責任を有す。

斯かる計画又は共同謀議の目的は直接に又は日本の支配下に別個の一国家を建設することに依り日本が中華民国の一部たる遼寧、吉林、黒龍江、及び熱河の各省に於ける軍事的、政治的及び経済的支配を獲得するにあり、而して其目的の為め中華民国に対し宣戦を布告せる又は布告せざる侵略戦争並に国際法、条約、協定及び誓約に違反する戦争を行ふにあり。

付属書Aの細目全部、付属書Bの下記条約条項即ち第一乃至第六、第八乃至第十四、第二十二乃至第三十及び第三十二乃至第三十五並に付属書Cの下記条約即ち第一乃至第八は本訴因に関係あり。



訴因第三
全被告は他の諸多の人々と共に一九二八年⦅昭和三年⦆一月一日より一九四五年⦅昭和二十年⦆九月二日に至る迄の期間に於て一個の共通の計画又は共同謀議の立案又は実行に指導者、組織者、教唆者又は共犯者として参画したるものにして斯かる計画実行に付き本人自身により為されたると他の何人により為されたるとを問はず一切の行為に対し責任を有す。

斯かる計画又は共同謀議の目的は直接に又は日本の支配下に一又は数個の別個の国家を建設することに依り日本が中華民国に於ける軍事的、政治的及び経済的支配を獲得するにあり而して其の目的の為め中華民国に対し宣戦を布告せる又は布告せざる侵略戦争並に国際法、条約教千恵及び誓約に違反する戦争を行ふにあり。

付属書Aの細目全部並に訴因第二に於けると同一の条約条項及び誓約は本訴因に関係あり。



訴因第四
全被告は他の諸多の人々と共に一九二八年⦅昭和三年⦆一月一日より一九四五年⦅昭和二十年⦆九月二日に至る迄の期間に於て一個の共通の計画又は共同謀議の立案又は実行に指導者、組織者、教唆者又は共犯者として参画したるものにして斯かる計画実行に付き本人自身により為されたると他の何人により為されたるとを問はず一切の行為に対し責任を有す。

斯かる計画又は共同謀議の目的は日本が東「アジア」並に太平洋及び印度洋並に右地域内又は之に隣接セル凡ての国家及び島嶼に於ける軍事的、政治的及び経済的支配を獲得するに在り而して其の目的の為め独力を以て、又は同一の目的を有する他の諸国と共同して、若くは右計画乃至共同謀議に誘致又は強制的に加入せしめ得る他の諸国と共同して、「アメリカ」合衆国、全「イギリス」連邦(本起訴状に於て使用せる場合此の語は常に「グレート・ブリテン」及び北「アイルランド」連合王国、「オーストラリア」連邦、「カナダ」、「ニュージーランド」、南「アフリカ」連邦、「インド」、「ビルマ」、「マレー」連邦及び国際連盟に於て個々に代表せられざる「イギリス」帝国の他の凡ての部分を含むものとす)「フランス」共和国、「オランダ」王国、中華民国、「ポルトガル」共和国、「タイ」国、「フイリッピン」国及び「ソビエット」社会主義共和国連邦又は之等の内其の目的に反対する諸国に対し宣戦を布告せる又は布告せざる侵略戦争並に国際法、条約、協定及び誓約に違反する戦争を行ふに在り。

付属書Aの細目、付属書Bの条約条項及び付属書Cの誓約の各全部は本訴因に関係あり。



訴因第五
全被告は他の諸多の人々と共に一九二八年⦅昭和三年⦆一月一日より一九四五年⦅昭和二十年⦆九月二日に至る迄の期間に於て一個の共通の計画又は共同謀議の立案又は実行に指導者、組織者、教唆者又は共犯者として参画したるものにして斯かる計画実行に付き本人により為されたると他の何人により為されたるとを問はず一切の行為に対し責任を有す。

斯かる計画又は共同謀議の目的は「ドイツ」、「イタリア」及び日本が自己特有の圏(?)内に―日本は東「アジア」、太平洋及び「インド」洋並に右地域内の又は之に隣接せる凡ての国家及び島嶼に―夫々特別支配を有することに依り全世界に亘る軍事的、政治的及び経済的支配を獲得すべきこと、而して右三国は其の目的の為め相倚り相扶け以て其の目的に反対する諸国、特に「アメリカ」合衆国、全「イギリス」連邦、「フランス」共和国、「オランダ」王国、中華民国、「ポルトガル「共和国」、「タイ」王国、「フィリッピン」国及び「ソビエット」社会主義共和国連邦に対し宣戦を布告せる又は布告せざる侵略戦争並に国際法、条約、協定及び誓約に違反する戦争を行ふに在り。

付属書Aの細目、付属書Bの条約条項及び付属書Cの誓約の各全部は本訴因に関係あり。



訴因第六
全被告は一九二八年⦅昭和三年⦆一月一日より一九四五年⦅昭和二十年⦆九月二日に至る迄の期間に於て中華民国に対し侵略戦争並に国際法、条約、協定及び誓約に違反する戦争を計画し準備せり。

付属書Aの細目中下記節即ち第一乃至第六並に訴因第二に於けると同一の条約条項及び誓約は本訴因に関係あり。



訴因第七
全被告は一九二八年⦅昭和三年⦆一月一日より一九四五年⦅昭和二十年⦆九月二日に到る迄の期間に於て「アメリカ」合衆国に対し侵略戦争並に国際法、条約、協定及び誓約に違反する戦争を計画し準備せり。

付属書Aの細目中下記節即ち第三、第四、第五、第六、第七、第九及び第十、並に付属書Bの下記条約条項即ち第一乃至第十、第十七乃至第十九、第二十二乃至第三十五及び第三十七並に付属書Cの誓約全部は本訴因に関係あり。



訴因第八
全被告は一九二八年⦅昭和三年⦆一月一日より一九四五年⦅昭和二十年⦆九月二日に至る迄の期間に於て「グレート・ブリテン」及び北「アイルランド」連合王国、及び全「イギリス」連邦中本起訴状に於ける個々の訴因の主体たらざる凡ての部分に対し侵略戦争並に国際法、条約、協定及び誓約に違反する戦争を計画し準備せり。

付属書Aの細目中下記節即ち第三、第四、第五、第六、第七、第九、及び第十並に付属書Bの下記条約条項即ち第一、第二、第五、第十乃至第十九、第二十二乃至第三十、第三十二乃至第三十五、第三十七及び第三十八並に付属書Cの誓約の全部は本訴因に関係あり。



訴因第九
全被告は一九二八年⦅昭和三年⦆一月一日より一九四五年⦅昭和二十年⦆九月二日に至る迄の期間に於て「オーストラリア」連邦に対し侵略戦争並に国際法、条約、協定及び誓約に違反する戦争を計画し準備せり。

訴因第八に於けると同一の付属書Aの細目各節並に右訴因に於けると同一の条約条項及び誓約は本訴因に関係あり。



訴因第十
全被告は一九二八年⦅昭和三年⦆一月一日より一九四五年⦅昭和二十年⦆九月二日に至る迄の期間に於て「ニュージーランド」に対し侵略戦争並びに国際法、条約、協定及び誓約に違反せる戦争を計画し準備せり。

訴因第八に於けると同一の付属書Aの細目各節並に右訴因に於けると同一の条約条項及び保証は本訴因に関係あり。



訴因第十一
全被告は一九二八年⦅昭和三年⦆一月一日より一九四五年⦅昭和二十年⦆九月二日に至る迄の期間に於て「カナダ」に対し侵略戦争並に国際法、条約、協定及び誓約に違反する戦争を計画し準備せり。

訴因第八に於けると同一の付属書Aの細目各節並に右訴因に於けると同一の条約条項及び誓約は本訴因に関係あり。



訴因第十二
全被告は一九二八年⦅昭和三年⦆一月一日より一九四五年⦅昭和二十年⦆九月二日に至る迄の期間に於て「インド」に対し侵略戦争並に国際法、条約、協定及び誓約に違反する戦争を計画し準備せり。

訴因第八に於けると同一の付属書Aの細目各節に右訴因に於けると同一の条約条項及び誓約は本訴因に関係あり。



訴因第十三
全被告は一九二八年⦅昭和三年⦆一月一日より一九四五年⦅昭和二十年⦆九月二日に至る迄の期間に於て「フィリッピン」国に対し侵略戦争並に国際法、条約、協定及び誓約に違反する戦争を計画し準備せり。

訴因第七に於けると同一の付属書Aの細目各節並に右訴因に於けると同一の条約条項及び誓約は本訴因に関係あり。



訴因第十四
全被告は一九二八年⦅昭和三年⦆一月一日より一九四五年⦅昭和二十年⦆九月二日に至る迄の期間に於て「オランダ」王国に対し侵略戦争並に国際法、条約、協定及び誓約に違反する戦争を計画し準備せり。

付属書Aの細目中下記節即ち第三、第四、第五、第六、第七、第九及び第十並に付属書Bの下記条約条項即ち第一乃至第五、第十乃至第十八、第二十、第二十二乃至第三十、第三十二乃至第三十五、第三十七及び第三十八並に付属書Cの下記誓約即ち第十乃至第十五は本訴因に関係あり。



訴因第十五
全被告は一九二八年⦅昭和三年⦆一月一日より一九四五年⦅昭和二十年⦆九月二日に至る迄の期間に於て「フランス」共和国に対し侵略戦争並に国際法、条約、協定及び誓約に違反する戦争を計画し準備せり。

付属書Aの細目中下記節即ち第二、第三、第四、第五、第六、第七、第九及び第十並に付属書Bの下記条約条項即ち第一乃至第五、第十乃至第十九、第二十二乃至第三十及び第三十二乃至第三十八並に付属書Cの下記誓約即ち第十四の予備第十五は本訴因に関係あり。



訴因第十六
全被告は一九二八年⦅昭和三年⦆一月一日より一九四五年⦅昭和二十年⦆九月二日に至る迄の期間に於て「タイ」王国に対し侵略戦争並に国際法、条約、協定及び誓約に違反する戦争を計画し準備せり。

付属書Aの細目中下記節即ち第二、第三、第四、第五、第六、第七、第九及び第十並に付属書Bの下記条約条項即ち第三、第四、第五、第十及び第三十二乃至第三十八は本訴因に関係あり。



訴因第十七
全被告は一九二八年⦅昭和三年⦆一月一日より一九四五年⦅昭和二十年⦆九月二日に至る迄の期間に於て「ソビエット」社会主義共和国連邦に対し侵略戦争並に国際法、条約、協定及び誓約に違反する戦争を計画し準備せり。

付属書Aの細目中下記節即ち第一乃至第八並付属書Bの下記条約条項即ち第一乃至第五、第十乃至第十八、第三十二乃至第三十五及び第三十九乃至第四十七並に付属書Cの誓約第十三は本訴因に関係あり。



訴因第十八
被告荒木、土肥原、橋本、平沼、板垣、小磯、南、大川、重光、東條、梅津は一九三一年⦅昭和六年⦆九月十八日又は其の頃中華民国に対し侵略戦争並に国際法、条約、協定及び誓約に違反する戦争を開始せり。

付属書Aの細目中第一節並に付属書Bの下記条約条項即ち第一乃至第五、第十一乃至第十四、第二十二、第二十三、第二十五、第三十及び第四十乃至第四十三は本訴因に関係あり。



訴因第十九
被告荒木、土肥原、橋本、畑、平沼、廣田、星野、板垣、賀屋、木戸、松井、武藤、鈴木、東條、梅津は一九三七年⦅昭和十二年⦆七月七日又は其の頃中華民国に対し侵略戦争並に国際法、条約、協定及び誓約に違反する戦争を開始せり。

付属書Aの細目中第二節並に訴因第十八に於けると同一の条約条項並に付属書Cの下記誓約即ち第三、第四及び第五は本訴因に関係あり。



訴因第二十
被告土肥原、平沼、廣田、押野、賀屋、木戸、木村、武藤、永野、岡、大島、佐藤、嶋田、鈴木、東郷、東條は一九四一年⦅昭和十六年⦆十二月七日又は其の頃「アメリカ」合衆国に対し侵略戦争並に国際法、条約、協定及び誓約に違反する戦争を開始せり。

付属書Aの細目中第九節並に付属書Bの下記条約条項即ち第一乃至第九、第十九、第二十二乃至第三十、第三十三、第三十四及び第三十七並に付属書Cの誓約全部は本訴因に関係あり。



訴因第二十一
訴因第二十に於けると同一の被告は一九四一年⦅昭和十六年⦆十二月七日又は其の頃「フィリッピン」国に対し侵略戦争並に国際法、条約、協定及び誓約に違反する戦争を開始せり。

訴因第二十に於けると同一の細目、条約条項及び誓約は本訴因に関係あり。



訴因第二十二
訴因第二十に於けると同一の被告は一九四一年⦅昭和十六年⦆十二月七日又は其の頃全「イギリス」連邦に対し侵略戦争並に国際法、条約、協定及び誓約に違反せる戦争を開始せり。

付属書Aの細目中第九節並に付属書Bの各条約条項第一乃至第五、第十九、第二十二乃至第三十、第三十三及び第三十七並に付属書Cの誓約全部は本訴因に関係あり。



訴因第二十三
被告荒木、土肥原、平沼、廣田、星野、板垣、木戸、松岡、武藤、永野、重光、及び東條は一九四〇年⦅昭和十五年⦆九月二十二日又は其の頃「フランス」共和国に対し侵略戦争並に国際法、条約、協定及び誓約に違反する戦争を開始せり。

訴因第十五に於けると同一の細目、条約条項及び誓約は本訴因に関係あり。



訴因第二十四
訴因第二十に於けると同一の被告は一九四一年⦅昭和十六年⦆十二月七日又は其の頃「タイ」王国に対し侵略戦争並に国際法、条約、協定及び誓約に違反する戦争を開始せり。

付属書Aの細目中第七節並に付属書Bの下記条約条項即ち第一乃至第五、第三十三、第三十四、第三十六、第三十七及び第三十八は本訴因に関係あり。



訴因第二十五
被告荒木、土肥原、畑、平沼、廣田、星野、板垣、木戸、松岡、松井、重光及び鈴木は一九三八年⦅昭和十三年⦆七、八月中に於て「ハーサン」湖区域に於て「ソビエット」社会主義共和国連邦を攻撃することに依り侵略戦争並に国際法、条約、協定及び誓約に違反する戦争を開始せり。

訴因第十七に於けると同一の細目、条約条項及び誓約は本訴因に関係あり。



訴因第二十六
被告荒木、土肥原、畑、平沼、板垣、木戸、小磯、松井、松岡、武藤、鈴木、東郷、東條及び梅津は一九三九年⦅昭和十四年⦆の夏期中「ハルヒン・ゴール」河区域に於て蒙古人民共和国の領土を攻撃することに依り侵略戦争並に国際法、条約、協定及び誓約に違反する戦争を開始せり。

訴因第十七に於けると同一の細目、条約条項及び誓約は本訴因に関係あり。



訴因第二十七
全被告は一九三一年⦅昭和六年⦆九月十八日より一九四五年⦅昭和二十年⦆九月二日に至る迄の期間に於て中華民国に対し侵略戦争並に国際法、条約、協定及び誓約に違反する戦争を行へり。

訴因第二に於けると同一の細目、条約条項及び誓約は本訴因に関係あり。



訴因第二十八
全被告は一九三七年⦅昭和拾に年⦆七月七日より一九四五年⦅昭和二十年⦆九月二日に至る迄の期間に於て中華民国に対し侵略戦争並に国際法、条約、協定及び誓約に違反する戦争を行へり。

訴因第二に於けると同一の細目、条約条項及び誓約は本訴因に関係あり。



訴因第二十九
全被告は一九四一年⦅昭和十六年⦆十二月七日より一九四五年⦅昭和二十年⦆九月二日に至る迄の期間に於て「アメリカ」合衆国に対し侵略戦争並に国際法、条約、協定及び誓約に違反する戦争を行へり。

付属書Aの細目中下記節即ち第四乃至第十並に訴因第二十に於けると同一の条約条項及び誓約は本訴因に関係あり。



訴因第三十
全被告は一九四一年⦅昭和十六年⦆十二月七日より一九四五年⦅昭和二十年⦆九月二日に至る迄の期間に於て「フィリッピン」国に対し侵略戦争並に国際法、条約、協定及び誓約に違反する戦争を行へり。

訴因第二十九に於けると同一の細目、条約条項及び誓約は本訴因に関係あり。



訴因第三十一
全被告は一九四一年⦅昭和十六年⦆十二月七日より一九四五年⦅昭和二十年⦆九月二日に至る迄の期間に於て全「イギリス」連邦に対し侵略戦争並に国際法、条約、協定及び誓約に違反する戦争を行へり。

付属書Aの細目中下記節即ち第四乃至第十並に訴因第二十二に於けると同一の条約条項及び誓約は本訴因に関係あり。



訴因第三十二
全被告は一九四一年⦅昭和十六年⦆十二月七日より一九四五年⦅昭和二十年⦆九月二日に至る迄の期間に於て「オランダ」王国に対し侵略戦争並に国際法、条約、協定及び誓約に違反する戦争を行へり。

訴因第十四に於けると同一の細目、条約条項及び誓約は本訴因に関係あり。



訴因第三十三
被告荒木、土肥原、平沼、廣田、星野、板垣、木戸、松岡、武藤、永野、重光及び東條は一九四〇年⦅昭和十五年⦆九月二十二日及び其の後「フランス」共和国に対し侵略戦争並に国際法、条約、協定及び誓約に違反する戦争を行へり。

訴因第十五に於けると同一の細目、条約条項及び誓約は本訴因に関係あり。



訴因第三十四
全被告は一九四一年⦅昭和十六年⦆十二月七日より一九四五年⦅昭和二十年⦆九月二日に至る迄の期間に於て「タイ」王国に対し侵略戦争並に国際法、条約、協定及び誓約に違反する戦争を行へり。

訴因第二十四に於けると同一の細目及び条約条項は本訴因に関係あり。



訴因第三十五
訴因第二十五に於けると同一の被告は一九三八年⦅昭和十三年⦆の夏期中「ソビエット」社会主義共和国連邦に対し侵略戦争並に国際法、条約、協定及び誓約に違反する戦争を行へり。

訴因第十七に於けると同一の細目、条約条項及び誓約は本訴因に関係あり。



訴因第三十六
訴因第二十六に於けると同一の被告は一九三九年⦅昭和十四年⦆の夏蒙古人民共和国及び「ソビエット」社会主義共和国連邦に対し侵略戦争並に国際法、条約、及び誓約に違反する戦争を行へり。

訴因第十七に於けると同一の細目、条約条項及び誓約は本訴因に関係あり。



第二類殺人
下記諸訴因に就きては殺人罪及び殺人の共同謀議の罪に問ふ。該罪は茲に記載せられたる者及び其の各自が個々に責任ありと主張せられ居る行為なると共に既述の裁判所条例第五条の全項、国際法及び日本を含む犯罪の行はれたる国々の国内法又は其等の一若くは二以上に違反したる平和に対する罪、通例の戦争犯罪及び人道に対する罪なり。


訴因第三十七
被告土肥原、平沼、廣田、星野、賀屋、木戸、木村、武藤、永野、岡、大島、佐藤、嶋田、鈴木、東郷、及び東條は他の諸多の人々と共に一九四〇年⦅昭和十五年⦆六月一日より一九四一年⦅昭和十六年⦆十二月八日に至る迄の期間に於て一個の共通の計画又は共同謀議の立案又は実行に指導者、組織者、教唆者又は共犯者として参画したるものにして斯かる計画の実行に付き本人自身により為されたると他の何人により為されたるとを問はず一切の行為に対し責任を有す。

斯かる計画又は共同謀議の目的は「アメリカ」合衆国、「フィリッピン」国、全「イギリス」連邦、「オランダ」王国及び「タイ」王国に対し不法なる敵対行為を開始し且日本が上述国家と平和状態にある時に於て不法に是等諸国家又は其の或るものの領土、艦船並に航空機の攻撃を日本軍に命じ為さしめ且許すことに因り下記の人々を不法に殺害し殺戮せんとするに在りたり。

殺害或は殺戮の目的とせられたる者は凡て上述諸国家の軍隊及び一般人中斯かる攻撃の際偶々其の地点に居合せたらん者なり。

該敵対行為及び攻撃は付属書Bの条約条項第五に違反せるが故に不法なり。従って被告及び該日本軍は適法なる交戦者としての権利を獲得し得ざりしものなり。

是等被告及び其の各自は右条約条項に違反して斯かる敵対行為を開始せんと意図し又は該条約条項に違反するや否やの如きは之を介意せざりしものなり。



訴因第三十八
被告土肥原、平沼、廣田、星野、賀屋、木戸、木村、松岡、武藤、永野、岡、大島、佐藤、嶋田、鈴木、東郷及び東條は他の諸多の人々と共に一九四〇年⦅昭和十五年⦆六月一日より一九四一年⦅昭和十六年⦆十二月八日に至る迄の期間に於て一個の共通の計画又は共同謀議の立案又は実行に指導者、組織者、教唆者又は共犯者として参画したるものにして斯かる計画の実行に付き本人自身により為されたると他の何人により為されたるとを問はず一切の行為に対し責任を有す。

斯かる計画又は共同謀議の目的は「アメリカ」合衆国、「フィリッピン」国、全「イギリス」連邦、「オランダ」王国及び「タイ」王国に対し不法なる敵対行為を開始し且不法に是等諸国家又は其の或るものの領土、艦船及び航空機の攻撃を日本軍に命じ為さしめ且許すことに因り下記の人々を不法に殺害し殺戮せんとするに在りたり。

殺害或は殺戮の目的とせられたる者は凡て上述諸国家の軍隊及び一般人中斯かる攻撃の際偶々其の地点に居合せたらん者なり。

該敵対行為及び攻撃は付属書Bの条約条項第六、第七、第十九、第三十三、第三十四及び第三十六に違反せるが故に不法なり。従って被告及び該日本軍は適法なる交戦者としての権利を獲得し得ざりしものなり。

是等被告及び其の各自は右条約条項に違反して斯かる敵対行為を開始せんと意図し又は該条約条項の全部又は一部に違反するや否やの如きは之を介意せざりしものなり。


訴因第三十九
訴因第三十八に於けると同一の被告は本件訴因第三十七及び第三十八に於て主張したる情況の下に一九四一年⦅昭和十六年⦆十二月七日〇七五五時頃(真珠湾時間)「ハワイ」準州真珠湾に於て日本が当時平和状態に在りし「アメリカ」合衆国の領土、艦船及び航空機に対する攻撃を日本軍に命じ為さしめ且許すことに因りて不法に「キッド」海軍少将の外目下其の氏名及び員数不詳なる「アメリカ」合衆国陸海軍将兵約四千名及び一般人を殺害し殺戮したり。


訴因第四十
訴因第三十八に於けると同一の被告は本件訴因第三十七及び第三十八に於て主張したる情況の下に一九四一年⦅昭和十六年⦆十二月八日〇〇二五時頃「シンガポール」時間「ケランタン」州「コタバル」に於て日本が当時平和状態に在りし全「イギリス」連邦の領土及び航空機に対する攻撃を日本軍に命じ為さしめ且許すことに因りて不法に目下其の氏名及び員数不詳なる全「イギリス」連邦軍将兵を殺害し殺戮したり。


訴因第四十一
訴因第三十八に於けると同一の被告は本件訴因第三十七及び第三十八に於て主張したる情況の下に一九四一年⦅昭和十六年⦆十二月八日〇八〇〇時頃(香港時間)香港に於て日本が当時平和状態に在りし全「イギリス」連邦の領土、艦船及び航空機に対する攻撃を日本軍に命じ為さしめ且許すことに因りて不法に目下其の氏名及び員数不詳なる全「イギリス」連邦軍将兵を殺害し殺戮したり。


訴因第四十二
訴因第三十八に於けると同一の被告は本件訴因第三十七及び第三十八に於て主張したる情況の下に一九四一年⦅昭和十六年⦆十二月八日〇三〇〇時頃(上海時間)上海に於て日本が当時平和状態に在りし全「イギリス」連邦の軍艦「ぺトレル」号に対する攻撃を日本軍に命じ為さしめ且許すことに因りて不法に目下其の氏命〔ママ〕不詳なる全「イギリス」連邦海軍軍人三名を殺害し殺戮したり。
 

訴因第四十三
訴因第三十八に於けると同一の被告は本件訴因第三十七及び第三十八に於て主張したる情況の下に一九四一年⦅昭和十六年⦆十二月八日壱〇〇〇時頃(「マニラ」時間)「ダバオ」に於て日本が当時平和状態に在りし「フィリッピン」国の領土に対する攻撃を日本軍に命じ為さしめ且許すことに因りて不法に目下其の氏名及び員数不詳なる「アメリカ」合衆国軍将兵並に「フィリッピン」国軍将兵及び一般人を殺害し殺戮したり。


訴因第四十四
全被告は他の諸多の人々と共に一九三一年⦅昭和六年⦆九月十八日より一九四五年⦅昭和二十年⦆九月二日に至る迄の期間に於て一個の共通の計画又は共同謀議の立案及び実行に指導者、組織者、教唆者又は共犯者として参画したるものにして斯かる計画の実行に付き本人自身により為されたると他の何人により為されたるとを問はず一切の行為に対し責任を有す。

斯かる計画又は共同謀議の目的は上記期間中日本が行ひ又は行はんとしたる不法なる数回の戦争に勝利を容赦なく獲得せんとし日本の占領したる領土内に於て、陸上又は海上に於て、俘虜、日本に降伏することあるべき敵対せし諸国の将兵、日本の権力下に置かるることあるべき一般人及び日本軍に撃破せられたる艦船の乗組員の大量殺戮を行はしめ且之を許可するに在りたり。



訴因第四十五
被告荒木、橋本、畑、平沼、廣田、板垣、賀屋、木戸、松井、室生、鈴木及び梅津は一九三七年⦅昭和十二年⦆十二月十二日及び其の後引続き本件訴因第二記載の条約条項に違反して南京市を攻撃し且国際法に反して住民を鏖殺することを日本軍に不法に命じ為さしめ且許すことに因り不法に目下其の氏名及び員数不詳なる数万の中華民国の一般人及び武装を解除せられたる兵員を殺害し殺戮せり。


訴因第四十六
訴因第四十五に於けると同一の被告は一九三八年⦅昭和十三年⦆十月二十一日及び其の後引続き本件訴因第二記載の条約条項に違反して広東市を攻撃し且国際法に反して住民を鏖殺することを日本軍に不法に命じ為さしめ且許すことに因り不法に目下其の氏名及び員数不詳なる多数の中華民国の一般人及び
武装を解除せられたる兵員を殺害し殺戮せり。


訴因第四十七
訴因第四十五に於けると同一の被告は一九三八年⦅昭和十三年⦆十月二十七日の前後に亘り本件訴因第二記載の条約条項に違反して漢口市を攻撃し且国際法に反して住民を鏖殺することを日本軍に不法に命じ為さしめ且許すことに因り不法に目下其の氏名及び員数不詳なる多数の中華民国の一般人及び武装を解除せられたる兵員を殺害し殺戮せり。


訴因第四十八
被告畑、木戸、小磯、佐藤、重光、東條及び梅津は一九四四年⦅昭和十九年⦆六月十八日前後に亘り本件訴因第二記載の条約条項に違反して長沙市を攻撃し且国際法に反して住民を鏖殺することを日本軍に不法に命じ為さしめ且許すことに因り不法に目下其の氏名及び員数不詳なる数千の中華民国の一般人及び武装を解除せられたる兵員を殺害し殺戮せり。


訴因第四十九
訴因第四十八に於けると同一の被告は一九四四年⦅昭和十九年⦆八月八日の前後に亘り本件訴因第二記載の条約条項に違反して湖南省衡陽市を攻撃し且国際法に反して住民を鏖殺することを日本軍に不法に命じ為さしめ且許すことに因り不法に目下其の氏名及び員数不詳なる多数の中華民国一般人及び武装を解除せられたる兵員を殺害し殺戮せり。


訴因第五十
訴因第四十八に於けると同一の被告は一九四四年⦅昭和十九年⦆十一月十日前後に亘り本件訴因第二記載の条約条項に違反して広西省の桂林、柳洲両都市を攻撃し且国際法に反して住民を鏖殺することを日本軍に不法に命じ為さしめ且許すことに因り不法に目下其の氏名及び員数不詳なる多数の中華民国の一般人及び武装を解除せられたる兵員を殺害し殺戮せり。


訴因第五十一
被告荒木、土肥原、畑、平沼、板垣、木戸、小磯、松井、松岡、武藤、鈴木、東郷、東條及び梅津は一九三九年⦅昭和十四年⦆夏「ハルヒン・ゴール」河地域に於て当時日本と平和状態に在りたる蒙古及び「ソビエット」社会主義共和国連邦の領土を攻撃することを日本軍に命じ為さしめ且許すことに因り不法に目下其の氏名及び員数不詳なる蒙古及び「ソビエット」社会主義共和国連邦の軍隊の若干名を殺害し殺戮せり。


訴因第五十二
被告荒木、土肥原、畑、平沼、廣田、星野、板垣、木戸、松岡、松井、重光、鈴木及び東條は当時日本と平和状態にありたる「ソビエット」社会主義共和国連邦領を(一九三八年⦅昭和十三年⦆七月及び八月「ハーサン」湖区域に於て)日本軍に攻撃することを命じ為さしめ且許すことに因り目下其の氏名及び員数不詳「ソビエット」社会主義共和国連邦の若干名を不法に殺害し殺戮せり。


第三類 通例の戦争犯罪及び人道に対する罪
下記訴因に付きては通例の戦争犯罪及び人道に対する罪を問ふ。該罪は茲に記載せられたる者及び其の各自が極東国際軍事裁判所条例第五条特に第五条(ロ)及び(ハ)並に国際法又は其の孰れかの一に依り個々に責任有りと主張せられ居る行為なり。


訴因第五十三
被告土肥原、畑、星野、板垣、木戸、木村、小磯、武藤、永野、岡、大島、佐藤、重光、嶋田、鈴木、東郷、東條及び梅津は他の諸多の人々と共に一九四一年⦅昭和十六年⦆十二月七日より一九四五年⦅昭和二十年⦆九月二日に至る迄の期間に於て一個の共通の計画又は共同謀議の立案又は実行に指導者、組織者、教唆者又は共犯者として参画したるものにして斯かる計画の実行に付き本人自身に依り為されたると他の何人に依り為されたるとを問はず一切の行為に対して責任を有す。

斯かる計画又は共同謀議の目的は当時日本が従事せる諸作戦地の各々に於ける日本陸海軍の最高司令官、日本陸軍省職員、日本領土又は其の占領地の俘虜及び一般収容者の収容所及び労務班の管理当事者、並に日本の憲兵及び警察と其の夫々の部下とに「アメリカ」合衆国、全「イギリス」連邦、「フランス」共和国、「オランダ」王国、「フィリッピン」国、中華民国、「ポルトガル」共和国及び「ソビエット」社会主義共和国連邦の軍隊に対し並に当時日本の権力下に在りし此等諸国の数千の俘虜及び一般人に対し付属書Dに於て述べられたる条約、誓約及び慣行中に含まれ且之に依り証明せられたる戦争の法規慣例の頻繁にして且常習的なる違反行為を行ふことを命令し授権し且つ許可すること、而かも亦日本国政府に於て上記条約及び誓約竝に戦争の法規慣例の遵守を確保し且其の違反を防止する為め之に準拠して適当なる手段を執ることを差控ふべきことに在りたり。

中華民国の場合に於ては該計画又は共同謀議は一九三一年⦅昭和六年⦆九月十八日に始まり上記指名の者の外下記被告も亦之に参画せり。
 
荒木、橋本、平沼、廣田、松井、松岡、南


訴因第五十四
被告土肥原、畑、星野、板垣、賀屋、木戸、木村、小磯、武藤、永野、岡、大島、佐藤、重光、嶋田、鈴木、東郷、東條及び梅津は一九四一年⦅昭和十六年⦆十二月七日より一九四五年⦅昭和二十年⦆九月二日に至る迄の期間に於て訴因第五十三に於て述べたる者と同一の人々に同訴因中に於て述べたる違反行為を行ふことを命令し授権し且許可し以て戦争法規に違反せり。

中華民国の場合に於ては該命令、授権及び許可は一九三一年⦅昭和六年⦆九月十八日より始まる期間に発せられたるものにして上記指名の者の外下記の被告も亦之に責任を有す。

荒木、橋本、平沼、廣田、松井、松岡、南


訴因第五十五 
被告人土肥原、畑、板垣、賀屋、木戸、木村、小磯、武藤、水野、岡、大島、佐藤、重光、嶋田、鈴木、東郷、東條及び梅津は一九四一年⦅昭和十六年⦆十二月七日より一九四五年⦅昭和二十年⦆九月二日に至る迄の期間に於て夫々の官職に因り「アメリカ」合衆国、全「イギリス」連邦、「フランス」共和国、「オランダ」王国、「フィリッピン」国、中華民国、「ポルトガル」共和国及び「ソビエット」社会主義共和国連邦の軍隊並に当時日本の権力下に在りし此等諸国の数万の俘虜及び一般人に関し上記条約及び誓約並に戦争の法規慣例の遵守を確保する責任を有したるも、其の遵守を確保し其の違反を防止するに適当なる手段を執る可き法律上の義務を故意又不注意に無視し以て戦争法規に違反せり

中華民国の場合に於ては該違反行為は一九三一年⦅昭和六年⦆九月十八日に始まり上記指名の者の外下記被告も之に責任を有す
 
荒木、橋本、平沼、廣田、松井、松岡、南 


以上の理由に依り裁判所に対し本起訴状を提出し茲に前記指名の被告人等に対する起訴事実を裁判所に提出するものなり

【資料】東京裁判 罪状の認定(全体・各被告ごと)

以下はアジア歴史資料センターhttp://www.jacar.go.jp
レファレンスコード
A08071307800
A08071311400
より

極東国際軍事裁判所
判決
C部
第九章
起訴状の訴因についての認定
英文 一一三七―一一四四頁
一九四八年十一月一日

C部第九章
起訴状の訴因についての認定

  起訴状の訴因第一では、全被告が、他の人々とともに、共通の計画または共同謀議の立案または実行に参画したことが訴追されている。その共通の計画の目的は、日本が東アジア、太平洋及びインド洋と、その地域内にあるか、これに接壌するすべての諸国及び諸島嶼とにおける軍事的、政治的及び経済的の支配を獲得することであり、そして、その目的のために、日本が単独または同様の目的を有する他の諸国と共同して、その目的に反対する国または国々に対して、侵略戦争を行うことであったと主張されている。
  この共同謀議に参画したとされている人のうちのある者が行った言明の中には、上に述べた誇大な言葉に符合するものがあることは疑いない。しかし、われわれの意見では、これらが個人の野望の発表以上のものであったということは、立証されていない。従って、たとえば、これらの共同謀議者が本気で南北アメリカの支配を確保しようと決意したことがあるというようなことは、われわれは考えない。共同謀議者の願望が具体的な共通の計画として現わされた限りでは、かえれが日本の支配の下に置こうと決意した領土は、東アジア、西及び西南太平洋、及びインド洋と、これらの大洋における島々の一部とに限られていたというのがわれわれの意見である。そこで、われわれは、起訴事実が上に述べた目的に限られていたものとして、訴因第一を取扱うことにする。
  まず第一に、われわれは、上に述べた目的をもった共同謀議の存在したことが立証されたかどうかを考慮することにする。
  すでに一九二八年より前に、最初の被告の一人であり、現在の精神状態を理由として本裁判から除外された大川は、日本は威嚇によって、必要とあれば武力の行使によって、その領土をアジア大陸に拡大せよと公然と唱道していた。また、日本は東部シベリアと南洋諸島を支配しようとつとめなければならないと唱道した。自分が唱道する道は、必ず東洋と西洋との戦争をもたらすものであって、その戦争において、日本は東洋の全史となるものであるとかれは予言した。この計画を唱道するについて、かれは日本の参謀本部の奨励と援助を受けた。この計画の目的として述べられたものこそ、実質的には、われわれの定義した共同謀議の目的であった。われわれは、事実の検討にあたって、この共同謀議の目的に関して、共同謀議者が後に行った多くの言明に留意した。それらは、重要な点では、大川がさきに行なったこの言明と少しも違っていない。
  一九二七年から一九二九年まで、田中が総理大臣であったときにすでに、軍人の一派は、大川やその他の官民の支持者とともに、日本は武力の行使によって進出しなければならないという、大川のこの政策を唱道していた。ここにおいて、共同謀議が存在した。一九四五年の日本の敗北まで、それは続いて存在した。田中が総理大臣であったときの当面の問題は、田中とその閣僚が希望したように、日本は―満洲を手初め〔ママ〕に―大陸における勢力拡大を平和的進出によって試みるべきか、それとも、共同謀議者が唱道したように、必要とあれば、武力の行使によって、その拡大を達成すべきかということであった。共同謀議者は、国民の支持と国民に対する支配をもつことがぜひとも必要であった。これが、武力によって自己の目的を達成することを主張した共同謀議者と、平和的手段によって、少く〔ママ〕とも武力を行使する時■をもっと慎重に選んで、日本の拡大をはかることを主張した政治家及び後になって官僚との、長い闘争の始まりであった。この闘争が最高潮に達するに至って、共同謀議者は日本の政府の諸機関の支配を獲得し、共同謀議の目的を達成するために計画された侵略戦争に向って、国民の精神と物的資源を準備し、組織統制することになった。反対を押し切るために、共同謀議者はまったく非立憲的な、ときにはまったく残酷な手段を用いた。宣伝と説得が多くの者をかれらの味方に引き入れたが、内閣の承認しない、または内閣の拒否を無視したところの、国外における軍事行動、反対派の指導者の暗殺、かれらと協力しようとしない内閣を武力によって倒そうという陰謀、首都を占拠し、政府を倒そうと企てた軍事的反乱さえも、共同謀議者が結局は日本の政治組織を支配するに至るために用いた戦術の一部であった。
  共同謀議者が国内の反対を押し切るに充分な力があると考えるにつれて、そして、後になって、かれらがついにこのような反対をまったく押し切ってしまったときに、日本が極東を支配しなければならないという、かれらの究極の目的を達成するために必要な攻撃を、かれらは次から次へと遂行していった。一九三一年には、かれらは中国に対する侵略戦争を開始し、満洲と熱河を占領した。一九三四年までには、かれらはすでに華北への浸透を開始し、その地方に駐兵し、かれらの目的に役立つように組織された傀儡諸政府を樹立していた。一九三七年から後には、大規模に中国に対する侵略戦争を続け、中国の大部分を侵略し、占領し、上述の形式に倣った傀儡諸政府を樹立し、日本の軍事上の必要と一般的な必要とに充てるために、中国の経済と天然資源の開発を行った。
  その間に、ソビエット連邦に対して行おうと企てていた侵略戦争を、すでに長期間にわたって、かれらは計画し、準備しつつあった。その意図は、都合のよい機会があったら、同国の極東諸領土を占拠することであった。かれらの東アジアの開発と西及び西南太平洋の島々に対する企図とは、脅威を受ける自国の権益と領土を保護(?)しようとするアメリカ合衆国、イギリス、フランス及びオランダとの紛争に、かれらを引きこむであろうということも、早くから認識していた。これらの国々に対する戦争についても、かれらは計画し、準備した。
  共同謀議者は、日本とドイツ及びイタリアとの同盟をもたらした。これらの両国の政策は、かれら自身のものと同様に、侵略的であった。かれらの中国における侵略的行動のために、日本は国際連盟の非難を招き、世界の外交界で友を失っていたので、外交の分野でも軍事の分野でも、かれらは両国の支持を希望したのである。
  かれらがソビエット連邦に対して企てていた攻撃は、種々の理由のために、ときどき延期された。その理由の中には、次のものがあった。(一)意外に多量の軍需物資を吸収する中国の戦争で、日本は手いっぱいであったこと、(二)一九三九年に、ドイツがソビエット連邦と不可侵条約を結び、これによって、当分の間、ソビエット連邦がその西部国境に攻撃を受ける脅威を免れ、もし日本が同国を攻撃したならば、東部諸領土の防衛のために、その兵力の大部を割くことができるかもしれなくなったことである。
  ついで、一九四〇年には、ドイツがヨーロッパ大陸で大きな軍事的成功を収めた。しばらくの間、イギリス、フランス及びオランダは、極東における自己の権益と領土に対して、充分な保護を与える力がなかった。合衆国の軍事的準備は、初期の段階にあった。共同謀議者には、かれらの目的のうちで、西南アジアと、西及び西南太平洋やインド洋における島々とを、日本が支配するようにしようとする部分を実現するために、このような好機(?)は容易に再び来るものではないと思われた。アメリカ合衆国との長い間の交渉で、中国に対する侵略戦争の結果として手に入れた収獲の重要な部分をすこしも手放そうとしなかったが、その交渉の後、一九四一年十二月七日に、共同謀議者は、合衆国とイギリス連邦に対して、侵略戦争を開始した。それより前に、一九四一年十二月七日の○○、○○時から日本とオランダとの間に戦争状態が存在すると述べた命令を、かれらはすでに発していた。かれらは仏印に軍隊を無理に進駐させることによって、すでに前から、フィリッピン、マレー及びオランダ領東印度に対する攻撃の発進地を確保していた。右の進駐は、もしその便宜が拒絶されたならば、軍事行動に出るという威嚇によって得たものであった。オランダは戦争状態の存在を認めたので、また、これらの共同謀議者が長い間計画し、今やそれを実行に移そうとしていたオランダ領の極東領土の侵略という差し迫った脅威に直面したので、自衛上日本に宣戦を布告した。
  侵略戦争を遂行するための、これらの広範な諸計画と、これらの侵略戦争に対する長期の、複雑な準備及びこれらの戦争の遂行は、一人の人間の仕事ではなかった。それらは、共通の目的を達成するために、共通の計画を推敲しようとして行動した多くの指導者の仕事であった。その共通の目的は、侵略戦争を準備し、遂行することによって、日本による支配を確保しようということであって、犯罪的な目的であった。侵略戦争を遂行する共同謀議、または侵略戦争を遂行することよりも、いっそう重大な犯罪は、まことに想像することができない。なぜなら、その共同謀議は世界の人民の安全を脅かし、その遂行はこの安全を破壊するからである。このような共同謀議からおそらく生ずる結果、またその遂行から必ず生ずる結果は、数知れぬ人間の上に、死と苦悶とが襲いかかるということである。
  本裁判所は、訴因第一に付属した細目に明記されているところの、条約、協定及び誓約に違反した戦争を遂行する共同謀議が存在したかどうかを考慮する必要を認めない。侵略戦争を遂行する共同謀議は、すでに最高度において犯罪的なものであった。
  本裁判所は、 すでに述べた目的に関する制限を付した上で、訴因第一に主張されている侵略戦争を遂行する犯罪的共同謀議が存在したことは立証されているものと認定する。
   全被告またはそのうちのだれかがこの共同謀議に参加したかどうかという問題は、各個人の件を取扱うときに考慮することにする。
   この共同謀議は、多年の期間にわたって存在し、また遂行されたものである。これらの共同謀議者は、すべてが最初に参加したわけではなく、また参加した者の一部は、それが終らないうちに、その遂行についての活動をすでにやめていた。どの時期にしても、罪であることを知りながら、その遂行に加担した者は、すべて訴因第一に含まれた起訴事実について有罪である。
   訴因第一について、われわれが認定したところにかんがみて、訴因第二と第三、または第四を取扱う必要はない。訴因第二と第三は、われわれが訴因第一について立証されていると認定した共同謀議よりも、いっそう限られた目的をもった共同謀議の立案または遂行を訴追するものであり、訴因第四は、訴因第一における共同謀議と同じものを、いっそう明細に訴追するものだからである。
  訴因第五は、訴因第一で訴追された共同謀議よりも、いっそう広範囲の、さらに一層誇大な目的をもった共同謀議を訴追している。われわれの意見としては、共同謀議者のうちのある者は、これらの誇大な目的の達成を明らかに希望していたけれども、訴因第五に訴追された共同謀議が立証されているという認定を正当化するには、証拠が不充分である。
  この判決の前の部分で挙げた理由によって、われわれは訴因第六ないし第二十六と、第三十七ないし第五十三とについては、なんの宣告も下す必要がないと考える。従って、残るのは訴因第二十七ないし第三十六、第五十四及び第五十五だけである。これらの訴因について、われわれはここで認定を与えることにする。
  訴因第二十七ないし第三十六は、これらの訴因に挙げられた諸国に対して、侵略戦争並びに国際法、条約、協定及び誓約に違反する戦争を遂行したという罪を訴追している。さきほど終った事実論において、フィリッピン国(訴因第三十)とタイ王国(訴因第三十四)を除いて、それらの国のすべてに対して、侵略戦争が行なわれたものとわれわれは認定した。フィリッピンについては、われわれがこれまで述べてきたように、この国は戦争中完全な主権国ではなかったし、国際関係に関する限り、アメリカ合衆国の一部であった。さらに、侵略戦争がフィリッピンで行われたことは疑う余地がないとわれわれは述べたが、理論的正確を期するために、フィリッピンにおける侵略戦争はアメリカ合衆国に対して行われた侵略戦争の一部であるとわれわれは考えることにする。
  訴因第二十八は、訴因第二十七に挙げられた期間よりも短い期間に、中華民国に対して、侵略戦争を行ったことを訴追している。われわれは、訴因第二十七に含まれたところの、さらに完全な起訴事実が立証されていると認めるから、訴因第二十八については、なんの宣告も下さないことにする。
  侵略戦争が立証されたのであるから、それ以外の点で、それらの戦争が国際法にも違反し、または条約、協定及び誓約にも違反した戦争であったかどうかを考慮することは、不必要である。従って、本裁判所は、侵略戦争が訴因第二十七、第二十九、第三十一、第三十二、第三十三、第三十五及び第三十六に主張されているように遂行されたということは、立証されているものと認定する。
  訴因第五十四は、通例の戦争犯罪の遂行を命令し、授権し、許可したことを訴追している、訴因第五十五は、捕虜と一般人抑留者に関する条約と戦争法規の遵守を確保し、その違反を防ぐために、充分な措置をとらなかったことを訴追している。われわれは、これらの両方の訴因に含まれた犯罪が立証されている事例があったと認定する。
  以上の認定の結果として、われわれは、個々の被告に対する起訴事実は、次の訴因だけについて、考慮しようとするものである。すなわち、第一、第二十七、第二十九、第三十一、第三十二、第三十三、第三十五、第三十六、五十四及び第五十五である。
 
Ⅽ部
第十章 
判定
英文 一一四五―一二一一頁
一九四八年十一月一日

Ⅽ部
第十章
判定 

  本裁判所は、これから、個々の被告の件について、判定を下すことにする。
  裁判所条例第十七条は、判決にはその基礎となっている理由を付すべきことを要求している。これらの理由は、いま朗読を終った事実の叙述と認定の記述との中に述べられている。その中で、本裁判所は、係争事項に関して、関係各被告の活動を詳細に検討した。従って、本裁判所は、これから朗読する判定の中で、これらの判定の基礎となっている多数の個個の認定を繰返そうとするものではない。本裁判所は、各被告に関する認定については、その理由を一般的に説明することにする。これらの一般的な理由は、すでに挙げた叙述の中における個々の記述と認定とに基いているものである。


荒木貞夫

  被告荒木貞夫は、訴因第一で、侵略戦争と国際法、条約、協定及び誓約に違反する戦争とを遂行する共同謀議について訴追されている。かれは、また、このような戦争の遂行について、訴因第二十七、第二十九、第三十一、第三十二、第三十三、第三十五、及び第三十六でも訴追されている。訴因第五十四と第五十五では、中国において犯された戦争犯罪の責任について訴追されている。すべての重要な期間において、かれは高級の陸軍将校であった。一九二七年に中将、一九三三年に大将になった。全期間を通じて、かれは陸軍の階級組織の下で、顕著な人物であった。
  かれは、国内では政治的支配、国外では軍事的侵略という陸軍の政策の熱心な提唱者であった。実際において、かれは陸軍のこの運動の顕著な指導者の一人であり、またそう認められていた。いろいろな内閣の閣僚として、日本の青年の好戦的精神を鼓舞したり、戦争に備えて日本の物的資源を動員したり、
演説や新聞統制を通じて、日本の国民を戦争へと煽動し、準備したりすることによって、侵略戦争の準備をする陸軍の政策を促進した。政治的な地位に就いているときも、就いていないときも、隣国を犠牲にして、日本を豊かにしようとする軍部派の政策の立案を助け、その強力な唱道者であった。満洲と熱河を中国から政治的に分離させ、日本の支配する政府を樹立し、その経済を日本の支配下に置こうとして、日本の陸軍が右の地域でとった政策をかれは承認し、積極的に支持した。本裁判所は、かれが訴因第一に述べられている共同謀議の指導者の一人であったと認定し、同訴因について、かれを有罪と判定する。
  荒木は、満洲で中華民国に対する侵略戦争が開始された後、一九三一年十二月に、陸軍大臣に就任した。一九三四年一月まで、かれは引続き陸軍大臣であった。その期間を通じて、満洲と熱河でとられた軍事的と政治的の諸政策の進展と実行について、かれは顕著な役割を演じた。中国の領土のその部分を占領するために、相ついでとられた軍事的措置に対して、かれはできる限りの支持を与えた。一九三八年五月から一九三九年八月まで、荒木は文部大臣であり、その資格において、中国の他の部分における軍事作戦を承認し、それに協力した。中国における戦争は、一九三一年以後、侵略戦争であったものとわれわれは認定した。そして、この被告はその戦争の遂行に参加したものと認定する。従って、われわれは、訴因第二十七について、かれを有罪と認定する。
  訴因第二十九、第三十一、第三十二、第三十三、第三十五及び第三十六に挙げられている戦争に、かれが積極的に参加したという証拠はない。われわれは、これらのすべての訴因について、かれを無罪と判定する。戦争犯罪については、かれにこのような犯罪に対して責任があるという証拠はない。従って、われわれは、訴因第五十四と第五十五について、かれを無罪と判定する。


土肥原賢二
 
  被告土肥原賢二は、訴因第一、第二十七、第二十九、第三十一、第三十二、第三十三、第三十五、第三十六、第五十四及び第五十五で訴追されている。
  ここで取扱っている期間の初めに、土肥原は日本陸軍の大佐であり、一九四一年四月には将官の階級に達していた。満洲事変の前に、約十八年間中国にいたことがあり、陸軍部内で中国に関する専門家と見做されるようになっていた。かれは、満洲で遂行された中国に対する侵略戦争の開始及び進展と、その後における、日本に支配された満州国の建設とに、密接に関係していた。中国の他の地域でも、日本の軍部派の侵略政策がとられるにつれて、土肥原は、政治的の謀略と、武力による威嚇と、武力の行使とによって、それを進展させることに顕著な役割を演じた。
  土肥原は、東アジアと東南アジアを日本の支配下に置こうとして、軍部派の田の指導者がその計画を立案、準備及び遂行するにあたって、かれらと密接に連絡して行動した。
  中国についてのかれの特別な知識と、中国において謀略を行うかれの能力とがもう必要でなくなったときに、現地の将官として用いられ、自分が参画していた共同謀議の目的の達成に当った。かれは、中国に対してばかりでなく、ソビエット連邦に対しても、また、一九四一年から一九四五年まで日本が侵略戦争を行った諸国のうち、フランス共和国を除いて、その他の諸国に対しても、侵略戦争の遂行に参加した。一九三八年と一九三九年に、ソビエット連邦に対して遂行された戦争については、土肥原は参謀本部付の中将であり、この参謀本部はハサン湖の戦闘について最高の指揮権をもっていたものであった。ノモンハンでは、かれの指揮下にあった陸軍の諸部隊が戦闘に参加した。
  フランス共和国に対する戦争の遂行(訴因第三十三)については、この戦争の遂行の決定は、一九四五年二月に、最高戦争指導会議によって行われた。被告はこの決定に参加していなかったのであり、かれがこの戦争の遂行に参加したことを証拠は立証していない。
  われわれは、訴因第一における侵略戦争遂行の共同謀議と、訴因第二十七、第二十九、第三十一、第三十二、第三十五及び第三十六で訴追されている侵略戦争の遂行とについて、かれを有罪と判定する。訴因第三十三については、かれは無罪である。
  土肥原は、一九四四年四月から一九四五年四月まで、第七方面軍の指揮官であった。この指揮権には、マレー、スマトラ、ジャワ及び一時はボルネオが含まれていた。かれの指揮する地区内の捕虜を、殺害と拷問から保護することに対するかれの責任の範囲については、証拠が矛盾している。少くともかれらに食物と医薬品を供給することについて、かれは責任があった。これらの供給に関して、かれらがはなはだしく虐待されたということは、証拠によって明か〔ママ〕である。捕虜は食物を充分に与えられず、栄養不良と食餌の不足による病気とに基く死亡が驚くべき率で発生した。これらの状態は、捕虜にだけあてはまったことであり、かれらを捕えた者の間には起らなかった。弁護のために、これらの地区における日本の戦局が悪くなり、交通が絶えたので、捕虜に対するいっそうよい補給を維持することができなくなったということが主張された。証拠の示すところでは、食物と医薬品とは手に入れることができたのであり、それを捕虜の恐るべき状態を緩和するために用いることができたはずである。これらの補給は、土肥原がその責任を負うべき方針に基いて差止められた。これらの事実の認定に基いて、土肥原の犯罪は、訴因第五十五よりも、むしろ訴因第五十四に該当する。従って、訴因第五十四について、かれを有罪と判定し、訴因第五十五については、われわれはなんらの判定も下さない。 


橋本欣五郎
 
  橋本は、訴因第一、第二十七、第二十九、第三十一、第三十二、第五十四及び第五十五で訴追されている。
  かれは陸軍将校であって、早くから共同謀議に参加した。それ以来、かれのできる限りの手段を尽して、その目的の達成を助長した。共同謀議者のうちで、かれほど極端な見解をもっていた者はない。これらの見解を述べるにあたって、かれほど露骨であった者はない。初めには、かれは、武力で満洲を占拠することによる日本の対外進出を唱えた。時がたつにつれて、共同謀議者の目的を達成するために、日本のすべての隣国に対する武力の使用を唱えた。
  かれは、軍の独裁制による政治の熱烈な称賛者であった。かれは政党をひどくきらっていた。政党は日本の政治においてある程度の役割を演じ、共同謀議者が実行しようと決意していた征服の計画に反対していたのである。共同謀議者がついに日本における民主主義的分子の反対を弾圧し、政府の支配を握るに至った諸活動において、かれは多くの場合に、首謀者の一人であった。この支配がなければ、かれらの侵略的な計画は達成することができなかったであろう。このようにして、たとえば、かれは一九三一年の三月と十月の陰謀の首謀者の一人であった。これらの陰謀は、そのときの内閣をくつがえし、それに代って共同謀議者を支持する内閣をつくろうとしたものであった。かれは一九三二年五月の陰謀にも加担した。その陰謀の目的と結果は、民主主義を擁護し、共同謀議者の政策に反対したところの、総理大臣犬養の暗殺であった。かれの著作と、かれが創立または後援した団体の活動とが主として目標としたのは、民主主義を破壊することと、日本の対外進出の達成を目的として、戦争に訴えるのに、いっそう都合のよい政治体制を確立することとであった。
  奉天事件の発生を計画し、それによって、満洲を占拠する口実を陸軍に与えるようにするについても、かれはある程度の役割を演じた。満洲の占拠と日本の国際連盟脱退とについて、ある程度の力があったと、かれはみずから主張した。
  共同謀議の初期の数年が過ぎてから、それを遂行する上において、かれが目立っていたのは、主として宣伝者としてであった。かれは多作の政治評論家であった。 日本の隣国の領土を手に入れたいという日本国民の欲望を刺激したり、これらの領土を獲得するために、戦争を行うように、日本の世論を煽ったり、同じような対外進出計画に専念していたドイツ及びイタリアとの同盟を唱道したり、共同謀議の目的であった領土拡大の計画を行わないことを、諸条約によって日本が約束していたのに、その条約を非難したり、日本が武力によって、または武力を用いるという威嚇によって、これらの目的を達成することができるように、日本の軍備の大拡張を要求する煽動を熱烈に支持したりすることによって、かれは共同謀議の成功に貢献した。
  かれは共同謀議の成立について首謀者であり、その遂行に大いに貢献した。
  訴因第二十七については、かれは最初に武力による満州の選挙を画策した後、満洲占拠の口実となるように、奉天事件を計画するについて、ある程度の役割を演じた。このように、中国に対する戦争が侵略戦争であることを充分に知っており、またこの戦争をもたらそうと共同謀議した者の一人であったから、その成功をもたらすために、かれは自分の力でできる限りのことを行った。しばらくの間、かれは実際に現地の軍隊の指揮官であった。それによって、訴因第二十七で訴追されている中国に対する侵略戦争をかれは遂行した。
  訴因第二十九、第三十一、第三十二、第五十四または第五十五で訴追されている犯罪のどれにも、橋本を直接に結びつける証拠はない。本裁判所は、これらの訴因については、かれを無罪と判定する。
  本裁判所は、訴因第一と第二十七について、橋本を有罪と判定する。


畑俊六
 
  畑は、訴因第一、第二十七、第二十九、第三十一、第三十二、第三十五、第三十六、第五十四及び第五十五で訴追されている。
  一九三九年八月、阿部内閣が成立したときに、畑は陸軍大臣に就任し、一九四〇年七月に、米内内閣が瓦解するときまで、引続いてその職にあった。閣僚の地位にあったのは一年足らずであったが、侵略的諸計画の立案と実行に実質的な貢献をした。かれは陸軍大臣として、政府の政策に相当な影響を及ぼした。中国における戦争は、勢いを新たにして遂行され、汪精衛政府が南京に樹立され、仏印を支配する計画が進められ、オランダ領東印度に関する事項について、オランダとの交渉が行われた。
  畑は、東アジアと南方諸地域を日本が支配することに賛成した。この目的を達成するために、たとえば、政党を廃止し、これに代えて、大政翼賛会を設けることに賛成し、また他の高級の軍当局者と協力し、これらと協議した上で、米内内閣の瓦解を急に早め、それによって、ドイツとの完全な同盟と、日本において事実上の全体主義国家を確立することとのために道を開いた。
  その後、一九四一年三月から、中国における派遣軍の総司令官として、一九四四年十一月まで、同国で引続き戦争を遂行した。
  かれは、日本陸軍部内における現役軍人の最高地位の一つであった教育総監として、中国と西洋諸国に対して、引続き戦争を遂行した。
  ハサン湖の敵対行為が起ったときには、畑は華中にいた。ノモンハン事件のときには、侍従武官長であり、この事件が終る一週間と少し前に、陸軍大臣になった。本裁判所は、このいずれの戦争の遂行にも、畑は参加しなかったという意見である。

戦争犯罪
  一九三八年に、また一九四一年から一九四四年まで、畑が中国における派遣軍を指揮していたときに、かれの指揮下の軍隊によって、残虐行為が大規模に、しかも長期間にわたって行われた。畑は、これらのことを知っていながら、その発生を防止するために、なんらの措置もとらなかったか、それとも、無関心であって、捕虜と一般人を人道的に取扱う命令が守られているかどうかを知るために、なんらの方法も講じなかったかである。どちらの場合にしても、訴因第五十五で訴追されているように、かれは自己の義務に違反したのである。
  本裁判所は、訴因第一、第二十七、第二十九、第三十一、第三十二及び第五十五について、畑を有罪と判定する、訴因第三十五、第三十六及び第五十四については、かれは無罪である。
  

平沼騏一郎
 
  平沼は、訴因第一、第二十七、第二十九、第三十一、第三十二、第三十三、第三十五、第三十六、第五十四及び第五十五で起訴されている。かれが共同謀議の一員となったのは、その当初においてでないとしても、その後間もなくであった。かれは枢密顧問官であり、一九三六年から、一九三九年に総理大臣になるまで、枢密院議長であった。その後、第二次と第三次の近衛内閣で、相ついで無任所大臣と内務大臣をつとめた。
  枢密顧問官であった間、軍閥の侵略的計画を実施することに関連して、同院に提出された種々の方策をかれは支持した。総理大臣として、また大臣として、かれはこれらの計画を引続いて支持した。
  一九四一年十月十七日から一九四五年四月十九日まで、被告は重臣の一人であった。西洋諸国と平和か戦争かという問題について、天皇に進言するために、一九四一年十一月二十九日に開かれた重臣会議で、被告は、戦争は避けられないという意見を容認し、長期戦の可能性に対して、世論を強化することを勧告した。 
  一九四五年四月五日に開かれた重臣会議で、被告は、講和のためのどのような申入をすることにも強く反対し、日本は最後まで戦わなければならないと主張した。
  起訴状に挙げられた全期間において、平沼は、必要とあれば、武力によっても日本が東アジアと南方を支配するという政策の支持者であったばかりではなく、共同謀議の指導者の一人であり、その政策を推進することについて、積極的な参加者であった。この政策を実行するについて、かれは中国、アメリカ合衆国、イギリス連邦諸国、オランダ、及び一九三九年にはソビエット連邦に対して戦争を遂行した。
  本裁判所は、訴因第一、第二十七、第二十九、第三十一、第三十二及び第三十六について、被告平沼を有罪と判定する。
  訴因第三十三、第三十五、第五十四及び第五十五で訴追されている犯罪に、かれを直接に結びつける証拠はない。従って、われわれは、これらの訴因について、かれを無罪と判定する。 


廣田弘毅

  廣田は、訴因第一、第二十七、第二十九、第三十一、第三十二、第三十三、第三十五、第五十四及び第五十五で起訴されている。
  廣田は、一九三三年から、一九三六年三月に総理大臣になるまで、外務大臣であった。一九三七年二月に、かれの内閣が倒れてから四カ月の間、公職に就いていなかった。一九三八年五月まで、第一次近衛内閣において、再び外務大臣であった。それ以後は、かれと公務の関係は、ときどき重臣会議に出席し、総理大臣の任命とその他同会議に提出された重要な問題について勧告することに限られていた。
  一九三三年から一九三八年まで、廣田がこれらの高い職務に就いていたときに、満洲で日本が獲得したものは、その基礎を固められ、日本のために利用されつつあった。また、華北の政治経済生活は、中国の政治経済生活を日本が支配する準備として、華北を中国の他の地域から分離するために、『指導』されつつあった。一九三六年に、かれの内閣は、東アジアと南方地域における進出の国策を立案し、採用した。広範な影響のあるこの政策は、ついには一九四一年の日本と西洋諸国との間の戦争をもたらすことになった。やはり一九三六年に、ソビエット連邦に関する日本の侵略的政策が繰返され、促進されて、その結果が防共協定となった。
  中国における戦争が再び始められた一九三七年七月七日から、廣田の在任期間を通じて、中国における軍事作戦は、内閣の全面的支持を受けた。一九三八年の初めにも、中国に対する真の政策が明らかにされ、中国を征服して、中国国民政府を廃止し、その代りに、日本が支配する政府を樹立するために、あらゆる努力が払われた。
  一九三八年の初めに、人的資源、産業資源、潜在的資源及び天然資源を動員する計画と法令が可決された。この計画は、要点ではほとんど変更されないで、その後の数年間を通じて、中日戦争を継続し、さらにいっそうの侵略戦争を遂行する準備の基礎となった。廣田はこれらの計画と活動をすべて充分に知っており、そしてこれを支持した。
  廣田は、非常に有能な人物であり、また強力な指導者であったらしく、このように、在任期間を通じて、軍部といろいろの内閣とによって採用され、実行された侵略的計画について、ある時には立案者であり、またある時には支持者であった。
  弁護側は、最終弁論において、廣田のために、かれが平和と、紛争問題の平和的すなわち外交的交渉とを終始主張したことを裁判所が考慮するように要望した。廣田は外交官としての訓練に忠実であって、紛争をまず外交機関を通じて解決するようにつとめることを終始主張したことは事実である。しかし、そうするにあたって、日本の近隣諸国の犠牲において、すでに得られたか、得られると期待されるところの、利得または期待利得のどれをも、犠牲にすることを絶対に喜ばなかったこと、もし外交交渉で日本の要求が満たされるに至らないときは、武力を行使することに終始賛成していたことは、十二分に明らかである。従って、本裁判所は、この点について申立てられた弁護を、この被告に罪を免れさせるものとして、受理することはできない。
  従って、本裁判所は、少く〔ママ〕とも一九三三年から、廣田は侵略戦争を遂行する共通の計画または共同謀議に参加したと認定する。外務大臣として、かれは中国に対する戦争の遂行にも参加した。
  訴因第二十九、第三十一及び第三十二についていえば、重臣の一人として一九四一年における廣田の態度と進言は、かれが西洋諸国に対する敵対行為の開始に反対していたことと、よく首尾一貫している。かれは一九三八年以後は公職に就かず、これらの訴因で述べられている戦争の指導については、どのような役割も演じなかった。提出された証拠は、これらの訴因について、かれの有罪を立証しないと本裁判所は認定する。
  訴因第三十三と第三十五については、ハサン湖における、または一九四五年の仏印における軍事作戦に、廣田が参加し、またはこれを支持したという証拠はない。
  戦争犯罪については、訴因第五十四に主張されているような犯罪の遂行を、廣田が命令し、授権し、または許可したという証拠はない。
  訴因第五十五については、かれをそのような犯罪に結びつける唯一の証拠は、一九三七年十二月と一九三八年一月及び二月の南京における残虐行為に関するものである。かれは外務大臣として、日本軍の南京入城直後に、これらの残虐行為に関する報告を受け取った。弁護側の証拠によれば、これらの報告は信用され、此の問題は陸軍省に照会されたということである。陸軍省から、残虐行為を中止させるという保証が受取られた。この保証が与えられた後も、残虐行為の報告は、少くとも一カ月の間引続いてはいってきた。本裁判所の意見では、残虐行為をやめさせるために、直ちに措置を講ずることを閣議で主張せず、また同じ結果をもたらすために、かれがとることができた他のどのような措置もとらなかったということで、廣田は自己の義務に怠慢であった。何百という殺人、婦人に対する暴行、その他の残虐行為が、毎日行われていたのに、右の保証が実行されていなかったことを知っていた。しかも、かれはその保証にたよるだけで満足していた。かれの不作為は、犯罪的な過失に達するものであった。
  本裁判所は、訴因第一、第二十七及び第五十五について、廣田を有罪と判定する。訴因第二十九、第三十一、第三十二、第三十三、第三十五及び第五十四については、かれは無罪である。


星野直樹
 
  星野は、訴因第一、第二十七、第二十九、第三十一、第三十二、第三十三、第三十五、第五十四及び第五十五で訴追されている。
  被告星野は、一九三二年に満洲へ行くまで、日本の大蔵省に勤務していた。かれは満洲国財政部と満洲国総務庁の高級官吏になるために、日本の政府によって満洲へ派遣された。一九三六年までに、かれは満洲国財政部次長と満洲国国務院総務庁長になっていた。これらの地位において、かれは満洲国の経済に深く勢力を及ぼすことができたし、満洲国の商工業の発展を日本が支配するように、この勢力を実際に用いた。かれは、満洲国の事実上の支配者であった関東軍司令官と、緊密に協力して活動した。名目上はともあれ、実際には、かれは、満洲国の資源を日本の軍事上の目的に役立たせることを目標とする経済政策をとっていた関東軍の職員であった。
   名目上は満洲国政府の官吏であり、八年間そうであったが、一九四〇年に無任所大臣と企画院総裁になるために、日本へ呼びもどされた。この地位において、当時中国において遂行されつつあった侵略戦争の継続と、東アジアに属地をもつ他の諸国を目標として当時企てられていた侵略戦争とに対して、日本の用意を整えるために、当時とられていた特別な措置について、かれは指導者であった。
  かれが内閣を去った一九四一年四月から、戦争準備に関連するかれの公け〔ママ〕の任務は減ったが、全然なくなったわけではなかった。
  被告東条が一九四一年十月に総理大臣として就任すると、星野は内閣書記官長になり、やがて企画院参与になった。このときから、かれは、一九四一年十二月に日本が攻撃した諸国に対して、すでに決定され、今や間もなく遂行されることになっていた侵略戦争のためのすべての準備に、密接な関係があった。
  一九三二年から一九四一年までの全期間を通じて、かれは起訴状の訴因第一に挙げられている共同謀議で活躍した一員であり、従って、この訴因について、有罪と判定される。かれは侵略戦争遂行の共同謀議をしたばかりでなく、かれの次々に占めた公的地位において、訴因第二十七、第二十九、第三十一及び第三十二に述べられている侵略戦争の遂行に直接参加した。これらの訴因全部についても、かれは有罪と判定される。
  かれは、訴因第三十三と第三十五で訴追されている戦争に参加したということは立証されていないので、これらについては、無罪と判定される。
  かれを訴因第五十四と第五十五で訴追されている犯罪に結びつける証拠はないので、これらについても、かれは無罪と判定される。 


板垣征四郎
 
  被告は、訴因第一、第二十七、第二十九、第三十一、第三十二、第三十三、第三十五、第三十六、第五十四及び第五十五で訴追されている。
  一九三一年になると、当時大佐で関東軍参謀部にいた板垣は、日本が武力によって満洲を占拠するということを、その当時は直接の目的としていた共同謀議に参加していた。かれはこの目的を支持する煽動を行い、軍事行動の口実として、いわゆる『満洲事変』を引き起すことに協力し、この軍事行動を防止しようとするいくつかの企てを抑圧し、この軍事行動を承認し、指導した。
  次に、虚偽の満洲独立運動を助長し、その結果として傀儡満洲国が樹立されるに至った陰謀において、かれは主要な役割を演じた。
  かれは一九三四年十二月に関東軍参謀副長となり、それから後は、内蒙古と華北で傀儡政権を樹立することに活躍した。かれは、ソビエット連邦の領土に対する脅威となるように、日本の軍事占領を外蒙古にまで拡大したいと思っていた。かれは、日本の華北侵略の口実とすうるために、『反共』という言葉をつくり出した者の一人であった。
  一九三七年七月に、蘆溝橋で戦闘が起ったときに、かれは日本から中国に派遣され、師団長として戦闘に参加した。かれは中国で侵略地域が広がることに賛成した。
  一九三八年五月に、かれは近衛内閣の陸軍大臣となった。かれのもとで、中国に対する攻撃は激しくなり、拡大した。中国の国民政府を打倒し、その代りに、傀儡政権を樹立しようと試みることを決定した重要な閣議にかれは参加した。ついで、汪精衛の傀儡政権の樹立をもたらした準備工作について、かれは大いに責任があった。日本のために、中国の占領地域を開発する取極めにかれは参加した。
  平沼内閣の陸軍大臣として、かれは再び中国に対する戦争の遂行と日本の軍事拡張とについて責任があった。閣内では、かれは日本、ドイツ、イタリア間の無制限軍事同盟の強力な主唱者であった。
  陸軍大臣として、かれは、ハサン湖におけるソビエット連邦に対する武力の行使について、策略によって天皇の同意を得ようとした。その後、五相会議で、かれはこのような武力行使の承認を得た。ノモンハンにおける戦闘中も、かれはまだ陸軍大臣であった。 
  かれは、東アジアと南方における日本のいわゆる『新秩序』の生命の強力な支持者であった。新秩序を建設しようとする企ては、これらの地域のそれぞれの属地を防衛しようとするソビエット連邦、フランス及びイギリスとの戦争を引き起す結果となるに違いないということを、かれは認識していた。
  一九三九年九月から一九四一年七月まで、支那派遣軍の参謀長として、かれは中国に対する戦争を遂行した。
  一九四一年七月から一九四五年四月まで、かれは朝鮮軍の司令官であった。一九四五年四月から降伏の日まで、かれはシンガポールに司令部のあった第七方面軍を指揮した。かれの指揮する軍隊は、ジャワ、スマトラ、マレー、アンダマン及びニコバル諸島、ボルネオを防衛した。
  かれは、中国、アメリカ合衆国、イギリス連邦、オランダ及びソビエット連邦に対して侵略戦争を遂行する共同謀議を行い、これらの戦争がしんりゃくせんそうであることを尻乍ら、その遂行に積極的で重要な役割を演じた。
  本裁判所は、訴因第一、第二十七、第二十九、第三十一、第三十二、第三十五及び第三十六について、板垣を有罪と判定する、訴因第三十三については、かれは無罪である。

戦争犯罪
  一九四五年四月から降伏まで、板垣が指揮していた地域は、ジャワ、スマトラ、マレー、アンダマン及びニコバル諸島、ボルネオを包含していた。右の期間中、何千という捕虜と抑留者がこれらの地域の収容所に収容されていた。
  かれが提出した証言によれば、これらの収容所は、シンガポールにあるものを除いて、かれの直接の指揮下にはなかったが、かれはこれらの収容所に食糧、医薬品及び医療設備を供給する責任をもっていた。
  この期間中、これらの収容所における状態は、言葉でいえないほど悪かった。食糧、医薬品及び医療設備の供給は、はなはだしく不充分であった。栄養不足による病気がはびこり、その結果として、毎日多くの者が死亡した。降伏の日まで生き残った者は、哀れな状態にあった。降伏後に、収容所が視察されたときは監視員の間には、そのような状態は見られなかった。 
  捕虜と抑留者とのこの残虐な取扱いに対する板垣の弁解は、日本の船舶に対する連合国の攻撃によって、これらの地域への補給物資の輸送がはなはだ困難になったこと、手もとにあった補給物資で、かれはできるだけのことをしたということである。しかし、降伏後には、食糧と医薬品の補給は、板垣の軍隊によってシンガポール、ボルネオ、ジャワ及びスマトラの収容所の使用に当てることができた。板垣のための証拠及び弁論として申立てられた説明では、日本側は長期戦を予想し、補給品を使わないで保存していたというのである。このことは、板垣が捕虜と抑留者をはなはだしく非人道的に取扱ったのは、当時の一般的な事情からすれば、正当な理由があったと主張するに等しい。本裁判所は、躊躇なく、この弁護を却下する。何千という捕虜と抑留者への補給について責任があったのであるから、その補給が将来維持できないとわかったならば、戦争法規に基くかれの義務としては、手もとにある補給品を分配し、その間に、上官に対して、将来捕虜と抑留者を扶養するために、必要とあれば、連合国に連絡して、手配をしなければならないと通告することであった。かれのとった方針によって、かれは自分が適当に扶養すべき義務のあった何千という人人の死亡または苦痛に対して責任がある。
  本裁判所は、訴因第五十四について、板垣を有罪と判定する。土肥原の場合と同じく、本裁判所は、訴因第五十五については、判定を行わない。 


賀屋興宣
 
  被告賀屋は、訴因第一、第二十七、第二十九、第三十一、第三十二、第五十四及び第五十五で訴追されている。
  賀屋は文官であった。
  一九三六年に、かれは対満事務局参与に任命され、一九三七年二月に、大蔵次官になった。一九三七年六月に、第一次近衛内閣の大蔵大臣に任命され、一九さん八年五月まで、この地位を占めていた。一九三八年七月に、大蔵省顧問になった。一九三九年七月に、興亜委員会の委員に、またその年の八月に、北支那開発会社の総裁に任命され、一九四一年十月に東条内閣の大蔵大臣になるまで、その地位に留まっていた。一九四四年二月に、大蔵大臣を辞職したが、再び大蔵省顧問になった。
  これらの地位において、かれは、日本の侵略的な諸政策の樹立と、それらの政策の遂行のための日本の財政上、経済上、産業上の準備とに参加した。
  この期間を通じて、特に第一次近衛内閣と東条内閣との大蔵大臣として、また北支那開発会社総裁として、かれは、中国における侵略戦争と西洋諸国に対する侵略戦争との準備と遂行とに積極的に十時した。かれは、訴因第一に主張されている共同謀議の積極的な一員であり、この訴因について、有罪と判定される。
  賀屋は、かれが占めたいろいろの地位において、起訴状の訴因第二十七、第二十九、第三十一及び第三十二に主張されている侵略戦争の遂行に、主要な役割を果たした。従って、これらの訴因について、かれは有罪と判定される。
  戦争犯罪に対して、賀屋に責任があることを、証拠は示して居ない。従って、訴因第五十四及び第五十五については、かれは無罪と判定される。


木戸幸一
 
  被告木戸幸一は、訴因第一、第二十七、第二十九、第三十一、第三十二、第三十三、第三十五、第三十六、第五十四、及び第五十五で訴追されている。
  一九三〇年から一九三六年まで、木戸は内大臣の秘書官長として、宮中の職員であった。この期間中、かれは満洲における軍事上と政治上の企ての真の性質を知っていた。しかし、このときには、軍部とその支持者によって始められた共同謀議には、かれは関係がなかった。
  一九三七年に、木戸は文部大臣として第一次近衛内閣に加わり、また一時厚生大臣であった。一九三九年に、平沼が総理大臣になると、木戸は内務大臣に任命され、一九三九年八月まで、引続いて閣僚であった。一九三七年から一九三九年までのこの期間に、木戸は共同謀議者の見解を採用し、かれらの政策のために、一意専心努力した。中国における戦争は、その第二の段階にはいっていた。木戸はこの戦争の遂行に熱意をもち、中国と妥協することによって、戦争を早く終らせようとする参謀本部の努力に対して、反抗さえしたほどであった。かれは中国の完全な軍事的と政治的の支配に懸命であった。
  このようにして、木戸は、中国における共同謀議者の計画を支持したばかりではなく、文部大臣として、日本における強い好戦的精神の発展に力を尽した。
  一九三九年八月から、一九四〇年六月に内大臣になるまで、木戸は近衛とともに、近衛を総裁とし、木戸を副総裁とする単一組織によって、既成政党に代える計画を進めることに活動した。この一党制度は、日本に全体主義的な制度を与え、それによって、共同謀議者の計画に対する政治的な抵抗を除くものと期待された。
  内大臣として木戸は、共同謀議を進めるのに、特に有利な地位にあった。かれのおもな任務は、天皇に進言することであった。かれは政治上の出来事に密接な接触を保っており、これに最も関係の深い人々と政治的にも個人的にも親密な間柄にあった。かれの地位は、非常に勢力のあるものであった。かれはこの勢力を天皇に対して用いたばかりでなく、政治的策略によって共同謀議の目的を促進するようにも用いた。中国及び全東アジアとともに、南方の諸地域の支配を含むところの、これらの目的にかれも共鳴していた。
   西洋諸国に対する戦争開始のときが近づくにつれて、完全な成功については、海軍部内で疑念が抱かれていたために、木戸はある程度の躊躇を示した。このように気おくれしている状態でも、木戸は中国に対する侵略戦争の遂行を決意していたし、もう確信が薄らいでいたにもかかわらず、イギリスとオランダに対して、また必要となれば、アメリカ合衆国に対して企てられていた戦争に、力を尽した。海軍の疑念が除かれると、木戸の疑念も除かれたようである。かれは再び共同謀議の全目的の達成をはかり始めた。そのときまで、西洋諸国と直ちに戦争することをあくまで主張していた東条を、総理大臣の地位に就かせることに、かれは主として力があった。その他の方法でも、かれはその地位を利用して、このような戦争を支持し、またはそれを阻止するおそれのある行動を故意に避けた。最後のときにも、またもっと有効であったはずの初期においても、かれは天皇に対して、戦争に反対の態度をとるように進言することをしなかった。
  検察側は、訴因第三十三、第三十五と第三十六で述べられている戦争に対して、木戸の有罪を示す証拠を提出していない。
   戦争犯罪に関しては、南京において残虐行為が行われた際に、木戸は閣僚であった。それを防止しなかったことに対する責任をかれに負わせるには、証拠が充分でない。一九四一年の西洋諸国に対する戦争中とその後には、木戸の地位は、犯された残虐行為に対して、かれに責任があるとすることのできないようなものであった。
  訴因第一、第二十七、第二十九、第三十一及び第三十二における起訴事実について、木戸は有罪と判定され、訴因第三十三、第三十五、第三十六、、第五十四及び第五十五については、無罪と判定される。
 
木村兵太郎

  木村は、訴因第一、第二十七、第二十九、第三十一、第三十二、第五十四及び第五十五で起訴されている。
  陸軍将校である木村は、審理の対象となっている期間の大部分を通じて、陸軍省で行政的な事務に携わっていたが、最後には、一九四一年四月に陸軍次官になった。その後、企画院参与と総力戦研究所顧問に任命された。一九四三年三月に、陸軍次官の任を解かれ、一九四四年八月に、ビルマ方面軍司令官になり、一九四五年に日本が降伏するまで、この任にあった。
  陸軍次官として勤務していた間、かれはほとんど毎日陸軍大臣とその他の大臣、次官及び局長と接触して、合衆国との重大な交渉の間における政府の決定と措置のすべてを知る地位にあり、実際にいつも充分に知らされていた。太平洋戦争と中国における敵対行為との計画と準備とについて、かれは完全な知識をもっていた。全期間を通じて、かれは侵略的な計画に全幅の支持を与え、かれの広い経験に基いて時々進言を行って、陸軍大臣及び他の省と提携し、協力した。
  指導者ではなかったが、かれは、かれ自身によって発意されたか、参謀本部または他の機関によって提案され、かれによって承認され、支持された政策の樹立と進展に参加した。このようにして、侵略戦争を遂行する共同謀議において、かれは重宝な協力者または共犯者であった。
  共同謀議者の一人としてのかれの活動と相伴って、一九三九年と一九四〇年には師団長として、次には関東軍参謀長として、後には陸軍次官として、かれは中国における戦争と太平洋戦争との遂行に目立った役割を果した。太平洋戦争の不法性について、完全な知識をもっていながら、一九四四年八月に、かれはビルマ方面軍の司令官となり、降伏の時まで、引続いてその地位にあった。
   かれは多くの場合に捕虜を作業に使用することを承認したが、その作業は、戦争法規によって禁止されている作業と、何千という捕虜の最大の艱難と死亡をもたらした状態における作業とであって、この点で、かれは戦争法規の違反に積極的な形で参加した一人である。後者の場合の一例は、泰緬鉄道の建設における捕虜の使用であって、これに対する命令は、木村によって承認され、伝達されたものである。
  さらに、すべての戦争地域で、日本軍がどんな程度の残虐行為を行ったかを知っていながら、一九四四年八月に、木村はビルマ方面軍の式を引継いだ。かれがラングーンの司令部に到着した日から、後に司令部がモールメインに移されたときまで、残虐行為は少しも衰えることのない程度で、引続いて行なわれた。かれの指揮の下にある軍隊が残虐行為を行うのを防ぐために、かれは懲戒措置または他の手段を全然とらなかった。
  木村の弁護として、かれがビルマに到着したときに、かれはその部隊に対して、正しい軍人らしい行動をとり、捕虜を虐待することを慎しむように命令したということが主張された。多くの場合に、かれの司令部から数マイル以内のところで、大規模に行われた捕虜虐待の性質と範囲にかんがみて、本裁判所は木村が戦争法規を実施すべきかれの義務に怠慢であったと判定する。このような事情のもとにおける軍の司令官の義務は、たとい型通りの命令が実際出されたとしても、そのような命令を出すだけで果されるものではない。かれの義務は、その後戦争犯罪が行われるのを防ぐような措置をとり、そのような命令を発すること、その命令が実行されていることをみずから確かめることである。これをかれは怠った。このようにして、戦争法規の違反を防ぐために、充分な措置をとるべき法律上の義務を、かれは故意に無視したのである。
  本裁判所は、訴因第一、第二十七、第二十九、第三十一、第三十二、第五十四及び第五十五について、木村を有罪と判定する。 


小磯国昭

  小磯は、訴因第一、第二十七、第二十九、第三十一、第三十二、第三十六、第五十四及び第五十五で訴追されている。
  かれは一九三一年に共同謀議に参加した。それはかれが三月事件に指導者の一人として参加したからである。この事件の目的は、濱口内閣を倒し、満洲の占領に都合のよい内閣を就任させることであった。その後、一九三二年八月に、関東軍参謀長に任命されてから、かれは日本の対外進出計画の進展に指導的な役割を演じた。
  一九三二年八月から一九三四年三月まで、関東軍参謀長として、日本政府によって採用された共同謀議者の方針による満洲国の政治的と経済的の組織のために陸軍省を通じて政府に提出された提案と計画をかれは作成し、またはこれに同意した。かれの弁護として、提案と計画を東京に送付するについては、単に参謀長としてそうしたのであって、このような措置は、かれ一個人の同意を意味したものではないということが主張された。日本の侵略的計画をかれが知っていたことにかんがみて、本裁判所は、この抗弁を容認することができない。これらの計画を促進するために、政治的と経済的の事項について進言したことによって、かれは一参謀長としての通常の職務の範囲を越えたのである。
  侵入と満洲における新しい戦闘が起った。
  その後、平沼内閣と米内内閣の拓務大臣として、小磯は、中国における戦争の指導と、仏印占領の開始と、オランダ領東印度から譲歩を得るための、ついにはこれを経済的に支配するための交渉とを支持し、これに参加した。
  同じ期間に、かれは日本が『すべての方向』に進出するという計画を唱道した。
  一九四四年七月に、小磯は朝鮮総督の任を解かれて、総理大臣になった。この資格において、かれは西洋諸国に対する戦争の遂行を主張し、また指導した。日本が戦争に敗北したことが明らかになった一九四五年四月に、かれは総理大臣を辞して、鈴木内閣成立の途を開いた。
  ノモンハンにおける戦闘を組織するとか、指導するとかによって、かれがこの戦闘になんらかの役割を演じたという証拠はない。

戦争犯罪
  小磯が一九四四年に総理大臣になったときには、各戦争地域で日本軍が犯しつつあった残虐行為とその他の戦争犯罪はよく知れ渡っていたのであるから、これらの悪評が広まっていたことによってか、各省間の通信からして、小磯のような地位にいた者が充分に知っていなかったということは、ありそうもないことである。この事柄は、一九四四年十月に、小磯が出席した最高戦争指導会議の会合で、外務大臣取扱いは『大いに改善の余地がある』と報ぜられていると報告した事実によって、疑いの余地のないものとなっている。外務大臣は、さらに、日本の国際的な評判と将来の国交という観点から、これは重要な事項であると述べた。かれは、これらの事項が充分に協議されるように、主管当局者に指令を発することを要求した。その後、小磯は、総理大臣として六カ月間在任したが、その間に、日本の捕虜と抑留者の取扱いには、なんらの改善も見られなかった。これは、かれがその義務を故意に無視したことに相当する。
  本裁判所は、訴因第一、第二十七、第二十九、第三十一、第三十二及び第五十五について、小磯を有罪と判定する。訴因第三十六及び第五十四については、かれは無罪である。 


松井石根
 
  被告松井は、訴因第一、第二十七、第二十九、第三十一、第三十二、第三十五、第三十六、第五十四及び第五十五で訴追されている。 
  松井は日本陸軍の高級将校であり、一九三三年に大将の階級に進んだ。かれは陸軍において広い経験をもっており、そのうちには、関東軍と参謀本部における勤務が含まれていた。共同謀議を考え出して、それを実行した者と緊密に連絡していたことからして、共同謀議者の目的と政策について、知っていたはずであるとも考えられるが、裁判所に提出された証拠は、かれが共同謀議者であったという認定を正当化するものではない。
  一九三七年と一九三八年の中国におけるかれの軍務は、それ自体としては、侵略戦争の遂行と見做すことはできない。訴因第二十七について有罪と判定することを正当化するためには、検察側の義務として、松井がその戦争の犯罪的性質を知っていたという推論を正当化する証拠を提出しなければならなかった。このことは行われなかった。
  一九三五年に、松井は退役したが、一九三七年に、上海派遣軍を指揮するために、現役に復帰した。ついで、上海派遣軍と第十軍とを含む中支那方面軍司令官に任命された。これらの軍隊を率いて、かれは一九三七年十二月十三日に南京市を攻略した。
  南京が落ちる前に、中国軍は撤退し、占領されたのは無抵抗の都市であった。それに続いて起ったのは、無力の市民に対して、日本の陸軍が犯した最も恐ろしい残虐行為の長期にわたる連続であった。日本軍人によって、大量の虐殺、個人に対する殺害、強姦、掠奪及び放火が行われた。残虐行為が広く行われたことは、日本人証人によって否定されたが、いろいろな国籍の、また疑いのない、信憑性のある中立的証人の反対の証言は、圧倒的に有力である。この犯罪の修羅の騒ぎは、一九三七年十二月十三日に、この都市が占拠されたときに始まり、一九三八年二月の初めまでやまなかった。この六、七週間の期間において、何千という婦人が強姦され、十万以上の人々が殺害され、無数の財産が盗まれたり、焼かれたりした。これらの恐ろしい出来事が最高潮にあったときに、すなわち十二月十七日に、松井は同市に入城し、五日ないし七日の間滞在した。自分自分の観察と幕僚の報告とによって、かれはどのようなことが起っていたかを知っていたはずである。憲兵隊と領事館員から、自分の軍隊の非行がある程度あったと聞いたことをかれは認めている、南京における日本の外交代表者に対して、これらの残虐行為に関する日々の報告が提出され、かれらはこれを東京に報告した。本裁判所は、何が起っていたかを松井が知っていたという充分な証拠があると認める。これらの恐ろしい出来事を緩和するために、かれは何もしなかったか、何かしたにしても、効果のあることはなにもしなかった。同市の占領の前に、かれは自分の軍隊に対して、行動を厳正にせよという命令を確かに出し、その後さらに同じ趣旨の命令を出した。現在わかっているように、またかれが知っていたはずであるように、これらの命令はなんの効果もなかった。かれのために、当時かれは病気であったということが申し立てられた。かれの病気は、かれの指揮下の作戦行動を指導できないというほどのものでもなくまたこれらの残虐行為が起っている間に、何日も同市を訪問できないというほどのものでもなかった。これらの出来事に対して責任を有する軍隊を、かれは指揮していた。これらの出来事をかれは知っていた。かれは自分の軍隊を統制し、南京の不幸な市民を保護する義務をもっていたとともに、その権限をももっていた。この義務の履行を怠ったことについて、かれは犯罪的責任があると認めなければならない。
  本裁判所は、被告松井を訴因第五十五について有罪、訴因第一、第二十七、第二十九、第三十一、第三十二、第三十五、第三十六及び第五十四について無罪と判定する。

 
南次郎

  南は、訴因第一、第二十七、第二十九、第三十一、第三十二、第五十四及び第五十五で訴追されている。一九三一年には、南は陸軍大将であり、四月から十二月まで陸軍大臣であった。すでに奉天事件以前に、軍国主義と、日本の対外進出と、満洲を『日本の生命線』とすることを唱道する共同謀議者と、かれは関係をもっていた。事件が起りそうであるということを、かれは前もって知らされていた。それを阻止するように、かれは命令された。かれはそれを防止する充分な手段をとらなかった。事件が起ったときに、かれは陸軍の行動を『正当な自衛』と称した。内閣は直ちに事件を拡大してはならないと決定し、南は内閣の政策を実行することに同意したが、作戦地域は日一日と拡大し、南は陸軍を抑制する充分な手段をとらなかった。閣議で、かれは陸軍のとった手段を支持した。日本が中国でとった行動に、国際連盟が反対するならば、日本は連盟から脱退すべきだとかれは早くから唱えた。内閣は満洲を占領したり、軍政をしいたりすべきではないと決定した。陸軍がこれらの措置を両方とも実行する手段をとりつつあることを南は知っていたが、それをやめさせるために、なにもしなかった。陸軍を統制する手段をとって、総理大臣と外務大臣を支持することをかれがしなかったので、内閣は瓦解するに至った。その後、日本は満洲と蒙古の防衛を引受けるべきであるとかれは唱えた。満洲に新しい国家が建設されなければならないと、かれはすでに唱えていた。一九三四年十二月から一九三六年三月まで、かれは関東軍司令官であり、満洲の征服を完了し、日本のために中国のこの部分を開発利用することを助けた。軍事行動の威嚇のもとに、華北と内蒙古に傀儡政権を樹立することに対して、かれは責任があった。
  ソビエット連邦に対する攻撃の基地として、満洲を開発したことについても、このような攻撃の計画についても、かれは一部分責任があった。
  一九三六年に、かれは朝鮮総督となり、一九三八年には、かれが『聖戦』と呼んだ中国に対する戦争の遂行と、中国国民政府の打倒とを支持した。
  本裁判所は、訴因第一と第二十七について、南を有罪と判定する。訴因第二十九、第三十一、第三十二、第五十四及び第五十五に含まれている起訴事実については、かれは無罪である。 


武藤章

  被告は、訴因第一、第二十七、第二十九、第三十一、第三十二、第三十三、第三十六、第五十四及び第五十五で訴追されている。
  かれは軍人であって、陸軍省軍務局長の重要な職に就くまでは、高等政策の立案に関係のある職務にはついていなかった。その上に、軍務局長になる前の時期において、単独または他の者とともに、かれが高騰政策の立案に影響を与えようと試みたという証拠はない。
  軍務局長になったときに、かれは共同謀議に加わった。この職とともに、一九三九年九月から一九四二年四月まで、かれはほかの多数の職を兼ねていた。この期間において、共同謀議者による侵略戦争の計画、準備及び遂行は、その絶頂に達した。これらの一切の活動において、かれは首謀者の役割を演じた。
  かれが軍務局長になったときに、ノモンハンの戦闘は終っていた。この戦争の遂行には、かれは関係がなかった。
  一九四五年三月に、日本が仏印でフランスを攻撃したときに、かれはフィリッピンにおける参謀長であった。この戦争をすることには、かれは関係がなかった。
  本裁判所は、訴因第一、第二十七、第二十九、第三十一及び第三十二について、武藤を有罪と判定する。訴因第三十三及び第三十六については、かれは無罪である。

戦争犯罪
  武藤は、一九三七年十一月から一九三八年七月まで、松井の参謀将校であった。南京とその周辺で、驚くべき残虐行為が松井の軍隊によって犯されたのは、この期間においてであった。多くの週間にわたって、これらの残虐行為が行われていたことを、松井が知っていたと同じように、武藤も知っていたことについて、われわれはなんら疑問ももっていない。かれの上官は、これらの行為をやめさせる十分な手段をとらなかった。われわれの意見では、武藤は、下僚の地位にいたので、それをやめさせる手段をとることができなかったのである。この恐ろしい事件については、武藤は責任がない。
  一九四二年四月から一九四四年十月まで、武藤は北部スマトラで近衛第二師団を指揮した。この期間において、かれの軍隊が占領していた地域で、残虐行為が広く行われた。これについては、武藤は責任者の一人である。捕虜と一般人抑留者は食物を充分に与えられず放置され、拷問され、殺害され、一般住民は虐殺された。
  一九四四年十月に、フィリッピンにおいて、武藤は山下の参謀長になった。降伏まで、かれはその職に就いていた。このときには、かれの地位は、いわゆる「南京暴虐事件」のときに、かれが占めていた地位とは、まったく異なっていた。このときには、かれは方針を左右する地位にあった。この参謀長の職に就いていた期間において、日本軍は連続的に虐殺、拷問、その他の残虐行為を一般住民に対して行った。捕虜と一般人抑留者は、食物を充分に与えられず、拷問され、殺害された。戦争法規に対するこれらのはなはだしい違反について、武藤は責任者の一人である。われわれは、これらの出来事について、まったく知らなかったというかれの弁護を却下する。これはまったく信じられないことである。本裁判所は、訴因第五十四と第五十五について、武藤を有罪と判定する。

 
岡敬純

  岡は、起訴状の訴因第一、第二十七、第二十九、第三十一、第三十二、第五十四及び第五十五で訴追されている。
  岡は日本海軍の将校であった。 一九四〇年十月に、海軍少将に進級し、海軍省軍務局長になった。
  一九四〇年十月から一九四四年七月まで、軍務局長としての 職にあった間、岡は共同謀議の積極的な一員であった。この職において、かれは、日本の政策の大部分を決定した連絡会議の有力な一員であった。中国と西洋諸国に対する侵略戦争を遂行する政策の樹立と実行に、かれは参加した。

戦争犯罪
  岡のいた海軍省は、捕虜の福祉に関係していたので海軍の兵員が捕虜に対して戦争犯罪を犯しつつあったことを、かれは知っていたか、知っているべきであったということを示すような、いくらかの証拠はある。しかし、刑事事件において、有罪と判定することを正当化する証拠の標準には、それは達していない。
  本裁判所は、訴因第五十四と第五十五について、岡を無罪と判定し、訴因第一、第二十七、第二十九、第三十一及び第三十二について、有罪と判定する。 


大島浩
 
  大島は、訴因第一、第二十七、第二十九、第三十一、第三十二、第五十四及び第五十五で起訴されている。
  大島は陸軍の将校であったが、ここで取扱っている期間中、外交の分野で勤務していた。最初はベルリンの日本大使館付陸軍武官であり、後には大使の地位に進んだ。一九三九年から約一年間は、外交官としての地位をもたなかったが、その後大使としてベルリンに帰り、日本の降伏まで、そこに留まった。
  大島は、ヒットラー政権の成功を信じていた者であって、最初にベルリン在勤を命ぜられたときから、日本の軍部の計画を促進するために、全力を尽した。日本をドイツとの全面的軍事同盟に引き入れようとつとめて、ときには大使を差しおいて、フォン◦リッベントロップと直接に折衝した。大使に任命されると、西洋諸国に対抗して、日本をドイツ及びイタリア側に立たせ、こうして廣田政策を実行に移す途を開くところの条約を、むりやりに日本に受諾させようとする努力を続けた。軍部派の侵略政策を促進するために、いく度も、かれの外務大臣の政策に反対し、またこれを無視する政策をとった。
  独・ソ中立条約は、一時かれの企てを阻止した。そこで、かれは東京に帰り、新聞や雑誌の論説によって、またドイツの大使と緊密に協力することによって、戦争を主唱する者を支援した。
  大島は主要な共同謀議者の一人であり、終始一貫して、おもな共同謀議の目的を支持し、助長した。中国における戦争または太平洋戦争の指導には、かれは参加しなかったし、捕虜に関する任務または責任を伴うような地位には、一度も就いたことがなかった。
  大島の特別な弁護は、かれのドイツにおける行動については、かれが外交官の特権によって保護されており、訴追を免除されるというのである。外交官の特権は、法律上の責任の免除を意味するものではなく、単に大使の駐在する国の裁判所による裁判の免除を意味するだけである。いずれにしても、この特権は、管轄権をもつ裁判所に対して、国際法に違反する犯罪として訴追されたものには、まったく関係がない。本裁判所は、この特別な弁護を却下する。
  本裁判所は、訴因第一について、大島を有罪と判定する。訴因第二十七、第二十九、第三十一、第三十二、第五十四及び第五十五については、かれは無罪である。 


佐藤賢了
 
  被告佐藤賢了は、訴因第一、第二十七、第二十九、第三十一、第三十二、第五十四及び第五十五で訴追されている。
  一九三七年に当時軍務局の局員であった佐藤は、陸軍中佐の階級に昇進した。その年に、かれは企画庁の調査官に任命された。その後は、軍務局における任務に加えて、ほかの任務ももっていた。すなわち、一時事務官として勤務した企画庁ばかりでなく、中国における日本の戦争と他の諸国に対して日本が企画していた戦争とに、多かれ少かれ〔ママ〕関係のある他の機関においても、任務をもっていたのである。
  近衛内閣は、一九三八年二月に総動員法を議会に提出した。佐藤は『説明員』として用いられ、この法案を支持する演説を議会で行った。
  一九四一年二月に、佐藤は軍務局軍務課長に任命された。一九四一年十月に、陸軍少将に進級した。一九四二年四月に、日本陸軍において、はなはだ重要な地位である軍務局長になった。 一九四四ねんまで、かれはこの地位に留まった。同時に、主として政府の他の省と関係をもっていたいろいろの職を兼ね、これらの省の業務と陸軍省の業務との連絡の任にあたっていた。
  このようにして、一九四一年になって初めて、佐藤は、その地位自体からして、政策の樹立を左右し得るような地位に就いたのであって、それ以前に、政策の立案に影響を与えようとする策謀にふけったという証拠は提出されていない。
決定的な問題は、そのときまでに、日本の企図が犯罪的であったということをかれが知るようになっていたかどうかということである。なぜなら、その後は、自分のできる限り、かれはこれらの企図の進展と遂行を促進したからである。
  このことは、一九三八年八月に佐藤が行った演説によって、合理的な疑問の余地のないものとなっている。かれは中国における戦争について陸軍の見解を述べている。日本が中国に対する戦争の解決の基礎とする用意のあった詳細な条件、しかも中国には決して示されなかったものを、かれはよく知っていたことを現わしている。これらの条件が一見して明らかに含んでいたものは、中国の正当な政府を廃止すること、このころまでには、その資源の大部分が日本の利益になるように開発されていた満洲国という傀儡国家を承認すること、日本の利益になるように中国経済を組織統制すること、これらの不法な利得が失われないことを保証するために、日本軍隊を中国に駐屯させることである。華北は完全に日本の支配下に置かれることになっており、その資源は国防のために、すなわち、日本の軍事的準備を助けるために、開発されることになっているとかれは述べている。日本はソビエット連邦と戦争を行うであろうと予言したが、日本はその軍備と生産が拡充されたときに、時期を選ぶであろうといっている。
  弁護側では、中国における日本の行動は、中国における日本の正当な権益を確実に保護したいという希望に基いたものであるとわれわれに信じさせようとしているが、この演説によると、佐藤はそうは信じていなかったことがわかる。それどころか、中国に対する日本の攻撃の動機は、隣国の富を手に収めることであるということを知っていた。われわれの意見では、そのように犯罪であることを知っていた佐藤は、一九四一年から後は、明らかに共同謀議の一員であったのである。
  その後、政府における重要な職において、また軍の指揮官として、かれは訴因第二十七、第二十九、第三十一及び第三十二で訴追されている侵略戦争を遂行した。

戦争犯罪
  日本の軍隊の行動に対する多くの抗議について、佐藤が知っていたことは、疑いがない。なぜなら、これらの抗議は、かれの局に送られ、陸軍省の局長の二週間ごとの会合で論議されたからである。これらの会合を主宰した者は東条であって、かれこそ、これらの抗議に関して、措置をとるかとらないかを決定したのであり、かれの部下であった佐藤は、自分の上官の決定に反対して、みずから進んで予防的措置をとることはできなかった。
  本裁判所は、訴因第一、第二十七、第二十九、第三十一及び第三十二について、佐藤を有罪と判定する。訴因第五十四及び第五十五については、かれは無罪である。 
 

重光葵
 
  被告は、訴因第一、第二十七、第二十九、第三十一、第三十二、第三十三、第三十五、第五十四及び第五十五で訴追されている。
  訴因第一については、かれが一九三一年と一九三二年に中国駐在公使であったとき、対満事務局参与であったとき、一九三六年から一九三八年までソビエット連邦駐在大使であったとき、並びに一九四二年と一九四三年に中国駐在大使であったときの、かれの行動が訴追されている。対満事務局参与として、政策の樹立に、かれがなにかの役割を演じたという証拠はない。そのほかについては、公使及び大使として、重光はこれらの官職の正当な任務を越えたことは一度もなかたと、われわれは認定する。上に述べた年の間、かれは共同謀議者の一人ではなかった。実際において、かれは、外務省に対して共同謀議者の政策に反対する進言をくり返し与えていたのである。
  かれが外務大臣になった一九四三年までには、一定の侵略戦争を遂行するという共同謀議者の政策はすでに定まっており、かつ実行されつつあった。その後は、この政策がそれ以上に樹立されたことも、発展させられたこともなかった。
  本裁判所は、訴因第一について、重光を無罪と判定する。
  一九四三年に、日本は太平洋における戦争を行っていた。日本に関する限り、この戦争が侵略戦争であることを、かれは充分に知っていた。なぜなら、かれはこの戦争を引き起した共同謀議者の政策を知っており、実にしばしばこの政策を実行に移すべきではないと進言していたからである。それにもかかわらず、今や、一九四五年四月十三日に辞職するまで、かれはこの戦争の遂行に主要な役割を演じたのである。
  本裁判所は、訴因第二十七、第二十九、第三十一、第三十二及び第三十三
について、重光を有罪と判定する。訴因第三十五については、かれは無罪である。

戦争犯罪
  重光が外務大臣であった一九四三年四月から一九四五年四月までの期間を通じて、利益保護国は日本の外務省に対して、連合国から受取った抗議を次々に伝達した。これらは、責任ある国家機関によって利益保護国に送られた重大な抗議であって、多くの場合に、きわめて詳細な具体的事実が添えてあった。抗議の内容となっている問題は、次の通りであった。
  (一)捕虜の非人道的な取扱い、(二)利益保護国に対して、少数の例外を除いては、すべてほ捕虜収容所の視察を許可することを拒絶したこと、(三)利益保護国の代表者に対して、日本人立会人の臨席なしには、捕虜と面会するのを許可することを拒絶したこと、(四)捕虜の氏名と抑留地に関する情報の提供を怠ったこと。これらの抗議は、まず外務省で処理された。必要な場合には、他の省に送られ、外務大臣がこれに回答することのできるような資料が求められた。
  日本の外務省と利益保護国との間の長い期間にわたる往復文書を読んで、だれしも疑わないでおられないことは、日本の軍部がこれらの抗議に対する満足な回答を外務省に提供しなかったのには、悪質の理由があったのではないかということ、または少く〔ママ〕とも、問題にされているような行動をした軍部ではなく、その他の機関によって、独立の調査を行うべきであったのではないかということである。抗議に次ぐ抗議は、未回答のままであったか、遅延の理由を説明しないで、何カ月も遅れてようやく回答されたかであった。利益保護国による次々の督促も、顧みられなかった。回答された抗議は、例外なしに、苦情をいうべきことは何もないと否定された。
  ところで、責任のある人々によって行われ、そのときの事情と具体的事実とを添えられた苦情が、ことごとく不当なものであるということは、ほとんどあり得ないことであった。その上に、収容所の視察の許可を軍部が拒絶したこと、利益保護国の代表者に対して、日本人立会人の臨席なしには、捕虜と面会するのを許可することを軍部が拒絶したこと、自己の手中にある捕虜について、詳細な事項を知らせるのを怠ったことは、軍部が何か隠すべきことをもっていたという疑いを起させるものであった。
  重光は、かれの承知していたこれらの事情からして、捕虜の取扱いが正当に行われていないという疑いを起したものとわれわれが認定しても、かれに対して不当なことにはならない。実際のところ、ある証人は、かれのために、この趣旨の証言をしたのである。ところが、閣僚として、捕虜の福祉について、かれは全般的な責任を負っていたにかかわらず、問題を調査させる充分な措置をとらなかった。かれは責任が果たされていないのではないかと疑っていたのであるから、この責任を解除されるために、問題を強く押し進め、必要ならば、辞職するというところまで行くべきであった。
  重光が戦争犯罪または人道に対する罪の遂行を命令し、授権し、または許可したという証拠はない。裁判所は、訴因第五十四については、重光を無罪と判定する。
  裁判所は、訴因第五十五について、重光を有罪と判定する。
  刑の軽減として、われわれは次のことを考慮に入れる。重光は、共同謀議の成立には、少しも関係していなかったこと、一九四三年四月に外務大臣になるまで、かれは侵略戦争を遂行しなかったのであって、この時期には、すでに日本がその将来に致命的な影響を及ぼす戦争に深く巻きこまれていたこと、戦争犯罪の問題については、かれが外務大臣であったときには、軍部が完全に日本を支配していたので、軍部を非難するには、どのような日本人にとっても、大きな決意が必要であったであろうということである。 
 

嶋田繁太郎

  被告は、訴因第一、第二十七、第二十九、第三十一、第三十二、第五十四及び第五十五で訴追されている。
  一九四一年十月まで、嶋田は、自己の任務をそのままに遂行する海軍将校の役割を行っていたにすぎなかったのであり、そのときまでは、共同謀議に参加していなかった。
  一九四一年十月には、海軍大臣に選ばれる資格のある高級海軍将校であった。東条内閣でかれは海軍大臣になり、一九四四年八月までその職にあった。また、一九四四年二月から八月までの六カ月の間、海軍軍令部総長であった。
  東条内閣の成立から、一九四一年十二月七日に日本が西洋諸国を攻撃するまで、 この攻撃を計画し開始するについて、かれは共同謀議者によってなされたすべての決定に参加した。この行動をとった理由として、凍結令が日本の首を絞めつつあり、日本の戦闘能力を除々〔ママ〕に弱めることになるものであったこと、日本に対する経済的と軍事的の『包囲』があったこと、アメリカ合衆国が交渉において非同情的で非妥協的であったこと、連合国によって中国に与えられた援助が日本で悪感情を引き起していたことをかれは挙げた。この弁護が勘定に入れていないことは、かれが戦いによって持ち続けようと決意していた利得は、かれの知っていた通り、日本が多年の侵略戦争で手に入れた利得であったという事実である。本裁判所は、この弁護をすでに充分に検討し、これを却下した。
  宣戦が布告された後、この戦争の遂行にあたって、かれは主要な役割を演じた。
  本裁判所は、訴因第一、第二十七、第二十九、第三十一及び第三十二について、嶋田を有罪と判定する。

戦争犯罪
  最も恥ずべき捕虜の虐殺と殺害のうちには、日本海軍の人員によって、太平洋諸島において、また雷撃された艦船の生存者に対して行われたものがある。直接に責任のあった者には、将官もいたし、それ以下の階級にもわたっていた。
  しかし、嶋田がこれらの事項に対して責任があるということ、かれが戦争犯罪の遂行を命令し、授権し、または許可したということ、または、これらの犯罪が行われていたことを知りながら、将来においてその遂行を防止するに充分な手段をとらなかったということを認定するのが正当であるとするには、証拠が不充分である。
  本裁判所は、訴因第五十四と第五十五について、嶋田を無罪と判定する。 


白鳥敏夫
 
  被告は、訴因第一、第二十七、第二十九、第三十一及び第三十二で起訴されている。
  一九一四年に、かれは日本の外交官になった。かれが最初に名を現わしたのは、外務省の情報部長としてであって、一九三〇年一〇月から一九三三年六月まで、その職にあった。この地位にあって、かれは世界の報道機関に対して、日本の満洲占領を弁護した。かれがそうするように命令されたことは疑いもないが、その当時でも、その後でも、被告の活動の特徴は、そのときの任務が何であるにせよ、かれはそれを果すだけでは満足しなかったということである。こうして、早くから、かれは政策問題に関する意見を発表していた。その意見は、上層部で考慮を受けていた。かれは早くから日本は国際連盟から脱退すべきであると唱えた。かれは満洲に傀儡政権を樹立することを支持した。共同謀議の目的に対するかれの支持は、この時期から始まっている。この支持は、長年にわたって、またかれのできる限りの手段によって、かれが引続いて与えたものである。
  一九三三年六月から一九三七年四月まで、かれはスエーデン駐在公使であった。かれの手紙のあるものは、この当時のかれの見解を示している。かれの意見によれば、ロシアの勢力は、必要ならば武力によって、またロシアが強くなって攻撃ができなくなる前に、極東から駆逐しなければならないというのであった。さらに、日本の利益に害があると思われるような外国の勢力は、中国から除かねばならぬということ、日本の外交官は、軍国主義者の政策を支持すべきであるということがかれの意見であった。かれはみずから侵略戦争を衷心から可とする者であることを示した。
  日本に帰って、かれは日本が全体主義的政府をつくるべきこと、日本、ドイツ及びイタリアは対外進出政策をとるべきことを唱える論説を発表した。
  日本、ドイツ及びイタリア間の同盟の交渉が開始されてから、一九三八年九月に、かれはローマ駐在大使に任命された。この交渉において、右の諸国間の一般的軍事同盟を固執した共同謀議者を支持して、かれは当時ベルリン駐在大使であった被告大島と協力した、いっそう制限された条約だけを希望した外務大臣の訓令に従うことを、かれは拒絶することまでした。かれと大島は、共同謀議者の希望が容れられなければ、辞職すると威嚇した。
  日本があまり長く時間を延ばして、ドイツがソビエット連邦と不可侵条約を結んだときに、日本の世論は一般にこれを防共協定の違反と見做したために、この交渉は行きつまった。白鳥は日本に帰って、宣伝を行った。その宣伝の意図は、ドイツの行動の申訳を行い、ドイツ及びイタリアとの一般的軍事同盟をもたらす準備をすることであり、この同盟をかれは依然として日本の対外進出主義的な目標を支えるために必要であると考えていた。かれはいろいろな機会に、其の宣伝で、共同謀議者の目的のすべてを唱道した。すなわち、日本は中国を攻撃すべきこと、日本はロシアを攻撃すべきこと、日本はドイツ及びイタリアと同盟すべきこと、日本は西洋諸国に対して断固たる行動をとるべきこと、日本は『新秩序』を建設すべきこと、日本はヨーロッパ戦争によって与えられた南方進出の機会をとらえるべきこと、日本はシンガポールを攻撃すべきこと、その他である。この宣伝は、かれが外務省の顧問であった一九四〇年八月から一九四一年七月まで続けられた。
  一九四一年N四月に、かれは病気になり、その年の七月に、外務省顧問の職を辞した。その後は、いろいろの出来事で重要な役割を演じなかった。本裁判所は、訴因第一について白鳥を有罪と判定する。
  かれが侵略戦争を遂行したと認定することを正当化するような地位を、かれは占めたことがない。本裁判所は、訴因第二十七、第二十九、第三十一及び第三十二について、白鳥を無罪と判定する。 


鈴木貞一

  鈴木貞一は、起訴状の訴因第一、第二十七、第二十九、第三十一、第三十二、第三十五、第三十六、第五十四及び第五十五で訴追されている。
  鈴木は軍人であった。一九三二年に、陸軍中佐及び陸軍軍務局の職員として、かれは共同謀議の積極的な一員であった。一九三二年五月における総理大臣犬養の暗殺の後、かれは、新しい内閣が政党の指導のもとに組織されたならば、同じような暴力行為が起るであろうといい、連立内閣を組織することに賛成した。かれの目的は、中国に対する共同謀議者の企てを支持すると思われる内閣を立てることであった。
  軍務局に勤務中、ソビエット連邦が日本の絶対の敵であると主張し、この国に対して侵略戦争を遂行するために当時行われていた準備に協力した。
  ハサン湖におけるソビエット連邦に対する戦争の遂行に、鈴木が参加したという証拠はなく、ノモンハンにおけるソビエット連邦または蒙古人民共和国に対する戦争の遂行に、かれが参加したという証拠もない。
  一九三七年十一月に、鈴木は陸軍少将になった。かれは興亜院の組織者の一人であり、その政治及び行政部門の長であった。この地位で、かれは日本によって占領された中国の諸地域の開発利用を積極的に促進した。
  軍部による日本の支配を完全にし、南方への進出を実行するために、第二次近衛内閣が組織されたときに、鈴木は無任所大臣になり、総力戦研究所の参与の一人になった。星野の代りに、鈴木を近衛は企画院の総裁とした。一九四四年七月十九日に東条内閣が瓦解するまで、鈴木はこの地位に留まった。
  企画院総裁及び無任所大臣として、鈴木は、実際上日本の政策をつくり出す機関であった連絡会議に常例的に出席した。連合国に対する侵略戦争の開始と遂行を引き起した重要な会議の大部分に、鈴木は出席した。これらの会議で、かれは接巨き的に共同謀議を支持した。
  被告が残虐行為の犯行に責任があったという証拠はない。
  われわれは、訴因第一、第二十七、第二十九、第三十一及び第三十二で訴追されているように、鈴木を有罪と判定し、訴因第三十五、第三十六、第五十四及び第五十五については、無罪と判定する。 


東郷茂徳
 
  被告東郷は、訴因第一、第二十七、第二十九、第三十一、第三十二、第三十六、第五十四及び第五十五で起訴されている。
  東郷に対して訴追されている犯罪とかれのおもな関係は、一九四一年十月から、一九四二年九月にかれが辞職するまで、東条内閣の外務大臣として、その後再び、一九四五年の鈴木内閣の外務大臣としてである。かれが辞職してから再び任命されるまでの中間には、かれは公生活になんらの役割を演じなかった。
  かれの第一回の任命の日から、太平洋戦争の勃発まで、かれはその戦争の計画と準備に参加した。かれは閣議や会議に出席し、採用された一切の決定に同意した。
  外務大臣として、戦争勃発直前の合衆国との交渉において、かれは指導的な役割を演じ、戦争を主張した者の計画に力を尽した。この交渉で用いられた欺瞞については、すでに論じた。
  太平洋戦争の勃発後、その指導について、また中国における戦争の遂行について、かれは他の閣僚と協力した。
  日本は包囲され、経済的に首を絞められていたという、被告のすべてに共通な弁護については、すでに他の箇所で論じたが、それに加えて、東郷が特に主張したことは、合衆国との交渉を成立させるために、あらゆる努力を払うであろうという保証のもとに、東条内閣に加わったということである。さらに、就任した日から陸軍に反対し、かれが交渉を継続するに必要な譲歩を陸軍からかち得たとかれは述べている。しかし、交渉が失敗に終り、戦争が避けられなくなったときに、かれは反対して辞職しようとはせず、むしろ、そのまま職に留まって、その戦争を支持した。それ以外のことをすることは卑怯であったとかれはいった。しかし、かれのその後の行動は、この抗弁をまったく無効にするものである。一九四二年九月に、占領諸国の取扱いについて起った閣内の紛争のために、かれは辞職した。われわれは、かれの行動と誠意とを判断するにあたって、一つの場合についても、他の場合についても、同じ考慮に従うつもりである。
  訴因第三十六で主張されている犯罪的行為のどれかが東郷にあったという証拠はない。この訴因に関係のあるかれの唯一の役割は、満洲と外蒙古との国境を確定したところの、ソビエット連邦と日本との戦後協定を調印したことであった。 

戦争犯罪
  一九四二年に辞職するまで、東郷は戦争放棄が遵守されることにつとめたように見える。かれは自分のところにきた抗議を調査のために回付し、数個の場合には、改善の措置がとられた。かれが辞職したときには、日本軍によって犯された残虐行為は、かれがそれを知っていたという推論を許すほどに、知れ渡ってはいなかった。
  一九四五年の春、かれが再び外務大臣になっときは、抗議が山積していたが、かれはそれを関係当局に回付した本裁判所の意見では、戦争犯罪に関して、東郷が義務を怠ったということについて、充分な証拠はない。
  本裁判所は、訴因第一、第二十七、第二十九、第三十一及び第三十二について、東郷を有罪と判定する、訴因第三十六、第五十四及び第五十五については、かれは無罪である。

 
東条英機

  被告は、訴因第一、第二十七、第二十九、第三十一、第三十二、第三十三、第三十六、第五十四及び第五十五で訴追されている。
  東条は一九三七年六月に関東軍参謀長となり、それ以後は、共同謀議者の活動のほとんどすべてにおいて、首謀者の一人として、かれらと結託していた。
  かれはソビエット連邦に対する攻撃を計画し、準備した。ソビエット連邦に対して企てられた攻撃において、日本陸軍をその背後の不安から解放するために、中国にたいしてさらに攻撃を加えることをかれは勧めた。この攻撃のための基地として、満洲を組織することをかれは助けた。それ以後、どの時期においても、もし好機が訪れたならば、そのような攻撃を開始するという意図を、かれは一度も捨てたことがなかった。
  一九三八年五月に、かれは陸軍次官になるために、現地から呼びもどされた。この職務のほかに、かれは多数の任務をもち、これによって、戦争に対する日本の国民と経済の動員の、ほとんどすべての部面において、重要な役割を演じた。このときに、かれは中国との妥協による和平の提案に反対した。
  一九四〇年七月に、かれは陸軍大臣になった。それ以後における彼の経歴の大部分は、日本の近隣諸国に対する侵略戦争を計画し、遂行するために、共同謀議者が相次いでとった手段の歴史である。というのは、これらの計画を立てたり、これらの戦争を行ったりするにあたって、かれは首謀者の一人だったからである。かれは巧みに、断固として、ねばり強く、共同謀議の目的を唱道し、促進した。
  一九四一年十月に、かれは総理大臣になり、一九四四年七月まで、その職に就いていた。
  陸軍大臣及び総理大臣として、中国国民政府を征服し、日本のために中国の資源を開発し、中国に対する戦争の成果を日本に確保するために、中国に日本軍を駐屯させるという政策を、終始一貫して支持した。
  一九四一年十二月七日の攻撃に先だつ公娼において、かれが断固としてとった態度は、中国に対する侵略の成果を日本に保持させ、日本による東アジア
と南方地域の支配を確立するのに役立つような条件を、日本は確保しなければならないというのであった。かれの大きな勢力は、ことごとくこの政策の支持に注ぎこまれた。この政策を支持するために、戦争を行うという決定を成立させるにあたって、かれが演じた指導的役割の重要さは、どのように大きく評価しても、大き過ぎるということはない。日本の近隣諸国に対する犯罪的攻撃に対して、かれは主要な責任を負っている。
  この裁判において、かれはこれらの攻撃が正当な自衛の措置であったと主張し、厚かましくもそのすべてを弁護した。この抗弁については、我々はすでに充分に論じつくした。それはまったく根拠のないものである。 
  訴因第三十六については、訴因第三十六で訴追されている一九三九年の戦争に対して、東条に責任を負わせるような公職を、かれが占めていたという証拠はない。
  本裁判所は、訴因第一、第二十七、第二十九、第三十一、第三十二及び第三十三について、東条を有罪と判定し、訴因第三十六について、無罪と判定する。

戦争犯罪
  東条は、戦争地域内における捕虜及び一般人抑留者の保護と、かれらに対する宿舎、食物、医薬品及び医療設備の提供とを担当していた陸軍省の最高首脳者であった。また、日本国内における一般人抑留者に対して、同じような義務を担当していた内務省の最高首脳者であった。さらに何よりも、捕虜及び一般人抑留者の保護に対して、継続的責任を負っていた政府の最高首脳者であった。
  捕虜及び抑留者の野蛮な取扱いは、東条によくわかっていた。かれは、違反者を処罰し、将来同じような犯罪が犯されるのを防止する充分な手段をとらなかった。バターン死の行進に対するかれの態度は、これらの捕虜に対するかれの行為を明らかにするかぎを与えるものである。一九四二年には、かれはこの行進の状態についていくらか知っており、これらお状態の結果として、多数の捕虜が死亡したことを知っていた。この事件について、かれは報告を求めなかった。一九四三年に、フィリッピンにいたとき、かれはこの行進について形式的な調査をしたが、なんの措置もとらなかった。処罰された者は一人もなかった。彼の説明では、現地の日本軍の指揮官は、与えられた任務の遂行について、東京から一々具体的な命令を受ける必要はないというのである。このようにして、日本政府の最高首脳者は、日本政府に課せられていたところの、戦争法規の遵守を励行するという義務の履行を意識的に故意に拒んだのである。
  もう一つの著しい例を挙げるならば、戦略目的のために企てられた泰緬鉄道の敷設に捕虜をしようすべきであるとかれは勧告した。捕虜に宿舎と食物を与えるために、または、この苦しい気候の中で病気になった者を手当するために、かれは適当な手配をしなかった。かれはこの工事に使われている捕虜の悪い状態を知って、調査のために将校を送った。この鉄道の沿線の多くの収容所において、その調査官が発見したに違いない恐るべき状態をわれわれは知っている。この調査の結果としてとられた唯一の措置は、捕虜の虐待に対して、一中隊長を裁判することだけであった。状態を改善するためには、何もなされなかった。栄養不足による病気と飢餓によって、この工事が終るまで、捕虜は引続いて死んでいった。
  捕虜収容所における栄養不良とその他の要因による高い死亡率に関する統計は、東条の主宰する会議で討議された。東条内閣が倒れた一九四四年における捕虜の恐るべき状態と、食糧及び医薬品の欠乏のために死亡した捕虜の膨大な数とは、東条が捕虜の保護のために適当な措置をとらなかったことに対して、決定的な証拠である。
 われわれは、中国人捕虜に対する日本陸軍の態度について、すでに述べた。日本政府は、この『事変』を戦争とは認めてゐなかったから、戦争法規はこの戦いには適用されないこと、捕えられた中国人は、捕虜の身分と権利を与えられる資格がないと主張された。東条はこの恐るべき態度を知っており、しかもそれに反対しなかった。
  働かざる捕虜は食うべからずという指令について、かれは責任がある。病人や負傷者がむりやりに働かされたり、その結果として、苦痛と死亡を生じたりするようになったのは、大部分において、東条がこの指令の実行をくり返し主張したためであるということを、われわれはすこしも疑わない。 
  捕虜の虐待が外国に知られるのを防ぐためにとられた措置については、われわれはすでに充分に述べた。これらの措置に対して、東条は責任がある。
  本裁判所は、訴因第五十四について、東条を有罪と判定する。われわれは、訴因第五十五については、いかなる判定も下さない。 


梅津美治郎

  被告梅津は、訴因第一、第二十七、第二十九、第三十一、第三十二、第三十六、第五十四及び第五十五で訴追されている。
  梅津は陸軍の将校であった。一九三四年から一九三六年まで、かれが華北における日本軍の指揮をとっていた間、中国の北部諸省に対して日本の侵略を続け、親日地方政権を立てまた武力を用いるという威嚇のもとに、一九三五年六月の何応欽=梅津協定を結ぶよよ〔ママ〕うに中国側を強制した。これはしばらくの間中国の正当政府の権力に制限を加えるものであった。
  一九三六年三月から一九三八年五月まで、梅津は陸軍次官であった。この期間に、一九三六年の国策の諸計画と一九三七年の重要産業についての計画が決定された。これらは陸軍の計画であり、太平洋戦争の主要な原因の一つであった。
  一九三七年一月に、新しい内閣を組織せよという天皇の命令が陸軍大将宇垣に与えられたときに、陸軍が宇垣を廣田の後継者として承諾するのを拒絶したことについて、梅津は重要な役割を演じた。この反対のために、宇垣は内閣を組織することができなかった。
  一九三七年七月に、蘆溝橋において、中国における戦闘が再び起ったときに、この被告は、戦争を続けるという共同謀議者の計画を知っており、またそれを是認した。梅津は、内閣企画庁の一員であるとともに、共同謀議者の侵略的な計画の立案と、これらの計画の実行に必要な準備とに大いに寄与したところの、その他の多数の部局や委員会の一員でもあった。
  一九三七年十二月に、関東軍参謀長として登場は、梅津にあてて、ソビエット連邦に対する攻撃の準備の諸計画を、またその後に、関東軍を増強する諸計画と内蒙古における施設についての諸計画を送った。これらの計画は、ソビエット連邦に対する戦争の準備についても、中国に対する戦争に関しても、欠くことのできない重要なものであると東条は述べていた。
  一九三九年から一九四四年まで、梅津が関東軍司令官であった間、かれは引続いて満洲の経済を日本の役に立つように指導した。その機関に、ソビエットの領土の占領計画がつくられ、占領されることになっていたソビエット地位いの軍政に関する計画も立てられ、さらに、南方の占領地域における軍政を研究するために将校が同地域に送られた。この研究の目的は、こうして手に入れた資料をソビエット領土で利用するためであった。
  被告が共同謀議の一員であったという証拠は、圧倒的に有力である。
  訴因第三十六についていえば、ノモンハンにおける戦闘は、かれが関東軍の指揮をとる前に始まっていた。戦闘の終るわずか数日前に、かれは司令官になった。
  一九四四年七月から降伏まで、梅津は参謀総長であった。これによって、かれは中国と西洋諸国に対する戦争の遂行に主要な役割を演じた。

戦争犯罪
  梅津が残虐行為の遂行に対して責任があったということの、充分な証拠はない。
  本裁判所は、訴因第一、第二十七、第二十九、第三十一及び第三十二について、梅津を有罪と判定する。訴因第三十六、第五十四及び第五十五については、かれは無罪である。


○裁判長 
極東国際軍事裁判所は、本件の起訴状について有罪の判定を受けた被告に対して、裁判所条例第十五条チ号に従って、ここに刑を宣告する。

被告 荒木貞夫
被告が有罪の判定を受けた起訴状中の訴因に基いて、極東国際軍事裁判所は、被告を終身の禁錮刑に処する。

被告 土肥原健二
被告が有罪の判定を受けた起訴状中の訴因に基いて、極東国際軍事裁判所は、被告を絞首刑に処する。

被告 橋本欣五郎
被告が有罪の判定を受けた起訴状中の訴因に基いて、極東国際軍事裁判所は、被告を終身の禁錮刑に処する。

被告 畑俊六
被告が有罪の判定を受けた起訴状中の訴因に基いて、極東国際軍事裁判所は、被告を終身の禁錮刑に処する。

被告 平沼騏一郎
被告が有罪の判定を受けた起訴状中の訴因に基いて、極東国際軍事裁判所は、被告を終身の禁錮刑に処する。

被告 廣田弘毅
被告が有罪の判定を受けた起訴状中の訴因に基いて、極東国際軍事裁判所は、被告を絞首刑に処する。

被告 平沼騏一郎
被告が有罪の判定を受けた起訴状中の訴因に基いて、極東国際軍事裁判所は、被告を終身の禁錮刑に処する。

被告 星野直樹
被告が有罪の判定を受けた起訴状中の訴因に基いて、極東国際軍事裁判所は、被告を終身の禁錮刑に処する。

被告 板垣征四郎
被告が有罪の判定を受けた起訴状中の訴因に基いて、極東国際軍事裁判所は、被告を絞首刑に処する。

被告 木戸幸一
被告が有罪の判定を受けた起訴状中の訴因に基いて、極東国際軍事裁判所は、被告を終身の禁錮刑に処する。
 
被告 木村兵太郎
被告が有罪の判定を受けた起訴状中の訴因に基いて、極東国際軍事裁判所は、被告を絞首刑に処する。

被告 小磯国昭
被告が有罪の判定を受けた起訴状中の訴因に基いて、極東国際軍事裁判所は、被告を終身の禁錮刑に処する。
 
被告 松井石根
被告が有罪の判定を受けた起訴状中の訴因に基いて、極東国際軍事裁判所は、被告を絞首刑に処する。

被告 南次郎
被告が有罪の判定を受けた起訴状中の訴因に基いて、極東国際軍事裁判所は、被告を終身の禁錮刑に処する。

被告 武藤章
被告が有罪の判定を受けた起訴状中の訴因に基いて、極東国際軍事裁判所は、被告を絞首刑に処する。

被告 岡敬純
被告が有罪の判定を受けた起訴状中の訴因に基いて、極東国際軍事裁判所は、被告を終身の禁錮刑に処する。

被告 大島浩
被告が有罪の判定を受けた起訴状中の訴因に基いて、極東国際軍事裁判所は、被告を終身の禁錮刑に処する。

被告 佐藤賢了
被告が有罪の判定を受けた起訴状中の訴因に基いて、極東国際軍事裁判所は、被告を終身の禁錮刑に処する。

被告 重光葵
被告が有罪の判定を受けた起訴状中の訴因に基いて、極東国際軍事裁判所は、被告を七年の禁錮刑に処する。
  これは罪状認否の日から通算する。

被告 島〔ママ〕田繁太郎
被告が有罪の判定を受けた起訴状中の訴因に基いて、極東国際軍事裁判所は、被告を終身の禁錮刑に処する。

被告 鈴木貞一
被告が有罪の判定を受けた起訴状中の訴因に基いて、極東国際軍事裁判所は、被告を終身の禁錮刑に処する。

被告 東郷茂徳
被告が有罪の判定を受けた起訴状中の訴因に基いて、極東国際軍事裁判所は、被告を二十年の禁錮刑に処する。
  これは罪状認否の日から通算する。

被告 東条英機
被告が有罪の判定を受けた起訴状中の訴因に基いて、極東国際軍事裁判所は、被告を絞首刑に処する。

被告 賀屋興宣
被告 白鳥敏夫
被告 梅津美治郎
被告らが有罪の判定を受けた起訴状中の訴因に基き、極東国際軍事裁判所は、被告らを終身の禁錮刑に処する。

これを以て閉廷する。
〔昭和二十三年十一月十二日午後四時十二分閉廷〕
 
 

【南京大虐殺】東京裁判の認定内容


付属書A―六 起訴状

(前略)故に上記諸国家は一九四五年⦅昭和二十年⦆七月二十六日の「ポツダム」宣言、一九四五年⦅昭和二十年⦆九月二日の降伏文書及び本裁判所条例に従ひ、重大なる戦争犯罪人に対する被疑事実の調査及び之が訴追に付き各自の政府を代表すべく正当に任命せられたる下記署名の代表者に依りて上記の凡(すべ)ての者を以下列挙の諸点に付き本裁判所条例中に凡て定義せるが如き平和に対する罪、戦争犯罪、人道に対する罪及び以上の罪の共通計画又は共同謀議の罪ありとして茲(ここ)に告訴し此の故に本訴訟に於ける被告とし且その氏名が夫々(それぞれ)記載せられたる後述の訴因に拠り起訴せられたるものとして指名す

第一類 平和に対する罪
  下記諸訴因に付きては平和に対する罪を問ふ
  (訴因第一~第三十六略)
第二類 殺人
  下記諸訴因に就きては殺人罪及び殺人の共同謀議の罪に問ふ
  (訴因第三十七~第四十四略)

訴因第四十五
被告荒木、橋本、畑、平沼、廣田、板垣、賀屋、木戸、松井、武藤、鈴木及び梅津は一九三七年⦅昭和十二年⦆十二月十二日及び其の後引続き本件訴因第二記載の条約条項に違反して南京市を攻撃し且国際法に反して住民を鏖殺することを日本軍に不法に命じ為さしめ且許すことに因り不法に目下其の氏名及び員数不詳なる数万の中華民国の一般人及び武装を解除せられたる兵員を殺害し殺戮せり

第三類 通例の戦争犯罪及び人道に対する罪
  下記訴因に付きては通例の戦争犯罪及び人道に対する罪を問ふ 該罪は茲に記載せられたる者及び其の各自が極東国際軍事裁判所条例第五条特に第五条(ロ)及び(ハ)並に国際法又は其の孰れかの一に依り個々に責任有りと主張せられ居る行為なり
  (訴因第五十三、五十四略)

訴因第五十五
  被告人土肥原、畑、板垣、賀屋、木戸、木村、小磯、武藤、水野、岡、大島、佐藤、重光、嶋田、鈴木、東郷、東条及び梅津は一九四一年⦅昭和十六年⦆十二月七日より一九四五年⦅昭和二十年⦆九月二日に至る迄の期間に於て夫々の官職に因り「アメリカ」合衆国、全「イギリス」連邦、「フランス」共和国、「オランダ」王国、「フィリッピン」国、中華民国、「ポルトガル」共和国及び「ソビエット」社会主義共和国連邦の軍隊並に当時日本の権力下に在りし此等諸国の数万の俘虜及び一般人に関し上記条約及び誓約並に戦争の法規慣例の遵守を確保する責任を有したるも、其の遵守を確保し其の違反を防止するに適当なる手段を執る可き法律上の義務を故意又不注意に無視し以て戦争法規に違反せり
  中華民国の場合に於ては該違反行為は一九三一年⦅昭和六年⦆九月十八日に始まり上記指名の者の外下記被告も之に責任を有す
荒木、橋本、平沼、廣田、松井、松岡、南 

以上の理由に依り裁判所に対し本起訴状を提出し茲に前記氏名の被告人等に対する起訴事実を裁判所に提出するものなり
アジア歴史資料センターhttp://www.jacar.go.jp
【レファレンスコード】A08071307800(125・126・145・154・156・157枚目)

南京に関わる事実認定
極東国際軍事裁判所 判決
B部 第八章 通例の戦争犯罪(残虐行為)
英文一〇〇一―一一三六頁
一九四八年十一月一日

 南京暴虐事件
  一九三七年十二月の初めに、松井の指揮する中支那派遣軍が南京市に接近すると、百万の住民の半数以上と、国際安全地帯を組織するために残留した少数のものを除いた中立国人の全部とは、この市から避難した。中国軍は、この市を防衛するために、約五万の兵を残して撤退した。一九三七年十二月十二日の夜に、日本軍が南門に殺倒(ママ)するに至って、残留軍五万の大部分は、市の北門と西門から退却した。中国兵のほとんど全部は、市を撤退するか、武器と軍服を棄てて国際安全地帯に避難したので、一九三七年十二月十三日の朝、日本軍が市にはいったときには、抵抗は一切なくなっていた。
  日本兵は市内に群がってさまざまな残虐行為を犯した。目撃者の一人によると、日本兵は同市を荒し汚すために、まるで野蛮人の一団のように放たれたのであった。目撃者たちによって、同市は捕えられた獲物のように日本人の手中に帰したこと、同市は単に組織的な戦闘で占領されただけではなかったこと、戦いに勝った日本軍は、その獲物に飛びかかって、際限のない暴行を犯したことが語られた。兵隊は個々に、または二、三人の小さい集団で、全市内を歩きまわり、殺人、強姦、掠奪、放火を行った。そこには、なんの規律もなかった。多くの兵は酔っていた。それらしい挑発も口実もないのに、中国人の男女子供を無差別に殺しながら、兵は街を歩きまわり、遂には所によって大通りや裏通りに被害者の死体が散乱したほどであった。他の一人の証人によると、中国人は兎のように狩りたてられ、動くところを見られたものはだれでも射撃された。これらの無差別の殺人によって、日本側が市を占領した最初の二、三日の間に、少くとも一万二千人の非戦闘員である中国人男女子供が死亡した。
  多くの強姦事件があった。犠牲者なり、それを護ろうとした家族なりが少しでも抵抗すると、その罰としてしばしば殺されてしまった。幼い少女と老女さえも、全市で多数に強姦された。そして、これらの強姦に関連して、変態的と嗜虐的な行為の事例が多数あった、多数の婦女は、強姦された後に殺され、その死体は切断された。占領後の最初の一カ月の間に、約二万の強姦事件が市内に発生した。
  日本兵は、欲しいものは何でも、住民から奪った。兵が道路で武器をもたない一般人を呼び止め、体を調べ、価値があるものが何も見つからないと、これを射殺することが目撃された。非常に多くの住宅や商店が侵入され、掠奪された。掠奪された物資はトラックで運び去られた。日本兵は店舗や倉庫を掠奪した後、これらに放火したことがたびたびあった。最も重要な商店街である太平路が火事で焼かれ、さらに市の商業区域が一劃(かく。画)一劃と相ついで焼き払われた。なんら理由らしいものもないのに、一般人の住宅を兵は焼き払った。このような放火は、数日後になると、一貫した計画に従っているように思われ、六週間も続いた。こうして、全市の約三分の一が破壊された。
  男子の一般人に対する組織立った大量の殺戮は、中国兵が軍服を脱ぎ捨てて住民の中に混りこんでいるという口実で、指揮官らの許可と思われるものによって行われた。中国人の一般人は一団にまとめられ、うしろ手に縛られて、城外へ行進させられ、機関銃と銃剣によって、そこで集団ごとに殺害された。兵役年令にあった中国人男子二万人は、こうして死んだことがわかっている。
  ドイツ政府は、その代表者から、「個人でなく、全陸軍の、すなわち日本軍そのものの暴虐と犯罪行為」について報告を受けた。この報告の後の方で、「日本軍」のことを「畜生のような集団」と形容している。
  城外の人々は、城内のものよりもややましであった。南京から二百中国里(約六十六マイル)以内のすべての部落は、大体同じような状態にあった。住民は日本兵から逃れようとして、田舎に逃れていた。所々で、かれらは避難民部落を組織した。日本側はこれらの部落の多くを占領し、避難民に対して、南京の住民に加えたと同じような仕打ちをした。南京から避難していた一般人のうちで、五万七千人以上が追い付かれて収容された。収容中に、かれらは飢餓と拷問に遇って、遂には多数の者が死亡した。生残った者のうちの多くは、機関銃と銃剣で殺された。
  中国兵の大きな幾団かが城外で武器を捨てて降伏した。かれらが降伏してから七十二時間のうちに、揚子江の江岸で、機関銃掃射によって、かれらは集団的に射殺された。
  このようにして、右のような捕虜三万人以上が殺された。こうして虐殺されたところの、これらの捕虜について、裁判の真似事さえ行われなかった。
  後日の見積りによれば、日本軍が占領してから最初の六週間に、南京とその周辺で殺害された一般人と捕虜の総数は、二十万以上であったことが示されている。これらの見積りが誇張でないことは、埋葬隊とその他の団体が埋葬した死骸が、十五万五千に及んだ事実によって証明されている。これらの団体はまた死体の大多数がうしろ手に縛られていたことを報じている。これらの数字は、日本軍によって、死体を焼き棄てられたり、揚子江に投げこまれたり、またはその他の方法で処分されたりした人々を計算に入れていないのである。
  日本の大使館員は、陸軍の先頭部隊とともに、南京へ入城した。十二月十四日に、一大使館員は、「陸軍は南京を手痛く攻撃する決心をなし居れるが、大使館員は其の行動を緩和せしめんとしつつあり」と南京国際安全地帯委員会に通告した。大使館員はまた委員に対して、同市を占領した当時、市内の秩序を維持するために、陸軍の指揮官によって配置された憲兵の数は、十七名にすぎなかったことを知らせた。軍当局への抗議が少しも効果のないことがわかったときに、これらの大使館員は、外国の宣教師に対して、宣教師たちの方で日本内地に実情を知れわたらせるように試み、それによって、日本政府が世論によって陸軍を抑制しないわけには行かなくなるようにしてはどうかといった。
  ベーツ博士の証言によると、同市の陥落後、二週間半から三週間にわたって恐怖はきわめて激しく、六週間から七週間にわたっては深刻であった。
  国際安全地帯委員会幹事スマイス氏は、最初の六週間は毎日二通の抗議を提出した。
  松井は十二月十七日まで後方地区にいたが、この日に入城式を行い、十二月十八日に戦没者の慰霊祭を催し、その後に声明を発し、その中で次のように述べた。「自分は戦争に禍せられた幾百万の江浙地方無辜の民衆の損害に対し、一層の同情の念に堪へぬ。今や旭旗南京城内に翻り、皇道江南の地に輝き、東亜復興の曙光将に来らんとす。この際特に支那四億万蒼生に対し反省を期待するものである」と。松井は約一週間市内に滞在した。
  当時大佐であった武藤は、一九三七年十一月十日に、松井の幕僚に加わり、南京進撃の期間中松井とともにおり、この市の入城式と占領に参加した。南京の陥落後、後方地区の司令部にあったときに、南京で行われている残虐行為を聞いたということを武藤も松井も認めている。これらの残虐行為に対して、諸外国の政府が抗議を申込んでいたのを聞いたことを松井は認めている。この事態を改善するような効果的な方策は、なんら講ぜられなかった。松井が南京にいたとき、十二月十九日に市の商業区域は燃え上っていたという証拠が、一人の目撃者によって、本法廷に提出された。この商人は、その日に、主要商業街だけで、十四件の火事を目撃した。松井と武藤が入城してからも、事態は幾週間も改められなかった。
  南京における外交団の人々、新聞記者及び日本大使館員は、南京とその付近で行われていた残虐行為の詳細を報告した。中国へ派遣された日本の無任所公使伊藤述史は、一九三七年九月から一九三八年二月まで上海にいた。日本軍の行為について、かれは南京の日本大使館、外交団の人々及び新聞記者から報告を受け、日本の外務大臣廣田に、その報告の大要を送った。南京で犯されていた残虐行為に関して情報を提供するところの、これらの報告やその他の多くの報告は、中国にいた日本の外交官から送られ、廣田はそれらを陸軍省に送った。その陸軍省では、梅津が次官であった。これらは連絡会議で討議された。その会議には、総理大臣、陸海軍大臣、外務大臣廣田、大蔵大臣賀屋、参謀総長及び軍令部総長が出席するのが通例であった。
  残虐行為についての新聞報道は各地にひろまった。当時朝鮮総督として勤務していた南は、このような報道を新聞紙上で読んだことを認めている。このような不利な報道や、全世界の諸国で巻き起された世論の圧迫の結果として、日本政府は松井とその部下の将校約八十名を召還したが、かれらを処罰する措置は何もとらなかった。一九三八年三月五日に日本に帰ってから、松井は内閣参議に任命され、一九四〇年四月二十九日に、日本政府から中日戦争における「功労」によって叙勲された。松井はその召還を説明して、かれが畑と交代したのは、南京で自分の軍隊が残虐行為を犯したためでなく、自分の仕事が南京で終了したと考え、軍から隠退したいと思ったからであると述べている、かれは遂に処罰されなかった。
  日本陸軍の野蛮な振舞いは、頑強に守られた陣地が遂に陥落したので、一時手に負えなくなった軍隊の行為であるとして免責することはできない。強姦、放火及び殺人は、南京が攻略されてから少くとも六週間、そして松井と武藤が入城してから少くとも四週間にわたって、引続き大規模に行われたのである。
  一九三八年二月五日に、新任の守備隊司令官天谷少将は、南京の日本大使官(ママ)で外国の外交団に対して、南京における日本人の残虐について報告を諸外国に送っていた外国人の態度をとがめ、またこれらの外国人が中国人に反日感情を煽動していると非難する声明を行った。この天谷の声明は、中国の人民に対して何物にも拘束されない膺懲戦を行うという日本の方針に敵意をもっていたところの、中国在住の外国人に対する日本軍部の態度を反映したものである。
【レファレンスコード】A08071307600(170~179枚目)

これらの事実「など」から、訴因第五十五が立証されたと認定された。「など」とつけるのは、南京以外の事例もあるから。
C部 第九章 起訴状の訴因についての認定
英文一一三七―一一四四頁
一九四八年十一月一日

  訴因第五十四は、通例の戦争犯罪の遂行を命令し、授権し、許可したことを訴追している。訴因第五十五は、捕虜と一般人抑留者に関する条約と戦争法規の遵守を確保し、その違反を防ぐために、充分な措置をとらなかったことを訴追している。われわれはこれらの両方の訴因にふくまれた犯罪が立証されている事例があったと認定する
 以上の認定の結果として、われわれは、個々の被告に対する起訴事実は、次の訴因だけについて、考慮しようとするものである。すなわち、第一、第二十七、第二十九、第三十一、第三十二、第三十三、第三十五、第三十六、第五十四及び第五十五である。
【レファレンスコード】A08071307800(12・13枚目)

訴因第五十五の対象者のうち、南京について有罪とされたのは廣田弘毅と松井石根である。武藤章は南京については「責任がない」とされたが、太平洋戦争時のスマトラ、フィリピンの事例で訴因第五十五につき有罪となった。
C部 第十章 判定
英文一一四五―一二一一頁
一九四八年十一月一日

  本裁判所は、これから、個々の被告の件について、判定を下すことにする
  裁判所条例第十七条は、判決にはその基礎とっなっている理由を付すべきことを要求している。これらの理由は、いま朗読を終った事実の叙述と認定の記録との中に述べられている。その中で、本裁判所は、係争事項に関して、関係各被告の活動を詳細に検討した。従って、本裁判所は、これから朗読する判定の中で、これらの判定の基礎となっている多数の個個の認定を繰返そうとするものではない。本裁判所は、各被告に関する認定については、その理由を一般的に説明することにする。これらの一般的な理由は、すでに挙げた叙述の中における個々の記述と認定とに基いているものである。
【レファレンスコード】A08071307800(16枚目)


廣田弘毅
  廣田は、訴因第一、第二十七、第二十九、第三十一、第三十二、第三十三、第三十五、第五十四及び第五十五で起訴されている。
(中略)
  訴因第五十五については、かれをそのような犯罪に結びつける唯一の証拠は、一九三七年十二月と一九三八年一月及び二月の南京における残虐行為に関するものである。かれは外務大臣として、日本軍の南京入城直後に、これらの残虐行為に関する報告を受け取った。弁護側の証拠によれば、これらの報告は信用され、此の問題は陸軍省に照会されたということである。陸軍省から、残虐行為を中止させるという保証が受取られた。この保証が与えられた後も、残虐行為の報告は、少くとも一カ月の間引続いてはいってきた。本裁判所の意見では、残虐行為をやめさせるために、直ちに措置を講ずることを閣議で主張せず、また同じ結果をもたらすために、かれがとることができた他のどのような措置もとらなかったということで、廣田は自己の義務に怠慢であった。何百という殺人、婦人に対する暴行、その他の残虐行為が、毎日行われていたのに、右の保証が実行されていなかったことを知っていた。しかも、かれはその保証にたよるだけで満足していた。かれの不作為は、犯罪的な過失に達するものであった。
 
本裁判所は、訴因第一、第二十七及び第五十五について、廣田を有罪と判定する。訴因第二十九、第三十一、第三十二、第三十三、第三十五及び第五十四については、かれは無罪である。(30~33枚目)


松井石根
  被告松井は、訴因第一、第二十七、第二十九、第三十一、第三十二、第三十五、第三十六、第五十四及び第五十五で訴追されている。 
  松井は日本陸軍の高級将校であり、一九三三年に大将の階級に進んだ。かれは陸軍において広い経験をもっており、そのうちには、関東軍と参謀本部における勤務が含まれていた。共同謀議を考え出して、それを実行した者と緊密に連絡していたことからして、共同謀議者の目的と政策について、知っていたはずであるとも考えられるが、裁判所に提出された証拠は、かれが共同謀議者であったという認定を正当化するものではない。
  一九三七年と一九三八年の中国におけるかれの軍務は、それ自体としては、侵略戦争の遂行と見做すことはできない。訴因第二十七について有罪と判定することを正当化するためには、検察側の義務として、松井がその戦争の犯罪的性質を知っていたという推論を正当化する証拠を提出しなければならなかった。このことは行われなかった。
  一九三五年に、松井は退役したが、一九三七年に、上海派遣軍を指揮するために、現役に復帰した。ついで、上海派遣軍と第十軍とを含む中支那方面軍司令官に任命された。これらの軍隊を率いて、かれは一九三七年十二月十三日に南京市を攻略した。
  南京が落ちる前に、中国軍は撤退し、占領されたのは無抵抗の都市であった。それに続いて起ったのは、無力の市民に対して、日本の陸軍が犯した最も恐ろしい残虐行為の長期にわたる連続であった。日本軍人によって、大量の虐殺、個人に対する殺害、強姦、掠奪及び放火が行われた。残虐行為が広く行われたことは、日本人証人によって否定されたが、いろいろな国籍の、また疑いのない、信憑性のある中立的証人の反対の証言は、圧倒的に有力である。この犯罪の修羅の騒ぎは、一九三七年十二月十三日に、この都市が占拠されたときに始まり、一九三八年二月の初めまでやまなかった。この六、七週間の期間において、何千という婦人が強姦され、十万以上の人々が殺害され、無数の財産が盗まれたり、焼かれたりした。これらの恐ろしい出来事が最高潮にあったときに、すなわち十二月十七日に、松井は同市に入城し、五日ないし七日の間滞在した。自分自分の観察と幕僚の報告とによって、かれはどのようなことが起っていたかを知っていたはずである。憲兵隊と領事館員から、自分の軍隊の非行がある程度あったと聞いたことをかれは認めている、南京における日本の外交代表者に対して、これらの残虐行為に関する日々の報告が提出され、かれらはこれを東京に報告した。本裁判所は、何が起っていたかを松井が知っていたという充分な証拠があると認める。これらの恐ろしい出来事を緩和するために、かれは何もしなかったか、何かしたにしても、効果のあることはなにもしなかった。同市の占領の前に、かれは自分の軍隊に対して、行動を厳正にせよという命令を確かに出し、その後さらに同じ趣旨の命令を出した。現在わかっているように、またかれが知っていたはずであるように、これらの命令はなんの効果もなかった。かれのために、当時かれは病気であったということが申し立てられた。かれの病気は、かれの指揮下の作戦行動を指導できないというほどのものでもなくまたこれらの残虐行為が起っている間に、何日も同市を訪問できないというほどのものでもなかった。これらの出来事に対して責任を有する軍隊を、かれは指揮していた。これらの出来事をかれは知っていた。かれは自分の軍隊を統制し、南京の不幸な市民を保護する義務をもっていたとともに、その権限をももっていた。この義務の履行を怠ったことについて、かれは犯罪的責任があると認めなければならない
  本裁判所は、被告松井を訴因第五十五について有罪、訴因第一、第二十七、第二十九、第三十一、第三十二、第三十五、第三十六及び第五十四について無罪と判定する。(52~54枚目)


武藤章
  被告は、訴因第一、第二十七、第二十九、第三十一、第三十二、第三十三、第三十六、第五十四及び第五十五で訴追されている。
(中略) 
  本裁判所は、訴因第一、第二十七、第二十九、第三十一及び第三十二について、武藤を有罪と判定する。訴因第三十三及び第三十六については、かれは無罪である。

戦争犯罪
  武藤は、一九三七年十一月から一九三八年七月まで、松井の参謀将校であった。南京とその周辺で、驚くべき残虐行為が松井の軍隊によって犯されたのは、この期間においてであった。多くの週間にわたって、これらの残虐行為が行われていたことを、松井が知っていたと同じように、武藤も知っていたことについて、われわれはなんら疑問ももっていない。かれの上官は、これらの行為をやめさせる十分な手段をとらなかった。われわれの意見では、武藤は、下僚の地位にいたので、それをやめさせる手段をとることができなかったのである。この恐ろしい事件については、武藤は責任がない
  一九四二年四月から一九四四年十月まで、武藤は北部スマトラで近衛第二師団を指揮した。この期間において、かれの軍隊が占領していた地域で、残虐行為が広く行われた。これについては、武藤は責任者の一人である。捕虜と一般人抑留者は食物を充分に与えられず放置され、拷問され、殺害され、一般住民は虐殺された。
  一九四四年十月に、フィリッピンにおいて、武藤は山下の参謀長になった。降伏まで、かれはその職に就いていた。このときには、かれの地位は、いわゆる「南京暴虐事件」のときに、かれが占めていた地位とは、まったく異なっていた。このときには、かれは方針を左右する地位にあった。この参謀長の職に就いていた期間において、日本軍は連続的に虐殺、拷問、その他の残虐行為を一般住民に対して行った。捕虜と一般人抑留者は、食物を充分に与えられず、拷問され、殺害された。戦争法規に対するこれらのはなはだしい違反について、武藤は責任者の一人である。われわれは、これらの出来事について、まったく知らなかったというかれの弁護を却下する。これはまったく信じられないことである。本裁判所は、訴因第五十四と第五十五について、武藤を有罪と判定する(57~59枚目)

極東国際軍事裁判判決速記録

〔午後三時五十五分開廷〕
○法廷執行官 ただいまより極東国際軍事裁判を続行します。
○裁判長 極東国際軍事裁判所は、本件の起訴状について有罪の判定を受けた被告に対して、裁判所条例第十五条チ号に従って、ここに刑を宣告する。

被告 廣田弘毅
被告が有罪の判定を受けた起訴状中の訴因に基いて、極東国際軍事裁判所は、被告を絞首刑に処する。
被告 松井石根
被告が有罪の判定を受けた起訴状中の訴因に基いて、極東国際軍事裁判所は、被告を絞首刑に処する。
被告 武藤章
被告が有罪の判定を受けた起訴状中の訴因に基いて、極東国際軍事裁判所は、被告を絞首刑に処する。
【レファレンスコード】A08071311400(118枚目)

 

東京裁判当時、侵略の定義は無かった、というウソ


パリ不戦条約(1928)
今後戰爭ニ訴ヘテ國家ノ利益ヲ増進セントスル署名國ハ本條約ノ供與スル利益ヲ拒否セラルヘキモノナルコトヲ確信シ
日本がしたことはこれ。これがA級戦犯>戰爭ニ訴ヘテ國家ノ利益ヲ増進セントスル

萩生田光一議員「国会決議で戦犯は名誉回復」の間違い

その記事
2015.2.11 19:00
【長州「正論」懇話会】
萩生田光一・自民総裁特別補佐「慰安婦報道検証し、名誉回復を」

長州「正論」懇話会の第7回講演会が11日、山口県下関市のシーモールパレスで開かれ、自民党の萩生田光一総裁特別補佐が「日本の誇りと名誉回復元年に」と題して講演した。
・・・首相の靖国神社参拝について「首相は戦争をしたいから靖国に行くわけではない。日本では国会決議によって戦犯は名誉回復され、存在しない。戦勝国も認めた。こうした事実の説明とアピールが大事だ。リーダーの安倍晋三と二人三脚で取り組みたい」と語った。

■どう間違いか。
(1)その決議は以下の4つを指すと思われるが、どれも「戦犯を釈放してもらうよう政府は取組め」という政府への尻叩き決議でしかない。
1952年6月9日参議院本会議「戦犯在所者の釈放等に関する決議」 
 
○岡部常君 先ず決議案文を朗読いたします。
  戦犯在所者の釈放等に関する決議案
講和が成立し独立を恢復したこの時に当り、政府は、
 一、死刑の言渡を受けて比国に拘禁されている者の助命
 二、比国及び濠洲において拘禁されている者の速やかな内地帰還
 三、巣鴨プリズンに拘禁されている者の妥当にして寛大なる措置の速やかな促進のため、関係諸国に対し平和條約所定の勧告を為し、或いはその諒解を求め、もつて、これが実現を図るべきである
  右決議する。
(中略)
○議長(佐藤尚武君) これにて討論の通告者の発言は全部終了いたしました。討論は終局したものと認めます。
 これより本決議案の採決をいたします。本決議案に賛成の諸君の起立を求めます。
 (賛成者起立〕
○議長(佐藤尚武君) 過半数と認めます。よつて本決議案は可決せられました。(拍手)

○国務大臣(木村篤太郎君) 只今御可決になりました決議案に対して政府の所信を申述べたいと思います。
 現在戦争犯罪に問われまして内地に服役されておるかたが九百二十四名、外地で服役されておるかたが三百数十名であるのであります。・・・政府におきましては、今日まであらゆる機会をとらえまして、公式或いは非公式に関係国の好意ある取扱を得べく努力を拂つて参りましたが、今後もこの努力を続けて参りまして、仮出所は勿論のこと、赦免又は減刑につきましても調査の上、正式に勧告を行いまして、この不幸な事態を一日も早く解消せしめまして、今日御可決になりましたこの決議に対して全くこれに応ずる覚悟である次第であります。

1952年12月9日衆議院本会議「戦争犯罪による受刑者の釈放等に関する決議」
 
○田子一民君 
まず決議案の案文を朗読いたします。
 戦争犯罪による受刑者の釈放等に関する決議
独立後すでに半歳、しかも戦争による受刑者として内外に拘禁中の者はなお相当の数に上り、国民の感情に堪え難いものがあり、国際友好の上より遺憾とするところである。
 よつて衆議院は、国民の期待に副い家族縁者の悲願を察し、フイリツピンにおいて死刑の宣告を受けた者の助命、同国及びオーストラリア等海外において拘禁中の者の内地送還について関係国の諒解を得るとともに、内地において拘禁中の者の赦免、減刑及び仮出獄の実施を促進するため、まずB級及びC級の戦争犯罪による受刑者に関し政府の適切且つ急速な措置を要望する
 右決議する。
(中略)
○議長(大野伴睦君) これにて討論は終局いたしました。
 採決いたします。本案に賛成の諸君の起立を求めます。
    〔賛成者起立〕
○議長(大野伴睦君) 起立多数。よつて本案は可決いたしました。(拍手)
 この際法務大臣から発言を求められております。これを許します。法務大臣犬養健君。
    〔国務大臣犬養健君登壇〕
○国務大臣(犬養健君) ただいま成立いたしました決議に対して敬意を表し、この際政府の所信を申し上げたいと存じます。・・・政府といたしましては、本日のこの御決議の意を体し、さらに今後とも関係国の好意ある処置を期待しつつ、あらゆる手段方法によりまして、適切迅速なる方途をとり、一日も早くこの不幸なる事態を解消いたしまして、本日の御趣旨に沿いたい覚悟でございます。(拍手)

1953年8月3日衆議院本会議「戦争犯罪による受刑者の赦免に関する決議」 
 
○山下春江君 
まず、決議案文を朗読いたします。
 戦争犯罪による受刑者の赦免に関する決議
 八月十五日九度目の終戦記念日を迎えんとする今日、しかも独立後すでに十五箇月を経過したが、国民の悲願である戦争犯罪による受刑者の全面赦免を見るに至らないことは、もはや国民の感情に堪えがたいものがあり、国際友好の上より誠に遺憾とするところである。しかしながら、講和条約発効以来戦犯処理の推移を顧みるに、中国は昨年八月日華条約発効と同時に全員赦免を断行し、フランスは本年六月初め大減刑を実行してほとんど全員を釈放し、次いで今回フイリピン共和国はキリノ大統領の英断によつて、去る二十二日朝横浜ふ頭に全員を迎え得たことは、同慶の至りである。且又、来る八月八日には濠州マヌス島より百六十五名全部を迎えることは衷心欣快に堪えないと同時に、濠州政府に対して深甚の謝意を表するものである。
 かくて戦争問題解決の途上に横たわつていた最大の障害が完全に取り除かれ、事態は、最終段階に突入したものと認められる秋に際会したので、この機会を逸することなく、この際有効適切な処置が講じられなければ、受刑者の心境は憂慮すべき事態に立ち至るやも計りがたきを憂えるものである。われわれは、この際関係各国に対して、わが国の完全独立のためにも、将又世界平和、国家親交のためにも、すみやかに問題の全面的解決を計るべきことを喫緊の要事と確信するものである。
 よつて政府は、全面赦免の実施を促進するため、強力にして適切且つ急速な措置を要望する
 右決議する。
(中略)
○議長(堤康次郎君) 採決いたします。本案は、委員長報告の通り決するに御異議ありませんか。
    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
○議長(堤康次郎君) 御異議なしと認めます。よつて本案は委員長報告の通り可決いたしました。(拍手)
 この際、法務大臣から発言を求められております。これを許します。法務大臣犬養健君。
    〔国務大臣犬養健君登壇〕
○国務大臣(犬養健君) ただいま本院においてなされました御決議を、深き感慨をもつて拝聴いたしました。・・・先ほど提案者の述べられましたごとく、事態は現在いわゆる最終の段階に入つていると考えられますので、政府はここにおいてあらゆる熱意と努力とを傾けまして善処をいたし、もつて国民各位の熱望にこたえたき覚悟でございます。(拍手)

1955年7月19日衆議院本会議「戦争受刑者の即時釈放要請に関する決議」 
 
○永山忠則君
まず、決議案を朗読いたします。
 戦争受刑者の即時釈放要請に関する決議案
 戦いを終えて満十年今なお巣鴨刑務所には五百八十二名の同胞が、いわゆる戦争犯罪人の名のもとに残されている。講和条約が発効してすでに三年、その間本院においてこれら戦争受刑者の全面釈放に関して決議すること三度に及ぶにもかかわらず、いまだに、その根本的解決を見るに至らないことは、われらのもっとも遺憾とするところである。
 ひるがえつて世論の動向を見るに、戦争裁判に対するわが国民感情は、もはやこれ以上の拘禁継続をとうてい容認しえない限度に達している。
 時あたかも日ソ交渉において在ソ抑留同胞の全員送還の実現を要求している現状にかんがみ、政府は、これら戦争受刑者並びに留守家族の悲願と、国民の期待にこたえるべく、ただちに関係諸国に対し全員の即時釈放を強く要請し、きたる八月十五日を期して戦犯問題を全面的に解決するため、誠意をもって速かに具体的措置を断行せられんことを要望する
 右決議する。
(中略)
議長(益谷秀次君) 採決いたします。本案を可決するに御異議ありませんか。
    〔「異議なし」と呼ぶ者あり〕
○議長(益谷秀次君) 御異議なしと認めます。よって本案は可決いたしました。
 この際外務大臣から発言を求められております。これを許します。外務大臣重光葵君。
    〔国務大臣重光葵君登壇〕
○国務大臣(重光葵君) 戦争受刑者の釈放問題につきましては、政府におきまして、これまで関係諸国に対し熱心にその要請をなし来たったのでありまして、関係国の態度は漸次好転して参りましたものの、今なお多くの末釈放者があることは、戦争終結後十年の今日、まことに遺憾にたえません。政府は、ただいまの御決議の趣旨を体して、いわゆる戦犯釈放具現方につき今後とも全力を尽し、その実現を期する所存でありますことをここに申し上げます。以上。(拍手)
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/022/0512/02207190512043c.html
3つ目の「戦争犯罪による受刑者の赦免に関する決議」が国会決議なのに「政府は~要望する」と政府が主語になっているのが不可解だが、ここでは取りあえず日本語のミスだろうということにしておく。

さてこれら4決議が釈放要請に関するものということはつまり
・「収監中=生存中」の戦犯が対象の決議であり、既に死んでいた東条英機、山下奉文らは当然対象外である。(話を進めるために)仮にこの決議が名誉回復であるとしても、その場合も東条や山下らは名誉回復されていないわけである。
・A級だけでなくBC級も対象、そのとき収監されていた全戦犯が対象の決議である。つまり(話を進めるために)これが仮に名誉回復決議であるとするなら、その場合A級だけでなくBC級もみな名誉回復されたことになってしまう。荻生田氏ら名誉回復されたよ派は、何百だか何千だかの収監中戦犯が全員名誉回復されたと主張するのだろうか。


(2)戦犯は政府の働きかけで「減刑」されただけであり、「刑期が満了した」だけである。戦犯履歴=前科が消えたわけではない。

まず首相答弁
第121回国会(臨時会)答弁書 
平成三年十月二十九日 内閣総理大臣 海部俊樹   

二の1について
・・・A級戦争犯罪人として有罪判決を受けた者のうち減刑された者は十名(いずれも終身禁錮の判決を受けた者である。)であり、いずれも昭和三十三年四月七日付けで、同日までにそれぞれ服役した期間を刑期とする刑に減刑された。なお、赦免された者はいない。

二の2について
二の1において述べた十名に対する減刑は、いずれも、我が国の勧告並びに米国、英国、フランス、オランダ、オーストラリア、カナダ、フィリピン、パキスタン及びニュー・ジーランドの政府の決定に基づいて行われた。なお、その減刑の処分決定には理由が付されていないが、我が国の勧告は、本人の善行及び高齢を理由とするものであった
二の4について
 平和条約第十一条及び平和条約第十一条による刑の執行及び赦免等に関する法律に規定する「赦免」とは、一般に刑の執行からの解放を意味すると解される。赦免が判決の効力に及ぼす影響について定めた法令等は存在しない。
二の6について
A級戦争犯罪人のすべてについて刑期が満了したのは、昭和三十三年四月七日であり、BC級戦争犯罪人のすべてについて刑期が満了したのは、昭和三十三年十二月二十九日である。BC級戦争犯罪人のうちお尋ねの朝鮮半島出身者及び台湾出身者についての釈放の時期は、不明である。
http://www.sangiin.go.jp/japanese/joho1/kousei/syuisyo/121/touh/t121012.htm

釈放の経緯を説明した外務省・昭和32年・34年版外交青書
わが外交の近況
昭和32年9月
外  務  省

各説 
六 戦犯者の釈放と抑留邦人送還に関する努力
講和条約発効の当時一、二四四名を数えていた戦犯も、政府の各関係国政府に対する不断の釈放要請の結果、中、比、仏、蘭関係戦犯ならびにA級戦犯者が全員釈放あるいは仮出所を許可されて、昭和三十一年末においては巣鴨に服役の戦犯は米、豪、英関係の一〇九名となつた。この内訳は米国関係八四名、豪州関係二三名、英国関係二名である。しかし、英国関係二名は本年一月一日付で釈放されたので、戦犯は米豪両国関係のみとなつたから、政府は戦犯問題の全面解決を図る方針で両国政府に対し強く釈放要請を行つて来た。これに対し豪州政府は昭和三十一年六月末に決定した戦犯に対する措置に基き釈放の促進を示し、四月末には一四名を残すのみとなつた。これら残存者に対してメンジス総理訪日の際岸首相より釈放の申入れを行つた結果、同総理から岸首相あてに残存戦犯全員は六月末までに釈放するとのメッセージがあり、六月二十九日その釈放が実現し、豪州関係戦犯問題は終結を見るにいたつた。
一方米国関係戦犯の釈放振りを見ると、本年に入り毎月三、四名宛現在(九月十五日)までに二七名の仮出所を許可しているが、巣鴨プリズンにはなお五六名が服役している。
政府としては残存する米国関係戦犯についてもこれが根本的解決を計るべく努力中である。
http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/bluebook/1957/s32-contents.htm
http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/bluebook/1957/s32-2-6.htm

わが外交の近況(第3号)
昭和34年3月
外 務 省

各説
二 わが国と各地域との間の諸問題
北米関係
9 戦犯問題の解決
戦犯問題については、政府は、解決しうるものから速やかに解決するとの立場に立つて鋭意処理を進め、昨年九月藤山外務大臣が渡米した際も、米国政府に対し重ねて本件の早期解決方を要請した結果、昨年十二月末をもつて戦犯問題は左のとおり完全に解決した。
A 級 戦 犯
一九五六年三月末をもつてA級戦犯者全員が仮出所が実現したが、これらの者は仮出後もなお保護監督下に置かれている状態であつたので、日本政府は、米国政府をはじめ関係国政府に対しその赦免方を要請していた。しかるところ昨年四月七日在京関係国公館より、対日平和条約第十一条に基き、A級戦犯者全員が同日までに服役した期間までその刑を減刑する旨の通報があつたので、ここにA級戦犯問題は完全に解決するに至つた。
B、C級戦犯
一昨年十二月末現在巣鴨に在所中の米国関係B、C級戦犯者は四十五名であつたが、同年十二月に設置された戦犯釈放促進のための調査会が、米国政府より貸与を受けた裁判記録に基いて一覧を作成し、右所見を基として、日本政府より米国政府に対しこれらの者の仮出所許可方を要請した結果、昨年五月二十日付をもつて全員の仮出所が実現した。政府は、その後さらに仮出所中の米国関係B、C級戦犯者三六〇名をも前記のA級戦犯と同様な方法で速やかに赦免するよう米国政府に要請した。その結果これらの者についても逐次減刑、赦免が許可され、同年十二月二十九日付をもつて全員の赦免が実現した。なほ仮出所のオランダ関係B、C級戦犯一二八名も同年十二月五日付で全員減刑赦免されたので、ここに戦犯問題は完全に解決をみることとなつた。
http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/bluebook/1959/s34-contents.htm
http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/bluebook/1959/s34-2-2-2.htm

ここから分かるのは、
・戦犯は減刑などで「刑期を満了」して出所しただけ、あるいは「釈放」「仮出所」をしただけであり、つまり一定の刑期を務め上げたわけである。犯罪者が刑期を終えて出所したから「名誉回復」だとは誰も言わないだろう。戦犯も同様に出所して元戦犯となっただけである。彼らの戦犯履歴=前科が消えたわけではない。
・海部答弁ではA級戦犯の減刑勧告は「本人の善行及び高齢」を理由としており、罪を認めないなどとは言っていない。

萩生田氏の言う「戦犯は名誉回復され、存在しない」とはつまり「冤罪認定された、そもそも最初から罪など存在しなかったのだ」という意味だと解釈するが、それは間違いであることが以上から分かるだろう。名誉回復されたよ派は、このように根拠が無いのである。


以下は関連エントリ
「東京裁判は事後法で違法・無効」説の真偽
http://blog.livedoor.jp/ekesete1/archives/40575905.html
A級戦犯は罪が重いわけではない、BC級と同じだ、というウソ
http://blog.livedoor.jp/ekesete1/archives/41643358.html
靖国神社の何が問題なのか。問題点3つ
http://blog.livedoor.jp/ekesete1/archives/41361743.html


(参考)

靖国問題―A級戦犯は存在しない
2014.01.07
文/幸福実現党岐阜県本部政調会長 加納有輝彦

◆戦犯の名誉回復
そして1952年6月9日の参議院本会議に「戦犯在所者の釈放等に関する決議」が提出されなんと社会党代議士の賛成弁論もあり全員一致で可決されたのです。
その後1955年7月19日の衆議院本会議で「戦争受刑者の即時釈放要請に関する決議」がなされました。国民からも4千万もの署名が集まりました。
これを受けて戦争犯罪人の釈放要求が日本政府から提出され、関係諸国(11か国)の過半数の賛成を得て、1956年に収監されていたA級戦犯が全員釈放されました。(7人は絞首刑によりすでに他界)
このようにサンフランシスコ講和条約の第11条を忠実に解釈して、A級戦犯の名誉が回復されたのであります。対外的にも対内的にも正式な手続きを経て、A級戦犯なる存在は合法的に無くなったのであります。
よって、現段階で存在しないA級戦犯に言及する際は、「いわゆる」を付しているのです。「いわゆる」を付していない中日新聞の報道は、歴史的事実に不誠実と思います。
 
平成十七年十月十七日提出
質問第二一号
「戦犯」に対する認識と内閣総理大臣の靖国神社参拝に関する質問主意書
提出者 野田佳彦
 
3 昭和二十七年六月九日、参議院本会議において「戦犯在所者の釈放等に関する決議」、同年十二月九日、衆議院本会議において「戦争犯罪による受刑者の釈放等に関する決議」がなされ、昭和二十八年八月三日、衆議院本会議においては「戦争犯罪による受刑者の赦免に関する決議」が全会一致で可決され、昭和三十年には「戦争受刑者の即時釈放要請に関する決議」がなされた。サンフランシスコ講和条約第十一条の手続きに基づき、関係十一カ国の同意のもと、「A級戦犯」は昭和三十一年に、「BC級戦犯」は昭和三十三年までに赦免され釈放された。刑罰が終了した時点で受刑者の罪は消滅するというのが近代法の理念である。赦免・釈放をもって「戦犯」の名誉は国際的にも回復されたとみなされるが、政府の見解はどうか。http://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_shitsumon.nsf/html/shitsumon/a163021.htm

堀 義人さんが阿部 鉄弥さんの投稿をシェアしました。
2013年12月29日 · 
A級戦犯は、1952年に4000万人の署名が集まり国会決議を経て赦免された。一方、国際的にも1956年に関係11ヶ国の同意を得て、A級戦犯は赦免されていた。今、靖国神社に合祀されているのは戦犯なのだろうか?

衆議院予算委員会第三分科会 -  
平成26年02月26日
 
○山田賢司自民党議員
ありがとうございます。
おっしゃったように、何人も、裁くためには、あらかじめ定められた法律によって適正に処罰されなければならない。東京裁判というのは、もう皆さん御承知のように、事後法によって裁かれた方々。これを、今さら判決を蒸し返そうということではありませんけれども、日本国政府の取り扱いとしては、これは刑務死ではなくて公務死、公務に殉じた人だったということを改めてここで確認しておきたいと思います。
そして、さらに、そういった経緯もあって、かつて、戦後、東京裁判の後、日本弁護士会を中心に、いわゆる戦犯の方々の赦免、釈放を求める署名活動、こういったことが行われて日本国で四千万人を超える署名を集めた、国会においても四度にわたってこの赦免、釈放という決議がなされた、こういった形で名誉が回復されたというふうに理解しております
にもかかわらず、亡くなられた方々をあくまで、あたかも極悪犯罪人であるかのように、A級戦犯だ、こいつらが戦争責任があるんだみたいなことを言っておとしめる方々がいらっしゃいます。
ここでちょっと確認したいんですけれども、死者の名誉に関して、刑法二百三十条の二項では、虚偽の事実を摘示して名誉を毀損した場合にも処罰の対象となる、こういう旨の規定がありますけれども、虚偽の事実を摘示して個々の英霊を犯罪者としておとしめるということは名誉毀損に該当すると考えますが、いかがでしょうか。

- 参 - 予算委員会 - 24号 
平成23年08月11日
 
○有村治子自民党議員
 私も今回のことを機に……(発言する者あり)味方の皆様、静かにしていただけると感謝します。大事なことです。
 私も今回のを機に改めて調査をして、正確さを期すために再確認をいたしました。終戦から四十年もたった昭和六十年、一九八五年、時の中曽根康弘総理の参拝からでした。
 実は、その前、いわゆるA級戦犯が合祀された後も、キリスト教徒でいられた大平正芳首相と、また鈴木善幸首相が閣僚十五名以上を連れて靖国神社に参拝されたとき、中国は抗議をしていません。つまり、中国は、終戦から四十年経過して初めて靖国問題を外交カードにしてきました。合祀されてから何年も何も言わなかった中国が突如A級戦犯を持ち出してくることは論理的一貫性がないという外交事実をここで共有させていただきます。
 GHQの占領政策が終わって主権を回復した当時の日本の人口は約八千六百万、うち四千万人とも言われる多数の国民が、戦犯とされた受刑者の即時釈放を求めて署名に走りました。日弁連、時の日本弁護士連合会も大々的に署名活動を展開し、それを受けて昭和三十年までに、戦犯の赦免、釈放等の働きかけを政府に求める国会決議が可決しました。そのうちの二本の決議は、衆議院で与野党全会一致で成立をしています。この衆参両院の意思を受けて、サンフランシスコ講和条約第十一条に基づき日本政府が連合国と交渉し、戦争犯罪受刑者を釈放し、彼らの名誉回復を図りました。
 これら戦争裁判受刑者は、講和条約に従って連合国の合意の下、主権を回復した日本政府から赦免、減刑をされ、もはや国内法上も犯罪者ではなくなったことを日本政府は度々答弁してきました。にもかかわらず、なぜ総理はA級戦犯のことを殊更蒸し返されるのでしょうか。これは、占領後、主権を回復した日本の国会の歴史を知らないという総理の無知なのか、それとも、この名誉を回復した二回の全会一致の決議があるという国会の歴史を分かった上であえて現実から目を背けようとする、言わば総理の確信的見解なのか、端的にお答えください。

特集
A級戦犯は既に免責されている
杉本幹夫(自由主義史観研究会理事)
 
中国はサンフランシスコ講和条約11条で東京裁判を認めたのだから、日本は彼らの罪を認め、靖国神社に合祀することを止めろと主張している。
しかし日本はこの11条で彼らが既に免責されていることを、もっと主張すべきである。その第2項には、その裁判を行った国の過半数の同意を得た場合は赦免できることになっている。日本はこの条項を受け、国会で何回も戦犯の免責を決議し、関係各国に働きかけ、A級戦犯は1956年3月末までに、B・C級戦犯は1958年5月末までに全員赦免、釈放を勝ち取ったのである。更にこの釈放により、刑死した方の遺族にも恩給が支給されることになったのである。
下記に昭和27年12月9日と昭和28年8月3日付けの衆議院本会議の決議を示す。
http://www.jiyuushikan.org/tokushu/tokushu_g_9.html

2004年12月1日(水)「しんぶん赤旗」
戦犯の名誉回復の国会決議って?
 
 〈問い〉 『文芸春秋』12月号の座談会で中西輝政氏が“昭和28年の国会で、戦犯の名誉回復が全会一致で決議された。A級戦犯の靖国合祀も基本的にはこの決議の延長線上にある”といっています。これは本当ですか? 日本共産党も賛成したのですか? (大阪・一読者)
 〈答え〉 サンフランシスコ平和条約調印のあと国会では戦争犯罪問題に関する論戦がさかんにおこなわれました。その特徴は、侵略戦争への反省はほとんどみられず、逆に戦争犯罪は、国内法による犯罪ではないから「前科」とはならない、戦争犯罪人は「国の犠牲者」「愛国者」であるといった論議でした。戦犯釈放要請決議も繰り返しおこなわれました。((1)52年6月9日、参院本会議(2)52年6月12日、衆院本会議(3)52年12月9日、衆院本会議(4)53年8月3日、衆院本会議(5)55年7月19日、衆院本会議)
 これらは、自由党、改進党、両派社会党共同提案といったように日本共産党と労農党を除き、社会党もふくめておこなわれました。
 こうした動きにたいして、日本共産党は、田中堯平衆院議員が、戦犯の「刑執行及び赦免等に関する法律」制定に反対する討論(52年4月14日衆院法務委員会)をおこなったのをはじめ、岩間正男議員が「戦犯在所者の釈放等に関する決議案」にたいする反対討論(52年6月9日参議院本会議)、高田富之議員が「戦争犯罪者の釈放等に関する決議案」にたいする反対討論(52年6月12日、衆院本会議)に、それぞれ立つなど、たたかいました。
 中西氏が言う「昭和28年(53年)」当時、日本共産党は国会の会派がありませんでした。ですから、このときの国会決議が全会一致といっても日本共産党はふくまれません。(衆院議員は一人で「小会派クラブ」に属しており、クラブの個々の議員の態度の記録はありません)
 日本共産党は、戦前から侵略戦争に命がけで反対し、戦後も戦犯政治をきびしく批判し主権者である国民が主人公となる民主政治を追求してきました。日本共産党はこうした党の歴史を誇りとしており、戦争犯罪者を免罪するような態度をとることはあり得ないことです。(喜)
 〔2004・12・1(水)〕
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik3/2004-12-01/2004-12-01faq.html

 

A級戦犯は罪が重いわけではない、BC級と同じだ、というウソ

A級戦犯とはただの犯罪人ではない。「重大戦争犯罪人、major war criminals」である。
極東国際軍事裁判所条例
第一章 裁判所ノ構成
第一条 裁判所ノ設置
極東ニ於ケル重大戦争犯罪人ノ公正且ツ迅速ナル審理及ビ処罰ノ為メ茲ニ極東国際軍事裁判所ヲ設置ス。
裁判所ノ常設地ハ東京トス。

英語原文
Charter of the International Military Tribunal for the Far East
SECTION I: CONSTITUTION OF TRIBUNAL
ARTICLE 1. Tribunal Established.
The International Military Tribunal for the Far East is hereby established for the just and prompt trial and punishment of the major war criminals in the Far East.
The permanent seat of the Tribunal is in Tokyo.

また東京裁判判決文でも、侵略戦争はもっとも重大な犯罪として扱われている。
侵略戦争を遂行する共同謀議、または侵略戦争を遂行することよりも、いっそう重大な犯罪は、まことに想像することができない。なぜなら、その共同謀議は世界の人民の安全を脅かし、その遂行はこの安全を破壊するからである。このような共同謀議からおそらく生ずる結果、またその遂行から必ず生ずる結果は、数知れぬ人間の上に、死と苦悶とが襲いかかるということである。

また、ニュルンベルグ裁判の判決では「平和に対する罪」を「もっとも重大な告訴」「最高の国際犯罪」としているという。
藤田久一「戦争犯罪とは何か」岩波新書1995年3月20日第1刷発行

ニュルンベルグ条例第六条
 条例第六条(a)は、裁判所が「一個人としてまたは組織の一員として、つぎの犯罪のいずれかを犯した者を裁判しかつ処罰する権限を有するものとする」とし、平和に対する罪をつぎのように定義した。

  侵略戦争を、または国際条約・協定。誓約に違反する戦争を計画し、準備し開始し実行したこと、またはこれらの行為を達成するための共通の計画や共同謀議に参加したこと。

 条例は、二種類の平和に対する罪を区別している。ひとつは、侵略戦争の、または国際条約違反の戦争の計画・準備・開始または実行であり、いまひとつは、このいずれかを達成するための共通の計画または共同謀議への参加である。起訴状もこの区別にしたがった。起訴状の訴因第一は、平和に対する罪のみならず、戦争犯罪および人道に対する罪のかかる共通の計画または共同謀議であり、訴因第二は、侵略戦争または条約違反の戦争の計画・準備・開始および実行である。

 ニュルンベルグ裁判所判決はつぎのように述べている。

  起訴状における、被告人が侵略戦争を計画しかつ実行したという告訴は、もっとも重大な告訴である。戦争は本質的に悪である。その結果は、交戦国のみに限定されず、全世界に影響を与える。それゆえ、侵略戦争を開始することは、国際犯罪にとどまらない。それはそれ自体に全体の累積された悪をふくむという点で他の戦争犯罪からのみ区別された最高の国際犯罪である

 平和に対する罪を最高の国際犯罪として描くこと、および、六条の列挙するさまざまの戦争犯罪の序列はきわめて重要である。条例は広義の戦争犯罪を網羅的に列挙し、かつ戦争犯罪の序列を確立し、判決もこれを確認したといえよう。これははじめてのことであった。(78~80頁)
巻末の著者略歴によると藤田久一氏は
1961年京都大学法学部卒業
専攻 国際法
現在 東京大学法学部教授
著書 「軍縮の国際法」(日本評論社)
   「現代国際法入門」(編者、法律文化社)
   「新版 国際人道法」(有信堂)
   「国際法講義」Ⅰ、Ⅱ(東大出版会)


(参考)
その類の発言例
・・・現在でも通説として信じられているのが、「A級は国家指導者、B級は戦争犯罪を命令した者、C級は命令に従って戦争犯罪を実行した者」という解釈だ。事件やスポーツ報道で主犯や敗北の責任者が「A級戦犯」と表現されることがあるが、これは本来の意味とはちがう。A、B、Cは犯罪の分類記号に過ぎず、重大性や責任の重さを順位づけたものではない
(半藤一利、秦郁彦、保坂正康、井上亮「『BC級裁判』を読む」日本経済新聞出版社、2010年8月2日第一刷 14頁)

一般的に「A級戦犯」という言葉は…《経済失政の「A級戦犯」を探せ!》《巨人軍惨敗の「A級戦犯」はこいつだ!》…という具合に使われている。
「一番罪の重い責任者」という程度の意味合いで気軽に使われているわけだが、この俗用こそが「A級戦犯」というものに対する無知を証明するものに他ならない。
A級・B級・C級というのは、罪の重さをランク付したものではない。現に「A級戦犯」は7人が死刑になったが、BC級でも、1061人が死刑になっている。
(小林よしのり「いわゆるA級戦犯」幻冬舎、2006年、46・47頁) 

 

パール判事、国際法の素人だった。また間違って選任されていた

以下は全て中里成章「パル判事―インド・ナショナリズムと東京裁判」岩波新書2011年2月18日第1刷発行から


まず国際法の素人だったという点について 
カルカッタでパルは弁護士を開業するとともに、カルカッタ大学法学部の講師に採用されて授業を担当することになった。このとき以後、パルは弁護士と大学教員の二足の草鞋を履く生活を続け、法律実務と教育・研究の両方において法曹界で評価されるようになってゆく。(p53)

弁護士を開業すると、パルは所得税法を専門とするようになった。(p54)

パルは一九ニ七年、所得税法のインド政府法律顧問に任ぜられ、四一年までその職にあった。 パルの担当はベンガル州で、州の所得税法に関する訴訟書類はすべて、パルの机の上を通ったという。三七年、「ユール事件」という訴訟のために、パルはロンドンの枢密院に派遣された。枢密院はイギリス国王の助言機関だが、裁判所としても機能していた。植民地インドの上告審はこの枢密院で行なわれていた。(p55)

一九ニ四年、パルは博士論文を提出し、法学博士号を得た。論文のタイトルは「マヌ法典以前のヴェーダ時代及びポスト・ヴェーダ時代におけるヒンドゥー法哲学」であった(p58)

パルは一九ニ五年、三〇年、三八年の三度、タゴール法学教授に指名された。三度も指名されたのは、カルカッタ大学の歴史で初めてのことであった。実際の講義はその年度に行われるとは限らなかったが、講義のタイトルはそれぞれ、「長子相続法―特に古代及び近代のインドとの関連において」、「ヴェーダ時代、及びマヌ法典までのポスト・ヴェーダ期におけるヒンドゥー法史」、「国際関係における犯罪」であった。……この寄付講座の教授職は常勤ではなく、一年限りで交代したが、一二回の講義をして、講義録を出版することが義務づけられていた。(p58~60)
この3つの講義のうち「国際関係における犯罪」は国際法関連であるように見えるが、実は当初の講義テーマは「英領インドの憲政的発展」だった。それが実際には開講されず、東京裁判後に「国際関係における犯罪」と題を変更して講義を行なった。下のp66~68参照。

なおパルは、国際比較法学会が一九三七年にハーグで開催した「第二回国際比較法会議」に参加し、議長団の一人に選出された。前述のように、パルは三七年に「ユール事件」で渡英している。このときに会議に参加したものと思われる。それ以上のことは詳らかにしないが、パルのヒンドゥー法に関する業績が評価されたのであろう。(p60)

法学者としてパルがどのような仕事をしたか、著書を見るとよく分かる。著作を出版順に並べると次のようになる。 

①「ヒンドゥー法哲学」一九ニ六年頃刊

②「長子相続法史―特に古代と近代のインドとの関連において(一九ニ五年タゴール法学講義)」一九ニ九年刊

③「英領インド出訴期限法」一九三四年頃刊

④「英領インド所得税法」全二巻、一九四〇年刊

⑤「極東国際軍事裁判所―パル判事の反対意見書」一九五三年刊

⑥「ヒンドゥー法史―ヴェーダ時代とマヌ法典までのポスト・ヴェーダ時代とにおける(一九三〇年タゴール法学講義)」一九五八年刊(p60・61)


  パルが東京裁判の判事に選ばれたのは、「国際関係における犯罪」のような国際法に関する業績があったからだとする説がある。なかには、判事の中で国際法の素養があったのはパルだけだったと主張する研究者さえある(マイニア 一九八五、一○七-一○八)。「国際関係における犯罪」はタゴール法学講義を本にしたものである。このような説が正しいとすれば、この講義は東京裁判の前に行われていなければならない。しかしそうなのであろうか。
  「国際関係における犯罪」は、一九三八年のタゴール法学講義ということになっている。一部の説はこれをそのまま事実と受けとめたものであろう。しかし、箱根のパール・下中記念館に、カルカッタ大学がパルに宛てた書簡が保管されている。それによれば、大学は四二年九月三〇日付の書簡で、三八年度分のタゴール法学講義をするようパルに依頼した。依頼の内容は、「英領インドの憲政的発展」という題で植民地統治機構の歴史について講義を行うことであって、国際法とは何の関係もなかった。パルは一〇月一日に返書を送り講義を引き受けた。だがその後、副学長などを歴任したために約束を果たすことができず、五一年九月になってやっと講義を行うことができたのである。そしてその時には、講義題目が「英領インドの憲政的発展」から「国際関係における犯罪」に変更になっていた。この講義を本にするのはさらに遅れ、一九五五年になってようやく刊行することができた(パル・カルカッタ大学往復書簡、パール・下中記念館/Pal 1955:ⅲ)。   
  以上から、パルが東京裁判の後になって国際法に関する講義を行ったことは明らかであろう。実は、このことはパルの親族にはよく知られていることのようである。彼らから話を聞いた研究者は、彼らの間では、パルは東京裁判の判事に任命された後になって初めて、国際法を本格的に勉強したと、言い伝えられていると書いている(Nandy 1955:70-71)。 
  パルは国際法の業績があったから、東京裁判の判事に任命されたのではない。事実は正反対で、東京裁判の審理に加わってから国際法学者になったのである。(p66~68)




次に、間違って選任されたという点について
・・・戦争省は四月二七日にパルに電報を送り、代表判事に任命したことを通知した。ところが同じ日に、インド政府の別の部局のインド総督官房で、この人事を疑問とする声が上がった。理由は二つあった(インド政府文書11/4/46-GG(B),1946)。
 一つは、 人事を含め高等裁判所の行政に関わることは総督官房の管轄だから、戦争省は電報を四人の高裁長官に送る前に、総督官房の意見を聴くべきだったというものであった。
 もう一つは、パルの経歴に関わる疑問であった。インド代表判事選任の基準は、 高裁の現職判事あるいは少なくとも定年退職した元判事から選ぶとされているが、総督官房としては、パルはどちらにも該当しないと判断せざるを得ないというのである。この点に関する総督官房の追及はなかなか手厳しかった。彼等は次のような覚書をファイルに書き残している。

パル氏というのは多分ラダビノド・パル氏のことであろうが、彼は一時的な欠員がある間、高等裁判所の判事を代行するように任命されたにすぎない。パル氏は定年退職した高等裁判所判事と見なすことはできないものと思われる。彼は弁護士であり、一時的な欠員がある間カルカッタ高等裁判所の判事の職を代行するように任命された。彼は同高裁の判事として正式に認められたことは一度もなかった。したがって彼は(退任後)カルカッタで弁護士業に戻らねばならなかったし、彼とカルカッタ弁護士会の他の会員とを大きく区別するものはほとんど何もない。(Minute by Gulzar Singh 27/4/1946, File 11/4/46-GG(B),1946)


 以上の異議に対して戦争省は迅速に対応した。三日後、戦争省次官は誤りのあったことを認め、総督官房の次官に電話で遺憾の意を表明した。また、起こってしまった誤りを正すのは不可能だが、この種の誤りが再び起こることのないようにすると約束した。そうしてこの時点で既に、直接の担当官は戦争省から左遷されていたのである。
 要するに、 パルは適格者でないにもかかわらず、選任手続き上の誤りでインド代表判事に任命されてしまったわけである。本来ならば、ラーホール高裁から推薦のあったムニール判事に入れ替えるべきだっただろうが、既に任命の電報を打ってしまっており、後の祭りであった。(p98・99)

中里成章 
東京大学文学部東洋史学科卒、Ph.D(カルカッタ大学)、東京大学東洋文化研究所教授等を経て、2010年から東京大学名誉教授、南アジア近現代史専攻
主要著作
・Agrarian System in Eastern Bengal c.1870-1910(Calcutta,1994)
・「世界の歴史14 ムガル帝国から英領インドへ」(中央公論社,1998年/中公文庫,2009年.共著)
・The Unfinished Agenda: Nation-building in South Asia(New Delhi,2001.共編著)
・Purba Banglar Bhumibyabastha,1870-1910(Dhaka,2004 上記Agrarian Systemのベンガル語訳)
・‘Harish Chandra Mukherjee: Profile of a “Patriotic”Journalist in an Age of Social Transition’, South Asia,31,2(2008)
・「インドのヒンドゥーとムスリム」(山川出版社,2008年) 
 

「戦争は国家の行為であり個人を裁くことはできない」説の真偽【A級戦犯・東京裁判】


第二次世界大戦後、ニュルンベルグ国際軍事裁判所は、次のように宣言した。
「国際法上の犯罪は人により行われるものであり、抽象的な存在によって行なわれるものではない。したがって、当該犯罪を行った個人を処罰することによってのみ、国際法上の犯罪規定は履行されうる」

「東京裁判は事後法で違法・無効」説の真偽

まとめ
(1)日本は確かに侵略行為をした=各種条約違反
(2)条約違反の訴追・刑罰は既に第一次大戦のベルサイユ条約に規定あり(但し実行されず)
(3)日本は戦犯の厳重処罰を定めたポツダム宣言を受け入れた
(4)国際法またはコモンローでは必ずしも事後法禁止=罪刑法定ではない。
(5)個人を裁くことに就いてもベルサイユ条約・ニュルンベルグ裁判が先例

 

(1)日本は確かに侵略行為をした=各種条約違反
日本は戦争で領土拡大。しかもそれを「当分発表セズ」と隠した
大東亜政略指導大綱  (1943.5.31.御前会議決定)    

六 其他ノ占領地域ニ対スル方策ヲ左ノ通定ム   但シ(ロ)(ニ)以外ハ当分発表セス   
(イ)「マライ」、「スマトラ」、「ジャワ」、「ボルネオ」、「セレベス」ハ帝国領土ト決定シ重要資源ノ供給源トシテ極力之ガ開発並ニ民心ノ把握ニ努ム 

○パリ不戦条約(1928)違反 
今後戰爭ニ訴ヘテ國家ノ利益ヲ増進セントスル署名國ハ本條約ノ供與スル利益ヲ拒否セラルヘキモノナルコトヲ確信シ 
日本がしたことはこれ。これがA級戦犯>戰爭ニ訴ヘテ國家ノ利益ヲ増進セントスル 

○九カ国条約(1922)違反 
(一)支那ノ主權、獨立竝其ノ領土的及行政的保全ヲ尊重スルコト 

○四カ国条約(1921)違反
第一条 締約国ハ互ニ太平洋方面ニ於ケル其ノ島嶼タル属地及島嶼タル領地ニ関スル其ノ権利ヲ尊重スヘキコトヲ約ス。 



(2)条約違反の訴追は既に第一次大戦のベルサイユ条約に規定あり(但し実行されず)
 
ベルサイユ条約の「制裁」の全規定を挙げる。条約違反、国際道義違反の訴追は第227条である。
第七編 制裁
第二百二十七条 
同盟及連合国は国際道義に反し条約の神聖を涜したる重大の犯行に付前独逸皇帝「ホーヘンツォルレルン」家の維廉二世を訴追す
右被告審理の為特別裁判所を設置し被告に対し弁護権に必要なる保障を与ふ。該裁判所は五名の裁判官を以て之を構成し亜米利加合衆国、大不列顛国、仏蘭西国、伊太利国及日本国各一名の裁判官を任命す。
右裁判所は国際間の約諾に基く厳正なる義務と国際道義の儼存とを立証せむが為国際政策の最高動機の命ずる所に従ひ判決すべし。其の至当と認むる刑罰を決定するは該裁判所の義務なりとす。
同盟及連合国は審理の為前皇帝の引渡を和蘭国政府に要求すべし。 
 
第二百二十八条
独逸国政府は戦争の法規慣例に違反する行為ありとして訴追せらるる者を軍事裁判所に出廷せしむる同盟及連合国の権利を承認す。上記の者有罪と決したるときは之を法の定むる刑罰に処すべし。本規定は独逸国又は其の同盟国の裁判所に於ける訴訟手続又は公訴の為其の適用を妨げらるることなし。 
独逸国政府は戦争の法規慣例に違反する行為ありとして訴追せらるる者にして其の氏名又は独逸国官憲の下に於て其の有したる地位官職を明示せられたるものは総て之を同盟及連合国又は引渡を要求する其の一国に引渡すべし。

第二百二十九条
同盟及連合国中の一国の国民に対し罪を犯したる者は之を該国の軍事裁判所に裁判に付す。
同盟及連合国中の二国以上の国民に対し罪を犯したる者は之を該諸国の軍事裁判所の職員を以て組織する軍事裁判所の裁判に付す。
被告は何れの場合に於ても自己の弁護人を指定するの権を有す。

第二百三十条
独逸国政府は犯罪行為の知悉、犯罪者の発見及責任の適正なる量定に必要と認めらるる一切の文書及資料の提供を約す。
 
アジア歴史資料センターhttp://www.jacar.go.jp
レファレンスコードA03021294200(87・88枚目)
御署名原本・大正九年・条約第一号・同盟及聯合国ト独逸国トノ平和条約及附属議定書
つまりベルサイユ条約の時点で、条約違反は訴追対象であり刑罰の対象であるという国際合意が成立していた、国際法(慣習法)として成立していたと考えられる。そして日本はこの条約に署名し、かつ裁判官を構成する5国の一つであり、つまり日本自身がその国際法を積極的に行使しようとしていた。
ただし前皇帝訴追は実際には行われなかったという。



(3)日本は戦犯の厳重処罰を定めたポツダム宣言を受け入れた
 
十、吾等ハ日本人ヲ民族トシテ奴隷化セントシ又ハ国民トシテ滅亡セシメントスルノ意図ヲ有スルモノニ非サルモ吾等ノ俘虜ヲ虐待セル者ヲ含ム一切ノ戦争犯罪人ニ対シテハ厳重ナル処罰加ヘラルヘシ日本国政府ハ日本国国民ノ間ニ於ケル民主主義的傾向ノ復活強化ニ対スル一切ノ障礙ヲ除去スヘシ言論、宗教及思想ノ自由並ニ基本的人権ノ尊重ハ確立セラルヘシ



(4)国際法またはコモンローでは必ずしも事後法禁止=罪刑法定ではない。
(a)ドイツ戦犯裁判所「事後法禁止は、成文法・制定法だけでなく慣習法なども含む国際法では適用されない。また国内法であっても、コモンロー裁判所の場合は適用されない」
 第3軍事裁判所は,立憲国家の成文憲法のもとで妥当している事後法の遡及禁止原則は「国際法」には適用されないと述べて,被告人らの主張を斥けた。判決では,それは次のように述べられている。
 「我が裁判所の管轄権の本質と起源に関してどのような立場に立とうとも,事後法の禁止原則は,管理委員会法第10号と普遍的な国際法のもとでは,本事案における訴追に対して法的にも道徳的にも制限を設けるものではない。成文の憲法は,法律が公布される以前に行われた行為を犯罪的であると定義する法律を斥けているが,国際法の場合,事後法の禁止原則は,それが国内法において憲法の委任のもとで妥当しているのと同じように適用することはできない。しかも,この禁止原則は国内法の場合ですらコモンロー裁判所の判断には適用されない。国際法は,世界を包括して適用できる法律を制定する権限を有する国際機関が今のところ存在しないという単純な理由から制定された法ではないのである。国際法は,様々な条約,協定,判決,国際的に承認され暗黙のうちに是認された慣習の所産である。事後法の禁止原則が,立憲国家に知られているように,国家条約,慣習または国際的な裁判所のコモンロー判決に適用されるとか,上記の所産に従う国際的な承認にもあてはまると主張することは無意味である。普遍的な国際法のもとで言い渡される裁判の判決に対して事後法の禁止原則を適用しようと試みるならば,それは国際法が成り立たなくなることを意味するであろう。

(b)現代の国際法でも罪刑法定・不遡及とは限らない。
(例1)国際人権規約
国際人権規約【自由権規約】第15条【遡及処罰の禁止】 Article 15

1 何人も、実行の時に国内法又は国際法により犯罪を構成しなかつた作為又は不作為を理由として有罪とされることはない。 何人も、犯罪が行われた時に適用されていた刑罰よりも重い刑罰を科されない。 犯罪が行われた後により軽い刑罰を科する規定が法律に設けられる場合には、罪を犯した者は、その利益を受ける。
2 この条のいかなる規定も、国際社会の認める法の一般原則により実行の時に犯罪とされていた作為又は不作為を理由として裁判しかつ処罰することを妨げるものではない

・・・・欧州人権条約の制定から15年以上を経て、国際人権規約が採択された。同 B 規約第15条には、刑罰法規の不遡及が規定されている。これは世界人権宣言第11条2項の趣旨に基づき、欧州人権条約第7条をほぼ踏襲した規定である。B 規約第15条第2項は「この条のいかなる規定も、国際社会が認めた法の一般原則により実行の時に犯罪とされていた作為または不作為を理由として裁判しかつ処罰することを妨げるものではない」と規定する。ここでは本原則について、一歩進んだ記述がなされている。すなわち、従来の「文明国が認めた(recognized by civilized nations)」という表現が、「国際社会が認めた(recognized by the community ofnations)」へと改められているのである。本項は、例えば戦争犯罪、人道に対する罪、奴隷や拷問等に関する罪について、締約国に遡及的に国内刑事法で処罰することを許すものと解される67。

  法が、あらかじめ予想されるように適用されること、また遡及しないことも重要である。法の遡及適用禁止の原則は、刑事法では特に重要である。この原則が、世界人権宣言(1948)に記されているのはそのためだ。世界人権宣言 11 条 2 項は、「何人も、実行の時に国内法又は国際法により犯罪を構成しなかった作為又は不作為のために有罪とされることはない。」と述べている。国際的または地域的な人権条約は、その後もこの基本的な権利を再確認してきた。
  しかしながらこのルールには、一定の国際犯罪責任と呼ばれる、一つの重大な例外がある。これは、市民的及び政治的権利に関する国際規約 15 条 2 項に従ったもので、「この条のいかなる規定も、国際社会の認める法の一般原則により実行の時に犯罪とされていた作為又は不作為を理由として裁判しかつ処罰することを妨げるものでない。」とされている。他の人権条約も同様の条項を持っている。この文脈ではローマ規程(1988)のもとでの国際刑事裁判所の管轄権もまた、挙げておく必要がある。
http://rwi.lu.se/wp-content/uploads/2014/05/Rule-of-Law-A-guide-for-politicians-Japanese.pdf

(例2)EU 基本権憲章
EU 基本権憲章第49条(リスボン条約第 II-109 条) 罪刑法定主義および罪刑均衡の原則
1.何人も,実行の時に国内法または国際法により犯罪を構成しなかった作為または不作為を理由として有罪とされない。何人も,犯罪が行われた時に適用されていた刑罰よりも重い刑罰を科されない。犯罪の後により軽い刑罰が法により規定された場合には,その刑罰が適用される。
2.本条は,諸国の共同体が認める一般原則により実行の時に犯罪とされていた作為または不作為を理由として裁判し,処罰することを妨げるものではない

  ・・・・EU 基本権憲章第49条の見出しから第1項の文言に目を転ずると,犯罪が制定法によって規定されている必要はなく,単に国内「法」または国際「法」による規定が必要とされていることが分かるはずである。この文言はより広いものであって,制定法である必要はなく,慣習法または判例法の場合であっても構わない。こうして,EU 基本権憲章はコモン・ローの伝統である不文刑法に対して非常口を用意しているということができる。これは過去に形成された犯罪類型のみに関わる原則ではなく,この方法により今後刑法を定立することも妨げられない。また,単に「法」であることを要求し,制定法であることを必要としないことは,第二次世界大戦後の戦争犯罪に関するニュルンベルク裁判や東京裁判で適用された慣習国際刑法を承認するものとしても,積極的な意義を有する。
  このように,制定法による犯罪の定義の要件を緩和し,より非形式的な根拠による犯罪の処罰を許容するのは,作為または不作為がその実行の時に「諸国の共同体が認める一般原則」により犯罪とされていたことで足りるとする EU 基本権憲章第49条第2項においても同様である。この条項は次の興味深い一点の違いを除いて,欧州人権条約第7条2項の文言をほぼそのまま踏襲している。すなわち,それに関する参考として欧州人権条約では「文明国(civilised nations)」という文言を用いているところ,長い交渉の結果,EU 基本権憲章では「非文明国(uncivilised)」とされることによる差別を防ぐために,「諸国の共同体(community ofnations)」が承認する一般原則に依拠している。



(5)個人を裁くことに就いてもベルサイユ条約・ニュルンベルグ裁判が先例

ベルサイユ条約でドイツ前皇帝を訴追する条文があることは(2)の通り。そして第二次大戦時のドイツ戦犯法廷ではこのように述べている。
第二次世界大戦後、ニュルンベルグ国際軍事裁判所は、次のように宣言した。
「国際法上の犯罪は人により行われるものであり、抽象的な存在によって行なわれるものではない。したがって、当該犯罪を行った個人を処罰することによってのみ、国際法上の犯罪規定は履行されうる」



2015.2.26追記
このエントリで取り上げたのはこういう主張のこと
東京裁判「法的に問題」 自民・稲田氏
 自民党の稲田朋美政調会長は26日のBS朝日番組収録で、太平洋戦争などをめぐり日本の指導者が責任に問われた東京裁判について「事後法(での裁き)だ。法律的には問題がある」との認識を示した。一方で「判決は受け入れている」とも述べた。
 同時に「(歴史を)自分たちで検証する態度を持つべきだ」と語った。
 稲田氏は弁護士資格を持っている。
 
東京裁判「法的に疑問」=自民・稲田氏
 自民党の稲田朋美政調会長は26日の記者会見で、東京裁判について「指導者個人の責任を問う法律はポツダム宣言を受諾した時点では国際法になかった。事後法であるとの批判が出ているので法律的には疑問がある」と述べ、平和に対する罪などの事後法を適用したことは罪刑法定主義に抵触するとの見解を示した。稲田氏は「東京裁判が無効という意味ではないが(判決の)中に書かれている事実関係はきちんと私たち自身で検証する必要がある」とも指摘した。安倍晋三首相が発表する戦後70年談話に向けた有識者会議の初会合が25日に開催されたことに関しては、「会議の議論を踏まえた上で、首相の談話だから首相自身が出すと考えている」と述べた。(2015/02/26-18:38)
http://www.jiji.com/jc/zc?k=201502/2015022600779

日本が受諾した東京裁判の”ジャッジメンツ”に判決理由は含まれない、という嘘

東京裁判をめぐる保守派のよくある主張の一つに、サンフランシスコ講和条約で日本が受諾したのは「裁判」でなく「判決」である、というものがある。
小林よしのり
 ここでいわゆる「A級戦犯」についてのデマも暴いておこう。
 「日本は東京裁判をサンフランシスコ講和条約第11条で認めている。だからA級戦犯は犯罪人だ」「東京裁判を否定することはサンフランシスコ講和条約を無視し戦後の日本の外交すべてを否定することになるぞ」・・・とサヨクがよく言っていたが、ほとんど詐欺師の詭弁と恫喝だ。実は当の条文にはこう書いてあるのだ・・・・
  Japan accepts the judgements 
 「日本は諸判決を受諾する」という意味であって「裁判を受諾する」ではない。法律用語で「judgements」を「裁判」と訳することは、まずない 。条約のフランス語、スペイン語版の正文も「les judgments」「las sentencias」・・・「諸判決」である。ところがなぜか日本だけが「裁判を受諾」と誤訳されているのだ。(戦争論2,p241)

櫻井よしこ
  シンポジウムでは、大阪大学大学院教授の坂元一哉氏がサンフランシスコ講和条約の第11条について興味深い指摘をした。第11条は、「日本国は、極東国際軍事裁判所並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷の裁判を受諾し、且つ、日本国で拘禁されている日本国民にこれらの法廷が課した刑を執行するものとする」と書かれている。
  上の一文中の゛裁判″は英語では゛judgements″である。したがってこの部分は゛判決″でなければならないはずだが、裁判と誤訳された
   「判決」を「裁判」とした誤訳は、東京裁判を正当な裁きと認め、日本断罪の歴史観をも受け入れたうえで、日本は国際社会に復帰したのだという主張の根拠ともなってきた。しかし坂元教授は、それが誤った考えだと指摘したのだ。
 
日本会議
 ところで、十一条の日本文では「裁判を受諾する」となっている点が問題です。サンフランシスコ対連合国平和条約(昭和二十六年九月八日調印、翌二十七年四月二十八日発効)は、日本語のほかに、等しく正文とされる英・仏・西語で書かれていますが、
・・・以上、言語学的に説明しましたが、日本が平和条約十一条において受諾したのが「裁判」ではなく、「判決」であることが、おわかりいただけたことと思います。「裁判」と「判決」とでは、条文の意味が随分変わってきます。もともと英語正文の翻訳を基礎に書かれた日本語正文で、なぜ「判決」ではなく「裁判」の語が使われたのか、その理由と背景を探ることはある意味で重要ですが、ここではこれ以上深追いしないことにします。
http://www.nipponkaigi.org/opinion/archives/862

民主党 松原仁議員 2006年5月12日衆院外務委員会 
 私は、この受諾した中身は、いろいろな議論があります、アクセプトの場所とか。やはりそれはトライアルではない、判決を受諾したんだ。そこを、それは読み方なんです、それは知恵を出さなきゃいけない。そうすることによってのみ、我々は日本のプライドというものをよみがえらせることができる。
だから、東京裁判の、裁判の判決を、トライアルではなくてジャッジメンツを受諾したんだ、私はそういう認識でこれからも主張していきたいと思っております。これは私の認識であります。

「受け入れたのは裁判でなく判決だ」とか誤訳だとかトライアルでなくジャッジメンツだとか、何をこだわってるのかと思ったら、どうやら保守派の主張は、日本は「量刑とその執行」を受諾しただけで、判決理由や事実認定までは受諾してない、ということのようだ。
自民党 山谷えり子議員 
  外務省は「judgements」を「裁判」と訳し、それが公的な翻訳として流布していますが、「何を受諾したのか」という議論が、条約締結直後からありました。「裁判」ではなく「判決「諸判決」と訳すべきだとの声も根強くあります。「裁判」と訳すと裁判所の設置根拠や事実認定、判決も含めてすべてを受諾したと解釈され得ますが、「判決」なら刑の宣告だけで設置根拠や事実認定は含まず、稲田さんが言われた『日本の責任追及論』や『分祀論』の根拠にはなりません
  十一条は、条約発効後も東京裁判や他の戦犯法廷の判決の効力を維持するために日本が刑の執行を継続し、赦免・減刑・仮出獄は連合国の同意を得て行うという手続きを定めたものです。その文脈からすれば、「判決」と訳すのが適当ではないか、というのが私の質問の趣旨でした。(正論2005年8月号p59)

自民党 稲田知美議員
  サンフランシスコ平和条約第十一条(※1)の解釈で「アクセプツ・ザ・ジャッジメンツ」という内容を、佐藤和男先生(青山学院大学名誉教授・本誌「読書ガイド」一一九頁参照)、またいろんな有識者の方々が、あれは判決を受諾しただけであって、裁判を受諾したものではないんだということをおっしゃっています。私もそれはわかるのですが、ただ「判決」と訳そうが「裁判」と訳そうが、法律的には裁判を受諾したとか、判決を受諾したといった場合には、その主文を受諾したにすぎないのです。ですから、絞首刑などの主文を受け入れたに過ぎず、判決理由中の判断である東京裁判史観と言われる歴史認識について、私達が拘束される謂れは全くないんですよね。
 
日本会議
  《第 11条の規定は、日本政府による「刑の執行の停止」を阻止することを狙ったものに過ぎず、それ以上の何ものでもなかった。日本政府は第11条の故に講和成立後も、東京裁判の「判決」中の「判決理由」の部分に示されたいわゆる東京裁判史観(日本悪玉史観)の正当性を認め続けるべき義務があるという一部の人々の主張には、まったく根拠がない
  筆者は昭和61年8月にソウルで開催された世界的な国際法学会〔ILA・国際法協会〕に出席した際に、各国のすぐれた国際法学者たちとあらためて第11条の解釈について話し合ったが、アメリカのA・P・ルービン、カナダのE・コラス夫妻(夫人は裁判官)、オーストラリアのD・H・N・ジョンソン、西ドイツのG・レスなど当代一流の国際法学者たちが、いずれも上記のような筆者の第11条解釈に賛意を表明された。議論し得た限りのすべての外国人学者が、「日本政府は、東京裁判については、連合国に代わり刑を執行する責任を負っただけで、講和成立後も、東京裁判の判決理由によって拘束されるなどということはあり得ない」と語った。これが、世界の国際法学界の常識である。
http://www.nipponkaigi.org/opinion/archives/865

自民党 奥野誠亮議員 2002年7月4日衆議院憲法調査会
 私は、昭和二十年八月から昭和二十七年四月までは戦争状態が継続しておった、こう考えているわけであります。その中で極東国際軍事裁判などが行われたわけでございまして、同時に、サンフランシスコ講和条約が発効する際に、その講和条約の中で、日本が極東国際軍事裁判所の裁判を受諾する、英文ではジャッジメンツを受諾すると書いてあるわけであります。
 裁判というのは、辞書を引きますと、いわゆる裁判と判決と両方の意味に使われておるわけでありまして、ジャッジメンツに対応しますと当然判決だと思うんです。判決だと思いますから、禁錮刑などの人を勝手に出したりはしなかった、絞首刑になった人に異議の申し立てはしなかった。それだけのことだと思うのでございますけれども、これを裁判と解して、あの裁判において行われた、昭和六年の満州事変以来、日本は戦争を企画し、準備し、遂行してきたということで絞首刑や何かにもなってこられたわけでございました。こんなことまで受諾していることはないと思うのでございます

自民党 板垣正議員 1993年11月9日参議院内閣委員会
 そして、さっきおっしゃった平和条約第十一条、これで日本に本当は裁判の執行を肩がわりしなさいというだけの話なんですよ、まだ巣鴨とか海外にも戦犯がいますから。普通は講和条約が調印できたらみんなもう解放ですよ。それが国際法でしょう、それこそ。しかし、連合国は執念深くもまだ解放させない、刑務所に入れておく。この刑の執行は日本政府が肩がわりしろ、肩がわりします、判決を受諾します、これが平和条約第十一条であるということは権威ある国際法学者も、したがってそれを、裁判を受諾したと誤訳をさせ、しかも長官がさっきおっしゃったように、日本の政府も歴代政府が東京裁判は受諾をしました、第十一条で受諾をしましたからあれに触れるわけにはいきませんというふうな、まことに情けない。占領軍の追撃戦が成功した、戦闘で勝って戦争で勝ったその最後のため押しが講和条約第十一条。そうであるならば、東京裁判、それに通じる日本の直面した歴史というものをもう一度顧みざるを得ないと思います。

神道政治連盟
“A級戦犯”とは何だ!
(昭和62年11月22日発行)

冒頭にも述べましたように、第 11 条をもって東京裁判の正当性を主張する風潮があります。しかしながら、前述したように第 11 条では、東京裁判については、日本政府が連合国に代わり刑を執行する責任を負うことについて規定されているに過ぎず、それ以上はなにも規定されていません 。つまり、日本政府の「受諾」の対象は、判決主文(刑の言い渡し)であって、判決理由ではないわけです
http://www.sinseiren.org/hakkousasshinogoannai/hakkousassi.htm
http://www.sinseiren.org/Akyusenpan.pdf

つまり判決文のうち、死刑とか懲役何年とか書いてある主文のページをびりびり破って「ここだけ受け入れます。あとのページは受け入れません。捨てます」という解釈である。そんな理屈があるのかとちょっとびっくりするが、保守派はみな真面目にこれを言っているようだ。

 
では日本政府自身の見解はどうなのか、と思い国会議事録を見るとこれまた妙なことになっていて、判決理由など含めて全部を受諾したと答弁する人も入れば、そうではないと答弁している人もいる。近年は「全部受諾」で統一しているようだ。


判決理由は受諾してないと明言する答弁
ただいま御指摘になりました平和条約の条文、私承知いたしております。しかしそれは極東裁判の判決──ジャッジメントを受諾するということでございまして、判決に至るところの理由、そこまでを受諾するという意味合いではありません
(1959年11月25日 衆院外務委員会 高橋通敏外務省条約局長)

受諾したのは量刑だけであるという答弁 
しかしながら第十一條におきましては、これらの裁判につきまして、日本国政府といたしましては、その裁判の効果というものを受諾する。この裁判がある事実に対してある効果を定め、その法律効果というものについては、これは確定のものとして受入れるという意味であると考えるわけであります。(1951年11月14日 衆院法務委員会 法務総裁 大橋武夫氏 )

裁判の全てを受諾したとする答弁
この第十一条の、裁判を受諾しとございますが、そこでの英語はジャッジメントという言葉になっておるわけでございますけれども、ちなみにサンフランシスコ平和条約におきましては、第十七条におきましてもやはりジャッジメントという言葉がございますが、その二つとも日本語では裁判という文言を当ててある次第でございます。東京裁判の中身との関連で御説明申し上げさせていただきますと、裁判長はその判決のところで、これから自分は、ジャッジメントを読み上げるというところから始めておるわけでして、そのジャッジメントといいますのは三つから成っておりまして、裁判所の設立及び審理、それから法、侵略、太平洋戦争、起訴状の訴因についての認定、それから判定、それから刑の宣言というものをこのジャッジメントがすべてを包含しておりまして、そういう意味で一部の方がおっしゃっておられる刑の言い渡しだけを意味しておるはずだというふうにはとれないわけでございます。そういう意味で、結論的に申し上げまして、その裁判を受諾しという表現は、私たちとしてはやはり正しい表現ではないかというふうに考えておる次第でございます。
(1993年11月9日 参院内閣委員会 丹羽實外務省条約局長)

サンフランシスコ平和条約におきます用語の問題に関しまして御答弁申し上げます。 確かに先生おっしゃいますとおり、英語文でジャッジメントという言葉が使われておりまして、これを通常は裁判という文言を当てる場合と判決という文言を当てる場合がございますけれども、いずれの場合におきましても特段の意味の差があるとはこの場合におきましては考えておりません。 この極東国際軍事裁判所の裁判を例にとりますと、裁判の内容、すなわちジャッジメントは三部から構成されておりまして、この中に裁判所の設立及び審理、法──法律でございますけれども、侵略とか起訴状の訴因についての認定、それから判定、これはバーディクトという言葉を使っておりますけれども、及び刑の宣言、センテンスという言葉でございますけれども、こういうことが書かれておりまして、裁判という場合にはこのすべてを包含しております。 平和条約第十一条の受諾というものが、単に刑の言い渡し、センテンスだけを受諾したものではない、そういう主張には根拠がなかろうと言わざるを得ないというのが従来政府から申し上げているところでございますことは、先生も御承知のとおりでございます。
(1998年3月25日 衆院予算委員会 竹内行夫外務省条約局長)

御説明申し上げます。 この極東国際軍事裁判に係る平和条約第十一条におきましては、英語正文でジャッジメントという言葉が当てられておりますが、このジャッジメントにつきましては、極東軍事裁判所の裁判を例にとりますと、この裁判の内容すなわちジャッジメントは三部から構成されております。 この中に裁判所の設立及び審理、法、侵略、太平洋戦争、起訴状の訴因についての認定、それから判定、これはバーディクトという言葉が当てられておりますが、及び刑の宣言、これはセンテンスという言葉が当てられておりますが、このすべてを包含しておりまして、平和条約第十一条の受諾が単に刑の宣言、センテンスだけであるとの主張は根拠を有さないものと解しております。
(1998年4月7日 参院総務委員会 長嶺安政外務省条約局法規課長)

お答えいたします。 先生も今御指摘のとおり、サンフランシスコ平和条約第十一条によりまして、我が国は極東国際軍事裁判所その他各国で行われました軍事裁判につきまして、そのジャッジメントを受諾しておるわけでございます。 このジャッジメントの訳語につきまして、裁判というのが適当ではないんではないかというような御指摘かとも思いますけれども、これは裁判という訳語が正文に準ずるものとして締約国の間で承認されておりますので、これはそういうものとして受け止めるしかないかと思います。 ただ、重要なことはそのジャッジメントというものの中身でございまして、これは実際、裁判の結論におきまして、ウェッブ裁判長の方からこのジャッジメントを読み上げる、このジャッジ、正にそのジャッジメントを受け入れたということでございますけれども、そのジャッジメントの内容となる文書、これは、従来から申し上げておりますとおり、裁判所の設立、あるいは審理、あるいはその根拠、管轄権の問題、あるいはその様々なこの訴因のもとになります事実認識、それから起訴状の訴因についての認定、それから判定、いわゆるバーディクトと英語で言いますけれども、あるいはその刑の宣告でありますセンテンス、そのすべてが含まれているというふうに考えております。したがって、私どもといたしましては、我が国は、この受諾ということによりまして、その個々の事実認識等につきまして積極的にこれを肯定、あるいは積極的に評価するという立場に立つかどうかということは別にいたしまして、少なくともこの裁判について不法、不当なものとして異議を述べる立場にはないというのが従来から一貫して申し上げていることでございます。
(2005年6月2日 参院外交防衛委員会 林景一外務省国際法局長) 

で全部受諾と一部受諾どっちが正しいかということだが、保守派の言い分は次の二つだった。
(1)「judgement」の正しい訳は「裁判」でなく「判決」である。
(2)「judgement」とは量刑とその執行だけであり事実認定・判決理由は含まない。


(1)については、どっちで訳しても大した違いは無い。問題は(2)である。judgementに判決理由などは含まれないという主張だが、これがどうやら間違いだ。上に挙げた1993年丹羽答弁で「裁判長はその判決のところで、これから自分は、ジャッジメントを読み上げるというところから始めておるわけでして」と述べている。


以下の判決速記録の英文和文だが、これを見ると丹羽答弁が事実と分かる。裁判長はまず初めに「俺はこれからジャッジメントを読むぞ」と宣言している。
Thursday, 4 November 1948
INTERNATIONAL MILITARY TRIBUNAL FOR THE FAR EAST
Court House of the Tribunal
War Ministry Building
Tokyo, Japan
The Tribunal met, pursuant to adjournment, at 0930.

MARSHAL OF THE COURT: 
The International Military Tribunal for the Far East is now in session.

THE PRESIDENT: 
All of the accused are present except HIRANUMA, SHIRATORI and UMEZU. The Sugamo prison surgeon certifies that they are ill and unable to attend the trial today. The certificates will be recorded and filed.

(中略)

JUDGMENT OF THE INTERNATIONAL MILITARY TRIBUNAL FOR THE FAR EAST. 
 
THE PRESIDENT: 
I will now read the Judgment of the International Military Tribunal for the Far East. The title and formal parts will not be read.
PART A - CHAPTER I
Establishment and Proceedings of the Tribunal 
The Tribunal was established in virtue of and to implement the Cairo Declaration of the 1st of December, 1943, the Declaration of Potsdam of the 26th of July, 1945, theInstrument of Surrender of the 2nd of September 1945, and the Moscow Conference of the 26th of December, 1945.


○昭和二十三年十一月四日(木曜日)
東京都旧陸軍省内極東国際軍事裁判所法廷において
〔午前九時三十分開廷〕
 
○法廷執行官 
ただいまより極東国際軍事裁判所を開廷します。
 
○裁判長 
平沼、白鳥及び梅津の三被告を覗き、全被告出廷、欠席被告は弁護人によって代表(?)されています。巣鴨拘置所医務官からの証明書によれば、右三被告は病気のため本日出廷できないとのことであります。この旨記録に止め、証明書は綴(?)込みに入れます。
(中略)
 
極東国際軍事裁判所判決 
○裁判長 
本官は、これから極東国際軍事裁判所の判決を朗読します。表題及び形式的の部分は朗読しません
〔朗読〕
A部 第一章 本裁判所の設立及び審理
本裁判所は一九四三年十二月一日のカイロ宣言、一九四五年七月二十六日のポツダム宣言、一九四語年九月二日の降伏文書及び一九四五年十二月二十六日のモスコー会議に基いて、またこれらを実施するために設立された。


アジア歴史資料センターhttp://www.jacar.go.jp/
A級極東国際軍事裁判速記録(英文)・昭和23.11.4(第48413~48674頁)
レファレンスコードA08071338600(1~6枚目)
判決速記英文1判決速記英文2判決速記英文3判決速記英文4
A級極東国際軍事裁判速記録(和文)・昭和23.11.4~昭和23.11.12(判決)
レファレンスコードA08071311400(5~8枚目)
速記和文1速記和文2速記和文3速記和文5

裁判長はジャッジメントを朗読すると宣言して、まず裁判所の設立根拠を読み上げている。つまり設立根拠はジャッジメントに含まれることになる。


ジャッジメントという単語は、その後もたびたび出てくる。
PART A -- CHAPTER III
A SUMMARY 
Chapter III of Part A of the Judgment will not be read. It contains a statement of the rights which Japan acquired in China prior to 1930, together with a statement of Japan's obligations to other powers, so far as relevant to the Indictment. ・・・Japan's foothold in China at the beginning of the China war will be fully described in the forefront of the Chapter of the Judgment relating to China.

A部 第三章 要約
判決書のA部第三章は、これを朗読しないことにする。これは、起訴状に関連している限り、列強に対する日本の義務と日本が一九三〇年以前に中国において取得した諸権利との記述を含んでいる。・・・中日戦争の初めに日本が中国内でもっていた足場は、本判決中の中国に関する章の冒頭で充分に述べられるはずである。


A級極東国際軍事裁判速記録(英文)・昭和23.11.4(第48413~48674頁)
レファレンスコードA08071338600(46・47枚目)
英文速記5英文速記6
A級極東国際軍事裁判速記録(和文)・昭和23.11.4~昭和23.11.12(判決)
レファレンスコードA08071311400(11枚目)
和文速記6


  On 29 July 1938 the Japanese forces at Lake Khassan attacked the Soviet border guards. The fighting thus begun continued until 11 August 1938, by which time the Japanese forces employed in the operation had been routed. Thereafter Japan negotiated terms of peace, leaving the Soviet Union in possession of the disputed area.
  The fighting at Lake Khassan will be discussed fully in a later section of this judgment; ・・・

  一九三八年七月二十九日に、ハサン湖の日本軍は、ソビエットの国境警備隊を攻撃した。このようにして始められた戦闘は、一九三八年八月拾一一日まで続き、そのころには、この作戦に使用された日本軍は潰走させられていた。その後、紛争の地域をソビエット連邦の手に委ねたまま、日本は平和条件を交渉した。
  ハサン湖の戦闘は、本判決の後の部分で、詳細に論ずることにする。・・・


A級極東国際軍事裁判速記録(英文)・昭和23.11.5~昭和23.11.8(第48675~49091頁)
レファレンスコードA08071338800(61枚目)
ハサン湖
A級極東国際軍事裁判記録(和文)(NO.160)
レファレンスコードA08071307000(281枚目)
ハサン和文

The conspirators now dominated Japan. They had fixed their policy and resolved to carry it out. While the aggressive war in China was continuing with undiminished vigor, their preparations for further wars of Aggression which its execution would almost certainly involve were far on the way to completion. In the Chapter of the Judgment which deals with the Pacific War we shall see these preparations completed and the attacks launched which the conspirators hoped would secure for Japan the domination of the Far East. 

  共同謀議者は、今や日本を支配した。かれらは自分たちの方針を定め、その実行を決意していた。中国における侵略戦争が少しも力を弱めずに続けられてたい間に、さらにいっそうの侵略戦争のためのかれらの準備は、完成への道を大いに進んでいた。中日戦争を遂行するならば、その侵略戦争を引起すことは、ほとんど間違いないことであった。本判決のうちで、太平洋戦争を取扱う章の中において、これらの準備が完成され、攻撃が開始されたことが述べてある。共同謀議者は、これによって、日本が極東の支配を確保するであろうと期待していたのであった。


A級極東国際軍事裁判速記録(英文)・昭和23.11.5~昭和23.11.8(第48675~49091頁) 
レファレンスコードA08071338800(341・342枚目)
巻末英文1巻末英文2
A級極東国際軍事裁判記録(和文)(NO.161)
レファレンスコードA08071307200(231枚目)
巻末和訳

判決は11月4日から12日にかけて長々と朗読されたが、裁判長は日が変わるたびに「ではジャッジメントの朗読を続けます」と宣言している。
11月5日
Friday, 5 November 1948 
INTERNATIONAL MILITARY TRIBUNAL
FOR THE FAR EAST
Court House of the Tribunal 
War Ministry Building 
Tokyo, Japan 
The Tribunal met, pursuant to adjournment, at 0930.

MARSHAL OF THE COURT:
The International Military Tribunal for the Far East is now resumed.

THE PRESIDENT:
All the accused are present except HIRANUMA, SHIRATORI and UMEZU who are represented by counsel. The Sugamo priso>>347n surgeon certifies that, they are ill and unable to attend the trial today. The certificates will be recorded and filed. I continue the reading of the Judgment of the Tribunal


HIROTA'S FOREIGN POLICY IN 1938 WAS FOUNDED ON THE FIVE MINISTERS' DECISION OF AUGUST 1936

These developments in China reflected the policy of Foreign Minister HIROTA, who adhered steadfastly to the goal of the basic national policy decision of 11 August 1936. While the Army was obsessed with the prospect of a coming war with the Soviet Union, and looked to Germany as an ally, HIROTA took a broader and more cautious view. He aimed at the achievement of expansion on the continent and, at the same time at the completion of Japan's preparations for whatever conflicts that expansion might ultimately entail.

On 29 May 1938 HIROTA left the Foreign Ministry; but at some earlier date he laid down the principle which would govern German and Italian participation in the economic development of North China. 


○昭和二十三年十一月五日(金曜日)
東京都旧陸軍省内極東国際軍事裁判所法廷において
〔午前九時三十分開廷〕

○法廷執行官 
ただいまより極東国際軍事裁判を再開します。

○裁判長 
平沼、白鳥及び梅津の三被告を除き全被告出廷、欠席被告は弁護人によって代表されています。巣鴨拘置所医務官からの証明書によれば右被告は病気のため本日出廷できないとのことであります。この旨記録に留め、証明書は綴込みに入れます。

〔朗読〕
一九三八年の廣田外交政策は一九三六年八月の五相会議決定に基いていた

中国におけるこれらの事態は、一九三六年八月十一日の国策の基準に関する決定の目標を固執した外務大臣廣田の政策を反映していた。ソビエット連邦との戦争が近づきつつあるという形勢に陸軍がまったく気をとられ、ドイツを同盟国として当てにしていたときに、廣田はもっと広い、もっと慎重な見解をとっていた。大陸における進出を成就すること、それと同時に、その進出が結局はもたらすような一切の紛争に対して、日本の準備を完成することを、かれはもっぱら目指していた。

一九三八年月二十九日に、廣田は外務省を去った。しかし、その少し前に、華北の経済的開発にドイツとイタリアが参加するについての原則を定めた。


A級極東国際軍事裁判速記録(英文)・昭和23.11.5~昭和23.11.8(第48675~49091頁)
レファレンスコードA08071338800(4・5枚目)
11月5日11月5日英文1
A級極東国際軍事裁判速記録(和文)・昭和23.11.4~昭和23.11.12(判決)
レファレンスコードA08071311400(28枚目)
11月5日和文速記jpg 
標題:A級極東国際軍事裁判記録(和文)(NO.160)
レファレンスコードA08071307000(234・235枚目)
11月5日和文判決文111月5日和文判決文2

11月8日
Monday,8 November 1948
INTERNATIONAL MILITARY TRIBUNAL
FOR THE FAR EAST
Court House of the Tribunal
War Ministry Building
Tokyo, Japan
The Tribunal met, pursuant to adjournment, at 0930. 

MARSEAL OF THE COURT:
The International Military Tribunal for the Far East is now resumed.

THE PRESIDENT:
All the accused are present except SHIRATORI and UMEZU, who are represented by counsel. The Sugamo Prison surgeon certifies that they are ill and unable to attend the trial today. The certificates will be recorded and filed. I continue the reading of the Tribunal's Judgment.

 
OSHIMA, WITH GERMAN ENCOURAGEMENT, PLANS FOR A JAPANESE ATTACK UPON THE PACIFIC POSSESSIONS OF THE WESTERN POWERS

Von Ribbentrop, in urging Axis solidarity, sought to encourage Japan to move to the south. He impressed upon both OSHIMA and Terauchi that Japan's vital interests lay in that direction. If an understanding between Japan and the Soviet Union was reached through German mediation, Japan might freely extend her power in East Asia towards the south, and penetrate further than had been planned. Terauchi agreed, and said that it was in Japan's best interests to bring the China war to an end by a tolerable compromise, and to utilize the strength of the Japanese Army and Navy in the south, where greater economic successes were to be gained. OSHIMA not only agreed, but was enthusiastic. He said that Japan would be perfectly ready for an advance in South-East Asia, which would include the capture of Hong Kong. This he had already proposed by telegraph.



○昭和二十三年十一月八日(月曜日)
東京都旧陸軍省内極東国際軍事裁判所法廷において
〔午前九時三十二分開廷〕

○法廷執行官 
ただいまより極東国際軍事裁判を再開します。

○裁判長 
白鳥及び梅津を除き全被告出廷、欠席被告は弁護人によって代表されています。巣鴨拘置所医務官からの証明書によれば、右両被告は病気のため本日出廷できないとのことであります。この旨記録に留め、証明書は綴込みに入れます。
判決文の朗読を続けます

〔朗読〕
大島はドイツに勧められて太平洋の西洋諸国の属地に対する日本の攻撃を計画した

フォン・リッベントロップは、枢軸の結合を促すにあたって、日本をはげまして南方に進出させようと試みた。かれは大島にも寺内にも、日本の死活に関する利益がその方面にあることを力説した。ドイツの仲介によって、日本とソビエット連邦との間に了解が成立すれば、日本は東アジアにおける勢力を自由に南方に向けて伸ばし、計画されている以上の進出をすることができるであろうというのであった。寺内はこれに同意し、中国における戦争を我慢できる妥協によって終らせ、もっと大きな経済的成功の得られる南方において、日本の陸海軍の力を利用するのが最も日本の利益になるといった。

大島は同意したばかりでなく、大いに乗気であった。日本は東南アジアに進出する用意が完全にできているであろうし、これには香港の攻略も含まれるでことになろうといった。かれはすでに電報でこのことを提案していたのである。



A級極東国際軍事裁判速記録(英文)・昭和23.11.5~昭和23.11.8(第48675~49091頁)
レファレンスコードA08071338800(214~216枚目)
11月8日111月8日英文211月8日英文3
A級極東国際軍事裁判速記録(和文)・昭和23.11.4~昭和23.11.12(判決)
レファレンスコードA08071311400(44枚目)
11月8日和文速記
標題:A級極東国際軍事裁判記録(和文)(NO.161)
レファレンスコードA08071307200(123枚目)
11月8日和文判決文


11月9日
Tuesday,9 November 1948
INTERNATIONAL MILITARY TRIBUNAL
FOR THE FAR EAST 
Court House of the Tribunal
War Ministry Building
Tokyo, Japan
The Tribunal met, pursuant to adjournment, at 0930.

MARSHAL OF THE COURT:
The International Military Tribunal for the Far East in now in session.

THE PRESIDENT:
All the accused are present except SHIRATORI and UMEZU, who are represented by counsel. The Sugamo Prison Surgeon certifies they are ill and unable to attend the trial today. The certificates will be recorded and filed. I continue the reading of the Judgment:  


SUPREME ADMINISTRATIVE COUNCIL

According to ARAKI, General Honjo conceived the idea of having the Governors of the Provinces organize a "Supreme Administrative Council" to make recommendations for the organization of the new State in Manchuria. He forwarded his plan to ARAKI and requested permission to set up a new State for the government of Manchuria with Henry Pu Yi as its head. During his interrogation at Sugamo Prison, ARAKI admitted that, since he had no better suggestion, and thought the General's plan would solve the "Manchurian Problem", he had approved the plan. ARAKI then sent additional experts into Manchuria to assist the SelfGovernment Guiding Board in carrying out General Honjo'a plan.


○昭和二十三年十一月九日(火曜日)
東京都旧陸軍省内極東国際軍事裁判所法廷において
〔午前九時三十分開廷〕

○法廷執行官 
ただいまより極東国際軍事裁判を再開します。

○裁判官
白鳥及び梅津を除き全被告出廷、欠席被告は弁護人によって代表されています。巣鴨拘置所医務官からの証明書によれば、右両被告は病気のため本日出廷できないとのことであります。この旨記録に留め、証明書は綴込みに入れます。
判決文の朗読を続けます

〔朗読〕
最高行政委員会

荒木によれば、各省の省庁に『最高行政委員会」を組織させて、満州における新しい国家の組織のために、勧告をさせようということを本庄中将は思いついた。本庄はかれの案を荒木に送り、ヘンリー◦溥儀を主班として、満州を統治させるために、新しい国家をつくることを許してもらいたいと要請した。ほかにいい提案もなく、本庄の案は『満州問題』を解決するであろうと考えたので、かれの案に賛成したということを荒木は巣鴨拘置所における訊問中に認めた。本庄案を実行するにあたって、自治指導部を援助させるために、荒木はさらにいく人かの専門家を満州に派遣した。


A級極東国際軍事裁判速記録(英文)・昭和23.11.9~昭和23.11.10(第49092~49496頁)
レファレンスコードA08071339000(5・6枚目)
11月9日111月9日英語速記2
A級極東国際軍事裁判速記録(和文)・昭和23.11.4~昭和23.11.12(判決)
レファレンスコードA08071311400(60枚目)
11月9日和文速記
A級極東国際軍事裁判記録(和文)(NO.162)
レファレンスコードA08071307400(72枚目)
11月9日和文判決文


11月10日
Wednesday,10 November 1948
INTERNATIONAL MILITARY TRIBUNAL
FOR THE FAR EAST
Court House of the Tribunal
War Ministry Building
Tokyo, Japan 
The Tribunal met, pursuant to adjournment, at 0930.

MARSHAL OF THE COURT:
The International Military Tribunal for the Far East isnow resumed.

THE PRESIDENT:
All the accused are present except KAYA, SKIRATORI andUMEZU who are represented by counsel. The Sugamo prison surgeon certifies that they are ill and unable to attend the trial today. The certificates will be recorded and filed. I continue the reading of the Tribunal’s Judgment.


WANG CHING-WEI TAKEN TO SHANGHAI

The declarations of 22 and 29 December 1930, made by Konoye and Wang Ching- Wei respectively, were but a prelude to the establishment of a new central government in China. In March 1939, the Five Ministers' Conference in Japan decided to send Kagesa to Hanoi to take Wang to a "safety zone," which was decided upon as Shanghai. He reached Hanoi on 17 April 1939, carrying personal letters to Wang from Foreign Minister Arita, War Minister ITAGAKI, Ko-A-In Division Chief SUZUKI, and Navy Minister Yonai. Wang informed Kagesa that he would launch a movement for peace with Shanghai as his base. Wang was conveyed by the Japanese with the utmost secrecy from Hanoi to Shanghai where he arrived on the 8th May 1939.



○昭和二十三年十一月十日(水曜日)
東京都旧陸軍省内極東国際軍事裁判所法廷において
〔午前九時三十分開廷〕

○法廷執行官 
ただいまより極東国際軍事裁判を再開します。

○裁判長
賀屋、白鳥及び梅津の三被告を除き全被告出廷、欠席被告は弁護人によって代表されています。巣鴨拘置所医務官からの証明書によれば、右被告らは病気のため本日出廷できないとのことであります。この旨記録に留め証明書は綴込みに入れます。
判決文の朗読を続けます


〔朗読〕
汪精衛上海へ

一九三八年十二月二十二日の近衛声明と、同じく二十九日の汪精衛声明とは、中国に新しい中央政府を樹立する前触れにすぎなかった。一九三九年三月に、日本の五相会議は、上海を『安全地帯』と認め、汪をここに移すために、影佐をハノイに派遣することを決定した。影佐は汪にあてた外務大臣有田、陸軍大臣板垣、興亜院部長鈴木及び海軍大臣米内の私信を携えて、一九三九年四月十七日にハノイに到着した。汪は影佐に上海を本拠として和平運動を起すと述べた。日本側によって、汪は極秘のうちにハノイから上海に移され、一九三九年五月八日に同地に到着した。


A級極東国際軍事裁判速記録(英文)・昭和23.11.9~昭和23.11.10(第49092~49496頁)レファレンスコードA08071339000(205・206枚目)
11月10日111月10日2
A級極東国際軍事裁判速記録(和文)・昭和23.11.4~昭和23.11.12(判決)
レファレンスコードA08071311400(74枚目)
11月10日和文速記
A級極東国際軍事裁判記録(和文)(NO.162)
レファレンスコードA08071307400(220・221枚目)
11月10日和文判決文111月10日和文判決文2

11月11日
Thursday, 11 November 1948
INTERNATIONAL MILITARY TRIBUNAL
FOR THE FAR EAST
Court House of the Tribunal
War Ministry Building
Tokyo, Japan
The Tribunal met, pursuant to adjournment, at 0930.

MARSHAL OF THE COURT:
The International Military Tribunal for the Far East isnow resumed.

THE PRESIDENT:
All the accused are present except KAYA, SHIRATORI andUMEZU, who are represented by counsel. The Sugamo Prison surgeon certifies thatthey are ill and unable to attend the trial today. The certificates will be recorded andfiled. I continue the reading of the Tribunal's 
Judgment.

PREPARATIONS INTENSIFIED

The plan of September and October 1940 had been followed. The ultimate objective of the plan was the domination of East Asia by Japan. That objective was to be reached by the use of force if necessary. Some of the steps to be taken in the execution of that plan were in the alternative. The Tripartite Pact had been entered into and used as an instrument for intimidation of the Western powers and as a guarantee of cooperation by the Axis Powers with Japan as she advanced to the South. The Non-Aggression Pact had been signed with the U.S.S.R. as a protection of Japan's rear as she made that advance. The attempt to negotiate a peace with Generalissimo Chiang Kai-shek in order to free Japanese troops and acquire the use of Chinese troops in making that advance had failed. The attempt to mediate the European War and thereby secure British recognition of Japan's advance into Southeast Asia so as to eliminate the necessity of an attack upon Singapore had likewise failed. The attempt to eliminate possible interference with that attack by the United States Pacific Fleet through negotiation with the United States had also failed. The negotiations at Batavia for acquisition of oil and other vital materials had failed also; those negotiations had terminated on 17 June 1940. Japan's reserves of war supplies were in danger of being depleted. The decision of the Imperial General Headquarters made in early April 1941 stood. The time for final preparation had now arrived.



○昭和二十三年十一月十一日(木曜日)
東京都旧陸軍省内極東国際軍事裁判所法廷において
〔午前九時三十分開廷〕

○法廷執行官 
ただいまより極東国際軍事裁判を再開します。

○裁判長
賀屋、白鳥及び梅津の三被告を除き全被告出廷、欠席被告は弁護人によって代表されています。巣鴨拘置所医務官からの証明書によれば、右被告らは病気のため本日出廷できないとのことであります。この旨記録に留め証明書は綴込みに入れます。判決文の朗読を続けます


〔朗読〕
準備の積極化

一九四〇年の九月と一〇月の計画は守られていた。この計画の究極の目標は、日本による東アジアの支配であった。この目標は、必要ならば、武力の行使によって到達することになっていた。この計画の実行にあたってとるべき措置の一部は、二者択一的のものであった。三国条約が締結されていて、西洋諸国に対する威嚇の手段として、利用され、また、日本が南方に進出する際に、枢軸諸国が日本に協力する保証として利用されていた。日本がこの進出を行うにあたって、その背面の保証として、ソビエット連邦と不可侵条約が結ばれていた。この進出を行うにあたって、日本の軍隊が拘束されないようにし、また中国の軍隊を使用することができるようにするために、蒋介石大元帥と和平交渉を試みたが、それは失敗した。ヨーロッパ戦争の仲介を行い、それによって、日本の東南アジアに対する進出をイギリスに承認させ、シンガポール攻撃の必要を除こうとする試みも、同じように失敗した。合衆国との交渉によって、合衆国太平洋艦隊がこの攻撃に対して行うかもしれない妨害を除こうとする試みも、また失敗した。油とその他の重要物資を獲得するために、バタヴィアで行った交渉も、やはり失敗した。この交渉は、一九四〇年六月十七日に打切られていた。日本の軍需品の貯蔵は、使いつくされてしまう危険があった。一九四一年四月初めになされた大本営の決定は、変更されなかった。今は最後的準備の時が到来した。



A級極東国際軍事裁判速記録(英文)・昭和23.11.9~昭和23.11.10(第49092~49496頁)
レファレンスコードA08071339200(5・6枚目)
11月11日111月11日2
A級極東国際軍事裁判速記録(和文)・昭和23.11.4~昭和23.11.12(判決)
レファレンスコードA08071311400(90枚目)
11月11日和文速記
A級極東国際軍事裁判記録(和文)(NO.163)
レファレンスコードA08071307600(78・79枚目)
11月11日和文判決文111月11日和文判決文2


11月12日

Friday, 12 November 1948
INTERNATIONAL MILITARY TRIBUNAL
FOR THE FAR EAST
Court House of the Tribunal
War Ministry Building
Tokyo, Japan
The Tribunal met, pursuant to adjournment, at 0930.

MARSHAL OF THE COURT:
The International Military Tribunal for the Far East is now resumed.

THE PRESIDENT:
All the accused are present except KAYA, SHIRATORI and UMEZU, who are represented by counsel. The Sugamo Prison surgeon certifies that they are ill and unable to attend the trial today. The certificates will be recorded and filed. I continue the reading of the Tribunal's judgment
 

EXCESSIVE AND UNLAWFUL PUNISHMENT WAS IMPOSED.

TOJO, in his instructions to chiefs of prisoner of war and civilian internee camps told those officials to tighten their control over their subordinates and to supervise the prisoners rigidly; he said, "It is necessary to put them under strict discipline." He repeated this charge in his instructions to the Commander of the Zentsuji Division on 30 May 1942, when he said: "Prisoners of war must be placed under strict discipline as far as it does not contravene the law of humanity. It is necessary to take care not to be obsessed with the mistaken idea of humanitarianism or swayed by personal feelings towards those prisoners of war which may grow in the long time of their mprisonment." The Geneva Prisoner of War Convention of 1929 provided with respect to punishment of prisoners of war for offenses committed while they were prisoners: "Any corporal punishment, any imprisonment in quarters without daylight, and, in general any form whatever of cruelty is forbidden," and "Collective punishment for individual acts is also forbidden."
 

○昭和二十三年十一月十二日(金曜日)
東京都旧陸軍省内極東国際軍事裁判所法廷において
〔午前九時三十分開廷〕

○法廷執行官 
ただいまより極東国際軍事裁判を再開します。

○裁判長
賀屋、白鳥及び梅津の三被告を除き全被告出廷、欠席被告は弁護人によって代表されています。巣鴨拘置所医務官からの証明書によれば、右被告らは病気のため本日出廷できないとのことであります。この旨記録に留め証明書は綴込みに入れます。
判決文の朗読を続けます

〔朗読〕
過度かつ不法な処罰科せらる

捕虜収容所と一般人抑留所の所長に対する訓示の中で、東条は部下の統制を強化し、捕虜の監督を厳重にせよと述べ、『厳格なる紀律に服せしむるを要す』といった。一九四二年五月三十日に、善通寺の師団長に対する訓示の中で、この命令を繰返して、かれは次のようにいった。『俘虜は人道に反しないかぎり厳重に取締り、苟も誤れる人道主義に陥り、又は収容久しきに亘る結果情実に陥るが如きことない様注意を要します』と。
 一九二九年のジュネーヴ俘虜条約は、捕虜が捕虜である間に犯した違反行為に対する処罰に関して、次のように規定している。『一切ノ体刑、日光ニ依リ照明セラレザル場所ニ於ケル一切ノ監禁及ビ一般二一切ノ残酷ナル罰ヲ禁ズ』。また、『同様ニ個人ノ行為ニ付団体的ノ罰ヲ課スルコトヲ禁止ス』。


A級極東国際軍事裁判速記録(英文)・昭和23.11.9~昭和23.11.10(第49092~49496頁)
レファレンスコードA08071339200(211・212枚目)
11月12日111月12日2
A級極東国際軍事裁判速記録(和文)・昭和23.11.4~昭和23.11.12(判決)
レファレンスコードA08071311400(106枚目)
11月12日和文速記
A級極東国際軍事裁判記録(和文)(NO.163)
レファレンスコードA08071307600(253・254枚目)
11月12日和文判決文111月12日和文判決文2


裁判長は毎日ジャッジメントを朗読すると宣言したあとに、細かい事実認定を読み上げていることが分かる。


もしジャッジメントが保守派のいうとおり「死刑」「懲役何年」という主文だけなら、それを読み上げるのにこう何日もかかることは無い。やはりジャッジメントとは量刑の部分だけではなく、裁判所の設立根拠であるとか、日本が中国でどうしたという事実認定だとか、そういう裁判過程の全てを含んでいるのである。


そもそも判決文の冒頭にジャッジメントと書いてある。つまりそこから下の判決文全体がジャッジメントなのである。
JUDGMENT
INTERNATIONAL MILITARY TRIBUNAL FOR THE FAR EAST
PART A
CHAPTERS Ⅰ,Ⅱ,Ⅲ



極東国際軍事裁判所
判決
A部
第一章 


A級極東国際軍事裁判記録(英文)(NO.160)
レファレンスコードA08071271700(2~4枚目)
東京裁判判決文表紙英文ジャッジメント2英文ジャッジメント3
A級極東国際軍事裁判記録(和文)(NO.160)
レファレンスコードA08071307000(2~4枚目)
東京裁判判決文和文表紙和文ジャッジメント2和文ジャッジメント3


ちなみにイギリス最高裁の判決文を見ると、やはり冒頭に「ジャッジメント」とある。
判決文全体がジャッジメントということ。
英最高裁判決文
https://www.supremecourt.uk/decided-cases/docs/UKSC_2014_0275_Judgment.pdf

「判決=判決文」と考えれば、ジャッジメント=判決=判決文=判決文に書かれた全て
なのは当たり前だろう。
というわけで小林よしのり氏らの主張は間違い。おわり 



と書いたあとで11条の原文を見たら、そもそもそこで既に「ジャッジメント」と「センテンス(刑の言い渡し)」を使い分けてた。保守派の言うようにジャッジメントが刑の言い渡しだけならジャッジメントとセンテンスが同じ意味になってしまいおかしいだろう。やっぱりジャッジメントは刑の言い渡し(=センテンス)以外の何かを含むってことだ。
Article 11
Japan accepts the judgments of the International Military Tribunal for the Far East and of other Allied War Crimes Courts both within and outside Japan, and will carry out the sentences imposed thereby upon Japanese nationals imprisoned in Japan. 

第11条
日本国は、極東国際軍事裁判所並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷の裁判を受諾し、且つ、日本国で拘禁されている日本国民にこれらの法廷が課したを執行するものとする。

プロフィール

ekesete1

QRコード
QRコード
  • ライブドアブログ
body { word-wrap: break-word; ... }